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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
一枚絵
2015/3/30
2
Photographer:VolvoCoordinaite:Oikawa 私は私に対して、成長させる為に一体どのような条件を課してきただろうと思い返すことがあります。時に厳しく、時に甘く。どちらかというと甘い方が多かったかもしれませんが、思い返すとたくさんの事をしてきたように思います。 人の成長とは一律ではなく、同じ事をしたとしても成長はそれぞれです。でなければ今頃サッカー少年は皆メッシになっています。だからといって「どうせ自分はメッシになるセンスは無い」と悲観に終わるのが普通でしょうか。 これは違う側面から見ているに過ぎないのかもしれませんが、例えば「メッシと同じ練習をする」事を「自分がメッシのようになれるための練習をする」と言い換えてみると似ているようで行動は違ってきます。そう言い換えたらそりゃ良いように聞こえるし、そんなの当たり前だろうと思いますが、自分の写真を見ているとこれが難しく実践できていないことに気づきます。 ようは「人は皆違う」と言いつつも人と同じ事をする自分を振り返ると、成長するための適切な方法を取っていないことに気づくのです。もちろん我流でやるべきだと言うことではありません。知らない人間が我流でやってうまくいくことはありえません。 自分が成長する為の適切な方法をとることができるようになるには「自分を理解する」事が絶対的に必要な事です。よく自分を知ることが重要だとは言いますが、自分を知ることというのは何を知ることなのかその具体性は中々見いだすことは難しいです。 今まで私は新しい発見や挑戦に価値を置いてきました。そうすることで自分を突き動かす原動力になり、写真への情熱を常に持ち続けることができました。 実際に自分の感覚には無かったものが多く入り、知識と経験として間違いなく糧になっています。 しかし、私の目標は一枚の写真を残すことではなく、撮影空間そのものを包括した原本を目指すところにあります。その観点から見てみると「自分の中にあるものを精査していく作業」が必要であると判断し、最近は「シンプルなものをより美しく」写す事を心がけるようになりました。 この写真の大きな特徴は85ミリの単焦点レンズを使用しているところと、被写体と背景の統一感を持った整理をしている点です。85mmの単焦点レンズは、私たちの撮影に大きな幅をもたせてくれます。大口径レンズの特徴である綺麗なボケ味を生かした前後圧縮と、ファインダーの中に見えるすべての構成要素を視覚に取り入れ、過不足なく整理すること。光は窓からの自然光のみにし、絞りをできる限り開けることで飽和した光が全体の彩度を下げ、表情に合った一枚絵としての雰囲気を作り出すことができました。 与えられた環境や条件に対し、自分がそうなるために必要な事を実践する術を見つけ、それを実践することが「主体の意思の自由」と言えるのかもしれません。
写せないもの
2015/3/30
0
果たして写真で写せないものはあるのだろうか?写真の限界点は存在するのだろうか?それを語るには自分はあまりにも浅はかだ。さて今回のテーマは「イメージカット」である。イメージカットの定義は?はっきり言えばはっきりしていない。しかし、この写真をイメージカットとして捉えている。被写体のイメージや情景といった内面を表現できればと思うがフォトグラファーとして思うに、被写体をよく知り最大限に表現するのは容易なことではない。しかしイメージすることはできる。シチュエーション・声掛け・フレミング・光量など次第で幾多様にも表現することができる。これらの要素を組み合わせればいくらでもバリエーションは確保できるだろう。しかしだ。そう撮った写真は果たして彼女自身なのか?やっぱり容易に撮れない。来た。壁に来た。やはり写真の限界点は存在する。それをもっともっと追究するからこそ写真は面白い。楽しい。彼女は何を想っているのだろうか?好きな食べ物?好きな男の子?今日の夕飯?はたまた寝たフリ?観る人のイメージ次第だ。私が思うに彼女のこの「ほほえみ」は絶妙だ。一見、寝てるようだが、かすかに微笑んでいる。且つ、泣き疲れたような表情ともうかがえる。そして私は、これからの未来が明るいような表現を施してみた。右側の背景色。彼女がイメージしているものを際立たせるための光だ。ここは元々暗かった。左側の背景は白。現実とイデア的、もしくわ寒暖などといったイメージの分け目を表現。彼女が眠っているからこそのイメージを付与することができる。そうやってこちらからのセッティング、声かけなどで無限大に表現することができる。ちょっと待てよ?写真で写せないものは存在するのではなかったのだろうか?なるほど。写せないものが存在するのではなく、つまり限りなく表現することができる。彼女のイメージの中でね♪ 写せないものなんてないね☆
『喜び』
2015/3/30
2
Photographer:VolvoCoordinaite:Oikawa Lifestudio No.5, Koshigaya スタジオのドアを開けた瞬間に響いた「ボルボさんこんにちは」と言う声。再開して目があった瞬間の「いた!」という感覚はまるで親戚のようで、その時点ですでにお店のスタッフとお客様という関係性は存在していないに等しく、これから始まる素晴らしい二時間に対する期待でそこにいる人すべての胸が高鳴っていたように思います。 顔の知れたもの同士で再開することはこのスタジオでは珍しいことではありませんがあおいちゃんとの再開はまた一味違うものでした。初めて会った日から1年半が経っていました。はじめて会った時は緊張で着物を着るのもやっとだったあおいちゃん。その時に打ち解けられたのがきっかけでこうして3回目の撮影に携わらせてもらうことができました。 しかし、気心がしれているから簡単に撮影ができると思ったことは一度もありません。複数回撮影に入らせてもらう事にむしろ難しさを感じます。それは責任と権限のバランスをどの按配で設定するのかを決定する自律心と周りの人達への観察を自分の中に必要とするからです。 それはつまり自分との戦いでもあります。子供達が成長した姿を見せに来てくれるということは、同じように私も再開した時に成長した姿を見せられなくては子供達に「大きくなったね」なんて言葉を軽々しく口にすることもためらいます。 私はいつも撮影にきてくれる人達の予想する結果の少し上をいきたいと思っています。それはただ単純に質の高い写真を提出するのではなく「そんなことまで考えているんだ」とちょっとした気遣いや察する力を含めた「提案」する能力を有する必要があります。 表現の自由を最大限に維持しながらも私を選んでくれる理由を踏襲することが、権限と責任のバランスを保つ事であり、予想の少し上を達成できる源となっています。この一枚は、まさにこのふたつのバランスが調和された写真となりました。笑顔ならば、ただ普通に撮れば良いものができあがるのは明白です。しかし、あおいちゃんのありのままの姿をよりポイントを絞って集中させ、少し上をいくためにフレーミングと前ボケの構成要素によって強調することにしました。 あおいちゃんが私を選んでくれる理由と、私があおいちゃんを撮りたい理由を照らし合わせ、その二つがマッチした瞬間にこそシャッターチャンスがあり、それはただ「会いたい」という単純明快な理由からくるものなのかもしれません。モニター中に写真を見ながら、ママさんから「これがボルボさんの写真だよね」とさらりと言ってくれる事が何よりうれしく、私たちが再開する喜びがそこにあるのだと感じました。
存在の美
2015/3/30
4
Soka No.12Photo by Kudo / Cordi by Ouchi「存在の美」早朝に散歩をすると、良い収穫をすることがあります。それは、葉に滴る朝露だったり、朝の澄んだ空気の匂いだったり、朝日が昇り、藍色から朱色に変わる空の色のグラデーションだったり、黄金色に照らされる川の水面だったりと、どんなに落ち込んでいたとしても、この世界は美しいものに満ち溢れているのだと感じることができます。数式を理解できたときに、その法則に驚くことがあります。文を読んだときに、その表現と言葉の響きに感傷的になることがあります。映画を観たときに、その物語が自分の現実と近くに在るような気がして、まるでその物語が自分のことのように感動することがあります。良い音楽を聴くと、その旋律に心地よい調和を感じることがあります。美術館にいくと、絵画やオブジェに宿る魂を感じることがあります。誰かと話をするとその人の哲学や価値観を知り、その姿に尊敬をすることがあります。こうして、自分の内面の感覚に触れる「何か」を、人は「美しい」と言うのかもしれません。この世にある「美しい」という概念は、範囲が広く、とても多様性に富んでいるように見えます。「美」とは広範囲に及び人によって感じることに差異がある概念にも関わらず、私たちはこの「美」という概念を共感することができます。それは、私たちが人間であるがゆえに、認識ができるのだと思います。それが「美しい」と感じるのは、そのものの存在を感じることができるからなのだと。もし、その「存在」を認識することができなければ、「美しい」という概念すら無いのではないでしょうか。その「存在」を認識するということは、自身にとって道具のような「役に立つもの」ではなく、また、「ただそこにいる」というだけの対象としての認識でもなく、その「存在」が何であり誰であるのかを知っているということです。「美しい」というものは、調和が取れていたり、心地よいと感じるものであったり、感動するものであったりと、必ずプラスのイメージがあります。ですので、「美しい」とは良さを認識することであると思います。私たちは、風景にしても、概念にしても、形にしても、音にしても、その「存在の良さ」を認識したときに「美しい」と感じるのではないのでしょうか。私たちが毎日取り組んでいる撮影の中で、最も「存在」として際立っているものは「被写体」であり、「被写体」とは、目の前にいる「その人」です。私たちは、「美しい写真」をお客様に提供することが求められています。「美しい写真」には、構図・インテリア・光の技術が求められますが、それは何のためかというと、「その人」の「存在」を美しく表現するためであると考えます。「人の存在」の美しさは常に内包されているものであり、それは他者から認識されたときに顕れるものです。私たち撮影者は写真というツールを使って、「その人の存在」を美しく表現し、その人が内包している「その人だけの存在の美しさ」を伝えることができます。「人」という存在を「美しい」ものであると認識するには、その人の存在の良さを知ること。その人が「誰」であるのかを知ること。その人の美しさを引き出すために、どのような関係性を築くのか。どのような光で撮るのか。どのような角度で撮るのか。どんな構図で撮るのか。写真と75cutにどのようなストーリーを描くのか。それらを常に選択し、条件を作り、美しさを引き出すということが、その人の存在の良さを認識し、それを表現していくという過程になります。それは、「その人がそこに存在しているから美しい」ということを表現していく過程が「人に入る」ということになるのだと私は思います。人は皆、美しい存在です。そう思えるかどうかは、私たちの認識次第なのだと思います。「あなたがそこにいるから良いのだ」と、そう言えるから、この世界は美しいのだと思います。
成人写真
2015/3/29
2
Photographer:suzukiCoordinaite:hachiyama Lifestudio No.5, Koshigaya写真の構成要素を中心に話す前に『被写体はどのような存在なのか?』から話をしなければならないと思っています。写真の構成要素はその次に話せば良いのです。なぜなら写真の構成要素を撮っているわけではないからです。美しいと思った写真のシャッタースピードを知ったとしても同じような美しい写真を撮ることができるわけではありませんね。被写体の美しさは、自分の意思とは関係なく、ただやって来て、いつの間にか過ぎ去っていくものです。それが瞬間というものであり、その美しい瞬間をキャッチすることが撮影者なのではないでしょうか。では、被写体の美しさとはなにか?学生時代の頃、派遣会社でバイトをしていました。派遣先は大体が一日中稼働している工場で、主に巨大なコンベアから流れてくる製品に欠陥品がないかチェックするような仕事でした。製品は飲料水だったので、工場から支給される無菌の白衣と白い帽子とマスクが絶対に着用しなくてはいけませんでした。これを着用して鏡の前に立ってみると、好きな女性に絶対に見られたくない恥ずかしさが当時はありました。髪の毛が1本も出ないような帽子だったので、自分の顔が裸にされたような気分だったからです。そして最も嫌だったのは、休憩室でした。飲料水の工場だったので、液体の湿気と機械の熱気が工場中に充満していて、体は湿気と汗でベタベタになっていました。この状態で、たくさんの従業員が休憩する部屋はベタベタの人間が50人ぐらい押し込まれた部屋だったので、鼻で呼吸をしたらいいのか口で呼吸をしたらいいのか・・・・。あの忘れられない人間の匂いといったら・・・。ベタベタの喉を潤すためにジュースを飲もうと自動販売に向かっていくと・・・・「なんてことだ!」先に並んでいた人が腰を曲げてジュースを手に持って振り向いた瞬間、そこには私と同じちょっと恥ずかしい帽子を被った美しい天使がいるではありませんか。「あ、あ、あの〜、顔が全裸ですが、な、な、なぜあなたは美しい人なのですか・・?」目が二重で大きくて鼻がスラッとして高い、顎がシャープで唇はふっくらしていて大きい、まつげにボリュームがあって歯並びが整っている。そして肌がツルツル・・・。「もしかして、これはドラマの撮影かもしれない。女優が工場の従業員の役をやっているんじゃないか・・・・」と言っても大袈裟ではありませんでした。顔をベースとして目、鼻、口などのパーツのバランスが美しかったのです。では、『被写体の美しさはルックスが決定的なのだ!!』という定義をすればいいでしょうか?なにか違う気がしますね。日本一高い山の富士山は美しいとよく言われますが、ゴミ投棄などの環境が悪くて自然遺産ではなく、文化遺産になったそうです。ある一面から見れば美しいが、ある一面から見ればそうではありません。どんな山にもある美しさはないのでしょうか?「シンドラーのリスト」の映画に登場するオスカー・シンドラーという主人公がいます。第二次世界大戦時にナチスドイツがユダヤ人をたくさん殺していたのが時代背景です。朝起きて顔を洗うように・・・人を殺すことが日常的だったのです。ナチ党員は朝の太陽の光で目覚めてベットから目をこすりながら起き上がって、ベランダに出ます。ベランダから見えたのは、ふらふらに歩くユダヤ人でした。そのユダヤ人を見て、壁にかかっていた銃を手に持って撃ち殺しました。 主人公の実業家シンドラーもナチスのメンバーでした。シンドラーの日常生活は、お金持ちが集まる利己的な社会で生活していて、たくさんお酒を飲んでたくさん女の人と遊んでいました。そんな実業家のシンドラーは、戦争を利用して儲けを企んで工場の経営をしました。工場で作られていたのは、軍で使う鍋や砲弾などを生産していて、巨大な軍需工場となっていきました。従業員は800人ほどになり、400人ぐらいはユダヤ人でした。ユダヤ人を雇った理由は、単純に安い賃金でこき使うためでした。ある時、ナチ党員が特別な意味もなくユダヤ人を銃で撃ち殺すのをシンドラーが見かねて彼を止めるシーンがあります。「力とは人を殺す正当な理由がある時に殺さないことだ。」そして、ある皇帝の話を持ち出します。「皇帝の話を知っているか?盗人が引っ張りだされて、皇帝の前にひれ伏して命乞いをする。殺されると知っていてね。だが皇帝は、彼を許す。その虫ケラを放免するんだ。それが本当の力だ。」シンドラーはユダヤ人を金儲けのための道具として見ていましたが、シンドラーがユダヤ人に対して変化していきます。シンドラーはアウシュビッツ収容所に送られるユダヤ人をナチ党員にお金を払って、工場で働かせるようにします。そのなかには、子供や女性も含まれていたのでシンドラーは単なる労働力として見ていたわけではありません。純粋にユダヤ人が殺されないために救い出しだのです。その後、ユダヤ人を救うためにシンドラーはおしみなく私財も投げ出して救うために翻弄します。ラストのシーンになると、ドイツは敗戦が決まってシンドラーは戦犯として追われる身になり、亡命するためにユダヤ人を残した工場から旅立つシーンがあります。シンドラーは車に乗る直前にこんなセリフを言います。「もっと努力していれば、あと1人は救えたかもしれない。車を売れば10人、バッチの金を売れば2人は救えたかもしれない。たとえ1人でもいい、1人救えた。人間一人だぞ!このバッチで・・・努力すればもう1人救えたのにしなかった。・・・救えたのに・・・」こう言い残して工場を後にして走り去って映画が終わります。私たちはシンドラーのように葛藤しながらも正しい方向へ向かって生きるために困難を乗り越えていく姿を見た時に胸を熱くさせ涙を流します。シンドラーと現実の自分を比べた時に自分にはない特別なものを持っているからこそシンドラーは賞賛されるのです。自分にはない特別なものとは、世界を正しく見ることによって、それが自分のエナジーとなっていることです。シンドラーは、戦争がねつ造した特定の人間に対する間違った見方を脱ぎ捨てて、「私とあなたの正しい関係はなにか?」と葛藤しながらも「私はあなた」であり「あなたは私」という血の通った同じ人間として一人一人を見たのです。だから意味なく殺される私と同じ人間を救うことが行動の原則になったのです。ナチ党員は戦争が作った権力に依存していたため「我々とそれ」というように人間を区別して見ていました。だから人間を利用することが行動の原則になったのです。私たちが世界に対しての見る角度は、正しい時もあるし、間違った時もあります。言い換えれば、本当の世界を見ている時もあるし、嘘の世界を見ている時もあるのです。例えば、四葉のクローバーを見つけて、本当に幸せが訪れるでしょうか?「四葉のクローバーを見つけたことは、なかなか見つけることができない貴重なものだから、幸せが訪れるだろう。」という人もいます。「四葉のクローバーを見つけたことは、自分と幸せとは関係がなく、ただそこに生えていただけなのだ。」という人もいます。このような違いが起こる理由は、自分と世界を区別しようとしないからなのです。だからユダヤ人を殺してもいいと認識したのは、間違った世界と区別しようとしないから起こったのです。世界は自分とは関係なく存在します。自分の勝手な見方によって世界が決定されるのではありません。出発点は自分以外の世界から作られます。正しい見方をすれば正しい行動ができるのが人間なのだと信じます。それが人間の持つ美しさなのではないでしょうか。だから、被写体の美しさを知るために大事なことは「私はあなたで、あなたは私」ということ念頭に置いておくことなのかもしれません。撮影者と被写体は別々ではないのです。それは、単に撮影を共にしているということではありません。私が写真を表現すると同時に、写真が私を表現しています。また、撮影者が被写体という人間を規定すると同時に、被写体が撮影者という人間を規定してくれるのです。写真は便利な道具だから私が見ている世界について簡単に記録できます。簡単にできるからこそ、決められた形式にはめ込むことではなく、自分と被写体が持っている美しさについて考えて、お互いに差し出し合って撮影することが面白いと思うのです。成人の美しさはなんだったのだろうか?ほとんどの人が次はどうやって撮影しようかと悩みながらシャッターを切っていくでしょう。だから7才ぐらいの子供の延長として撮影することが多く、たいてい7才と同じようなポーズを要求してしまいます。二十歳の男に対するそうではなく、成人を迎えた1人の人間として見なければなりません。撮影に一緒に来るお母さんとお父さんの子供であり、兄から見たら弟であり、恋人から見たら一人の男です。それを確認できたのが、海外旅行を友達と行ったという話・・・。最近、かわいい恋人がいるという話・・・・。スーツと革靴をこだわって自分で買ったという話・・・・。そして、母親がずっと財布に入れている成人が1才頃の色褪せた写真でした。義務教育という社会から卒業して、想像でしかなかった大人のイメージが現実となる扉を開こうとしている成人の姿がありました。それが、恋人かもしれないし、海外旅行かもしれないし、スーツと革靴かもしれません。親から離れて子供から大人になるということを、現実に今も生活しています。顧客は撮影と時にだけ現れるのではなく、私たちの知らない場所で過ごしています。だから、私が成人に対して「〜らしく」と思っていたとしても、現実に来る成人は「〜らしく」という枠にはめ込むことができないと思うのです。私だけではなく、私が成人に対する美しさと成人個人の持つ美しさを差し出して出会った写真がこの1枚なのです。私が成人に対する美しさとはなにか?と考えたときに、私も革靴でした。アルバイトをしてある水準以上の高価なモノを買って身に着けることは、自分は子供ではないという社会的な証明をしたかったのです。その象徴として革靴だったのです。子供から大人になったと自己表現する精一杯の方法だったのです。この成人も同じようにスーツと革靴に特別な想いがあったのです。写真はこういった内面的な存在を表現することですし、四角の中の構成要素がこの1枚の表現のために意味のあるものでなければならないと信じています。
ギャップとそのまま。
2015/3/29
2
Photographer:gomeiCoordinaite:Hachiyama Lifestudio No.5, KoshigayaS 1/100f 1.2ISO 1000L 85mm 撮影場所は越谷店の衣装部屋の片隅で行いました。とても暗い場所であり、光も蛍光灯が天井に有るため撮影に向いているといえる場所でなかったです。その為なるべく光を取り込みたいため、85mmの単焦点レンズを使用、それらの理由によりISO1000に設定。また被写体をより際立たせて存在感を演出するためにもこのレンズを使用し、F値1.2に設定をしました。キーライトは被写体上部奥にあるタングステンの蛍光灯に設定。しかしやや逆光気味になるために被写体の顔が大きく落ち込んでしまうので、カメラ後ろの玄関から入ってくる光をドアの角度によって調整を行い、補助光として使用をしました。この時に注意を払うことは顔全体までに光が当たらないこと。当ててしまうことにより肩から背中に掛けての影のグラデーションを出すことが出来ずに、臨場感を失う可能性が高い、その為この当てる角度は大変重要でした。臨場感を出すことで第三者の想像性がより膨らむように、ドアを写真右3分の1に入れることで遠近感と人の一面を垣間見る感覚、これは映画ゴットファーザーラストシーンからアイデアを頂き、室内と室外の明るさで大きく差を付けることで、撮影場所の意味の付与と想像性を付与することが出来たと感じます。 何故この場所で撮ることにしたのか。この子は七五三の撮影で来店をされました、本人は特に着物には興味が内容に見え話を聞いている内にとにかくドレスを着ることが楽しみだと情報を得ることが出来ました。年齢の上がってきた女の子特有の自身が人の手によって施される喜び、化粧によっていつもと違う自分の発見をする驚きをタイムリーに写すことを再優先したため、更衣室にも使われる大きな鏡が有るスペースで撮影をすることが絶対条件です。鏡のない状態でヘアメイクを施され、施される度に高まる自身の期待値、実際に鏡に写して見る自分の驚き、その為には最初に鏡を見る瞬間で撮影をすることが必ず必要です。似たような顔の角度や仕草で撮影をすることは勿論可能ですが、本人が何を思うのか、その瞳に宿る力が有るのはリアルな瞬間にしか訪れることは無いのではないでしょうか。その瞳の力とは心の内から出てくる感情であり、その感情が全ての色を決めるものだと考えます。なので必要なのは物の配置、人の配置、カメラとの距離、光を設定し、あとは本人のあるがままを微調整する程度で、その子の感情を刈り取らなこと、そのままをとってゆく事が大切でした。変身した瞬間。この写真は多くのギャップを作ること。明るい手前や奥とアンダー目の被写体。ドレスと脱力感のある姿勢。今までの自分と手を施された自分。その為ポーズなどはピチっとしたポーズを付けることはしなく、あえてダラけた印象を持てる様な身体が楽な姿勢をとってもらいました。表情も無理に笑顔にはしないこと、そのままであること。
『since』
2015/3/28
0
photo by Ryo codi by Kaori in Yokohama Aoba 写真に出会ってから、人に出会ってから美しさのあり方を探しています。見た目に美しいのか、感情に訴えかける美しさなのか、その両方なのか。私は自分の中で美しさの基準を決定する事無くいつも探しています。決めてしまうという事は思考をとめてしまうような恐怖を感じるからです。だから毎日、常に考えます。今目の前に居る人の美しさは何処にあるのか。 私は初めて会う被写体である人の事を良く知りません。会ってから1時間以内、その時間でいったいその人のどれだけを感じる事が出来るでしょうか。解らない、何時もこの感覚が私の心を刺激します。向き合う事は常に私自身に考える機会を与えてくれます。言葉で感じ、表情で感じ、空気で感じる。知りたいと思う気持ちが感覚をより強く研ぎすませます。 でも何故かいつも思うのです。常に一緒に居る仲間達の事でさえ、全てを知らないのになぜ私は被写体の美しさを仮に決定しシャッターを切れるのでしょうか。シャッターを切るのはカメラマンとしての義務だからでしょうか。それも違う気がします。想像しているのかもしれません。解らない事は思考し、形にするためにはカメラを構え、シャッターを切るしかありません。だからその瞬間のために沢山の事をして、沢山の事を考えます。そして出来上がるのはいつも、私の想像で固められた写真。しかしそれは彼女も知らない自分だったり、家族も見た事が無い彼女だったりします。そして、自然な彼女の姿だったりしたのかもしれない。 向き合い探し、考え写す。おわりない感覚に、出会う人たちの魅力に私は突き動かされています。 カメラを持って以来ずっと。
nonfiction
2015/3/26
1
photo by Yuki codi by Erika in mito「誰も知らない姿」というものを表現することはなかなか出来ない。家族は毎日一緒にいても小さな変化などには気が付かない時が多いと思う。それはずっと毎日一緒にいるからこそ逆に気が付かない。この女の子は普段とは全く違う姿を私たちに見せてくれた。「こんな事出来るのか!!知らなかった。とってもいきいきしていて楽しそうに撮影をしている、凄くノリノリ」などママからは感動の声と成長を感じて少しグット来る部分や自分の子供がこんなにポージングが出来るのだと言う声などが聞こえて来た。親が入らなくてもカメラマンやアシスタントと共に撮影そのものを楽しんでいる事むしろ親がいない方が自分の子供が輝き楽しさが満ち溢れていること。普段とは全く違う顔を私に見せてくれたことを、ママ達の言葉に感じ、私はほんとうに嬉しかった。普段は見せない表情や動きを出してくれた彼女。それを引き出せたコーディとの関係。私の撮影の思い、彼女の表情や動き、みんなでの雰囲気が何も欠けることなく合致したからこそこの写真が生まれた。もしもこの何かが欠けてしまったら・・・・・この彼女のことを理解できず淡々と撮影していたら。私たちに自分を出すことを恐れず隠すことなく出してくれた彼女に感謝。なぜこの女の子は普段とは違う顔を見せてくれたのか??なぜその普段とは違う顔を引き出すことが出来、撮影することが出来たのだろうか?「ありのままと」いう単純な表現では言い表せない写真「その子らしさ」ともちょっと違った写真着物の撮影ドレスの撮影の時にはきっとこの子らしい写真撮影だった。しかし、カジュアルの洋服に着替えた彼女を見た瞬間に私は感じるものがあった。それは、カッコ良く、大人っぽく、クールな撮影がピッタリだ!!こう確信したのだ。この子の内に潜めている物を発見したい。だからこそ新しい彼女誰も知らない彼女を撮影したいと思ったのである。
『Us』
2015/3/24
0
photo by Ryo codi by Kaori in Yokohama Aoba少し晴れ間がのぞき、少し時間が経てばまた雲の中に入る。不安定な空のように写真を考え、人と向き合う。私たちが求める物は何か、求められる物は何か。ここに居る意味とここで撮る意味を混同しながら、本当の答えを探す毎日。 撮影の中で自分が考える理想を100%を求めるのは少しわがままで、50%を求めるのは少し消極的すぎる。90%の意図と10%の偶然が心地よく感じます。写真の技術的側面では自分でイメージを持ち、フレーミングを計算し、光を作りポージングをつけ適切な数値を導きださなければいけない。ここまでの意図的な達成が結果物に対する90%であるとしたら、残りはカメラの中ではなくその他の部分になります。私が知らない彼女の写真を残すには技術的な再現と、その人を捜すためコミュニケーションによる疎通が必要です。技術は撮影者の持つ『範囲』でもあると考えます。その写真の構成要素を考え、効果的に瞬間を写す事が出来る環境。それがカメラマンの『範囲』です。 なぜ、見た目に美しい写真が撮れたとしても何か足りない物を感じてしまう時があるのか。それはその写真が技術的観点に収まってしまった瞬間です。常に私たちの結果物は被写体との関係に依存します。何かが足りない、それを感じる時はだいたいカメラが操作できるもの意外の部分が欠けている時ではないでしょうか。技術においても完璧を求める事は良い事ですが、完璧と言う物を自分の感覚で決めてしまえば、その写真は自分のための写真になってしまいます。 私たちは常に人と向き合う環境に身を置き、写真という媒体でそのつながりを記憶し記録します。だからこそ写真も、その撮影時間も美しく楽しくあるべきです。10%は何故か残りの90を覆す可能性を秘めている。この事に対して数値化する事は大変困難なのですが、写真を撮る中で自分自身に多少の約束を作る必要があります。私の中でその約束は不完全な数字がベースとなる、曖昧な計算です。物ではなく人間を撮る私たちの写真は有る意味常に不安定であると考えます。完全は無く予想は常に覆され、計算を狂わせる切っ掛けに満ちている。それが人を撮ると言う事ではないでしょうか。 私はカメラを持ってから常に美しさを求めています。知らない物を知る事が美しさ追求に繋がり、知っている事をしっかりと行う事が美しさとの出会いに繋がる。自分の持っている力で探し、時に違う目的にたどり着く。予想のように行かない事もまた、私たちの発見に繋がり、知らなかった美しさを感じさせてくれます。終わりの無い探し物は、常に私たちを成長させ世界を広げてくれます。 折れた口紅、閉じた口元。少しの未完成がまだ飾る事を知らない被写体の今を表す。
『record』
2015/3/20
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Photographer:VolvoCoordinaite:Nishi Lifestudio No.5, Koshigaya よく「撮影の時、何を考えてシャッターを押しているのか」と聞かれることがあります。私は撮影に関わるすべての事柄に対してアンテナを張っているつもりではありますが、もし撮影で実践しなければならない事に優先順位があるのだとしたら、一番最初に成し遂げなくてはならないのは被写体の特性を知る事だと思っています。被写体の特性を知るというのは外見的なものももちろんですし、それも含めてよく言われる「相手に深く入る」という行為と言い換えることもできます。 しかし私がこの言葉を聞くたびいつも思うのは、撮影において「人に深く入る」とは一体どういうことを言うのかということです。この言葉は本当によく使われますが、いまいち抽象的で「わかってはいるんだけど」という域を出ません。 例えば笑顔を引き出すことということもできますし、被写体らしさを表現した時だとも言われます。そうした表現のどれもが間違ってはいないと思いますが、被写体によっては来店した時から笑ってる人もいますし、被写体らしさ、ありのままだけを撮るのならば技術の必要性は少なくなります。そのどれも正解のようで「人に深く入る」という言葉の全てを説明しているには何か物足りない印象を受けます。 私は前に投稿したフォトジェニックで、撮影とは「技術と対話の相互作用である」と書きました。私はそれが撮影における「人に深く入る」ためのキーワードだと思っています。写真として表現するならば「意思疎通の結果物を形に残す」とも言えます。 例えば好きな人と付き合いたいと思ってアプローチをするとしたら、話しをしなければそもそも気持ちも何も伝わりませんし、彼女の好みを知らなければ話したとしても実りなく終わってしまいます。 撮影も同じだと思います。話をしなければ被写体の特性を知ることはできず、逆に被写体から見ても私たち撮影者の特性を知ることができません。ようは意思疎通とは撮影者と被写体が互いに自分を知らせる行為、投げ出す事だと考えています。 意思疎通は、ラジオのように送信機と受信機の周波数が合わなければ成されません。被写体がどんなに自分を表現していたとしても撮影者のチューニングが適切でなければ見逃すことになります。逆に言えば、受信機の性能が上がればあがるほど被写体から出る微弱な電波も受信することができ、情報は多く入ってきます。だから私はいつもたくさんのアンテナを張ろうと心がけています。 そして、そのチューニングをうまくする事が技術と言われるものだと思っています。 私が撮影においていつも持っていたいと考えている技術としてのチューナーは「目的を持った統一感」です。対話、技術、ポーズ、動作、表情、目、光、全てに「目的」を持った状態を作り出すこと。なぜその光なのか、なぜその構図なのか、なぜそのポーズなのか、なぜその目なのか。それらすべてがひとつの目的のもとに構成される状態が私の中の意思疎通であり、写真における「人に深く入る」という事の根本になります。 この写真で最も注目すべき点は「彼の目」です。この目からはまるで卒業式シーンの台本を読み込んだ役者が窓辺でたそがれているようなたくさんの感情を感じることができます。彼はとても元気で明るくたくさんの表情を見せてくれたので、だからこそ見えてくる「動」と「動」の間にある「静」に周波数を合わせそのためのポーズと光を組み合わせました。 ホームページのour mindにこのような文章があります。 『その瞬間の感情を表現し思い出として記録していくこと。それが写真なのです。写真館はその瞬間の感情ほどではなくとも可能な限りの人為的な条件を作り出しその中で最大限に自然な姿を引き出していかなければなりません。そして同時に楽しい時間として記録されていかなければならないのです。』 「静」の瞬間に訪れるらしくない瞬間とそれでも彼であるという二面性を表現できるのが写真であり、人生を記録することなのではないでしょうか。
Life
2015/3/9
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草加店写真人に写真に自分自身に深く入っていきたい 偶然的に向かってくる美しさに対して私たち撮影者はどのような態度でいるべきなのだろうか。撮影者の条件の中に、自ら環境と条件の提示をする能力を必要とする。という話をよく聞くが、それがいったいどういうことなのかを今回の一枚を通じて少し知れたような気がする。いい撮影者とは自分の中にある確信と自ら整理した環境と条件を繋ぎ合わせて、置かれている現実をもう一度再定義して撮影するということだと考える。 「生活」という言葉を皆さんはどんな意味で使っているのでしょうか?眠って起きてご飯を食べて、学校へ行って、会社に行って、そういう繰り返し、その毎日を生きることを生活すると呼んでいる。しかし、大人は少し違った意味でその生活という言葉を使っているときがある。 「生活があるから・・・」「生活しなければいけない・・・」 この言葉遣いが可笑しいことに気がつくだろうか?例えば、小学生の場合「学校へ行かなければいけない」という。なぜ学校に行かなければならないのだろうか?その場合の答えとして、義務教育で定められているからだというのが妥当だと思う。とりあえず義務だから「学校へ行かなければいけない」という言い方は間違ってはいない。 しかし、「生活しなければならない」についてはどうだろうか?生活することを義務と定めている法律は無いのに何故人は「生活しなければならない」と、それが義務か強制であるような言い方をするのだろうか? 試しに自分の親に何故生活しなければいけないのか聞いてみることにした。「生きていくためだよ!!そんなの決まっているだろう」と答えが返ってきた。この言い方を聞くと不思議なことに生きていくことに対してもそれが義務か強制かのように聞こえてくる。しかし、生きることに対しての義務や強制は存在していない。では、だれがそれを決めているのだろうか? 決めているのはその人自身ではないだろうか?生きていかなければいけないという法律は存在していないし、生きることを強制はされていな。生きることはあくまでもその人の自由である。生きたくなければ、死ぬ自由も持ち合わせている。なのに死なずに生きているということは、生きることを選択しているのであって、本当は生きなければいけないというのではなく、生きたいと言うべきなのだ。 本当は自分で生きたくて生きているのに、誰かのせいにしているような言い方で、「生きなければいけない」と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいになってしまうのは当然なことかもしれない。 生きるためには食べなければいけない。稼がなければいけない。その為には仕事をしなければいけない。この「しなければいけない」ということの繰り返しが大人の言うところの「生活」である。しなければいけなくて生活する、生きなければいけなくて生きている人生はどうしてもつまらないし、楽しくもないはずだ。 きっとそれは、こんな風に生きているのは微妙なんだけど死ぬのはもっと嫌だから、だから生きなければいけないということを口にしているのかもしれない。しかし、人生は生きているのがいいのか?死んでいるのがいいのか?生きている限りは分からない。きっと分からないから生きているのかもしれない。だったらやっぱり人は自分の人生をはっきり選んでいるという自覚をきちんと持って生きるべきなのではないだろうか?仕事も生活も何もかも、自分がやりたくてやっていることだから自覚するべきではないだろうか。 この自覚とはどこからやってくるのだろうか?今回はこの自覚について深く掘り下げていきたい。 被写体の少年は、ちょうど12歳になる男の子だ。思春期を向かえようとする時期にあたる。この頃になると体の変化と共に心の急激な変化も見せていく。この時期の最大の苦悩は、本人が自分の急激な変化についていけずに自分自身がコントロールできないことである。自分の体の変化に戸惑いそれまでは何の違和感もなかった自分自身のことや友達のことが異常に気になってくる。また、親の一言一言に対してムカついたり、どうしたらいいか分からなくなり無性にイライラする。他にも、こんなこと話したら人には可笑しいと思われそうで言えないし、大人には絶対に知られたくない。このような様々な自分の内面での葛藤こそ、思春期の反抗期である。 子供の思春期の反抗は親にとっても戸惑い、不安なものである。苦しそうな我が子を見ているとなんとかしてあげたくなって、色々と問い詰めてしまうかもしれない。しかし思春期は成長にとって一番必要な課程である。親からの自立、親や他人とは違う自分の存在を受け入れて認めて確立させること。つまり自らの意思で自分の存在を「自覚」する為にはなくてはいけないものなのです。親にとっても周りの大人たちにとっても辛抱のときだ。子どものそのままの姿を認め、見守っていくことが大事だと考える。 私達ライフスタジオは、尋ねてくる子どもの親代わりにはなれない。しかし、責任ある大人の一員として私たち一人ひとりはどんなことを通じて子ども達を見守っていくべきなのだろうか。 草加店は、ただその子に対して耳をかたむけること程度しかできないかもしれない。そして、それを精一杯そして継続的にしていきたいと考えている。 草加店には生命力のある植物と空や海や川を連想させる青、大地に大きな根を下ろすように聳え立つ大きなツリーハウスが存在している。緑・青・茶色。3色どれもが関連性のある選抜された色だ。私が考えるに、地球を連想するカラーだと考えた。 この三色は私達人間の人生を優しく包んでくれる世界となっていること象徴とする。その中に少年が訪れることにより、草加店の世界観と少年の世界観が一致する決定的な単語を確認したのだ・・・。「これが人生だ」と。人間は生命力を保持しながらも、何故生きるのか?真剣に悩み考える生き物だ。そのような人間は常に矛盾を抱えながら生きている。冒頭でも述べたように、生きなければいけないという他人任せの生き方ではなく、自らが選択して生きていくという状態が重要である。思春期を向かえる少年が草加店と出逢い、自然と人間の共存、生きるとは何か、自分は何者だ、働くとは何か、それらの命題に向き合う一歩を踏み出す最初の場所であってほしい、そんな始まりがライフスタジオとの出会いで始まることを私たちは切望している。 生命の始まりは、自然に始まり自然に帰っていくことではないか。人間の始まりは、自我との出会い他者との交流を通じて始まっていくのではないか。出会いの始まり、このライフスタジオから始まるのではないか・・・。Photo by ouchi akane code by kudo satsuki life studio soka
想い
2015/3/9
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朝の光名古屋店の3階は、朝の光がうんと差し込む。私は、夕方の暖かな光も好きだが、朝の優しい光が一番好きだ。光によってイメージは左右される。私が午前中に撮影に入るときには、こうイメージすることが多い。ある日の休日、今日は何をしようかな。一日の予定もまだ立てていない。今日はいい天気だな。のんびり予定をたてよう。今日は何も考える、悩むこともない。つらいことも忘れれる時間。今日は思い切って心を休めよう。こんなイメージが思い浮かぶ。この写真は、まさにそのイメージに沿っている。この季節は、寒く冷え切った部屋の中を温かい雰囲気に変えてくれる。白く、柔らかい。その中で、今日は予定もなく、ゆっくり休む日。自分達の心の休日を、お兄ちゃんと一緒に。普段は学校で、登校も一緒にしているが、中学、高校と上がるにつれて一緒に過ごす時間は少なくなってくる。今この時間を一緒に共有し、その時間を残す。お兄ちゃんのことが好きな妹ちゃん。いつもお兄ちゃんの背中を見て過ごしている。お兄ちゃんはこの子にとって落ち着くことが出来る、安心感を持てる、自分の中での味方の様な存在である。背中からお兄ちゃんの優しさと頼もしさが感じる。いつまでも仲良しでいたい。いつまでもこんなゆったりとした時間を過ごしていたい。
作り悩ませ遊ぶこと。
2015/3/5
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らしさとはなんだろう。私の永遠のテーマです。色々な家族写真があり、きっちりと整理された家族写真やくだけた家族写真などカテゴライズすると多くのカテゴリーが作られると思います。そのカテゴリーには優越、または良し悪しは無いと思っています。勿論のことどちらも必要ですし、どちらも良い写真です。私もきっちりとした家族写真を撮ることも多いです。 ではその家族のらしさとはなんだろうと、改めて考えて見ます。おそらく私の中では、「普段の姿」がらしさに繋がるのではないかと考えます。写真を家族で撮りに行くことがそもそも普段とは異なるので、大人も子供も緊張をしていることは仕方がありません。だからと言って普段が出せないかという事でもなく、いかに普段を作れるかがこの写真のテーマでした。綺麗に見えるポーズはありますが、それを無意識に行えることが出来るのならばそれに越したことはありません。しかし私もそうですが、そう簡単に人前で行えることではありません。頭の先から足の先までポーズをつけてゆくことは可能ですが、一つポーズをつけることでらしさが-1されてゆくような感覚に陥ります。例えば普段全くとらないようなポーズするのに10個指示するとすると、その家族のらしさが-10され、型にはまってゆくような感覚です。しかし指示は写真を家族写真を撮る上で必ず必要です。いかに家族に負担にならない指示を与えるかがとても大切なポイントになるのです。今回この写真には「最低限の指示」のみを行いました。人の配置と「合体して見て」くらいのことです。とても抽象的な投げかけを行うことで、家族の中に「合体とはなんだ?」と疑問が生じます。その後三人が思い思いの行動を行い、結果としてグシャっとくだけた写真が生まれたのです。一人が動くことで、おのずと他の人も動くことが必要であり、おそらく各々思っていた合体とは違った物になったはずです。私が予想していたものとも少し形が変わりました。その変わった瞬間にこそ求めている「らしさ」が発生するのではないでしょうか。お母さんの顔が半分隠れていようとも、それ以上に大切な何かがそこには存在します。一緒に作り悩ませ遊ぶこと。そのため私が欲していたらしさを引き出すには、最低限の指示のみが必要でした。
感動…人を感じる
2015/2/28
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草加店写真人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・親と子の関係は一種の縁である。子は母を選んで産まれることができないし、母は子を選んで産むことはできない。ここに、人間の不思議な縁というものが存在してくる。一般的に縁とは、巡りあわせのことや関係を作るときのきっかけとして用いられる言葉だ。また、人とのかかわり合いや物事との関係性の意味合いとしても用いられる。『この巡り合いという縁は、美しい人生のはじまりだ』この世に生を受けて、世界と出会う新しい命の存在は親である私たちに、忘れかけていた感動をもう一度感じさせてくれる。なぜならば、命を宿してその命が無事にこの世の中と出会い、一人前に育つまでの過程で子は親に対して重要な役割を与えてくれるからだ。新しい命が新しい役割を与えてくれる。この繋がりで、人の歴史は積み重なって来たのだと思う。では、ここでいう役割は何だろうか。私たちは良くテレビで、お母さんイルカが子供イルカに水中でお乳を飲ませてあげたり、海藻で一緒に遊んだり、子供が独り立ちできるように面倒をみるということがある。また、大きな役割としては危険から守って育て上げるということがある。そして、ある程度の年齢になって子供が独り立ちできそうであればそれ以上は手を出さない。人間の親はどうだろうか?人間の親にはどんな役割があるのろうか?少し考えを深めていきたいと思う。動物にはない人間にしかない役割があるはずだ。子供よりも人生を先に生きている大人たちが必ず教えなければいけないこと。それは、何が危険で何が大事で人はどのように生きるべきなのかということ教える役割ではないかと考える。人間は、そのような事柄の真実が何かを考えて教える、または考えてもらえるような機会を沢山与えることができる。それを言葉で伝えるということができるのは人間だけだからである。 では、私の両親は人生で何が一番大切かを教えてくれたのだろうか?振り返るといくつかのことが思い起こされる。人には親切にしなさい。人の話を聞くときは、相手の目を見て聞きなさい。人に意地悪はしない。嘘、隠し事、陰でこそこそしない。友達の家に遊びに行ったら靴は揃えて上がりなさい。食事は残さず食べなさい。などなど、成人になった自分がもう一度両親から言われていた内容を振り返ってみると当たり前のことを教えてくれていたことに気が付く。きっと、人を大切にしなさいということ熱心に伝えたかったのだと思う。人を大切にすることが重要だと教えてくれた両親は、今でも同じようにそれを教えてくれる。きっと・・・そんなことを母親のまた母親も同じようにして伝えてくれたのだろう。 人と人の繋がりは不思議だが、結ばれた関係は大事にしなくてはいけない。なぜならば、冒頭でも述べたように人との繋がりを通じて、人は何かを伝える役割があるからだ。その内容は少しずつ形を変えながらも、伝えたい内容は昔からさほど変わってはいないし今後も変わらないであろう。『人の役割は人を繋ぐ』その中でもう一度私自身の役割は何かを見出していけるようになりたいと願う。 では、次の主題設定に進んでいきたい。次に深めていきたいことはフォトグラファーとしての私の役割は何かだ。先ほど、人にはそれぞれの役割があるという話をした。新しい命が生まれることによって与えられる親としての役割について話をした。動物と比べるとその役割というのはより理性的な内容になるということであった。人間が考えて教えて言葉で伝える。これは動物と比較すると分かるが人間のみが持っている能力でもあり、決定的な違いでもある。では、私の役割とは何かを深めていきたい。ここ最近、私は感動というテーマで自分の人生を構築していきたいと漠然とではあるが考えている。この感動と人の関係は、幸福という人間が追い求めている普遍的な価値と密接に関わっている。この相互作用で、人間がより清らかな状態で幸福に導かれるのではないかと考えるようになった。理由は、関係性を表現する写真に対して長い期間集中してきたという経験的な知識が基盤で存在しているからだ。経験を通じて思考するようになった感動と幸福の関係を何によって確認できるのか?このような問いを関係性を通じた写真を通じて追い求めてきた。このような実践的な経験で私はある一つの発見をした。感動とは、人が与えてくれるものに対して素直に受け入れたという経験を通じて、人を感じるようになる。その人を感じるという感情が無条件受け入れたということができた時に、人は心を震わせ感動をする。それが、与え与えられの経験を通じた心の感動である。ではなぜ、人を感じると人は感動するのだろうか?決定的な答えは分からないが私が考えるに、人は基本的に自分の存在を確認したいという欲求をもっている。その欲求が満たされたとき、人は心から満足するだろうし、人は満たされていく。その経験が他者の存在を通じて自分の存在を確認するという行為でも同様に経験でき、相手と自分を一致させ、自分をより強く感じることができる。しかし、このような経験を特に大人になってからはしにくくなってしまう。なぜなら、理性という働きが自分を制御するようになり、感情よりも早く理性が働くからだ。しかし、感動は人を感じる時にやってくる。だから、場合によっては感動というテーマに対して理性が邪魔をする場合がある。悪い意味ではないが、感情という行為をそのままの状態、つまり素直に受け入れることができないので感動というよりは、そういういいことがあったんだねと自己完結してしまうことが多い。しかし、この自己完結というものは人を感じるとは真逆の対立物である。他者との交わりや共感、相手を通じて人を感じあう。自分と向き合って人を感じる。こういった経験が単純に人を豊かにしてくれのではないかと思う。これはライフスタジオが与えてくれた希望だと私は考えている。だから、人を感じる条件はまず先に私達ライフスタジオから創らなければいけない基本的な条件ではないだろうか。だから、私たちは写真撮影を通じて人に深く入っていくことに集中したり関係というものに価値を置いている。 今回私が創作した人を感じる条件に、密着度と共通した素材を準備した。密着度という言葉を使い表現したかったのは、安心する人と人との距離感というものだ。近すぎず、遠すぎず、この写真の距離感が私にとっては関係を表現する黄金比率である。また、父親母親息子が一つの線で繋がっているという効果によって自然なふれあいを表現することもできた。またさくらんぼという共通した素材を家族全員が持ち合うということで、家族の統一感を表現することができた。『同じものを一緒に食べる』という何気ないシチュエーションだが共に生活するうえでは日常的な状態だ。その状態がスタジオ内で無理なく表現できたということは、『私が考える日常的な美しさ』と共通の素材という言葉で表現できたことを意味する。写真は創造的であればあるほど、その意味を正確に説明しなければいけないという使命を抱えている。しかし、それは撮影者にとっては非常に有難い贈り物である。それを素直に受け入れて、言葉で紡ぎ出そう。そうすれば、自分自身も今一度自分を感じることができる。この可能性は写真分析の重要性を非常に広げてくれる 表現したい主題。つまり私が自分で自覚している役割の実践として、写真を通じて『人を感じる感動』という経験を表現するべく今回の撮影に取り組んだ。また、写真分析もそのようにできる限り自分の言葉を整理しながら綴った。これが正解というわけではないが、引き続きそれらをもっと良くしていきたいと思うようになった。『感謝と実践』今後は、この経験を積み重ねていけたらと思う・・・。
『 学ぶ事のはじまり 』
2015/2/28
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Shonan Photo by M. Kuroki Codi by M. Kobayashi 私がライフスタジオで写真を撮っているのには変わらない一つの理由があります。それは「特別な場所でその家族の日常を残したい」ということです。 そしてそれを続けられる理由も存在します。それは、出会って数時間であるのに写真を通じて心を通わせられる時があるからです。時にそれはまるで親戚のような感覚です。そんな事を言ってしまっては失礼にあたるかもしれませんが、ファインダー越しに見守っているおじいちゃんのような感じでしょうか。もっぱらもう親戚のおじさんの年齢になってしまっていますが。。。 そんな家族の日常であり特別な写真を残すには必ず「イメージ」が必要となってきます。撮影中、撮影者とコーディネーターはそのイメージをその時々で必ず持っているはずです。しかし誰しもそのイメージを現実化出来なかった事も少なくないと思います。私も日々、その悔しさを覚えています。私たちは生きている上で様々なものを学ぼうとします。イメージもそのひとつです。人は学ぼうとする時にまず「こうなりたい!」と思うはずです。そして何から学ぼうと考えるわけですが、そこである一つの作業をついつい抜いてしまいます。それは「〜を知らなかった。」と思う作業です。知らなかったのだから学ぼうとしてるのではないか、と感じるかもしれませんがこの作業は知らなかった事を知るという事で、これを認知する事でよりその目的に近づく手段が見えてくるのです。 太陽の光が降り注ぐ昼下がり、この家族の光景を目の当たりにした時、私はそこにある鮮やかな色を敢えて消したくなる衝動にかられました。この段階ではまだイメージではないですが、そう感じた自分の頭の中をさらに掘っていくと、それはモノクロ写真であり「線で表現したい」という言葉が出てきました。そこで飛ばせる部分は飛ばし残すべき線だけを残すよう設定を変えていきました。私の衝動の先にあったものは水墨画のようなイメージでした。 以前にもこれと同じ衝動を感じた時、「衝動のその先を知らなかった」私はもどかしい感覚を覚えました。ここからここまでを知っていて、ここからここまでを知らない、と感じ自分自身に認めさせる事。これが本当の意味での「学ぶ事のはじまり」なのではないかと私は考えます。
『 のり弁の法則 2 』
2015/2/28
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Koshigaya Photo by M. Kuroki Codi by Kawano ライフスタジオの「魅力」って何でしょうか? まず、この「魅力」という言葉についてですが。この言葉の使い方としてまず思いつくのが「あの人は魅力的な人だねぇ」とか「魅力的な笑顔だね」という時などでしょうか。魅力とは「人の心をひきつけて夢中にさせる力。」と辞書には載っています。では、その人の魅力というのはどのようにして表れるのでしょうか?おそらく、生まれつきというのもあるだろうし、その人が生きてきた環境での経験の蓄積なのか?はっきりとは分かりません。 それでは『ライフスタジオの魅力』とは何でしょう?そしてその魅力は一体何から生まれているのでしょう? 日々、多くのご家族、子ども達に訪れていただき私たちは毎日写真を撮らせていただいています。そんなライフスタジオの魅力を上げていくとするならば、「自然な写真」や「可愛いインテリア」などが上げられるでしょう。では、そのインテリアや写真などは人が作るものなのでそれらが作られた瞬間に魅力というものが表れるのでしょうか?私はそれだけでは無いと感じます。なぜならこの魅力を引き出している力というものには必ず「見えない意識の集合体」が関係していると思うからです。その意識とは。何なのか?それは今の自分自身の中にもはっきりと存在しています。ここで一旦「のり弁の法則」というタイトルの話になりますが、このタイトルで私は以前に写真を上げた事があります。タイトルはふざけて聞こえますがこのタイトルの意味はこうです。のり弁とは皆さんもご存知の「のり弁当」です。その弁当の中にはご飯に海苔が敷き詰められメインのおかずがのっています。被写体をメインとし、背景を海苔が敷き詰められたご飯とすると、その背景を敷き詰められた海苔のように整理しなければ被写体は生きてこず、逆に整理されてこそ初めて被写体は生きてくるのであるというものでした。 ここから徐々に「魅力」の話に戻します。今回、この写真の背景にあたるものは白いご飯のような白背景。そこにメインの被写体である子ども達が座っています。私は二十歳の頃から十数年をTVコマーシャルの撮影現場で過ごしました。勿論、ホリゾントと呼ばれる白背景でのスチール撮影もありました。しかし当時はこの白背景の撮影にはあまり魅力を感じませんでしたが今はこの白背景にとても魅力を感じます。なぜならこの白いキャンパスに自ら絵を描くかのような感覚になるからです。それはまるで白いご飯の上の海苔やおかずのように。 こういった面白さが私の言う「意識」のひとつであり、ライフスタジオにはそんな色々な発想を持ったカメラマンそしてコーディネーターがたくさんいます。そういった意識の集合体がライフスタジオの魅力なのではないでしょうか。なぜなら「集合体の中での魅力というのは一人の魅力にして成らず」なのですから。 本当に「魅力のあるもの」は替えが利かない意識の集合体なのです。
一瞬が一生へ
2015/2/28
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Codi by KaoriPhoto by ManamiLife studio Yokohama Aobaこの写真を見る度に私はいつも微笑んでしまいます。パパとママの幸せそうな表情に子どもの楽しそうな笑顔。もちろんどんな写真でも被写体を写している以上カメラは存在していますが、この写真をモノクロにしたのはこの家族の幸せの瞬間を誰もみていないけれど誰かが垣間見ている。そんな空気を作りたかったからです。私はこの瞬間を撮影しましたが、この写真をみる度に客観的に幸せな瞬間を覗かせてもらった気分になるから微笑んでしまうのだと思います。 家の中に日々撮影された写真はきっと沢山あるけれど、その中に一体何枚くらい家族の写真があるだろう。生まれたばかりの子どもも当たり前に毎日成長していずれ大人になります。成長していく過程では思春期があったりして私もつい言葉がすぎてしまい親とケンカしてしまう事も多々ありました。でもそんな時に私はおばあちゃんから貰った自分の親が子どもの時に撮影した家族写真と自分が小さかった時の家族写真をよく見ていました。私は両親から生まれてきた子どもだけど、両親にも親がいて子どもの時があったんだなってことが当たり前のことだけど不思議で自分の小さい時の家族写真を見るとここまでしっかり育ててもらって私は何を小さなことで怒っていたんだと素に戻ったりすることもあって私にとって家族の写真は自分を振り返らせてくれるのにとても大切なものでした。動画じゃないから写真を見ても言葉は聞こえないし、その時何を言っていたかは思い出すことは出来ないでしょう。でもその代わりに写真はその時、その瞬間の表情や仕草を鮮明に残してくれます。1歳の赤ちゃんはほんの1年前までお母さんのお腹の中にいました。パパとママはお腹の中の子に会えるのを沢山の想いで待っていたと思います。お腹の中にいた赤ちゃんが1年でどんどん大きくなり、パパとママと楽しさの感覚をだんだん共有できるようになっていきます。家族だからただ楽しいだけじゃなくて悲しいこと、つらいこと、さびしいこと色々な事を一緒に共有していくでしょう。だからこれから家族が一緒に過ごす大切な時間の中のほんの一瞬を写真で切り取って切り取った一瞬を将来みた時に、自分が愛されて育まれている存在だという事を思い出してもらえたら嬉しいです。人生は山があり、谷があり、中々一筋縄ではいきません。つらくて悲しくて投げ出して逃げ出したくなることも沢山です。でもそんな中でも幸せな時間がある事を忘れないでいたいと私は思います。
だからこそ、問いかけ続ける
2015/2/28
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Photo by Ta-na- Code by Volvo LIFE studio Koshigaya 家族写真を撮影するにあたって、私たちは何を一番意識をしているのでしょうか?10人のカメラマンが存在したら10通りの「家族写真とは~である」という哲学が帰ってくると思います。ですが、共通点は何か?と考えた時に多く出てくる単語があります。それは「愛」という単語です。「愛」とは、とても抽象的な言葉です。この「愛」という言葉も10人いたら10通りの愛の形があります。この「愛」という言葉は、限りなく無限でありなかなか「愛とは~である」と断言することは出来ません。理由はとても簡単です。「愛」の形は人それぞれだからです。なぜ、私たちは「この瞬間を形に残しておきたい」そう強く思うのでしょうか?この問いかけに対しての答えに共通していることの中にも「愛」という言葉が多く含まれています。「愛していたという記憶を形に残したい」「愛されていたという記憶を形に残したい」愛とは、抽象的な概念です。果たして、「形に残すこと」は出来るものなのでしょうか? 「あなたにとって「愛」とは何ですか?」この質問に対して、私たちはあまりにも「なにそんな恥ずかしいことを聞くのさ?」と俯き黙り込んでしまうことが多くあります。この質問に対して「話をしても皆それぞれ違う考え方をしているから話しをしても無駄だ」と、伝えることに対して抵抗を感じる人もいると思います。 確かに、全てを分りあえる事は難しいかもしれません。確かに、話をしたところでもしかしたらすれ違い互いに傷ついたと感じ、話をすることにたいしての恐怖心を感じる瞬間もあるかもしれません。 でも、だからこそ、私たちはきっと「知ること」をあきらめてはいけないのだと思います。「分かり合えない」だからこそ、「知りたい」と感じ、「知ってもらいたい」と心の奥では望んでいる。私はそうです。 目の前のあなたを知ろうと一歩踏み出すこと。きっと、それがライフスタジオの「日本の写真文化を変える」ということの重大なワードなのだと思います。撮影のためのインテリアを変えることだけではなく、撮影のための小物を変えることだけではなく、レンズを換えることだけではなく、撮影のシステムや予約のシステムだけを変えることだけではなく、価格を安くすることではなく。私達の挑戦は、私という人を知ること。そして目の前の被写体に対して「私はこう思うんだ」という強い想いを提案していく事。そして、「人」と「愛」というなかなか答えを導き出すことが出来ない「永遠の主題」に対して、「知りたい」と自分自身から歩み寄ることだと思います。 家族写真を残すこと。私の理由は「私」という存在を知るために必要な記録を残すためです。 答えなんて必要ない。考えてみても分らない、そういうことも沢山あります。 だけど、だからこそ、私たちは写真を通じて問いかけ続けなければならない。「家族」とは何か。「人」とは何か。そして「愛」とは何かということを。
だから、わたしは
2015/2/28
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赤ちゃんを抱っこする、パパとママの表情を見るのが好きだ。 多分パパは、家でこんなママの表情を、何度も何度も目にしている。ママもきっと、支えてくれるパパの温かさを、いつも感じている。でも、ふたりだけだと、それを残すことができない。だから、客観的な第三者として、私はこの家族の中に、お邪魔する。いつも見ているその世界を、感じている温かさを、一枚の写真に残す為に。 写真を撮りたいと思う理由が、感情的だ。特に、新横浜店でたくさんのBabyを撮りながら、その傾向は強くなった。カメラマンとして、それではいけないと思う反面、それで良いとも思っている。感情移入できることが、自分が撮影をする時に、重要なことだと知っているから。感情移入をすることで、入っていく。共感から、私の撮影は始まる。赤ちゃんが可愛いと思う、その気持ちから入っていって、できる限り、パパやママの見ている世界に近いものを、写真に残したい。その反面、パパやママが自分たちでは見えていない、その姿も残したい。ただただ、変化してゆく過程の今を、この瞬間を、できるだけ美しく、愛おしく、残しておきたいだけだ。数年後、数十年後に写真を見返した時に、思い出して微笑んで欲しい。ぷっくり膨らんだほっぺたや、富士山の形になっちゃう唇や、俗に輪ゴムと呼ばれる手足のお肉の段差を。小さな手も爪も、足も、おむつのお尻も、ミルクの匂いも。そして、その時の、あなたたちの姿を。だから私は、写真を撮る。 撮影が終わって、労いの高い高いとともに、ママの腕に抱かれた赤ちゃんは、私たちを見ていた。ここが私の場所なんだと言わんばかりに。そんな彼女を、全身で受容するパパママの表情が、この撮影において、私がこの家族の中にちょっとだけお邪魔させてもらえたことを、教えてくれた。撮影中のたくさんの笑顔は、コーディネーターが彼女に干渉してくれて生まれたが、最後に自分がいちばん落ち着くそこに帰った彼女には、干渉することは必要ない。私にこのシャッターチャンスを残してくれた、コーディネーターに感謝している。 側にいても、空気を損なわないでいられる存在になれたのなら、こんなに嬉しいことはない。後は、集中してシャッターを切るだけ。私がカメラを通して切り取ったこの写真が、パパやママの記憶を美しく焼き付けた一場面であれば良い。数十年後に、この写真を見て、温かな気持ちになれる時間の為に。だから、わたしは、写真を撮る。 Life Studio No,17Shinyokohamaphoto by Reiri / Coodi by Mai Kobayashi
琴線に触れる
2015/2/28
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Photographer:NishiCoordinaite:Volvo今の越谷店にはカメラマンの数も多いため、様々な写真が存在しています。表現方法も各自多彩でが、自分が吸収できるものばかりです。撮影者は一定の時期が経つと自分の写真が変化しない安定期がきます。それを外から壊してくれるような刺激は新鮮です。 最近はいい写真の基準は何か?という議論や声が各地で頻繁に聞こえてくるような印象を受けます。写真というものに対して撮影者達の熱い動きを感じとることができるという見方もできますし、Lifestudioの写真が全体的安定期に入り、各自新しい何かを探しているという見方もできます。勿論どちらも同時に行われていると思います。 光が良ければいいのか、バランスが良ければいいのか、衣装が良ければいいのか…、どの項目に基準を置いても、そのまた良い理由を説明しなければいけません。なぜその光が良いと思ったのか、その時の光の質がこうで、光の強さがこうで…。問い詰めていけばいくほど、言葉遊びのようになり、自分でも分からなくなるときがきます。私の場合はそうです。だとすれば何が良いのでしょうか… 人の写真を残すためには、一旦自分の中に被写体が入らなければいけません。勿論、物理的な意味ではありません。撮影者がシャッターを押す理由というのがカメラを使ってその瞬間の被写体を自分に取り込んでいる行為であって、取り込もうと思った理由というのは自分の感情がよく働いたからだと思います。もしかしたら0.1秒前の被写体の表情や姿が自分の感情が反応しなかったかもしれません。全てに反応していればビデオカメラが必要になります。当然のことなのですが。そして、いい写真を選ぶときも自分の感情からスタートします。自分の感情が作用し、数あるなかから一枚を決定しています。自分が撮ったものでなくてもそれは一緒です。だから重要なのがその感情を整理することなのだと思います。 私がいつも思うことは、自分だけがつくる枠に被写体を閉じ込めたくはないということです。しかしそうはいっても最終的には自分の枠で被写体を写します。この撮影を始めながら被写体の美しい姿というのは何度も確認することができました。そして、徐々に被写体が緊張から解放され普段の自分が現れます。その過程というのは、まだ見えない被写体の美しさを発見できる過程でもあります。はしゃぎながら、おどけながら、常に笑う健康的な姿が、私が見た彼女でした。しかし、そうではない彼女を探すことが、自分が彼女にしたいことの一つでもありました。 人にはその人だけが持つ特徴的な表情があります。その特徴的な表情こそが、被写体の固有の美しさの一つであると私は認識しています。常に笑顔に溢れている彼女だけを見ていれば、全ての物事を見抜くことができるような鋭い眼差しを持つ知性的な彼女の美しい姿を見落とす可能性がありました。美しさというものは自分の感情を高ぶらせてくれる刺激物です。 美しさを発見することは、被写体の喜びであると同時に、自分の喜びでもあります。共に同じような感情を持つことができることが本望であり、それが、私が写真を撮る理由になります。
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