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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
『未来への計画』
2015/10/31
0
人はあらゆる生物の中で優れた変革能力を持っているといわれています。私達はささいなことに気付き、求め、周囲の世界を変え他の人達を変え、自分自身をも変えながら生きています。 過去とは去った過ちと書きます。なんだかとってもネガティブな印象の言葉ではないでしょうか。それだから振り返るという作業を私達は繰り返ししているのかもしれません。過去があってからの今の「私」です。過ぎ去っていった経験を元に工夫してきたのが「私」ですね。そう、変わるから、変わりたいから、変わったとき嬉しいと感じることができるから。 それは周りの人との関係をも変えてくれる。もちろん すべては過去があったから、今を、そして未来をつくってくれます。 1枚の写真を残していく立場の私もそうです。大いにそうなのです。常に物足りなさを感じながら写真を撮っています。表現しきれないほどの完全な、補完されている写真を撮る事はいつになったら出来るのであろうかと、だからこそひたむきに撮って、見直して次なる写真を撮っていくのです。 2013年の3月のPhotogenic河野さんの「60days」 生後60日の子供を親の手のひらの上に位置してその2ヶ月という小ささをとても美しく表現した写真。そしてそこには「情報収集と技術 それらをかかせない仕事をしています」と書いてあります。私の中にはこの言葉がとても響きました。今の自分に必要であり、これからも永遠と考えなければいけないことだと感じております。情報収集無しには向上は無いですし、技術が無ければ妄想で終わってしまいます。その為、そうあるべきではないと思うが為に人は自分を少しづつ変えていこうとなるのです。それが人ならではのことであって「人として」ということになるのだと思います。 今回、この子は30days手のひらの上での表現を考えた時に、やはりいかに子供を小さく見せるか、そしていかに幼く見せるかがキーになってくると思います。どこかカチッとはまるポイントがどこなのかを観察した結果。パパの親指と人差し指になりました。この子を手のひらで包むように持ったときにこの30daysの子の腕は父親の親指から人差し指のラインにピタッと収まります。この子の小さいからだは父親の大きい手のひらの中でつつまれ、そして撮影に疲れ泣きました。この写真は河野さんが作ってくれた写真から産まれたものです つまりは過去があったから、今を、そして未来をつくってくれます。 どのPhotogenicに対してもそうすべきでその想像や妄想をストックしていく事を習慣化し自分を自分の力で変えていく、自分を変えるために人とかかわり刺激をもらいながらいくことを「未来への計画」とします。 Photo by Chiba , Codi by Younseong
『写真=写心』
2015/10/26
0
彼女と私 パパママと私 アシスタントと私 みんなが一つになった瞬間繋がれた!!家族のようになれた この家族に出会ってなければ・・・この光が差し込んでこなければ・・・この後ろの窓もなければ・・・彼女の仕草やポージングが違っていたら・・・パパママが違う雰囲気だったら・・・・アシスタントとの関係が出来ていなかったら・・・私が撮影していなかったら・・・みんなの雰囲気がこのような形ではなければ・・・など数多くの条件が一致していなければこの1枚の写真は撮影出来ていないだろう。奇跡のような瞬間を言葉では表現できないものをどう私たちが表現するのか写しだせるのか奇跡を奇跡のままにしない。被写体の内面に光り輝くものを写し出す。しかし被写体の内面を引き出しただけでは何かが物足りない写真だからこそそこに1つ、1つ、プラスしていき満ち溢れている目に見えるものにする。全てを写真として自由に表現する私たちの特権であり武器である。そのために悩み考え解決も繰り返しする事により私たちも輝き続けられる。お客様がいるからこそ私たちも輝き続けて居られるし、お客様も私達がいるからこそ残せる物、色あせない心の中にも目に見えているものも宝物として輝き続ける。 すべてが合わさっての何百枚の中の一枚たった一枚??と思うかもしれないけれどその一枚に価値があり宝物になる。だからこそこの一枚が奇跡のように輝き続けていく。彼女の人生の中で何百枚と残されていく写真の中でこの一枚を見た時にきっとこの日の事をパパママの様子だったり私たちの事だったりこの頃の自分を思い出してくれるだろう。それはその時のみんなの優しい気持ちや見守っていた気持ちが伝わってくるような写真だから。言葉よりも大切なもの [写真=写心] を見逃さないで写し続けて行きたい。 Lifestudio:mitoPhotographer:yukiCoordinaite:Erika&Karen
人と生きる
2015/10/12
2
今という時間がものすごく長く感じて、早く時間が過ぎないものか、早くこの状況から抜け出せないかと、今を受け入れられずに、すぐそこにある明日に臆病になるような、そんな時期があったことがあります。10代の頃、自分が学生ではなくなり、社会人となり仕事をしていつか家庭を持ち、人の親となり、20代、30代、40代を迎えるという、自分の人生というもの、将来というものを想像しては、なかなか想像がつかず、どうすればいいのだろうと思うばかりでした。目の前にいる、人、人、人間という人間が、何食わぬ顔で歩いていても生きている。全ての人に、人生があるのだとそこらじゅうを眺めて思っては、みんなよくまっすぐに生きてるな、と感じるばかりで、この世界でどのように生きていきたいという明確な希望が持てずにいました。いつしか「早くばあちゃんになりたい」、そう口にするようになり、自分がどうしたいかは分からないけど、生きていたいという気持ちだけはあるという慢心ばかりであったと、今思うと恥ずかしさしかありません。 ばあちゃんは、ただ生きていたのではなく、確実に生きてきた人だったのだと、今だからこそ思います。わたしはわたしが生まれてきてから出会った祖母という姿しか知らず、その楽しげに笑う一面しか見ていませんでしたが、時折話してくれる昔話から、生まれて間もなく実の母親が亡くなったこと、親が再婚してから歳の離れた兄弟が3人できて母親同然に面倒を見てきたこと、戦争中は赤痢にかかって死ぬ寸前だったこと、命を救ってくれた女医の先生の名前を70年経った今でも覚えていること、ずっと貧乏で働き詰めだったことなど、わたし自身が億劫になったりしている日々よりも遥かに苦労も挫折も耐えられなくなりそうな人生を経験し、それでも今の祖母になるまで1分1日1年、時間を飛び越すことなく、現実から逃げることなく生き続けたからこそ、いつも寛容に笑っていられたのだと思い知りました。そしてまた、今だからこそ分かったことがあります。人との出会いがあったからこそ、生きてこれたのではないかと。数々の苦労も、その時々に出会った人との支え合いの中で諦めずに生きてきたのだと、人々の中に残る祖母の話を聞いているとより強く感じることができ、同時に自分自身でもそう思えたからこそ10代の頃の迷いは今、なくなっています。10代から20代になり、次第に自分自身のやりたいことよりも、この人生の中でやるべきことを想像しながら、自分の人生をどのように使うのか、どうすれば役に立てるのかを考えていると、次第に同じような意志を持つ人達と出会うようになり、考えや行動を共にする中で、まだまだやることはあると思うようになりました。 下関店がオープンしてから半年が経ちました。下関店のこの場所は、去年の12月、下関中の物件探しをしている時に直感ですぐに決めました。社長もまだ店の中を見ていない時に、です。•まちの中にあること•こどもたちの通学路にあること写真館という店、そしてこの場所があるからこそ出来ること、したいことを考えた上での自分なりの条件だったのですが、もうひとつ条件がありました。•おじいちゃんおばあちゃん、家族みんなで来れる場所だから、他にも見ていた入口が二階にある物件はやめました。通路の狭い物件もやめました。ワンフロアにできて、車いすでも入って撮影できる場所だと思い、今のこの物件に決めたのです。 いつまでも祖母が元気でいてくれると思っていました。だから、わたしは写真を仕事にしているのにも関わらず、祖母とその家族の写真を改めて撮ったことがありませんでした。それが大きな後悔に変わり、叶わない願望にもなりましたが、出来ることなら親子だけでなくおじいちゃんおばあちゃんも含めた家族写真を残してほしいという気持ちになったのです。「一生懸命に生きてきた人たちの生を、繋いでいくこと」改めてわたしの命題になりました。 今では、下関店での撮影の半分くらいはおじいちゃんおばあちゃんが来ているのではないかというくらいです。その多くは、下関から離れたご家族が帰省のタイミングで、なかなか会えないおじちゃんおばあちゃんと写真が撮りたいという希望からです。そんな下関店の9月のある日。下関に住むひいおじいちゃんひいおばあちゃんと一緒に撮影がしたいとのことで、東京からおばあちゃん、そのこどもさんたち、そしてお孫さん計7名が帰省をし、9名でご来店されました。すごく不思議な縁で、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんは、スタジオのあるこの町で生まれ育ち、おばあちゃんも小学生までここで過ごしていたそうです。 どこで生まれて、この町は昔は一番栄えていた、正月はあそこでたくさん買い物をして…、この町で過ごしたたくさんの思い出が湧き出ます。お子さんたちと別々にスタジオに来たので、昔話を30分ほどしたのでしょうか。わたしが知っているこの1年足らずの上新地の町の、80年前の景色が浮かぶようでした。ひいおばあちゃんへ撮影中に投げかけた「むすめさんはどんなお子さんでしたか?」という質問に昔を思い出してこわばった顔が笑顔になり話をしてくれた瞬間が忘れられません。おばあちゃんのこども時代を聞いて周りも笑っていました。目の前にいるひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、昔はひとりひとりの人生で、そこから出会い、父親母親になった。その娘さんが今はおばあちゃん、そしてお孫さんも母になり、ひ孫に囲まれているという、1日1日を休む事なく生きてきたからこその今。 「この撮影のために、この場所を選んだのかもしれません」そう、伝えたのは冗談でもなく、この写真のイメージがあったからこそ、今、ここで写真を残すことができたのだと思います。車いすでも一緒に撮影に入る写真。ずっと、このイメージは出来ていました。このイメージがあったからこそ下関店はここに存在しています。 手をにぎること。側に寄り添うこと。目をみつめあうこと。普段しなくなったようなことでも、この場所では小さなきっかけをつくることができます。その感触を、その瞳を、その気持ちを、その命を忘れないように。生きている、生きていく。ひとひとりの存在がこの世界に突然出現したのではなくて、人の生の上に生きているということを、家族を通して気がつくことがあります。誰一人かけていても、わたしはきっといなかった。この世界に生きている「わたし」ひとりひとりが、ひとりではなく生きているということ。生きてきた。あなたと生きてきた。その光景が目の前にある奇跡。いつも今が一番美しい。そう感じた撮影でした。shimonosekikawano yoh
to be prove.
2015/10/1
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photo by yatsu coordi by kobayashi私たちができることは、存在の美学に対して常に提案し続けることだと考えています。 真新しいものではなく、新しく珍しいものでなければならない。 しかし、その新しく珍しいものに理論や価値が付与することによって、普遍的なものへと変化する。 普遍的な美しさとは、そういうものの積み重ねではないかと思うのです。 「君は自由だ。選びたまえ、つまり作りたまえ。」 これはサルトルが多く残した自由に対する名言の中の1つです。 「カメラマンは自由にならなければならない。 それは、被写体を自由にすることによって可能になる。 また被写体を自由にすることは、コーディネーターを自由にすることにもなる。 そうして初めて、自由で自然な空間は存在し、それを共有することができる。」 これは私が尊敬するライフスタジオのカメラマンが教えてくれたことです。 この自由で自然な空間の存在は、「作れる」か「作れない」かの2つしかありません。「作れる」という状態がスタンダードになると、その次に『空間の範囲』が課題になると考えています。 スタジオにあるすべての環境や条件は、自由で自然な空間の中にあることをベースに作られています。何故ならそこが私たちの出発点であり、着地点でもあるからです。 その空間にあるすべての環境や条件を組み合わせることは、サルトルの言う「選び作ること」と何ら変わりはありません。その空間の範囲の大小によって、自由の範囲も、表現の範囲も変化するのです。 例えば、空間の基準を部屋にした場合、その部屋から出ると突然自分の存在を見失います。そうすると自然と部屋の中からしか撮影ができなくなるのです。しかし反対に、その部屋の外にまで空間を広げることができると、空間を表す単位が変化します。部屋ではなくフロアになると、これまでとは全く違った空間に対するアプローチができるわけです。 この空間の範囲を広げるという行為は、果たして写真に対する影響だけなのでしょうか。 私はそれだけではないと考えています。 携帯の電波で言えば、通信範囲が広くなると、基地局も増え、当然電波の質も良くなります。これは、その空間の範囲が広がれば広がるほど、人と人の間で共有できる、あるいはキャッチできる信号は多くなるということなのです。 被写体とコーディネーターだけではなく、その空間にいるすべての人と、互いをより深く共有することができるのではないでしょうか。 私たちは常に自由であり、選び、作ることができます。 先入観とか固定概念とか、そういった類のものは本来無縁なはずです。 自由の空間範囲を最大限に広げ、そこにあるすべての環境と条件を使って、存在の美学に対して常に提案し続けること。それが私たちが挑戦し続けるべき課題のひとつだと考えています。
家族のはじまりはあなたとわたし
2015/9/30
0
人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・草加店がライフスタジオの中で存在している理由は、実践をする組織というスローガンをスタッフ一人一人の日常生活から生み出し、自ら人生の主人公になっていこうとことから始まっています。つまり自ら成長する人になって、そのような人々が集まって何かを一緒に創っていく集団を目指しています。そしてそれが持続的になされ、人と人との間に与え与えられるサイクルが出来ていくことを希望しています。このような目的が今までは漠然としていた。抽象的な言葉で目的を立ててしまうと結局私達は何をしているのか?なんの為にやっているのかが分からなくなってしまいます。このような事例は特別な事ではなくよく見られるケースです。もちろん、私自身もそのような経験を沢山してきました。例えば、幸せになりたいという願いをもって毎日を生きるがその幸せというのが自分にとってどんな意味を持つのか?それが具体的でなければいけないという事です。そして、その為に自分の考えと行動を一致させそれを目に見える形で表していくのです。それが幸せの実体です。このように組織の中でも私達の掲げる『スタッフ一人一人が人生の主人公になる』という目的が実体になるために必要なのがプロジェクトです。 今現在、草加店ではSixpackというプロジェクトを行っています。このプロジェクトは撮影現場で出会ったお客様と私達を繋げてライフスタジオの価値を目に見える形で証明するというものです。このプロジェクトを行う過程でライフスタジオの中で自然と作られてきたマニュアルや固定概念を崩し、自らの限界に挑戦していこうというものです。そして、自分自身の理論と実践を合わせて私は『今これをやっている』ということを具体的に証明できるプロジェクトです。私はこのプロジェクトの中で一つの主題を掲げています。それが『家族になろうよ』です。ここで話す家族とは血の繋がった家族の事だけに限らず『共に過ごしている』というお互いの認識のもとライフスタジオで出会ったお客様と私達の関係のことを話しています。 私はお客様をお客様とだけ見るという固定概念を極力持たないようにしています。理由はお客様も一人の人だからです。そして働く私達もまた人なのです。人が人を撮る写真館では決められた枠の中だけで目の前の人を見てしまうといつどんな時でも似たような写真になってしまう可能性があります。お客様をお客様とだけ見てしまうとスタジオ側の都合でシステムを作り主導権をスタジオ側が持つことになってしまいます。それが本物の感動に繋がるのでしょうか?愛するこどもの成長そして家族の記録を美しく残したいというお客様の希望に対してマニュアル的対応は合わない可能性が非常に高いです。このことについて私達ライフスタジオは考えました。そしてそのような作業的な仕事に対して一つの代案を考えました。ライフスタジオは極力お客様とスタッフの境界線を無くし互いの存在を『人と人』という表現をしながらライフスタジオと出会う互いの『関係』にポイントを置き写真館に対する存在理由を新たに提案しました。そして生まれたマインドが『美しさを表現し思い出を記録する楽しみの空間』です。このマインドを元に現場でそれをどのように実践すれば良いのかと私なりに考えたのが、お客様を自分の大切な家族のように思い接しよう、仲の良いい友人のように交流しようと考えました。そしてそこで生まれた主題が『家族になろうよ』でした。なので、いつもこのキャッチコピーを撮影前に自分の自己紹介やライフスタジオの紹介と絡めてスピーチをしています。こうして、自分の想いをお客様に伝えることで確実にお客様の心に対して『最初に手を差し出す』実践をしています。そして、撮影の過程でもこのように私達から何かを投げかけるという行為を絶え間なく続けていきます。特に私は家族写真のシーンになると全身からとてつもないエネルギーが湧いてきます。なぜならば、人と人との関係を美しく表現することに生きがいを感じているからです。撮影を始めて一年経ったある時に写真の教育を受けていた中でこのような話がなされていました。『自分だけの武器を作りなさい』この言葉を私は素直に受け取り、長きにわたって家族写真に集中してきました。最初は技術的な部分から学び、次に家族の価値に対する考えを自分で整理したり様々な家族写真の資料を集め多くのアイディアを吸収しました。その過程で、家族の繋がりを表現することから今現在では家族の中の個にフォーカスを当てたり、家族の物語を75CUTの中でいかに表現するかを考えるようになりました。そんな中でsixpackプロジェクトの目的と私の家族写真に対する生きがいが交わり、ライフスタジオの撮影スタイルとは何かという原点に振り返って写真ということを見ていくことにしました。 ライフスタジオを直訳すると人生の写真館です。つまり、ライフスタジオは被写体一人ひとりの人生を一端の芸術作品として、人の存在の美しさを生涯かけて創り上げていくという『存在の美学』を実践する空間として希望しています。このように話すと壮大なスケールのように感じ、ライフスタジオがすごく非現実的に見えるかもしれませんがそうではありませんのでご安心下さい。ライフスタジオはその存在の美学を極力日常生活の中から見出そうとしています。なぜならば私達の生活の積み重ねが人生そのものだからです。寝て、起きて、ご飯を食べて、学校へ行ったり、仕事をしたり、旅行に出かけたり、そのような積み重ねのことを示します。楽しいこともつまらないことも苦しい事もある日々、その毎日を生きることを生活することと呼んでいます。そのような生活の中で、人は誰かと共に過ごしています。そして、人間として成熟してきたころに人生を共にするパートナーと出会い結婚をし夫婦という関係を築きその過程で新しい命を授かります。産み、産まれるの関わりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繋がっている家族は同じ屋根の下で一緒に暮らしています。こどもが生まれて家族がまた一人増えて新たなスタートを始めた夫婦には様々な変化が生じます。それは、一人の人間として生まれてきた自分が誰かの父親、誰かの母親という存在になります。社会の中でも○○君のお母さん、○○ちゃんのお父さんという形で子供中心の生活になっていきます。このように自分の存在以上に大事な存在ができてくるのです。その過程で惜しみない愛情を注ぎ、伸び伸びと成長していく我が子に沢山の愛を与えてもらうのです。そのような与え与えられの関係を経て親子の絆は深まっていくのです。そしてその成長を記録したい。できれば綺麗に・・・。このような要望に応えるために、そして望んでいること以上に新しい感動を提供できるようにライフスタジオは生まれたのです。 写真館で写真を撮るという行為は、両親の子供に対する愛の実践であると考えます。私はその愛の実践をご両親と共に記録していくカメラマンなのです。だから撮影というものもお客様と私達で一緒に作り上げていくものなのです。そして、75CUTの中には共に作り上げた全ての存在を投入して切り取っていくのです。これが先ほど話したライフスタジオの撮影スタイルの原点です。このような撮影スタイルでどのようなストーリーを奏でていくのかが私達の目指す感動なのだと考えました。物語にはシナリオが重要です。そしてそのシナリオにはテーマが重要です。そこで出てくるのが途中に話したsixpackの主題でもある『家族になろうよ』です。家族のシナリオの始まりは、人と人との出会いから始まります。あなたとわたしが出会ってひとつになるところから家族の物語は始まっていくのです。だから、今までよりも更に意味のある人と人との関係を表現する写真を取り組み始めました。 この一枚の写真は、家族のはじまりを表現した一枚です。関係の始まりは人と人が出会うところから始まります。出会わなければ何も生まれないのです。私はあなたに出会うために生まれてきたのかもしれない…。恋心はいつでもトキメキが重要です。そのような気持ちをお互い伝えあい、相手に対する信頼は深まっていきます。そして一人の人を愛しながらも愛する自分自身の存在も含めて愛していくことになります。そして、その愛を目に見える実体で残したいと望む二人は、二人の写真を撮っていくのです。奥様がカメラを持っている理由もそのような希望を象徴としています。 私はこう考えます。あなたは誰かの父親母親である前にあなたはあなたであるということを。そして、わたしはあなたと出会ったから家族になれたということを。その『はじまり』を迎えることができたのもあなたの出会いからであったという事を。 だからライフスタジオの写真は一枚一枚の美しさも含め75CUTのストーリーを核心としているのです。そしてそのストーリーをより美しく表現するために私は家族になろうよという主題をもとに家族写真で夫婦写真も撮影しています。 このような考えにより私達は今まで以上にお客様に対して多くの事を投げかけています。何故ならばお客様と共に創る物語は、そこに居る全員が主人公にならないと成立しないからです。そこにいる主人公というのはお客様とスタッフ双方のことを示します。その過程で私のことを知ってもらうために自己紹介をしたり、ライフスタジオの歴史を伝えたり様々なアプローチをしています。その中では歌やダンスを披露してお客様と一緒に楽しむ時間もあります。もちろん、撮影中もポーズの指示だけではなくご夫婦の馴れ初めや沢山の質問を投げかけます。そして様々な方法でお互いを見せ合うのです。このような過程を経てお客様と私達の関係は深まっていくのです。 一枚の写真は、その写真が出来上がるまでの過去、そしてこれからも一緒に歩んでいく未来、そして今、共に過ごしている現在を確認できる思い出である。そしてその思い出は目に見える形として確認できる人生そのものかもしれない・・・。 Photographer:ouchi akaneCoordinaite:kikuchi masakuni Lifestudio:soka
PROCESS
2015/9/30
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写真とは、現実に見えているようには写らないものです。 カメラというこの機械はこの世界のあらゆるものを写すことができるでしょう、しかし、現実に見えているものと写真に写るものとには差がある。 それは比率やフレーミング、レンズの効果、色彩の違いなどなどに関係しています。 ですから、写真を形づくる多くの構成要素があるということを知り、それが上手く使用することで「見えているように撮る」ということができる。 その為に撮影者は、写真をつくるプロセス、人に対してのプロセス、美しさについてのプロセスなどを探究していく必要があるのだと思います。 彼女と出会い、はじめて目があった瞬間を忘れません。クレオパトラを初めて目にした時のように(文学的才能がありませんで、当時の気持ちをそのまま言葉に)彼女は美しかった。 目を反らしてしまうほどに。 私は表現しなければならない「美しさ」に出会えた。 それと同時に私は写真の根本にある本質的問題に直面しました。 それは表現しなければならないものと、表現の外に出してしまいたいものとの関係です。 目の前の彼女の美しさを表現するために、どういう理由によって、彼女の顔や瞳、指や足の先まで、あるいは細部でなく全身、纏っている雰囲気を収めようとするのか。 表現における収めるものと除くものという決定的な問題と向き合う。 目の前に存在する、果てしない美しさをもつ彼女のどこをどのようなカタチで切り取るのか。。。 私は彼女の瞳の美しさに心を動かされ、その美しさを取り零さぬよう収めるために様々な要素を除いてゆきました。それはよくに言う「写真の引き算」といいましょうか。その引き算は、時におもいもよらないものを写し出します。 降りそそぐ昼下りの光が、彼女をシルエットにし、横顔の美しさを知らせ、 眩しい光に、まぶたは落ちてきて、それでも瞳は、光を受け取るということを教えてくれました。 光があるからこそ、彼女の美しさを知ることができ、 唯の太陽光であるはずが、彼女の美しさにクローズアップさせる光となって、写真に焼きつきました。 そしてその写真が、人の心の奥底へ光を送ることになればいいと思います。 それが撮影者としての使命であり、最高の喜び。 Photo by SU & Kozu
タイムマシン
2015/9/30
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人生の、いちばん初めの記憶はどこだろう。 そう思った時、私が思い出すのは、可愛がってくれた祖父の手です。あたたかくてごつごつした手で、祖父は私の手を握り、一緒に階段を上っている。壁には、うさぎや象のイラストが描かれている。この階段を上れば、デパートの屋上に出て、10円だか50円だかでぎこぎこ揺れるだけのパンダの遊具に乗せてもらえる。祖父の手は、私の手をしっかり握り、よたよた階段を上る私を引っ張り上げながら、一段一段、ゆっくりと上らせてくれる。握られた手は、少し痛くて、力強くて、あたたかい。 恐らく、2才になる前のことだと思いますが、私の中でのいちばん古い記憶はこんな感じです。これが本当に自分だけの記憶なのか、今となっては正直なところわかりません。祖父は私が3才になる頃に亡くなり、彼の顔や一緒に出掛けた場所、孫を可愛がる溺愛振り等は、後々写真を見返したり、祖母や母から聞かされたエピソード等で『知っている』という知識だけで構成されている部分も多いです。それでも、朧げな記憶が写真によって補完されることで、こうして覚えていられることは、とても嬉しい。カメラを向けられると、いかめしい顔つきになってしまう祖父。写真を見ただけでは、ただただ気難しそうなこの爺ちゃんが、私にとても甘かったことを、とても優しかったことを、私は知っていて、あのごつごつした手の記憶と相まって、彼の笑顔を難なく想像することができるのです。写真の価値というものは、もう過ぎ去ってしまって変化してしまって、もう見ることはできなくて、もう会うことはできない、そんな瞬間に立ち戻らせてそれを見せてくれる、会わせてくれる、そんなタイムマシンのような素敵な魔法のようにも思えます。 自分の人生で、色んな人と出会って別れて、泣いたり笑ったりしながら過ごしてきた時間の積み重ねがあって、今の自分がいます。誰もが、この世に生きているありとあらゆる誰もがそうであり、その誰もが、過ぎ去った過去には戻れません。ただ、時折、写真を見返して、再確認したりもします。自分がどんな人たちに関わってもらいながら、時間を積み重ねてきたのか。どのように、変化してきたのか。あの時の自分の姿。そこに一緒に写る、『あなた』の姿。その空間。その関係。過ぎ去った時間を振り返り、再確認し、思い出すことができる。それが写真の力でもあり、価値でもあると、思うのです。 生まれたばかりの『あなた』を見詰める、母の瞳の深さを、20年後に見てもらいたい。母になったばかりの『あなた』が触れる、娘の足の小ささを、20年後に思い出して欲しい。そして私は、ただただ真摯に、その空間を構成したい。眼差しのあたたかさを、触れる足の柔らかさを感じられる、想像できる、思い出せる。そんな写真を記録する為に。その記録は、いつか遠い未来で、朧げな記憶を補完する。 『ひと』の人生の、その積み重ねられていく時間の一部を、確かなものとして未来に残したい。人生の、最初の記憶。その、記録。 Life studio No,17shinyokohamaPhoto by Reiri, / coodi by yonezu
『optimize』
2015/9/30
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photo by Ryo coordi by Manami Yokohama Aoba どのような環境においても、カメラマンは被写体を最も美しく写す努力を怠ってはいけない。時刻が夕方になり、日の光が赤くなればその光景はたちまち黄昏の色をかもしだすようになり写真のイメージは夕暮れに支配されていきます。しかし時として美しい夕日は、被写体そのものの色を失わせてしまう事もあり必ずしもその写真にとってプラスイメージになるとは限りません。ですから私達撮影者は、現実的な条件を見て『写真』として最適化しなければいけません。後からの色加工ではなく、撮影段階でそこに挑むのも私達が写真に対して思考する楽しさなのでは無いでしょうか。この写真は撮影段階での色表現であり、撮影後の加工はいっさいおこなっていません。夕日が作りだした強い赤色を、ピクチャースタイルのカスタマイズで抑えた物です。この設定において日中の白い光では色が損なわれてしまうの事に対し夕日の赤さがそこを補ってくれます。撮影当時、この空間を見たときに本来であれば美しく見えるはずの夕日が少しうるさく感じました。それは被写体自体である彼女に夕日と違う色の魅力があったからなのでしょうか。どんな景色より、どんな物より、やはり人は美しいと感じます。写真はその美しさの表現の限界を超えていくために進化を続けています。これからも人の美しさの表現、写真の画としての表現の多さを突き詰めていきたい。
Time to flow
2015/9/30
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被写体を見て、インテリアを見て、光を見て…写真を撮影する時には当たり前にしなければいけない事だけど、私はもっともっとそれだけじゃなく、彼女のそのままの姿を美しく表現したかった。彼女が笑ったり、泣いたり、驚いたり、撮影をする中で沢山の彼女らしい姿を私たちに見せてくれました。私たちがいつも見ている空間も彼女の目にはきっと違う世界が広がっていて私はその彼女が見ている世界を少しだけでも一緒に覗いてみたいと思いました。インテリアや空間自体は簡単に変わるものではないけれど、人間がシャッターを切る以上はまったく同じ写真を撮影する事は出来ません。毎日時間が過ぎ、同じ日がやってこないのだから自分の目の前の被写体と毎日向き合う必要があるのです。私が見ている世界よりもちょっとだけ目線をずらしてみたら普段見ない世界がそこにはあり、彼女が寝転がりながら遊んでくれている場所には光が差していました。コーディネーターが並べてくれた星のおもちゃは自分とパパとママの家族だと話していました。彼女の今を少しでも私が垣間見る事が出来て私はシャッターを切ります。彼女と私とコーディネーターとママとパパと一緒に過ごしたあの空間の思い出の瞬間が少しでも記憶に残ってくれたらと思います。
『歴史始めました』
2015/9/30
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視覚だけでしか入り込めない写真にはドラマがあったり感情が存在します。 1枚の写真には音や温度などを感じさせ、私たちに想像というものをさせてくれます。ラーメンの写真は食欲を誘ってきます。友人と馬鹿やったときの写真は笑みがこぼれてきます。ゆえにそういった写真は何度も見たくなります。その食欲が出たとき、その笑ったとき、その時こそ写真の持つ最大効果が発揮された瞬間ではないでしょうか。 私の家の前には黄色いスイセンの花が咲いています。雪が解けた頃に顔を出し春を迎える少し前から咲いています。手入れなども必要なく毎年どんなことがあろうとも咲いてきます。そう、花なのであれば太陽の光があり雨が降って土壌に水分を、風で流れてきた枯葉や、虫達が歩くその途中で栄養を摂取し花達は成長をしていきます。そう考えると人ってすごく興味深い生き物だなと感じます。まずは母がいて父がいて初めて子供は存在することになります。もちろん子供が存在し母となり、父となるのです。人が与えるもの、与えられるものはそれぞれ価値のあるものと感じてますがきっとその状況になった時点で3者は同学年同様です。母という名の、父という名の、子という名の「タメ」ってことです。その日々は人々に温かさを、温もりを、その心からの温度をもたらしてくれるものになるとそう思います。責任を持ち希望を我が子に抱き歩んでいくその道で父と母として、そして子として支えあい生きているということ。なにも親だけが支えている立場ではないのではないかということ。私自身も子供達から学ぶことはたくさんあります。それは本当にこれからも永遠と続いていくのではないかと思います。私にとって子供とはそういう存在になります。 そして最も興味深いと感じたのは 愛情を注ぐという点。 母親として父親として子として成長する過程として。その成長条件はお互いの存在を認め愛情を注ぐということではないでしょうか。してあげれることはやればいいというのでは愛は語れません。相手のことを考え交わし必要な存在になり続ける姿勢が愛情を注いでる状態といえるのです!!(自論)つまり言いたいことは育てる側も成長していくということです。この双方の成長があるからこそ人の成長という部分にはたくさんのドラマが存在するのだと確信しています。これは野に咲くスイセンの花にはなく人であるがゆえにある成長の流れです。これでこそ人らしいと、こうでなくっちゃ物足りないと思ってしまいます。 私の家族に関してもそう思います。姉には2人の子供がいます。正直なところ円満であり、悔しい程順調に成長していると感じます。それと共に私自身も、もちろん姉も義兄もその子達も。そして私の両親も。周りでドラマが生まれます。生命の誕生に対しこれまで影響力があるのも人として面白く向き合うべき部分です。特に小さい子供に関しては毎日が発見になるのではないでしょうか。それを父親として母親として乗り越え我が子の成長と共に生きていく運命になるのだと思います。その成長の過程が支え合いというものになるのです。 自由が丘店の特徴として3階部の壁一面がガラスで出来た場所があります。そこから強い西陽が差し込んできます。西陽はオレンジ色で暖色、温かさを感じさせてくれます。その温かさはぬくもりへと視覚から伝えてくれます。前ぼかしの花は暖色の夕陽をキャッチしてくれます。そして父親と母親は娘を支え合います。それをファインダー越しににやりと笑いシャッターをきります。そしてこの1枚の温かさと熱い思いを感じて欲しいです。 私が家族写真を撮る好きな理由はそういう部分です。家族写真を撮る際に必ず家族同士目線をあわせてもらいたいと思って挑んでおり、本日の撮影日までに我が子に対して出るその親の顔が好きになるんです。この日までの困った時間や愛した時間は写真ではなかなか表現出来ないものですがそこになるべく近いものを残したい。迎えたその家族も想いまるごと。そしてその日々の一面を残したい。それが私の使命にもなるものです。写真は歴史になりますから。支え合いながら作った時間が歴史になります。愛した記憶が歴史になります。 その一瞬が、その1ページがその家族の支え合った歴史として残るように。photo by Chiba, codi by YoenHee @Jiyugaoka
ひとりの人として存在するということ、存在しあうということ。
2015/9/30
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Photographer:Ta-na-Coordinaite:Kaori Sasaki Lifestudio:Yokohama Aoba人は人との関係を通して初めて「私」を感じる事が出来る。感じる事が出来た瞬間にこそ、人は「生きている」という事を実感することが出来る。そう、私は常にLIFE studioという場所で撮影と言う行為を通して感じています。私には、本当にありがたい事に「また、是非あなたに撮影をしてもらいたい」そう温かいお言葉を投げかけてくださる大切な人が沢山います。求められるから行く。求められているから撮影をする。ではありません。私自身も、まったく同じ事を相手に対して求めています。求め合うことを許してくれる環境が、このLIFE studioという場所には存在していると考えています。それは、「従業員」としての自分ではなく「諏訪友理」として「ターナー」として相手の前に存在をする事であり、「お客様」を超えた「かけがえの無い親友家族」または「家族のような大切な存在」として相手に対して向き合うことで生まれる関係性であると言えます。この概念は、完全に私を変化させた概念であり、「日本の写真文化を変える」という理念を持った上で生まれたLIFE studioというブランドが持つブランドアイデンティティーです。「従業員」または「店員」そして「お客様」という人と人との関係性に対しての問いかけを行うということは、簡単なようでとても難しいことです。なぜなら、私達は生活をしながら、「常識」と認識している出来事に対して深く考える習慣もなければ環境もあまり多くはないからです。当たり前な出来事に対して疑問を持たない大きな理由は「そのままの従業員と顧客という関係でも特に何も問題はないから」です。そんな環境の中で、なかなか変化に気づき、違和感を認め、改善をするという実践を起こすという事は、口で説明をされる印象よりも遥かに難しいことなのです。ですが、私達は常に「被写体らしさ=自然な美しさ」を引き出すことを選択し、「らしさ」という「美しさ」をカタチを最大限に引き出しカタチに残すための技術を求めています。これらを表現すること、そして「楽しみの空間」を創造する為には、今までの「常識」に対しての疑いをかけることなく価値を生み出すことは出来ないという「矛盾」という壁にぶち当たります。なぜなら、私達が生み出したい、そう願っている「らしさ」とは一体何なのか?という問いかけに対して「らしさとは~である」という互いの中の「哲学」なくして表現することは出来ないからです。「哲学」と聞くと、少し身構えてしまうかもしれません。ですが、「哲学」とは、互いの「人生観」であると私は考えています。先ほども少し触れましたが、「今」という瞬間を美しく残すという行為に必要なのは、「美しく残す」為の「知識」と「技術」です。どんなに「美しく残してあげたい!」と強く願っていても美しく残すための撮影の知識や映し出すための技術がなければ相手の要望に応えることは出来ません。ですが、同時に「知識」や「技術」だけ持ち合わせていたとしても「日本の写真文化」を変える事は出来ません。なぜなら、「撮影者」と「被写体(お客様)」という距離感は本来の姿のまま変わりないからです。例えば、市役所やとある全国的に展開をしているチェーン店などで、このような回答をされたことはないでしょうか。「申し訳ございませんが、そういう決まりですので出来ません」。このような対応に対して「決まりであれば仕方がない」と納得せざる得ない状況であることは頭では理解出来るものの、心の中に「そこをなんとか出来ないのかな?」と、なんともやるせない気持ちになった経験。どう処理すればいいのかわからない気持ち。処理という言葉はあまり適していないのかもれません。行き場のない感情、つまり「誰にも受け入れてもらえなかった自身の感情と想い」だけがふわふわと残り、その感情を「決まり」に従い、押し殺すことしか出来ないのが現状です。確かに、丁寧できちんとしている対応かもしれない。けど、誰が相手でも変わらない対応。相手がどんな被写体であり、相手がどんな人格を持った人であったとしても、決まった手順で撮影を行い、決まった声掛けをすること、つまりそれは「自分の中の決まった型」に当てはめて、常に毎日同じ形のクッキーをくりぬいているかのような印象を与えることであり、「私として認識してくれようとしてくれない」という相手に対して孤独感を与えている作業ではないでしょうか。被写体からしてみたら、かつての成人式の撮影のときに私自身も感じた「カメラマンさんは何を感じてこの指示を出しているのだろう?」という疑問すらなく、日常化されている光景に対して、そうだ、と受け入れつつも心のどこかで「寂しさ」を感じていた私という感情です。こうした、役割やルール、表面的なコミュニケーションの形式を楯にして自分自身の実感や居場所を明かさない人との間に生まれる人間関係から果たして何を生み出すことが出来るのだろうか?これらの問いかけは、私が常に自身に対して問いかけている「命題」です。この命題に対しての「これだ」という答えを今もまだ、たどり着けていません。確かに、共に過ごしている撮影時間内だけ関係を作るだけでも十分だという声もあるかもしれません。それも決して間違いではありません。ですが、LIFE studioでいう「日本の写真文化を変える」という「文化を変える」の部分を理解し、それをミッションとして考えるのであれば、今まで当たり前だと感じていた時間の流れ方に対して、違和感を感じ、条件を変えるという選択が必要です。「人に深く入ること」は、相手を自分の決められたままの型に当てはめることではなく、深く入ることで自分の中にあった「こう撮影すればいいだろう」という固定概念という型を壊す必要が毎回あります。何が好きで、何を求めてここにいて、何を今感じていて、何に対して反応し、何に対して笑うのか、何に対して関心を示して、どの方法で自分を表現してくれるのか。限られた撮影時間内で相手の全てを理解しようということは確かに難しいことかもしれません。なぜなら、「あなたはどんな人ですか?」という問いかけに対して「私は~です」と答えることが出来る人は少数だからです。(私自身も現在模索段階です・・・)だからこそ、撮影という方法を用いて私達はお互いを少しずつ感じあいながら自分を知って行くのです。相手は「自分を理解してくれようとしてくれる姿」にまずは心を開くのではないでしょうか。撮影中にそのような「相手に対して問いかけをすることが出来る人」とは、どんな人なのでしょうか?恐らく「人に深く入る」と同時に「自分の中にも深く入れる人」ではないでしょうか。だからこそ、ライフスタジオでは「自分とは何か?」という問いかけを最も続けているのです。自分が生きていること、を改めて思い出すような瞬間に喜びを互いに感じあえるのだとしたら。心が眠っているような状態や、生きているんだか死んでいるんだかわからないような状態ではなく、人が「より生きている」と感じる瞬間を生み出すことを思い出すために働きかけることが「いい仕事」なのではないでしょうか。この写真も、私一人では決して生まれることはない1枚です。一緒に時間と空間をコーディネートしてくれる仲間と、撮影した写真を使って毎年パパはプロモーションビデオを作製し、ママはスクラップブッキングを作製したものを見せてくれた上で「毎年、本当にライフスタジオに来ることが楽しみで仕方が無い」と「娘の成長を残すこと、共に思い出を作ること」を本当に大切に考えていると伝えてくださったパパとママのお話や姿、そして本当はパパとママのことが大好きなんだけど、成長と共に少しずつ「大好きだ」と相手に素直に伝えるという事に対して恥ずかしがっていたMちゃんの姿と言葉を聞いた上で提案をさせてもらった1枚です。パパの事が大好きなMちゃん。だから、時々ママとパパの取り合いになります(笑)この写真はそんな恥ずかしがりやなMちゃんの笑顔を引き出したいと考えママがその場にいない瞬間に撮影をしました。「こう提案して見たい。表現して見たい。」そう思わせてくれるには、自分以外の「相手」の存在が必要なのです。互いの「大切なもの」を見せ合うこと、伝え合うことで共に作り上げられる物語こそ、LIFE studioでの撮影の醍醐味であり、ブランドアイデンティティーそのものであると思うのです。また、お会いできますように(^^)素敵な時間と、温かいお言葉をありがとうございました。
『combination』
2015/9/28
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photo by Ryo coordi by Koba Yokohama Aoba 私の写真はいつも、現場を共にするコーディネーターと一緒に作っています。Kobaと共に撮影をするようになったのは二年と少し前。青葉店がオープンしてからの事です。彼女とは写真について今まで沢山の話をしてきました。多くを共有し、互いの写真を高めて来たのだと思います。今回のように私の写真を彼女がアシストする事もあれば、その逆もあり共に青葉の写真を共に作って来た感覚は人一倍あります。どのようなときも写真にも人にも誠実である事。私たちは良い写真を生む人としての条件を求めいつも苦悩し、報われた日は歓喜し進み続けています。私の写真は私だけの物ではなく、被写体である彼女の物であり、共に撮影に励む仲間の物です。 カメラマンからしか見えない美しい景色が一つあります。コーディネーターと子供達が笑い合う瞬間。私たちの撮影がうむ幸せの一こまがその瞬間にあります。撮影という時間が、その場所にいる全ての人にとって幸せのひとときである事。今日、この時間に感じたこの感情がこの先も多くの幸せの記録に繋がりますように。
『美しさの共感』
2015/9/26
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photo by Ryo coordi by volvo In Kawaguchi単純に自分だけが美しいと思う写真を撮影しても、そこに美しさの共感が無ければその写真は良いものではなくなってしまい、そのものの価値がなくなってしまいます。私たちの写真は互いに素晴らしいと思える事が重要なのです。スタジオの僅かな部分に入る美しい西日、この光が美しいと感じた私は、光の美しさではなく彼女の姿をこの光を使ってより美しく写す事を考えなければいけない。私は光の写真を撮っている訳ではなく彼女の写真を撮っているのだから。当たり前の事ですが、写し出される写真は光の美しい写真ではなく、光の中にいる彼女の美しい写真でなければいけません。私たちが撮影しているのは常に人です。その存在の美しさを表現するための一つのツールが特徴的な光なのではないでしょうか。日向に座る彼女の姿は美しい。そこにいた誰もがその光景をみて思った感覚。私たちが共感した瞬間、この写真は美しい写真となりました。 スタジオの木の香りと西日の暖かさがこの写真から今もそのときのように感じます。
『素』
2015/9/23
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『素』photo by Yumiko codi by Kazumiきみがうまれてきたときパパとママのあたたかい腕の中に守られてた。そのちいさなきみがだんだんと大きくたくましく。そしていつからかすこしずつすこしずつ守ってくれる存在になっていく。5歳のオトコノコが初めて会った私たちに見せた顔は人懐っこい笑顔だった。カメラをむければ迷わずに透き通った瞳でみつめてくれた。『やさしさ』や 『あたたかさ』があふれだしていたから『きみはどんなオトコノコなの?』ってより一層知りたい欲求がどんどん大きくなる。目の前にいるきみの存在をうけとめてそこに技術やコーディネートをプラスして。そんなふうに自然なきみの今の姿を演出して表現することも大好きだけれどもっと根本的にはたらきかけてきみのなかに隠されているモノをさがしだして。『素』ってはじめてあった人の前でだすのってなかなかむずかしい。自然に相手のことを考えて相手が心地よいと感じてくれるであろう自分になっているときもある。きもちや感情をおたがいに確認し合いながら少しずついろんなきみに出会えるように。一瞬一瞬でもいいんだ。私たちがそのとき出会ったいろいろなきみのなかにパパとママがまだであったことのない『素』があらわれたらいいなって。すべてがもちろんきみ自身だけれどパパとママに素敵な驚きと感動を。きみに出会えたからうまれたものがたくさんあるきみに出会えたから気付けたことがたくさんあるつくりあげた写真のなかにも流れた時間のなかにもそしていつも一緒にいてくれる大好きなパパとママのなかにも。
HEAT
2015/8/31
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写真という無機質の中に、有機的な温かさを求めていました。 『普遍的に美しいBabyの写真』は、『ひと』の記憶の根底を揺らして、温かさや匂いまで想起させる具体的な感情を呼び起こすものでありたい。では、『あたたかさ』や『匂い』といった、写真には記録されない主観的な感覚を、どのように構成すれば感じることができるのでしょうか。 そもそも『あたたかさ』とは、温度の状態を表す表現であり、『熱くもなく、冷たくもなく、ちょうど良い状態』なのだそうです。極端に熱いもの、冷たいものは、身体的苦痛さえ感じます。『あたたかい』という状態は、からだが危険を感じずに受容する、『ちょうど良い状態』である訳です。だからこそ、心地よく、安心感や幸福感さえ感じるような、ポジティブな状態のイメージが伴います。写真を見て感じる『あたたかさ』とは、その家族にとって『ちょうど良い状態』でなければ、見る者にもそう伝わりはしません。例えば、パパやママがきっちりとポージングを決めて、写真のセオリーとしてもバランスの良い構図であったとしても、その表情がぎこちなければ、ポージングは美しくても何だか窮屈そうに見えて、そこに『あたたかい家族写真だ』とは感じないのではないでしょうか。 『あたたかさ』とは、その家族の『そのひとらしさ』がそれぞれ発揮されている時に、『ちょうど良い状態』として表れます。パパが『父親』としてがっしり見えるポージングを忠実にしているかどうか、ママが『母親』として美しく見えるラインをキープして立っているか、などではなく、パパが『そのひと』として、ママが『そのひと』として、ひとりの人間としての個性を発揮している時。パリコレのモデルの写真は美しいけれど、それが温かさを感じる写真であるかと問われればそうではないでしょう。少し陽が傾きかけた金色の光の中で、鼻に皺が寄るほど笑いながら戯れる、この家族の姿が、『ひと』の記憶の根底を揺さぶって、あたたかさを想起させる写真になりました。 Life studio No,17ShinyokohamaPhoto by reiri, / coodi by Shie
『 上から見る花火 』
2015/8/31
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Life studio Yokohama AobaPhoto by Masashi KurokiCodi by Misato Ohashi 「上から見た花火とはどんなものでしょう?」ライフスタジオでは多くのカメラマンとコーディネーターが日々撮影をしています。その中には数年間、家族という在り方をファインダー越しに見続けている者もいます。私もその中のひとりですが、私は「写真館」と聞くと未だに地元の駅前にあった古き良き写真館を思い出します。私の七五三の写真はそこで撮った一枚だけしか残っていません。しかもそこに写っているのは鬼のような眼差しでレンズを睨む五歳の僕でした。当時、着物を着ることが嫌で嫌でしょうがなかった私は長い時間をかけ、ようやく着物を着たそうです。しかし、撮影に入る直前、七つ年上の兄にからかわれて着物を全部脱いでしまいました。その時の記憶はかすかにありますが、そうやって残されたたった一枚の写真が鬼の眼差しだったという訳です。 こういったエピソードは父や母の記憶の中だけには残っています。こういう話を母の口から耳にすると私は時に涙してしまいそうになります。別に悲しい話でもないのにです。いわゆる私も「涙腺が緩む歳」になってしまったのでしょうが、私は今この感覚がとても大切なものに感じます。 しかし写真を見ただけではそのエピソードまでは伝わりません。だからこそ、撮影者となった今、そういったエピソードも何らかのカタチで残せればと常に想い撮影に臨んでいます。 しかし、ここでひとつの「疑問」が立ち塞がります。 その疑問とは「どこまでがライフスタジオの写真なのか?」というものです。コンセプトの中に「自然な写真」というものも含まれているわけですが、私が思う自然という言葉の中にはやはり「日常」が大半を占めています。それではその日常を非日常的な場所でどのように写すのか?そしてどこまでがライフスタジオの写真の「制限」なのか?その道を歩んでいくためには必要以上の意識と感覚、角度、そして想像力などが不可欠なのかもしれません。それは例えるならば「上から見る打ち上げ花火」を想像するように。 夏の夜空を彩る打ち上げ花火。一般的には正面から見るものですが、上から見たらどうなっているんだろう?花火職人が時間をかけてひとつひとつ作る三尺玉。その花火は上から見ても必ず美しいはずであると信じ、それを写真に練り込む。「上から撮っても成立する写真」そういった意識や想像はライフスタジオだからこそ実現出来る可能性とその制限を広げてくれるのではないかと思っています。そしてこの探究こそが私が写真を撮る喜びなのです。 そしていつの日か… この写真が数十年後の彼らにエピソードとして繋がってくれる事を願って。
From LIFE
2015/8/31
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photo by yatsu coordi by volvo 写真で伝えることがある。 写真だから伝わることがある。 私たちが写真にこだわり続ける理由はそこにあるのです。 写真は、光を取り込むことで初めて目の前の像が浮かび上がります。 その光は写真を撮るための条件であると同時に、撮り手の概念或は思想に大きく依存します。 つまり、光は概念を形成する媒介であるということができます。 これは、写真は思想の塊でもあると表現できますし、 撮り手の内側を外側へと反映させる1つの表象とも考えられます。 普遍的な美に対する感覚は、私たちの無意識の中で常に内在しています。 カメラを通して起きる出来事を、理性的に自らの柔軟な理論を持って実体化させることが、 写真が保有する機能の、最も芸銃的側面であると私は考えています。 それ故に、写真は単に記録にとどまることなく、常に人を魅了し続ける存在でいることができるのだと思います。 初めての七五三。 慣れない着物を着て、初めての場所で、初めての人たちと空間を共にします。 緊張や不安。少し垣間見える好奇心。 そんな姿を温かく見守る父母の眼差し。 障子の強い光から作られた被写体のグラデーションは、 影になった彼の緊張や不安を温かく包み込もうとしています。 写真のフレーミング全体に暖かな光を印象付ける為に、 被写体の背中と障子の空間を広くあけ、横写真の両端に配置し、バランスをとることにしました。 理由もなく写真を撮ることはありません。 それこそ無差別的で一方的なものです。 私たちの求めている写真とは、無差別的で一方的に撮影されるものではありません。 私たちの求めている写真とは、被写体の内面を、それを見守る父母の眼差しを、 その場の様々な情報を集約したものを、紡ぎ、すくいあげ、光によって造形を成すものであると信じています。
唯一無二
2015/8/31
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Photo by volvoCoordinate by yatsuLifestudio No.2, URAYASU「精神の最も普遍的な特質は多様性である」というモンテーニュの言葉にもあるように、あるがままの姿や美しい瞬間はどんなに同じ場所で撮影をしようとも多種多様であり、私達は常にその多様性を認めその人にしかない美しい瞬間を探し記録していくことが求められます。 場所や、インテリアはいつも変わりません。ただ変わるのは撮影者や被写体といった「人」の部分です。こうした変わらないものと変わるものをかけあわせた時、現れる写真は必ず「唯一無二」のものとなって出てきます。しかし撮影とは被写体の個性ともいうべき多様で特殊的な部分を「写真を撮る」という均一的の枠の中に閉じ込めることです。その代表的なものが先述した撮影場所やインテリア、あるいはそのスタジオの文化であったり、撮影者の撮り方などです。この均一的な枠はあまりにもその色が強すぎると、多様な個性はそれはちょうどチームプレイに徹するあまりに個性を無くしたスター選手のように特色を無くしていきます。そしてこのどちらに転ぶかを選択するのは被写体ではなく撮影者です。いわゆる型にはめることも、被写体のあるがままを撮影することも、撮影者自身の選択によって成されていくことになります。ということは被写体の多様性を抜け目なく写真に捉えるには被写体が自由を得ることが重要になってくるように感じますが、例えばウサインボルトが世界最速の称号を手に入れることができるのは100 m走という競技があるからに他ならないように、均一的な部分がなければ多様性は活かされることができません。いつものスタジオ、いつものインテリア、いつもの撮り方という均一性があることによって初めて多様性が発揮される土台が作られることから、同じ場所で撮ることがよくないのではなく同じ場所であったとしてもその被写体専用の空間に作り上げることが必要であり、重要になってくるのはバランスです。私はこの写真のような撮り方を良く行います。しかし同じ写真になったことは一度も無いと思っています。それはもちろん被写体の個性によるところもありますが、被写体のその時の感情や表情、ポーズによって露出や画角、構図などを再構築するようにしています。 私たちの撮影方法に取り決めはほとんどありません。75枚の原本を作るということで大きな枠は作られている以外に大きな決まりごとがないのは、撮影者も被写体と同様に多様性を持った人間であるからです。これは被写体だけではなく、一緒に来てくれた親御さん、あるいは私たちの人生の中で起きる様々なコミュニケーションも同じです。相手の個性と同様に自分の中の個性、つまり確固たる軸を持っている事が必要であり、軸を持っていながらも相手の個性を認める事が重要になります。認める事で相手も認めるようになり、合意が得られます。この合意においては外のルールや決まりごとなどは関係がありません。だから決まりごとが少ないのだと考えます。ライフスタジオにおける撮影とは、多様性と多様性、つまり「人と人」が互いを尊重し認め合うことによって「唯一無二」の写真が出来上がる事だと、私は思います。
Accept
2015/8/31
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「物事をあるべき姿ではなく、あるがままの姿で受け入れよ、」 兎に角、まずは受け入れることを信念に生きてきました。そうもいかなかった時は、自分を叱咤、反省し、前を向いて歩んできました。受け入れるという行為はとても難しいことです。ときに受け入れるばかりで、自分がないのか?と問い詰めることもありました。 この日、一歳になる赤ん坊は、日常から離れた写真館という世界へ連れられ、緊張してママから離れられませんでした。よくある光景であり、私たちはそれを見て察知し、多くの思考回路を働かせて、行動を決定していきます。 それは興味をそそり立てるオモチャで、ママもとから少しずつ離していくことなのか。または離れたところへ身をひそめ、コッソリと見つからないように望遠レンズを構えることなのか。はたまた、緊張の面持ちの今の姿を受け入れ、そのまま寄り添いながらシャッターを切ることなのか。 そのとき私は信念に従い、先ずありのままの姿を受け入れました。 それを自分自身の心に止めるのではなく、家族も共にそうありますように、願いを込めた言葉にして、皆んなで受け入れようと宣言したのです。 ママの腕の中で眉をしかめた弟に、兄が空かさず駆け寄り、一緒に遊ぼうよ♪と姉が誘い、皆んなをパパが温かく包み込む。 この一連の様子をつくりながら、私はあるがままを受け入れることから、さらに新しい条件を作り、新しい価値を創り出すことができたと実感できました。 「自分が自ら条件を作り、価値を作り出す」 スタジオ空間に滞在する短い時間の中で、家族一人一人がもっているものを捕え、受け入れ、外に向けて表現することが、条件を作ることに必要不可欠です。 写真には言葉のボリュームはなくとも、個々人の間に働く力が写り、家族であることを一瞬で定義付けてくれるような気がします。 言葉はなくとも写真には家族であることを表現できるかもしれません。だがさらに言葉を発して伝えることでさらに写真は力を宿し、「絆」や「愛」といったさまざまな価値を無限なる形で表現していけると、確信になったこの写真を今回のphotogenicに選出いたします。 Photo by SU & YU
"U" and "I"
2015/8/31
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Photo in UrayasuPhoto by Kudo / Coordinate by Yatsu人とは一人では生きられず、人の間で生まれ、人の間で生きていくことを選択していきます。人と人の間では、一人では知ることができないことが生まれます。一人では、愛することも、幸せも、美しいということも、優しく生きるということも、人に真っ直ぐに在ろうということも、知ることができません。私たちは、人の間で初めて世界を知ります。人と人の「間」で、愛し、苦しみ、考えてこそ、初めて私たちは「人間」というのだと実感します。だから、「人間」というのだと思います。考えてみれば、ライフスタジオ撮影という行為一つ取っても、「人」と「人」の「間」で生きるということです。ライフスタジオの撮影は被写体が「人」です。私たちは、「家族の関係性」や「被写体の美しさ」を撮るために、何が「人間」らしいのかを知ることが求められます。それは、本で勉強したことだけでは知ることができません。実際に人と接し、何かを生み出すことでしか、人間の素晴らしさを知ることができません。「その人らしさ」を「美しく」撮るということは、「私」という撮影者自身を通じて、被写体である「あなた」が素晴らしいということを伝えようとする行為です。だけれど、「あなた」の素晴らしさというのは、「あなた」だけが持っているもので、同じものを他の人が持っているわけではありません。だから、「私」は「あなた」だけの持つ素晴らしさを、「あなた」と一緒に見つけていきたいと思うのです。それが、「私が」写真を撮るためだけでなく、「あなた」の人生に触れ、共に過ごす時間を創るということになります。これが、ライフスタジオが日々行っている、「人」と「人」の「間」に生み出すという行為になります。そのために、ライフスタジオでは「自分を投げ出す」という方法を取ります。その人自身に触れたいなら、まずは自分に触れてもらうこと。その人自身を知りたいなら、まずは自分を相手に知ってもらうこと。それが、「人」と「人」が行為し生み出す空間を創ることになります。「投げ出す」ことは、「私」と「あなた」が共にする時間と空間を創出する足掛かりになります。そうして、被写体である「あなた」は徐々に姿を顕します。「あなた」が姿を顕したら、「私」が何と応えるのか。その応えが、「何を生み出すのか」ということになります。それが、「愛」なのか、「楽しさ」なのか、「感動」なのか、「優しさ」なのか。それとも、形に残る「あなた」の存在の「美しさ」なのか。そういった何かを引き起こすものを、私たちは「人」との「間」で毎日生み出そうとしています。「私」一人だけではできないことを、「あなた」と一緒にいることで生みだすことができる。これが人間の素晴らしさであり、私たちが常に目指すものです。そして、そういった人と人の間で生まれたものは感情だったり記憶だったりして、とりとめのないものだから、写真という「形」に残るもので、私たちは「あなた」へと応えると思うのです。それは人によって異なります。なぜなら、人は多様な存在だからです。「私」と数多くの「あなた」の間で生まれる時間と経験は、一つとして同じものはありません。だから、「私」と「あなた」の間で生まれる素晴らしい感情と記憶はこんなにも輝いて見えるのかもしれません。だから、「私」は「あなた」を美しく、素晴らしく、見えるのかもしれません。だから、「私」は「あなた」が生きて存在しているということを「美しく」残したいと思うのかもしれません。ライフスタジオの写真は、一人では撮れません。そこには、家族・被写体・コーディネーターがいます。撮影者は撮影の空間の中で、それぞれの「人」と「人」との「間」で投げ出し、話し、応え、そして写真を生み出します。そして、その空間でしか生み出せない写真。それは「人」と「人」が共に生み出した写真。そこにいる「私」と「あなた」でしか生み出せない写真。それが「人間」らしい写真であり、「ライフスタジオ」の写真であると思うのです。
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