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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
I love YOU
2015/8/31
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人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを恐れているのである エーリッヒ•フロム 愛という言葉を聞くたびに、それが愛なのかと悩み、愛という文字を見るたびに、これで愛なのかと悩みます。悩むという言葉があっているかもどうかと思うくらい、自分にとって愛という定義そのものがまだまだ曖昧です。愛と優しさは、愛と思いやりは何が違うんだろう。そんなことを考えながらも、様々な人から「あなたにとって愛するということはどういうことですか」という質問をよく受けては、シンプルに「パンをあげることだ」と答えていました。自分だけのものにしないこと、与えること、見返りを求めないこと。その程度でしか考えられなかった愛を、わたしはまだ文字や言葉にして使うことはありませんでした。けれど今月は、そんな愛という言葉や文字を贈ってもらうことが多くあり、普段は愛とかなんとかを文章では使わないのですが、少しばかり使ってみようと思います。 人には孤独を求める部分と、つながりを求める部分が、誰にでも多かれ少なかれあると思いますが、自分自身に対する疑いや不安の中で、欲求が恐れにもなり、人に対してあと1歩踏み込むことのできない弱さを生み出してしまうこともあります。フロムの言葉を通して、人には愛されたいという意識的な欲求と、潜在的に傷つきたくないから愛することを恐れ避けてしまうという行動があるのだと感じ、その葛藤と矛盾を超えていく、そこにこそ愛が存在し人と人としての関係が成立するのではないかと考えました。 スタジオで撮影をしている時、愛しているという実感や愛されているという感覚を感じてもらえているのではないかという瞬間に遭遇します。その瞬間には優しさや思いやりをはるかに超える、強い想いを感じます。そういう時には、これが愛というものなのかとも思います。愛しているということも、愛されているということも。実感として大切なものでありますが、愛することができている、人を愛せている、という自分自身の不安が少しでも解消されるような、自分の中に残っている心の確認としての実感、安心感を伝えることも大切だと思っています。孤独な状態や愛を感じられない状態が続くとき、人は人としてのエネルギーが空っぽになりそうで、人であることを諦めそうになったり、逆に人を傷つけてしまうようなことが、多かれ少なかれあるような気がします。それは自分の存在に対して否定的な考えしか生み出すことができなくなることもあります。それでも、恐れを克服しながら愛してくこと。伝えたいものは、愛、そのものの実感というよりも、人として人を愛せていた、愛しているという、その人自身の存在に対する肯定としての実感。人を愛し、愛そうとし、努力しているchoさんの姿を通して、これが人としての姿だと感じました。 I love YOU.あなたがいるからわたしがいる、かけがえのない現実。shimonoseki PHOTOkawano yoh
CORE
2015/7/31
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Photographer:VolvoCoordinaite:Kaori kobayashi Lifestudio No.2, URAYASU 先の工藤さんの書いた文章にもあるように、私たちはその子らしさとそれを美しく残すことの両立を図ることが求められています。もしもそうでないのならば、ライフスタジオの撮影理念は成し遂げることができませんし「私とあなた」のバランスが取れていない状態と言うことになります。 その子らしさとはいわゆる「生命力」のようなものともいう事ができますが、それを表現する為に必要なことはたくさんあります。その中でも一番分かりやすいのは「動くこと」です。よく「被写体を動かす力」と言いますが、目が、顔が、手が足が、その人が動けば動くほどその人らしさは現象として現れ、現象を記録する写真という媒体にとって、動くということは「その子らしさ」を表現するための絶対条件とも言えます。 私はこの「動くこと」について二つの考えを持っています。ひとつは「自由と規律のバランス」、もうひとつは「何をもって《動いている》と判断するのか」です。 「自由と規律のバランス」とは、言い換えると「自分の意図をしっかりと持ちながらどこまで柔軟にできるか」とも言えます。撮影に来てくれるのは大体が子供達です。子供達はこちらの予想を超えるものをたくさん提供してくれますし、それが一番の美しさであり撮影の醍醐味でもあります。ところがこちらに予想を超えるものを受け止める力が無ければ逃すことになりますし、そもそも被写体から発せられるものだけを待っている状態ではカメラマンとは言えませんので、まずは撮影者自身が枠を設定することが必要になります。 しかし、その枠も、被写体から発せられるものも二度と同じ状態はやってこない相対性を持つことから、自由と規律のバランスは常に変化していきます。だから難しいですし、楽しい部分でもあります。 また、「何をもって《動いている》と判断するのか」という言葉を言い変えるならば「自分はどんな基準をもってシャッターを押しているのか」ということになります。「その人らしさ」を導くために被写体を動かし、それによって現れた子供達の予想を超える動作を捉えるには撮影者の中にそれを感じ取るアンテナが必要だからです。 ただ単純に被写体を動かし、動作のみを捉えていくだけでは「被写体を動かす」とは言えません。被写体を動かすとは「生命力を生み出す為の行為」だと思っています。だから動作の大小とは関係がありません。 この写真は指示をした部分とそれによって生まれたもの、その中に現れた決定的な瞬間とそれを逃さないフレーミングと設定の技術的な準備の総合を表現しています。
『The origin』
2015/7/31
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Photographer:VolvoCoordinaite:Ta-na- Lifestudio No.2, URAYASU 「卓球台でサッカーをしようとしている」 浦安店という新しい場所で新しく集まった自分たちが試行錯誤を繰り返している様子を見て私はこう表現しました。広いスペースで恵まれた光のある場所で撮影をすることに慣れてくると、自分の中にあるシャッタータイミングの許容範囲が広がっていきます。それは光を「作る」というよりは光が「ある」状態に慣れることで、シャッターを押す瞬間の環境の優しさにより他のことに集中できる状態ということができますが、光を「作る」考えが生まれるとシャッターを押す瞬間もシビアになります。例えばサッカーはその広さと距離感ゆえに相手にパスを出すとき多少の誤差はあまり気になりにくい面がありますが、卓球ではあんなに小さいボール一個の誤差によって全く違う展開になります。サッカーのようなダイナミックな展開を卓球台でやろうとすれば、当然狭くてうまくいきません。 この言葉で表現をしたかったのは、店舗の広さや窓の広さによってできる事が変わってきたり、撮り方をかえていかなければいけないという誰でもわかるようなことではなく、場所や環境、人によって左右されない根本的な「光の理解」を求めている点にあります。 私たちは普段撮影していないスタジオで撮影をするとき、いつも自分が撮ってきた経験によって培われた自分の持つ許容範囲を基準としてシャッターを切ります。どこのスタジオもそこまで大きくは変わらないので大体は自分の持つ許容範囲によって解決がされていきます。しかしサッカーと卓球ほどの違いが現れた瞬間、あまりの違いに自分の許容範囲を越える瞬間が出てきます。そこで適応、つまり慣れを待つのが一般的です。 ところが、この考えかたにも落とし穴があります。それは場所に慣れすぎる事によって普遍性を失う点にあります。なぜ慣れない場所に行くと撮りにくさを感じるのでしょうか。それは写真を撮る時に「光」ではなく「場所」で判断しているからであるように思います。場所に慣れてくると光を見て判断をしているつもりでも、自己の記憶から無意識的に「この場所だからこの光」という決定を下しがちです。そうなると、日々の撮影から「光の概念」が抜けていき、場所が変わった瞬間に光が読めなくなります。サッカーと卓球は優劣をつけるようなものではなく、比べられない質の違うスポーツです。撮影空間も同様にスタジオの大小や光の量は比べるものではなく、質が違うのだというとらえ方をしなくてはなりません。写真とは場所がなくては撮れないことから当然場所によって撮り方が変わります。しかし、光によって被写体を表現するという点においてはどこで撮ろうとも変わることはなく、光と被写体の関係、つまりは写真における光の概念が理解されているかどうかが、どんな場所にいっても、いきなり違うところにいっても変わらない写真を提供できることであり、フィールドを理解し、サッカー場ならばサッカー、卓球台ならば卓球をする臨機応変さにつながるのではないかと思っています。また、「光の理解」を深めていくとサッカー場のような広くて恵まれた場所でも適当なパスはしなくなります。つまり自然光にあふれていたとしてもシビアに確認し、どこでも変わらない光の見方をするようになります。そうなることでどこに行っても変わらない自分の写真を作り出すことができるのだと考えます。
『 太陽の指先 』
2015/7/31
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『 太陽の指先 』 Life studio ShonanPhoto by Masashi KurokiCodi by Mayuko Hara 環境とは、待っていて成されるものではなく、自らが歩いてこそ成されるものである。 皆さんもこんな経験をした事があるのではないでしょうか。「住み慣れた街、もう何年もそして何度も通った帰り道。そこでふと、今まで通ったことの無い路地を見つけ入ってみる。すると静かな路地裏には昔ながらの喫茶店が一軒ぽつんとたたずんでいた。」 私はこういった状況に出くわした時とても嬉しくなり、そしてとてつもない高揚感を感じます。それは私が無類の珈琲好きだからというわけではなく、今まで気が付く事の無かったものに気が付いたからでしょう。私は幼少の頃からいわゆる「探検ごっこ」が好きでした。人が入ったことの無いような山や神社の裏や防空壕の跡地など、そんな所に入ってみては基地を作ったり宝物を埋めたりしていました。勿論、そんな事をして怒られて泣いたりもしました。しかし、今も昔も変わらなく思うことは、自分のすぐ近くにそして目の前に新たな景色は転がっているのだと思う事。昔から、私は旅行などで行った初めての場所で目にする初めての光景よりも、身近にありながらも気が付く事の無かったものに気づいた時の方が大きな高揚感があるように感じます。同時にこれは毎日の日常をより楽しく生きられる方法なのだとも思っています。 それは撮影においてもそうです。まず、私たちは太陽があるからこそ生きてゆけるし、色というものを感じることが出来ます。ごくごく当たり前に存在する太陽ですが、そんな身近にある太陽の光を写真に納めるには?と考えました。そのためにはいつも通りに撮っていてはその光を納める事は出来ず、まず光の先端を見極める必要がありました。そしてその場所を突き止め、その太陽の指先が被写体を舐める寸前の場所まで彼を誘い、1億4960万kmと遠く離れた太陽から伸びた手の指先と彼を一枚に納める。 だいぶん大げさな話にはなってはいますが、この瞬間こそ路地裏で喫茶店を見つけた時のような高揚感であると私は思うのです。何にも変えることの出来ない太陽の光は強く生々しく被写体の存在感を強めてくれます。そして太陽の指先が舐めている部分だけでなくその強い光があるからこそ黒という色を発色させてくれています。 いつも見慣れている場所、でも、少しいつもと違う道を歩いてみれば新たな景色を見ることができる。すぐに近道を検索するのではなく、敢えて遠回りすることが正真正銘な近道を教えてくれるのではないかと私はそう思っています。 そして太陽よ、いつもありがとう。
『veil』
2015/7/31
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photo by Ryo codi by Kaori in Yokohama Aoba何故、被写体を動かす事が私達カメラマンにとって必要なのでしょうか。 コーディネーターが一緒であればそんなに動かす事に集中しなくても自然に状況は変わり、様々な写真が生まれるのではないのだろうか。 このような見解を持つ場合も有ると思います。 確かにコーディネーターが子供を誘導してくれて、打ち解け、状況が好転し写真に繋がる事も多々有ります。しかし、そんな状況の中でもカメラマンのアプローチは絶対的に必要な物です。どんなに優秀なコーディネーターでもその瞬間ファインダーの中をのぞく事は出来ません。どんな状況であれ、最終的にシャッターを切るのはカメラマンです。撮影はカメラマン、コーディネーター 双方の力により組み立てられます。大切なのは『互いに』である事。何かの技術が有れば手を出せていたはずなのに、どちらかに頼ってしまっ た瞬間撮影のバランスは気がつかないうちに崩れ始めます。撮影を組み立てるにはカメラマンに積極性がある事が重要だと思います。引きつける時も、遠ざける時も必ず判断が必要になります。子供の様子、コーディネーターの様子、両親の 様子などを注意深く観察すれば、自らが行動しない事に違和感を感じるはずです。 では具体的に撮影現場でどのように行動すべきなのか、そしてどのように結果物である写真につなげれば良 いのかと疑問を持ちます。私はそれが被写体を動かす事だと考えています。 撮影において被写体とは子供だけではなく、両親も含まれます。 効果的に人を動かすアプローチ。この行動を撮影時間内継続していかなければいけません。そしてその行動はカメラマンをより考えさせ、確かな結果へと進む事が出来ます。ではカメラマンはどのように被写体へのアプローチを行うべきなのでしょうか。方法はカメラマンにより多数有ると思いますが、少し私が行っている方法を書いていきたいと思います。第一に目的を持ちそこに向かい動かす事を条件とします。 いたずらに被写体を動かしても欲しい結果に導く事は難しく、かえって混乱してしまう事が予想されます。しっかりとしたイメージを有る程度持っておき、被写体に会い、空間を観察してイメージをより具体的にし ていきましょう。イメージに向かい、被写体を導き、その過程で生じる様々な要素を広い、写真にしていきます。予測は大切ですが、必ずしも自分の予想の通りに被写体が動くかは解りません。ですが、目的に向かう行動の中であれば、大きく逸脱した物にはならないという感覚を受けます。 イメージを持つ事は、カメラマンの範囲を持つ事でもあります。カメラマンは自分の許容範囲外の行動は難しく、範囲を決める事を怠れば動かすどころか撮影すらままなりません。自分、被写体の範囲内で想定したの結果、範囲内での想定外をつかみ取るような感覚。この条件を導くために必要なのが継続的なアプローチである。声かけによる誘導がメインとなりますが、基本的には初めから答えを投げかけないように気をつけています。欲しいポージングへ導く際に、直接そのポージングを提示しない事。円の外周を回り、少しずつ範囲を狭め中心へ近づいていく感覚です。必ずしもそのポージングに写したい写 真の答えが存在していない事がこの撮影方法の大切なところです。動き始め、途中、終点を狙う過程がこの撮影方法には存在します。 白か黒の答えの間にあるグレーが答えの場合も有ります。誘導方法により、見える範囲は格段に広がっていきます。写真を写すためには多くの選択肢を持つ事が重要 です。選択肢の拡張により、様々な環境が生まれます。この状態は生きた撮影とでも表現出来ると思います。 様々な要素が意図的に生み出される環境は、カメラマンに写す意欲を与え、被写体に撮られる意欲を与えま す。偶然を必然として招く、その事を強く意識して行動すれば自然と目に見える瞬間が変わって行きます。被写体に有った条件を考え、絶え間なく繰り返し一言一言を意識しながら撮影と言う時間 をお互いに楽しむ事が重要です。楽しむと言うと抽象的な表現に聞こえますが、何をする時でも気持ちを乗せるのは重要だと思います。私たちが相手にしているのは人であるため、互いに感情が有ります。 良くアンテナを張り、被写体のテンションをあげて行くのも大切な事です。子供達は非常に素直です、被写体のメンタルを無視した瞬間、写真は死んでしまうでしょう。 だから私たちは活きた写真を撮るために、被写体そして撮影者である自分を活発にする必要が有ります。 今回の写真もそうですが、被写体・コーディネーター・カメラマンが皆で作り出した物です。私たちの写真の素晴らしさは共に作るというところではないでしょうか。かわいいから綺麗へ、そんな瞬間はヴェールによって曖昧になり、両親に記憶の中と現在の姿を見せてくれます。 何年何十年と先、この写真を見たときに幸せな記憶と変わらない美しい姿がそこにありますように。
Over,
2015/7/31
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楽しいことや幸せなことを、ずっと覚えていたいと思いますが、人は、いつか忘れゆく生き物であるのだと思います。 人は、『人生』という時間の中でおぎゃあと生まれたその瞬間から、常に変化しながら生きています。たくさんのモノゴトや経験を蓄積し、肉体は新陳代謝を繰り返し、吸収しては排泄され、1秒前と比べてさえ何かが、どこかが違っている。そしてそれは、決して立ち戻ることのできない『時間』によって、どんどん遠くへと運ばれていってしまう。目に見えるものも、そうでないものも、何もかもが変わっていく。少しづつであったとしても、留まることなく。それは、良くなるとか悪くなるとかではなく、ただ変わっていってしまう、ということ。その積み重ねが『人生』と言えるものなのでしょう。 変わっていくことを、知っておかなければ、覚えていたいと思わないかも知れません。目の前のその子の、Babyという、限られた時間。柔らかな髪やぷくぷくとした小さな手、お腹の中にいた頃の名残のように、小さく丸まる仕草。今だけのその姿であるのだけれど、毎日目にする何気なさの中では、するすると通り過ぎ、気が付けばそれはもう遠い時間の先で、思い出そうとしても忘れてしまって、自分が何を忘れてしまったのかも忘れてしまった先ではわからなくて、そうしてなんとなく、淡いイメージの記憶となっていきます。その子が『その子』であることは変わらないのに、その姿かたち、仕草は変わりゆき、生まれたばかりの赤ちゃんに対して抱く愛しい気持ちや、不安や、まだ新しい家族のカタチであるが故のぎこちなさといったものもまた、時間が経つにつれて変化してゆきます。そしてふと気が付いた時に、『あれ?』と思ったりするのかも知れません。 ひとは、変化するものです。そして人は、変化とともに忘れゆくものです。忘れてしまう。けれど、限られたこの時間、この姿を、この時の気持ちを、この瞬間の世界を、覚えていたい。写真は、その為の助けとなれば良いと思います。時間とともに変わりゆき、二度と立ち戻って確認することはできないけれど、それでもその時の姿かたちを、気持ちを、写真に収めることはできないはずの匂いや温度まで感じるように、思い出せるように、記録する。柔らかく、温かく。まるで、その瞬間にタイムスリップしたかのように。 目の前のBabyの、今だけの姿。パパとママが見る世界。愛しくて、温かくて、幸せな瞬間。写真がどうか、それを残すものでありますようにと願いながら、私はシャッターを押して封じ込めようとするのです。今、この瞬間の世界を、遠い未来であなたたちがもういちど、触れることができるように。 Life studio No,17shinyokohamaPhoto by Reiri, / coodi by Yonezu
Brightness
2015/7/31
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今私たちが過ごす毎日はTVの様に一時停止するボタンなどはなく、留まる事なく過ぎてゆき、毎日の出来事が新しい情報として頭の中に流れこんできます。今日は昨日になり、昨日は一昨日になり、一昨日は1年後になってゆき、過ぎてしまった出来事はだんだんと新しい情報に塗り替えられ、悲しかったことも、嬉しかったことも、少しずつ忘れてしまう事もあるでしょう。写真はその絶対的に過ぎてしまう時間を写真とゆう1枚の中に留める事ができます。毎日自分の目の前で起こっている出来事は似ている事はあったとしても100%同じ事が起こる事は決してないですし、どんな場面だって大切で貴重な一瞬だと思います。写真を撮影するには自分の中に沢山のイメージの引き出しがある事が大切だと思います。イメージの引き出しを持つ事は75cuのバリエーションを増やす為に必要ですし、イメージを持っていれば被写体へのアプローチの方法も沢山取る事が出来ます。しかし、明確すぎてしまうイメージは写真を固くしてしまう原因に繋がります。イメージとゆうのは自分の写真へのちょっとしたスパイスです。まったく同じ時間と瞬間が訪れないのと同じように、まったく同じ写真はデータを丸ごとコピーしないかぎり不可能なのです。見つけたイメージにとらわれるのではなく、自分がイメージとして選んだ写真の一体どの部分に引かれたのか、ではその部分を表す為にはどうすればいいのか考え、実践していくことで被写体へのアプローチの幅がどんどん広がり、被写体自身の心を自由にする事が出来るのではと思います。1時間とゆう撮影時間の中で被写体を小さな枠の中で閉じ込めてしまうのではなく、沢山イメージの引き出しがあれば被写体が持つ身体と心をその時一番活かす事が出来るスパイスを引き出しの中から見つけ出す事も出来るでしょう。彼女が窓際に来てくれたとき、私の引き出しの中にあった瞳の中に映る光の輝きが印象的だった写真が連想されました。窓際に手を置いてもらい外を見つめてくれた時、瞳に映る光が見え、彼女の瞳の輝きをしっかりと写したくて色を無くしました。彼女の瞳の光:輝きは一体何を見つめ、何を思っているのか、写真はその場所を記録し、その時の思い出を記憶し、そしてその場所にいなかった人々が想像出来る世界観を映し出してくれるのです。
条件
2015/7/31
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Photographer:Ta-na-Coordinaite:Cho Lifestudio:Urayasu写真を撮影する、という行為の中で様々な壁にぶつかる・・・という事は多々あります。どうしたら、もっといい写真を撮影することが出来るのだろう・・・?そんな疑問が、写真を始めたばかりの私の脳裏によぎり、ライフスタジオの様々なメンバーに対してこんな質問を何度かしたことがあります。「いい写真を撮影することが出来る撮影者が持つ能力とは何ですか?」この質問に対して、様々な回答を頂きましたが、最初に突きつけられたのは、「あなたが話をしている「いい写真」の「いい」とは、何ですか?」言い換えると、こうです。「あなたは、どんな写真が撮影したいと思って今悩んでいるの?」ということです。それに対してのライフスタジオという現場で撮影をしながら感じた私の現在の結論は「楽しさ」でした。ここでの「楽しさ」とは、作り手だけが楽しい事ではなく、被写体だけが自由に遊んで楽しいという事でもありません。ここでの「楽しさ」は、「一緒に作る」という楽しさと、「一緒に過ごす」という楽しさです。私が、現在一番に考えている、いい写真の基準は映し出された写真の中に「楽しさ」が映し出されているのかということなのだということでした。この「楽しさ」を常に生み出すこと。これこそが、次の課題となりました。天候に作用されるのではなく、光に限定されるのではなく、被写体のコンディションだけを優先するのではなく、撮影するスタジオや、共に作る人に限定するのではなく。「~がなかったから上手く撮影が出来なかった・・・」確かに、条件に縛られてしまう事もあります。ですが、それ以上に大切であり、腕の見せ所があるのだとしたら、私はこう考えます。「どんな環境でも、自分の「最高」を生み出すことが出来る条件を自ら作り出すことが出来る人が、自立をしている人であり、最も自由な表現者である」様々な店舗へ行き、撮影をする機会に恵まれ、様々な仲間と手を組み撮影を行なう毎日の中で、私が75枚の中でコレだけは撮影したい!と思う写真が「家族写真」であり、「仲がよさそうに見える家族写真」ではなく、実際に仲が良い現場をそのまま撮影した写真です。どんな場所で撮影をしたとしても、「私達は~である」という哲学を表現することが出来る条件を生み出すことが出来る私達でありたいと思います。同時に、「これが、私の伝えたいものである」という哲学を表現できるような家族写真を撮影する為の条件を自ら作り出せるよう、常に技術を吸収し続けられる表現者で有り続けたいと、7月から訪れた新しい場所で誓いました。
『感情』
2015/7/26
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photo by Ryo codi by Katsu in Yokohama Aoba 私たちの写真はこの世界で最も繊細で純粋な被写体を対象に撮影されています。子供達はまだ多くの事を知らない、そして私たちが忘れた事を知っています。 撮影に関わる時間の中だけではその子に対する情報は少ない。会話の中でできる限り集めた情報も人の魅力を表現するにはまだ少し足りない。だからカメラマンは常に想像をし、目の前の人とその人に対する想像を掛け合わせ写真を写さなければいけません。 私が思う姿、いつもの姿、そして今の姿。写真を写すためにはそのすべてが大切ですが、人物を表現するには目に見えるものだけではなく『感情』も大切な要素だと考えます。感情を読み取るには会話や仕草、行動から感じ取るしかありません。姿の表現よりもさらに想像を働かせなければそれを写真に反映させる事はできません。 自分以外の相手の感情というのは簡単に100%理解できるものではありません。そして相手が子供ならば余計に大人である私たちの想像の及ばない感覚もあるでしょう。 写真を撮られる事が好きそうな彼女の姿は、その時間を楽しんでいるようにもみえました。撮影中の仕草や言葉から私が思う彼女を想像し、家族の会話の中からいつもの彼女を想像する。いつもの場所ではないこの場所で、いつもと違う人に会い、いつもと違う洋服を着る。楽しみの中にも、もしかしたらほんの少し新しい物の多さに少しの困惑もあったのではないでしょうか。 しかしこの全ては私の想像であり、彼女の本当の感情ではないのかもしれない。考えればきりが無い事ですが、人を写す写真とはそう言う物なのだと思います。だから人も写真も面白い。 写真は記録物ですから、撮影当時の記憶も残ります。その記憶には常に感情があります。そのときに感じた気持ちは目には見えないかもしれませんが、それが写真になる事により目に見える物として残ります。そしてこの時の本当の感情の答えは彼女だけが知っているのではないでしょうか。 素敵な感情と記憶を写真に残すためこれからも写し続けたい。
身体
2015/7/24
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お母さんのお腹の中で、その奇跡は始まる。 だいたい3~4週目、その新しい命は一生懸命お母さんのお腹の中で大きくなる準備を始める。 そのときお母さんは、少しずつ体の変化に気付き始める。病院で撮ってもらったエコー写真に写る、その小さな命の存在を目の当たりにし、今までに味わったことのない感動と、幸せと、不安を噛み締めるだろう。お母さんがお母さんになる準備とともに、その小さな小さな命も、少しずつ大きくなっていく。始めは直径1mmほどだったその小さな丸が、だんだんと2mm、3mmとなり、徐々に身体の各器官を形成し始め、ヒトの形へと成長していく。小さな丸が、精一杯、自ら生きようと、お母さんからたくさんの栄養をもらって、自ら大きくなっていくのだ。 その、かみのけ。その、まゆげ。その、まつげ。その、おめめ。その、おはな。その、おくち。その、おてて。その、すべて。お母さんとお父さんが起こした奇跡。 私たちの身体は、奇跡そのものである。私たちの命は、奇跡そのものである。 あなたの存在が、奇跡の他に何と言えるだろうか?photo:nakayamacodi:fujiLife Studio AOYAMA
I say
2015/7/12
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photo by Shiiba codinate by Matsukawain Kokubunji 誰にだって正義はあるのではないかと思います。それが誰かに反対されていようとも、正義というものはそれを尽くさないといけない。だから正義を通すとはとても難しいこと。なにがあってもそれが本当に正しいと思うのであればそれを主張しないといけない。 大人になるにつれて変な妥協を知ってしまい、それが正しいかどうかは二の次になってしまうことがあります。子どもたちを見ていると、まっすぐにぶつかっていく姿からいつも学んでいます。 子供達はだから皆キラキラしているのかもしれません。そして大人でも輝いている人はそれを知っていたり、考えているから光って見えるのかもしれません。それを限られた時間と空間の中で、その輝きころさずに写真残してあげることがカメラマンの大切な役目の1つとなります。皆輝いている部分は持っているし、言いたいこともある。それを受け止め、それに答えたり意見を言ったりというこちらの態度が必要です。それが言葉である場合もあるし、言葉で表せないこともあります。 3シーン75カットで撮影を行なう上で、その子に特にピッタリなシーンが一箇所あると思っています。背景や洋服、光などすべてがマッチするのです。それを見つけることが私の楽しみでもありますが、それを見つけることが出来た時がこちらが答えたということになるのかもしれないと思います。 それをカメラマンだけでなく、コーディネーター一緒に受け取っていくから難しくもあり、とても面白いのだとも思います。それがここの撮影の醍醐味でもあるのではないでしょうか。 人が絡めば絡むほど難しくもあり面白い。 皆きっと伝えたいことがあるんです。
「家族とは何なのか。」
2015/7/3
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「家族とは何なのか。」此処のところそればかり考えてしまいます。考えどもそれを定義づけるのはとても難しい。それを証明するものとは何なのでしょう。ひとつ屋根の下で共に暮らしているような血のつながっている親子は、実に家族らしく思える。また養子として迎えた血の繋がらない親子だとしても、それも家族。あるいは、おばあちゃんが一人暮らしでネコやカメのペットを飼っていたとしたって、亡き夫の遺影を仏壇に飾ってあっても、その空間には家族としか呼びようのない雰囲気がある。「家族とは何なのか、、、?」家族とは戻ってくるというところなのかもしれません。歩き出したばかりのヨチヨチ歩きの赤ちゃんの姿を思い浮かべてみる。人間はこの世に生をうけて、最初は自分では動くことができない。手足をバタつかせ、寝返りを打ち、トコトコ這い出し、立ち上がり、一歩一歩、前に歩き出す。ヨチヨチと一歩、二歩と歩いたと思ったら、おもむろに振り返り、そこに親を見出すとニコッと微笑みまた前進する。しかしそこに誰もいなければ、驚き不安に襲われ、顔は歪み、涙が溢れてこの世の終わりかのように声を荒げ泣き出すことでしょう。人間には立ち戻る場所がなければ生きていけない。その場所は家族でもあるんだと思います。その場所があるから、安心して生きていける。その安心とは何も言わないでもわかるような、自分の味方になってくれる人たちがいる場所。自分をさらけ出すことのできる、自分が自分でいられる場所。それを「家族」とも言うのかもしれません。 Photo by SU & Tomikky
愛する事。命を貰う事。
2015/7/1
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photo by Rolly. coordi by Yumi撮影には愛が必要で、その時間は命を貰っている。写真館と言う場所があり、フォトグラファーと言う職業がある。写真館の使命は何なのか。そして、フォトグラファーとしての使命は何なのか。写真館の、特に子供写真館と言う場所の持つ大きな使命は「親が幸せを再確認する場所」で有る事だと思う。被写体は子供だが、そこに来る理由は親が持っているし、子供写真館で写真を撮って、その写真に一次的に価値を見出すのは親だからだ。だからこそ、子供写真館である以上笑顔等の親が喜ぶ写真と言うものは撮らなければならない。では、そこで働くフォトグラファーとしての使命は何なのか?カメラを握る人に限らず、そこで働く人にとって様々な使命があると思うが、自分にとってのフォトグラファーとしての使命は「撮影を通じて被写体がより自分を好きになる事が出来、結果として自他を愛する事が出来る様になる事」だ。写真館の使命は親にフォーカスし、自分の使命は被写体(子供)にフォーカスしている。そのバランスを常にどう取っていくか。と言うのが自分にとっての一つのポイントだと思う。さて、人の写真を撮る時に、その人の何を表現したいのか。自分と言うフィルターを通してその人をどう見るのか。と言う事が出来たら最高だなぁ。と思う。理想を言えば、相手の事をしっかりと知った上で、そこに自分のイメージを投影して撮影をしたい。でも、その為には①それを知るだけの感受性・知識等を持っていなければいけない②相手の事を知るだけのコミュニケーションや関わりが有る事③それらを表現するだけの技術や感性が有る事④前提として、被写体がその表現を納得したり、理解した上で協力してくれる事以上の4つが必要になると思う。つまり、誰かを見てその人を判断し「こういう人だ」と感じるためには、自分自身に経験が必要であり、相手を理解する能力が必要になる。また、いくらその経験や能力があっても、そもそもそれらを知覚するだけのコミュニケーションや関わりが無ければそもそも相手を判断する事が出来ない。また、それらをクリアしたとしても、技術や感性が無ければ表現が出来ない。そして、相手の持つイメージや撮られたい姿と、自分の捉えるイメージに差が有る場合、そのギャップを埋める作業が必要になる。例えば、笑った写真を撮られるのが苦手な人が居たとして、その苦手な理由が自分の笑顔に自信が無いから。だとする。でも、撮影する側がその人の笑顔が素敵だと感じ、それを残したい。と思った場合は、その理由を被写体に説明して、納得し、協力してもらわない限り笑顔の写真は撮れないし、無理やり笑わせて撮ったとしても、やはり納得はしてもらえないと思う。しかし、自分が被写体の笑顔を素敵だと説明し、それを表現し、被写体が喜んでくれれば、それは自分の使命を果たした事になるのではないだろうか。被写体を表現すると言う事は愛する事に近い。その為には、被写体の事を知り、被写体の事を好きになり、被写体に納得してもらい、協力してもらい、被写体の事を自分と言うフィルターを通して表現していかなければならない。ある人が、人の写真を撮る事をその人の命をもらう事だ。と言っていた。写真を撮る間時間と言うのは、即ちフォトグラファーが被写体にその時間を割いてもらっている。つまり、その分の命を貰っている。だから、被写体の事を良く知り、好きになり、自分の事を知って貰い、納得して貰い、時には協力してもらい、最高の写真を「一緒に」撮りたい。と。子供写真館で被写体が子供である以上④被写体がその表現を納得したり、理解した上で協力してくれる事が成り立たない事が多々ある。それでも、接する時間の中で親と話、子供と遊び、自分の中でその子をイメージし、子供を愛そうとする。その撮影を楽しんでほしい。笑うのが苦手なら笑わなくても良い。その子に沢山可愛い、カッコいいって言ってあげたい。それで少しでも自分の事をより好きになって欲しい。数ある写真の中で、どの写真を気に入ってくれるかは分からないけれど、それでも命を貰っている時間の中で、最大限愛して表現したいと思うのです。
for ever, to be.
2015/6/30
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Soka PhotoPhoto by Kudo / Cordi by Ouchiあなたであること。それはこれからも、ずっと、変わることなく。あなたであること。それがこの写真を完成させる最大の要素。写真を撮るときに撮影者は、被写体を表現しようと思ってシャッターを切ります。被写体の存在を表現するために、撮影者の技術とバリエーションの中から光を選択し、画角を選択し、背景を選択し、写真全体を構成し、被写体を表現をしていきます。なので、一見すると写真を能動的に構成しているのは、撮影者であるように見えます。もちろん、どのように写真として表現するかは撮影者の手にかかっています。しかし、その表現するという行為は、何の為でしょうか。言い換えれば、私たちの撮る写真は何なのでしょうか。私が考えるに、ライフスタジオの写真のテーマとは、「人生」であり、それは即ち「人」の存在であると考えます。つまり、被写体その「人」を表現した写真であって、そこにはその被写体の特有のアイデンティティが顕れているべきであると考えます。そのアイデンティティを写真として表現するのは撮影者であり、撮影者自らが被写体のアイデンティティを構成するというよりも、もとからある被写体のアイデンティティを撮影者が解釈して、写真に美しく表現すると言った方が正しいかもれません。そのもとから被写体に内在しているアイデンティティは、撮影者が変わっても決して変わらないものです。だから、写真を構成し形成する撮影者の解釈が、より被写体本来の真実に近いものである必要があります。それが、写真の中の被写体が「自然である」ということや、写真自体に「統一感」があることに繋がります。もちろん、被写体のアイデンティティをどのように引き出し、どのように表現するかは撮影者にゆだねられています。だけれど、その写真の本質は被写体自身であるということ。ずっとそこに在って、新しく発見するもの。だけれどこれからもずっと、あなたはあなたであるという写真を、「あなた」ではないと完成しない写真を、この写真のアイデンティティは「あなた」であり「私」である写真を、私は撮り続けたいと思います。
花のように流々と
2015/6/30
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Soka PhotoPhoto by Kudo / Cordi by Ouchi今そこにいるあなたの姿は、まるで小川を流れる花のように、流々とあっという間に過ぎ去ってしまう。だから、私は過去の残り香を留めるように、あなたの姿をおさめるのです。今ここにいる自分という存在も、あなたという存在も、存在できるのは今でしかなく、今が過ぎ去ればまここにいる存在は過去になってしまう。時の流れとはそうして、人の存在を先へ引き継ぎ、そうして存在を過去に置いていきます。今、あなたがこうして花のように可憐に咲き美しく成長した姿が存在している。また時が過ぎればまたあなたは成長して、変化して、今とは少し違った姿になっておるかもしれません。写真を撮る以上、四角の枠の中に留めているのは過去の残り香であるということ。存在とは時の流れと共に、流れて、変化していく。存在とは時の流れの中で、「いた」という形を残しておかないと、この過去の残り香さえも消えてしまうかもしれません。いつの間にかあなたは大人になって、このころの姿を忘れてしまうかもしれません。だけれど、忘れてはいけないのは、あなたの存在とは今までのあなたの人生の歴史。そしてこれから、あなたは存在を紡いでいくもの。過去と未来と現在、この全てが繋がってあなたは存在しているということ。存在とは今でしかない。だけど、その今だけの存在を永遠にすることで、自分が誰かということを見失わないで、自分として未来を紡いていくことができます。だから、私はあなたの存在を過去と未来を繋ぐものとして、この写真を残します。いつか、あなたがこの写真を見返した時に、こんなにもあなたが美しい存在であることを思い出すように。
『写すために』
2015/6/30
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photo by Ryo codi by Kaori in Yokohama Aoba 私たちは日々、カメラマンとして毎日お客様の前に立ち撮影を行います。期待に応えるため、期待以上の物を提供するため。自分の思いを伝えるため。 理由は皆様々だと思います。 私個人としても写真を撮る理由は沢山あります。単純に写真が好きと言う気 持ちとそれに伴って出て来る向上心。 そして、提供する物である限り自己満足ではなく、相手の満足ももちろん大切に考えています。 知識や技術の共有は大変困難です。特に写真など感性の物は必ずこれが正しいと言う定義を持つ事が難しく 感じます。 しかし、私たちが写真館のプロカメラマンである以上、有る程度の正解を規定して行かなければいけません。 全てにルールを設けてしまえば、写真はたちまち命を失い、誰であろうと同じ結果物を生む事になります。 その結果、良い物への追求を諦めてしまいます。 私たちは何でお客様を喜ばせているのか、何で自分自身満足を得ているのか。 この単純であり、最も難しい問いを解いて行くために写真と言う技術を一度自分の中に落とし込む必要が有ると考えます。『カメラマンは時に、気持ちに技術がおいて行かれてしまう』 こんな事を感じる事がカメラマンならば皆一度は有ると思います。 たとえば自分にとって、相手にとって大切な瞬間が、目に見た光景よりも美しく切り取る事が出来なかったり、もっと良く写せたのではないかと後から漠然と考えたり。 自分の想像を写し込む事が出来ないと言う現象。しかしこれには大きく分けて2パターンの原因が存在しま す。一つはもっと良くしたいと言う気持ちから来るもの。 そしてもう一つはブレたり、ピントが外れたりといった写真として成り立たない技術面での失敗。向上心は大切で、よりい良い物を求める気持ちは絶対的に大切な物ですが、明らかな技術的な失敗は最ももったいない結果です。写せるはずの物が写せなかったと言う結果はカメラマンとして最もさけなければいけません。 これは確実に本人も相手も得をしない単純な失敗だからです。 したがってカメラマンに最も必要なのは向上心を常に持つ事と、基本的な技術、知識をしっかりと持つ事だ と私は考えています。 今回の写真については少し技術的な面を書いていきたいと思います。 S(Tv) 250/1F(Av) 2.8ISO 800記録画質Mファイン(約980万画素)ピクチャースタイル ポートレート使用レンズ:キャノンEF70-200機体:5DMk3ライト:室外からの自然光メインは逆光となる窓明かり。 上記がおおよそでありますが、この写真が撮影された時の環境です。私たちは無意識にも、意識的にもカメラという機会の中にある幾つもの機能を使いその一枚を写しています。そして本来は、写真そのものに意図があるように、設定の一つ一つにもその意図に向かうための理由が必要となる。ただ単純に露出をあわせたいのであれば数値組み合わせ次第でいくらでもにたような明るさが撮影できるでしょう。その瞬間をより美しく写しには細部に至るまでの細かい計算がが必要です。 S値は何故250/1なのか。このシャッター速度はある程度の動きであれば被写体ぶれを起こさずに止めて写す事が可能です。特に被写体である子供たちが座っている状態でのおおよその行動であればなおさら写しやすい状況となります。この一枚のようにお互いに顔を寄せる早い動作の中でも、顔がくっついた瞬間の減速するタイミングをみれば十分に止める事ができる設定です。写真のイメージを固めた瞬間から行動を想定した結果色味かボケ感との調和をみた結果この数値を選択しました。 F値は何故解放にしたのか。望遠レンズの魅力の一つは長い焦点距離を利用したそのボケ味にあると思います。2.8という数値は被写界深度が浅く、リスクはありますがこの写真のように150ミリ以上の距離感で被写体が奇麗に並んでいるときはさほどリスクは感じないで写す事が可能です。自分のポジションから被写体までの距離にある程度余裕を持たす事により、被写界深度も少し深くかせぐことが可能だからです。 逆光での撮影の場合絞りを空ける事により、輪郭がボケて全体的に柔らかい雰囲気を演出する事が可能です。窓から差し込む光などで写す場合の手法としては美しく見える方法の一つだと思います。二人のイメージやシチュエーションから撮影者としてこの柔らかい雰囲気を選択した結果の設定です。 ISOについて。今回は800で撮影された写真です。感度は数値を上げすぎればノイズが発生し、写真が荒れてしまいます。企画上、ノイズの発生無くハイキー部分ローキー部分ともに細部を美しく写すのは400までといわれていますが、実際の使用感だと5DMk3ではISO1000以上から少しノイズを感じます。今回の設定に至る理由としてはその環境で得られる光量にたいして、上記シャッターの設定と絞りの設定を実現するために必要な感度だったと説明できます。そしてここからは私自身の感想ではありますが、ピクチャースタイルをいずれかの設定にした際、カラーバランスの影響を受ける部分が高感度の方が強くでる傾向を感じます。今回の写真のように強めの逆光での撮影の場合、ハイライトにその他の色が飲まれないようにポートレイトモードで撮影します。その際にわずかにでもその効果をよく反映させるための感度設定でもあります。室外と室内の露出差が激しく、窓の外が真っ白く飛んでしまえばこの写真は奥行きを無くします。ポートレート設定にし、感度をやや上げる事でハイキーの中の外の緑をできるだけ濃く写しています。 記録画質については様々な観点から考える事ができるのですが、今回は画質が生む質感の部分を考えていきたいと思います。一見記録画質と写真の質感はそんなに関係のない物のようにも思いますが、これは間違いなく関係があります。例えば5DMk3の最高画素数は2210万画素です。しかしこの画素数で写真を写すには記録画質をLファインで写さなければいけません。そして高画質という事は細部まで線めに写すため、写真の質感はややクリアになり、固めに写ります。という事はそのようにクリアで高精細な写真を撮りたいときにはイメージが合っているといえます。 では今回の写真の設定であるMファインはどうなのでしょうか。Mファインの画素数は980万画素となります。これは機体の最高画素数の半分以下になる訳ですがイメージ的には少しリアルからはなれ『写真』としてみるにちょうどいい物となります。プリントにも光沢やマットや半光沢の選択肢があるように、撮影段階でもある程写真にイメージをつける事が可能です。記録画質のM以下は極端に解像度が落ちるため、写真間ではあまり使われる事が無い。結果的な完成度を落とす事無く、カメラの機能がうむメリットでメリットをうまく利用できてこそ写したいものを初めて写せるのだと思います。 毎日のように私たちは写真を写しますが、その写真自体も奥が深く、対する被写体である人もまた奥が深い。でもきっと、難しい物には難しい物がよく似合うのではないでしょうか。 だから私たちは写真で人を写したいのかもしれません。
母娘
2015/6/30
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誰よりも自分に似ていて、 だから誰よりも分かってほしくて、 でも誰よりも許せない部分もあって、 それでもやっぱり誰よりもしあわせであってほしい。 母から娘に対してであっても、娘から母に対してであっても、そういう想いがどこか、「母と娘」という関係性にはあるような気がします。 はじめて母になったその日から、母は母となり、子は子として存在します。母は、母ではなかったそれまでの人生の長さに、母である人生を積み重ねてゆき、子は、その積み重ねていく人生と共に成長していきます。母親という存在の傍で、どれだけ守られ、育まれたか、直接的な記憶はこどもにとってあまり残っていません。それどころか、成長するに従って、いつも一緒にいた母と子という関係は、子という立場からすると、自分は自分として生きていきたいという、反抗にも似た感情が芽生え始め、次第に距離が遠くなっていくこともあります。母と娘は鏡のようで、それでも同じではないのだと。お互いに意地を張って素直になれないことばかりで、お互いに自立したい気持ちと罪悪感を抱えてぎこちない時間を過ごすこともあるかもしれません。少なからず、わたしはそうでした。 時は経ち、距離としても親元を離れ社会人となり、自分で自分の人生を選択し生きていく中で、母としての母だけではなく、ひとりの人としての母が見え、娘は娘としてこれから妻となり母になっていくのだろうという時期が来て、また改めて母と娘という関係を結び合うのだと、普段ちいさなこどもたちとママを撮影する時には感じられなかった、時を経た母娘の関係性をこのふたりの撮影で垣間見たようでした。 母は母であり、娘は娘であり、鏡のようで、そして人と人である。 いつも仕事熱心で責任感が強い、わたしの知っている大内さんも、お母さんの前では、ただひとりの娘でした。そして、よく笑い、よく話すユーモア満載のお母さんの存在が、大内さんという人へ与えた影響が今ここで生きているのだとも実感しました。今だから話せること、今だから笑えること。普段、少し恥ずかしくて互いに向き合うこともなかなかすることもない中に、ちいさなふれあうきっかけを与えること。それが、この場所では可能となります。恥ずかしさの中の照れ笑いは、今までの素直になれなかった時間を含めた、母娘としての関係があってこそ写し出されるものかもしれません。 そして撮影中、大内さんが小さかった頃のたくさんの写真を一緒に見ました。どれだけ時間が経ったとしてもお母さんは、大内さんの誕生からはじめて立った日、一緒にどこへ行ったのか、何をして怒ったのか、たくさんのことを覚えていました。直接的に覚えていない過去の記憶も、一緒なら間接的に知ることができます。写真は親子の記憶をつなぎ、たしかにそこにあった事実を現在に伝えます。生きてきたこと、そして、これからも生きていくこと。その生命のつながりの先に、いつか大内さんが母になる頃。与えられた愛を、与えられたように与えていくのだと思います。 笑い合うふたりの姿を、いつまでも忘れません。shimonoseki kawano,yoh
BE:auty
2015/6/30
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Soka PhotoPhoto by Kudo / Cordi by Ouchi「人」のあるがままの姿(BE)の尊重。「人」の美しさ(Beauty)を引き出すこと。その両立こそが、「被写体」へ入るということになる。「美しさ」とは、そこに既にあるものですが、同時に私が「美しい」と感じることで初めて存在することになります。それを人に伝えることでその「美しさ」の存在は、保証されていきます。私たちが撮影をし、写真で何をお客様へ伝えたいのかと言えば、「家族の絆」だったり、「関係の美しさ」だったり、「人の素晴らしさ」だと思います。これらの概念は、普段は目に見えないものですが、写真というツールによって可視化され、撮影者によって表現されます。そこで表現されたものが、被写体の存在であり、その存在が如何に美しいかということをお客さまに伝えることがライフスタジオの写真の価値なのだと考えています。その美しさとは、その被写体の中にしかないものであり、その被写体の存在自体が美しいのだと言えます。存在することの美しさは、いつでも、どこでも、何でも、誰にでも宿っており、その存在を美しいと感じ、美しいものとして規定するのはそれを見ている私たちです。その存在を美しいものであると、誰かに伝え、広げるのもまた私たちです。だから私たちは、概念的な美しさを具体的に伝えるために写真を撮るのかもしれません。その存在が、美しいということを、確かなものにするために。それはあるがままの被写体の姿を美しいと感じ、それがどういった美しさなのかを表現し伝えるものが写真なのだと私は思います。その美しさこそが、その被写体の存在の姿であり、撮影者と被写体が作用し、広げた写真の表現の幅であると私は思います。被写体の雰囲気に合った着物の柄、被写体の美しさを引き出すためのポージング、そして被写体に内在している美しさを表現するために、BE(あるがまま)とBeauty(美しさ)を両立させること。それが、存在の美を表現し、存在を立たせることであると思います。
Motherhood / Babyhood
2015/6/30
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この半年間、極めて集中的に、取り組んできた課題があります。『誰が見ても美しいと感じる、Babyの写真』。 新横浜店は、撮影カテゴリをBabyに限定した店舗です。そう限定している以上、私たちには『普遍的に美しいBabyの写真』を追及していくという責任がありました。言葉によるコミュニケーションが困難なBabyという被写体に対し、彼らの仕草や表情、動きに全神経を集中させながら、如何に私たちがファインダーの中の世界を撮影者の意図を反映させて『美しく』作り上げるかに、ひたすら悪戦苦闘した半年間。 ただその存在さえ可愛い、という、主観的な感情論でシャッターを『切らされる』状態が、Babyの撮影にはままあります。ニコニコ笑った、仕草が可愛かった、ただそれだけでシャッターを押し、写真を見返して『この時、この子が可愛かった』という以外の論拠を出せずに、撮影の楽しさに熱弁を振るってしまうことが、今までに何度もあったように思います。もちろん、撮影の楽しさは大前提にあるべき条件だと考えています。ここで過ごす時間が、家族の一生の思い出のひとつに加われるような、写真を見返す度に『この時、本当に楽しかったね』『あなたは人見知りで泣いて泣いて、大変だったのよ』と笑いながら話されるような、そんな時間でありたいと願い、私たちはいつもその為に、汗をかいては走って転んで、シャボン玉まみれになりながら、たくさん話して時に苦しんでそれでも笑いながら、毎日を過ごしているのではないでしょうか。 そういった楽しさで撮影空間を満たすこと、新横浜店でこの半年間共にした3人は、そこに価値を置く人たちだったと思います。しかし、私たちが追求するべきことは、その価値を大前提に置いた上で、『普遍的に美しいBabyの写真』を撮影するということでした。赤ちゃんは可愛い、でも言葉での指示はできない、だから『可愛い』と感じたところでシャッターを切る。結果的に、『可愛い』写真は残る。それで満足してしまうこと、それは、撮影者の受動的な姿勢に繋がっていく認識でした。『可愛い』のならば、何故可愛いと感じるのかを冷静に判断し、分析し、その可愛さの表現の為にファインダーの中を整え、『誰が見ても可愛いと感じる』ように表現する、ということを、自ら主体的に行っていく必要がありました。『可愛い』と感じるその感情を、感情を持たない機械であるカメラを通して、その機能をどのように活用しながら表現することができるのかを、考えなければなりません。私たちは撮影者として、この空間に訪れた家族を、Babyを、『美しく写真に残す』という責任があります。写真の構成要素の全てが、その被写体の表現に適切でなければならない、そしてそれが美しく構成されていなければならない。撮影空間に満ちた楽しさもまた、写真を構成する要素のひとつとして、その表現に適切であるものとして必要な前提であり、それを踏まえた上で、私たちは『写真』、ただその1枚に集中しなければなりません。被写体を動かし、美しさを求めて構成し、記録する。例えそれが、言葉による小難しい指示が通じないBabyであったとしても。それが、私たちが敢えて『Baby撮影』とカテゴリを限定しているからこそ、果たすべき責任でした。 Babyを撮ることは、『ひと』を撮るということと、何ら変わるところはありません。どんなひとだって赤ちゃんから始まり、大人になります。誰もが泣きながら生まれ、大人の庇護の元で育ちます。お腹が空けば機嫌も悪くなるし、眠いのに起きているのは辛いものです。安心できるところでなければ楽しむことはできず、楽しくないのに笑いはしないでしょう。やがて成長するにつれ、自分のそういった欲求や感情に対して、適度な我慢をすることを学びます。節度だとか社会的立場だとか、周りに対する思いやりだとか、そんな様々な『大人の事情』に則って。しかし、Babyであるうちはまだ我慢をする必要がなく、泣いたり愚図ったりしながら、眠いことやお腹が空いたこと、ただ何か嫌だと感じることを訴え、楽しいことや嬉しいことには、生えたばかりの白い小さな歯を見せて笑うことで、伝えてくれます。言葉がないからこそ、泣くことや笑うことといった感情表現は、その時の気持ちにシンプルで、ストレートで、剥き出しな『ひと』として素直な原点の姿であり、それだけでも美しいと感じさせる、ひとりの存在として露(あらわ)な姿であると思います。そんな彼らの存在を表現する為に、『ママ』という絶対的存在との関係性を写真の構成に組み込みました。Babyはママがいることでより『Baby』として、ママはBabyがいることでより『ママ』として、その存在を露にします。写真の中で、相対的なその関係性が、Babyの存在を美しく表現する要素として、大きな役割を果たします。『母と子』という関係性に対して連想されるイメージは、見る者に温かさや匂いに至るまで想起させるような、具体的な感情を伴います。誰もが、赤ちゃんから始まり、こんな時間を経て大人になる。『ひと』にとって、極めて身近で、記憶の根底を揺さぶるもの。男女の間では時折見え隠れしてしまうような『愛』という概念だって、ここではこんなにもはっきりと確認できます。相手のあるがままの姿を受け入れ、受容すること。そこに愛があると思えるのは、きっと自分自身も、頭では思い出せないけれど、からだやこころのどこかで覚えている、愛し愛された幼い頃の記憶の一片が、揺さぶられるからなのではないでしょうか。そして、私達が求めてきた『普遍的に美しいBabyの写真』は、そんな『ひと』の記憶の根底を揺らして、温かさや匂いまで想起させる具体的な感情を呼び起こすものでありたいと思っています。Life studio No,17ShinyokohamaPhoto by Reiri, / coodi by Eunjeong
『 一滴の雫 』
2015/6/30
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「一滴の雫」Life studio ShonanPhoto by Masashi KurokiCodi by Mayuko Hara暗い鍾乳洞の中にひっそりと溜まる水たまり。それはそれは静かで何の雑念も無い静寂の中である。月あかりだけが差し込むその冷たい水の水面に一滴の雫が落ちた瞬間、「ポッタン」という音がした。今回は、このような「イメージ」をどのように「写真」へと反映させていくか?そして、その写真にはどのような意味が含まっているのか?そういった話をしていきたいと思っています。まず、写真においてだけではなく、これは絵でも音楽でも、人に対する行為にでも共通することですが、イメージだけではなかなか「理想の結果物」として成立させることは難しいと私は考えています。なぜならば、イメージと結果物は自然には直結しないからです。そのイメージと結果物との間には「それとそれとを繋げる工程」が存在しています。ですが、対外の場合その工程を軽視してしまいがちになり「感覚」というある種ぼんやりとしたものに頼ろうとしてしまいます。「良い写真が撮れない」と悩んでしまう時などはこういう状態に陥っている場合が多いのではないかと感じます。しかしながらこれは当然なことでもあり、「料理」に例えれば分かりやすいのですが、「美味しい料理を作りたい」そんなイメージだけでは美味しい料理など作ることは難しいでしょう。そこで次の瞬間この工程を踏むことになります。「何を作るのか?」と、いくつかの候補を上げ「決定」します。そして「食材の買出し」に行き「調理」をします。料理の場合この工程を踏む事で美味しい料理へと繋がっていくでしょう。つまり「美味しい料理」と「良い写真」とをイコールとするならば写真においてもこの様々な工程は必要となってくるのです。もちろんただ一回作っただけ、一回撮っただけでは美味しい料理にも良い写真にもなり難いため、やはり繰り返し繰り返し実践していくことも必要でしょう。それでは写真においての工程に関してですが、これは話していけばキリがないほどに沢山存在しているので今回は「イメージ」を主として話しているのでその中のいくつかをピックアップします。まずは今から撮るその写真の「ジャンル」を絞ること。いわゆるテーマとも近いかもしれませんが、それが愛なのか生なのか、ドキュメンタリーなのかフィクションなのかなどを選択し、そのジャンルに「イメージ」をもしくはイメージにジャンルを重ねます。そのイメージは細かく説明ができればできるほど意味を含んだ写真へと繋がっていくと思っています。そしてそのイメージと今、目の前にあるその状況とを重ねどれだけリンクさせることができるか。この場合、よりイメージとのリンクをさせるためにはこのふたりを離した状態からはじめるのか、くっつけた状態ではじめるのかそのどちらでもない状態であるのかを考えました。そして彼らの行動を予測しその時私は冒頭にあるイメージをこの瞬間に重ねました。私がこの写真で表現をしたかったことは「彼らの事実」です。一生懸命にふたりを愛する父と母。そしていつでも元気でいっぱいな子供たち。しかし時にふたりは静寂な瞬間も作り出す。そこには子を育てることの幸せ、喜び、そして苦悩などたくさんの事実が詰まっている。ふたりに言葉の会話がなかったとしても、そこにある事実は決して変わることはない。それは、「ふたりが兄妹であるということ」私はそんな事実を残したかった。一見当たり前に思うようなことであっても、色々な角度から感じ、イメージをし撮りつづけ悩みつづける。私のその気持ちは変わることはないでしょう。静寂の中、妹が動きはじめ兄を離れたその瞬間、私の頭の中には水面に一滴の雫が落ちる音が響きわたりました。
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