フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
子供と瞳。
投稿日:2015/5/31
1117 0
photo:gomei
codi:Suzuki
Koshigaya photo 2015.04.18
人の強さとは何であるのか。
私達は映画館で映画を鑑賞した際、目の前の大きなスクリーンには120分の間に何百、何千という人を映画を通してみます。
数多くのシーンを見てゆく中で、毎カットごとに登場人物を認識します。
上から撮ったり、下から撮ったり、遠めで写っていたり、大きく写っていたり、アクションシーンだったり、ドラマのシーンだったりと様々。
いかなるシーンであっても視野を通し人を認識する際は、無意識のうちに人の目線は人の目に集まるのです。
人の顔を観た時に、私達は感情を読み取ります。
人の様々な表情から喜怒哀楽の心情を読み取ります。
その心情にも因果関係があり、特に映画のクライマックスにおいてはそれまでの過程を回想しながら見ることで、人は感動をし涙を流すことがあります。
殆どの大人は子供を見た際に可愛いといいます。
小さな子供を見れば見るほどに、まるでそれが当然の反応の様に可愛いと甲高い声援にも聞こえる声を幾人もの人が声あげます。
大人は何らかの基準を一人一人が持ち合わせ、その基準から子供を可愛いものだと感じます。
恐らく子供だから可愛いという基準のもと私達はその子供を可愛い人だと認識するのではないだろうか。
子供だから可愛いものであるという認識は現実に多くの人が感じることであるのだが、その子供の何が可愛いものかということに関しては、一人一人異なるものです。
そもそも子供は可愛いという認識自体が、大人の一方的な主観的目線であり、一人一人の異なる特徴には無頓着なほどに見られることは無い。
つまりは子供という条件があることによって、一人一人の心の内は大人には伝わりづらいということです。
口で言えばいいじゃないかと言われてしまいそうですね、確かにごもっともです。
しかし私達大人も口で言えないときが殆どではないのではないでしょうか。
仕事場では仕事の文句は言いづらいものですし、家庭の愚痴は中々家庭では言いづらいものです。
自身の意見を言いやすい環境でなくては、誰もが言いたいことを言いたいだけ口にするのは難しいものですよね。
意外にも子供は成長と共に親や色々な人の顔を伺いながら自分の意見を言うようになります。
私自身も小さな頃は、親の顔を伺いながら過ごした時もあります。
目は口ほどに物を言う。
何かを思いながら、口にするのは難しく言わないにしても、全てを隠し通す程上手に作られたものではありません。
このような言葉がある様に、心情は目に集まり表現をします。
その目の色を感じ、心情を読み取ります。
しかし、その認識こそも主観ではないのだろうか。
人の心には因果関係がある様に、心は流動的です。
人は些細な出来事に感動したり、傷ついたり、怒ったりします。
断片的な一時の表情や仕草を見ただけでは、人をどの様な人であるのかと判断することは出来ません。
しかし私たちはその断片的な姿からしか、その人を暫定的に認識することしかできないのです。
この写真も顔の半分はウインクをしているのかもしれないし、ふざけた表情をしているかもしれません。
何せこの写真には写っていないのですから。
その場で起こっている現象のみでは判断はできないが、現象からしか判断を行えないというジレンマが撮影者を苦しめます。
しかし少し考えを変えてみると、目から現れる感情は、口ほどに物を言うのであり、その瞬間瞬間ではその気持ちこそが真実ではないのではないだろうか。
瞳から発される言葉こそが素直なのかもしれません。
私達撮影者も動きと共に流動的に動くことが必要です。
そうすると子供は可愛いものであるという条件が次第に崩れ始め、新たな条件を作ることができます。
そんな時こそ自身の作り出した条件に縛られず、子供を見つめ直すいい機会ではないのだろうか。
codi:Suzuki
Koshigaya photo 2015.04.18
人の強さとは何であるのか。
私達は映画館で映画を鑑賞した際、目の前の大きなスクリーンには120分の間に何百、何千という人を映画を通してみます。
数多くのシーンを見てゆく中で、毎カットごとに登場人物を認識します。
上から撮ったり、下から撮ったり、遠めで写っていたり、大きく写っていたり、アクションシーンだったり、ドラマのシーンだったりと様々。
いかなるシーンであっても視野を通し人を認識する際は、無意識のうちに人の目線は人の目に集まるのです。
人の顔を観た時に、私達は感情を読み取ります。
人の様々な表情から喜怒哀楽の心情を読み取ります。
その心情にも因果関係があり、特に映画のクライマックスにおいてはそれまでの過程を回想しながら見ることで、人は感動をし涙を流すことがあります。
殆どの大人は子供を見た際に可愛いといいます。
小さな子供を見れば見るほどに、まるでそれが当然の反応の様に可愛いと甲高い声援にも聞こえる声を幾人もの人が声あげます。
大人は何らかの基準を一人一人が持ち合わせ、その基準から子供を可愛いものだと感じます。
恐らく子供だから可愛いという基準のもと私達はその子供を可愛い人だと認識するのではないだろうか。
子供だから可愛いものであるという認識は現実に多くの人が感じることであるのだが、その子供の何が可愛いものかということに関しては、一人一人異なるものです。
そもそも子供は可愛いという認識自体が、大人の一方的な主観的目線であり、一人一人の異なる特徴には無頓着なほどに見られることは無い。
つまりは子供という条件があることによって、一人一人の心の内は大人には伝わりづらいということです。
口で言えばいいじゃないかと言われてしまいそうですね、確かにごもっともです。
しかし私達大人も口で言えないときが殆どではないのではないでしょうか。
仕事場では仕事の文句は言いづらいものですし、家庭の愚痴は中々家庭では言いづらいものです。
自身の意見を言いやすい環境でなくては、誰もが言いたいことを言いたいだけ口にするのは難しいものですよね。
意外にも子供は成長と共に親や色々な人の顔を伺いながら自分の意見を言うようになります。
私自身も小さな頃は、親の顔を伺いながら過ごした時もあります。
目は口ほどに物を言う。
何かを思いながら、口にするのは難しく言わないにしても、全てを隠し通す程上手に作られたものではありません。
このような言葉がある様に、心情は目に集まり表現をします。
その目の色を感じ、心情を読み取ります。
しかし、その認識こそも主観ではないのだろうか。
人の心には因果関係がある様に、心は流動的です。
人は些細な出来事に感動したり、傷ついたり、怒ったりします。
断片的な一時の表情や仕草を見ただけでは、人をどの様な人であるのかと判断することは出来ません。
しかし私たちはその断片的な姿からしか、その人を暫定的に認識することしかできないのです。
この写真も顔の半分はウインクをしているのかもしれないし、ふざけた表情をしているかもしれません。
何せこの写真には写っていないのですから。
その場で起こっている現象のみでは判断はできないが、現象からしか判断を行えないというジレンマが撮影者を苦しめます。
しかし少し考えを変えてみると、目から現れる感情は、口ほどに物を言うのであり、その瞬間瞬間ではその気持ちこそが真実ではないのではないだろうか。
瞳から発される言葉こそが素直なのかもしれません。
私達撮影者も動きと共に流動的に動くことが必要です。
そうすると子供は可愛いものであるという条件が次第に崩れ始め、新たな条件を作ることができます。
そんな時こそ自身の作り出した条件に縛られず、子供を見つめ直すいい機会ではないのだろうか。
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