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せかいと会話する。

投稿日:2016/3/31

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「人と会話をする」という当たり前の行為について、考えてみました。
会話というものは、相手がいるからこそできるものです。
ひとりで何かをつらつらと話しているのは、ひとり言や自問自答ということになるでしょう。

以前、何かの本で見たことがあります。
「会話は質問から成り立っているのだ」と。

「名前は何ですか?」
「お住まいはどこですか?」
「家族は何人いますか?」
「好きな色は何色ですか?」

会話は、こうした疑問符のついた文章の連続で成り立っていくのでしょう。
そして会話は、私と他者とのつながりになります。

私達が大切にしている「人と人とのつながり」は、こうした会話からも生まれていき繋がっていくのです。
だからこそ、スタジオに来てくれるお子さん達やパパママ、ご家族様との会話はとても大切なものなのです。

「○○ちゃんって言うの?お姉さんの名前は『みやちゃん』です」

そこからどんな会話を広げていこうかなと、撮影前に考えます。
ドキドキとわくわくと、ほんの少しの不安もあります。
誰もが知っているテレビ番組が好きな子がいれば、私が全く知らないことを知っている子もいます。
そんな様々な子達と同じ会話をするためには、私自身それ相応の努力をする必要があります。
お子さん達が好きなテレビ番組を見て、キャラクターやストーリーを覚えます。
撮影中にお子さん達が少しでも楽しんでくれるように、クイズを出します。
そして時々、わざと変なことを言ったりふざけたりして、少しでも「私」を好きになってもらえるように。

では、「会話」は言葉の通じる相手とではないとできないのでしょうか?
そんなことはないと思っています。

まだ言葉を発する前のベビー達とは、もちろん言葉を話せるお子さん達と同じような会話はできません。
彼らは言葉の代わりに、表情や声のトーン、泣くことによって私達と会話をしてくれます。
そこに完璧な意思疎通は出来ないのかもしれません。
私が「眠いのかな?」と思っていても、実はお腹が空いていたり、知らない人が怖くてぐずっているだけだということも考えられます。
それでも、そこには「なぜぐずっているのだろう?」と考えること…つまり、「相手を知ろうとする」という意識がはたらきます。
これは「会話すること」と同じではないでしょうか?
会話(つまり、相手へ質問を投げかけるということ)もまた、「相手を知ろうとする」という意識があるために、発せられるものだからです。

相手がヒトに限ったことではありません。
動植物に対してもそうでしょう。
大切なペットがいつもと違う様子であれば、心配し病院に連れて行きます。
なぜそんな状態なのかを「知る」ために。
育てている観葉植物あるいは農作物が枯れてしまいそうになっていたり、変な病気にかかっていれば、知識のある人に聞いてみたり、本・インターネットで調べてみるでしょう。
なぜそんな状態なのかを「知る」ために。


「知りたい」ということは、生きていくために、他者と関わっていくために、とても必要な欲望だと思います。


世界は、人生は、疑問だらけです。
それが尽きることはないのでしょう。
疑問だらけだからこそ、それを1つでも多く解決するために生きていくのです。



そしてその疑問は、撮影中にも絶えず湧いてきます。
前述したように、お子さんのコンディションは然り。
衣裳やインテリアに関してもそうです。
衣裳やインテリアは「生きているモノ」ではありませんが、そこにもまた「会話」はあるのです。
例えば衣裳をコーディネートする際には、「このアイテムとこのアイテムは合うだろうか?」と疑問に持ちます。しかしそこで私は、単なる自問自答ではなく、衣裳に話しかけるつもりで考えています。
「このアイテムをあなたに合わせようと思うんだけど、どうかな?」
もしその時、そのアイテム達の組み合わせがあまりよくなければ、それは彼らからの質問に対する「NO」という答えだと思っています。
彼らから「YES」を貰えたら、それを持ってパパママやお子さん達に提案をするのです。
衣裳提案においても、すぐに決まる方もいれば、たくさん悩んで決められる方もいます。そこにはもちろん、たくさんの会話が紡がれます。
そうして撮影前の「会話」をしていくのです。

そして私はインテリアとも「会話」をしています。
お子さん達と会話をしながら、どんな子なのか、どんなイメージが合うのかという想像を、撮影中にどんどん膨らませていきます。この時、私は1日の中で一番頭を使っているのかもしれません。
ぐるぐるぐるぐる、目の前のことを考えながら、頭の中では次のインテリア、次のポージング、次のイメージをあれこれ考えているのです。

「ここで撮ろう」と思ったインテリアの前に立ち、どういう構成で行くのかを考えます。
もちろん、これまでの経験からある程度の引き出しはありますので、毎回うんうんと悩むことはありません。けれど、そこでテンプレートにお子さん達を当てはめていれば、まったく面白くない写真になってしまいます。
同じ場所でも、お子さんの着ている衣裳によってイメージは大きく変わります。お子さんの性格や表情で、もっともっと変わってきます。
インテリアの前に初めて、今目の前にいるお子さんが立った時に、イメージは固まるのです。
頭の中でイメージしていたものとは違う写真にしようと思うことも、よくあります。
インテリアと被写体。
両者が同じ場所にそろって、初めてイメージとなるのでしょう。
お子さんにあちこち移動してもらったり、立ったり座ったりの繰り返しでなるべく負担のかからないような構成を考えることが必要です。
一番最初に撮る写真は、何がいいだろう。
そこで私は、インテリアに問いかけるのです。
「どんな写真にしていこうか?」、と。

この写真は、その質問を投げかけている最中に撮ったものです。
座ってもらい、ポーズもつけた。では最後に、目線はどこに持っていこうか。
そう考えていた時、彼はふと自分の手元を見ていました。それがとても魅力的に思えたのです。
伏し目がちのその表情は、大人びた彼の雰囲気にとても合っています。目線を窓の外へ向けた写真よりも、この場所(3階の自然光が一番入り込む場所。そして午後の暖かな日差しに包まれるやわらかな時間帯。)には、物思いにふけるような、彼ひとりの世界というものを感じました。
また、とても不安定な場所に腰掛け、ほんの少し不安を抱えた彼は、大人になろうと背伸びをしているようにも感じられたのです。
私は、こうした少し高い場所で撮影をする際には、必ずお子さん達に「高いところは平気?」と聞きます。
問題もなく大丈夫だと答える子もいますし、少し見栄を張って大丈夫と答える子もいます。後者のお子さん達は、きっと、ちょっとだけ怖いけれど、そのくらいもう出来るよ!と頑張ろうとしてくれているのだと思います。
それがまた、子供らしく思えとても愛おしいと感じます。

さてこの彼もまた、緊張の窺える表情で腰かけていました。しがみついているように、その手には力が入っていました。
背伸びをしようとしているのか、必死に「今」にしがみついているのか。早く大人になりたいような、でもまだ子供でいたいような…。
そんな曖昧な年頃なのかもしれません。そんな彼に、この場所はぴったりだったのです。
衣裳の色も、インテリアに合った白いシャツ。けれど光源の近くにいるせいで、輪郭は溶けてしまっています。それが、大人と子供の狭間、自分でも意識しないうちに移りゆく変化のようでした。
とても、きれいだと思いました。
ただ溶け込んでいるのではなく、インテリアと、彼という被写体がこの1枚の構図の中でとても気持ちよく混ざり合っているようでした。息を潜め、そっとシャッターを切りました。


日々日々、私たちはいろんなモノと会話をしているのです。
この手で生み出す写真に責任を持ちながら、不安定な関係性を形として残していくために。


Photo:Miya
Coodi:Buru
in Lifestudio NISSHIN

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