フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
目に見える世界
投稿日:2016/1/28
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目に見える世界
Photo by Ta-na-
Coordinate by Oikawa
in Urayasu
私達は、写真を毎日撮影しています。
写真を撮影する為に「写真」や「カメラの構造」そして「技術」の話なども、もちろんしますが、
様々な視点から「写真を撮影するということ」に対してを考え模索する教育を今まで行ってきました。
私達は、「人」を毎日撮影しています。
「人」を撮影するという事についての教育の題材として私達は「哲学」を学ぶという事を行ってきました。
「哲学」を学ぶこと=「写真を撮影すること」=お客様が喜んでくれる
という方程式に最初はなかなかたどり着けなかった私ではありましたが、哲学を学ぶ意味の一つに、
「自身の哲学を持つこと」がこの場所では求められているということを感じる事が出来ました。
「あなたは、どんな写真が好きですか?」
という質問に対してのそれぞれの口から飛び出す「答え」の中に、それぞれの「哲学」が隠されていると
感じるようになってから、この場所で求められている写真は「綺麗な写真」ではなく「美しい写真」であると
いう事に気づきました。
「綺麗」さと「美しさ」は似ているようで異なる、と私は考えます。
見たままの綺麗さではなく、「美しさ」は「内面から引き出す」事で初めて表現することが出来ると私は考えています。
その「内面から引き出す」という事に全てではないかもしれませんが、「哲学」が必要とされるという事を常に感じながら
現場にいます。
自分の哲学を持つこと。
それは、自分の「意思」を持つこと。伝えること。
ですが、これが時に自身の足を不自由にしてしまう原因になる場合もあります。
それは、「~であるから、~でなければならない。」という自身の「美しさの定義」のみしか見えなくなってしまうと、
「~でなければ美しく表現することは出来ない」と考えてしまい、相手に対して新しい提案をすることや互いに新しい
発見をすることが出来なくなってしまうこともあるということも痛感しました。
「~を言ったら失礼だと思われてしまうかもしれない。」
「自分が相手の立場だったら今こんな事を提案したら恥ずかしくて少し嫌な気持ちになるかもしれない。」
時に、私自身もこのような思考に陥り自然と自身が信じる哲学だけに頼り、自身が知る光景のみを無意識に組み立て
作り上げた空間の中に相手を誘導してしまう事があります。
分かりやすく表現すると、時に「哲学」は自身の中での「固定概念」へ変化してしまい、それ以外の概念を受け入れることに対して拒否反応を起こしてしまうことがあるということでした。
そんな「固定概念」を崩すことが出来るのも、自分以外の「哲学」つまり、相手からの「投げかけ」なのですが・・・。
この撮影の際も、無意識に私はそんな自分の哲学に頼っていました。
私自身、ライフスタジオの持つ概念と自分自身の概念として一致している部分は数多くありますが、
「楽しみの空間」という概念を一番に考え撮影に臨んでいます。
(全部大切なんですけどね)
なので、その現場に存在している私を含む「人々」が「楽しく」なければ、この場所を選んでくれた意味がないと
考えていました。
「楽しませたい。」そのためには、まずは「自分が楽しむこと。」
これが、私の哲学です。
なので、「相手が楽しくないことはしたくない。」ので、「自分が自信がないことは提案することは出来ない」のでした。
いつも通り、この撮影もとっても楽しく撮影をしていました。
笑顔が絶えなくて、その場にいる皆の「楽しい」という温度を私なりにとても感じながら撮影をしていました。
撮影を終えようとした瞬間に、一緒に撮影を盛り上げてくれていたコーディネーターを担当してくれていた及川さんこと、
おいちゃんがこう私に言いました。
「ターナーさん!ひとつだけ、私の希望を聞いてもらえませんか?」
「なんだなんだ???」
すると、おいちゃんはパパとママの顔を見ながらこう提案を投げかけたのでした。
「せっかくなので、夫婦写真撮影しませんか?だって、本当に素敵な雰囲気なので。」
夫婦写真を撮影すること。私の中でかつて、自信を持って提案していたことの一つでした。
なぜなら、撮影をするにあたり一人だけが主役ではなく、「家族皆が主役」になれるような空間を作ることが私の中での「楽しい空間」の概念の一つであり、「皆で楽しむ」という哲学にちなんでいたからです。
ですが、私はいつの間にか、ここ最近「夫婦写真を撮影する」という提案を無意識に避けていました。
なぜなら、「断られてしまうのではなか?」という思い込みつまり、「夫婦写真はあまり皆、好んで撮影をしない」という
固定概念をとても数の少ないデータの中で生み出してしまい、「夫婦写真を撮影するのは、相手からの要望があったら
撮影をしよう」という結論に結び付けていたからでした。
久しぶりの夫婦写真を撮影するという提案。パパとママはどんな反応をするだろう?
少しだけ、ドキドキしながらおいちゃんに提案されたパパとママの答えを待っていると、お二人はすぐに笑顔になり
「いいんですか?!・・・それなら少しだけ撮影してもらおうか!」と答えてくれました。
撮影を進めながらも、最初からとても仲が良い雰囲気のお2人でしたが。さらにおいちゃんはお2人に声を投げかけます。
「そのまま良かったら、キスしちゃってもいいんですよ~(笑)」
なかなか、私の中では投げかける事が出来ずにいた声賭けでした(笑)
なぜなら、私が相手だったら恥ずかしすぎて、表情が少し曇るからです。
私の中での「哲学」と「固定概念」が一瞬で崩された瞬間、それが、おいちゃんの声賭けをきいた際に出た二人のこの
笑顔でした。
哲学を持つこと。それ自体、本当にとても大切なことです。
哲学を持つことが出来なければ、相手の考えを引き出すことも、相手に対して自身の想いを伝えることも出来ない、
そう感じています。ですが、その自分が「これが私の哲学である」と定義づけをしたものが、時に自身を不自由にして
しまう「固定概念」になってしまった時。
その概念を、崩して「私はこう思うよ」と投げかけてくれるのも、相手の持つ「哲学」であると気づかされました。
自分では気づくことが出来ない「潜在意識」に訴えてくれることは、相手からの提案つまり「哲学」や「人生論」なのだと
いうことを。
自分では見ることが出来なかった新しい景色や感情に触れた瞬間に、初めて私達は共に「感動」をするのであり、
「共感」をすることができるのだと。
2人の笑顔に心を打たれた私と、写真を見た後に口にしてくれたパパとママの「大満足です。本当に楽しくて最高でした。」の言葉も。撮影後の、おいちゃんの「夫婦写真、めちゃくちゃ雰囲気良かったですね!」の言葉が。
私自身も「感動」することが出来た体験となったのでした。
様々な、自身が持つ「哲学」を提示しあうことが出来る空間で生まれる写真に映し出されているものが、一人だけの
「人生の物語」ではなく、「それぞれの人生の物語」であるならば、私達が「人生の写真館」と名乗る理由の一つである
と再確認することが出来ました。
ライフスタジオ。直訳して「人生の写真館」。
一人では映し出すことが出来ない「美しさ」の要素は、互いの「哲学」を組み合わせることにあると私は考えます。
だからこそ、私達は常に「これで間違いない!」と定義付けをする為に学ぶのではなく、新しい「主観」という物語に
出会うために、日々学び続けることが求められてるのです。
この場所が、互いに自然体であることと同じように、互いの「哲学」という「生き方」を表現しあうことを心から楽しみ
合えるような場所であることを求め続けると同時に、作り続けて生きたいと感じました。
学ぶ事が、自身の中で「学びたい」に変化した時には、また自身の中で新たなる選択肢と新たなる表現方法が
増えているんだろうなあ。
おいちゃん、ありがとうございました(^^)
Photo by Ta-na-
Coordinate by Oikawa
in Urayasu
私達は、写真を毎日撮影しています。
写真を撮影する為に「写真」や「カメラの構造」そして「技術」の話なども、もちろんしますが、
様々な視点から「写真を撮影するということ」に対してを考え模索する教育を今まで行ってきました。
私達は、「人」を毎日撮影しています。
「人」を撮影するという事についての教育の題材として私達は「哲学」を学ぶという事を行ってきました。
「哲学」を学ぶこと=「写真を撮影すること」=お客様が喜んでくれる
という方程式に最初はなかなかたどり着けなかった私ではありましたが、哲学を学ぶ意味の一つに、
「自身の哲学を持つこと」がこの場所では求められているということを感じる事が出来ました。
「あなたは、どんな写真が好きですか?」
という質問に対してのそれぞれの口から飛び出す「答え」の中に、それぞれの「哲学」が隠されていると
感じるようになってから、この場所で求められている写真は「綺麗な写真」ではなく「美しい写真」であると
いう事に気づきました。
「綺麗」さと「美しさ」は似ているようで異なる、と私は考えます。
見たままの綺麗さではなく、「美しさ」は「内面から引き出す」事で初めて表現することが出来ると私は考えています。
その「内面から引き出す」という事に全てではないかもしれませんが、「哲学」が必要とされるという事を常に感じながら
現場にいます。
自分の哲学を持つこと。
それは、自分の「意思」を持つこと。伝えること。
ですが、これが時に自身の足を不自由にしてしまう原因になる場合もあります。
それは、「~であるから、~でなければならない。」という自身の「美しさの定義」のみしか見えなくなってしまうと、
「~でなければ美しく表現することは出来ない」と考えてしまい、相手に対して新しい提案をすることや互いに新しい
発見をすることが出来なくなってしまうこともあるということも痛感しました。
「~を言ったら失礼だと思われてしまうかもしれない。」
「自分が相手の立場だったら今こんな事を提案したら恥ずかしくて少し嫌な気持ちになるかもしれない。」
時に、私自身もこのような思考に陥り自然と自身が信じる哲学だけに頼り、自身が知る光景のみを無意識に組み立て
作り上げた空間の中に相手を誘導してしまう事があります。
分かりやすく表現すると、時に「哲学」は自身の中での「固定概念」へ変化してしまい、それ以外の概念を受け入れることに対して拒否反応を起こしてしまうことがあるということでした。
そんな「固定概念」を崩すことが出来るのも、自分以外の「哲学」つまり、相手からの「投げかけ」なのですが・・・。
この撮影の際も、無意識に私はそんな自分の哲学に頼っていました。
私自身、ライフスタジオの持つ概念と自分自身の概念として一致している部分は数多くありますが、
「楽しみの空間」という概念を一番に考え撮影に臨んでいます。
(全部大切なんですけどね)
なので、その現場に存在している私を含む「人々」が「楽しく」なければ、この場所を選んでくれた意味がないと
考えていました。
「楽しませたい。」そのためには、まずは「自分が楽しむこと。」
これが、私の哲学です。
なので、「相手が楽しくないことはしたくない。」ので、「自分が自信がないことは提案することは出来ない」のでした。
いつも通り、この撮影もとっても楽しく撮影をしていました。
笑顔が絶えなくて、その場にいる皆の「楽しい」という温度を私なりにとても感じながら撮影をしていました。
撮影を終えようとした瞬間に、一緒に撮影を盛り上げてくれていたコーディネーターを担当してくれていた及川さんこと、
おいちゃんがこう私に言いました。
「ターナーさん!ひとつだけ、私の希望を聞いてもらえませんか?」
「なんだなんだ???」
すると、おいちゃんはパパとママの顔を見ながらこう提案を投げかけたのでした。
「せっかくなので、夫婦写真撮影しませんか?だって、本当に素敵な雰囲気なので。」
夫婦写真を撮影すること。私の中でかつて、自信を持って提案していたことの一つでした。
なぜなら、撮影をするにあたり一人だけが主役ではなく、「家族皆が主役」になれるような空間を作ることが私の中での「楽しい空間」の概念の一つであり、「皆で楽しむ」という哲学にちなんでいたからです。
ですが、私はいつの間にか、ここ最近「夫婦写真を撮影する」という提案を無意識に避けていました。
なぜなら、「断られてしまうのではなか?」という思い込みつまり、「夫婦写真はあまり皆、好んで撮影をしない」という
固定概念をとても数の少ないデータの中で生み出してしまい、「夫婦写真を撮影するのは、相手からの要望があったら
撮影をしよう」という結論に結び付けていたからでした。
久しぶりの夫婦写真を撮影するという提案。パパとママはどんな反応をするだろう?
少しだけ、ドキドキしながらおいちゃんに提案されたパパとママの答えを待っていると、お二人はすぐに笑顔になり
「いいんですか?!・・・それなら少しだけ撮影してもらおうか!」と答えてくれました。
撮影を進めながらも、最初からとても仲が良い雰囲気のお2人でしたが。さらにおいちゃんはお2人に声を投げかけます。
「そのまま良かったら、キスしちゃってもいいんですよ~(笑)」
なかなか、私の中では投げかける事が出来ずにいた声賭けでした(笑)
なぜなら、私が相手だったら恥ずかしすぎて、表情が少し曇るからです。
私の中での「哲学」と「固定概念」が一瞬で崩された瞬間、それが、おいちゃんの声賭けをきいた際に出た二人のこの
笑顔でした。
哲学を持つこと。それ自体、本当にとても大切なことです。
哲学を持つことが出来なければ、相手の考えを引き出すことも、相手に対して自身の想いを伝えることも出来ない、
そう感じています。ですが、その自分が「これが私の哲学である」と定義づけをしたものが、時に自身を不自由にして
しまう「固定概念」になってしまった時。
その概念を、崩して「私はこう思うよ」と投げかけてくれるのも、相手の持つ「哲学」であると気づかされました。
自分では気づくことが出来ない「潜在意識」に訴えてくれることは、相手からの提案つまり「哲学」や「人生論」なのだと
いうことを。
自分では見ることが出来なかった新しい景色や感情に触れた瞬間に、初めて私達は共に「感動」をするのであり、
「共感」をすることができるのだと。
2人の笑顔に心を打たれた私と、写真を見た後に口にしてくれたパパとママの「大満足です。本当に楽しくて最高でした。」の言葉も。撮影後の、おいちゃんの「夫婦写真、めちゃくちゃ雰囲気良かったですね!」の言葉が。
私自身も「感動」することが出来た体験となったのでした。
様々な、自身が持つ「哲学」を提示しあうことが出来る空間で生まれる写真に映し出されているものが、一人だけの
「人生の物語」ではなく、「それぞれの人生の物語」であるならば、私達が「人生の写真館」と名乗る理由の一つである
と再確認することが出来ました。
ライフスタジオ。直訳して「人生の写真館」。
一人では映し出すことが出来ない「美しさ」の要素は、互いの「哲学」を組み合わせることにあると私は考えます。
だからこそ、私達は常に「これで間違いない!」と定義付けをする為に学ぶのではなく、新しい「主観」という物語に
出会うために、日々学び続けることが求められてるのです。
この場所が、互いに自然体であることと同じように、互いの「哲学」という「生き方」を表現しあうことを心から楽しみ
合えるような場所であることを求め続けると同時に、作り続けて生きたいと感じました。
学ぶ事が、自身の中で「学びたい」に変化した時には、また自身の中で新たなる選択肢と新たなる表現方法が
増えているんだろうなあ。
おいちゃん、ありがとうございました(^^)
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