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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
素直に
2016/3/31
0
No.18 LIFESTUDIONAGOYA Photo : Mukae Coordi : Miyahara 毎日同じスタジオの中で撮影し、光がどのように入ってくるかを見ながら新しい発見をする事がある。 時間帯や季節によって光の入り方は大きく変わり、普段見慣れた光景がまったく違うものなったりする。 長くそのスタジオにいるから、いい写真が撮れるのではない。 長くその子と過ごすから、その子らしさが撮れるのではない。 どれだけ素直に向き合い、深く入っていくのか。 ただ何も考えずに日々を過ごせば、何も得るものはなく、同じ日々になる。 人に対して向き合い、自分に対して、写真に対して向き合おうとすれば、何か得るものや、発見がある。 この一瞬を残すために、大切にするために、何に対しても向き合っていきたい。 素直に、感じた事を忘れないように言葉していく。 常に、なぜだろうと考える。 常に、探して、発見して、感じる。 大切な一瞬を、残していけるように。
タイムスリップ
2016/3/31
1
たまにある匂いからある日の気持ちを思い出したり、 懐かしい音楽からある日の匂いや、気持ち、一緒にいた人を思い出したり、 何気なく撮った風景の写真を見ながら何気ない日を懐かしく感じたりする。 一年ぶり、二年ぶりにまたご来店してくださったお客さんで 去年はこうでしたね、2年前はこうでしたねと話をすると 「えーおねえさん覚えてくれてる!すごーい!」と反応してくださる方もいる。 毎日くるお客様でも毎日天気も違い季節も違い、子供たちの性格も違う。 写真一枚で撮影記録係側としても一枚には、その日の天気、子供の表情、声が残っている。 写真一枚は、見る側にはその日の気分とか、 その日に交わした言葉とか、みんなの表情とか、その日の天気とか、匂いとか、 ただの一枚でありながら その日を圧縮している一枚であったほしい。 そして子供たちが大きくなった時、うっすらでもいいから 撮影にかかわったカメラマンや、アシスタントを覚えてくれると なおさらいい。 Photo by YANG Assistant by Kuroki
自然とは
2016/3/31
1
お客さんにご希望をお伺いすると 「自然な感じで」って言う方々が多い。 自然とは? 自然という概念は人それぞれ違い、 ある人には目線がカメラを見ていないのが自然でもあり、 ある人には指示に従う気をつけぴー!の動きではなくその人の「素」の動きでもある。 写真を撮って行きながら自分の中での自然という概念はその状況のその人々の空間をじゃましないでその空間のままが自然である。 インテリアだけが写真館の背景ではなく、お空が、そして向かい側にある、大きい木が素敵なインテリアになったりもする。 写真だからこういう動きがとか写真だからこういう背景がとかの正解はない。 その正解のないものが自然ではないかなと思ったりする。 そしてその自然な動きと空気をどう整理して一枚にするのかは追求して来たものでもあり、これからも追求していくものでもある。 photo by Yang assistant by Yamane
せかいと会話する。
2016/3/31
0
「人と会話をする」という当たり前の行為について、考えてみました。 会話というものは、相手がいるからこそできるものです。 ひとりで何かをつらつらと話しているのは、ひとり言や自問自答ということになるでしょう。 以前、何かの本で見たことがあります。 「会話は質問から成り立っているのだ」と。 「名前は何ですか?」 「お住まいはどこですか?」 「家族は何人いますか?」 「好きな色は何色ですか?」 会話は、こうした疑問符のついた文章の連続で成り立っていくのでしょう。 そして会話は、私と他者とのつながりになります。 私達が大切にしている「人と人とのつながり」は、こうした会話からも生まれていき繋がっていくのです。 だからこそ、スタジオに来てくれるお子さん達やパパママ、ご家族様との会話はとても大切なものなのです。 「○○ちゃんって言うの?お姉さんの名前は『みやちゃん』です」 そこからどんな会話を広げていこうかなと、撮影前に考えます。 ドキドキとわくわくと、ほんの少しの不安もあります。 誰もが知っているテレビ番組が好きな子がいれば、私が全く知らないことを知っている子もいます。 そんな様々な子達と同じ会話をするためには、私自身それ相応の努力をする必要があります。 お子さん達が好きなテレビ番組を見て、キャラクターやストーリーを覚えます。 撮影中にお子さん達が少しでも楽しんでくれるように、クイズを出します。 そして時々、わざと変なことを言ったりふざけたりして、少しでも「私」を好きになってもらえるように。 では、「会話」は言葉の通じる相手とではないとできないのでしょうか? そんなことはないと思っています。 まだ言葉を発する前のベビー達とは、もちろん言葉を話せるお子さん達と同じような会話はできません。 彼らは言葉の代わりに、表情や声のトーン、泣くことによって私達と会話をしてくれます。 そこに完璧な意思疎通は出来ないのかもしれません。 私が「眠いのかな?」と思っていても、実はお腹が空いていたり、知らない人が怖くてぐずっているだけだということも考えられます。 それでも、そこには「なぜぐずっているのだろう?」と考えること…つまり、「相手を知ろうとする」という意識がはたらきます。 これは「会話すること」と同じではないでしょうか? 会話(つまり、相手へ質問を投げかけるということ)もまた、「相手を知ろうとする」という意識があるために、発せられるものだからです。 相手がヒトに限ったことではありません。 動植物に対してもそうでしょう。 大切なペットがいつもと違う様子であれば、心配し病院に連れて行きます。 なぜそんな状態なのかを「知る」ために。 育てている観葉植物あるいは農作物が枯れてしまいそうになっていたり、変な病気にかかっていれば、知識のある人に聞いてみたり、本・インターネットで調べてみるでしょう。 なぜそんな状態なのかを「知る」ために。 「知りたい」ということは、生きていくために、他者と関わっていくために、とても必要な欲望だと思います。 世界は、人生は、疑問だらけです。 それが尽きることはないのでしょう。 疑問だらけだからこそ、それを1つでも多く解決するために生きていくのです。 そしてその疑問は、撮影中にも絶えず湧いてきます。 前述したように、お子さんのコンディションは然り。 衣裳やインテリアに関してもそうです。 衣裳やインテリアは「生きているモノ」ではありませんが、そこにもまた「会話」はあるのです。 例えば衣裳をコーディネートする際には、「このアイテムとこのアイテムは合うだろうか?」と疑問に持ちます。しかしそこで私は、単なる自問自答ではなく、衣裳に話しかけるつもりで考えています。 「このアイテムをあなたに合わせようと思うんだけど、どうかな?」 もしその時、そのアイテム達の組み合わせがあまりよくなければ、それは彼らからの質問に対する「NO」という答えだと思っています。 彼らから「YES」を貰えたら、それを持ってパパママやお子さん達に提案をするのです。 衣裳提案においても、すぐに決まる方もいれば、たくさん悩んで決められる方もいます。そこにはもちろん、たくさんの会話が紡がれます。 そうして撮影前の「会話」をしていくのです。 そして私はインテリアとも「会話」をしています。 お子さん達と会話をしながら、どんな子なのか、どんなイメージが合うのかという想像を、撮影中にどんどん膨らませていきます。この時、私は1日の中で一番頭を使っているのかもしれません。 ぐるぐるぐるぐる、目の前のことを考えながら、頭の中では次のインテリア、次のポージング、次のイメージをあれこれ考えているのです。 「ここで撮ろう」と思ったインテリアの前に立ち、どういう構成で行くのかを考えます。 もちろん、これまでの経験からある程度の引き出しはありますので、毎回うんうんと悩むことはありません。けれど、そこでテンプレートにお子さん達を当てはめていれば、まったく面白くない写真になってしまいます。 同じ場所でも、お子さんの着ている衣裳によってイメージは大きく変わります。お子さんの性格や表情で、もっともっと変わってきます。 インテリアの前に初めて、今目の前にいるお子さんが立った時に、イメージは固まるのです。 頭の中でイメージしていたものとは違う写真にしようと思うことも、よくあります。 インテリアと被写体。 両者が同じ場所にそろって、初めてイメージとなるのでしょう。 お子さんにあちこち移動してもらったり、立ったり座ったりの繰り返しでなるべく負担のかからないような構成を考えることが必要です。 一番最初に撮る写真は、何がいいだろう。 そこで私は、インテリアに問いかけるのです。 「どんな写真にしていこうか?」、と。 この写真は、その質問を投げかけている最中に撮ったものです。 座ってもらい、ポーズもつけた。では最後に、目線はどこに持っていこうか。 そう考えていた時、彼はふと自分の手元を見ていました。それがとても魅力的に思えたのです。 伏し目がちのその表情は、大人びた彼の雰囲気にとても合っています。目線を窓の外へ向けた写真よりも、この場所(3階の自然光が一番入り込む場所。そして午後の暖かな日差しに包まれるやわらかな時間帯。)には、物思いにふけるような、彼ひとりの世界というものを感じました。 また、とても不安定な場所に腰掛け、ほんの少し不安を抱えた彼は、大人になろうと背伸びをしているようにも感じられたのです。 私は、こうした少し高い場所で撮影をする際には、必ずお子さん達に「高いところは平気?」と聞きます。 問題もなく大丈夫だと答える子もいますし、少し見栄を張って大丈夫と答える子もいます。後者のお子さん達は、きっと、ちょっとだけ怖いけれど、そのくらいもう出来るよ!と頑張ろうとしてくれているのだと思います。 それがまた、子供らしく思えとても愛おしいと感じます。 さてこの彼もまた、緊張の窺える表情で腰かけていました。しがみついているように、その手には力が入っていました。 背伸びをしようとしているのか、必死に「今」にしがみついているのか。早く大人になりたいような、でもまだ子供でいたいような…。 そんな曖昧な年頃なのかもしれません。そんな彼に、この場所はぴったりだったのです。 衣裳の色も、インテリアに合った白いシャツ。けれど光源の近くにいるせいで、輪郭は溶けてしまっています。それが、大人と子供の狭間、自分でも意識しないうちに移りゆく変化のようでした。 とても、きれいだと思いました。 ただ溶け込んでいるのではなく、インテリアと、彼という被写体がこの1枚の構図の中でとても気持ちよく混ざり合っているようでした。息を潜め、そっとシャッターを切りました。 日々日々、私たちはいろんなモノと会話をしているのです。 この手で生み出す写真に責任を持ちながら、不安定な関係性を形として残していくために。 Photo:Miya Coodi:Buru in Lifestudio NISSHIN
私がカメラマンであること
2016/3/29
0
写真は本当に楽しい。 本格的にカメラを持ち撮影をしたのはここへ入社して初めてであった。 大学の授業の一環でカメラを触っていた程度であり、はじめは持ち方さえわからなかった。 今思うと1年未満でカメラマンとして入らせていただいたことは、本当に貴重な体験をさせていただいていると思う。 写真を撮っていくにつれて自分の好きな写真や好きな撮り方が分かってきて、写真を撮ることがとても楽しかった。 自分の思っていた、イメージとしていたものが出来上がることもすごく面白かったが、 被写体の動きに応じて、カメラマンも動く。このスタイルが私には楽しかった。 型にはめるではなく、その子たちの動きの瞬間を見て思わぬ動きの瞬間を収めることがとても好きで楽しい。 それが被写体の素の状態であり、その子らしさであると私は思う。 いかにその子たちの楽しんで遊んでくれることを考え、遊びや動きを提案して撮影していた。 自分も楽しいし、子供も、親も一緒に楽しむことができる。その撮影ができた時、スライドショーで思い出を つぶやきながら見ることができる。家に持ち帰り、もう一度見返す時も、撮影時の思い出を語りながら、思い出しながら 振り返りそこでもまた、みんなで笑みをこぼすことができる。それを創造するだけで、嬉しくなる。 写真だけでこんなにも人の心を動かすことができるのだなと、身に染みて感じた。 ライフスタジオという撮影のスタイルは、どの写真館やスタジオにない環境がある。 お客様と、お客様以上に深い関係性を作ることができる。お客様との距離が本当に近い。 すぐにお客様と会話ができ、考えていることやイメージも伝えることができ、話し方もライフスタジオの 気楽な雰囲気によって堅苦しい距離感のある言葉ではなく、親戚、友人のように会話が飛び交うことができる。 そして一緒になって撮影を遊ぶ。そんな一緒になって撮影を楽しむことができる空間が作れるのは、 このライフスタジオだけだと思う。 この写真でも、そんな流れから生まれた写真だ。 ママがふと「キスの写真ほしいです!」とつぶやき、「お兄ちゃんからいっちゃえ!」ママたちと声を合わせて言ったが、 兄は恥ずかしがり顔を話した。その瞬間に妹から強引にキスをしてきた。 自分の今まで撮影してきた感覚か、無意識にシャッターを切っていた。 何かが起こる、今だ!と自分の中で無意識に考えていた。 一瞬で終わってしまう出来事が、写真にによってその一瞬を止めることができる。 この一瞬を、残すことができた。 モニター時、みんなこの写真を見てとても喜んでくれた。 「すごい瞬間撮れたね!」 きっとこれからもずっとこの写真をみて、あの時の撮影を思い出してくれるのではないだろうか。 自分の写真で誰かを幸せにする、感じさせることができたことが、 何よりカメラマンをしていて幸せだったと思うことだ。 in Nisshin photo :furuzawa cord: miyahara
この先も
2016/3/29
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成長するにつれ、写真が苦手になる子だっている。 撮られることの恥ずかしさや、自分の容姿を気にするようになったり、自分という人間を理解するようになる。 彼も最初はそうであった。 前回は写真が何かも理解すらしていない1歳の時。 今回は母親との取引にのせられて「しょうがなく」やってきた。 しかし、時間が経つとともに写真を撮られること、写真を撮る私たちを受け入れる。 そんないろんな指示をする。 対して、笑ったり、怒ったり、困ったり、真剣になったり、夢中で表情を変える。 きっと私が写真を撮っていたことなんて忘れていただろう。 写真館に行って写真を撮る機会は今までに比べ減っていくであろう。 しかし、彼の人生はまだ始まったばかりである。 この先、たくさんの人に出逢い関わりをもつ。 そのいろんな人たちとの思い出を写真に残してほしいと私は願っている。 nagoya tanaka/shibata
Relax
2016/3/23
1
Photo by volvo Coordinate by Kudo Lifestudio No.2, URAYASU 私はいつもどんな撮影でも、目指しているものがあります。 それは撮影者と被写体、あるいはその家族が互いに「自由」になれる空間を作る事です。 自由について、今までいろんな角度から書いてきました。 <our mind>には「被写体がもう1人の自分に出会う」事であると書いてあったり、私が今まで書いてきた事の主となるものは 「撮影者自分自身が写真に対して自由になる事」であったりします。 自由に普遍性はありません。 しかし、自分が真理だと信じることはできます。 撮影における自分なりの真理をもつことはとても重要です。 今回は自由のひとつの要素でもある「余裕」についてこの写真を通して書いてみたいと思います。 「被写体がもう1人の自分に出会う」事や「撮影者自分自身が写真に対して自由になる事」というのは技術の成熟を意味します。 昔よく部活動などで「練習ではできるんだけど」という体験をすることがありましたが その技術をいかんなく発揮できるようになるのもまた「技術」の要素のひとつでもあります。 「人」を被写体として「人」が撮影する一度しか訪れない唯一無二の現場において、毎回実力を発揮する為には「余裕」が条件のひとつとして必要だと私は考えています。 ここでいう余裕とは「楽」という意味ではなく「その瞬間にどれだけの選択肢を実践できる状態にあるか」という意味ですが 私は、余裕は技術と言い換える事もできるのではないかとさえ思っています。 被写体である子供達、その家族、そして私たち撮影者、その空間にいる人たちみんなが余裕を持っている事 言い換えるとその人たちに余裕を作れる技術を持っている事が必要条件となります。 余裕とは、緊張の対義語です。 写真館に来て、写真に写る子供達が緊張の対義語を獲得する事は普通の事ではありません。 そして緊張している子供達を見て「ちょっと緊張してるね」と言いながら撮影者である自分自身が緊張している事を確認して戸惑います。 良い写真を生み出すには、被写体も撮影者も緊張の糸をほぐさなければなりません。 これは笑顔を出すといった表面的なものよりももっと深いつながりの部分であり、被写体と撮影者の間が一本の線で結ばれたような感覚になる瞬間です。 そうなった瞬間、被写体は自分を現す準備を始めます。 準備が整うと、撮影者が投げてくるものを受け取る体制をとります。 その投げかけてきたものを、まるで自分の部屋でテレビを見ている時のような反応で応えてくれます。 一方で撮影者は投げかけるものを準備しなくてはなりません。 いくら被写体が余裕を持っていたとしても、撮影者が実践可能な選択肢を投げかけられる余裕を持っていなければその効果は写真には現れません。 この余裕とは技術的なものであり、緊張の適切化です。 今回のこの撮影でそれを実現できたのには「仲間」の存在が大きく関わっています。 この仕事において1日の大半を共にする仲間は「1人」です。 その相棒ともいうべき存在は、私に余裕を与えてくれました。 私は入社してもうすぐ5年が経ちますが、今でもひとつひとつの撮影の前には緊張します。 それは全ての写真に対する責任と、自分自身に対する期待の混合物でもあります。 撮影に入ってしまえば緊張などは何もなくなりますが、その助けになるのはやはり一緒に撮影に入ってくれる仲間がいるからです。 彼女は私に余裕をもたせてくれる為の動きをしてくれました。 そして、家族を含めた被写体にも余裕を与えてくれました。 あとは、写真を撮る役割である私から被写体である彼へ投げかけるものが「良質」であることのみが要求される状況でした。 そんな条件があったからこそ生まれた一枚です。 この写真には、撮影空間そのものがリラックスしている空気感が含まれています。 それは、被写体の表情からポーズ、カメラの設定に至るまで全ての条件が「余裕」によって 実現可能となった典型的な一枚であると、思っています。
まなざし
2016/2/29
0
3参りの女の子。まだ少女でありながらも、どこか「女性」らしさを出していた。 かわいいというより、綺麗という言葉の似合いそうな雰囲気があった。 私がまだ子供だった頃、大人とはどういう風に映っていただろうか? 何もかもが丸っこい子供とは違って、大人の女性は細く、しなやかさが出てくる。 彼女はその変化の途中であった。細くきれいな指先、すっと通った鼻筋。 そして何よりも、そのまなざしが、大人びていた。 「大人びている」とは、なにも冷めているとか、落ち着いているという意味ではない。 慈愛とでもいうのか、自分以外の他者に対する愛情を持っている、それを感じさせるまなざしである。 事実、彼女には年の離れた弟がいる。 忙しいお母さんの代わりに、彼女は弟を抱っこしたり、お世話をしているようだった。 女性の美しさは、愛情や優しさを持っている内面から発せられる。 彼女はすでに、その美しさを持っている気がした。 優しく柔らかいそのまなざしがとても印象的だった。直接見つめるよりも、その整った顔立ちを活かしたくて、横から見つめることにした。 13歳という年齢は、微妙な年ごろだ。思春期というのか、人を意識し始める。 自分の世界の中に、人の存在を確認する時期だ。親、友人、兄弟、いろいろな人が彼女の中で、存在する意味を持ち始める。 その存在を、どう受け入れるのか。自分とは違うものだと拒むのか、それとも違いを受け入れた上で、愛するようになるのか。 子供だった私たちは考え始める。そうして私たちは大人になっていく。 大人の入り口に立った子供たちの姿は、私たちよりもずっと凛々しく、強く感じる。
横顔
2016/2/29
2
No.18 LIFESTUDIO NAGOYA Photo: Mukae Coordi:Shibata 笑顔でいた彼女の手は震えていた。 その瞬間、彼女の強さを知った。 初めて会った瞬間、彼女は私に駆け寄り、大切にしているぬいぐるみを私の頭の上に乗せた。 その時から、彼女に引き付けられていった。 彼女の素直さに、私も彼女に対して素直に見つめたい、接したいと思った。 自分の事を話す彼女は、常に笑顔でいて、彼女の持つ雰囲気はあたたかく、みんなを笑顔にする力があった。 カメラを前に堂々とした立ち振る舞いは、7歳の女の子というよりは、一人の女性であった。 そんな彼女へ距離を縮めていくと、かすかに震えていた。 私たち大人の前で、震えた手も隠し、それでも笑顔でいてくれている彼女の強さに、心を動かされた。 雨が降っていた雲の隙間から、夕日が差し込み、その光は彼女を包み込んだ。 眩しいと言いながら、外を見ている彼女の横顔は、美しく、かけがえのない瞬間となった。 私たちは二度と繰り返されることのない日々を過ごしている。 1人として同じ人はいなくて、1枚の写真にしても決して同じ瞬間がおとずれることはない。 彼女と出会い、私はまた写真が好きになった。
視線
2016/2/29
0
光ではなく、影を見る そう話す人がいた。 いまだに私は、光で者を表現しようとしてしまう。 それは、進み行く未来を光に見てしまうからなのかもしれない。 7歳という年は、大人なのか子供なのかと迷うことがある。 射抜くような質問をすることもあれば、ただふざけてギャグを言い続けるようなこともある。 7歳という年はどんな頃だったろうか? 彼女という人物は、何がそのままの姿なのだろう。 撮影中にふと自分を見る、強い視線を残したい。 クローズアップといえば、印象的に残るように輪郭を際立たせることが多くある。 しっかりとした顔のライン、目、まつげ、表情、彼女を構成させる全てモノのを表現できるよう。 しかし、今回は、顔の半分は見えない、輪郭もあえて光を使い際立たせることはしない。 目ではなく、視線を写しこみたい 形としては表現できない、視線 その視線の先には何を思い、どんな風にうつっているのだろうか Photo Suzuki Codi Shiozawa @SHIMOKITAZAWA
真ん中
2016/2/29
0
従来、私達はその子の成長や、仕草、愛されているという思いを未来へ運ぶ為に撮影をしている。 初めて泣いている姿を 初めてたった姿を いくつモノ仕草や、らしさを捉えていると、 鈍感になってくるのも事実である。 目の前の日常が、本当の特別なこと 裸を見せることが出来るのは、男の子だけの特権だ。 小さい時に、兄がガバーっと服を脱いで、パンツ一枚で走り回っていても怒られないのに、 私はダメなのかと、本気で悩んだこともある。 この年の男の子は、とにかくお着替えが好きではなく、着替えられることに特別な意味を持つ テレて逃げ回っていた彼も、お着替えが出来ると、頑張って小さなボタンに手をかけ、 だぼっとしたパンツは、オムツと本当のお兄さんパンツの間のパンツを隠せるズボンまで後一歩 人間の手は意外と開くことにも力を要す。 だから、1歳の赤ちゃんは者をつかみ投げ、放す事を練習する。 指先のコントロールが聞くようになるのが、約2歳。 細かなものがつかめるようになるのが、3歳から4歳。 1成長の過程である。 精一杯力を入れている指先には、彼の成長真ん中 日常も特別 常に変わる特別 Photo Suzuki Codi Matsunaga @SHIMOKITAZAWA
見守られる
2016/2/29
0
ハーフ成人式 7歳とは違い、あどけなさはなくもう大人として見られるようになる。 「女の子」ではなく、「女性」だ。 大きくなるにつれ、歯をだして笑うことが恥ずかしい時期を通り越すと 面白くなくても笑ってと言われれば笑顔だって作れるし愛想笑いもするようになる。 この彼女も最初はポーカーフェイスのように作り笑顔で撮影に入っていた。 時間が経ち、ふと我に返ると彼女の目の前には笑って見守る家族。 一気に彼女の表情が変化した。 高揚、羞恥、不安、緊張・・・など様々な気持ちが押し寄せたのだと感じた。 きっと10歳にもなると友達といる時と家族といる時の自分は違うと思う。 子供扱いされたくないし、でもちゃんと自分のことは見ていてほしい。 私自身もそんな経験があった。 だからこそ、 家族の前では飾らないで、いつまでもありのままの自分でいてほしい。 家族はどんな時でも味方であることを忘れないでほしい。 ------------------------------------------------------------------------------------- その子の記憶に残る写真を撮ってあげたいと、写真を撮る度に思っている。 それは私自身の写真は3歳の七五三でとまっているから。 記憶ではなく実物が飾ってあるから覚えているだけで、正直なところ記憶にはない。 地元の写真館で兄と手をつないでいる写真。 作り帯で唇を真っ赤に塗られてふてくされていた。 きれいとかかわいいとかとても言えないけれど そんな写真でも色褪せても今も変わらず飾ってあって、実家に帰る度に確認をする。 大きくなるにつれ写真を撮る機会は減っていき、幼い頃の記憶は最新のものに上書きされていく。 子供は毎日成長をしている。秒単位の表情の変化がある。 気づいた時には「あの時」には戻れない。 だから私は、撮影者としてその子が今できる最大限を残すことが私の使命であり、撮影を担当する責任だと考えている。 nagoya tanaka/mukae
日常か自然か
2016/2/29
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私たちが良く耳にする「自然」という言葉。 その自然という言葉に対し、見えないパズルを組みながら、撮影者は自分の技術と経験を生かし、より自然なものを撮影しようとする。 撮影した写真を見るとき、私は「自然」がもたらすエネルギーが「良いものを残し記録することが出来た」と感じることが大きい。 しかし、その「自然」の中には「切なさ」も存在すると感じたときに少し写真に対しての見方が変わった。 それは、成長したからこそ垣間見れた姿の喜びと、成長していく事で自立をする素顔の切なさだ。 それらは全部きれいなもののはずなのに、切なさという綺麗な矛盾も存在する。 写真の美しさの中には、喜びと切なさが表裏一体している。 今感じる喜びが、いつかの寂しさに変わり、また時間をかけて大きな喜びに変わっていく。 少なからず、私たちはそういった写真を撮影している。 そう思うからこそ、どこか自分もその子の仕草を色々な意味をこめて覗くように撮影した。 まるでその姿を、親がわが子を見守っているかのようにだ。 その視点から撮影してこそ私たちは「自然」に近づけるのではないだろうか。 仕草においても「自然」の奥深さを感じる。 何をどう表現することがその子の「自然」なのだろうかと。 ただ下を向くこと。ただ立っているだけのこと。 ただ、ただ、ただ。。。 そのとき感じる衝撃は、ただということが、ただではなく、その子でしかない証明みたいなものになっているということだ。 しかし、日常で垣間見る姿は今後もずっと目にしていく姿でもあると感じる。 毎日いると、太ったことに気づかなかったり、背が伸びたことに気づかなかったりするように、私たちは身近に見る光景を当たり前と捉え、自然ではなく日常へと変えていってしまう。 だからこそ、日々の癖をあえてさせるのではなく、日々の中で出会ってなかった彼自身の動きと出会っていくことへの「自然」が、私が残さなければいけない「今」と繋がっていく。 そして色々な意味をこめたものだからこそ、その写真から発せられるものに私たちは感情を揺す振られるのではないでしょうか。 その子を見る目も、その子のする仕草も、どこか当たり前に見ていたものを、当たり前に見せない努力も私たちはしていかなければいけない。 Photo:jiro Coodi:Rifwa
美しい時間。
2016/2/29
0
家族写真を撮影される方は多い。ほとんどの方がご希望される。 その中でも、父子、母子それぞれで撮りたいという方もいらっしゃる。 また、祖父母も一緒に来店された場合、おじいさま・おばあさまとお孫さんで、というご希望もよく聞く言葉だ。 では、「祖父と孫」、あるいは「祖母と孫」はどうだろか。 祖父母の方が遠方であったり、様々な事情のためこうした組み合わせで撮影する機会は、多い方ではない。 祖父母お2人とも来店され、それぞれがお孫さんと撮りたいということももちろんある。 けれどこの時の撮影は、ママとおばあさまが一緒に来店された。 構図において特に特別変わったことをしたわけではない。 父子、母子で撮影する際にも、同じように被写体同士で向き合わせたアップの写真を撮ることも多い。 それでも、この1枚は私にとって特別な感情をもたらした。 言いようのない感情だが、一言で言えば「昔を思い出した1枚」であったのだ。 撮影後分類をし、撮影を思い出しながら75枚の原本としてまとめる。 その時、この1枚を見て私はなぜか目の奥が熱くなったのだ。 祖母の事を、思い出した。 私は出産予定日の1ヶ月も早く、いわゆる「未熟児」として生まれてきた。 1ヶ月の間、保育器の中で育ち、母はその間直接母乳をあげることが出来ず、とても悲しくて心配だったと話してくれた。 小学生の頃に、生活の授業の中で、自分が生まれた時のことや名前の由来等を、親に書いてもらうということがあった。母の特徴的な丸文字で、私が生まれた時のことやその時の母の気持ちが書かれ、当時はよく理解できなかったが成長するにつれその意味がわかった。 その母の話と共にいつも私の中にあるのが、祖母の言葉だ。 「あなたが産まれた時は本当にちいさくて、頭なんてじゃがいもくらいの大きさだったのよ」。 小さな頃から会う度に、祖母はそう話す。 そしてそんな私を母と一緒に大切に育ててくれたという話も。 祖母とは一緒に暮らしているわけではない。 母の実家は県内だが、車で1時間半ほどかかる。 私が生まれた頃は姉もまだ2歳で、祖母は娘の助けになろうと来てくれていたそうだ。 祖母との記憶で一番古い物は、保育園に通っていた時のもので、夕方の時間に着替えをさせてもらっていた時のことだ。 家には祖母と私の2人で、母も姉も妹もいなかった。 夕方の子供番組を観ながら、祖母が話しかけてくれていたことを覚えている。 祖母は昔から、3姉妹の中で私を一番可愛がってくれている。 母も同じように言う。 私が未熟児として生まれたからなのだろうか。 それでも今は何不自由なく健康に生きている。 家族にも祖父母にも親戚にも、たくさんの人からの愛に恵まれ生きてきた。 けれどそれはほとんどの事が、母や周りから聞いた話でできた記憶である。 幼子の記憶など、多くの人が覚えていないだろう。 もしかすると大げさに言っている部分もあるかもしれない。 それでも私は、そんな周りの言葉をとても幸せな言葉と記憶として受け止めてきた。 昔の人の中では身長が高かった祖母は、小さな私にとってとても大きな人だった。 けれど成人し私の身長も伸び、昔は見上げていた祖母との目線もほとんど同じになってしまった。 嬉しくもあり、なんだか切なく悲しくもある。 祖母は私にとって、家族と同じくらい特別な人だ。 祖父や親戚、いとことはほんの少し違う。 それはなぜかと考えればやはり、そうした昔の話を私が自分の中でとても大切にしてきたからなのだろう。 私の祖母の記憶は、優しくて暖かくて幸せな思い出ばかりだ。 それを、この1枚を見て思い出した。 小さな手を握る、大きな手。 小さな手を包む、温かい手。 私自身の記憶と重なるものがあり、この子が、そしてこのおばあさまがとても愛おしいと思えた。 あの頃の私も、こんな風に愛してもらっていたのだろうか。幸せだったのだろうか。 優しく見つめるまなざしと、小さな手に握る積み木を見つめる目線は、決して交差することはない。 けれどそこに、私は何物にも代えがたい「愛情」を感じるのだ。 まだ難しい感情なんて生まれていない小さな子供。 子供は自由だ。大人が「笑って」「泣きやんで」と願っても、そう簡単にはいかない。「カメラを見て」なんて理解出来ない。それこそが、子供本来の姿なのだ。 それを優しく見守り、愛情を持っているのが周りの大人たち。 目線が交わって意思疎通が出来なくても、そこにはきちんと互いの存在を意識している空間がある。 また、この写真のような色合いのセピア写真は、見る者に「懐かしさ」を与える色味だと思う。 哀愁漂うような雰囲気。 昭和時代の写真なんかをテレビや雑誌で見ると、ほとんどがこのような色合いだ。 それに見慣れた私たちからすれば、「セピア=昔」という印象が強い。 モノクロ写真と違い、どこか温かさを感じるのはその色の持つ温度のせいだろう。 色褪せてしまったような写真ではない。 風化してしまった記憶ではない。 この美しい一瞬を、私はここに閉じ込めたいと思った。 この子が大きくなった時、この写真を見てくれるだろうか。 おそらくこの撮影の記憶はないだろうが、それでもこの写真を見た時に、彼女の祖母から愛されたことを思い出してくれるだろうか。 私がそうだったように、彼女の心にもそうした何かが残って欲しいと思う。 構図の中で、色の情報はいらないと思った。 この2人の関係と雰囲気を、そのまま伝えたいと思った。 だから限りなく色を排除し、けれど温かみの残る1枚にしたかった。 彼女の記憶が、美しいまま色褪せてしまわないように。 大きくなった彼女が見た時、愛情や温かさであふれた記憶になるように。 2人にとって、幸せな時間でありますように。 Photo:Miya Coodi:Tanaka in Lifestudio NISSHIN
人と人として。
2016/2/29
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OMIYA Photo Photographer: Soo Cordinater: Tomiki 「大人を撮ることは簡単ではない」 よくそう言われるが、果たして本当だろうか。 それ自体がすでに思いこみということはないか。 どんな時、どんな場所、どんな場所でも、 自分らしさを失ってはいけないとは思う。 自分の持ち味と相手の良さが交わった時、 どんな写真が出来上がってくるか、 その化学反応を楽しむ。 それが写真の醍醐味だと思うから。 そのためにも自分は必要である。 しかし、私は私でも 今までは「大人に対する私」を抜け出てはいなかったのかもしれないと、 この撮影で気付かされた。 大人の被写体に対して、もちろん注意すべきポイントは子供と変わってくるが、 それは技術的な事。 本質的には「人に接している」ということに変わりはないのではないか。 「大人に対する私」でも「子供に対する私」という両方に共通する 「人に対する私」という本来の私。 自分が持っている、変えてはいけない本質的な本来の私は 「人を解放させる」という部分だったと思う。 それなのに、その人らしさを、その人のままでといいながら、 被写体を「大人のその人」という枠から解放できていなかったのは私のほうだったのかもしれない。 私も彼女も解放された。 大人と大人でも、 大人と子供でもなく、 人と人として。 純粋な私とあなたになった時こそ、本当のその人らしさはあらわれ出てくる。
今この時
2016/2/29
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きょうだいっていいな。兄弟の撮影に入るといつも思う。 見ているだけで楽しそう、みんながみんなお互いが好きなのだなと感じるから。 恥ずかしくて抱っこやちゅうが出来なかったり、逆に可愛すぎて構ってほしくて自らちょっかいを出したり、一緒になってはしゃいだり、一緒だからはしゃげたり、つられて緊張しちゃったり。 兄妹でもたくさんの性格がある。年齢が離れていたり、近かったり、その差だけでも性格は変わる。兄弟の性格を見るのがとても楽しく、またそれを表現したいと思う。 ふたりだからこそ、きょうだいだからこそ表現できるものがある。 ひとりひとり性格も考え方、好みも、同じところはないが、似ているところがあるのは兄弟の特徴だ。なぜか一緒にいるだけで、目が合うだけで笑顔になってしまう。 弟君や妹さんは、お姉ちゃんやお兄ちゃんが笑うから楽しいこと、泣いているから悲しい事なんだとたくさんの感情や考え方を学んでいる。 また同じように感動したり、笑ったり、怒ったり、泣いたり、一緒になって共感出来るのも 一番近くにいる、お兄ちゃんお姉ちゃんだ。 喧嘩が多くとも、必ずお互いが支えになる。 私が、このスタジオに入社し改めて考えさせられたのは、家族や姉妹への気持ちだ。 私はスタジオや家の外でははしゃぎ、ちょっかいを出したり、ボケたりとしているが、家では恥ずかしく、なかなか自分自身が出せないで無口なほうだ。 私は3人姉妹の末っ子であり、上に8つほど離れた2人の姉がいる。 いつも服はお姉ちゃんたちのお下がり、喧嘩をしてもう負け、ご飯を食べる時も取り合いになったりしていた。真ん中のお姉ちゃんとは一番喧嘩を良くした。私がちょっかいを出すことが今では原因だったのではと思う。でも、いつも一緒に遊んでくれたのはお姉ちゃんたちだった。 お休みの日、良く自分の家の庭で縄跳びや自転車、シャボン玉などで遊んでいるお姉ちゃんたちの中に入り込み、一緒になって遊んでいた。ゲームも沢山した。 お出かけや旅行に来た時、おトイレやお店の中など、どこか行くにも一緒に連れて行ってくれた。 小学校3年ごろからお姉ちゃんたちも高校性になりすれ違いが多く、お姉ちゃんたちとの会話は少しずつ少なくなり、遊ぶこともなくなった。 始めは寂しかったが、自然と慣れていき、それが普通なのだと思えてしまった。 やはり年が離れている分、勉強も時間の使い方も違ってくる。その時くらいからお姉ちゃんたちと距離が出てきたと感じた。一番仲が良く、話合えていたのに、一番話す数が少なくなった。 今思えば、反抗期というのか思春期特有のものだったのかなと思う。 今ではお姉ちゃんは2人とも結婚し子供もでき家も建て、実家を出ている。 それでも毎週週末はみんなが実家に集まってご飯をたべている。 お姉ちゃんたちも、過去小さかった時のぬくもりや癒しをやはり自然と求めているのだなと思った。集まるようになってから、また、私がこの仕事を始めてから少しずつ会話が増えていった。 そんな時に、母がアルバムを持ち出し小学校時代や赤ちゃん時代の写真をみんなで見た。 その時に、家族みんなが懐かしい。こんな髪型、服装だったんだね!と言い合いながら大笑いしていた。その光景が、私は眩しく、幸せだと思った。 どんなにお姉ちゃんたちにムカついたり、嫌いになっても、今になっては本当に感謝しており大好きである。今の仕事につけたのも、お姉ちゃんのおかげでもある。 いつの日か、大きくなり、この写真を見てどんな会話をするだろうか。 昔はこんなに仲良しだったね!ほっぺをくっつけたり、チュウしていたり、きっと大人になって見返すとぷぷっと笑ってしまうんだろうな。 きょうだいはそんな幸せを一緒になって感じることが出来る。 私は自分の写真で、何年か経って感動してほしい。 今は写真を見て可愛いね。楽しいね。と思うだけかもしれない。 でも、きっとこの写真を大きくなったみんなで見ている光景は、素晴らしい物だと思う。 Lifestudio Nisshin Photo:furusawa Corde:miyahara
物語に大切な要素
2016/2/28
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Photo by Chiba Codi by Younseong JIYUGAOKA 良いと感じるものや、憧れると感じるものは自分から追い求めていくもので 何もしなければ時間だけが淡々と無情にも過ぎていきます。 私たちは常に行動と共にあり、私たちは常に言動と共にするのです。 私的事ですが、もともと私は地元の銀行員になって実家で暮らし、家庭を持ち両親の側で子育てをしていきたいと願っていた頃がありました。そのためリクルートスーツを着て説明会や面接を受けていました。何社か内定をいただきその中で不動産会社を選び、そこで働くことを一度決意しそこでの将来像を描いていた頃を懐かしく感じます。私はネクタイにこだわりを持っていて今でも30本くらい持っていて気分や日によって場所を考え選んで出社していました。 ネクタイをつけるのは男性側にあることで、それを直し、結びつけてあげられる存在が女性側であるそんな光景をイメージしたことがあります。 ネクタイは向かう場所やお会いする相手によっては変えたり、新調したり、選び悩みます。大事な時こそ選びに選んだ、悩んだ物を、大切な方から頂いた物でその場に足を運びます。 そしてゲンを担ぎます。 験担ぎの験は経験のことよりも効き目の事を指します。勝負事へのジンクスです。もちろん他人から見た験担ぎは何の効果も見えないものですが、私からするとやる気スイッチの様なもので家を出る時にネクタイを締め出発をし、相手に会う前ににトイレでもう一度ネクタイを締めて向かいます。つまりその想いや意気込みに代わるものが験担ぎでありそれがネクタイです。 このご夫婦は今年で結婚10周年記念ということで家族写真と夫婦写真を残しに来店されました。パパさんが指輪を手にしママさんにプロポーズをされて今に至る家族になります。とても素敵で明るい家族でした。2人のお子様もすくすく育ち伸び伸びとしています。撮影したという光景よりも話した光景の方が印象的です。 話せば話すだけ時間はあっという間に過ぎ、気づけばたくさんのことをこの家族から学びました。私が聞きたいことと、この家族が知っていること。楽しんだことも悩んだこともたくさんの物語がそれぞれの家族にはあります。それでも朝は家族の想いを込めてママさんはネクタイを手にしパパさんの首元へ験を担ぎ、パパさんはそのつながりを家族のためにと結びつけます。子を信じる強さ、父親を信じる強さ、母親を信じる強さをとても感じました。 微笑む父親とネクタイを締め優しい眼差しで見つめる母親とでする言葉なき時間を切り取れた事に感謝しています。この夫婦のありのままをそこにあるもので表現した時にこの様な形となりました。 毎日の撮影の中でたくさんの家族と出会います。その一家族一家族のストーリーを知るば知るだけで私達の力になります。それが関係性の入り口でそのために私達は常に行動と共にあり、言動と共にあるのです。そしてその小さなことや何気ないことの一つ一つが私達とお客様を結びつけます。 人生の写真館と言いますが人生を学ぶにはとても良い環境であるとつくづく思います。 特別な存在は実在しないのだと思うけど、特別であり続ける意志の強さはきっと必要なのだと思う。気持ちが交わり、絆を結ぶ。それでこそ家族の意味になるのではないでしょうか。私はそう学びました。
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2016/2/26
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URAYASU Photo Photo by volvo Coordinate & Written by Kudo 『ひとりの人として。あなた自身として。』 私は常に、ひとりの“人”として、“私自身”として、 あなたの傍に在りたいと願う。 写真館とは接客業です。 接客業と聞くと、知らず知らずの内に私たちの意識の中で刷り込まれているのは、 お店側である「スタッフ」と購買者である「お客様」という二つの立場です。 その概念は知らず知らずの内に当然のように、私たちのお店の中での立ち振る舞いを決定付けます。 スタッフはスタッフのように、お客様はお客様のように、自分自身を"演じる"と言ってもいいでしょう。 しかし、私はその当然のようになってしまった「スタッフ」と「お客様」という概念の前に、 これも当たり前のことですが、ひとりの人間として「私」と「あなた」で在りたいと思う。 「ひとりの人」として見ることは、そこにしかいない、そのときしかいない、 世界でただひとつのストーリーを持った一人の人生を見ること。 その人の心に触れること。それは、この世界にたった一つのストーリーの中に入ること。 そのとき、スタッフとお客様という常識の仮面は、意味を失くします。 それは、「人」と「人」としての空間を作るということであり、「人」という存在はみな違うから、 「私」と「あなた」がいるその空間とその時間は唯一無二のものになります。 その“唯一無二さ”こそがライフスタジオの写真であり、空間であり、時間です。 目の前にいるお客様は私たちと同じ「人」です。 だから、その「人」自身を見つめ、話をし、その人たちに合った衣装を提案し、 その人たちとしか作れない空間と時間・写真を形にしていきます。 「人」として作る空間と時間、そして写真。 私たちが目の前の人たちを見るまなざしもまた「人」であり、相手からも「人」として接してもらうこと。 そのためには、私たち自身も「人」としてお客様の前に姿を表すことが必要であり、 自分は「誰か」を表現することが重要であります。 自分が「誰か」を表したときに、相手も「誰か」ということを徐々に出してくれる。 「誰か」と「誰か」、「人」と「人」、「あなた」と「私」が、触れ合ったときに、 その時間・その思い出・その写真には「人」でしか生み出すことのできない「体温」が生まれる。 このことが、私たちライフスタジオの写真に息を吹き込んでくれる最も重要な要素です。 「私」と「あなた」がいる空間と時間は一期一会で、だけど人の体温のように温かで血の通ったものであるから、 ライフスタジオで撮った写真は特別であり、唯一無二であると言えるのです。
脱却
2016/2/22
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カメラマンになってから2年と2ヶ月。 お客様が期待している写真、望んでいる写真はもう撮れる。 毎日同じ場所で同じ事の繰り返し。そりゃ撮れるのは当たり前。 毎日同じ作業を坦々と繰り返す。写真も被写体が変わるだけで、これといって変化はない。 そんな自分の写真に嫌気がさした。 自分の型、撮り方はある程度もう決まっているし、独自の癖もある。 今までの経験や基礎知識は残しつつ、他のものは全部取っ払う必要がある。 そう思うことができたきっかけの1枚である。 そうしないと次の段階に行けない気がした。 カメラマンをやっている限り、もっといいものを撮りたいと思うし、いいものを創りたいと思う。 そうしたいと思うなら、時に自己中心的でなければいけない気がする。 だがもし最高のレベルに達したなら、自己中心的であってはいけないと思う。 他人とうまく付き合い、一人になってはならない。 何かを始めるのは怖いことではないし、怖いのは何も始めないことだと思う。でもそれがなかなか難しい。 他力本願で、こうやると上手くいくと人から聞いたことを同じようにやって、それなりの成功を得る。 そのことが分かっていて自分自身も嫌になってくる。 殴られても、ただ怒りに任せてやり返すのではなく、 自分が絶対に正しいという自信を持って、もう片一方の頬を差し出せるほど自分も潔くなりたい。 photo by Ryohei Morita cordinater by Tomokuni Ueda in Kawaguchi
『人と自然の調和』
2016/2/20
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草加店写真 「人に写真に自分自身に深く入っていきたい」 「日本の写真館のこれからを考えてみよう・・・」 ライフスタジオの創設者である社長は、10年前に日本の写真館について市場調査を行なったという。その時に聞いた話が今でも忘れられないのでここでも話していきたい。 10年前のその当時、日本にある写真館の写真とシステム、文化などが非常に不安定でありどこに向かえばいいのかという方向が見えていない状態であったと言う。その根本原因は日本の写真館は何を基盤にしている産業なのかという問いに対して、技術のみに特化した産業になっているということである。この根本原因に対して、ライフスタジオはこのように考えている。 「写真館は写真を媒体にしてお客様に感動を提供するところでなければいけない」と提示した。まさにこれが10年目を迎えようとするライフスタジオの土台となる部分である。 つまり、ライフスタジオは日本の写真館が技術を基盤として企業している事に対して、 全く異なった観点で企業の理念を立てたのである。それが写真を媒体とし感動というサービスを基盤とする企業になっていこうという代案であった。 これが幸いに日本の写真業界としては先駆者的な存在となった。 ライフスタジオは、この社会の中で(一つの企業として)何を基盤に経営をしていくのか? という問いかけと、それに対しての代案を企業の土台としたとこが日本の写真館に対してもっとも影響を与えたところではないだろうか。 また、日本の写真館の「発展」という側面から写真文化を見てみると、文化という名の固定概念から抜け出せないようなそんな印象を強く感じたという。つまり、日本の写真文化の発展が滞っている一番の理由は発展の為の競争がなされていないことである。 先ほども話したように日本の写真館は技術を媒体として写真を提供するところで止まってしまっているのだ。また、これといった競争がない業界の中で、顧客の理解と要求に対応できず時代に乗り遅れてしまっている。例えば、私たちが見ている現代ファッション雑誌や広告などではモデルが自由にそして伸び伸びとポーズをしたり、様々な表情を魅せている。 また、読者モデルという名のモデルも知名度を増してきた。読者モデルとは一般読者として雑誌の紙面に登場するモデルのことを示す。 雑誌業界でも地域密着型の収集や地元ネタのレポートなどが目的で読者の中から誌面に登場したい読者を募り「読者参加型」の雑誌を作り始めたところからこの読者モデルが誕生した。 このように、現代の雑誌を見たら今の時代のニーズが明確になっていると考える。 そして現代人が本当に何を求めているのかという本質的な部分にも垣間見ることができる。 つまり、今後はよりお客様の欲求に対して写真館はもっと集中しなければならない。 だが、今現在の日本の写真館の写真を見てみるとどうだろう。 さほど証明写真と変わりがない写真を撮っている写真館が多く存在しており、現代のニーズと比較してみると少し時代遅れな気もする。歴史ある写真を否定しているわけではないが、写真館の競争力を何に設定するのかということがより具体的に提示されなければならないのだ。 また、その変化が持続されなければならないということを強調したいのだ。 これに対して、ライフスタジオは『美しさを表現し思い出を記録する楽しみの空間』というスローガンを提示し、日本の写真館に対して、新しい写真館の在り方を代案した。 よって、ライフスタジオは単に子ども写真館として打ち出したわけではない。 写真館を構成する全ての要素にお客様とスタッフが同時に満足することのできるシステムと感動のサービスを何よりも優先順位に盛り込むこととした。 また、写真館の競争の根源はスタッフ自身の競争から始まると考えている。 だからこそ、写真館という空間がスタッフの自己実現の場として構成されていなければない。 つまり自分自身との競争からなるエネルギーが人と共に過ごしたいという気持ちに繋がっていく。すなわち『関係を大切にする写真館』としてライフスタジオが存在しているのだ。 そして、その為の集中投資としてライフスタジオは「人」に全勢力と全資源を投入して企業の核となる競争力を確固たるものとしているのだ。 つまり、日本の写真館のこれからを考えるのならば、お客様が本当に求めているものに対して広い視野をもって新しい挑戦もしていかなければいけないだろう。また、写真館が何を基盤に運営されていくべきなのかということを皆でもう一度再認識することが重要である。 「ライフスタジオはどんな価値を創造していきたいのか?」 ライフスタジオと一般の写真館とで、何が差別化されなければいけないのかという中に、 一つ、私達スタッフが手作りで作るインテリアがある。通常、インテリアといえば撮影のためだけとして考えられがちだが、それだけとも言えない。 写真館がインテリアで締めている割合は大きく分けて4つあると考える。 一つ目は、良い写真が作られるための根源 二つ目は、お客様に伝える写真館のアイデンティティとイメージを膨らませるきっかけ 三つ目は、時間、労働力、費用、空間活用の効率性 四つ目は、スタッフの創造意欲と自負心 インテリアを始めるときに何よりも重要なことは、私達の写真館の設立目的は何であり、どんな価値を実現しているか?なのである。これが明確に理解することができれば、設立目的と価値を実現するためにインテリアをどんな風にしなければいけないのだろう?と悩みが集中してくるのだ。結局はお客様の心の中に何を残すのか?という結論に至ることになる。 インテリアは良い写真を撮るためにどんなセットを作ろう?と考える前に「お客様に何を提示しよう」という悩みに変わらなければならない。 この世の中には綺麗で興味を惹かれるものが数多く存在している。インターネットの普及もあり今、世界中のあらゆる文化や流行の先端をクリック一つで見ることができる時代になった。しかし、それらが常に良い物で美しく綺麗に見えるわけではない。美しさとは、適切な空間に様々なものがお互いに調和をもって一括した考えが整理されるとき、表現されるものではないだろうか。 「雑誌の雰囲気をスタジオで実現する」 ライフスタジオの写真は、自然ですねとお客様から沢山の声を頂いている。きっとお客様が自然と感じる意味合いとしては目で見ているいつもの姿を写してくれているという側面もあるがもう一方で日常生活にも馴染みがある雑誌やTV、広告ページのどこかで見たことのあるようなイメージや雑誌で憧れている雰囲気がライフスタジオの中で存在しているからではないだろうか。つまり、自分が求めていたものや憧れていたものが現実になり、それが75CUTの中でストーリーとして創り上げられているのを確認したその瞬間に「私もそうだったんだ」という「一致感」から自然という言葉を選択して口にしているのではないだろうか。また、自然の反対が不自然であったり人工的な意味を表現するのであれば、自然という言葉はより身近で現実的でそして憧れているイメージをふんだんに含みそれがより心に響くから自然に見えるのではないだろうか。 「写真の新たな世界観を目指して、いざ神秘の森を目指す」 人生の写真館をもう一度模索するときが来た。それがちょうど今年で10周年を迎える私達の時代であろう。草加店では2016年1月に一ヶ月という期間の間に大規模なインテリア工事を行なった。その際、先ほども話したようにどんなインテリアを作ろうか?と話をする前にどんな価値を実現したいからこのようなインテリアを作ろう。というように、お客様に何を提示するのか?という主題から始めなければならない。冒頭でも話したように、ライフスタジオは人生の写真館を実現する写真館を目指しているのでそれが現実的に写真でも文化でも商品でも、スタジオを構成する全ての要素に適応しなければいけないのである。 その辺りを全て含んで、今回草加店が掲げたインテリアのコンセプトが「神秘的」である。 ここからは、少し草加店のインテリア工事の計画書の文章を一部引用したい。 [神秘] とい言葉を大韓辞書の意味では '事柄や現象なんかが人の力や知恵または普通の理論や常識では到底理解することができない位不思議で奇遇、またはそんな事柄や秘密'と言う。 私たちの日常で普通に起きる現象ではないのである。 意図的に作ったりそういう所をわざわざ探すことによって感じることができる特別なものと言える。神秘的とは認識される内容で具体的に感じる感情だと言える。例えばディズニーランドは遊戯そのものの概念を持っている。 夢と希望の世界、思い出を作ることができるある空間という概念がある。 ところが人々に実際に感じさせるのはその中にあるテーマである。 'アドベンチャー', 'ウエスタン', 'ファンタジー', などテーマランドを経験しながら幻想的やぞっとするとか慌惚なことを感じるのである。 そしてそういう気持ちや感情を繰り返し感じたいからまたディズニーランドを探すのである。 'この次はなにか?'としたときに神秘的が意味することは 日常から脱皮して新しい事を体験しながらあるキラキラと輝くものを心の中で残すことだ。 一般的なことは私たち周辺に分布されている木と草、庭園とテーブル、顧客と職員、子供と大人などのようなさまざまな対象である。 それに対する概念がインテリアや結婚、家族、写真であると言える。 特殊なことはこのような一般的なものなどが会う要素だと言える。 すなわち、写真や撮影が持っている要素と言える。写真が持っている要素は空間と光、色、線、レンズやカメラを通じる技術や演出を言う。木の葉が光に会ってレンズを通じて色と空間を作って写真に表現される。 子供の動きが撮影者の演出として美しい人間の線で表現になって一枚の写真で作れる。 これを一つの特殊な要素と言えるだろう。 また撮影が持っている要素は行為をする主体である。 対象に会って関係を形成するのが主体の役目だと言えるが、ライフスタジオらしくいうならば出会いから別れまでその人に深く入っていく関係を悟らせてくれて自分の存在を感じて確認させてくれることが主体であることである。 こんなにも一般的なことと特殊なものが会った時果してどんなこととして特別であるという認識ができるか? それは [新しさ]と [異同]だ。 すなわち、新しくなければならなくて違わなければならない。 それか違くて新しくなければならない。 ライフが特別であったのは今まで経験した文化と違ったからで新しかったからである。 そして今はそれがあり他のスタジオ経営に影響を与えている。 [新しさ]と [異同]は潜在意識とのようなものだ。 [新しさ]と [異同]の反対は [安定する]ではなく [安住する]と考える。安定することは維持して持続する必要性がある状態に関することで安住することは楽なことに甘んじて現実を脱しないという意志のようであるからだ。 [また特別にならなければならない]と言うのは変化に対する熱望が入っている。 そのままあるためではなくこれから進むためであるからである。 このように写真館の写真の規定に対して常に変化発展を続けてきたライフスタジオの写真は次の時代に途中したと考えることができる。今までの写真が自然な写真であれば、その75CUTの要素の中に新しくてまた異なった体感と結果物を生み出さなくてはいけない。また、その対象となる被写体自身もより一枚一枚の写真により真剣になるしかない。なぜならば、ライフスタジオのこれからを担う被写体の対象年齢は、7歳からそれ以上になるからである。より社会性の身についは一人の人として互いが向き合うことになる。 新生児からライフスタジオに撮影に来てくれたお子様も10年経てば心身ともに成長をし、小学生から中学校へと変化の過程を辿るのである。その成長と共に私達ライフスタジオも成長を目指すのは自然な流れではないだろうか。そして、創造していきたい価値とそれに対する実践を経て今回の一枚も生まれることとなった。 今回のコンセプトである神秘を象徴するに相応しい、太陽の恵みと作りこまれたセッティングと全体的な生命力のイメージを伝えやすい生植物達の存在とが一つの空間の中に上手く調和され統一感のある一枚に仕上がった。 私の考える神秘的な写真を生み出す一つの方法としては、自然光×本当は存在しているがまだ明確に認識されていない本人だけの魅力を私たちが四角の中に救い上げ、 共に認識し合える価値を創造していくことではないだろうか・・・。 その為にも、私達はこれからもっと人生の写真館に対する 建設的な議論と代案をしていくことが必要であると考える。
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