フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

『The origin』

投稿日:2015/7/31

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Photographer:Volvo
Coordinaite:Ta-na-
 
Lifestudio No.2, URAYASU
 
 
「卓球台でサッカーをしようとしている」
 
浦安店という新しい場所で新しく集まった自分たちが試行錯誤を繰り返している様子を見て私はこう表現しました。
広いスペースで恵まれた光のある場所で撮影をすることに慣れてくると、自分の中にあるシャッタータイミングの許容範囲が広がっていきます。それは光を「作る」というよりは光が「ある」状態に慣れることで、シャッターを押す瞬間の環境の優しさにより他のことに集中できる状態ということができますが、光を「作る」考えが生まれるとシャッターを押す瞬間もシビアになります。例えばサッカーはその広さと距離感ゆえに相手にパスを出すとき多少の誤差はあまり気になりにくい面がありますが、卓球ではあんなに小さいボール一個の誤差によって全く違う展開になります。
サッカーのようなダイナミックな展開を卓球台でやろうとすれば、当然狭くてうまくいきません。
 
この言葉で表現をしたかったのは、店舗の広さや窓の広さによってできる事が変わってきたり、撮り方をかえていかなければいけないという
誰でもわかるようなことではなく、場所や環境、人によって左右されない根本的な「光の理解」を求めている点にあります。
 
私たちは普段撮影していないスタジオで撮影をするとき、いつも自分が撮ってきた経験によって培われた自分の持つ許容範囲を基準としてシャッターを切ります。どこのスタジオもそこまで大きくは変わらないので大体は自分の持つ許容範囲によって解決がされていきます。
しかしサッカーと卓球ほどの違いが現れた瞬間、あまりの違いに自分の許容範囲を越える瞬間が出てきます。
そこで適応、つまり慣れを待つのが一般的です。
 
ところが、この考えかたにも落とし穴があります。
それは場所に慣れすぎる事によって普遍性を失う点にあります。
なぜ慣れない場所に行くと撮りにくさを感じるのでしょうか。
それは写真を撮る時に「光」ではなく「場所」で判断しているからであるように思います。
場所に慣れてくると光を見て判断をしているつもりでも、自己の記憶から無意識的に「この場所だからこの光」という決定を下しがちです。
そうなると、日々の撮影から「光の概念」が抜けていき、場所が変わった瞬間に光が読めなくなります。

サッカーと卓球は優劣をつけるようなものではなく、比べられない質の違うスポーツです。
撮影空間も同様にスタジオの大小や光の量は比べるものではなく、質が違うのだというとらえ方をしなくてはなりません。
写真とは場所がなくては撮れないことから当然場所によって撮り方が変わります。
しかし、光によって被写体を表現するという点においてはどこで撮ろうとも変わることはなく、光と被写体の関係、つまりは写真における光の概念が理解されているかどうかが、どんな場所にいっても、いきなり違うところにいっても変わらない写真を提供できることであり、フィールドを理解し、サッカー場ならばサッカー、卓球台ならば卓球をする臨機応変さにつながるのではないかと思っています。

また、「光の理解」を深めていくとサッカー場のような広くて恵まれた場所でも適当なパスはしなくなります。
つまり自然光にあふれていたとしてもシビアに確認し、どこでも変わらない光の見方をするようになります。そうなることでどこに行っても変わらない自分の写真を作り出すことができるのだと考えます。

 
 
 
 
 

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