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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
『ID』
2015/6/7
6
Photographer:VolvoCoordinaite:Ta-na- Lifestudio No.5, Koshigaya 写真が二次元的なただ一枚の紙であったとしても、写真が人に愛され残していきたいと言われる理由はその一枚から発せられる思いの量:「深み」があるからだと思います。 単純に「思い出を記録する」といってもその内容や深さは様々で、深みとは様々なベクトルに伸びています。例えば被写体の「生」を語る上での人生の一部としての深みです。人生が絶え間ない「動」の連続であるなら、写真は連続した「動」の中の一瞬です。人生の一瞬を切り取ったとも言える写真という物質によって確認ができるのはただ単純に写っている「事実」だけではなく、写っているその一瞬の前後にある「過程」が想像される事でその写真からにじみ出るものが「価値」として深みを出し、それが多ければ多いほどその写真は深みを増してゆきます。 それは「時間」と言い換えることもできます。このスタジオで私たち撮影者と過ごした時間が、作り上げた関係性の深さによって写真に表現され、それはポーズや表情、原本の質となって現れます。 別の視点から写真の深みについて見てみると、写真に写っている「事実」そのものから見ているものに想像をかきたてるという意味での「深み」を感じることもできます。「目」が写っていないことによって表情を想像させ、手と口と頬の感じによって何を思っているかを想像させ、光と構図によって全体的なイメージを想像させます。 撮影者の視点からも写真の深みを見ることができます。今回のこの写真において私が説明できるのは、私が私である為にこの写真を撮ったということです。「私たちは表現者でありながら写真館の人間である」という先の言葉通り私たちは責任と権限の間でバランスをとりながらいつも撮影をしています。このどちらに偏ったとしても互いに人生を豊かにすることはできません。撮影者が人間であるということは、撮影者にも同様にこの一瞬を切り取った写真の前後に「過程」があり、この一枚を作り出すための様々な行為が写真に詰め込まれています。 写真とは感情的なものです。写真は写り手の状態によっても変わるし、撮り手の状態によっても変わっていきます。日々の撮影を全力で行いながらも、自分を見失いがちになる瞬間があります。それは先述したバランスが崩れた時に発生します。そうならないために、私の写真は私が撮ったと言えるものである事が「深み」のひとつとして写真には現れる必要があります。。 写っている被写体の「深み」を表現することによって写真が彼女の「存在証明」となり、写真へ撮影者自身のスパイスを投入することが撮影者自身=私の「存在証明」となります。思いの量の集合である「深み」によって「私とあなた」の存在証明書となり一生残っていくのが二次元的なただ一枚の写真なのだと思います。
『identification』
2015/6/4
0
Photographer:VolvoCoordinaite:Hachiyama Lifestudio No.5, Koshigaya Our mindにこういう文章が書いてあります。 ---------------------------------------------------------------------Life Studioは写真館を3つの概念に分けて考えます・美しさ・表現の楽しさ・思い出の為の記録----------------------------------------------------------- 私はこの概念を「本当に良い写真」を撮るために欠かすことのできない条件だと考えていますがこの3つの概念は時として私たち撮影者の頭を悩ます種となる事もあります。 理由はこの3つを同居させることの難しさにあります。美しさ、表現の楽しさ、思い出のための記録、この3つのバランスを保つことはとても難しいことです。それはちょうど三角形が形を変えたとしても角度の合計が180度から変わらないように、何か一つに偏れば他のどれかはバランスを取ろうと自らの数値を変化させていく事に似ているかもしれません。 私たちはフォトグラファーでありながらエンターテイナーであり表現者でありながら写真館の人間です。 言葉を変えると責任と権限の間で揺れ動きながら自らの判断によって写真が決定されていく事を意味します。二面性とうまく付き合っていかなければ3つの概念を表現することはできず、二面性を克服していくためには自分と環境がリンクさせなければなりません。それは自分と写真、自分と撮影空間、自分と被写体、自分とライフスタジオです。リンクしないまま「表現の楽しさ」を誇示することも、リンクしないまま「思い出の為の記録」を残すことも「私とあなた」のどちらかが欠けた状態となり、その先に残る写真からは美しさが失なわれかねません。 表現の楽しさと思い出のための記録は対立するものではなく、思い出のための記録を究極的に美しく残そうとする事に表現の楽しさがあり、その先に真の美しさと関係性が待っているように思います。 この写真には3つの概念の統一感を込めました。普通を、より美しく。
『Notice』
2015/6/4
0
『Notice』photo by Yumiko codi by Kazumi大切な人が素敵な願いを込めて植えてくれたバラたちが、5年の月日を経てここまで大きく成長した。枝がちからづよく空へ空へとのび、たくさんの葉は太陽の光を我先に我先にとあつめている。そして生命力を蓄えた花がそれぞれにそっと静かに主張しながら花開く。まるでドレスの裾をひろげるみたいにふんわりと。一方で赤い薔薇の葉には 【無垢の美しさ、あなたの幸福を祈る】って意味があるんだってこのちからづよい葉をみながらそのギャップに苦笑いするのだけれど。美しい花を咲かせる時期は短いけれど、花たちはそのことにきづいているのかいないのかその時間を惜しむかのように花開いているんだなあ。そんなことを考えていると人の一生も長いようで短くて。色んな出来事が起こる中で『今がその瞬間だ!』って気が付くことができるのとできないのではきっと向き合い方に大きな差が生まれるんだろうなぁって思ってみたりして。・・・・・このオンナノコとその日この綺麗な日差しがそそいでいる時間に出会えたことは偶然なのだけれども偶然は突然のひらめきをあたえてくれるね。この想いのこもった場所で綺麗なお花だねってキラキラした瞳で窓の外をのぞいていた彼女と。それはピンっていうひらめき。・・・・・わたしたちは自然に不思議な偶然にかこまれていることを意識すると、だからきっと楽しいんだねって思える。ふと目の前にあらわれたチャンスを迷わず自分の味方にできるように、 私たちはもっともっと力をため続けなくてはいけないね。一つ一つの瞬間に『これはチャンスだ!』と気付くことができるように。そして最高のタイミングでそのチャンスを生かせるように。kazumi
『 写真というもの 』
2015/5/31
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『 写真というもの 』 Life Studio ShinyokohamaPhoto by Masashi KurokiCodi by Kim Eunjeong 私がこのライフスタジオで撮る写真において心がけていること、または常に目指していることを一言で表すならば「最高級のスナップ写真」と言います。 「最高級」と言ってしまうと設備や撮影にかける時間などからすると少々大げさな気もしますがあくまで写真を専門とする空間である以上その上限は最上級でなければならないと思っています。そして「スナップ写真」という言葉の意味についてですが、辞書にはこうあります。スナップ写真 : 目の前の光景や出来事、人物などを一瞬のうちに素早く撮影する撮影技法により撮られた写真。 対して、「ブツ撮り」や被写体である人物に事前に同意を得て撮影するのは「ポートレート写真」と言うということも記されています。したがって私たちがこの写真館という場所で残している写真は、ご家族の同意もあり、子ども達と触れ合いながら行なっているのでいわゆるポートレートの要素が強いと言えるでしょう。勿論、言い回しなどはどうでも良いことですが、敢えて私が「スナップ写真」と言うのには意味があります。それは、ご家族からこのライフスタジオに求められている「自然体の写真」というところにあります。写真館という非日常下でのある意味自然体ではない自然な写真。解りやすく言えば「あたかもその状況に出くわしたかのような写真」を残そうとしているからです。それではどのようにしてそのスナップ写真というものに近づけていくのか?ということですが、その要素は当然ひとつではありません。ですが、スナップ写真が含むひとつの要素として「写された者が写った自分を客観視できる写真」ということがあるのではないかと私は考えます。自分でないような自分の写真。このある種の「違和感」を感じさせることは大きくかかわっているのではないでしょうか。違和感と言っても勿論「いい意味での違和感」ですが、それに繋げるために私は特に家族写真に対しては「距離感」を強く意識します。この距離という言葉はひとつの事柄についてだけではありません。背景、被写体、カメラ、そして心の距離です。このそれぞれの距離をひとつずつ別々に考え、それらが決定してから被写体を入れる。そうすることでスナップ写真に近づいていける方法のひとつなのではないかと考えます。合わせて、この距離感を操ることができれば表現方法は無限大となり決定的となっていくのではないでしょうか。 私たちはそこに被写体が無ければカメラを持つ意味がありません。しかしそこに被写体がありカメラを持つならばこの無限大の要素を考えなければなりません。だからこそ、この「写真というもの」を永遠、撮り続けていくのでしょう。
『 言葉のはじまり 』
2015/5/31
2
『 言葉のはじまり 』 Life studio ShonanPhoto by Masashi KurokiCodi by Yang Jihye 人はこうして言葉を覚えます。 今回は誰しもが日々当たり前であると考え、もしかしたら一度も疑問にも思ったことの無いような話について書こうと思います。 私たちは毎日、まだ言葉もままならない子どもたちと接しています。世の中には「特別○○な○○」と言ういわゆる一般的な人より秀でた能力であったり、何か異なった特徴を兼ね備えた人もいるとは思います。ですが、生まれた瞬間に言葉を使って喋り出すという子どもはまずいないでしょう。生まれて間もない人間の脳は、始めはかなり小さくて一年そしてまた一年と月日を重ねるごとに大きくなっていくそうです。そしてそれは大きさだけでなく同時にいわゆる人間の神秘であるメカニズムとも言える「脳の成長」が行なわれるのです。この段階で「何の話をしてるんだ?」と思われるでしょう。しかし更に堀り続けます。人間の神秘であるメカニズムと言いましたが、私はその専門家ではないのでそのメカニズムはもちろん解りません。しかしながら、幼少の頃、本が趣味であった親父に連れていかれた本屋で手に取った本の中にあった未確認飛行物体、いわゆる「UFO」や「ネッシー」そして「宇宙」に出会ってから私は今までこういった「答えの見えないもの」の事を考え続けて生きているのが日常となっています。もう一度「言葉」という話に戻ると、まだ本や教えてくれる人がいなっかた時、人類はどのようにして言葉を生みそれを言語としたのでしょうか?私たちはどのようにして出来たのか解りもしないその言葉に感情や意識を含ませて人を喜ばせたり怒らせたり、そして時に傷つけてしまう事もあります。そんな言葉をまだ知らない赤ちゃんのこの時こそ、成長してしまったらもう絶対に戻れない瞬間であり神秘の最中なのです。だからこそ、その神秘の最中であるその子の仕草には言葉では表せないからこその意味があるのだと思います。したがって、私たちは単なる成長ではなく、「今まさに成長している瞬間に立ち会っている」と言っても過言ではないと私は日々感じています。 日々、当たり前に思い過ぎていて全く疑問にも不思議にも思わないこと。そんなことを敢えて疑問に感じると、この写真にあるような瞬間がとてつもなく神秘な瞬間に感じ、自分ではもう感じることができない貴重な瞬間なのだと感じるに値します。 私は答えの見えないものにこそ面白さを感じます。私からすればUFOも宇宙もそして「写真」も同じ部類に属します。しかし答えが見えないからこそ、思い、悩み、苦しむこともあります。しかし私が写真を続けてゆける理由の一つとしては、唯一写真には写っている人の「想い」を、そしてそれを撮る者の「想い」を乗せ、それとそれが合わさることで「一枚」となるからです。
写真は形をとらえ、生命を宿す
2015/5/31
0
いつも生命の最も美しい瞬間をカメラにとらえる私たちが写真を撮る以前に大切なこととはなんでしょうか。 人に関心をもち、愛しみ悲しみ、怒りとあわれみ、仕事と学習、生誕と死のなかに垣間見る人生の縮図をとらえることでしょうか。 人生そのものが素材であり、この広い領域の何かを私たちは写真のテーマにしています。 ”写真は形をとらえ、生命を宿す” どうしたらそのような写真を撮れるのか… 人間共通の普遍的ともいえる感情を呼び起こすために、 多種多様の雰囲気に注意を怠らないよう、 上辺のヴェールに隠された内なる感情とドラマを洞察し、 すばやく行動に移って、そこに潜むものを記録しようとする姿勢が何よりも大切になることでしょう。 そして、人と関わりふれ合いたいと思い、見つめ合い、そこにある人間性を引っぱり出すこと。 しかし、何よりも大切なのは、キザかもしれないが、人を愛すること…ドップリでなくても、ほんの少しささやかな愛を。 さらにそこにすでにある関係性、相手を思い合う気持ち。 それが写真に生命力を宿す、ということであり、 あらゆる人の心を打ってやまない写真をつくると信じております。 Photo by SU & Kazu
子供と瞳。
2015/5/31
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photo:gomeicodi:SuzukiKoshigaya photo 2015.04.18人の強さとは何であるのか。私達は映画館で映画を鑑賞した際、目の前の大きなスクリーンには120分の間に何百、何千という人を映画を通してみます。数多くのシーンを見てゆく中で、毎カットごとに登場人物を認識します。上から撮ったり、下から撮ったり、遠めで写っていたり、大きく写っていたり、アクションシーンだったり、ドラマのシーンだったりと様々。いかなるシーンであっても視野を通し人を認識する際は、無意識のうちに人の目線は人の目に集まるのです。人の顔を観た時に、私達は感情を読み取ります。人の様々な表情から喜怒哀楽の心情を読み取ります。その心情にも因果関係があり、特に映画のクライマックスにおいてはそれまでの過程を回想しながら見ることで、人は感動をし涙を流すことがあります。殆どの大人は子供を見た際に可愛いといいます。小さな子供を見れば見るほどに、まるでそれが当然の反応の様に可愛いと甲高い声援にも聞こえる声を幾人もの人が声あげます。大人は何らかの基準を一人一人が持ち合わせ、その基準から子供を可愛いものだと感じます。恐らく子供だから可愛いという基準のもと私達はその子供を可愛い人だと認識するのではないだろうか。子供だから可愛いものであるという認識は現実に多くの人が感じることであるのだが、その子供の何が可愛いものかということに関しては、一人一人異なるものです。そもそも子供は可愛いという認識自体が、大人の一方的な主観的目線であり、一人一人の異なる特徴には無頓着なほどに見られることは無い。つまりは子供という条件があることによって、一人一人の心の内は大人には伝わりづらいということです。口で言えばいいじゃないかと言われてしまいそうですね、確かにごもっともです。しかし私達大人も口で言えないときが殆どではないのではないでしょうか。仕事場では仕事の文句は言いづらいものですし、家庭の愚痴は中々家庭では言いづらいものです。自身の意見を言いやすい環境でなくては、誰もが言いたいことを言いたいだけ口にするのは難しいものですよね。意外にも子供は成長と共に親や色々な人の顔を伺いながら自分の意見を言うようになります。私自身も小さな頃は、親の顔を伺いながら過ごした時もあります。目は口ほどに物を言う。何かを思いながら、口にするのは難しく言わないにしても、全てを隠し通す程上手に作られたものではありません。このような言葉がある様に、心情は目に集まり表現をします。その目の色を感じ、心情を読み取ります。しかし、その認識こそも主観ではないのだろうか。人の心には因果関係がある様に、心は流動的です。人は些細な出来事に感動したり、傷ついたり、怒ったりします。断片的な一時の表情や仕草を見ただけでは、人をどの様な人であるのかと判断することは出来ません。しかし私たちはその断片的な姿からしか、その人を暫定的に認識することしかできないのです。この写真も顔の半分はウインクをしているのかもしれないし、ふざけた表情をしているかもしれません。何せこの写真には写っていないのですから。その場で起こっている現象のみでは判断はできないが、現象からしか判断を行えないというジレンマが撮影者を苦しめます。しかし少し考えを変えてみると、目から現れる感情は、口ほどに物を言うのであり、その瞬間瞬間ではその気持ちこそが真実ではないのではないだろうか。瞳から発される言葉こそが素直なのかもしれません。私達撮影者も動きと共に流動的に動くことが必要です。そうすると子供は可愛いものであるという条件が次第に崩れ始め、新たな条件を作ることができます。そんな時こそ自身の作り出した条件に縛られず、子供を見つめ直すいい機会ではないのだろうか。
自然体
2015/5/31
1
photo by matsukawa codi by KB in Kokubunji 自然体。それは一見シンプルだけど、とても難しい。 ライフスタジオは自然体な子供の姿を撮ると、お客様からよく聞きますが初めて会った被写体の自然体を捉えるとゆうことはどうゆう事なのでしょうか。 スタジオでの撮影を繰り返し、様々な人たちに私達は出会います。人見知りや、そうでない子、恥ずかしがり屋や、少し大人びた子、そのなかでそれぞれの自然な姿を見極めるのはとても困難です。けれどもそれは私が持つ「自然体」に彼女達、彼等を当てはめて見ようとしているからでした。 自分は常に自分であるという自覚はあるけれども、それが自然であるかと聞かれたら、どちらかというと意地を張った個性主張のように思えて、この身で立っている内側の感覚的には「ナチュラル」な響きよりもずっと力が入って硬いものを感じます。それを解きほぐそうとすればするほど力は入るし、息を抜いても、その動きすら何かを主張しているような。 その結果、自分自身や環境、被写体を自分でどうにかしようとするからしっくりこないのでは。自然体というイメージに対して、私はすでにフラットだとか飾らないというイメージを持ってしまっていて、気づかない間にその枠に自分を合わせようと力をかけてしまっていたのではないかということです。 では自然体とはなんでしょうか?それは自分を委ねることだと思います。 誰かや何かに寄りかかるとき、始めは誰だって緊張する。強くぶつからないように、傷つかないように、そして寄りかかる先が壊れないだろうかと、五感で確かめる。そうした後で身を任せる。すると大抵の場合、私達は「自然」と支えられる。「自然」に支えられて、それでいて合理的で理由もはっきりとした形が成立する。次の瞬間崩れたとしても、崩れたその先の形もある意味で成立の形。正解もなく、間違いもなく、言ってみれば全ては「結果」でした。 「自然体」とはイメージして追い求めたりするナチュラル感や雰囲気ではなく、「自分をどれだけ人に預けられたのかの形」なのではないかと思います。 そしてその中で技術である光や、構図、インテリアへの理解、が意味を持ち写真として表現出るのだと思います。 被写体の自然な姿を写す為には、まず私達が自然である事。そしてそこで築かれた自然な関係が、被写体の自然な姿へと導いているのだと思います。
『私が見ていますか...』
2015/5/31
0
『私が見ていますか...』 写真の中のモデルと最初に会ったのは、2011年の夏です。サンプル撮影のためにNちゃんを招待してNちゃんはママと一緒に店舗と来て、楽しい撮影をしました。その当時はまだ子供なので子供のイメージで明るく元気に撮影をしました。ところが、その当時から今に至るまでの気持ちが、Nちゃんは目でなにかを言おうとしているのだ。目で自分の感情を表現することができる能力を持っているということである。目が自分は子供ではなく、女性だと言っているようでした。その感覚がわかろうがわからまいがNちゃんが子供ではなく、女性という感情を自分自身感じて、それがどのような感情なのか、本人は知らなくても自分自身を表現する方法として、手、表情、目で知ることができる。 私が言いたいのは、Nちゃんの存在についてです。7歳といっても女性としての感情、はっきりわからないけど好きという感情、人として感じることができる感情を感じながら成長していることを言いたい。自分で自分の存在を知っていること。自分が何に興味があって、何をするとき楽しく、腹が立っている感情。自分の周りを構成する人々、物事について調べていくことが大切なことを知っていくものだと思われます。 成長過程から子供というのは、親のことを受け入れるものです。7歳は親のものではなく、少しずつ自分のことを探していく時期だと思います。年齢が重要ではなく、親からの独立をしようとして自分の存在生活について真剣に悩む時期が誰しもがあります。人は誰でも存在について知っていく時期にあるが、自分の姿を見ながら少しずつNちゃん自身が自分の存在を知ってゆくようでした。私はNちゃんが、自分に対して知り、自分を作っいくことを望んでいるように、Nちゃんが幸福を受けながら、成長して欲しいと願いながらこの写真を撮影しました。私自身もかつて限りなく小さく見える自分の存在について失望し、また、否定をしました。それでも今の姿が私の姿だな、とを知った瞬間、私は私を認めることができ、私自身の心が楽になり幸せを感じました。 他人が作ってくれた私ではなく人になにかを与えてたと感じきに幸せを感じる私の家族が幸せに笑う姿を見ること写真で誰かに幸せを作ってもらうこと様々な方面から様々な自己で人を見ようと努力することこのような姿が私の存在です。誰もが大切な存在であるため、どのような状況であっても尊重し努力しなければならないと私は考えています。私が一枚の写真を撮影しながら、Nちゃんに、また私自身に言いたいメッセージでした。
『Face』
2015/5/29
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photo by Ryo codi by Kaori in Yokohama Aoba 人には様々な表情が存在します。おこった顔、悲しい顔、笑顔、困った顔、驚いた顔など。様々な環境で様々な表情の変化を見せてくれます。人の顔だけでいったい幾つのバリエーションが存在するのでしょうか。クローズアップを撮るとき、その他の顔が見えるアングルを狙っているとき。75カットという数の中でいったい幾つの表情を捉えることが出来るのか。撮影中に常にそのような事を考えます。一言に表情を引き出すと言うと簡単な響きなのですが、~な顔をしてとお願いして希望にそった表情をしてくれるとは限りません。表情は特に引き出す方法を工夫しなければいけません。ここでも大切になるのが声かけによる誘導です。動作の事にも同じ事が言えますが、カメラマンの最大の武器は声かけだと思います。被写体を動かす力が無ければ、無機質な写真しか写す事ができません。自然に起こりうる動作、表情を狙うと言う手法もありますが、それは動かす事が出来るようになってから取り組むべき事なのだと感じます。カメラマンが気配を消して撮る写真もまた良いのですが、現場に居る以上完全に無になる事は不可能です。どうしても少なからず影響を与えてしまうのであれば、極限まで気配を消すための行動が必要です。その行動に至るまでに必ず被写体へのアプローチは存在しています。 私が取り組むべき事は引き出す力をつける事に有ります。言葉により相手を動かし、表情を引き出す。それが出来るようになった瞬間、写真にまた新たなエッセンスが加わると思います。 どのようにすれば表情を引き出す事が可能なのか。ポージングを案内する時などは目的とする形へ導くため必然的に声かけも想像ができます。ポケットに手を入れてほしければ、高年齢の子であればそのまま伝えるだけで再現してくれます。しかし、低年齢の子にポージングを案内する時は、ポケットの何か入っているよと遠回しな言い方をして、好奇心をあおり動作に導くと思います。単純に考えると表情に関しても同じような事が言えます。高年齢の子におこった顔をしてと言えば頬を膨らませなんとなくおこった仕草をしてくれます、低年齢の子におこった顔をしてと直接的に語りかけてもおこった顔はしないと思います。言葉のやり取りが可能か否かで対応は変わるのですが、ポージングと表情の引き出しには若干の違いが有ります。ポージングは完成形をイメージし、動きの終点を目指しますが、表情は完成形が無く、様々な変化と想定外を呼びます。私たちは被写体である子供と出会い、一時間以内の状態です。その子の持つ表情全てを知っている訳が有りません。だからこそ探す行程が様々な表情を引き出す事になります。会話が可能な年齢のこの撮影の場合は、沢山の話題を話しながら、会話を切り取るイメージでリアクションを押さえて行きます。好きな物の話をしている顔、嫌いな物の話をしている時の顔、話の展開に驚いた顔、そして難しい話に困惑した顔。対話する事により、様々な表情が引き出されて行きます。次第に距離も近づき、会話を楽しみながら自然と写真が産まれて行くような感覚を持ちます。多くの表情を写す事が出来た撮影はこのような状況に持ち込めた時が多いです。このように目的として表情を狙って行く事も可能だと思いますが、相手は人であるため実際はどんな状況でも表情は常に僅かに変化し、その都度その都度違った物を見せてくれています。そのため良く観察する事も必要です。いつもシャッターを切るとき、何処を見ているのか。全体を見回しているつもりでも実は表情はあまり注意深く見ていなかったりします。笑顔一つでも笑い始め、笑い終わる瞬間、照れ笑いなのか思いっきり笑っているのかでもまた少し表情に違いが有ります。光を見てフレーミングを整理するのと同じ位の注意力を被写体の表情にも注ぐべきなのだと思います。表情とは心が写し出される物だと思います。相手が純粋な子供達だからこそ、今だから見れる新鮮な表情を沢山撮影する事が出来るのではないでしょううか。言葉の通じない低年齢の子供達は主に与えられた物へのリアクションで表情を変える事が多いように思います。おもちゃへの反応や、シャボン玉、音に対しての反応などその環境で可能な物を出来るだけ沢山試してみると良いと思います。赤ちゃんでも困ったり、おこったり、泣いたり、笑ったり。表情のバリエーションは大きな子達に負けないくらい有ると思います。私が人を撮る仕事をしていて撮影に飽きがこない理由として、何人とっても同じ顔の人は存在しない所に有るのだと思います。一人一人が皆個性を持っている。それを知るために出来るだけ多くの表情に出会おうとする事が私たちの写真を一歩先に進めてくれるのではないでしょうか。 今回の写真のような動作に関しても、そのこによって様々な表情を見せてくれます。『お花のにおいを嗅いでみて』なのか『お花に鼻をくっつけてみて』では相手の受け取り方に差があります。嗅いでみてであれば少しの期待が、鼻をつけてであればその目的が違い、表情も変わっていきます。声かけ一つに関しても小さな小さなこだわりが完成する写真をより、繊細にしていくのだと思います。
手
2015/4/30
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赤ちゃんを、表現する。背中に触れる手の温もりが、この時どれほど必要とされていただろう。小さな口に指を含んで、ほんの少し恨めしそうにこちらを見る赤ちゃんの視線に、わずかな罪悪感を感じつつ、この時のこの姿が、彼の存在を表現するのに、適していた。母親という存在に依存する、まだか弱い存在。自分ひとりではまだ何もできない。だから、自分の主張をする時の行為はとてもシンプルで、力強い。泣く、という、あまりにも素直な自己主張。具体的な言葉をまだ持っていないからこそ、ストレートに感情を表現するその行為を、私は美しいと思った。泣くこともまた、赤ちゃんとしてのありのままの姿の一部である。母の胎内から出て初めての呼吸をする時に泣き、お腹が空けば泣き、眠くなれば泣き、抱っこを求めて泣く。赤ちゃんとはそんな存在だ。『ちょっとお腹が空いたので、ここらでミルクなんぞいただけませんかねぇ』とか、『そろそろ眠くなって来たので、抱っこしてて欲しいんですけども』という言葉の代わりに、彼らは泣く。赤ちゃんが笑ったら、それはもう最高に可愛い。だが、それもまた『赤ちゃん』という存在の側面であり、それが『赤ちゃんらしい』状態、『自然な状態』の全てである訳ではない。赤ちゃんは笑い、泣き、怒り、喜ぶ。それは全ての大人たちと同様に。全ての大人たちも、赤ちゃんから始まって大人になった。成長するにつれて、感情表現は言葉でなされるようになっていく。けれど、言葉は時に全てを表現させてはくれない。『だって、知っている言葉はほんのちょっとで、感じれることはそれよりも多くて、むりやり窮屈な服着せてるみたい』とある歌の一節に、こんな言葉があった。感じたことを言葉で全て表すのは、本当はとても、難しい。言葉がないからこその、『人』としての素直な本質が、原点が、目の前にある。いつも、そう感じる。私たちは撮影者として、被写体のありのままの存在の美しさを、写真に残したい。彼は泣き、母親は泣く彼を抱きしめて、その手をそっと背中に添えた。母親の体温に包まれる、その安心感から、彼の体の緊張感がすっと抜けて、母親に委ねられたその重み。それを受容した瞬間。赤ちゃんが、赤ちゃんらしく、ママに全てを委ねて安らいだ瞬間。赤ちゃんを表現するには、こんな瞬間がたまらなく、良い。
ひとつになる
2015/4/30
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草加店写真人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・ 家族写真を撮る時に私は最大限、その家族を『ひとつ』にしたいと考えています。『ひとつ』にしようと考える理由はいくつかありますが、まず前提として家族とは一番身近な人間関係だという事です。母親のおなかから生まれてきた私たちは最初に、両親と関係を結んでいきます。母親からおっぱいをもらわなければ私たちは生きていけないし、父親の存在があってこそ家族として経済的に自立ができ生活ができます。このように、子は親から沢山のものを与えられて大きく育ったいきます。親が子に対して与えられるものとしては、衣食住が安心して提供されている空間、知能が発達するような遊び道具、自分の存在を認めてくれる無条件の存在が居るという心強さ、常識や知識や社会の現実や厳しさなど様々である。そうした全てを総称して、私たちは『愛』という言葉を使っているのではないでしょうか。だから、愛は与えるのことです。では、次に与えるとはどういうことなのかをもう少し考えていきたいと思います。私たちが幸せでないとき、私は愛されていない。私は満たされていないと自分のことばかり考えています。もちろん自分のことを考えるのは必要な事ですが自分のことばかり考えていると意識が自分にだけ向く可能性が非常に高くなります。 今日もなぜか虚しい、つまらないし、なんか嫌だな言葉にして顔を上にあげている人はいない。ですから、そのように自分が幸せな状態でないとき人は下を向いています。目線は下を向いています。このような状態ですと見えるのは自分の足元だけになり限られた視野の中で自分のことを考えようとします。そういうような状況になってしまうと自分の周りにあるものが見えなくなります。このような状態は目線だけでなく心の状態もそうなのです。私は愛されていない。自分は満たされていない。と自分のことだけに意識が向きますから自分に与えられているものに気が付かないし気付けないのです。与えるとは誰かに何かをしてあげることですが「、何かをしてあげようと思うと意識が相手に向かいます。この人は何を喜ぶのだろうと考えるので。そうすると心の目線も相手に向けられることになるし相手に意識を向けることによって心の視野が広がってきます。心の視野が広がった分、〖自分にも沢山与えられているものがあったんだと〗気が付くことができるようになります。 与える時に注意しないといけないことがあります。それは相手に意識を向けるという事です。自分が何かをほしいから相手に何かをしてあげる。これは見返りを期待していることなので、自分が欲しいものが相手から貰えなかったときに拒絶されたり、傷ついたります。そして何かをしてあげることで負けたような気持ちになり自分が何かを我慢しているのであればそれは犠牲にしていることになります。 与えるとは見返りを求めず、自分が我慢することなく誰かに何かをしてあげることです。 ですから、与えることをやりはじめるととても難しいということが分かります。だから与えられることに感謝するという確認行為は本当の意味で人から何かを与えられるということがどういうことなのか、またその与えられるものがあるという有難みを本当の意味で分かるのだと思います。 そういった意味では、自分の与えられたもの大切にすることは当たり前のことかもしれませんが非常に重要なことなのです。 だから記憶を記録するという目的の中には、与えられてきたも、与え続けてきたものを忘れないでおくということも含まれるのだと考えます。 家族写真は、与えられたものと与えるものを同時に記録することができる非常に素晴らしい写真だと考えます。だから、家族写真を撮る時に家族をひとつにするということに集中する大きな理由としては、与えられたものと与えるものをひとつに統一して記録することにより、人間関係をより豊かに築く『人生の価値』が目に見える形として表現できるからだと考えます。人生の価値である人と人との『関係』は、私達の日常を大きく変えるというよりは、日常の土台となって私たちを支えてくれるものなではないでしょうか。だからこそ、その土台の上で生きていく日常はどんな状況でも自分のことだけに捉われるのではなく、意識的にでも相手のことを考えて人に意識や関心を向けながら生きていくことが大切だと考えます。
depth
2015/4/30
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Soka no.12Photo by Kudo / Coordi by Ouchi“It is not length of life, but depth of life.”- Ralph Waldo Emerson「重要なのは人生の長さではない。人生の深さだ。」この世界は二次元ではなく三次元でできていて、眼で見えている方向とは別の方向がいつも存在しています。それは物体もそうですし、人も、この地球も、存在するもの全て平面ではなく立体であり、そうであるからこそ、わたしたちは私たち自身の人生に幅も深さも持たすことができると思うのです。物体に関して言えば、いくら目の前にあるものを紙に書かれた図形のように平面に捉えることはできず、必ず奥行きがあり、私たちが見えない面も存在していることを私たちは自然に知っています。人生に関して言えば、自分の人生を平坦で穏やかに生きようとしても様々なことがあり、歳を重ねれば重ねるほど人生とは奥が深いことを知ります。人に関しても同じように、ただ表面的に相手を見ていても、目の前に現れる言動だけを見ていても、その人自身を誰かということを知ることができないかもしれません。人もまた表面的なだけの存在ではなく、私たちの目に見えているその人の言動の中には、その人の存在そのものを決定づける何かがあります。なぜなら人は皆、異なる人生のストーリーを持っていて、異なる価値観があり信念があります。社会に生きている限り、人の言動はモラルや常識によって人びととの協調や和合のために一般化され、大人になるにつれ自然と言動が整えられていきます。そのため、一見すると外見以外は人の言動は皆凡庸に見えることがあります。しかし、人は皆同じではないことを私たちは知っています。家族や恋人、親友、同僚、親しい間柄になればなるほど、その人にしかない何かを見出すことができるからです。その人がこの世界でただ一人のその人であることを知る過程で、その人の深さを感じることがあります。第一印象は穏健で優しそうな人だったのに、その人を知れば知るほど、なんだか厳しかったり頑固だったり、予想しなかったことで怒ったり喧嘩したり、第一印象では見えてこなかったその人の側面が見えてきて、その人のことがわからなくなることがあります。だけど、そういったことも自分が作り上げていたその人の型に当てはめていただけであることを知ると、またその人の善さを改めて認識し、そういった過程を繰り返し経ると、だんだんとその人の内面を立体的に見ることができ、最初に感じることができなかったその人自身の深さを知ることができます。私たちが撮る写真は、人が主題の写真です。写真という二次元の世界に、被写体であるその人の深さを表現していくことがライフスタジオの写真であると思います。更に言うならば、その人の深さを表現するために、自分自身の深さを写真の中に加えていくことが「写真の深さ」になると思います。深さとは、その人自身の内容と言っていいでしょう。まずは撮影者自身が自分の内容をできるだけ具体的に理解していることで、撮影者自身の認識や写真へどういった価値を加えるのかが明確になり、それが撮影者の色になり、軸となります。そして自ら知識と技術を得て、表現方法の幅を広げます。知識と技術を以て写真の表現の幅を広げるということは、被写体のいろんな側面をまっすぐに捉えることが必要です。それは人との関わり合いがより深くなることになると、私は思います。そして、被写体であるその人が誰かということを引き出して、その人のことを知るという行為の繰り返しを通してその人の深さを徐々に認識していくことで、被写体その人のことを立体的に見ることができ、その認識が写真に深さを与えます。自らに深く入り、そして被写体の深さを認識すること。その深さを認識しているかどうかでは、写真の深さも異なります。写真という平面の物体から、その人自身という立体的な奥深さを感じることができます。撮影者の外側に在る存在であるその人を、撮影者自身の内面で感じ、投げかけ、それを受け入れることの繰り返し。決して型にはめず、素直に、誠実に、その人のことを受け止め、さらに入っていくことで、自分だけの認識では知りえなかった深さを知ります。写真とは、撮影者だけで撮るのではなく被写体と一緒に創り上げるものであると私は思います。自分の内側のみの認識だけではなく、相手から発せられるものをさらに認識して、その人自身を表現していくことが、「写真の奥深さ」になると最近よく感じます。「写真の奥深さ」とは、シャッターを切った瞬間であり、フレーミングであり、光であり、色であり、ストーリーであり、その写真の構成要素全てに顕れるものです。それは、被写体その人の奥深さを認識し、それを表現しようと思ったときに構成されます。結局、撮影というものは撮影というその場で終わるものではなく、人生と大きく繋がっています。人を受け入れること、その人の存在を自らの視点でより善く表現すること、そのために認識を常に変えることを躊躇わないこと。それが、自らの深さを知ると同時に、人の深さを知り、そして自分一人ではない人生の奥深さを知ることになります。それが私という一人の存在から、私たちという人と人との繋がりになるのだと信じて。
ひらけごま・ザ・制限。
2015/4/30
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生きている中にはやっていいこととやってはいけないことがあるよ、と幼少期から母から教わりました。家族での食事際にはいかにテンションが上がっても裸になってはいけないし、外でも裸になってはいけない、自分の要望が通らずに不満がたまっても人を殴ってはいけないし、悪口は言ってはいけない。家では道徳的にやってはいけないことをとても学びました。幼稚園や小学校にあがると、母から先生が集団生活においてのやっていいこととやってはいけないことを学びました。朝礼の挨拶では私語をしていけない、喧嘩はしてはいけない、授業は居眠りしてはいけない、皆にやさしくしなくてはいけないこと。中学にあがると知恵も力もついてきて、物事に対しより疑問を抱きながら毎日生活をしてゆきます。テストは極力頑張らなくてはいけない、部活に参加しなくてはいけない、遅刻早退はしてはいけない、自転車で登下校してはいけないこと。高校に上がると社会への準備が始まります、熱血指導で有名な先生から色々なことを学びます。あいさつはこのようにしなくてはいけない、制服はこのように着なくてはいけない、髪型はこのようにしなくてはいけない、誰もを敬わなくてはいけないこと。社会に出たらもう大海原にでた様なもので、誰からも教わることは無く自分で制限をします。新入社員はこのような振る舞いをしなくてはいけない、ビールのお酌はラベルを上に向けなくてはいけない、失礼はあってはいけないこと。 いつの日も誰からか教わり、いつしかは自分自身に制限をすることを教わり、毎日を知らず知らずに過ごしています。私達は成長と共に一つ一つの物事に対し疑問を持つことが少なくなり、それがいわゆる普通の状態になります。それが普通だから、でも普通とは何なのでしょうか、普通から外れたものはよくないことでしょうか。でも私はたまに思うのです、果たして本当にそうしなくてはならないの? 人間は機械のように生きることは出来ません、なぜなら血肉はあるし寿命もあります。そして何より映画で出てくるようなAIロボットと異なる点は、好奇心はあるし、楽しむことも出来るし、感情があるのです。一度感情の火種がついたものをどうすることも出来ません、自身の想像にあることを得ようと行動するまでその感情の火種は消えることは無いのです。よく考えてみると私達は普通なことから学ぶ事はそう多くありません、それよりも普通から抜け出したときこそ色々なことを知ることが出来、何よりも楽しく学ぶ事が出来るのです。普通から超えたものを行ったときの、反省や達成感などは大人になった今も忘れることの無い思い出として鮮明に覚えています。スカートだからと言って胡坐で座っていけない理由はないし、髪の毛を大きく振り乱してはいけない理由も無い、制服だからといって着崩れていることが悪い理由も無い、しかし私達はいつも普通という見えない物体に襲われています。そんなときこそ、制限から一歩足を踏み出してみると、いつもと違う景色が待っているのではないでしょうか。そこで新たな感情の種が見つかるかもしれません。
『 つづけること 』
2015/3/31
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Life Studio ShonanPhoto by KurokiCodi by M.Kobayashi 「継続は力なり」この言葉は様々なケースで耳にします。例えばアスリートの自伝などには必ずと言ってよいほどこの様な意味の言葉が記されています。もうそれほど若い年齢ではない私が過去の自分に戻って思い起こしてみると、私はこの言葉を好んではいなかった事を思い出します。いや、むしろ嫌っていた言葉だったかもしれません。なぜならその当時、私はこの言葉に「同じ事を何度も繰り返す」という印象だけを持っていてその継続のあとの「効力」を考えていませんでした。つまり私はその頃、この「継続」という言葉の意味を「現状維持」や「続ける事であり進歩しない事」などと認識していたのでしょう。しかし、生きていけば生きていくほど、何かひとつの事を探究していけばいくほど、この「継続は力なり」という言葉が私の身に染みてくるのが分かります。ここ何年かでようやくこの言葉の「本来の意味」を理解できたのかもしれません。その本来の意味を理解したと思った瞬間があります。それは、この家族写真を撮った瞬間もそのひとつとして上げられます。まず、私は家族を写真の中で表現するにあたって、他のカメラマン同様この「家族のカタチ」は確実なものであると核心を持っています。そして、何度、どのご家族を撮っても確実なものであると思えるのは全て今までこのカタチの撮影を継続をしてきたからに他なりません。継続してきたからこそ生まれる核心や自信がそこにはあります。しかし、それでは本来の意味を理解した「瞬間」ではありません。それではこの写真においてその瞬間とは?ということですが、その瞬間はご家族を向かい合わせシャッターを押すその一瞬手前に存在しました。それは、母親の位置を一歩前に進ませて父親の奥に食い込ませた「最後の一工程」の瞬間です。これによりライフスタジオ特有な空間撮影の要素にも繋がる「立体感」を作り出し「存在感」を強めます。こうすることで、複数の被写体を納める際になりがちな平面写真にもならなくなります。以上の過程を踏み、そこで初めて写真に納める。 この最後の一工程をした瞬間が「継続は力なり」という言葉を理解した瞬間であると感じました。なぜなら、まだ継続の途中であればその最後の一工程の前にシャッターを押してしまっていたでしょう。何度も継続をし続けてきたからこそ最後のこの「工夫」が力となって現れたのではないだろうかと感じます。 しかし、この継続というものは重ねれば重ねるほど苦しく壁にぶつかる事でもあります。したがって、単に続けるのではなく続けたその先をどこかで感じなければなりません。マラソンランナーがよく言う「ランナーズハイ」のようなものでしょうか。私達は写真という基準の無いものと毎日闘っています。その答えの無い写真と闘い続け、自己の基準を設ける。そうし続ける事こそがProfessional を超え、真のExpert へと到達するための過程なのだと信じています。 この子もいつの日か大人になり、そして母親となって自分の子どもを見つめる時が来るでしょう。母親になったその子が我が子を見つめるその時とこの写真がリンクした瞬間、この継続が意味を成し、家族のカタチの核心が超越される瞬間でもあるのです。
『 粋な味 』
2015/3/31
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Life Studio ShonanPhoto by KurokiCodi by M.Kobayashi私は昭和50年5月に男として生まれました。したがって男に生まれた私は自分を美しいと思った事は勿論ありません。学生の頃は少しとんがっていた時期もあり、自分と美しさなんてものは無縁でした。しかし、今回は自分の美しさに気づいたのです。と、いう話ではありません。今回は、カメラを子ども達に向ける毎日の中に感じた「美しさ」について書いていこうと思います。 まず、男性はかっこ良く、たくましく。そして女性は可愛らしく、美しく。というのが一般的な常識としてあると思います。しかし時折子ども達をファインダー越しに覗くとそのそれぞれが逆転する事があります。勿論、まだ幼い子ども達なので男の子が奇麗で美しく見える事もあれば女の子でもかっこ良く見える事があるでしょう。本題はここからですが、この逆転を感じた時、その瞬間にシャッターを切ってしまっては何かもったいない様な気がします。もったいないどころかせっかくその男の子にある美しさを表現し切れずに終わってしまうのではないかと感じます。したがって、撮影者としてはその逆転をより強めて写し出さなければならないのではないだろうか?という衝動に私は駆られます。 この男の子に感じた美しさの中心、それは「瞳」です。その瞳に美しさを感じた途端、頭の中が高速に回転していきました。急いでその男の子の瞳の美しさを表現する方法を探さなければなりませんでした。なぜ急がなければならなかったのか?それは、次の瞬間にはその美しさが薄れてしまう可能性があったからです。つまり、そこで笑わせてしまったらそれは美しさではなくなり、被写体に声をかけ、こちらを向いてしまってはかっこ良い男の子に戻ってしまう。そして一度戻ってしまったらもうその美しさに戻る事はできなかったでしょう。だから探しました。その美しさを強調する方法を。私が美しさを感じた中心は「瞳」。その瞳を強調する事。強調する事とはつまり写真を見た者の目がその一点に引きつけられるようにすること。そこで私がした事は、敢えて傘を指で持たせ顔を覆うことでした。そうする事でその子の表情に、そして瞳に引きつけられるのではないかと考えたのです。そしてその瞬間、コーディネーターも口を閉じました。 勿論、芸術の世界に正解などはありませんが、このちょっとした「粋」と呼んでも良いであろう二人の行動が粋な写真に繋がる要因のひとつでもあり、それはまるで私が幼少の頃、母親が薄っぺらいホットケーキを作る時に垂らした数滴のバニラエッセンスの感覚でした。初めて口にしたバニラエッセンスの甘さは砂糖やハチミツの甘さのそれとは異なり、まさに「粋な味」でした。 日々、様々な状況に遭遇し、その表現方法を探し考える。私はこれを「幸せ」と感じます。
Shinyokohama story 03
2015/3/31
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赤ちゃんによって繋がる私たちと家族。 たかいたかーいして、おでこをこっつーんってやってください その家族と赤ちゃんは楽しそうにお互いの顔を見ながら、想像していた通りの雰囲気。そこで赤ちゃんを呼んでみる。赤ちゃんはまるでこの楽しさを自慢するかのようにこっちを向いてくれた。 見て~ 私のパパとママだよ、いいでしょ たかいたかいの写真を撮るときに、パパママには前もって言葉で伝える準備が必要になってきます。赤ちゃんを持ちあげる高さ、パパママの顔の向き、ママの手の位置。少しでもずれると妙な立体感が出てしまったりどこかが隠れてしまったり。だからといってあまりにも事前に説明しすぎると被写体を緊張させて動きを制限してしまう原因にもなります。そうなってしまわないように、ある程度のお願いを伝えたら後は家族に任せます。そしてたかいたかいの瞬間に、素早くベストポジションを探しシャッターをきるのです。 この写真で重要なのは家族3人の表情と赤ちゃんの目線です。過度な声掛けはせっかく出来上がったそれを邪魔してしまいます。背景においてもそれはいえることで、表情を重視する上で無背景がいいと考えました。トリミングも余計な要素が写らないようにギリギリまで寄りました。 家族写真を撮っていると、私たちと同じ空間にいながらも時にその家族だけの空間になったり、不思議な感覚になることがあります。確かに会話を交わしながら一緒の時を作っているのですが、家族という絶対の絆を前に”かなわない”と思うことがあるのです。その良い意味で閉じられた空間にそっと寄り添うのも一つの手ですが、この場所には確かに私たちも存在し、この家族を見守っていた事実があります。関係とは会話によってつくられたり、ただ隣にいる時間によってつくられたり、きっかけは様々だと思います。たくさん話すことがもっとも近道なのかと思いますが、時に”会話”がなされなくても成立する場面があります。 パパとママの目には赤ちゃんが写り、赤ちゃんの目には私たちが写り、私たちの目には家族が写る。その目線のおかげで閉じられていた空間は広がり、家族だけの空間と私たちは会話のできない赤ちゃんによって繋がるのです。Photo by Yuka YonezuCoordinator Kim Eunjeongno.17 Shinyokohama
Shinyokohama story 02
2015/3/31
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『或る晴れた日に』 誰にでも、こんな幸せな記憶がきっとある。頭では、思い出せない。でも、からだの何処かで、こころの何処かで、覚えている。ただひたむきに、愛し愛された記憶。だから、目の前のこの光景を、写真に残したいといつも思っていた光景を、求めていた。 例えば、暖かな春の日に干した布団を取り込んで、その上で子どもとじゃれ合うような。あるいは、柔らかなベッドでころころ転がっていたら、ママが遊びに来てくれた時のような。そんな日常的な、ふとした瞬間が、誰ににとってもとても大切で、幸せな記憶の一片なのだと思う。どんなひとだって、あかちゃんから始まるのだから。だからこそ、そんな日常の瞬間を、幸せな記憶の一片を、写真として残したかった。人生を写す写真館、ライフスタジオのカメラマンとして。 初めてその場所を訪れる人は、その空間に最初からは馴染まない。服装、雰囲気、その場におけるからだの動き、そのどれをとっても微妙な違和感と共に、少し居心地悪そうにしている。その違和感を中和して、空間に馴染ませることが、まず撮影者が行うべきことだ。初めて訪れた人と場所、その間に、撮影者が存在する。撮影者はその人を見て、感じて、受け入れて、自らの知っている空間との調和を自らの中で構築し、写真に反映させる。撮影者が媒介となって、被写体と空間を繋ぐ。媒介となるには、その両方と関係性を結んでいなければならない。だからいつも、私たちはインテリアを隅々まで掃除しながら観察し、被写体とは有機的なコミュニケーションを図るのだ。初めて会った目の前のこの『ひと』がどんな人なのか、どんな笑い方をするのか、どんな座り方をするのか、どんな存在感を持っているのか。そういうことの全てを総合的に見ようとして、最適解を探す為に。そして、その空間に馴染んだ時に、その被写体の本来の存在感は、その人『らしさ』は、発揮される。求めていた日常の瞬間の再現は、その先にあるものだ。 暖かな春の日差しが差し込むスタジオの一角で、それは再現された。辿り着くまでに、試行錯誤は重ねて来た。だからこそ、カメラマンとコーディネーターの関係性もまた反映されることとなった。転がして、転がして、遊んで、コーディネーターからママに代わるタイミングまで。そしてそこから、ママが彼女に向けた笑顔も、彼女のはしゃいだ表情も、少しひねった顔の角度も、その全てが、調和した。大切だったのは距離感と空気感。私は大枠に干渉しながら、枠の中身には触れなかった。こうなると知っていた。そして、求めていた瞬間は訪れた。 温かくて柔らかくて、キラキラした幸せな記憶。思い出すことはできない。でも、きっと何処かで、覚えている。だからこんなにも、この瞬間を渇望した。非日常の中で訪れる、日常の瞬間。その幸せな記憶の一片を。 Life studio No,17shinyokohamaphoto by Reiri / coodi by Yonezu
Shinyokohama story 01
2015/3/31
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『始まりと続き』雰囲気がとても似ている夫婦が目の前にいた。二人は生まれる前から当然夫婦になるのが決まっていたようにお似合いだった。とても仲良い二人を見ていたらふと今までのストーリーが気になってくる。二人の関係の始まりと続きはどうだっただろうか?友達から恋人、そして夫婦へ 同じ人との関係でも時間と共に二人の形も変わっていく。何かが新しく始まるが、それは今まで築いて来た関係の続きである。 偶然に始まった大切な縁を続けていける関係、しかし、同じ形ではなくさらに新しい関係を始めることもできる関係、 そういう関係を築いていく中で、たまにはプレゼントのようにたまには空気のように感じられる感情と信頼が私たちがよくいう愛ではないかととても幸せそうに微笑んでいる夫婦を見ながら考えた。 友達から恋人、夫婦へ繋がって来た二人の関係はもう'親'という新しい関係を築き始め、家族という関係に続いていく。今までよりトキメキする一方、不安でもある始まりと続きになる予感がするけど、今までの関係を誠実に築いて来た2人だからこそ信頼し合える夫婦の姿。 目に見えない愛の形を目の前にする瞬間だった。Photo by eunjeong Codi by reiri in shinyokohama
互いの人生を映し出しあう写真館とは
2015/3/31
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Photo:Ta-na-Coordinaite:volvo Lifestudio No.5, Koshigayaライフスタジオのビジョンとしてこのような言葉があります。「日本の写真文化を変える」この言葉に、当時の私は非常に関心を抱き高鳴る鼓動を胸にライフスタジオへ入社をしました。今までの日本の写真館にはない自然光を使用しての撮影、貸し出し無料のいかにも!・・・というイメージを抱かせる衣装ではなくあくまで「カジュアル」を意識した衣装と小物、バック紙ではなく「空間撮影」を主題として作られた手作りのインテリア。何もかも初めての体験ではありました。ですが、入社して今になってやっと、「日本の写真文化を変える」という本質を現場を通して肌で感じられるようになりました。ライフスタジオにおける「写真文化を変える」こととは、一体何を変えることが出来たときに「成功体験」と定義することが出来るのでしょうか。目に見える部分として先ほど挙げた「撮影スタイル」「衣装貸し出し」「インテリア」の部分を変えることが出来れば私達の使命は終わるのでしょうか?私は、「それは違う」と断言します。ライフスタジオにおける「写真文化を変える」とは、「人と人との繋がり方を変える」事だと私は定義します。単純に、「お客様」と「従業員」という従来の私達がはまっている「型」から外れることを意味しているのだと思います。お客様をスタジオに来てくれて、私達の商品を買ってくれる人という型にはめて、「これ以上は仕事上での関係上、入り込むことはしない」と勝手に自分の中で決め付けたボーダーラインの中で人を見て、接することではなく、「大切なかけがえのないあなた」として見ることが互いに出来る関係性を築き上げる事を最初に始める写真館を目指そうとしていたのではないだろうか?と気づき始めました。お客様の要望に対して、奴隷のようにただ言われたとおりに撮影をこなす私達ではなく、「こういうのはどうでしょうか?」と一人の「人」として、要望に対して提案をして行くこと。一人の「人」として、目の前の相手に対して「知りたい」と行動を起こし、「知ってもらいたい」と相手に対して自身の情報をいかにしてその瞬間に伝えようと試みるのか。だからこそ、私達は「哲学」を学ぶ事で「私は・・・」という自身の哲学を生み出そうと努力し、「私は何者なのか」という疑問を常に存在している「関係性」の中から見つけ出そうと努力し、写真分析を行い、自身と相手を「認識」することが出来るアンテナを作り出しているのだと私は理解しています。私という「ありのまま」の存在を、そのまま受け入れてくれるかけがえのない存在であり、私自身相手の「ありのまま」の姿を心から望み、残したいと強く願えるかけがえのない存在との出会いの物語が数多く生まれる場所。それが、ライフスタジオが他と違う「らしさ」というブランドなのだと感じています。そんな、「私との出会い」と「かけがえのない大切な存在との出会い」を常に再確認させてくれる仲間との撮影の時間とファミリーの思いで作りに毎年毎回参加を当たり前のようにすることが出来ているという「今」に対しての奇跡を感じることが出来る文化を常に私達は作り出そうと試みているのではないでしょうか。日本の写真文化をこの場所から、本当に変える事が出来たときには、きっと私達の隣には常に「かけがえのない大切な人」であふれているのだということに気がつくことが出来るのではないでしょうか。 今の私を構成してくれたかけがえのない存在。共に過ごした「過去」の記憶と記録があり、「今」を過ごし、「これからも一緒に楽しいこと沢山やろうね」と隣に寄り添ってくれるパートナーの存在が、今の私の唯一であり絶対的な自信です。いつも、ありがとう。あなたの笑顔は私の笑顔を作っています。これからも協力してくださいね。
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