フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

日常か自然か

投稿日:2016/2/29

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私たちが良く耳にする「自然」という言葉。
その自然という言葉に対し、見えないパズルを組みながら、撮影者は自分の技術と経験を生かし、より自然なものを撮影しようとする。
撮影した写真を見るとき、私は「自然」がもたらすエネルギーが「良いものを残し記録することが出来た」と感じることが大きい。
しかし、その「自然」の中には「切なさ」も存在すると感じたときに少し写真に対しての見方が変わった。
それは、成長したからこそ垣間見れた姿の喜びと、成長していく事で自立をする素顔の切なさだ。
それらは全部きれいなもののはずなのに、切なさという綺麗な矛盾も存在する。
写真の美しさの中には、喜びと切なさが表裏一体している。
今感じる喜びが、いつかの寂しさに変わり、また時間をかけて大きな喜びに変わっていく。
少なからず、私たちはそういった写真を撮影している。
そう思うからこそ、どこか自分もその子の仕草を色々な意味をこめて覗くように撮影した。
まるでその姿を、親がわが子を見守っているかのようにだ。
その視点から撮影してこそ私たちは「自然」に近づけるのではないだろうか。
 
仕草においても「自然」の奥深さを感じる。
何をどう表現することがその子の「自然」なのだろうかと。
ただ下を向くこと。ただ立っているだけのこと。
ただ、ただ、ただ。。。
そのとき感じる衝撃は、ただということが、ただではなく、その子でしかない証明みたいなものになっているということだ。
しかし、日常で垣間見る姿は今後もずっと目にしていく姿でもあると感じる。
毎日いると、太ったことに気づかなかったり、背が伸びたことに気づかなかったりするように、私たちは身近に見る光景を当たり前と捉え、自然ではなく日常へと変えていってしまう。
だからこそ、日々の癖をあえてさせるのではなく、日々の中で出会ってなかった彼自身の動きと出会っていくことへの「自然」が、私が残さなければいけない「今」と繋がっていく。
 
そして色々な意味をこめたものだからこそ、その写真から発せられるものに私たちは感情を揺す振られるのではないでしょうか。
その子を見る目も、その子のする仕草も、どこか当たり前に見ていたものを、当たり前に見せない努力も私たちはしていかなければいけない。

Photo:jiro
Coodi:Rifwa

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