フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

Relax

投稿日:2016/3/23

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Photo by volvo
Coordinate by Kudo

Lifestudio No.2, URAYASU

 

私はいつもどんな撮影でも、目指しているものがあります。

それは撮影者と被写体、あるいはその家族が互いに「自由」になれる空間を作る事です。

 

自由について、今までいろんな角度から書いてきました。

<our mind>には「被写体がもう1人の自分に出会う」事であると書いてあったり、私が今まで書いてきた事の主となるものは
「撮影者自分自身が写真に対して自由になる事」であったりします。

 

自由に普遍性はありません。

しかし、自分が真理だと信じることはできます。

撮影における自分なりの真理をもつことはとても重要です。


今回は自由のひとつの要素でもある「余裕」についてこの写真を通して書いてみたいと思います。

 

「被写体がもう1人の自分に出会う」事や「撮影者自分自身が写真に対して自由になる事」というのは技術の成熟を意味します。

 

昔よく部活動などで「練習ではできるんだけど」という体験をすることがありましたが
その技術をいかんなく発揮できるようになるのもまた「技術」の要素のひとつでもあります。

 

「人」を被写体として「人」が撮影する一度しか訪れない唯一無二の現場において、毎回実力を発揮する為には「余裕」が条件のひとつとして必要だと私は考えています。

 

ここでいう余裕とは「楽」という意味ではなく「その瞬間にどれだけの選択肢を実践できる状態にあるか」という意味ですが
私は、余裕は技術と言い換える事もできるのではないかとさえ思っています。

 

被写体である子供達、その家族、そして私たち撮影者、その空間にいる人たちみんなが余裕を持っている事
言い換えるとその人たちに余裕を作れる技術を持っている事が必要条件となります。

 

余裕とは、緊張の対義語です。

写真館に来て、写真に写る子供達が緊張の対義語を獲得する事は普通の事ではありません。

 

そして緊張している子供達を見て「ちょっと緊張してるね」と言いながら撮影者である自分自身が緊張している事を確認して戸惑います。

 

良い写真を生み出すには、被写体も撮影者も緊張の糸をほぐさなければなりません。

これは笑顔を出すといった表面的なものよりももっと深いつながりの部分であり、被写体と撮影者の間が一本の線で結ばれたような感覚になる瞬間です。

 

そうなった瞬間、被写体は自分を現す準備を始めます。

準備が整うと、撮影者が投げてくるものを受け取る体制をとります。

その投げかけてきたものを、まるで自分の部屋でテレビを見ている時のような反応で応えてくれます。

 

一方で撮影者は投げかけるものを準備しなくてはなりません。

いくら被写体が余裕を持っていたとしても、撮影者が実践可能な選択肢を投げかけられる余裕を持っていなければその効果は写真には現れません。

 

この余裕とは技術的なものであり、緊張の適切化です。

 

 

今回のこの撮影でそれを実現できたのには「仲間」の存在が大きく関わっています。

この仕事において1日の大半を共にする仲間は「1人」です。

 

その相棒ともいうべき存在は、私に余裕を与えてくれました。

 

 

私は入社してもうすぐ5年が経ちますが、今でもひとつひとつの撮影の前には緊張します。

それは全ての写真に対する責任と、自分自身に対する期待の混合物でもあります。

 

撮影に入ってしまえば緊張などは何もなくなりますが、その助けになるのはやはり一緒に撮影に入ってくれる仲間がいるからです。

 

 

彼女は私に余裕をもたせてくれる為の動きをしてくれました。

そして、家族を含めた被写体にも余裕を与えてくれました。

 

あとは、写真を撮る役割である私から被写体である彼へ投げかけるものが「良質」であることのみが要求される状況でした。

 

そんな条件があったからこそ生まれた一枚です。

 

この写真には、撮影空間そのものがリラックスしている空気感が含まれています。

それは、被写体の表情からポーズ、カメラの設定に至るまで全ての条件が「余裕」によって

実現可能となった典型的な一枚であると、思っています。

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