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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
『Change the World』
2016/2/18
4
Photographer: Ryo Coordinater: Misato Lifestudio : YokohamaAoba ファインダー越しの世界を見つめ、被写体ごとに違う空間を感じ何を写し出すのかを日々考えます。 『表現』という写すための方法は実に範囲が広く、そのすべてをつかむには一生かかっても無理なのかもしれません。 どんな有名なカメラマンや芸術家達も『表現』という広い物の一部を手に入れたにすぎないのではないでしょうか。 しかし広い分、多彩なそれは操る人間によって変わらない物を変えていく方法となります。 カメラを持つある人は影を表現する為に光を捉え、ある人は影を表現する為に光を遮断したとします。 一見この両極端な方法も写したい物が『影』であるならばその写真の主題は変わりません。 ただ私達は人を撮るのですから闇の中であっても光の中であっても人が美しく写る方法を考えなければいけません。 カメラマンはいつも広い海の中で地図も無く小さな島を探すように、表現という曖昧な言葉の中で一つの光を探す事になります。 私達が身を置く撮影環境のように、被写体が人であれば写真の決定的な部分は人を中心に展開されます。 何も無い所であってもそこに人が居れば写真を導く目印となってくれるのです。 空間や人を見るときの目線は等しく、対象が居る限り外も中も見なければ写真は誕生しません。 写真を完成させるために重要な物の一つとして『技術』が有ります。 しかしこれは写真の全てではなく方法にすぎません。 ふとした瞬間のふとした発想を写真として可視化する為に必要なのが技術です。 では表現は技術のみで表される物なのか。 それは違うと考えます。 もう一つ大切な物があります。意図してイメージを可視化させるには『感性』が必要なのです。 伝えたい物を感じる感性、瞬時にそれを適切に写す技術。 その二つが伴って想像は可視化され写真が誕生します。 技術はメカニズムであるため、理屈を理解し反復を繰り返せば必ず身に付きます。 では感性はどのように養い磨いていけば良いのでしょうか。 感性を磨くとは写真をやっていれば必ず聞いた事のある言葉だと思います。 多くの写真を見なさい。多くの映画を見なさい。絵を描きなさい。 多くの方法の提示を受けた事があると思いますし、この方法に疑問に感じた事も有ると思います。 これで本当に写真が上手くなるのだろうかと。 私自身もこのようなアドバイスを受け努力した事が有りますが写真を上手くなろうとしてこの事を繰り返しても何も変わらない事実にたどり着きます。 なぜなら感性を磨くという事は『写真』の変化ではなく『自分自身』の変化を生むためだからです。 写真は人が作るものであるため、変化するには作り手である人が変化しなければ変わる事はありません。 技術面を排除して写真を見たとき、一年前の自分の写真と今の自分の写真に変化を感じたならそれは今の私と過去の私が違う何かを得たからではないでしょうか。 表現とは被写体や空間を見つめ、今の撮影者の世界観がうむイメージを写真として可視化する事。 この写真の瞬間、今の私に見えた目の前の美しさは影が多くを支配し僅かな光が美しい場所をなぞる光景でした。 それを今の私の感性はこの写真のように捉えます。 この写真の美しさは影と光のバランス、そして被写体の照らされる輪郭にあります。 このような繊細な光で写すときには被写体のどこからどこまでに光を入れるかを考え、この画に対する美しさの基準を持ち一つ一つ捉えていきます。 手前側の瞼までハイライトを入れる。 反逆光であるが角度を調整し全体のイメージが暗くなりすぎないように手前側を落としすぎないでぼんやりと細部を残す。 装飾品の質感を表すために僅かなキャッチライトを入れる。 瞳の位置やまつげの長さをみて顔の角度よりやや下を見てもらう。 瞳に反射を入れ目に生命力を残す。 輪郭の美しさを高めるため口は閉じる。 指先は女性らしく僅かに曲げ、しなやかに写す。 手前側のあごのラインまで光を入れ、よりシャープな輪郭を作る。 少し上を向いてもらう事で壁と首の間に空間を作りより首を細くしなやかに写す。 など、一枚の写真を撮りながら見る事や今の私があらかじめ用意している感覚を会話しながらパズルのように組み立てていきます。 そして組み上がった瞬間ようやくシャッターを切ります。 ハーフ成人式など高年齢の子供達の撮影は彼女達自身が写真を意識しているため本人達の期待値も超えていかなければいけません。 ですから私は私なりの表現で、今見える美しさの限界を写真として贈ります。 一年前この瞬間に出会ったとしたらまた違う写真を撮っていたでしょう。 そして一年後この瞬間にであっていたらまた違う写真を撮るのだと思います。 写真に変化がないと感じたときは、自分自身が変わる時かもしれません。
説得
2016/2/16
1
Photo by Lee Hyeyoung Written by Choi Eunpyo 説得 私たちは、多様な目的を持って生きている。人は人生を歩んでいく過程で、相手を楽しませるために目的を持ったり、自分自身の満足のために目的を持ったりする。 自分のための目的であれ、他人のための目的であれ、目的を実現するために日常的に行っている行為がある。それは説得だ。 人を楽しませるためには自分が楽しいと思っていることを相手に共有し、自分が好きな楽しみについて説得を行う。 そして、自分のために何かを行う際も、その行為の正当性について自分自身を説得し納得させる。 まだ4歳である私の息子も私に様々な説得を試みる。 レストランに行くとなぜ必ずオレンジジュースを頼まなければならないのか、欲しいプレゼントをなぜ買ってあげなければならないか等、まだ下手な説得ではあるものの、4歳の子供も説得という行為を自然に習得している。これを見ると人は客体と関連された全ての行為を行うことにおいて、説得は基本的な社会的行為ではないかという気がする。 私たちは幼い頃から親を、友達をそして大人になっては仲間を、顧客を説得して生きていっている。 説得に対する話をする理由は写真も説得という行為を元に表現されるのではないかと考えているからだ。つまり、写真は相手を説得するための役割をしているのだ。 写真の中に、家族の愛情が表現されているということも一つの説得で、赤ちゃんの純粋な美しさが表現されていると言うのも写真を見つめる対象に対する一つの説得である。 このような写真は、言葉よりまた文章よりも、より説得力があると考えられることが多い。 しかし、ある面では、写真は明確で明白に表現されることがもっと難しいかもしれない。 写真は色、露出、画質などの要素をカメラという機械的な数値を通じて明確に表現された結合体であるが、観察者の立場では機械的な要素は大きな意味がないからだ。 なぜなら写真を見る相手は、複合的かつ総合的な感覚で写真を認識し、理性よりも感性的で写真を判断する部分が大きいからだ。 結局、写真で相手を説得するためには、複合的かつ総合的な感覚で認識している相手の感性も理解しなければならない。 そしてそのような感性を自分も感じることができなければならない。 なぜなら自分が知らない単語を表現することができないように、自分が感じることのない感性的な要素も、結局表現できないからだ。 写真を撮るとき良い結果物を作るために相手を観察して、相手に深く入りこめとよく言われる。 これは人に対する関心と観察そして理解を要する。 これは、言葉を上手くするためには本をたくさん読むように、写真をよく撮るためには関係を作る方法をたくさん知らなければならないという意味にも繋がっているかもしれない。 写真館でなぜ写真より人との関係性を重要視しているか、そして人に対する関心と感情も重要視するかについて、今は少しずつ分かるようになった。 "なぜなら私たちは写真で人を説得しているからだ" 単にカメラの技術的な数値だけではなく、相手を観察して、相手に関心をもち理解をし、感性的に近づいていこうという努力をしていくことこそが、人を説得できる写真を撮ることができるのだ。 正しい数値と根拠を求めることが仕事だったエンジニア出身の私としては、このような部分が最初はよく理解できなかったかもしれない。 写真を撮ることにおいて人を観察して理解し、人に深く入る込むことが写真と何の関係があるのかがよく理解できなかったからだ。だから、ヘヨンさんがよく感性的な面を強調する時も何を意味しているのか分からない時が多かった。 しかし、今は少しずつその意味が分かるような気もする。 ヘヨンさんの写真にはあって、私の写真にはまだ不足していること、それは [写真も、結局、人から始まるという理解] ではないだろうか。 説得力のある写真は結局、人への理解度を表している。 だから、まだまだ行く道が遠い。
"ふつうの日"
2016/2/1
1
そのときは 「カエデ」という名前であること。 8歳であること。 3兄弟の長女であること しか知らなかった。 知らないからこそいろんな興味が湧く。 "どんな子なんだろう”という疑問から少しずつ彼女を知っていく。 ”いつからこんなポーズをができるようになったんだろう” ”いつからこんな表情をするようになったのだろう” と、親心のようなを気持ちも持ちながら撮影をした。 時間が経つにつれ、家族が見ている恥ずかしさで下唇を噛む癖があることなど細かな彼女の一面もみることができた。 「今日はなんの日?」と聞くと 「ううん。ふつうの日」と答えた 記念でもなく誕生日でもなく、 何の変哲のない日の写真でも一枚一枚 彼女の記憶にあり続けてほしい。 そして日常的に写真を撮ることがあるご家族にあえて幸せだ。 -------------------------------------------------------------------------------- 1月に入りクローズアップに重点をおいて撮影をしてきた。私の中のクローズアップという概念を破った写真である。 今までカメラ目線だとか、1:1だとか、いろんな固定概念があった。 しかしいろんな写真をみて、これもクローズアップなのかと思い始めると止まらなくなった。 私は大きい子にポーズをさせる時に、簡単な全身のポーズをさせ出来具合を確かめてから指示をしていく。 なぜなら、あくまでも「自然体」であることが前提だからである。表情だけでその子らしさもわからないし限らない。 一定の年齢を超えたらみんながポーズができるとは思っていなくて、不自然では意味がない。だから無理なことはさせない。 手を肩に乗せるという行為は簡単である。しかし、この手の向き、開き方は簡単なことではない。 指の間一つ一つに均等に感覚をあけるよう調整。さらにこれでもかというほどの指示の量。 嫌になるかと思いきや、むしろ夢中で私を追いかけるように指示に答えてくれた。 衣裳も大人の一面を見せる背中が大きく開いたドレスでしっかりとわかるよう、横の画角で画面いっぱいに彼女を写した。 初対面の相手、倍以上の年の離れた人と分かち合うことは難しい。 今回、「クローズアップの幅」と「彼女」を同時に理解した瞬間、撮影者と被写体が一致した瞬間 それはとても気持ちの良いものであった。 lifestudionisshin tanaka
現在
2016/1/31
4
命を授かるということが、どれだけ嬉しいことなのか。 生まれて初めて我が子を抱く瞬間が、どれだけ感動することなのか。 ひとつひとつのはじめてが、どれだけ忘れられないことなのか。 朝も昼も夜もまったく寝れないことが、どれだけ大変なことなのか。 自分の人生が自分だけの人生ではないと気づくことが、どれだけ責任を感じることなのか。 こどもたちの成長が、どれだけしあわせなことなのか。 経験のないわたしには本当の本当は分かり得ません。 嬉しいことは想像以上に嬉しいだろうし、大変なことは大変という言葉では到底足らないくらい大変で、 それでも今、共に生きている時間の中で、ひとりの時の人生とはまた違う日々、 振り切れるほどの喜びも苦しみも喜びもあるのではないかと、 ここで出会うお父さん、お母さんを見ていると思います。 こどもたちを見ながら、いつもお父さんお母さんを見ています。 こどもたちの人生のはしっこの今の今を見て、 お父さん、お母さんにとっての今も、よかった、と思ってもらえたら、それほど嬉しいことはありません。 笑顔だったらいいのか、どんなんだったらいいのか、そんなことを考えますが、 笑顔であっても泣き顔であっても、不安であってもふてくされても、その時々のこどもたちの心と姿を全て受け止めた上で、 それも全てあなたであってよかった、と思ってもらえるような写真とはどのようなものか、考えは尽きません。 きれいごとではなく、美しい真実がある。 その瞬間を遮らないように、時には入り込まずただ空気となり見守る、その過程を大切に思います。 この1枚を撮るか撮らないか、この瞬間を待つか待たないか、この1枚を75cutの中に入れるか入れないかの判断で、 75cutの仕上がりも変わっていたはずであり、この1枚があるかないかで、少しだけ彼女の中に残る記憶も変わるかもしれません。 大げさかも知れませんが、そんなことを考えてしまいます。 どんな時も側にいてくれた人がいる。 この1枚が、彼女の生きていく中での少しの支えになったらと、そんな想像をしながら。 側にいてほしい人が、側にいる。 そんな空間をつくりながら、ゆっくりと今を、正解よりも真実を、みつめていきたいと思います。
愛情の温度
2016/1/31
1
愛情と聞いたとき、どんなことを思い描くのでしょうか?私はまるい卵のような形を思い浮かべます。つるんとしていて凹凸がなく、ちょうど人の肌のような温かさで、何かに変化する可能性を持ったものです。なぜそんなイメージがあるのでしょうか。燃え盛る炎のようなものでも良いかもしれません。でも、触れると熱すぎるものは離れたくなります。自分にとって心地の良い愛情を思い描いたとき、それはどんな温度を持っているのか?私は、ずっと触れていたくなるような、人の肌のような温かさだと思っています。 それはなぜなのでしょうか。 きっと、愛情を感じたのが自分の両親の肌の温度だったからだと考えています。 お母さんやお父さんが、わが子を抱きしめるとき、その温度がその子供に強く残ります。 その抱きしめるという行為が、愛情を示す形であるなら、体の器官のあちこちが未熟な赤ん坊がわかるのは、お母さんとお父さん、自分に愛情を持っている人の温度です。もちろん、声、におい、表情なんかもよくわかっているのですが、一番に求めるのは人の温度だと、特に自分の最も愛する両親の温度だと思います。 その温度を感じたとき、赤ん坊は安心して笑ってくれます。 愛情はそれ自体が何かを生み出す母親です。「愛情が無ければ優しさも、ぬくもりも、安心も生まれません。 6か月のこの子はしばらくにこにこしているけれど、だんだんと不安そうになり、泣いてお母さんを呼びました。私が抱っこしても泣き止みませんでしたが、お母さんが抱っこをするとすぐに泣き止んで、私たちに笑顔を見せてくれました。微笑みを見せてくれるのは、安心をしているからなのだと感じました。 ひとりが心細いのは、誰でも一緒です。大人も、ひとりは嫌です。でも人が周りにいても、心細いと感じることもあります。その不安感をぬぐい去ってくれるのは、本当に愛してくれる存在だけです。 まだ生まれて間もない彼は、愛情の姿をよく知っているような気がしました。
表情
2016/1/31
2
人の表情から、どんな感情が感じられるのだろうか。 喜び、悲しみ、怒り、驚き、恐怖、様々な感情がある。 目や唇、眉の動き、顔の向き。少しの動き、少しの感情の変化が表情に表れてくる。 笑顔を見れば、自然と幸せな気持ちになる。 では、その人が美しいと感じる写真はどのような表情を、どのような感情がそこにはあるだろうか。 それは笑顔だけではなく、悲しい表情かもしれない。怒っている表情かもしれない。カメラマンがその人の美しさを表現しなければ、他の誰にも表現する事は出来ない。それは、撮影の中、カメラマンと被写体、人と人との関係の中で生み出す事。 彼女を誰よりも観察する。私の声掛けに対して、彼女が応える。私が彼女にこうして欲しいと指示をして、それに対して彼女は一生懸命応えてくれる。 彼女の凛とした表情。彼女が私を見つめる表情。彼女が照れている表情。 彼女と向き合う中で発見したものが彼女らしさであり、美しさである。 多くのものを感じ、その表情は様々だ。その一つ一つが違う表情をしていて、彼女は時間を追うごとに、柔らかくリラックスした表情になってくる。それは仕草にも表れ、周りを驚かせるほどであった。 同じ目線で立ち、彼女を発見した。美しいと感じ、残したいと思った瞬間であった。 その瞬間は、これから色あせず、変わる事ないもの。 その人らしさ、美しさ、それを残していくために、私はその人を知る事をやめない。 photo:Mukae Yuka coordi:Fujita Haruka LIFESTUDIO NAGOYA
be loved…
2016/1/31
0
『記憶の、記録』。 新生児の撮影を行いながら、いつも意識しています。 自分の意志で覚えていようとすることができない時期、ごくわずかな間の、まだひとりでは何もできない時期に、ただただ愛された、その記憶。あるいは、眠い目をこすりながら夜泣きする我が子をあやし、自らの何もかもを置いてひたすら心を注いだ時期、ただただ愛した、その記憶。それを確かな記録として、残す為に。 写真は正直なものです。 目の前にある、その現実しか写すことはできません。ヒト、モノ、ヒカリ、レンズの前にあるそれらはただその物質として、カメラという機械に無感情に処理されて、数値として弾き出されたその通りに写ります。ただシャッターを押すだけであれば。 しかし、写真を写すこの機械を扱うのは『ひと』であり、できあがった写真を見るのも『ひと』です。『ひと』には心があり、主観があり、感情があります。写真を写す、この機械を私たちは扱いながら、心や感情を反映させるべく四苦八苦しています。 家族写真において、機械的な記録など、欲しいとは思いません。欲しいのは、『心』が感じられるもの。『ひと』はそういうものを美しいと感じ、価値を感じ、残しておきたい、共有したいと思うのではないでしょうか。 母と子の姿を美しいと思うのは、そこに『愛』があると感じるからです。 母親が我が子に向ける愛情は、ただただ一心に注がれるもので、自らの何もかもを置いて受け入れようとするその姿勢、その関係性が、美しいと感じさせる。愛を与えるひとを、私たちは美しいと感じます。 では、目の前の母と子に、その美しさを感じた時、私たちはどのようにそれを記録すれば良いのでしょうか。 ただシャッターを押す、それだけでは、この美しいと感じる心は、きっと残らない。 眠気で愚図る赤ちゃんに対して、母親はむしろそれを喜ぶようにあやし、包み込むように抱きました。母の鼓動を感じる位置で、赤ちゃんは落ち着きを取り戻し、微睡み始めます。(この後眠ります) 母の優しい微笑みと、すべてを委ねて包み込まれるBaby。その穏やかな空気感を残したくて、横写真で被写体と空間をフレーミングしました。新横浜店のレースの天蓋は、『柔らかさ』に視覚的に一役買ってくれます。この時は、前ボケを入れることで、光で飛んでしまう薄いレースのドレープ感を『柔らかさ』として残しました。はだかの肌の質感や、その体温を感じる色味を残せるように露出を合わせて、ゆっくりとゆらゆら揺れる動きの表現として少しカメラを振りました。 この時の、母と子の姿の美しさを表現するにあたり、これが唯一の正解ではないかもしれません。しかし、その場にカメラを持って立っていた自分は、自らの中の拙い技術やイメージや想いを引っ張り出して繋ぎ合わせて、こういう構成をしました。『わたし』という『ひと』の主観であり、感情であり、心が反映されています。しかしそれは、特にこの1年間、集中してBabyを見詰め続けた経験に依るものであり、ともすればクローズアップに終始して『Baby』と『空間』を関係づけることができなかった自らの写真において、ひとつの新しさをもった表現になりました。 心があり、主観があり、感情がある『ひと』として、愛を感じる『ひと』の姿を記録します。 残したいという価値を感じ、美しく表現したその記録は、1時間後に母の涙を誘い、1年後に懐かしく思い起こされ、10年後に愛おしい記憶となり、20年後に掛け替えのない宝物になれるでしょうか。 ただただ主観に依るのではなく、そこに普遍的な価値観を伴ってこそ、記録はその価値を持ちます。 自分の心が、主観が、感情が、目の前の『ひと』に寄り添っていられるように。深く、深く見詰めたいと思っています。 Life studio No,17 Shinyokohama photo by Reiri, / coodi by shie
声はつなぐ
2016/1/31
0
Photo by Chiba Codi by Younseong JIYUGAOKA baby.kids.七五三.maternityと私達は日々撮影をしたくさんの方々に挨拶をし、感謝します。 そのあるジャンルの中で一番感慨深いのがbabyの撮影ではないかと最近思います。 愛おしい瞳、手を触れたくなるほっぺ、どれをとっても魅力的で神秘的なオーラを放ちそれはどの赤ちゃんも皆平等に持っています。 そんな文章を書いている私も元赤ちゃんで赤ちゃんとしては大先輩にあたるのですがその時の赤ちゃん時代の経験談など話せもしないので学んで赤ちゃんとは何か知っていかなければなりません。 世界共通の対応というものがあります。 それは赤ちゃんに対して大人は高い声を出し声をかける事です。どんな大男でも赤ちゃんを前にすると高い声を出します。それは母親の声に近づけるためや自分自身赤ちゃんの頃は高い声を出していたであろうことからそういった対応をするなど諸説あるますが、単純に赤ちゃんの耳は高い周波数の音に対して反応しやすいという理由によるものです。高い音のおもちゃが多く存在するのもその理由ですね。 この日もそうでした。 私(私達)は高い声を出し、母親も声をかけ、私の後ろの父親も高い声を出しみんなでその子に声をかけます。もちろん全員が喜んでほしい、笑ってほしいと願いを込めて。その瞬間は一体となりbabyなりのbabyだからこその神聖な空間になります。 この光景、スタジオで働いていると当たり前になってくるこの光景を私は大切にしていきたい。 赤ちゃんにとってもっとも居心地の良い声は母親の声であり、父親の声です。私達がかける声はその子へ向けていると同時にその場にいる母親や父親へ向けているとも言えます。 赤ちゃんにとっても親御さんにとっても居心地の良さの提供のために言葉を通し行動し空間を作っていかなければなりません。 その家族にとって嬉しいと思う事は何か、そのために私達が何をしたら良いのか。 それは相手を知り、私達が表現できることを整理する事。 目だけでは足らず行動だけでも足らず、その日にどれだけの事を声にし、知ることと知ってもらう事がどれほど大切であるかを極め残していく事が一番大切なことではないでしょうか。その声がなければコーディとの撮影も親御さんのニーズにも応えられずどこか孤独な写真となってしまいます。 人生の写真館ならではの声の掛け合いを大切にしてまたシャッターを押していきたい。
enfold
2016/1/31
1
被写体をフレームに収める際に、常に思う 今この瞬間は、「記録」なのだろうか?「記憶」なのだろうか? 目の前にいる、この人の瞬間は自発的に動かしている時間なのだろうか? それとも、受動的に動いている時間なのだろうか?と・・ 撮影者と、コーディネーターと、被写体と、ご家族とのつながりが 出来るように、細い糸を手繰りながら、その人らしさやを見つけていく事 で、その時間を見つけようと常に模索している。 75cutを記録と記憶をごちゃ混ぜにしながら、 今の成長や、しぐさ、被写体の気持ちを、全て「包む」ことが出来たら どんなに美しいだろうか。 そして、それが75cutから、150cutになり、225cutになり、 今までしてきた事、初めて出来たこと、表情、その年齢のらしさ、成長、 それらの人生をこれだけで表現出来たのなら、 きっとその先に、撮影する行為をしなくなるかもしれない。 それが自分の希望であり、目標である。 In Shimokitazawa Photo : Suzuki Codi : Ishikawa
舞台に立つ。
2016/1/31
6
人は「その人」でしかない。 私は私以外の人間ではないし、私の代わりは誰もいない。 人はいつだって、「そこ」に立っているのは自分ひとりだ。 自分という人間を生きられるのは、自分しかいない。 けれど、生きること自体は誰にも代われないひとりきりのものでも、自分という人間の周りにはたくさんの人であふれ、 たくさんの人の愛に包まれている。 人生という舞台に立つのはひとりきりでも、それを見守り支えてくれる存在はそれは多くの人々がいるのである。 そうした人々に愛されながら、豊かな人生を歩めることが出来ればなんと幸せなことであろうか。 まだ両手で数えられる程の人生を歩んでいる彼女も、きっと「ひとりきりの舞台」に緊張していたことだろう。 家族に見守られながら「写真を撮る」と舞台に立つということ。 これは彼女にどういった影響を与えているのだろうか。 彼女の心情にどのような変化が起こるのだろうか。 非日常的な行動―写真を撮るということ―に対する緊張、強張り、高揚、羞恥… 彼女の中に一体いくつの感情が生まれ消えていったのだろうか。 そうした様々な感情からその時際立っていた「緊張」のうかがえるその表情は、 凛とした彼女の魅力をより引き出していると思った。 薄暗い中で光の方をまっすぐ見つめるまなざし。 「女の子」を撮影する時、少女らしい、この先続く未来や可能性、希望をイメージし光に包まれた写真を撮影することが多いが、 この子にはそれとは違う印象を抱いた。 恥ずかしさから見せる笑顔の狭間に、憂いを帯びた表情を見た。 以前からこの場所で、自然光のみを使い、静かで落ち着きのある写真を撮りたいと思っていた。 そこへ彼女という被写体が現れ、この衣裳を纏い、僅かながら緊張した面持ちであった。 私の中にあったイメージとぴたりと一致し、挑戦してみたいという意欲に駆られたのだ。 結果として、幼女から少女へと変化する彼女の過程をうまく表現出来たと思う。 画面全体のまとまりとして暗くなり過ぎず、大人っぽい雰囲気を孕みつつ、 被写体のその表情はまだ幼さの残る絶妙なバランス。 舞台に立つ、という言葉がよく似合うと思った。 表情は左側には光が当たっているが、右側は暗く影になっていてよくわからない。 人間という生き物そのものを表現したかった。 周りに見えて(見せて)いるのは、その人のほんの一部分でしかない。 彼女の見えている部分の表情と、影になりよく見えていない部分の表情。 少し下がっている眉は不安気な印象を与えるが、光の方向を見ることにより入ってくるキャッチライトは、 彼女の右目に力を与えている。 これから立つ、様々な「舞台」を見据え彼女は何を思うのだろうか。 撮影をしているこの瞬間、この舞台で、彼女は主役になるために様々な感情と戦っているだろう。 けれどどんな感情がどれだけ溢れて来ても、見守る家族の溢れる愛には敵わない。 撮影中の温かな雰囲気と正反対の1枚。 ひとり、だけれど、ひとりではない。 彼女が演じた「舞台」は、愛に包まれながら存在している。 Photo:Miyahara Coodi:Shibata in Lifestudio NAGOYA
It's my life
2016/1/30
0
It's my life 誰でも自分の人生を幸せにしたいです。 幸せの基準も互いに違うと思います。 私が幸せを感じる時は撮影で集中しているときです。 最近の撮影をしながら、このようなことをよく考えています。 お客様がどのような部分を大切するのか、何を求めているのか、 要求される部分を私は満足させられるのかを考えています。 そして、可能ならば、私はすることができる努力をします。 持っているすべての技術を使って、さまざまな写真を撮影します。 私ができるすべての技術を使っても、それで完璧ではないんです。 撮影では、写真の完成度を高めてくれる役割をするコーディネーター、アシスト技術がうまく組み合わせて行われれば、撮影の満足度は高くなります。 常に誰かの助けを受けながら撮影をしており、助けを求めています。 そしてお客様として来た子供の様子を観察します。 この子の年齢は8歳。 何を言ってすればいいのだろうか、 写真を撮影することは好きか、 今の気持ちはいいのか、 気分を良くどのように作ることができる方法について悩んでいます。 子供が徐々に心の扉を開いて笑いを示すとき。 自分の持っている美しい姿を表現してくれるとき、 私は楽しく、幸せです。 そして、写真撮影が終わって一緒にモニターを見るとき 子供の母親と子供たちが楽しい表情をして喜ぶとき 私は幸せです。 毎日の幸福感を感じるために努力します。 私が持っている技術は、充分なのかどうか悩みます。 お客様を楽しませるための方法は何だろうか。 子供の心のドアを開くためには、どのような言葉をするか。 すべてのものに正解はありません。 私は撮影をする瞬間のすべての条件と技術をすべて見ることができるよう常に準備して確認して埋めていくだけが可能になります。 待ちます。 毎日のお客様が、子供がどのような子供なのか期待しながら待っています。 その子だけの姿を探したい欲に撮影に入ります。 そして待ちます。 その子が心の扉を開く時を待つのです。 Photo by cho Coordinate by kudo in Urayasu
また来てくれる家族がいるから前に進める
2016/1/30
4
Life studio kokubunji Photo:gakkii Codi:saori 私は、自分自身の撮影技術がスーパープロと未だ言い切る事は出来ない。 おそらく撮影技術の向上にゴールは無いと思う。 そんな長い道のりを前に突き動かすのは、自分自身への叱咤激励ではなく、 何か名声を勝ち取りたいからでもなく、 来て下さったご家族、ちびっこ達がもしまた来てくれた時に、 もっともっとありのままの姿をファインダーを通して綺麗に彩りたいからこそ、 成長しなければと思うのです。 撮影後、一緒に写真を見て、笑ったり、泣きそうになったり、成長を実感したり。 またきてねーと送り出して、家に帰って考える。 また、来てくれたら今度はこんな感じで撮ってやる!!、、と。 今度の撮影は、あの子のほっぺのやわらかさがしっかり伝わる写真を撮影してやる!!、、、と。 そんな一年越しの撮影。 前回はコーディネータでお手伝いをしていたので、カメラマンでそれを残すことが楽しくて仕方が無かった。 撮影はその空間にいる人達を繋ぐ、その空間を彩る手段でしかない。 しかし、私が目指す全員を繋ぐ幸せな空間を作る為には、前に進む事以外、近道は無い。 また遊びに来てくれる、ご家族のために。。
目に見える世界
2016/1/28
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目に見える世界 Photo by Ta-na- Coordinate by Oikawa in Urayasu 私達は、写真を毎日撮影しています。 写真を撮影する為に「写真」や「カメラの構造」そして「技術」の話なども、もちろんしますが、 様々な視点から「写真を撮影するということ」に対してを考え模索する教育を今まで行ってきました。 私達は、「人」を毎日撮影しています。 「人」を撮影するという事についての教育の題材として私達は「哲学」を学ぶという事を行ってきました。 「哲学」を学ぶこと=「写真を撮影すること」=お客様が喜んでくれる という方程式に最初はなかなかたどり着けなかった私ではありましたが、哲学を学ぶ意味の一つに、 「自身の哲学を持つこと」がこの場所では求められているということを感じる事が出来ました。 「あなたは、どんな写真が好きですか?」 という質問に対してのそれぞれの口から飛び出す「答え」の中に、それぞれの「哲学」が隠されていると 感じるようになってから、この場所で求められている写真は「綺麗な写真」ではなく「美しい写真」であると いう事に気づきました。 「綺麗」さと「美しさ」は似ているようで異なる、と私は考えます。 見たままの綺麗さではなく、「美しさ」は「内面から引き出す」事で初めて表現することが出来ると私は考えています。 その「内面から引き出す」という事に全てではないかもしれませんが、「哲学」が必要とされるという事を常に感じながら 現場にいます。 自分の哲学を持つこと。 それは、自分の「意思」を持つこと。伝えること。 ですが、これが時に自身の足を不自由にしてしまう原因になる場合もあります。 それは、「~であるから、~でなければならない。」という自身の「美しさの定義」のみしか見えなくなってしまうと、 「~でなければ美しく表現することは出来ない」と考えてしまい、相手に対して新しい提案をすることや互いに新しい 発見をすることが出来なくなってしまうこともあるということも痛感しました。 「~を言ったら失礼だと思われてしまうかもしれない。」 「自分が相手の立場だったら今こんな事を提案したら恥ずかしくて少し嫌な気持ちになるかもしれない。」 時に、私自身もこのような思考に陥り自然と自身が信じる哲学だけに頼り、自身が知る光景のみを無意識に組み立て 作り上げた空間の中に相手を誘導してしまう事があります。 分かりやすく表現すると、時に「哲学」は自身の中での「固定概念」へ変化してしまい、それ以外の概念を受け入れることに対して拒否反応を起こしてしまうことがあるということでした。 そんな「固定概念」を崩すことが出来るのも、自分以外の「哲学」つまり、相手からの「投げかけ」なのですが・・・。 この撮影の際も、無意識に私はそんな自分の哲学に頼っていました。 私自身、ライフスタジオの持つ概念と自分自身の概念として一致している部分は数多くありますが、 「楽しみの空間」という概念を一番に考え撮影に臨んでいます。 (全部大切なんですけどね) なので、その現場に存在している私を含む「人々」が「楽しく」なければ、この場所を選んでくれた意味がないと 考えていました。 「楽しませたい。」そのためには、まずは「自分が楽しむこと。」 これが、私の哲学です。 なので、「相手が楽しくないことはしたくない。」ので、「自分が自信がないことは提案することは出来ない」のでした。 いつも通り、この撮影もとっても楽しく撮影をしていました。 笑顔が絶えなくて、その場にいる皆の「楽しい」という温度を私なりにとても感じながら撮影をしていました。 撮影を終えようとした瞬間に、一緒に撮影を盛り上げてくれていたコーディネーターを担当してくれていた及川さんこと、 おいちゃんがこう私に言いました。 「ターナーさん!ひとつだけ、私の希望を聞いてもらえませんか?」 「なんだなんだ???」 すると、おいちゃんはパパとママの顔を見ながらこう提案を投げかけたのでした。 「せっかくなので、夫婦写真撮影しませんか?だって、本当に素敵な雰囲気なので。」 夫婦写真を撮影すること。私の中でかつて、自信を持って提案していたことの一つでした。 なぜなら、撮影をするにあたり一人だけが主役ではなく、「家族皆が主役」になれるような空間を作ることが私の中での「楽しい空間」の概念の一つであり、「皆で楽しむ」という哲学にちなんでいたからです。 ですが、私はいつの間にか、ここ最近「夫婦写真を撮影する」という提案を無意識に避けていました。 なぜなら、「断られてしまうのではなか?」という思い込みつまり、「夫婦写真はあまり皆、好んで撮影をしない」という 固定概念をとても数の少ないデータの中で生み出してしまい、「夫婦写真を撮影するのは、相手からの要望があったら 撮影をしよう」という結論に結び付けていたからでした。 久しぶりの夫婦写真を撮影するという提案。パパとママはどんな反応をするだろう? 少しだけ、ドキドキしながらおいちゃんに提案されたパパとママの答えを待っていると、お二人はすぐに笑顔になり 「いいんですか?!・・・それなら少しだけ撮影してもらおうか!」と答えてくれました。 撮影を進めながらも、最初からとても仲が良い雰囲気のお2人でしたが。さらにおいちゃんはお2人に声を投げかけます。 「そのまま良かったら、キスしちゃってもいいんですよ~(笑)」 なかなか、私の中では投げかける事が出来ずにいた声賭けでした(笑) なぜなら、私が相手だったら恥ずかしすぎて、表情が少し曇るからです。 私の中での「哲学」と「固定概念」が一瞬で崩された瞬間、それが、おいちゃんの声賭けをきいた際に出た二人のこの 笑顔でした。 哲学を持つこと。それ自体、本当にとても大切なことです。 哲学を持つことが出来なければ、相手の考えを引き出すことも、相手に対して自身の想いを伝えることも出来ない、 そう感じています。ですが、その自分が「これが私の哲学である」と定義づけをしたものが、時に自身を不自由にして しまう「固定概念」になってしまった時。 その概念を、崩して「私はこう思うよ」と投げかけてくれるのも、相手の持つ「哲学」であると気づかされました。 自分では気づくことが出来ない「潜在意識」に訴えてくれることは、相手からの提案つまり「哲学」や「人生論」なのだと いうことを。 自分では見ることが出来なかった新しい景色や感情に触れた瞬間に、初めて私達は共に「感動」をするのであり、 「共感」をすることができるのだと。 2人の笑顔に心を打たれた私と、写真を見た後に口にしてくれたパパとママの「大満足です。本当に楽しくて最高でした。」の言葉も。撮影後の、おいちゃんの「夫婦写真、めちゃくちゃ雰囲気良かったですね!」の言葉が。 私自身も「感動」することが出来た体験となったのでした。 様々な、自身が持つ「哲学」を提示しあうことが出来る空間で生まれる写真に映し出されているものが、一人だけの 「人生の物語」ではなく、「それぞれの人生の物語」であるならば、私達が「人生の写真館」と名乗る理由の一つである と再確認することが出来ました。 ライフスタジオ。直訳して「人生の写真館」。 一人では映し出すことが出来ない「美しさ」の要素は、互いの「哲学」を組み合わせることにあると私は考えます。 だからこそ、私達は常に「これで間違いない!」と定義付けをする為に学ぶのではなく、新しい「主観」という物語に 出会うために、日々学び続けることが求められてるのです。 この場所が、互いに自然体であることと同じように、互いの「哲学」という「生き方」を表現しあうことを心から楽しみ 合えるような場所であることを求め続けると同時に、作り続けて生きたいと感じました。 学ぶ事が、自身の中で「学びたい」に変化した時には、また自身の中で新たなる選択肢と新たなる表現方法が 増えているんだろうなあ。 おいちゃん、ありがとうございました(^^)
『タイムカプセル』
2016/1/20
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『タイムカプセル』 photo by Shurei codi by Kazumi 毎日たくさんのご家族に出会い、その数だけたくさんの人生と想いに触れています。 どのような関係性でどのような想いを持っているのか。 私はそれをそっと感じながら静かにあたたかい気持ちになる瞬間が大好きです。 そしてその気持ちは、ときに撮影をとおして出会った子供たちをみながら自分自身へも向けられて、 想像を超えた子供たちのアクションに心動かされ、また翻弄されながら、 自分がこのぐらいの年齢の時はどんな様子だったのだろうとかどんなことを感じていたのだろうと思うことがあります。 そんなとき私にとって戻る場所のひとつが母が大切にのこしてくれた数冊の写真アルバムになりました。 1年前の年末に10年ぶりくらいにひらいて、写真をライフワークにしていながらそれまで自分自身はなぜもっと大切にしてこなかったんだろうと恥ずかしい気持ちがおきましたが、物事にはきっとタイミングというものがあるのでしょう。 うまれたころからのアルバムを見返すとそこには母の想いがいっぱいつまっています。 私は長女だから妹のそれよりもアルバムの厚さがすこしだけ分厚いことに気が付いて、そこはいつの時代も同じなのだなと失笑しながら。 その重たいアルバムの中にはたくさんの写真があり、一枚一枚の写真の下には撮影日、撮影場所と、そして母の気持ちがひとことが添えられ、マメな母の性格がこんなところにも表れているなあと感心しながらページをめくるのです。 すこしだけ茶色く変色した写真のなかで、みんだで笑っていてたり私だけ大号泣していたり。 はじめての父とのお風呂 はじめての歩行器 はじめてのたっち 日常もイベント事も、そこには『家族の歴史』がたくさん詰まっています。 父と母にも若い頃があり、初めての子どもを授かって、そこには喜びも不安も葛藤もたくさんあったことでしょう。 月日を経て自分が大人になったからこそ想像することができる、そのころの情景・心情。 写真に添えられた短い一言が、想像をよりリアルにします。 その1枚1枚から伝わってくるもの。 それは 『あぁ。私はこんなにも大切に想われ、たくさん愛されていたんだ』 ということ。 写真を目にすることで、時が経ってふれることができる親の想いや愛情は、まるで愛がつめこまれたタイムカプセルのように、今の私の心に届きます。 あぁ。なんて素敵なことなのでしょう。 写真をとおして過去から現在へ愛されていると再認識すること。 それは私という存在を、より一層尊く感じることができるということ。 時が過ぎれば過ぎるほどより大きな愛となって。 きっと写真がもつ価値はそういうことなのだと思います。 写真の価値は記録だけではありません。 もっと深い大きな価値があること。 いつか子供たちにもそんなふうに昔の自分を振り返る瞬間がくるかもしれないのだなあと思うと、 今こうして出会うことができたパパさんママさんへ、私が出来ることでお手伝いをしようという気持ちがこみ上げてきます。 753のお祝い。 3歳のお祝いをこうして無事に迎えられる喜び。 このお着物をご用意してくれたパパさんママさんの想い。 写真のなかにのこる3歳の彼女の笑顔は、数年後どんなミラクルをおこすのでしょう。 愛のカタチをたくさん残しましょう。 愛のキモチをたくさんたくさん残しましょう。 未来の我が子へのタイムカプセルを。 写真の価値を信じている。 だから私は今日もこうしてこの場所にいるのだと思います。 kazumi
I→You→We
2016/1/16
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草加店写真 人に写真に自分自身に深く入っていきたい。 私達ライフスタジオは何を主題に出発したのだろうか? もう一度自分自身に問いかけてみようと思う。 なぜならばそこにライフスタジオの存在理由が大きく影響しているからだ。 私はやはりこの一文字が思い浮かんだ・・・「人」である。 2015年の5月10日にライフスタジオと2013年体制というプロジェクトにおいての重要な決定がなされた。 中央で掴んでいた紐を放し、そこから始まっていた事業を全て中断することになった。そして最初からもう一度始めるというスローガンを掲げライフスタジオにおける可能性を模索することとなった。 この決定がチャンスなのかピンチなのかという議論も多くなされた。それに対して私が所属する草加店はその決定をチャンスであると肯定的な意味で捉えた。 そして私達はどこから道を見失ったのかという問いに対する評価反省をすると共にもう一度ライフスタジオが存在する理由を自らが証明しなければいけないという使命感を持っていた。 その使命感に対して、草加店がもう一度規定した主題が「実践」である。 つまり、ライフスタジオの主題である「人」に対して「実践」をする集団になることを目的としてSoka3は出発したのだった。 よってこの「実践」というキーワードが草加店を成り立たせる全ての構成要素と連結された。 それに加えて私たちがもう一度歩き出すために必要な準備と目的達成の為の具体的な目標とその目標の達成が見える化できる重要なプロジェクトも立ち上がったのだった。 それが「シックスパックプロジェクト」である。 このプロジェクトは半年間行われた。単純計算でいうと365日の半分なので182日間だ。 しかしシックスパックの成功はこれが持続的になされライフスタジオのベースになることが最終目的であるのでまだまだまだ沢山の努力が必要だと考える。 なので一旦は個人の目線でこのシックスパックの規定をしてみたいと思う。 「私にとってシックスパックを行う目的は価値を創造する人になる為であり・・・それをシックスパックという実践するプロジェクトを推進することによりチームワークという達成感と組織に対する可能性を感じ新しいエネルギーを蓄えることができた」という一文に規定した。 私はこのシックスパックプロジェクトを通じてなぜ変化発展プログラムが各自に装着されなければいけない理由を体感できた。それは何かというと変化の根源は「私」に集中することから始まる。 だから私が私を見つめなければいけないのだ。 それが人間らしく生きるという私達のスローガンにもっとも重要ではないかと考えた。 次にシックスパックとフォトジェニックの関係に着目したいと思う。 マンスリーフォトジェニックとはライフスタジオを代表する写真であり、ライフスタジオの今を規定する決定的な写真であると考える。そして各店舗のカメラマンが自由に表現し共有されるコミュニティがフォトジェニックである。つまり、フォトジェニックのページを確認すればライフスタジオが今どこで何をしているのかを知ることができるひとつのツールである。 シックスパックが実践と規定されるのであれば、フォトジェニックは責任と規定したい。 ライフスタジオの写真は常に変化発展がなされ自由な表現をできる企業でありその自由が与えられているということはそこで働く私たちも、そこで過ごすお客様も皆そのようにいることが自然でなければならない。 もちろん自由には責任と権限が付随する。私が考えるにフォトジェニックに対して実践していくということは、責任を果たしているという証明に繋がると考える。 なぜならば、写真は一つの結果物でありそれに対して公式的にホームページ内で表現をするということは自由の中に生き、それに含まれる責任を果たして、自分自身がライフスタジオで働いているということ堂々と示す役割でもある。 だから毎月フォトジェニックに写真を投稿するのは一回やればいいというわけではない。 毎月それに対して考え、時には悩み、仲間と写真討論を行ない、日々の撮影に意欲的にならなければいけない。 そういった意味でシックスパックというプロジェクトはその意欲を組織的に生み出すことを目指し効果的に成果を生み出すことができる。また、それを持続させる持続力も推進することができる。 冒頭で話したが、変化の根源は私に集中することから始まる。 つまり、社会の中で私らしく生きるためには自由の中にある責任を果たし堂々とそこで働き、 自分自身のために自己実現を目指すことが望ましいと考える。 次に話したい内容は、あなたについてである。 先ほどシックスパックプロジェクトをわたしという観点で話してみた。 そして変化の根源は自己の確認から出発するということであった。ならば変化の次は何かという問いが生まれる。 それに対しての模索は以下の規定文章でもう少し話をしていきたいと思う。 「組織の内部文化は学習という形態を用いて知識という共通認識を育まなければいけない」という一文で規定してみた。 この規定に対する補足としては、私が自分自身に向けた矢印を次は自分以外のあなたに向けることによって発展の根源を知る段階にステップアップするのだ。 それを内部文化の規定と混ぜて整理することによって個人(わたし)と組織(あなた)のバランスをどのように融合させるのかという糸口を見出した。 それは普遍的な価値の追求ための絶え間ない努力である。 その努力をわたし達は学習という手段を用いている。過去にも様々なプロジェクトに取り組んできた。 だからこそこの学習を通じて共通の認識が芽生える。それが組織にとっては素晴らしい財産になるしそれが人が発展していくために必要な知識とも連結されるのだ。 そしてその知識は時として理性を働かせる大きな鍵となる。 だからその理性をもってわたしとあなたが結合され結果として内部文化が形成されるのである。 つまりあなたとわたしが何で結合されているのか?という答えがつまり内部文化にならなければいけないのである。 次に内部文化とフォトジェニックの関係についても着目していきたい。 先ほど内部文化は学習を経て学んだ知識を組織の中に適応させて成熟させることにより共通認識になったものであるという話をした。説明が長くて少しややこしい表現をしてしまったが内部文化を完結に言うとわたしとあなたの「つなぎ目」のこと示す。 このつなぎ目の存在をフォトジェニックと連結して考えると私自身もう一度謙虚にならなければということを考えた。 なぜならば、フォトジェニックは撮影者だけが生み出したものではないからだ。 また、写真は私が見えているものしか見えない。つまり撮影行為とは私の認識で有るものも無いかのように過ぎ去ってしまう場合があることを念頭に置かなければいけない。そういった意味で謙虚という単語を用いた。 常に自分の認識わきまえること。そしてその認識は常に不完全であるということを忘れずに・・・。 写真を撮るということは、私と連結していると認識するものはなにか、そしてそのつなぎ目が何かを客観的に理解しそれを写し出す行為ではないだろうか。 例えば、ライフスタジオで代表的に撮影されているオムツ写真を例に話してみよう。 おつむ写真は何から構成されているだろうか?思いつく限り恣意してみよう。 おむつ、あかちゃん、ふとん、照明、自然光、ホリゾント、カメラ、おもちゃ、タオル、よだれを拭くティッシュ、 アシスタント、両親、パソコン、ACDCソフト、CD、CDケース、テレビ、音響設備、ETC・・・ まだまだあげることができるが、ひとつを置いて話してみよう。 おむつ写真で必要なおむつ。このおむつは私の目の前にあるがそれを深く考えてみると様々なことが関わっている。 まず、おむつが存在しているのはおむつを製作、販売している会社があるからだ。 そしてそこで働く人達が居て、子どもの肌にいい素材を取り入れ両親の子育てに一役駆っている。 もし、この社会におむつがなければ、子どもはいつどこでどんな風におしっこやウンチをするか分からないのでそれを親が常に待ってトイレに行かせることが不可能なので、便利なおむつというものがこの世の中に存在しているしている。(多分他の理由もあるがその辺りは割愛させてください) そして、そのおむつは両親の稼いだお金から賄われている。 共働きかどうかによってもその家族の経済力は異なるが私が聞いた話によるとおむつ代というのは非常にかかるらしい。あとは母乳でない人はミルク代も。 病院代や治療費などは保証されているので無償らしい。両親はそんな経済状況から子どもを育てるために日々奮闘している。また、日常的な目線で被写体を見てみると日中は母子家庭のように母と子がマンツーマンな状況が多いだろう。だから外に買い物に行くのもそう簡単なことではない。 大きなおむつを買いに行くのとその他に夕食の材料と・・・・・市役所の手続きや銀行のなんやらで母親も毎日忙しい・・・というような具合でおむつという存在をひとつ見てもわたしの目の前におむつがあるのには様々な背景がある。 その他にもその写真には映し出されていない沢山の人の想いや労力や汗や涙や努力が写真には含まれている。 少なくとも私はそのように目の前に写るものを認識している。 だから沢山シャッターを切っているようで色んな想いや考えを巡らせている。もちろん、撮影のときだけではなく常にそう在らなければならない。 つまり日常的に哲学的思考を持つことが必要なのかもしれない・・・。 今回の写真をおいて話してみると、私は「人」と繋がっているのだと確信した。 私はひとりではない。そしてあなたもひとりではない。 私は私達であり、私達は私なのであるということを理解した。 また、技術的な面で話をすると私は望遠レンズを要約理解できたのではないかと考える。 この写真を見てみると望遠レンズの特徴を掴み私の表現したい人との繋がりをシンプルにそしてストレートに切り取ることができたと考える。 通常望遠レンズの特徴は遠くのものを大きく写すことができる。または引き寄せることができる。 そして、望遠には4つの効果がある。 一つ目は先ほども話したように引き寄せの効果がある。切り取り効果とも表現されるが遠くにいる被写体が近くにいるかのように映し出すことができる。 そしてその特徴を生かすために目に映るものの中から被写体を選んで切り出すということができる。 二つ目に背景ボケがある。レンズが望遠になるほど被写界震度(ピントが合う範囲)が浅くなる。そうすることによってその被写体の背景は大きくぼけることになる。その特徴を生かして背景ボケを使った写真を撮るのも望遠レンズを使ったテクニックとなる。 三つ目に圧縮効果というものがある。この効果は奥行きがない写真になりやすくなる。 簡単に言うと遠近感がなく近くのものと遠くのものがぎゅっと詰まったように見える特徴である。 最後に四つ目の効果は小さな被写体を大きく写すことができる。望遠レンズには引き寄せ効果があると話したがこれを使って小さな被写体を大きく写すマクロレンズのような使い方もできる。 このように望遠レンズから得ることのできる効果を最大限引き出し、今回は今まで撮影してきた兄弟ショットの新しい表現方法に取り組んだ。 通常兄弟ショットというと手を繋いで頭を近づけたりおでこをくっつけたりほっぺたを合わせたり。 もちろんその表現方法も必要である。しかしそこに+αで発展的な写真を75CUTの中で1、2枚加えることによって更に原本の可能性を広げることに繋がったのではないかと思う。 今回の一枚は被写体の存在を引き寄せ、被写体と私達の関係性を表現することを目指した。だから目の前にあったインテリアはあえて省き、空間の中にある距離感を望遠の効果で接近させ、人と人との繋がりをより印象的に表現した。 これが私の限界でもあり今のわたしでもある。しかし、またここから私の限界を自ら越えていかなければならない。 なので、引き続き望遠レンズの特徴は奥が深いので学習をしたり情報収集をしたり 写真の対話を通じて積極的なアプローチを取り組んでいきたい。 次にあなた、わたしと来て次に呼ばれるのが最終的な目的でもある私達である。 では次に私達はなぜ学習をしているのかこの問いに迫っていきたいと思う。 以下の文章は学習に対しての規定文章なのでまずはそれを読んで頂きたい。 「私達は学習を通じて人とは何かという哲学をもつために学習をしている。またその哲学はわたしの人生とあなたの人生そして私達の人生の価値を追求するための原動力になるのだ」 学習という概念の中に読み書き討論というものが存在している。 読むことと書くことは個人でできることである。しかし討論をするときには客観的意見つまりあなたが絶対的に必要なのである。人は一人では生きていけないのと同じように学習も一人ではできないのである。 フォトジェニックも同様である。また、撮影行為そのものも一人では行なえない。 カメラマン一人で撮影することが不可能ではないが私たちが目指す撮影文化とは相反する。 なぜならばライフスタジオの撮影条件として私達は必ず皆が主役になることを基本としている。 主役とはカメラマン、コーディネート、家族一人ひとり。つまりその空間に一緒に居る皆である。 皆が主役にならなければ感動を生み出すことが難しい。 パパもママもドキドキしながら私達スタッフと一緒に汗を書いて75CUTを創り上げていこう。 そして、その汗がやがては涙に変わることを信じてみよう。 その為にももっと人に対して写真に対して、そして自分自身に対して「汗」をかく人になっていくべきである。 まずは自分からを合言葉に・・・。
Two-Faced
2016/1/6
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Photo by volvo Coordinate by ta-na- Lifestudio No.2, URAYASU 写真には二つの物語があると私は考えています。 ひとつはその写真が本来持っているストーリー、もうひとつはその写真を見た人が想像するストーリーです。 写真には見る人に想像させる力があります。 よくドキュメンタリー番組などで流れる戦場の写真などからはその1枚に測り知れない程のストーリーを感じさせます。 写真が見た人に想像力をかき立たせる1番の理由は「一枚の静止画を、人は動画の中の一枚として確認する」からだと私は思います。 言葉を変えれば、一枚の画から過去や未来を想像させるのが写真です。 分かりやすいのが動画との違いです。 動画は、伝えたいことを伝えきることが出来る性質を持っています。 例えばサッカーの試合を90分の動画で見るのと、決定的な1シーンを一枚の写真で見るのとでは点差やメンバーなど伝わる情報量が違います。 ハイビジョンテレビの走査線は1080本あり、1秒間に60回コマ送りをする事で動画として視聴者に伝えたいことを確実に伝える役割を果たしますが、 反対に写真は動いている被写体のほんの一瞬、たったの1枚を切り取る事に核心があり、簡単に言えば「これを見てどう感じるかはあなた次第」感が動画よりもより強くなります。 一方で撮影者は、写真を見る人とは反対でシャッターを切るきっかけを得るために目の前にいる被写体を動画の中の一枚の静止画として捉えようとします。 ファインダーを覗いている時に「あ、今だ」という瞬間を察知する能力は、動いている被写体を一枚の写真として残そうと集中している人にのみ訪れる感覚です。 撮影者と写真を見る人の性質が反対になる理由は、撮影者は「作成者」だからに他なりません。 撮影者は「動画」を見ながら「静止画」を作り、写真を見る人は「静止画」を見て「動画」を想像します。 その撮影者がどの瞬間を切り取る感覚をもっているのか。 5/60なのか43/60なのか。 それは撮影者によって変わり、結果として表現が変わります。 その決断する力は、撮影者の持っているものに委ねられることになります。 先ほどの例で言えば、サッカーの中の1シーンを写真に残したとして、それによってどれくらいの想像を沸かせるかはその内容によります。 決定的なゴールシーンが写っていれば試合結果が予想できますが、芝生だけが写っていても何の写真かよくわかりません。 つまり決定的な一枚の写真は、それだけでその写真の前後を説明することが出来るという事になります。 戦争の写真を見て色々なことを考えてしまうのは、その写真の前後、過去や未来、背景などを見る側が想像してしまうからです。 ところが、想像したものが現実とは違ったりその写真の本質とは違うこともあるかもしれません。ほとんどがそうだと思います。 そもそも私は写真は伝えたいことが必ず見るものへと伝わるものではなく、又伝わり切る必要も無いと思っています。 その写真が伝えたいことはその写真の持つ物語として表現をすればいいし、それを見た人達がどのような物語を想像するか。それもまた自由なのだと思っています。 私達撮影者が精進しなければならないのは、この二つの物語がどれだけ膨らんでいくのかをイメージしてシャッターを押すことではないかと思っています。 私は、被写体のうつむいた姿や、顔の見えないもの、後ろ姿や影などおおよそ写真館とは思えないような写真を撮る事があります。 しかし、必ずではありませんがモニターでこのような写真を見た親御さんは喜んでくれます。 直接喜んでくれる理由を聞いたわけではありませんが、それはただ表情の見えない後ろ姿だからではなく、この一枚の写真から 動画のようなこの一枚の前後にある物語を想像できるような一枚を目指しているからなのではないかと、私は思っています。
Weltanschauung
2015/12/31
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Photo by Chiba Codi by Gahee 私達は思い描いている世界観があります。 それは自分の瞳を通して観ている世界です。その瞳を通して観ている世界とは経験をもとに考えることの出来る範囲であり、他人からの影響で知った範囲であります。『私なりの常識』とでも言えましょう。なのでその世界観とは何億通りもの感性や見方が存在し、また、人と人とが触れあった時に広がっていくものです。 その中でそれが誤りであったということが判明することがあり、それに気づいた時にまたその事柄の真実に気がついていくのだと思います。その繰り返しの中で成長を感じ、それを成長と呼びます。 私達が学んできた全ては論理と確立によるものです。 何事にも『確実に』または『絶対的に』と言い切れることはなく私達はただただその事柄は他の事より正しい可能性が高いということしかわかりませんし、そう判断するしかありません。ゆえに私達は毎日同じ場所で、同じ時間帯で撮影しながら変化を求め前へと進むために考えもがく日々を送っているのかと思います。少なくとも私はそういった日々を過ごしています。そのもがく時間こそ人生におけるターニングポイントであり、それが大きかろうが小さかろうが越えるべき壁は多く存在していると考えられます。被写体のコンディション、イメージ不足、撮影の流れ、ファインダー越しに見た画角、被写体の姿勢、被写体へのアプローチ、そして私自身のポテンシャル。人それぞれで様々ですが常に課題が降ってくるようで自分の撮影中の過ごし方はどうすればよりよく出来るのか反省の日々でもあります。だからこそ写真は人を教育してくれます。写真の面白味とはそういう所だと感じますし、そのためにこれまで学んできた全てを少しづつ修正していくのだと思います。 たくさんの事を知って、たくさんの好きなものをみて自分自身の物の見方の正しさの確立をあげ自分が人の経験値となれる様にし、私も相手も豊かにして行こうと思いました。 これまで同じ場所で何度も撮影してきた中で発見した新しい被写体の見方がありました。固定概念が強い場合に、存在した写真しか残せないこと。それが問題になってきます。つまりはそこ止まりの世界観だったということ。場合によってはそれが世界観とも言えるのかも知れませんが常に前に進むためには沢山の知識と技術を手にしなければなりません。 自分の中でしかない世界観。 相手にも世界観はあるにも関わらずそこに気付けなかった。 おそらく『らしさ』を写す勘違いだったのかもしれません。 もちろん、自分の世界観は大切にしていきたい。また相手が居てこその写真ということを大切にしていきたい。 その大きくも小さい葛藤を私は埋めて生きたいです。 彼女は4度目の撮影で余裕がありました。10歳であり2人の妹弟がいる長女である。家族の話をたくさんしてくれました。話し方、振る舞い、全てに置いて余裕がありました。家族の前ではお姉さんとして、そして一人の時は一人の女性として。彼女の印象が美しい女性で、10歳ながら大人の様であればそのとおりに残したい。 接してわかる彼女の世界観を写せるように私は彼女を、彼女は私を知れるようにと。撮られる彼女が自分を好きになれる面をみいだせる様にと。
2015.12.31. 23:08
2015/12/31
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2015.12.31. 23:08 ライフスタジオで写真を撮影し始めてから 6年という時間が過ぎています。 長い間、撮影をしたからと言って 私が撮影がうまいと言いたいのではありません。 撮影を初めてする人も 長い間撮影をした人も すべて自分が持っている技術をさらに 発展させようと努力します。 そのような行動は、プロだと思うなら、 75cutを撮影をするカメラマンの宿命と思います。 技術も発展させることも重要だが、 私が持っている考え、 私の哲学、 相手を配慮する気持ち、 私が持っている価値観、 そして、内面的な成長・発展にも努力する ことが必要だと思います。 それぞれ、こういった必要なことを努力しているのですが、 私の経験を話してみたいと思います。 技術をうまく活用することも重要だが、 私の撮影したお客様をもう一度考えて 配慮する行動がより美しい姿だと思います。 だから、私は緊張をせずに自然な雰囲気の中で撮影をしたいです。 また、お客様が撮影を終えて家に帰る途中で 「今日楽しい一日でした」という 言葉をくれるときすごくうれしいです。 この写真をフォトジェニックにアップする理由は、 私の撮影した写真ですが、 浦安店の仲間たちがこの写真をアップしたら良いという意見をくれたからです。 同僚がくれた言葉は、 「子供の目に力がある」 また、「写真がシンプルでありながら強烈だ」ということでした。 ところが、私は撮影しながら、集中したのは、 ただ一つでした。 光が非常に良かったのです。 光を活かした、明るい感じ。 子供の希望的な姿を表現したかった。 私のイメージと仲間たちが言ってくれたイメージは、異なる場合もあります。 また、子供の両親が私とは異なって感じるかもしれません。 同僚の意見を聞いて、 私が思ったのは、 同僚が私の写真の良さを見つけてふくらませてくれたので、 私の写真の技術をさらに発展させなければという気持ちになりました。 写真をもっと良く撮りたいです。 バランスをよく維持しながら、 成長、発展したい欲があります。 私の撮影したお客様に、 もっと上手く撮ることができればという申し訳ない気持ちと、 撮影に来てくださった感謝の気持ちを伝えます。 2015年も終わりに近づいています。 今、この瞬間は戻ることは出来ません。 時間・記憶・思い出、私には大切な言葉です。 一緒に頑張った仲間たち。 スタジオを訪ねてきてくださった方々に感謝の気持ちを伝えます。 Life Studio urayasu Photo by cho, /coodi by yatsu
Emotion,
2015/12/31
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あなたが大切だと思うものを、私も大切にとっておきたい。 私がシャッターを切る理由は、これに尽きるのかも知れません。 この瞬間、1/100秒のこの瞬間が、いつか遠い未来で宝物になるかも知れない。そんな可能性がちょっとでもあるなら、もう撮りに戻って来られないのだから、記録しておかなければならないと思うのです。 こんなに小さい新生児の姿も、ママの微笑みも、この日の光も、すべてはカメラを構えたその瞬間から過去になっていきます。 こんなに綺麗なもの、可愛いひと、その姿。 『生きている』からこそ、変化して、成長して、過ぎ去っていくのだけれど、その瞬間の記憶は印象だけが残り、上書きされ続けるうちにそれすら曖昧になっていきます。 だから、『思い出』という主観を『写真』という記録にしたくなるのです。 ライフスタジオの写真は、『美しい思い出の記録』です。 私たちは、写真を撮りに来たお客様に、商品としての写真を撮ってお金をいただいて終わるだけの撮影はしていません。『思い出』はその時過ごした空間のすべてが構成する記憶であり、その時の出来事、そこにいた人、その時の温度、匂い、感情…そういった様々なものを含んで作られる、客観的なものを受け取った自分自身の主観です。『美しい思い出』には、そこに共にいた人との共感や信頼、楽しみ、愛情、等の心が揺れるような感情の昂りが必要であり、私たち撮影者は、そこにおいてはお客様の『美しい思い出』を構成する一部でもあります。 『写真館に写真を撮りに行った』という、行事としての行為もまた一種の『思い出』ではあるでしょう。しかしそれが、『美しい思い出』になるかどうかは、そこで心が揺さぶられるような昂りあったかどうかではないでしょうか。 私たちは、ここに来た子どもたちに、そのパパやママに、『美しい思い出』としての時間を楽しんでいただけるように、関係性を構築します。『スタジオに来たお客様』と『スタジオのスタッフ』、ただそれだけで終わる商業的な関係では、そこに感情の昂りが生まれることはないでしょう。 私は『わたし』として、お客様として出会ったファミリーはその『ひと』として、その時一緒に過ごす時間を共に楽しめる関係性を作ること。それが、私たちの撮影をより自由にし、価値を作ることに繋がっていくのだと思っています。 私には子どもがいませんが、ライフスタジオでカメラを持って4年、毎年撮影させてもらっている女の子がいます。 初めて出会った時は、彼女は1歳でした。彼女はニコニコでご機嫌で、撮影をしているうちに彼女の生まれた時間を迎え、カメラを構えたままバースデーソングを歌っていました。 あの時は、つかまり立ちがやっとだった赤ちゃんの姿から、4歳になった彼女の姿を想像することはできませんでした。しかし、今こうして思い返す時に、この4年分の彼女と彼女のパパさんママさんとの撮影の思い出が、いつも鮮明に蘇ってきます。そして、1歳の時の写真がより価値を持つように感じます。 もう、彼女の歯は生えそろっているし、自分の足でしっかり立って走ることもできるし、私とお話もできます。もう、あのよちよち歩きだった頃の彼女に会うことはありません。その変化と成長を喜びながら、それでも昔一緒に過ごした時間を、その時の姿を、思い出を、確認して振り返ることができるのが写真であって、私はそれを残せていて良かったと、本当に思うことができます。 だからこそ今、毎日Babyたちの写真を『美しい思い出の記録』として残すことに、本当に真摯に向き合っています。 撮影が始まれば、今この瞬間に、このBabyの、この家族の思い出を残せるのが自分であることのプレッシャーを感じながら、それでも今自分が感じている写真の価値を、未来へ繋げたいと願っています。 変わっていくもの、留めおけないもの、その今だけの姿を、記憶と共に記録するという価値。それは、『美しい思い出』を『美しい記録』として残すということです。 『美しい記録』は、関係性によって作られたこの空間を、カメラという機械の様々な機能・効果を用いて、普遍的な意味を持って表現しなければなりません。『美しい記録』、それには唯一の正解はありませんが、少なくともそこに感情の昂りが感じられるものが、そうであるのではないかと思っています。 そして何より、『美しい思い出の記録』は、撮影者である私にとってもそうなのです。 この日の光も、この小さな赤ちゃんの姿も、ママの微笑みも。カメラを構えた私の感情の昂りも、その様子にパパさんもママさんもずっと笑ってくれていたことも、そのすべてが、この日の記憶を構成し、『美しい思い出』となります。 私は彼らの思い出の一部であり、彼らの撮影が私の思い出でもあります。 相互に感情の昂りを共有し、共感し、同じ時間を共に過ごした関係性が、『美しい思い出』という記憶になって、写真と共に残る。 あなたが大切だと思う、その存在を、私も大切にしながらシャッターを切ります。それは、とても幸せな時間であり、幸せな記録だと思うのです。 Life Studio No,17 Shinyokohama Photo by Reiri, /coodi by Yonezu
『 明日からの自分へ 』
2015/12/31
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『 明日からの自分へ』 Life Studio Shonan photo by Masashi Kuroki codi by Chisaki Yamane 「自分自身と向き合う」などとよく言いますが、そういった時、人はどれだけ自分自身と向き合えているのでしょうか。 ライフスタジオでは日々、写真というものを軸として多くのことを学び、討論し、人である「自分」を高めていっています。 そういった生活の要所要所で皆それぞれ自分自身と向き合わなければならない局面に出くわします。 しかし、自分自身の足りない部分や出来ない事、知らなかったと認めなければならないことを自分自身に突きつけざるを得ない時、 誰しも躊躇するでしょう。 そこで正面から自分自身と向き合うという行為が出来れば自身の成長に繋がっていくのでしょうが、やはりそれを拒んでしまうことも多々あります。 それは当然の事ながら自分の知識や技量などの範囲の狭さを認めたくはないからです。 私にも思う節がたくさんあります。 しかし、撮影においてそれを拒むことは許してはくれません。 なぜなら、この写真に写っている「彼」が「それ」を見ているからです。 私たちは当然として可愛らしいインテリアや小物、そしておしゃれな衣装など多くの要素が存在する中撮影をしています。 ですが時折こういった局面に出くわします。 それはまるで野生の獣同士が出会い頭をくらってしまったかのように。 その一瞬で場面は緊迫します。 互いに目を見合い、互いの出方を伺います。 その瞬間、私と彼のいる四角い箱の白い壁が一面ずつ音も無く倒れていきます。 そして互いに武器を持たず完全丸腰で丸裸な勝負が始まるのです。 ここで自分自身と向き合う他ない瞬間が訪れます。 私は考えます。 「どう写せば良いのか?」 そこで私が出した答えはこれでした。 「彼の真の成長の過程を残したい」 正直言葉に詰まった部分もあったかもしれません。 ですが、「今、自分に何も無い。」と認められたからこそ出た答えだったかもしれません。 この瞬間は私の撮りたい写真などという事ではなく、この少年の「今」を真正面から写し出さなければならないと必死でした。 余計な言葉をかけて壊してしまってはならないという緊張感もありました。 しかし、今の俺たちには何も必要ないという絶妙な間合いと安堵感も共存していました。 七五三の着物や園服、オムツ姿やランドセルなど、成長を表すものは沢山あります。 ですがそういったものに一切寄りかかることの出来ない「成長」をも写すことが私たちの役割でもあると思います。 「自らで己を知ること。」 その機会や局面は多くてもついつい避けてしまいがちになってしまう。 しかし、拒むことを許されない場面が多く存在するからこそ私たちは邁進できているのかもしれません。 これが「今の彼」というものを写し出す「今の私」の限界だったかもしれない。 でも数年後、彼とまた同じ局面に出くわす前に「もっと限界を上げておけよ!」と明日からの自分に言っておく。
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