フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
愛するということ
投稿日:2015/12/31
893 2
Photographer:Ta-na-
Coordinaite:volvo
Lifestudio:Urayasu
愛を知るということ事態、正直普通に生きていけばつまり、人と接触してさえいれば普通に そしてごく自然に「愛」という概念を知る事が出来ると考えていました。
愛するという事。愛されるという事。とは、どういうことでしょうか?
これらの主題を提示された瞬間、ごく当たり前に知っていると考えていた私から出てきた言葉は 何一つありませんでした。 愛するという事。愛されるという事。
これらは、当たり前のような存在であるようで、実は「在り難い」存在だということに気づかされたのは、 ライフスタジオという現場で「家族写真」を撮影し始めてからの出来事でした。
この問題を感じる事が出来なければ、私は単純にお客様が求めている「自然な家族写真」を撮影することは出来ない、
そう常に感じ、瞬間「家族写真」を撮影するという事に対して少し苦手意識を持ち始めてしまった時期がありました。
カウンセリングの際に「家族写真は撮影しなくても大丈夫です」と仰るご家族様のご要望をそのまま、承っていました。
家族から愛されること。家族を自分が愛するということ。
これらの難題に対してある本を読み返したときに気づかされたことがありました。
エーリッヒフロム著書「愛するということ」には、私の悩みに対してこの本はこう記していました。
「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。」
生きるということと同じく、愛するという行為技術が必要だということを少しずつ痛感し始めた私は自身を撮影を 通してそして日々の生き方に対して振り返るようになりました。 この作業はとても苦しい作業でした。
なぜなら、「私」という人間は、私が考えていた以上に情けなくて頼りなくてそして小さい存在だという事を 認めなければ始まらない作業だったからです。 私は「愛される」という事に対してとても貪欲でした。
人からの評価が私の生き甲斐だと感じていた時期もありました。 ですが、愛されることを追い求めているだけでは、やはり「愛」をなかなか感じる事は出来ませんでした。
愛を知るには自分から「愛する」という行為を行う事が必要であるという結論にたどり着いたのも今思えば この頃だったように感じます。
では、どのように「愛する」事を私は始めるのか?
それは、とてもとてもシンプルな答えではありましたが「あなたの事を知りたい」と相手に対して歩み寄ること、 相手の声に耳を傾けるということでした。
つまり、自身から相手から「あなたのことが大切ですよ」と言われてから 「私もです」と応える事ではなく、「私はあなたの事が大切です。あなたの事が好きです。」と自身から相手に伝える という行為を行う事でした。
今までこれらの行為も自然に行ってきたつもりでした。 ですが、家族写真を撮影するという事に対しての難問をなかなか導き出せない自分の姿がその時の答えでした。
「あなたの事が好きです。」という自身からなかなか歩み寄ることが出来なかったのにも理由があることを痛感しました。
それは、相手から「私はそうではない」と相手から拒絶をされてしまうのではないだろうか?という恐怖心が常に存在していたからです。
それでは撮影をする際に相手に対して私は何一つ、提案をすることが出来ない。
相手の人生を知ることは到底出来ないだろうし、互いの心を動かすことは出来ないだろう。
それが出来なければ、私は「ライフスタジオ」で働くことも出来ないだろうし、 この先何一つ「真実」も「愛」というものも映し出すことは出来ないだろう。そう考えました。
自分から「愛する」という事。 それは、自分から「相手を知ろう」と歩み寄る事。
それは、相手の声に耳を澄ますということ。
そうでなければ、いくら自身の「私なりの哲学」が存在していたとしても、映し出されるものは「自身の想い」 だけでしかないのです。 相手を知り。相手の声を聞き。それだけを形に表現することではなく。
私達の仕事はそれらを行った上で、目の前の相手を本当に愛しながら撮影を行う事であると一つの確信のような 何かを感じ始めています。
「自然な家族写真」の要素は「共に自然体である」事が前提であり、自然体になれるための条件や環境があるとすれば、 その現場には必ず「愛」があると私は想います。
Coordinaite:volvo
Lifestudio:Urayasu
愛を知るということ事態、正直普通に生きていけばつまり、人と接触してさえいれば普通に そしてごく自然に「愛」という概念を知る事が出来ると考えていました。
愛するという事。愛されるという事。とは、どういうことでしょうか?
これらの主題を提示された瞬間、ごく当たり前に知っていると考えていた私から出てきた言葉は 何一つありませんでした。 愛するという事。愛されるという事。
これらは、当たり前のような存在であるようで、実は「在り難い」存在だということに気づかされたのは、 ライフスタジオという現場で「家族写真」を撮影し始めてからの出来事でした。
この問題を感じる事が出来なければ、私は単純にお客様が求めている「自然な家族写真」を撮影することは出来ない、
そう常に感じ、瞬間「家族写真」を撮影するという事に対して少し苦手意識を持ち始めてしまった時期がありました。
カウンセリングの際に「家族写真は撮影しなくても大丈夫です」と仰るご家族様のご要望をそのまま、承っていました。
家族から愛されること。家族を自分が愛するということ。
これらの難題に対してある本を読み返したときに気づかされたことがありました。
エーリッヒフロム著書「愛するということ」には、私の悩みに対してこの本はこう記していました。
「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。」
生きるということと同じく、愛するという行為技術が必要だということを少しずつ痛感し始めた私は自身を撮影を 通してそして日々の生き方に対して振り返るようになりました。 この作業はとても苦しい作業でした。
なぜなら、「私」という人間は、私が考えていた以上に情けなくて頼りなくてそして小さい存在だという事を 認めなければ始まらない作業だったからです。 私は「愛される」という事に対してとても貪欲でした。
人からの評価が私の生き甲斐だと感じていた時期もありました。 ですが、愛されることを追い求めているだけでは、やはり「愛」をなかなか感じる事は出来ませんでした。
愛を知るには自分から「愛する」という行為を行う事が必要であるという結論にたどり着いたのも今思えば この頃だったように感じます。
では、どのように「愛する」事を私は始めるのか?
それは、とてもとてもシンプルな答えではありましたが「あなたの事を知りたい」と相手に対して歩み寄ること、 相手の声に耳を傾けるということでした。
つまり、自身から相手から「あなたのことが大切ですよ」と言われてから 「私もです」と応える事ではなく、「私はあなたの事が大切です。あなたの事が好きです。」と自身から相手に伝える という行為を行う事でした。
今までこれらの行為も自然に行ってきたつもりでした。 ですが、家族写真を撮影するという事に対しての難問をなかなか導き出せない自分の姿がその時の答えでした。
「あなたの事が好きです。」という自身からなかなか歩み寄ることが出来なかったのにも理由があることを痛感しました。
それは、相手から「私はそうではない」と相手から拒絶をされてしまうのではないだろうか?という恐怖心が常に存在していたからです。
それでは撮影をする際に相手に対して私は何一つ、提案をすることが出来ない。
相手の人生を知ることは到底出来ないだろうし、互いの心を動かすことは出来ないだろう。
それが出来なければ、私は「ライフスタジオ」で働くことも出来ないだろうし、 この先何一つ「真実」も「愛」というものも映し出すことは出来ないだろう。そう考えました。
自分から「愛する」という事。 それは、自分から「相手を知ろう」と歩み寄る事。
それは、相手の声に耳を澄ますということ。
そうでなければ、いくら自身の「私なりの哲学」が存在していたとしても、映し出されるものは「自身の想い」 だけでしかないのです。 相手を知り。相手の声を聞き。それだけを形に表現することではなく。
私達の仕事はそれらを行った上で、目の前の相手を本当に愛しながら撮影を行う事であると一つの確信のような 何かを感じ始めています。
「自然な家族写真」の要素は「共に自然体である」事が前提であり、自然体になれるための条件や環境があるとすれば、 その現場には必ず「愛」があると私は想います。
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