menu
menu
ログイン
予約
LifeStudioとは
ライフチャンネル
ライフチャンネル一覧
ライフNow
ライフ人
MVP店舗
イベント
フォトジェニック
コラム
店舗紹介
ギャラリー
ギャラリー一覧
Baby
Kids
753
1/2成人式
Birthday
Otona
撮影プラン・料金
(料金/システム/商品)
初めての方へ
撮影プラン
商品
Q&A
コミュニティ
コミュニティ一覧
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
店舗フォトジェニック集
ご利用の流れ
よくある質問
Official SNS
サイト内投稿の検索
Official SNS
サイト内検索
LifeStudioとは
ライフチャンネル
ライフチャンネル
ライフNow
ライフ人
MVP店舗
イベント
フォトジェニック
コラム
店舗紹介
ギャラリー
ギャラリー一覧
Baby
Kids
753
1/2成人式
Birthday
Otona
撮影プラン・料金
(料金/システム/商品)
初めての方へ
撮影プラン
商品
Q&A
コミュニティ
ライフチャンネル
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
フォトジェニック
ご利用の流れ
よくある質問
ログイン
予約
フォトジェニックアーカイブ
Photogenic Archive
トップ
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
鏡
2015/12/31
0
Photo by Ta-na- & Codi by Gomei in Urayasu ライフスタジオの写真にはいくつかの要素が存在しています。 ひとつは「楽しみ」ひとつは「物語性」そして「関係性」であると私は考えています。 撮影される空間と時間は「楽しみ」が存在するものでなければならない。 撮影される空間と時間には世界にたったひとつの「物語」が存在しているということ。 その物語はひとりでは生み出すことが出来ないつまり、その空間に存在している人だけではなく、その人を構成した様々な「関係性」が全て統一される瞬間が存在しているという事です。 それらの要素が含まれている写真には、被写体のその瞬間の楽しそうな笑い声や会話が聞こえてきそうな気がする、という見る人に対して感想を抱かせるのだと考えられます。 楽しむということ。楽しませるということ。楽しみを共有するということ。楽しみを共感するということ。 撮影している瞬間だけ楽しければいい、でもなく。撮影した後もその写真たちを眺めているとその瞬間空間の自身の「感情」があふれ出るものが、未来へ私達が共に残すラブレターです。 撮影の際に、私はそれらのライフスタジオの写真が持つ要素をどのように引き出すのか?という問いかけに対して主に二つの提案をすることがあります。 ひとつは「抱きしめる」という仕草の中で見える仕草と表情そして関係性。 そしてもうひとつは「おでことおでこをくっつける」という仕草の提案です。 この仕草の提案も「楽しみ」の空間と環境を作り上げる事が出来ていない瞬間に投げかけても単純に「おでことおでこがくっついている写真」になるだけです。 「抱きしめる」そして「くっつける」という仕草の提案はその仕草そのままを撮影する為に提案をすることではありません。 つまり、「抱きしめさせる」こと、「くっつけさせる」ことは決して目的ではないということです。 なぜ、それらを提案するのか?答えはとてもシンプルです。 「笑顔を撮影したい」それだけかもしれません。 ですが、それだけでもないような気もしています。 相手を笑顔にする方法とは何か?相手に「笑ってください」と一方的に要求することではない、そう考えています。 これに対しても「自分から相手に歩み寄る」つまり「自分から相手にたいして笑顔で接する」事をすることが出来なければ相手を笑顔に導くことは出来ません。 相手は、自身の鏡です。そして、相手の反応は現在の自身の内面を映し出すものです。この笑顔でたとえ話しかけたとしても瞬間、必ずしも笑顔で返ってくるとは限りません。 相手はなかなか、もしかしたら自身の感情を表現できずにじっと、怯えたような目をして私達を見つめ返してくるかもしれません。ですが、ここで私達は相手を映し出す鏡になってはならないのです。 相手を信じ続けること。相手を待ち続けること。相手の話を聞くことを諦めないこと。相手を愛し続けること。 その中で発することで初めて「抱きしめさせる理由」そして「くっつけさせる理由」を表現することが出来るのだと私は感じています。 何の為に、それらの指示を私達は目の前の相手に対して投げかけているのか。 何の為に、それらの瞬間を私達は待ち続けているのか。 何の為に、ライフスタジオという場所で撮影をするという方法を選択し、撮影を続けているのか。 これらの「理由」を追求し続けていくことが、ライフスタジオという場所と空間そしてライフスタジオで働くスタッフ私達に会うために予約を取り、スタジオまで足を運んでくれる大切な人達の為に出来る最低限の還元であり、愛し続けていくための条件であると日々感じています。 だからこそ。私達は、鏡と向き合うことを続けて行かなければと思うのです。
愛するということ
2015/12/31
2
Photographer:Ta-na- Coordinaite:volvo Lifestudio:Urayasu 愛を知るということ事態、正直普通に生きていけばつまり、人と接触してさえいれば普通に そしてごく自然に「愛」という概念を知る事が出来ると考えていました。 愛するという事。愛されるという事。とは、どういうことでしょうか? これらの主題を提示された瞬間、ごく当たり前に知っていると考えていた私から出てきた言葉は 何一つありませんでした。 愛するという事。愛されるという事。 これらは、当たり前のような存在であるようで、実は「在り難い」存在だということに気づかされたのは、 ライフスタジオという現場で「家族写真」を撮影し始めてからの出来事でした。 この問題を感じる事が出来なければ、私は単純にお客様が求めている「自然な家族写真」を撮影することは出来ない、 そう常に感じ、瞬間「家族写真」を撮影するという事に対して少し苦手意識を持ち始めてしまった時期がありました。 カウンセリングの際に「家族写真は撮影しなくても大丈夫です」と仰るご家族様のご要望をそのまま、承っていました。 家族から愛されること。家族を自分が愛するということ。 これらの難題に対してある本を読み返したときに気づかされたことがありました。 エーリッヒフロム著書「愛するということ」には、私の悩みに対してこの本はこう記していました。 「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。」 生きるということと同じく、愛するという行為技術が必要だということを少しずつ痛感し始めた私は自身を撮影を 通してそして日々の生き方に対して振り返るようになりました。 この作業はとても苦しい作業でした。 なぜなら、「私」という人間は、私が考えていた以上に情けなくて頼りなくてそして小さい存在だという事を 認めなければ始まらない作業だったからです。 私は「愛される」という事に対してとても貪欲でした。 人からの評価が私の生き甲斐だと感じていた時期もありました。 ですが、愛されることを追い求めているだけでは、やはり「愛」をなかなか感じる事は出来ませんでした。 愛を知るには自分から「愛する」という行為を行う事が必要であるという結論にたどり着いたのも今思えば この頃だったように感じます。 では、どのように「愛する」事を私は始めるのか? それは、とてもとてもシンプルな答えではありましたが「あなたの事を知りたい」と相手に対して歩み寄ること、 相手の声に耳を傾けるということでした。 つまり、自身から相手から「あなたのことが大切ですよ」と言われてから 「私もです」と応える事ではなく、「私はあなたの事が大切です。あなたの事が好きです。」と自身から相手に伝える という行為を行う事でした。 今までこれらの行為も自然に行ってきたつもりでした。 ですが、家族写真を撮影するという事に対しての難問をなかなか導き出せない自分の姿がその時の答えでした。 「あなたの事が好きです。」という自身からなかなか歩み寄ることが出来なかったのにも理由があることを痛感しました。 それは、相手から「私はそうではない」と相手から拒絶をされてしまうのではないだろうか?という恐怖心が常に存在していたからです。 それでは撮影をする際に相手に対して私は何一つ、提案をすることが出来ない。 相手の人生を知ることは到底出来ないだろうし、互いの心を動かすことは出来ないだろう。 それが出来なければ、私は「ライフスタジオ」で働くことも出来ないだろうし、 この先何一つ「真実」も「愛」というものも映し出すことは出来ないだろう。そう考えました。 自分から「愛する」という事。 それは、自分から「相手を知ろう」と歩み寄る事。 それは、相手の声に耳を澄ますということ。 そうでなければ、いくら自身の「私なりの哲学」が存在していたとしても、映し出されるものは「自身の想い」 だけでしかないのです。 相手を知り。相手の声を聞き。それだけを形に表現することではなく。 私達の仕事はそれらを行った上で、目の前の相手を本当に愛しながら撮影を行う事であると一つの確信のような 何かを感じ始めています。 「自然な家族写真」の要素は「共に自然体である」事が前提であり、自然体になれるための条件や環境があるとすれば、 その現場には必ず「愛」があると私は想います。
僕と彼女
2015/12/29
0
残したいと思う瞬間、本能的にシャッターボタンを押す。 脳から指先へと指令が出るこの感覚だけは信じてやっています。 レンズ越しに見える彼女とシャッターを切る僕だけの時間。 この時間だけは誰にも邪魔されたくないし、 一番大事にしたい瞬間である。 恋人は一番可愛いものだし、可愛く撮ってあげたいと思う。 女の子を撮るときは、それとどこか似た感覚で撮影している。 変な意味ではないが、変態な人ほど瞬時に被写体のポイントを掴むのが上手なんじゃないかって最近思ったりもする(笑) いつもその子らしさであったり、人間味溢れる温かい写真を撮りたいと思い試行錯誤しています。 それを可能にする為には、繊細な心と技術と情熱が必要になります。 でももちろんそれらも必要ですが、やっぱり一番はその子に対する愛情なんだと思っています。 愛情がなければなにも生まれない。 人間で在る限り、体温がある限り、温かい人間味のある人で在りたい。 写真にもきっとそれが写し出されるんじゃないかなって思います。 被写体は自分の鏡なんだと。 だから写真は面白い。 だからもっと詰めていきたい。 自分の絵の具で好きな背景を存分に書き足して行きたい。 photo by Ryohei Morita cordinater by Asana Takano in Kawaguchi
自由に、真っ直ぐであるために・・・
2015/12/28
0
OMIYA Photo Photographer: Soo Cordinater: Kozu Chifumi 私にとってのライフスタジオの写真を一言で表すとするならば「素直」という言葉を選ぶでしょう。 素直という言葉にも様々な捉え方がありますが、何かにとらわれるのではなく、良いと思ったものを受け入れ、ありのままに見ようとすること。 私はそういった意味合いで素直という言葉を受け止めています。 人は本来、素直な心をもった存在なのかもしれませんが、それが表立って実際に働くかというとそうもいかない。 たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんは素直な心以外のものは何もないのかもしれません。パイパイが欲しければ、オシメが湿れば、そのまま態度に表す。ある意味で素直な状態だと思います。 赤ちゃんや幼い子どもたちにしても、もともとは素直な心をもって生まれてくる。しかし年を経て様々な経験をするにつれ、素直さは表面に出にくくなってくる。その弊害として、一つのことしか見えず、自分の考えや感情にとらわれてしまうということがあるのではないでしょうか。 人はつねに何かにとらわれながら生き、しかし素直になりたいと願う存在なんだと思います。 素直になるということは、あらゆる全てのものごとの本当の姿をとらわれることなく見つめ、意義や価値や長所そういったものを明らかにしてくれる。すると全てのものごとに無用なものはなく、自分の小ちゃな常識からはみ出るようなことがあったとしても、その良さを見て、それを生かしていこうと考えてみると、それなりの意義というものが分かるのではないでしょうか。 つまり、極端にいえば困っても困らない、一見できないようなことでもできるというように、自由自在に行動できる姿がそこに生まれるのではと思います。 それは単に自分の都合の良いような見方、考え方に変えるのではなく、すべてのものごとに対して適応していくことで、相手をあるがままに認めることができ、相手の思い通りにしてもらうことができる。そうすれば全てが自分の思い通りになっていくのだと思います。 撮影においても同じように、自らが素直にならないといけないと思うのです。 撮影者と被写体の皆が持っているものを外に表現できるようにすること、すなわち素直になるために能動的に働きかけないといけません。 ライフスタジオの写真館としての役割のバランスを考えながら、けして何かにとらわれることなく、良さを受け入れ、撮影者と被写体の皆が思い通りになる状態を作りながら、その姿をありのままに残すこと、 それを可能にするには、私たちは常に素直であるために変化していかねばならない。 同じく常にものごとが変化していることに気づくために素直でいることが大切なのです。 素直と変化は表裏一体なのかもしれません。 しかし皆が素直になるための空間作りには数多くのアンテナを要し、素直な状態になったとしても、それを撮影者が写真に残していくという役割もあることを忘れてはいけない。 素直であるために常に変化しなくければならないのならば、写真の構成要素もずっと変化していくということ。 自ずと撮影者は変化とともに全ての要素を統一しなければならない。 そのために私たちはあらゆるものごとに関心をもち、さまざまな感情につき動かされ、仕事と学習を繰り返しながら生きているのだと思います。その中でものごとの本当の姿を見て、本質をみるということができるようになり、良いものはよいと認識し、受けとめることができるのではないでしょうか。 ブタに真珠という言葉がありますが、価値あるものでも、その価値を知らなければ、生かすことのできないのです。 ブタなら真珠を真珠として生かせなくても、エサがもらえればそれでいいということになるかもしれないが、私たちはそうはいかない。 価値あるものは、その価値を十二分に発揮できるようにしなければ勿体ない話だと思います。 撮影の中には多くの価値を感じて、表現するための多くの要素が溢れています。 被写体、そのご家族、撮影者(カメラマン&コーディネーター)、関係性、会話、インテリア、光、衣装、各種道具等、、あらゆる要素に価値を知り生かすために、日々磨き続けなければならないものです。 それらの中には、決して無用のものは何もなく、ひとつとして排除してはいけないと思います。 その中のどの要素が、誰かを"素直"にするはずですから。 そう信じて、各々が自ら素直になるために、より望ましい、より正しいであろう見方、考え方を求めて変化に応じて、思い通りに撮影していきたいものです。。。
手をつなぐ
2015/12/1
2
photo by ShiibaCodinate by Nanain Kokubunji 自然であることと写真はどう違うのか。自然とは私達が見たままの景色であるとする。そこにかわいい子供達がいて、それをそのまま撮る。ある程度は可愛く撮れるが、それだけでは私達がカメラを使い、光を作りながら撮影する意味はあまり生まれてこない。 写真を撮るとはなんなのか。それは見たまま、自然の姿を切り取るということではない。目で見たものを心でキャッチして頭を使って変換させ、イメージ化させ、芸術的要素を付与し、カメラという機会、技術を使って写真にする。それがカメラマンの仕事である。イメージが大切といわれるのはこれが根本にあるのではないかと思う。 この写真ではやさしい2人のお兄ちゃんが弟くんに心配そうなそして優しいまなざしを送っている。それがこの写真の核心である。そこの露出が一番高くなければならないが、その光は優しいものでなければならない。そして他に気をとられているがお兄ちゃんに手を引かれて安心している弟くんの表情。そこに第二のポイントがくる。そして奥のインテリアの露出が高いことによって、これからいく先があかるいということを予測させるのがこの写真が何故か落ち着く一枚になっている理由であると思う。また、葉っぱの前ボケによってこの写真を見ている大人たちがどこかやさしく見守っているという気持ちにさせるのではないだろうか。どんな光を使って、どうイメージを付与させるのか。これがカメラマンの大切な仕事である。 沢山の色んな人と話して、沢山の映画を見て、本を読んで、空を見上げ今日も幸せだーと感じ、路地裏のネコにこっそりと挨拶をする。この仕事では毎日沢山の人たちに出会うことが出来る仕事です。その人たちの素敵な瞬間を切り取れるようになるには1つの色の引き出しをもっているだけではいけないのではないかと思うことがある。受け入れて、受け入れられて写真が作られていく。頑固さとそれ以上の柔軟さ。そんな写真を撮っていきたい。
表現
2015/11/30
1
photo by Kaori Kobayashicordi by Manami Saitoin YokohamaAoba[表現力は人の魅力を最大限に写しだす力]私たちは毎日≪はじめまして≫や、何か月、何年ぶりに再会する≪おひさしぶりですね≫を繰り返しながら撮影を通して人と接し、たくさん笑って、時には泣いて、感情が揺さぶられる日々の現場で“写真を撮る”という一つの行動を繰り返しています。 変わらない写真を撮るという行為で、同じ人などいない、“人”を撮っています。それは揺るがないものであり、毎日を同じようには過ごせない現場の中、私たちは変わらないカメラという機械を用いて、目の前の大切な相手と向き合っています。いつまでも忘れてはいけないことは、私たちは、人の写真を撮っているという事。相手の存在、魅力、すべてを100%知ることは出来なくても、それを知れば知るほど、近づけば近づくほど、私たちはその“表現”を模索します。伝えたいものを表現する≪力≫、すなわち技術や知識の発展は必ず相手に伝えたいことを伝えるうえで必要不可欠なものであり、私たちの表現の幅を発展させていく新たな課題でもあると思います。人を撮っているという事、そしてそれゆえに、変わらない機械で写真を撮る私たちは、その無機質なカメラで、あたたかい“人”という存在を写し撮る、その表現を最大限に広げていくことが必要になります。基盤があってこそ、技術は生かされ、技術のみでも、感情だけでも表現は成立しないことを私たちは知っていると思います。ここのフォトジェニックには、その考えや思いが詰まった文章や写真がたくさん載っているからです。そしてその挑戦、その探究心、発展意欲はとどまることを知りません。なぜなら私たちは撮影して達成感を繰り返しながら、また新しい出会いを、大切な再会を繰り返しているからです。大切な思いを忘れずに、では、今、私はカメラで何を写したいのかを考えます。写したい表現は目の前にいる被写体により様々で、相手の魅力を発見するたびに、その表現に見合った自分の技術を欲します。しかし、いくら他人の撮影や写真を真似ても、その技術が本当にその相手を表現するために適切でなければ、強い違和感のみが残ってしまいます。適切な表現で、自分が今できる知識や技術を最大限使って、相手の魅力を写しだすという事。それはいつまでも終わりのない作業です。私たちは、写真の知識を深めるために、様々な主題を用いて、業後に練習をしたりします。その時に挑戦したのが、色味の調整、光の組み方、そしてソフトフィルターの有効な使い方の練習です。この日、日が落ちて真っ暗な室内で、オレンジの明かりを一灯だけつけて、彩度を落とした設定にし、ソフトフィルターで撮影をしました。練習したものを最大限に利用し、彼女の魅力を表現します。暗い印象になりがちなこの設定で、ぐっと彼女に寄り、ふと表情がゆるんだその瞬間にシャッターを切りました。ソフトフィルターの効果で、影が出来て暗い印象になりやすいライティングを優しく写しだし、影がある大人な印象を残しつつも、淡い女性らしさを表現することが出来ました。私は何度でも確認をします。何故、写真を撮っているのか。何のためにカメラで人をのぞくのか。何度でも、何度でも繰り返し、そのたびに、私はもっとこの機械で、人の魅力を撮る、あたたかな表現を広げていきたいと感じると思います。そうして繰り返すことに終わりはなく、だからカメラを手放すことが出来ないのだと感じます。シンプルに、考えます。私が出来ることを、最大限、相手に返していきたい。喜んでほしい。もっともっと、表現力を広げていけるように、進んでいきたいと思います。
かわいいということ
2015/11/30
0
photo by yumiko cordi by Kazumiわたしは子供を育てるという経験をまだしたことはありませんが...かわいいかわいいと可愛がるだけでは子供は育てられないといいます。ときに厳しく、時に大胆に。導くということを大切に思いながら、深い愛情のうえで様々な関わりがなされているのだと思います。とはいえ、やはり子供は普遍的にとでも言いましょうか『それはそれはかわいい』もので、身近にそういった様子を見かけるたびに不思議とわたしも優しい気持ちになります。『かわいい』という言葉を辞書で調べると、・・・・・人のこころをひきつけるさま。愛情をもって大事にしてやりたい気持ちを覚えるさま。同義の古語は「うつくし(愛し)」(例:「うつくしきもの」〈『枕草子』〉)である。・・・・・・とありました。わたしは日々撮影にきてくれる子供たちに対して、撮影中に自然に『かわいい』という言葉を連続してほぼ無意識のうちに発していますが、そういった自分自身を改めて振り替えって分析してみると、その『かわいい』の四文字の言葉には、その時その時に色々なニュアンスが含まれていることに気がづきます。やわらかなシルエットの美しさにみとれているときもその存在感の輝きに圧倒されている瞬間もキラキラした瞳で次の遊びにわくわくしている姿をみているときも。『可愛い』『かわいい』『カワイイ!』周りにいる誰かに伝わるかどうかはわかりませんが、自分自身のなかではその時々でいろいろな気持ちでいるものです。最近はもっと言葉をふやして、私の中にある感覚をさまざまな言葉で表現できたら、そうすることが自然とできたなら、もっと豊かに感情や感性の共有が出来るのに。そうなったらいいのになあと強く思っています。子供たちも日々たくさんの事を全身の五感をつかって感じているのだろうけれども、自分の感覚に言葉や動作がまだまだついていかないこと、つまり表現力がまだ十分に発揮することができないでいることが多いのだろうと思います。大人になっても自分をみつめながら表現力が豊かであるとかそうでないとか考えることもありますが、そこにある種のもどかしさやフラストレーションが起こることもあり、それはきっと子供たちにおいても同じでしょう。『心』と『体』が密接にかかわりあったときにもっともインパクトのある表現になるとよくいわれますが、その中で表現された子どもたちなりの精いっぱいの発信に込められた情報量は、表現されている情報よりもずっと大きくて、だからこそそれがどんなものかを想像する楽しみを秘めているのだと思います。子供たちひとりひとりがもつ個性。その理解や反応に合わせて最適な遊びを生み出すのは容易なことではありませんが、だからこそ『子供の目線に立ってみる』とか『子供の気持ちになっておかれた状況を考えてみる』ということがやはりとても大事なことであり、『気持ちをうごかす』、『体を動かす』、そして『心と体で表現する』ということへつなげていくことが出来るように、ライフスタジオでの写真表現は、撮影方法やコミュニケーションなどに自由な幅を持たせているのだと思っています。そしてつまりそれらは私たちの感性と理解、経験にゆだねられているというところが大きく、お互いに日々試行錯誤を繰り返しながら『責任』や『共につくる楽しみ』などの大切なポイントが、いつまでも私たちの意識から消えてしまわないように常に基準となっているのです。kazumi
記憶の、記録
2015/11/30
0
記憶の記録 誰もがそうであったけど、誰もが忘れてしまうこと。限られた時間のあいだ、ただただ『赤ちゃん』であったこと。あなたが忘れてしまっても、あなたの家族は覚えている。 それでもいつか、遠い未来で、記憶がおぼろげになったとしたら。その記憶を繋ぐものが、『写真』でありたい。 そんなかけがえのない時間のために、私たちはシャッターをきります。”いつか”の日を、想像しながら。 人は、記憶と共に、生きてゆく。 ***************************** 新横浜店で、新生児の撮影に取り組みながら、『残したいものは何なのか』を考えていました。私たちが、Baby撮影店舗として残したいもの。パパやママが残したいと思うもの。そのBabyが、大きくなった時に、『この写真が残っていて良かった』と思えるもの。きっとそれが、『価値ある写真』であるのではないかと信じて。 新しいことを始めるということは、新たな価値の提案に他なりません。ライフスタジオ全店で、毎日Baby撮影が行われています。その中から、店舗として特化して専門性を発揮すること、『誰もが美しいと感じるBabyの写真』を残すことが、Baby店舗としての新横浜店の責任であり、最重要な命題でもありました。新横浜店はOpenから2年が経ち、リピーターのお客様も増えてくる中で、1歳から2歳、3歳への変化と成長に、ただただ驚かされます。つかまり立ちがやっとだった1歳から、1年経てばお話ができるようになり、自我の芽生えとともにイヤイヤ期が訪れ、いないいないばぁで笑ってくれていたあの笑顔は、警戒感を剥き出しにしてこちらを伺う目に変わります。かと思えば、その1年後には自ら服を選んで遊びを提案し、『撮ってとって!』と言わんばかりにポーズを決めてくれたりもします。1歳の時には想像もつかなかった、3歳になった姿。3歳の姿を通して、過去の面影を振り返り、あの時の小さなぷくぷくした手やほっぺに思いを馳せても、目の前のその子はその名残を残すのみです。そんな時、写真を撮っていて良かった、と思います。あの時のその姿、『可愛い!』と大人が声を上げるような、『赤ちゃん』としての限られた時期の特徴を、写真を見ることで鮮明に思い出すことができるのだから。 では、もっと前の記憶はどうでしょうか。生まれた直後の赤ちゃんは、胎内で育まれた生まれ出てくる最低限の体つきをしています。手足は細く、首はぐらぐらで、その表情もまだ乏しい。あまりにもか細く、弱々しく見えるその体。それでも、その体は熱い血潮を流し、心臓は鼓動を打ち、羊水で満たされていた肺は空気を送り込まれて膨らんで、声を上げます。生命というものの神秘性が、そのまま目の前にあるような、新生児の姿。その小ささ、か弱さ、それでいて鮮烈に放たれる生命としての存在感。それを前にして、私たちは殆ど本能的な意味で、生まれたばかりの純粋なひとの姿が、その存在が、ただただ愛おしく大切なものに思えます。これはもう、主観的な感覚で、これを論理的に説明しようとすることは、少し無粋にも感じます。大袈裟なようであっても、生命の営みという壮大でありながら常に身近にあるものに対しての、一種の畏敬の念のようなものなのではないでしょうか。しかし、その生まれたばかりの姿は、あっという間に変化していきます。へその緒から得ていた栄養を、母乳やミルクで経口摂取するやいなや、1ヶ月に1キロ以上のペースで体重は増え、脂肪がついてぷくぷくとした『赤ちゃん』の姿へと変わっていきます。それはもう、もの凄いスピードで。生後半年までの1ヶ月毎の変化は、あまりにも顕著です。胎内の名残を残す、生まれ出てくる最低限の体つきという小ささは、ママが寝不足になりながら2時間毎の授乳をしている間にどんどん変化していきます。毎日の忙しなさの中で、気付けばそれは通り過ぎてしまった過去の時間の中にしか見付けられないものになってしまいます。限られた時間の、その瞬間の1/100秒が、いつか遠い未来で宝物になるかも知れない。そんな可能性がちょっとでもあるなら、もう撮りに戻って来られないのだから、記録しておかなければならないと思うのです。その記録が、遠い未来の記憶を繋ぐものになり得るのなら、それはきっと、価値ある記録、価値のある写真になれるのではないでしょうか。 私たちが残したいものは、ただ『新生児』という『対象』ではありません。目の前の新生児の、生まれたばかりのその人の、スタートラインを記録する。『あなた』という人の始まり。そしてその始まりを待ち侘びていたパパとママの姿。『あなた』と共にある、『あなた』を愛して育むひとたちの姿。ずっと覚えていることはできないから、あまりにもあっという間に過ぎ去ってしまう時間だから、写真という形で残しておきたい。『あなた』という人の始まりの時、こんなに小さかったその体、それをこんなにも大切に抱きしめる、『あなた』を愛して育むひとの姿。Baby撮影をしながら、もっと深く見詰めたいと思う。人生の写真館、その始まりの場所として、わずかな時間の記録を、美しい記憶として残すことが、今の自分たちへの命題だと思っています。 Life studio No,17ShinyokohamaPhoto by Reiri, / coodi by Yonezu
Primary
2015/11/30
1
Urayasu PhotoPhoto by Kudo / Cordi by Cho 基本的なことはいつもあなたの傍に在る。家族の愛情が、いつも優しかったということ。人の手の温もりが、これほどまでに温かいということ。太陽の光が、こんなに眩いものだと感じること。あなたのことを、こんなに美しいと感じること。当たり前のことは、私たちから離れずいつも傍に在る。いつも傍に在るから忘れてしまいがちだけど、見失うことはないように生きたい。だから、私は写真を撮るのかもしれない。 ライフスタジオの写真の基本的な原則とは、「美しさの表現」です。私たちは被写体を美しく撮るために、日々試行錯誤を繰り返しています。コーディネートのセンスを磨いたり、写真の技術を向上させたり、インテリア工事をしたり、外的にも、内的にも、常に発展を目指しています。それは全て、目の前のご家族、「被写体」の関係性やその人を美しく表現することです。それは、赤ちゃんであっても、キッズであっても、大人であっても、常に変わらないことであると思っています。 しかし、写真は変わります。被写体であるその人が違えば、他の被写体と同じように当てはめることはできないからです。同じサイズ、同じ歳で同じ性別であっても、今、目の前にいる被写体に他の人が似合っていた服装が似合うとは限りません。同じ光、同じ角度、同じポージングであっても、その人の存在を美しく表現するのに適した写真とは何なのかを考えなくてはいけません。だから、同じような概念のもと撮影をしていても、その人自身の「美しさ」を表現することを原則としている以上、撮影者たちは、表現方法を変え、写真を変え、その人が「誰」なのかを探り、その人だけの美しさを表現するためのより善い選択をし続けていくことになります。 この「美しさの表現」への探究と追求が、「人に入る」という過程であると私は考えます。そもそも「人」は美しいものであり、その美しさを認めなければ、ひとりひとりの「人」を、「人」として認識することですら難しいのだと思います。「人」には必ずその人にしかない「特性」があり、それは、容姿が美しかったり、表情が優しかったり、人間的な温かさに溢れていたりとか、誠実だとか、正直だとか、頭の回転が速かったりだとか、その人にしかない素晴らしいものが見えてきますその素晴らしいものとは本来とても眩いもので、唯一無二です。だからこそ、人は皆美しいのだと言えるのです。人の美しさを感じることで、その人は本当に美しいということになります。そういった人の美しさとは、その人自身だけのものであるので、とても自然で、当たり前のようにすぐそばに存在しています。 私たち撮影者が「その人にしかない美しさを表現する」ことを原則としているならば、自然と傍に在る「美しさ」への、鋭敏なアンテナを携えて撮影をすることが必要です。自分だけの枠に相手をはめ込まないこと、相手の存在自体の美しさを見つめること。そして、それを被写体自身にも美しいと感じてもらうための表現を選択すること。それがライフスタジオの目指す「美しさの表現」であると思います。 そのためには、ポージングを指示することもありますし、会話の中で撮影をすることもありますし、被写体に動いてもらいながら撮影をすることもあります。それは、やはり、被写体によって様々です。なにがその人本来の美しさなのかを見つめ、どうしたら、それをより善く伝えられるのかを考え、選択し続けることで、私たちは自然と「人」の多様性を認めていることになります。 そうした中で、「自然な写真」というものは生まれていくのだと思います。「その人」が元来持っているものを、最大限美しく、自然に。それらを自由に引き出していくことこそが、ライフスタジオの撮影空間なのだと思います。
時と時の狭間、人と人との間
2015/11/30
2
Shinyokohama PhotoPhoto by Kudo / Cordi by Shie大人になってから、私たちはどのくらい「自分」という「人」を知っているのでしょうか。大人になってから、私たちはどのくらい「自分」という「人」の存在を自ら認められているのでしょうか。大人になればなるほど、周りとの摩擦で焼け付くことが怖くて、傷つくことが怖くて、自分という「人」を他人の枠の中に入れて考えてしまいがちです。だから、自分という「人」を相手に合わせて「作る」ようになってしまう。だけど、どんなに他人に合わせて自分を作りこんでいても、「人」と「人」のやりとりとの間には、その「時々」に滲み出る、「自分」という「人」の存在があります。滲み出るものは、「癖」なのかもしれないし、「言葉づかい」かもしれない。「表情」かもしれないし、「動作」かもしれない。どんなに作りこんでいても、「自分」の存在は、他の誰でもなく唯一つであり、誰かの枠に当てはまるものでもないのです。それは自分が一番よく知っていることだから、自分の存在は誰にも隠すことはできません。それは、他者を見る眼差しも同じです。自分の存在を認めるということで初めて、本当の意味で他者を認めるということになるのではないかと、私は思います。自分を見つめる眼差しは、そのまま世界を見つめる眼差しとなり、すなわち他者を見つめる眼差しとなるからです。他者を認めるということは、「その人」の存在を自分の枠に入れず、「その人」として見つめること。それが「その人」の枠を認めることになります。その人の「枠」とは、その人の「人生観」でもあるし、「価値観」でもあるし、「世界観」でもあります。それらを総合して「その人の存在」そのものです。「その人」という存在が顕れるのは、その人が動き、話す、その「時と時の狭間」であり、その人が接している「人と人との間」でしかなく、その「瞬間」、その「人」にこそ、「存在」をしているという事実があります。そのことを認めるということが、「人に入る」ということになるのだと思います。ライフスタジオで写真を撮るということは、「人に入る」ことであるとよく言われています。「その人」にしかない美しさ、「その人」が生きている素晴らしさ、それはどの瞬間に顕れて、私たちとのどんなやりとりの中で見えるのか。そして「その人」らしさとは、どのように写したらより善く表現できるのか、そんなことを考えながら、私は毎日撮影をしています。だから、端から見ると突拍子もないことを言ってみたりだとか、わざわざ被写体に自ら何かをすることをお願いしたりだとか、日常的な生活を連想させる会話をしたりだとか、たくさんの投げかけを行い、「その人」が顕れるのがいつなのか、「その人」らしさとはなんなのかを探しながら、写真という形式に表現をしていきます。「その人」らしさが顕れたときには、私という存在だけでは表現することができなかった「その人」にしかない「力」を感じることができます。その瞬間に、私自身の技術の中から「その人」らしさを表現するための方法を選択します。「動き」と「光」、そして「力のある瞬間」から、やや淡いモノクロームという描写を選択し、ぼかしの位置、フレーミングもこのように選択したのは、「その人」が誰なのかを、私という撮影者の存在を通して、伝えたかったからにほかなりません。このように、自分であれ、他者であれ、その人の存在は唯一無二のものでありますが、その存在自体は、「時と時の狭間」に滲み出るものであり、それを認識するのは「人」であり、存在は「人と人が接した間」に顕れます。だから、私たちは「人と時を過ごし」、「人に触れ」「人へ向かって何かを発する」のだと思います。それが、「自分」と「他者」が存在する確固たる事実であり、「人」はそれを求め続けているのです。写真を撮るということは「人」と一緒に時を過ごし、「人と人との間」で価値を作り、「人生を営む」ということの縮図のようであるかのように私には思えます。
I looking for the feeling
2015/11/30
1
I looking for the feeling 私はお客様を満足させてなければならないというプレッシャーがあります。お客様に一定の金額をいただいており、私たちにはお客様が希望する空間で大切な時間を記録する責任があります。毎日仕事をしながらお客様を満足させなければならないという責任感と、より良い写真を撮影したいという欲望と戦っています。基本的にはお客さんが求めているものなのかを知るために、多くの会話をしようとします。お客様は自然な子供の姿を見せて欲しい、と言います。その自然な姿のイメージはお客様が望むものと私の撮影した写真と一致する場合、自然な写真として認められるようになります。私は、そのような努力をしながら写真を撮影しています。しかし、人は欲望というものがあります。お客様のご希望する写真が撮ることができ、撮影の中で被写体が撮影されることを楽しみ、リズムに乗る姿を見て、さらに被写体へポーズを作ってくれるコーディネーターからの掛け合いの中で、私はより良い感じの写真を撮影をしてみたいというモチベーションが湧いてきます。様々な条件がよく合って、私の気持ちを表現してみたくなる時は、視点が鋭敏になって、小さな部分の指示をすることになります。細かい箇所まで生かして見たいと思うからです。初めからお互いに一致するものを見つけることは容易ではありません。細かいところまで追求するために、多くの対話を試みて、また被写体である子どもに要求をします。その努力の結果が完成されたように感じるときに、私は幸せを感じます。 また、幸せを感じながら、このようなことを考えます。この幸せな感情の開始は、お客様のためにした行動ではなく、私の欲求を満足させるために努力したものです。その結果、それらを作り出すために一緒に頑張ってくれたコーディネーターとお客様は、自らが希望するイメージといい意味で異なる結果に満足する姿、それが私が見たいものです。私が撮影した写真でお客様から幸せな感情を表現していただいた時に、私は私の写真に満足しています。この写真は、私の頭の中でいたイメージが結果として作られた写真だと思います。私は毎月撮影した写真が何百枚撮ったのかは、よくわかりません。しかし、撮影を入る瞬間、私は欲しいイメージを見つけようとする。私はまだ何かを撮影の中で発見することができるから、私がここにいる意味があるのだと思います。この一枚の写真を撮影するために一緒に努力してくださった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
『synchronicity』
2015/11/29
0
photo by Ryo coordi by Manami Yokohama Aoba撮影はいつも偶然と必然の中で、意味の有る一致と共に一枚の写真を生み出します。彼女と共にお客様と向き合うのはいったい何回目だろうか。優秀なコーディネーターであり、優れた技術を持つカメラマンでもある彼女は誰よりも私の写真を知っています。日々の撮影の中で私たちは常に既存の物の質を高め、新しい物を創造し、それに伴いうまれる喜びの為に全力を尽くしています。良い写真は決してカメラマン一人では完成されない。ライフスタジオでの撮影で学んだ大切な事の一つであるこの条件は、震える手では針の穴に糸を通せないという事と同じ位明確な事です。 息の合った撮影とは言葉そのものを捉えると、あうんの呼吸のような物を示すのかもしれません。ですが私はあうんの呼吸よりも撮影の中で互いをわくわくさせる事が重要だと考えています。一つ光を見つければカメラマンはそこに引き寄せられます。そして撮る事も、とらせる事も知っている彼女はその瞬間私が何を写すのかを想像してくれます。たとえそれがいつもの動きでは無かったとしても、一瞬意外性を感じながらも今まで得た情報から自らの行動を考え、結果物に期待を抱きながらアシストをしてくれるのです。この瞬間いつも私達はいつもわくわくします。お客様やコーディネーターの期待以上の物を写したいカメラマンの気持ち、そして何か生まれそうなその瞬間の中に居るコーディネーターの気持ち。そして、彼女がカメラを握りたての頃から努力するその姿を見てきたからこそいつも新鮮で新しい物を見せ続けていきたいという私の、少しのわがまま。 感情あふれるこの瞬間、私たちは最大の難所にたどり着きます。様々な気持ちが入った写真を仕上げる、それは上で書いた針の穴に糸を通すときのような瞬間です。大きな期待は手をふるわせ、見えそうで見えない小さな瞬間を何度も通り過ぎます。なにか足りなければ糸は通らず、気持ちだけが置いて行かれてしまいます。ですがこんな時にいつも横に居る人の一言が震えを止めてその先の結果へたどり着かせてくれます。大きな範囲ではない小さな範囲の中で子供に声を掛け合いその瞬間にたどり着き人と作る写真が生まれます。 大切な物は何か。カメラを持つ度、ファインダー越しの世界を見るたびに考えます。日々の繰り返しの中、撮影中私はいつの間にか前しか見ていなかったのではないか。カメラの横ではじけるシャボン玉がかかる度、横に居る人のありがたさを感じます。 幸せの記録、それが写真なのであれば私たち自身いつも大切な物を抱きそこにいる人全てを見なければいけないのだと感じます。 良い写真とは何か、その素晴らしい疑問は常に私に人の大切さを思い出させてくれます。 いつかこの写真を見て、その時その瞬間にそこに居た人たちが、幸せな気持ちになれますように。
静動
2015/11/28
0
Photo by volvoCoordinate by ta-na-Lifestudio No.2, URAYASU 七五三という日本の文化を記録に残すことは、ひとつの写真館として国の文化の維持へ貢献していることを意味しています。写真館として、こうした記念写真を記録していく事は大切な役割のひとつです。しかし私たちの役割はただの記念写真だけではなく、それと同時に「時間」そのものを記録し、原本という75cutの中に収めていく役割も担っています。 これはライフスタジオで七五三を撮影するうえでどちらも忘れてはいけない事の二つだと思っています。 前にも書きましたが、これからも変わっていく文化と守るべき文化、この二つの融合が私たちの求めている状態であり、これは「記念写真」と「思い出の記録」の融合でもあります。この二つの融合の必要性が特に顕著に現れるのが七五三です。 このふたつの融合を実現するには、私の中では「被写体を動かす力」が最上級に発揮されなければならないと考えています。それは写真の構成要素の数を増加させることであり、写真が生まれるまでの過程そのものを写真の中に凝縮することでもあります。 カメラマンはシャッター押すときいくつもの電波を受信しなければならないのでアンテナを張りますが、写真の構成要素を増やす行為はこのアンテナの数を何倍にも増やさなくてはなりません。数多くのアンテナから受信した情報を速やかに処理し、シャッターを押すまでのほんの0,3秒の間に頭の中で構築して整理していきます。 これは静と動の融合とも言えるかもしれません。 「静」とは経験に裏付けされた精密な技術を必要とし、「動」とは人に深く入ることを要求します。 our mindにこのような文章があります。 スタジオを作り出すたくさんの要素の中でも最も大事なものを選べといわれたら“被写体を動かす力”だと考えます。 被写体を動かすとは人の心を動かす事であり、人の心を動かすということは、自由になるということです。私たちは被写体を動かす力が認められた瞬間、写真が自由になります。 得ることができた自由をどのように行使するかはシャッターを押すまでのほんの0,3秒の間に出来上がるものにかかってきます。そして出来上がるものの質を裏付けるものは、紛れもなく技術です。 静と動の融合は、守るべき文化と変わっていく文化の融合であり、記念写真と思い出の記録の融合です。
『 富士の山 』
2015/10/31
3
Life studio ShonanPhoto by Masashi KurokiCodi by Mayuko Hara 人は物事の全てを言葉に表さないと気が済まない。 少々極端な言い方をしていますが、私たちにはあるひとつの物事に対し何かを感じると言葉として、そして文字として表すというある種の習性のようなものがあります。それがいわゆる「人間」の生き方というものなのでしょう。言葉を使って話し、伝え、理解をする、そして時にその言葉が人を傷つけたり誤解を招いたりもします。そしてその誤解を解くためにまた人は言葉を探します。今回はそんな「言葉と写真の関係性」についての想いを記そうと思うのです。 私は写真を撮っている仲間達と時折集合し晩ご飯を共にしたりします。そんな仲間達との席だけあって気が付くと話題はいつも写真の話になっていきます。そういった席でよく挙がる話題として「普遍的な美とは?」というものがあります。普遍的 : 例外なく全てのものにあてはまること。辞書にはこうありますが、普遍的な“美”となると難しくなり、更には「普遍的な美の写真」となればそれは単純に言葉では表現することが困難になります。勿論、言葉だけでの意味では、全ての人が美しいと認める写真ということなのかもしれませんが、そもそもそんな写真は存在するのか分かりません。しかし私たちはその普遍的な美の写真を説明できなくてはならないところに位置し、追求しなければなりません。だからこそ毎度その話が終わる事無く続いていくのです。 私はこんな事を毎日、毎回の撮影そして日常で頭の片隅に置きながら生きているわけですが、一つそこにたどり着くために必要なものを感じました。それは条件をどれだけ増やし続けられるかということ。これが普遍的な美の写真です。というものを残すという事ではなく「いつでも、どこでも、どんな状況下でもそれを追求し続けるための条件を増やし続けられるか」ということなのではないかということです。例えば、日本を代表するものとして富士山があります。その富士の山は朝でも夜でも夕暮れでも夏でも冬でも全てにおいて美しさを表現しています。そしてその美しさは単に美しいだけでなく時に自然の厳しさをも美しさとしてしまいます。つまり普遍的な美というものはただ一点についてだけでは美と成らず、多くの環境や状況で対応し吸収できること。そのために自己で条件を立て続け越えていくことなのではないでしょうか。到底まだまだその先は長い道のりです。永遠にたどり着けないかもしれません。しかし、だからこそ私たちが向かい続けなければならない道なのかもしれません。 ここまで散々、言葉について話してきましたが先日そんなことを払拭するような出来事がありました。それはある女の子との出会いでした。その子は言葉を使うことなく私に眼で話しかけてきました。話しかけられただけでなくこちらもしっかりと彼女の気持ちを理解することができました。その瞬間、胸が暖かくなりまるで人間の神秘に触れたかのような感覚になりました。その暖かさに包まれた瞬間、私はこう感じました。言葉は時に確認するだけの手段であり伝える手段はまた別に存在するのだと。 私は今、全てを言葉で言い表す事など出来るはずもないこんなにも普遍的に奥が深い人間に生まれて幸せであると感じています。
Documentary,
2015/10/31
0
Documentary,虚構を用いず、実際のままを記録すること。 新生児の撮影をしながら、個人的に『Documentary』というテーマを設けていました。ライフスタジオで、私たちが日々撮影する様々なひとの姿、その記録は、広義では『Documentary』なのかもしれません。しかし、そこは写真を撮る為に設えた非日常の空間であり、そこを初めて訪れる人に、家族に、まるで自分たちの家で寛いでいるかのように『振る舞ってもらう』こと、あるいはそう見えるように演出すること、それは不思議なリアルと虚構の混在を生みます。 ライフスタジオでよく言われる、『自然な写真』。陽のあたる部屋(のように感じさせる場所)で、家族が、あるいは誰かが、『その人らしい』、『その家族らしい』と感じられる佇まいで、そこにいる。カメラの存在を意識させない、その姿や表情や仕草、世界観の調和、そういったものを形容するのに、『自然な写真』という表現が用いられるのではないでしょうか。しかし、ただその人を、家族を、その非日常の空間にポンと置いて『自然な感じでいてください、カメラのことは忘れてください』と言ったところで、『自然な感じ』になる訳ではないので、撮影者は自分という存在を媒介として『被写体』という存在と非日常の空間を調和させ、世界観を構築します。その方法として、撮影者が被写体と関係性を築き、相互に一定の共通した認識や共感を持って『被写体を動かす』ことを試みます。そうして撮影される写真は、本来であれば『写真を撮る為に設えた非日常の空間にいる』という不自然な状況を、まるでその人が『自分の部屋で、寛いだ表情を見せる瞬間』という表現にすることもできるのです。その『人』という存在はリアルで、その人とその空間との関係性は虚構で、撮影者とその人の関係性はリアルです。私たちが撮影する写真は、多くの場合、そんなリアルと虚構を織り交ぜてイメージを作り上げ、ストーリーを構成しているように思います。 しかし、新横浜店で新生児の撮影をしながら、そういった『撮影者が媒介となる被写体と空間との調和』に難しさを感じていました。新生児という被写体は、『自然な感じでいてください。カメラのことは忘れてください』と言うまでもなく、最初からそんなことに意識を向けません。彼らの知覚はまだ曖昧で、無論言葉によるコミュニケーションが図れる訳でもなく、感覚的に不快か、そうでないかを判断し、その意思表示はほぼ泣くことでのみ発せられ、1日の多くの時間を眠るか泣くかで過ごします。彼らは、限りなく純粋に、自らの存在をあるがままそこに置くことができる。カメラの前で緊張することもなく、照れたりすることもなく、ただ不快であれば泣き、眠ければ眠る。母の手を求めて泣く。その姿は、こんなにも小さく、か細く、それでいてあまりにも純粋で、鮮烈な生命力を放っている。言ってしまえば、『新生児』という被写体は、究極的に『自然な状態』であるのではないでしょうか。そこがどんな場所であろうと、どんな空間であろうと、感覚的な不快感さえなければ、ほぼ『ありのまま』でいられる。新生児の撮影をしながら、パパやママとそのBabyの小ささの対比や、家族の関係性、Babyの可愛らしさ、そういったものにアンテナを張りながら撮影をしてきました。それは、新生児に対してというよりは、Babyという存在を中心とした家族の姿であり、パパママに対して自らを媒介として関係性を構築し、その空間を構成し、表現することが可能だったからです。しかし、相手がただひとりの『新生児』であった場合、自分がどれほどに向き合おうとも、『被写体と空間との調和』には限界を感じました。そこで、敢えて『ライフスタジオっぽくない写真』を求めてみました。前述の通り、ライフスタジオで言われがちな『自然な写真』が、『本来なら不自然な状況にありながら、カメラの存在を意識させない、その姿や表情や仕草がその人らしいと感じられ、世界観が調和されている』といったものであるならば、そこにおける虚構の部分を排除して、そのリアルの部分に集中して記録することを試みてみたのです。胎内の名残を残す新生児の姿、その一種の生々しさ、そこに虚構を交えないリアル。黒い背景の中、そこにただひとつ生命としての存在感をシンプルに置き、少しコントラストをつけたモノクロームで表現する。人として生まれた、その限られた時期の姿。脂肪がついてぷくぷくとした『赤ちゃん』という可愛らしさを持つ前の、生命としての神秘を感じさせる原点の姿。そのありのままの姿はリアルであり、それを前にした私は観察者であり、彼に作為的に働きかけることはせず(できず)、ただ環境を整えながら、そのリアルを、記録する。泣くという行為で、自らの命をこれでもかと訴えかける彼の姿を、あるがままに記録する。虚構を交えずに、真っ直ぐに。生命としての、その剥き出しなリアルが、虚構を交えずともただただ美しいと思うから。 Documentary, Life studio No,17shinyokohamaphoto by Reiri / coodi by yonezu
『Lighting』
2015/10/31
2
photo by Ryo coordi by Minna Yokohama Aoba 美しい光とはどのような状態の光を言うのでしょうか。『美しい』と言ってしまうと撮影者や、見る人の好みも入ってしまいますが写真としての美しさには有る程 度の理由が存在します。 光という物は写す写真によって正解が違います。その一枚に応じた適切な光は決して教科書的なセオリーにそった物とは限らないからです。『その写真のための光』考え方によってはどの写真にも同じ事がいえますがこれを元に一度考えてみたいと 思います。光は写真の質感(雰囲気)にも関わってきます。拡散された柔らかい光なのか、それとも直射日光のような強く、固い光なのか。 この選択にで写真の質感は大きく変化します。また、写真の雰囲気を作ると言う事は目に見た印象自体作ることが出来るという事でもあります。写真はその一枚から見る人が想像力を働かせます。人それぞれの感性により、同じ写真でも受ける印象は皆違うでしょう。しかし、共通の感覚で光によって『美しさ』を感じる事が多いように思いますが、これは主にその一枚に適切な光を捉えた写真に対して感じる感覚なのだと思います。光に違和感を感じた瞬間、その写真の美しさは半減してしまいます。構図やポージング、表情、光、インテリア、コーディネート。すべてが生きていて、そこを光が照らせば一枚の写真に魅力が生まれます。人を引きつける写真は使用している光が美しく、その写真は様々な印象を人にあたえ、美しいという感覚か ら人の想像力を掻立ててくれます。 写真は見る人すべてに想像する自由が許されているのだと思います。しかしイメージという物は人が組み立てる物のため、撮影者が写真にこめた感覚をそのまま捉えてくれると は限りません。だから撮影者である私たちは、光を使い、その他の構成要素を利用し、イメージを伝えるために試行錯誤し ます。 今回の写真は日没後、自然光が全く入らない状態で撮影した一枚です。ライトボックスを使い日中の光の質感、光量を再現することは光を知ってしまっている私達には少し難しい事でもあります。ですから、ライトボックスでなければ作れない光の空間を作っていく必要があるのです。自然光で表す事が困難な色、それにより演出される写真の雰囲気。そしてカメラ内の設定によるカラー調整。後から手を加える事無く、イメージをそのままライティングを使い再現していく。私はこの作業に料理や工作に似たニュアンスを感じます。制作者が居なければ完成しない何か。それは作る写真であり、決して自然任せでは完成しない物です。 写真の可能性はそこらへんに無数に転がっています。カメラの中にも外にも私達の表現の可能性が沢山あるのだと感じています。
Configurer
2015/10/31
0
photo by yatsucoordi by cho「創作的に写真を撮ることは、写真を流行に引き渡すことで、<世界は美しい>という言葉は、これがその際の標語にほかならない。こういう創作写真の素顔が広告であり、また連想であるからには、これと正当に対立するものは曝露であり、また構成なのだ。」 ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが書した論文「写真小史」に書かれている書かれている文章の一部です。 現実を美化したり、脚色したりするのではなく、日常的な眼差しの中では見えてこない現実の相貌を視覚化する方法の一つとして写真を使うことが、彼の言う構成的という表現だと私は理解しています。 写真館という場所が単に記録の場所であれば、私たちライフスタジオが存在する理由を説明する全ての言葉は嘘になってしまうでしょう。 何故ならライフスタジオは美しさを表現することを義務としているからです。 その美しさとは、ベンヤミンが言う構成的写真、即ち”日常的な眼差しの中では見えてこない現実の相貌を視覚化すること”と言い換えることもできるのではないでしょうか。 一般的には赤ちゃんは1歳~1歳半で自我の誕生を迎え、2歳で自我の拡大をし、3歳になると自我は充実を迎え、これから自制心の形成へと向かって行きます。 1次元の認識が2次元になり、2次元の認識が3次元になるように、驚くべきスピードでパーソナリティーを構成していくわけです。 だからこそ私は、構成的写真の要素が色濃く出る撮影の一つが七五三だと考えています。 自分たちの子供でもあり、でも1人の人間でもある。 互いに時間をかけて認識しあい、親と子だけではなく、人と人として家族でも関係を作っていくからこそ、日常的な眼差しの中だけでは見えてこない現実を視覚化することが、美しさの基準なのではないでしょうか。 写真を通して、私たちが遂行するプロジェクトは何なのか。 それは、家族を構成する1人1人が、互いの存在を認識しあえる空間を美しい思い出として記録し続けることではないかと思うのです。
Pure and Simple
2015/10/31
2
Photo by volvoCoordinate and write by kudoLifestudio No.2, URAYASUまるでそこにいることが、当たり前かのように。その場所が、その時間が、その衣装が、その写真が、あなたのものであるかのように感じる。それは、純粋でシンプルなもの。「その人だけの写真」であること。「その人にしか出せない何か」があること。その写真の世界が織りなす物語の主人公であり、その主人公が違えば物語も違い、それぞれにその人自身が生きている写真であること。それこそがライフスタジオにおける被写体の概念であると私は考えます。「ローマの休日」、「マイ・フェア・レディ」のポスターのオードリー・ヘップバーンを見ていると、そのポスターにとてもフィットしていて、オードリーが纏う衣装・世界観・背景、そのポスターを構成する全ての要素が彼女の為にあるような感覚に陥ります。オードリー自身の被写体としての魅力や演技力、人としての素晴らしさももちろんあるのでしょう。しかし、そのように全てが彼女の為に構成されたかのようなバランスと自然さは、それだけでは説明ができません。それは「映画」の世界だから、もちろん演出というものがあります。そこに出演している女優が、あたかも自然に主人公のように見えたり、その世界の住人のように感じられるのも、演出という要素が色濃く出ていると思います。それは映画という非日常を、その女優の日常のように感じさせる技術であると私は思います。その被写体がそこに存在していて当たり前の様な、かと言ってその世界観は日常では味わえないような。そんな「自然」と「不自然」を融合させるのが、私たち撮影者たちが日々行う写真を撮るということです。スタジオという非日常の中で、その被写体の存在を自然に引き出すためには、「その人」に合った衣装と、「その人」らしさを引き出す声掛け、何よりも「その人」が誰かということを知ることが必要です。「その人」が誰かということは、年齢が高くなればなるほど隠れていきます。赤ちゃんのように、泣いたり、笑ったりして感情表現をする年齢ではありませんし、人目も気になる年齢です。だから、私たちは会話をし、「その人」の反応を受け取り、またさらに投げかけ…。そうして「その人」が誰かということを徐々に知っていく過程を踏みます。そうして「その人」から出された反応を受け取って、どんな衣装が合うのか、どんな場面が合うのかを考え、どのようなポージング・どのような動作・どのような表情を引き出せば、その人が自然で魅力的に見えるのかを考えます。それは、被写体・コーディネーター・カメラマンの相乗し作用していく関係性と、お互いに投げ出し受け取り反応しあうことで世界観の広がりを生み出すことになります。そこに生まれる写真は、自然で、統一感のある写真であり、それが「その人」自身の写真になる。そうしてライフスタジオの写真は創出されていくと私は思います。被写体である「その人」は、恥ずかしがりながらも少しずつ心を許してくれて、私たちの存在を受け入れてくれて、一緒に撮影に入ってくれたvolvoさんは、私のコーディネートを受けて、被写体である「その人」から発せされる様々な要素を見て、さらに「その人」自身を引き出すような声掛けや、わかりやすい動作の促し方をしてくれました。そしてその人に合った演出は淡いモノクロ。コントラストが強く、明暗がハッキリしているモノクロ写真はよく見ることがあります。しかし、その顔立ち・表情・動作、その場所に合ったもの、何よりも「その人」を表すためにvolvoさんは淡いモノクロという表現をしたのだと思います。その時に一緒に撮影に入った被写体・コーディネーター・カメラマンが、それぞれ、投げかけ、受け取り、反応して生まれていく写真。決して同じものは撮れない写真。なぜならば、人はひとりひとり同じひとはいないからであり、「その人」自身の美しさや魅力を引き出す写真であるからこそ、その関係性や演出、声掛けや動作も変わってくるからです。ライフスタジオに来る誰にでも、「その人」にしかない美しさを、「その人」だけの写真を生み出していくこと。そのためには、ポスターの様な演出も、モデルのように撮ることも必要です。重要なのは、「その人らしさ」を引き立たせる世界観であることと、「その人」がいて自然な写真であること。まるで映画のワンシーンのように。まるでファッション雑誌の一ページのように。被写体と、衣装、世界観が統一された写真。だけど、その写真はそれだけではない「その人」自身を表す写真となること。それがライフスタジオの写真が生み出されるということではないかと私は考えます。
わかりやすさ×楽しさ
2015/10/31
5
Life studio kokubunjiPhoto:gakkiiCodi:saori人生を生きる上でいつも思う「わかりやすい人間でありたい、常に人生や状況を楽しんでいたい」写真を撮る上でいつも思う 「誰もが見て、また見返して笑顔がこぼれる写真が撮りたい」 いつもそんな事を思っています。 人生も写真も結局は似てきてしまうんだなと、つくづく思います。写真の良さ、楽しさというものを、人に伝えてもらって笑う。それ自体も素晴らしい行為だと思うのですが、写真館で撮影している以上はそんないちいち自分の中の絵を人に説明して回るわけにはいかない、ぱっと見ただけで世の中の人に、大げさですが全ての人に自分の思いやその時の撮影の空気感が伝わらなければ意味がないのです。 動画など言葉や動作という物を使って笑いを獲得している大人たちにとって、そこから音と動きをとってしまう写真は様々な制約がててくる。言葉は万人に伝わるもの、動きも万人に伝わるもの。しかしながらその二つを取ってしまうことで、こんなにも物事の意図や雰囲気を伝えるのが難しくなるのであろうか。 関係性、構図、アイディア。ここにわかりやすさの難しさを説く要素が隠れているのだと思う。 アンテナを張ること、お客様とのキャッチボールを恐れない事、また恐れさせない事。そして大事なのは自分がいかにお客様と楽しむかという事。 仕事として撮影している事を忘れずに、仕事として撮影をしない事。両方を兼ね備えた時に心から楽しい時間をお客様と過ごす事ができます。 その結果、お客様であった御家族は、親戚のように思え、グルーブを共感することができるのだと思います。 写真のレシピ 関係性:何度もライフスタジオを利用いただいているお客様だからこその私たちに対する信頼。構図:全てを一枚で表現するためのスタートラインの縮図アイデア:「今年は走る一年にしたいと思うのです」というパパからの一言
fuse,
2015/10/31
0
Photo by volvoCoordinate by kudoLifestudio No.2, URAYASUライフスタジオのホームページには「日本の写真文化を変える」という言葉があります。この言葉の意味を少し考えてみると、七五三やウエディングなどのいわゆる日本で写真を撮るといえば!というような行事だけではなく、誕生日や普段の何気ない日常の中に写真館が存在する事、それが文化を変えるという事の意味の1つだと思っています。写真館とは、元々普段の生活からは遠い存在でもありました。私は子供の頃に写真館に行った記憶が一度もありませんし、七五三さえも写真が残ってません。それが、ライフスタジオに来てくれるお客様の多くは誕生日記念に来店してくれます。私たちが普段何気なく使っている「成長記録」という言葉も、今まであった写真館の概念から見てみれば「成長を記録するためにわざわざ写真館まで来てくれる」という意味はとてつもなく大きい変化であると思います。しかし、一方で私たちは今までの日本の文化の通り七五三やウエディングも撮影しています。写真文化を変えると言った私達が、七五三を撮影している理由はなんなのでしょうか。私は、それは日本の写真文化とのある意味での融合を目指しているからだと考えています。「日本の写真文化を変える」という言葉の意味は、何も今まであったものを全て変えてしまおうとする動きではなく、より「人」に集中すべく形式を変化させることと、変化をさせず守るべき日本の文化とを合わせる事、言い換えると日本の良き文化をより良くしようとする動きなのだと思っています。確かに七五三やウエディングなどの行事以外でも写真撮影をするという新しい価値観の創出は概念の変化を生み出しました。しかし変わるべきはそれだけではなく、重要なのはより「人と人」が密接した関係性を作り出し写真へと還元されることであり、気付かなければならないのは、形式の変化と同時に元々あった形式をより昇華するという意味が含まれています。通常の撮影と七五三の撮影は「似て非なるもの」と考えています。ライフスタジオの撮影方法を七五三に適用することは、新しい命を吹き込みます。それは私たちの持つ具体的な方法によって成されます。それと同時に、気をつけなければ大事な文化が踏襲されない可能性もあります。ともに撮影に入った工藤さんの持つ着物への知識と写真に対する冷静さによってそれは成されました。「人生を写す」ことと「美しさを表現する」ことは両立されなければなりません。「自由」という言葉の中には前提として果たすべき責任が含まれていて、七五三における果たすべき責任とは日本の文化を美しく表現することなのだと思っています。これからも変わっていく文化と、守るべき文化。この二つの融合が、私達が進むべき七五三の方向性だと信じ、浦安店ではこれから七五三の撮影により集中していこうと考えています。
前へ
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
/ 155
次へ
コミュニティに戻る
フォトジェニックに戻る