フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

『ID』

投稿日:2015/6/7

1262 6


Photographer:Volvo
Coordinaite:Ta-na-
 
Lifestudio No.5, Koshigaya
 
 
写真が二次元的なただ一枚の紙であったとしても、写真が人に愛され残していきたいと
言われる理由はその一枚から発せられる思いの量:「深み」があるからだと思います。
 
 
単純に「思い出を記録する」といってもその内容や深さは様々で、深みとは様々な
ベクトルに伸びています。
例えば被写体の「生」を語る上での人生の一部としての深みです。
人生が絶え間ない「動」の連続であるなら、写真は連続した「動」の中の一瞬です。
人生の一瞬を切り取ったとも言える写真という物質によって確認ができるのは
ただ単純に写っている「事実」だけではなく、写っているその一瞬の前後にある
「過程」が想像される事でその写真からにじみ出るものが「価値」として深みを
出し、それが多ければ多いほどその写真は深みを増してゆきます。
 
それは「時間」と言い換えることもできます。
このスタジオで私たち撮影者と過ごした時間が、作り上げた関係性の深さによって
写真に表現され、それはポーズや表情、原本の質となって現れます。
 
別の視点から写真の深みについて見てみると、写真に写っている「事実」そのものから
見ているものに想像をかきたてるという意味での「深み」を感じることもできます。
「目」が写っていないことによって表情を想像させ、手と口と頬の感じによって
何を思っているかを想像させ、光と構図によって全体的なイメージを想像させます。
 
撮影者の視点からも写真の深みを見ることができます。
今回のこの写真において私が説明できるのは、私が私である為に
この写真を撮ったということです。
「私たちは表現者でありながら写真館の人間である」という先の言葉通り
私たちは責任と権限の間でバランスをとりながらいつも撮影をしています。
このどちらに偏ったとしても互いに人生を豊かにすることはできません。
撮影者が人間であるということは、撮影者にも同様にこの一瞬を切り取った
写真の前後に「過程」があり、この一枚を作り出すための様々な行為が写真に詰め込まれています。
 
写真とは感情的なものです。
写真は写り手の状態によっても変わるし、撮り手の状態によっても変わっていきます。
日々の撮影を全力で行いながらも、自分を見失いがちになる瞬間があります。
それは先述したバランスが崩れた時に発生します。
そうならないために、私の写真は私が撮ったと言えるものである事が「深み」のひとつとして写真には現れる必要があります。。
 
 
写っている被写体の「深み」を表現することによって写真が彼女の「存在証明」となり、写真へ撮影者自身のスパイスを投入することが撮影者自身=私の「存在証明」となります。
思いの量の集合である「深み」によって「私とあなた」の存在証明書となり一生残っていくのが二次元的なただ一枚の写真なのだと思います。

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