フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
時と時の狭間、人と人との間
投稿日:2015/11/30
1406 2
Shinyokohama Photo
Photo by Kudo / Cordi by Shie
大人になってから、私たちはどのくらい「自分」という「人」を知っているのでしょうか。
大人になってから、私たちはどのくらい「自分」という「人」の存在を自ら認められているのでしょうか。
大人になればなるほど、周りとの摩擦で焼け付くことが怖くて、
傷つくことが怖くて、自分という「人」を他人の枠の中に入れて考えてしまいがちです。
だから、自分という「人」を相手に合わせて「作る」ようになってしまう。
だけど、どんなに他人に合わせて自分を作りこんでいても、
「人」と「人」のやりとりとの間には、その「時々」に滲み出る、「自分」という「人」の存在があります。
滲み出るものは、「癖」なのかもしれないし、「言葉づかい」かもしれない。
「表情」かもしれないし、「動作」かもしれない。
どんなに作りこんでいても、「自分」の存在は、他の誰でもなく唯一つであり、誰かの枠に当てはまるものでもないのです。
それは自分が一番よく知っていることだから、自分の存在は誰にも隠すことはできません。
それは、他者を見る眼差しも同じです。
自分の存在を認めるということで初めて、本当の意味で他者を認めるということになるのではないかと、私は思います。
自分を見つめる眼差しは、そのまま世界を見つめる眼差しとなり、すなわち他者を見つめる眼差しとなるからです。
他者を認めるということは、「その人」の存在を自分の枠に入れず、「その人」として見つめること。
それが「その人」の枠を認めることになります。
その人の「枠」とは、その人の「人生観」でもあるし、「価値観」でもあるし、「世界観」でもあります。
それらを総合して「その人の存在」そのものです。
「その人」という存在が顕れるのは、その人が動き、話す、その「時と時の狭間」であり、
その人が接している「人と人との間」でしかなく、その「瞬間」、その「人」にこそ、「存在」をしているという事実があります。
そのことを認めるということが、「人に入る」ということになるのだと思います。
ライフスタジオで写真を撮るということは、「人に入る」ことであるとよく言われています。
「その人」にしかない美しさ、「その人」が生きている素晴らしさ、それはどの瞬間に顕れて、私たちとのどんなやりとりの中で見えるのか。
そして「その人」らしさとは、どのように写したらより善く表現できるのか、そんなことを考えながら、私は毎日撮影をしています。
だから、端から見ると突拍子もないことを言ってみたりだとか、わざわざ被写体に自ら何かをすることをお願いしたりだとか、
日常的な生活を連想させる会話をしたりだとか、たくさんの投げかけを行い、「その人」が顕れるのがいつなのか、
「その人」らしさとはなんなのかを探しながら、写真という形式に表現をしていきます。
「その人」らしさが顕れたときには、私という存在だけでは表現することができなかった
「その人」にしかない「力」を感じることができます。
その瞬間に、私自身の技術の中から「その人」らしさを表現するための方法を選択します。
「動き」と「光」、そして「力のある瞬間」から、
やや淡いモノクロームという描写を選択し、ぼかしの位置、フレーミングもこのように選択したのは、
「その人」が誰なのかを、私という撮影者の存在を通して、伝えたかったからにほかなりません。
このように、自分であれ、他者であれ、その人の存在は唯一無二のものでありますが、
その存在自体は、「時と時の狭間」に滲み出るものであり、それを認識するのは「人」であり、存在は「人と人が接した間」に顕れます。
だから、私たちは「人と時を過ごし」、「人に触れ」「人へ向かって何かを発する」のだと思います。
それが、「自分」と「他者」が存在する確固たる事実であり、「人」はそれを求め続けているのです。
写真を撮るということは「人」と一緒に時を過ごし、
「人と人との間」で価値を作り、「人生を営む」ということの縮図のようであるかのように私には思えます。
Photo by Kudo / Cordi by Shie
大人になってから、私たちはどのくらい「自分」という「人」を知っているのでしょうか。
大人になってから、私たちはどのくらい「自分」という「人」の存在を自ら認められているのでしょうか。
大人になればなるほど、周りとの摩擦で焼け付くことが怖くて、
傷つくことが怖くて、自分という「人」を他人の枠の中に入れて考えてしまいがちです。
だから、自分という「人」を相手に合わせて「作る」ようになってしまう。
だけど、どんなに他人に合わせて自分を作りこんでいても、
「人」と「人」のやりとりとの間には、その「時々」に滲み出る、「自分」という「人」の存在があります。
滲み出るものは、「癖」なのかもしれないし、「言葉づかい」かもしれない。
「表情」かもしれないし、「動作」かもしれない。
どんなに作りこんでいても、「自分」の存在は、他の誰でもなく唯一つであり、誰かの枠に当てはまるものでもないのです。
それは自分が一番よく知っていることだから、自分の存在は誰にも隠すことはできません。
それは、他者を見る眼差しも同じです。
自分の存在を認めるということで初めて、本当の意味で他者を認めるということになるのではないかと、私は思います。
自分を見つめる眼差しは、そのまま世界を見つめる眼差しとなり、すなわち他者を見つめる眼差しとなるからです。
他者を認めるということは、「その人」の存在を自分の枠に入れず、「その人」として見つめること。
それが「その人」の枠を認めることになります。
その人の「枠」とは、その人の「人生観」でもあるし、「価値観」でもあるし、「世界観」でもあります。
それらを総合して「その人の存在」そのものです。
「その人」という存在が顕れるのは、その人が動き、話す、その「時と時の狭間」であり、
その人が接している「人と人との間」でしかなく、その「瞬間」、その「人」にこそ、「存在」をしているという事実があります。
そのことを認めるということが、「人に入る」ということになるのだと思います。
ライフスタジオで写真を撮るということは、「人に入る」ことであるとよく言われています。
「その人」にしかない美しさ、「その人」が生きている素晴らしさ、それはどの瞬間に顕れて、私たちとのどんなやりとりの中で見えるのか。
そして「その人」らしさとは、どのように写したらより善く表現できるのか、そんなことを考えながら、私は毎日撮影をしています。
だから、端から見ると突拍子もないことを言ってみたりだとか、わざわざ被写体に自ら何かをすることをお願いしたりだとか、
日常的な生活を連想させる会話をしたりだとか、たくさんの投げかけを行い、「その人」が顕れるのがいつなのか、
「その人」らしさとはなんなのかを探しながら、写真という形式に表現をしていきます。
「その人」らしさが顕れたときには、私という存在だけでは表現することができなかった
「その人」にしかない「力」を感じることができます。
その瞬間に、私自身の技術の中から「その人」らしさを表現するための方法を選択します。
「動き」と「光」、そして「力のある瞬間」から、
やや淡いモノクロームという描写を選択し、ぼかしの位置、フレーミングもこのように選択したのは、
「その人」が誰なのかを、私という撮影者の存在を通して、伝えたかったからにほかなりません。
このように、自分であれ、他者であれ、その人の存在は唯一無二のものでありますが、
その存在自体は、「時と時の狭間」に滲み出るものであり、それを認識するのは「人」であり、存在は「人と人が接した間」に顕れます。
だから、私たちは「人と時を過ごし」、「人に触れ」「人へ向かって何かを発する」のだと思います。
それが、「自分」と「他者」が存在する確固たる事実であり、「人」はそれを求め続けているのです。
写真を撮るということは「人」と一緒に時を過ごし、
「人と人との間」で価値を作り、「人生を営む」ということの縮図のようであるかのように私には思えます。
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