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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
『 ねぇ、かぞくってなぁに? 』
2016/5/31
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No.24 Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Coordi by Mayuko Hara 「 ねぇ、かぞくってなぁに? 」 これは、まだ五歳になっていない女の子からされた質問です。 とある撮影のカウンセリング中、家族写真をどういう感じで残したいかなどをママさんとお話していた時の事でした。 私はその子に振り向き、とっさにこう答えました。 「一番大切なものだよ」と。 それを聞いたおかっぱの女の子は言葉無く「ふぅ〜ん」という顔をしていました。 「家族って何?」という質問に何で私がそう答えたのかは私自身分かりません。 無論、この答えも決して間違った答えではないでしょう。 子どもたち、というか人間は生まれてから育っていく段階で多くのことに疑問を持ち問いかけてきます。 「何で空は青いの?」など大人になると疑問にも思わない事までです。 ですが、全く覚えてはいませんが自分自身も小さな頃、母親や父親にそういった質問をしていたのでしょう。 そしてたいていの大人はそういった質問に真剣には答えず曖昧な答えを言ってしまいます。 そのおかっぱちゃんに問いかけられた瞬間、私は会話を止め一瞬考えました。 そして自分自身に問いかけました。 「家族ってなんだろ?…」 で、その結果、とっさに出てきた答えが「一番大切なものだよ…」だったのですが、正解って何なんですかね…? 話は少し反れますが、私はもう四年半、湘南店を拠点とし写真を撮り続けているわけですが、この湘南店は、自然と家族写真に重きを置いている店舗であると感じます。 誰がそうしろと言った訳でもなく、既存のスタッフも今は離れてしまっているスタッフも皆そうだったと思います。 勿論、たまたま集まったスタッフの人に対する着眼点が近かっただけかもしれませんが、逆に言うとそういった者たちが集まる場であるのかもしれません。 しかし、家族写真に特化している場に居ながら、且つ、家族というものに特化しておきながら先からしている質問の答えは明確ではありません。 言うなれば、何でも言葉にするというのは愚問であるわけですが、同時に言葉に出来なければ考え続けなければならないということです。 撮影には当然、技術と知識、多くの経験などが必要不可欠です。 そして、子どもたちが思うような「疑問」を大人になった今でも持ち続けることは教科書には載っていない最重要な技術であると思っています。 今まで撮らせていただいた何千ものご家族、そしてこれから出会うであろう何千のご家族を撮影しても「家族ってなに?」の答えは出ないかもしれません。 ですが、「家族ってなに?」って思っていないと撮れない写真は確実にあると確信しています。 だからこそ、これからもずっとその問いかけを自分自身にし続けていく必要があるのです。 そしてそれは、これからも私達ライフスタジオがライフスタジオであるためにも必要な事であると思います。 私の親父ももう八十を越えています。 昭和の真っ只中、高度経済成長期で日本中が頑張っていた中の一人である親父の背中を見て私も大人になりました。 今はもうお父さんというより孫もいるのでおじいちゃんです。 私も生まれてから四十一年が経ち、親父は見た目だけでなく私との関係性も変化してきています。 もしかすると、家族というものはカタチは変わったとしても変化しない「何か」があるものなのでしょう。 その「何か」はまだ言葉にする事は出来ませんが。 家族とは人であり、人は強くもあり弱くもあります。 その強さは家族を守るため、そして弱さは家族に守られるためにあるような気がします。 家族にはそれぞれの生き方、そして生き様があります。 その一人一人の生き様をその先大人になる子ども達に「写真という記録」として残しておいてあげたい。 その写真の全てが「かぞくってなぁに?」の答えになるように。 親父のその拳に願いを込めて。
UN-lock
2016/5/31
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At Koshigaya No.5 Photo by Kudo / Coordinate by Takako 私があなたを愛しているということを伝えるには、あなたが美しいということを再確認することから始まる。 写真を見て、その写真について触れようとしたときに、私はいつもその写真を撮影した人に触れているような錯覚に陥る。 それは、その人が見ている世界や、その人が「人」という存在をどのように捉えているかが どことなく見えるような気がするのかもしれない。 どんなに文章や口頭で美しい言葉を尽くしていても、その写真に表れているものこそが、 その「人」そのものの本物の体温に直接触れているようで、その人が見ている真の世界を表しているようで、 本当に写真は正直だとつくづく思う。 もちろん写真を説明するには言葉が必要で、写真の認識を深めるものは写真分析であり説明であることは疑う余地もない。 だけどその言葉と写真が一致していなければ、そこには違和感があり、 真に正直に自らと被写体に向き合うという姿勢がそこに表れる。 写真は、言葉と同様に人とつながるには重要で、また言葉の表現以上に自分を伝えるツールである。 言葉ではごまかせるし、嘘もつける。しかし、写真は正直だ。 自分の中の粗も、虚偽も、不足もそこに表れる。 「写真は嘘をつく」という言葉もあるが、写真は嘘をつくのではなくその撮影者が見ているものを増幅させ、 世界を作ることができるのであって、その人自身をごまかすことはできない。 だから、写真を撮り、写真を見せ、共有するということは最高のコミュニケーションツールであると私は毎日実感している。 言葉の表現が乏しい私は、私という人間を写真で伝えることを重要視する。 正確には、私が「あなた」というたった一人の人間をこのように見ているという「告白」にも似ている行為を重要視している。 写真というものは、記憶に物質的に留めておくものであるが、撮影者であるわたしにとっては誰かに伝えるものである。 そこに写っている被写体であるその「人」の存在を誰かに伝えるものである。 その「人」自身の存在が、いかに希少で、いかに美しいものであるかをいうことを伝えるということは、 一種の「愛の告白」のようだ。 私が、この世界でたった一人しかいない「あなた」を、美しいと思っているから、今、それを告白しようということ。 それが写真を撮るということである。 私が撮影に入るときは、いつも緊張する。 それは、相手に私の内面を、私の本心を明かすという行為だからだ。 もちろん、スタジオの撮影業務は接客に重きを置いているということは間違いがない。 もちろん取り繕うこともあるし、私自身の表情や言葉、行動がお客様へどのように映っているかが重要である。 しかし、それは最終的に私の内部を無理なく自然に相手に明かすという行為に結び付けるためだ。 その明かすという行為が写真を撮り相手に見せるということである。 「告白」は基本的には言葉で行うものであるという認識が一般的であると思う。 それでも相手に受け入れてもらうために、相手の入りやすい趣味の話をするときもあるし世間話から入ることもある。 美しい言葉で自分を着飾ることもあるだろう。 それは何のためかというと、その「告白」を相手に受け入れてもらうためである。 写真を撮るという行為も同様で、まずはその写真を私が「あなた」を美しいということを最善の表現で伝えるためには条件を整える。 その条件は、私という撮影者を「あなた」に受け入れてもらい、「あなた」自身が自然に「あなた」でいられる場所を作ること。 壁があっては「あなた」に無理をさせてしまうし、 「あなた」は世界でたった一人の「あなた」をいくつものヴェールで隠してしまうから。 できる限り「あなた」が自由で楽しくいられる空間を作るということが、私が「あなた」自身を引き出す根底にある条件。 一緒に、自由で、楽しくいられる時間と空間にいること。 それが写真に、「あなた」だけの存在の美しさを表現するという条件。 その条件で表現した写真で、「あなたがこんなに美しい存在」であるということを 私自身の存在を以て「告白」するということが、毎回の撮影で私がしたいこと。 まるで、「私」という人間が写真を通して「あなた」の前で丸裸にされてしまうような感覚に陥るから、 私は毎回の撮影でなんだか照れくさくなるし、緊張する。 いつもそんな感覚であるということが、私の写真の幅を広げる。 新鮮な気持ちにさせる。 もっと「あなた」のことを美しく伝えたいと思う。 もっと力の抜けた自然体で伝えたいと思う。 だからそんな写真を撮りたいといつも思う。だから、私は写真を撮るということをやめられない。 もっと、もっと、写真が「私」だけのものじゃなくて、「あなた」に伝えて、「あなた」のものになってほしいと願う。 4年間ライフスタジオにいて、初めての越谷店。 初めて一緒に働くメンバーと、初めて出会う「あなた」。 そんな新鮮な環境は、当たり前のようになっていた写真を撮って伝えるという行為に再び色を与えてくれた。 未知でいっぱいのこの場所で、私はどのように立ったらいいのだろうと常に考える。 その中で、どのように自分を表現したら、どのように伝えたら、私の想いを「あなた」に伝えられるのかと試行錯誤する。 「人」という存在が好きな「あなた」は、入り口の扉を開けた時からまるで長年の友人のように 明るい懐かしい笑顔で私たちに接してくれた。 明るく元気であっけらかんと、まるで怖いものなどないように堂々と振る舞う。 しかし、私たちと仲良くなればなるほどその6歳の殻が剥がれ落ち、 少し寂し気にある方向を見つめては少し我が儘に振る舞ってみたりする。 そこで少しずつ小学1年生の元気な男の子という外側に着ていた殻から解放された、 本当の「あなた」に触れることができた。 その寂し気な視線も、元気な姿も、生まれたばかりの弟に初々しい愛情を注ぐ姿も、 そのすべてがほかの誰でもない「あなた」で、私はそんな「あなた」が強く美しいということを、 「あなた」の家族にも、「あなた」自身にも伝えたい。 そんなことを考えながら、できるだけ自然な姿を引き出す過程の中でシャッターを切り続けていると、 6歳の子どもではなく、たった一人の人間として見える時間が長くなってくる。 たった一人の人として見ることができた時に、「私」は「あなた」に尊敬の念を抱き、 最後にやってくる「告白」の時間の準備をする。 私の写真を通して、「私」が「あなた」をどう想っているのかを「告白」すること。 「あなた」の存在を、私の最大限の表現を以て伝えること。 そこには、言葉や表面的な表現を超えた、本当の心のやりとりがある。 それが、私に触れることであり、「あなた」に触れるツールだから、私は写真を撮り続けるのだと思います。
Humanness〜人を撮るということ〜
2016/5/31
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photo by volvo codi by yui nakajima in SOKA 草加店に来て、一ヶ月が経ちました。草加店の雰囲気は良いです。 それは何か技術的に秀でているとかそういうことではなく、なんとなく過ごしてしまいがちな毎日に 少しでも刺激を与え新しいものを受け入れていこうとする姿勢と、それを登山中のリュックに入った鉄アレイのように 重荷と捉えるのではなく、ジムで自ら対峙するダンベルのように意志と目的を持って持ち上げようとする空気が そう感じさせてくれるのだと思います。 写真に対して、今まで私はそれを自らの内部で行ってきました。 自分の写真に対して自分自身から発するプレッシャーによって気持ちを鼓舞し、それは登山中の鉄アレイであろうと ジムのダンベルであろうと関係なく自分に乗せ続けてきました。 冷静に考えてみればがむしゃらにやってきた目的はただひとつ、写真が上手くなりたいだけだったのだと思います。 わかってたことですが、どうやら私は負けず嫌いのようです。 私は写真ではなく仕事というものをそのように捉えひた走る性格のようで、思い返せば前職でも 最初の3年ほどは「追いつき追い越してやる」と息吐いて仕事をしていたのを思い出します。 ライフスタジオが文房具を作る会社だったとしても多分働き方は変わらなかったでしょう。 そんな私もこの会社にきて5年が経とうとしています。 5年も個人的に燃え続けるのは私にとって至難の技です。 もちろん年齢的なものもあるかもしれませんが、30歳を過ぎ、4~5時間の睡眠で次の日に 3件から4件の撮影に入る事を維持するのが難しいのは体力だけでは無いと感じています。 自分の中の火に対して、横から油を注いでくれる仲間の存在や そういう空気感を持つ組織を作る重要性を32歳になった今、しみじみ感じています。 前置きが長くなりましたがそんな空気感からこの写真は生まれました。 「成長を目指さなければ維持さえもままならない」と私は考えています。 この写真を語る上でまずはじめに感謝しなければならないのは申し分のない被写体に出会ったことです。 7歳というのはライフスタジオで仕事をしているときは「大きい」と見る傾向にありますが 下校中にランドセル持ちをしている小学一年生を見ると「小さい」と感じます。 そんなちょうど中間点に差し掛かっている年齢だから、来店する子供達の性格もまた千差万別です。 そんな彼女は、私が今まで撮影してきた約4000件のどのカテゴリーにも当てはまらない 目があった瞬間から特別な雰囲気を持っていました。 例えるなら、ラブコメ映画でたくさんの男達に対して、口角を上げるだけで虜にする高嶺の花的存在感を放つキャラクター。 まさに「メリーに首ったけ」のヒロインを演じているメグ・ライアンです。例えが古いでしょうか・・・。 笑わなくても、声をかけなくても、カメラを見ている顔には静かで何かを訴えかけてくる力があり かといってモデル意識高く表情を作るわけでも無いし、無表情でもない。 わざと変な質問を投げかけても、クスリともせずに冷静に少し低い声で「知らない」と答える。 普段なら「難しい撮影になりそうだ」と気を張る瞬間だったかもしれなかったけど この時は妙にそれが魅力的に見えたので「この特徴を活かした表現をしなければならない」と逆に意気込む自分がいました。 私がこの写真を選択した理由はこうした関係性が写真に表現できたということと総合的な統一感を生み出す事ができた事です。 個人的に写真において重要なのは「統一感」だと思っています。バランスという言葉とも似ています。 統一感というのは総合的なバランス、光やポーズ、構図や色あいインテリアなど写真の構成要素が全てその被写体(写真)専用に構築されている事です。 ラブコメの主人公のような雰囲気を持つ彼女がバスの座席ではなく入口に座る事は シネマ的な非日常要素が意味を付与し、そこに佇む事を「物語のひとつ」として違和感を消してくれます。 構図に関していうならば私は整理された写真が好きです。整理というのは「そつがない」という意味です。 窓越しに写す事で得るメリットは反射を利用した前ボケと、全体的にコントラストが下がってフィルターを通しているような 「わざと作る被写体との距離感」の2つがあります。 前ボケはライフスタジオの代表的な撮影技法のひとつです。 その意味も1つや2つではありません。 左上にある大きな前ボケは「写真の重心」の整理を担っています。 写真に写るものを質量で考えてみると、絵画的な理論になりますが一般的に質量の大きなものが上にあるほど不安定になります。 例えば被写体が上の方に配置されていたら写真がグラグラする感じに見えると思います。 左上の前ボケは右下に配置されている被写体である彼女と対角線上にある事で 質量が右下と左上に均等化され、写真全体的な量的なバランスをとろうとしています。 私のイメージではこの二つが互いに引っ張り合う感じです。 また、左右にバスの辺を入れる事によって「場所の説明」と「質量の均等化」そして 「フレームの中のフレーム」として被写体への集中力を高めるねらいがあります。 そして統一感を出すにあたって、特に重要な核心部分は被写体の姿勢、ポーズにあると思っています。 私は「自然さを人工的に作る」ことをできるだけ心がけていますが それは中々簡単なことではないのは写真を撮り始めて5年が経った今でも感じています。 「写真を撮る」という非日常的な空間においてこたつでみかんを食べるような 自然さを出すのは俳優ならまだしもいち写真館で叶えるのは簡単ではありません。 個人的にポーズを取る時に自然さを出すポイントは「重心の理解」と「伝わる力」の2つだと考えていますが 最も重要なのは「伝わる力」だと考えます。 ここからは少し哲学的になってしまいますが、伝わる事とは、結局は人間関係、人に深く入る事と同じ事だと思っています。 愛の告白がうまくいくためには三日三晩言葉を考えるように、人に何かを伝える時、それが伝わるためには 当たり前ですが伝わるように話さなければいけません。よく新入社員を教育する時に「なんで新人は分からないんだ」と 嘆く上司を目にしますが、これは例えば被写体が指示通りにポーズを取れない事を「なぜポーズがきちんと取れないのか」と 怒る事と同じで「伝わる」事が為されなければならないはずがいつの間にか「伝える事」が目的になっていることがあります。 私達は写真に悩んでも被写体にポーズを取らせるために三日三晩考えたりはしません。 「伝える」と「伝わる」は主体が私からあなたへ移動する事を意味します。 カメラマンと被写体という関係においてこの2つを取り違う事は 結果だけを見れば「被写体にポーズを付けられない」ということに留まりますが 本質的には撮影をするうえでの姿勢が決定的に違う事を意味します。 それは、被写体に深く入ろうとしているかどうかです。 「伝える」に留まることは撮影を主観的にのみ捉え、自分がしたい事を直接的に投げかけているだけの状態です。 「伝わる」事を成していくことは、被写体を一度客観的に捉え、自分に取り入れ、再度主観化する作業が為された後にシャッターを押すことです。 具体的に言えば、このポーズを取るためにただ「体育座りしてよっかかって」と言うのではなく 「あなたは人を待っている。だけど中々来なくて待ちくたびれて疲れてきたんだ」と伝えると それによってポーズの力を抜き、表情に物語が現れます。 この表現を可能にしたのはメグライアンという私の中での彼女の観察結果があったからです。 新入社員も写真の被写体も同じ「人」です。 しかし皆違う「人」です。 こちらの伝えたい事はひとつでも伝わり方は千差万別です。 だから伝わるためには相手の特性を知らなければならず、写真とは人を深く知る事と同じであると言えるのだと思います。 1時間という短い撮影時間の中でどれだけの「意思疎通」が成されたか? これが私たちがこの会社で重要としていることであり、結果として写真に現れるのだと感じます。 そんな彼女と対話を通して撮影をし、抜けそうな歯をなんとか抜けないようにしてきてくれた事や モニター後に落ち着いた声で「ねえ、次はいつ来るの?」という言葉を発している姿を見て 「あぁ、そういえば7歳だったな」と我に返る自分がいました。 結局いつも関係性の話になってしまうのは、良い癖でしょうか。
美しい写真の条件
2016/5/30
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美しい写真の条件は・・・・・・・・・なんだろうか? スタジオカメラマンだったら一度ぐらいは考えてみたことがあるのではないだろうか。 仕事が終わってスタッフが帰ったあとに、熱いお茶を用意して自分が撮った写真を見返す時がある。 キーボードの→を一定のリズムでタン、タン、と叩きながら写真も一定のリズムで次々と流れていく。自分が撮影した写真をよく見ることをしていきながら、顧客との楽しい時間を思い出す時間でもある。「ああすればよかった」と客観的に自分の写真を反省する有効的な方法の一つである。 写真をよく見ると、意識していたつもりだったが、水平垂直が曲がっていたり、余計な小物が写っていたり、床の汚れが気になったりする。欠点ばかり目につくようになり、事務所に響くタン、タンという音と比例して、わけのわからない罪悪感が自分の体内で膨らんで重い鉛のようなものが作られていく。 撮影中にもっと注意して気づいていればという後悔や昨日と変わらないつまらない写真をまた撮ってしまったという後悔・・・・。 写真を見ながら、自分ができなかったことに対する非力さによって体内に黒い鉛が作られる。 しかし、黒い鉛の本当の正体は、自分の非力さからくる、顧客に対しての申し訳なさだ。 ありがたいことだが、ライフスタジオで希望の日に予約を取ることは簡単ではない。 たくさんの顧客から撮影に来るまでの過程の話を聞くと、近所のスタジオのほうがある意味では魅力的なのかもしれないと考えたりもする。ライブチケットを取るような感覚なのかもしれない。 だから、二度とは取り戻せない瞬間を永遠にした写真と生きていく顧客のことを考えると本当に申し訳なくなる。 自分がもっと写真が上手だったらこんなことにはならなかったのに・・・。 美しい写真を知らなければならないのに、よくわからないという矛盾をいつも抱えながらシャッターを切ってしまう。どこかで見たことある写真を真似しながら・・・・・。 それでいいのかもしれないが、いつかは自分の美しい写真に出会いたいという撮影者の渇望だけが頭の中に残った。 こんなことを考えながら、結局美しい写真の正体がわからず、今年の1月に本社に異動をした。 本社事業の一つに「写真の本質」について書くために一定期間が与えられたことがあった。 写真を技術的な面でばかり見ていたが、「写真とはなにか?」という概念的な面で見るのは初めての試みでだった。写真の概念を知るというのは、「自分にとって写真とはなんなのか?」を発見することであり、私と写真の関係が作られることを意味している。 つまり、写真のいくべき方向性を決定的にすることが、写真の概念を知るということである。 私は写真に関するあらゆる本を読んだり、インターネットで調べたりした。 そこで、ある写真家の言葉が引っかかった。 -私の写真の全作品はセルフポートレートである。 なぜなら自分自身を投影または反響させることなりに、写真を撮ることなど不可能だからだ。 被写体の人物の写真を撮るだけではなく、同時に自分自身の写真も撮っているのだ。- そうだったのか!!と目の前の霧がはれて道が開けたような感動があった。 矛盾したことを言っているようにも聞こえるが、注意深く言葉を理解しようとするとこういうことなのではないだろうか。 写真を撮る時に必要なことは「撮影者と被写体とカメラ」が基本的な構成要素である。 撮影者がカメラを構えて目の前に被写体がいるという構図が頭に浮かぶと思うが、写真を撮っているのはカメラという機械が勝手に撮っているわけではない。シャッターを押す瞬間は、誰も自分の代わりにはなれない「私」だ。同様に、ファインダーから見える被写体も誰も代わりになることができない「あなた」だ。 写真はカメラの内側で造られるものではなく、むしろカメラの外側にある「私とあなた」の間で作られるものであるからだ。例えば、撮影中に子どもが突然くしゃみをして鼻水が垂れる時にシャッターを押す撮影者がいる。あまり共感はされないと思うが、その撮影者が持っている「かわいい」という概念が「鼻水を垂らす子ども」にセンサーが反応してシャッターを切るのである。 だから、撮影された1枚の写真は、「私」と「別の私」が写っているということになる。 「私は・・・・・・今までなにを撮ってきたのだろうか?」 私にとってあなたがどんな意味かも考えずに、光がどうだの構図がどうだのを言いながら、シャッターを切っていたのではないか・・・。 美しい写真を撮るポイントがあるのだとしたら、それは目の前にいたのだ。 目の前にいたのは・・・・・松山絵美という1人の女性だった。 彼女は私と同じライフスタジオのスタッフであり、3ヶ月間だけだが川口店で一緒に働いたことがある。 スタッフブログの自己紹介には こんにちは。「まっちゃん」です。 たまに、「お兄ちゃん」と言われますが性別は女性です。 暑がりで汗かきなものでして、冬でもたまに半袖。 走ったり大声で笑ったりで、皆様と楽しい時間を一緒に過ごしたいです。 というようなことが書かれている。 知っている人がいたら少しクスッとしてしまうかもしれない。 まさにまっちゃんは、男の子のような女の子なのだ。アスリートのような引き締まったスタイルをしていて、ファッションもスニーカーにTシャツにリュックを背負って、腕時計はGショック。 「ういーっス」と挨拶をしてくるような体育会系な雰囲気だ。 ある時、寿司がぎっしりプリントされた寿司Tシャツで出勤してきた時は、あまりにびっくりして「これ・・・・・寿司だよね?」と聞いてしまった。 すかさずまっちゃんは「かわいくないっスかぁー?」と寿司Tシャツを見せてくれた時があった。 まっちゃんはやんちゃな小学生男子が好きそうなスタイルだ。 跳ねたり、飛んだり、踊ったり、歌ったり、見ているこっちが笑って撮影ができなくなってしまう時もある。 そんなまっちゃんから「鈴木さん、撮ってもらいたいんスけど、いースかぁ?」と言われた時には、正直、意外だった。自分の写真を撮られることに関心がないと思っていたからだ。 理由を聞くと、おばあちゃんになる前に残したい、と自分の美しい存在を写真に残しておきたいという秘密を打ち明けてくれたような感じだった。 私はまっちゃんをスタッフとしてではなく、一人の女性として写真で表現することが求められていると感じた。それは、女性として生まれてきた自分を肯定できるような写真を残す使命を託されたのだ。 だから、まっちゃんを女性として接することに抵抗するのではなく、私がまっちゃんを愛する人のように接すること・・・・・。もっと被写体に近づいていくこと・・・・・。もっと被写体をよく見ようとすること・・・・・。 どこから生まれて、どうやって生きてきたのか?たくさん質問を投げかけた。 断片的な情報がパズルのように少しづつ姿が見えてきた。 岩手県に生まれて、田舎の退屈さから上京をして、クラブで朝まで遊ぶようなおしゃれが好きな女の子。 1枚の写真で松山絵美を表現しようと考えたときに、特徴的な部分を美しく切り取ることが私にできることだった。広大な宇宙にはたくさんの星があるが、よく見てみると似ているようで似ていない星の特徴があるように、全体ではなく部分をよく観察してみると、その人にしかないものが見えてくる。そして、部分は全体の一部という考えではなく、部分は全体でもあるのだ。 この写真のポイントはまさにそこにある。 女性という特徴と松山絵美という特徴的な部分を切り取っているが、その二つが出会って「女性らしい松山絵美」という全体を1枚で表現されている写真なのである。 この写真の構成要素のほとんどは被写体が持っている特徴を中心に構成されている。 なるべく被写体が持っているものだけで、1枚の写真を表現したかったという意図もあり、注意すべきところは、閉じている目、まつ毛、ペンで書かれた眉毛、耳、不揃いの300円のピアス、流れるようなくせのある長い髪の毛、バリカンで切った短い毛、髪の毛に絡まった指輪をしている手、顔の輪郭、これらが自然にバランスを確保しながら整理する必要があった。 そうするためには、カメラを縦にすることが適切だと判断をした。 縦写真は、柱のような縦のラインを整理しやすいという特徴を持っている。私たちが縦写真が多いのも被写体が直立している人であるという理由の一つでもある。 この写真の場合は、上部の鼻先から下部の手にかけて、被写体の特徴が点や線となり縦というラインにきちんと配置されていることで、バランスが確保されている。 バランスは、撮影アングル・画角によるものだが、肉眼でその人を見ているかのような効果も同時に成している。 ベットに仰向けに寝ている被写体には「寝ている」という状態がとても自然であるならば、撮影アングル・画角も自然にならなければならない。まるで愛する人の寝顔をそっと見ているような遠近感のない自然な距離が被写体を表現するためには必要だった。 光についてはこの写真の場合は、特別な意味はあまり持っていない。 ただ露出比による抽象性を高めている。逆光を利用するほとんどは、影となる部分を明るくしようとする露出設定が基本であり、いわゆる「光を飛ばす」という露出オーバーの状態を意図的に作りだす。それにより、明るい箇所はさらに明るく、暗い箇所は明るくなるのである。 結局は、露出比もバランスの話だ。光をどこにどのくらい?ということを考えるからだ。 被写体の左半分の顔に当たっている光が100だとしたら、右半分の顔は50ぐらいである。右半分の50を100という適正露出に合わせると、同時に左半分の100が150になる。それによって、左半分の顔は露出オーバーの状態にあり、輪郭もほとんどよくわからなくなっている。輪郭を写す必要がなかったというより、被写体のポイントがそれ以上にポイントであるためには、顔は抽象的にする必要があった。 最後に、構成要素の割合が被写体が高い場合に重要なのは、ピントの位置である。 よくピントを目に合わせると聞くが、単純に目を写したいと強く思うからではなく、写真は顔を写すものだという習慣からそうしている場合が多い。 ピントの位置は「この写真でなにが重要なのか?」という特別な意味がある。撮影者の意思に近い。 ピント位置は、刈り上げられた髪の毛に合わせられている。それが松山絵美を象徴する特徴だからだ。髪の毛を結んでも楽なようにセットされた髪型は、冬でもよく汗をかくまっちゃんの象徴でもある。この写真をいつ見ても「私だ」と確認して肯定して生きて欲しいという私の意思でもある。 この写真は以上のような私の考えを投影させている、別の私でもある。 しかし、それは松山絵美という女性が目の前にいたからこそ知れたことでもある。 この1枚は私の写真ではなく、私とあなたの写真なのである。 まっちゃんの写真を撮った後日、LINEでお礼の連絡をもらった。 なんかー ライフリピーターのお客さんの気持ちがわかりますね!! 自分じゃないみたいで、感動するし、綺麗に撮ってくれて嬉しいし、現実感がないんですよねー。 いつもの日常と違う空間にいる自分的な。 うまくは言えませんが。 不思議な感覚。 特別感というか。 ともかく嬉しいんです!! また、撮って欲しくなります。 人間を良く見ようとすれば良く見えるものであり、悪く見ようとすればひたすら悪く見えるものなのかもしれない。写真を撮る行為というのは、単純に美しい光や美しい構図を探すことではない。 カメラの目の前にいる特別な原石を探そうとする行為が写真なのである。 写真に集中するとは、人に集中することと同じ意味として使わなければならない。 だから、美しい写真の条件の一つに、私とあなたを発展させる写真だったのか?、を基準として設定するのは、私たちにとって楽しいことではないだろうか。
写真を通じた対話
2016/5/29
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Photo by Choi Eunpyo Coordi by Nishijima Yoshie ドアを開けた瞬間、小さなピアノの前に座っている彼女の後ろ姿が見えた。 撮影中には恥ずかったのか小さな声でささやいた彼女が上手な手つきでピアノを弾いていた。 彼女の姿を見て、新たな面を見たという喜びと共に、流れている旋律が被写体の美しさを更に際立たせていた。 この時カメラマンとして、この美しさを表現できる方法はもちろんカメラのシャッターを押して写真に残すことである。 ピアノから流れてくる音、小さな手で鍵盤を打つ手付き、彼女の真剣な表情、取り囲んでいる光など頭の中ではこの場にあるすべてを一枚の写真に表現したいという欲求が湧き上がった。 しかし、写真が持っている物理的特性上、一枚の写真に残すには要素的な限界がある。 音を取り入れることができず、連続的な動作も取り入れるこができないためだ。 つまり、私が見て聞いて感じている現場の事実的状況をありのままに写真で表現するのは限界があるということだ。 しかし写真のこのような物理的限界が逆に写真が持っている最も大きな魅力のひとつであると考えている。 物事を連続的に見せれないし、他の映像的なメディアより事実性が足りないかもしれないが、イメージが絶え間なく流れ続けるのとは違い、固定しみることができる写真の特徴はさらに強い感情的効果を与えると考える。 多くの情報に接したとしても、強烈な印象を受けるわけではないからだ。 写真は止まった時の内でより濃い感情的余韻を呼び起こし、より多くの想像の機会を与えていると思う。 これが写真の持つ大きな魅力のひとつと考えている。 この一枚の写真を構成することにおいてもこの写真の魅力を表現したかった。 明確には、写真を見る人達も、このような写真の魅力を感じることができるように構成したかった。 その瞬間に彼女が示している被写体の事実的周辺の状況をすべて盛り込むことはできないが、今彼女が出している雰囲気と魅力を、写真を見る人たちにも最大限に想像させることができ、感情を感じられる写真として残したかった。音は聞こえないけど、美しい旋律が流れるように、すべての表情を読むことはないが、真剣な彼女の表情と手つきを想像できる写真を表現したかった。 そのため、単に彼女がピアノをひいている全身または手だけを強調するクローズアップ写真だけでは何か足りないと感じた。 窓から入ってくる光が肌に当たり鮮明ながらも滑らかに見えている手と、真剣に演奏をしている彼女の表情を連結させて、私が感じている雰囲気や感情を他の人たちも想像できるように表現したかったからだ。 そのため、フレームの始まりに表情をより簡単に読むことができる目よりは鼻と口で配置することで、この写真を見る人たちに、彼女の感情を想像することができる機会を与えるとともに、ピアノを弾いている彼女の手にも集中してほしいという意図を込めている。そしてこれが、私がその状況を取り入れることが出来る最大限の表現方法だと判断した。 このような私の表現方法を技術的な要素と連結させると写真の構図の側面と考えられる。 つまり、'四角形の中に何をどのように位置させて表現するのか'という構図の観点に集中して写真を構成したということだ。 しかし、構図ということも、単なる技術的な領域ではないと判断している。 なぜならこれはカメラの操作の領域ではないためだ。 写真の特性上、与えられた現実を選択的にしか構成できない限界を持っているために、「どこをどれほど強調するか」、あるいは「どの部分をどれだけ外したほうがいいか」という認識と思惟の結果である。 もちろん、カメラのレンズの画角、焦点距離などのメカニズム的観点から見ると、技術的な領域を無視することはできない。 だが、それより影響を及ぼすのが目と心が見つめてるところはどこであり、なぜその視点で眺めるのかについての思考であると考える。 それならこのような写真的表現が撮影者または写真を鑑賞する人の視線によって、みんなまちまちであり、感じて想像するのも違うのではないかと問いかけられるかもしれない。 もちろん、眺める視線は違う可能性はある。 しかし、意図が内在されている写真とそうではない写真は写真を認識する方法においてはっきりとその差を感じるようになると思う。 その理由は、撮影者の意図が内在されている写真はそれを読む人たちにもその感情を感じて想像してほしいと訴えているからだ。 対話に例えると私が相手に先に言葉をかけて私はこう思うと主張していることになるからだ。 対話において相手に声をかけると様々な答えが戻ってくるように、写真も私が構成したイメージで話しかけると写真を見て様々な答えが帰ってきて話を進めていくことと同じだということだ。 人は他の相手と対話またはある方法で感情を交換しなければ生きて行くことができない。 そして、撮影者は写真で言葉をかけて自分の意図と感情を表現しないと、写真を通じた自分の言葉を駆使することができない。 もちろん、この一枚の写真がそのような要素を全部満足させているというわけではない。 だが、こうした自分の意図を取り入れようという意識的な行為は、写真を通じた対話のために私の言葉を見つけ、増やしていく訓練だと考えている。 そしてこの過程で作られた私の言葉を通じ、より多くの人々とより多くの対話をしていきたいと考えている。
『Time is』
2016/5/20
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HairMake:Kaori Sasaki Coordinaite:Kaori Kobayashi photographer :Ryo Takahashi in Yokohama Aoba 約3年半。 彼女とであってから短くも長い時間が過ぎた。 初めてであったのは新松戸店にて、7才の七五三記念の撮影でした。 写真が苦手で緊張している彼女を前に、入社して間もない私は困惑したのを覚えている。 しかし、人と人は何かを切っ掛けにいつも温かい関係となる。 それは、コーディネーターの力、カメラマンの力、そして被写体である彼女の心によるものなのかもしれない。 短い撮影時間の中、いつしかその場所は笑顔にあふれていたのを記憶しています。 それが彼女と出会った日のエピソード。 その後私はここ、横浜青葉店へ所属する事となりましたが、彼女は毎年撮影に来てくれている大切な人。 毎回会うたびに成長し変わっていく彼女を見る度、私自身の事も改めて考えます。 私たちの環境での再会は、常に『成長』という概念がついて回ります。 皆会う度、子供達に対して大きくなったねと声をかけるのではないでしょうか。 それは子供自身の成長の一つ。 1年時間が経った事実の中、自分自身は何が変わっているのか。 いつも再会の度その事を考えます。 人間的な成長はあったのか、技術的な発展をしっかりとつかんだのか。 自問自答しながらまた彼女の前に立ち、カメラを構えます。 時間は誰にでも平等な物ですが、身体的な成長以外は人にゆだねられた物であり、自然に成長して行く事はありません。 子供達は日々考え、学び様々な経験を大人よりも純粋に受け入れ内面的にも変化と成長をして行きます。 私たち大人は、自らが望み考え、何をしたいのかを考えなければ学ぶ内容ですら見つける事が出来ません。 自由という言葉の中には自立が条件となっているからです。 初めて会ってから3年間、私たちは自分たちで望み成長してきました。 カメラマンにもコーディネーターにもそこに関わる全ての人がこの時間を大切にしてきた結果だと考えています。 この日、スタジオに居た全ての人間が彼女と言葉を交わし、その笑顔と向き合った。 そして今日を心待ちにし数日前から何を着てもらおうか、何を話そうか、大きくなったかなと気にかける素晴らしいコーディネーターのKoba。 彼女を目の前にしてもあふれるその気持ちは、私たちの目指す理想の姿を見せてくれていました。 HMのKaoriも素晴らしい技術で、見た事もないような彼女の姿を引き出していた。 印象にある幼さではなく、小さな大人がそこにいました。 彼女達が生み出す素晴らしさに対して私もカメラマンとして持っているもの全てを出し切らなければいけない。 経験、技術は高め続けてきたつもりでいます。 撮影練習はいまも定期的に行い、再会の度に新しい写真を提供出来るように自分なりに学習を続けてきました。 技術的観点でも語るべきところが多く有ります。 ※絞り値:f3.2 柔らかな質感の表現を目的とした数値ですが、何故解放である2.8でないのかが重要である。 ストロボを利用した撮影であり、レンズに直接ストロボの光が影響するシチュエーションでは解放値により光の写り込み方が変化する絞れば絞るほどシャープに光は入り込み、解放に近づけるほど淡くぼんやりと写り込むようになります。 この事から表現したい写真のないようにより、この数値で決定しています。 では何故最小解放値をしようしないのか。 2.8という数字は3.2と半段階の違いしかないのですが、頭が2で有るか3であるかでは写り方に大きく差が出ます。 単焦点を良く使うカメラマンならば感覚的に理解いただけるかと思います。 例えば85ミリなどの抜けの強いレンズを使用した場合、2.0以下1.8などで写した場合大きな露出さと抜けの違いが現れます。 ズームレンズは抜け感こそ大きく変わりませんが、焦点距離の長いレンズほど内蔵の枚数、群数が多いため写り方に差が生じます。 この写真が2.8を選択していたならハイライト側が露出に関わらずもっとにじんでいたでしょう。 このことから3.2の選択に至りました。 ※シャッタースピード:S200/1 このシャッタースピードは外部ストロボの同調速度の限界数値です。 これ以上スピードを上げた場合ミラーの影が写真に写り込んできます。ハイスピードシンクロなどの設定を行った場合はまた別ですが、発光量が不安定になるため通常の先幕シンクロで撮影を行いました。 自然光とのミックスで有り、絞りも3.2まで開けている環境の為かなり露出計自体はオーバーな数字を算出します。よってこのリスク回避のため下記のISO感度により調整を行います。 ※iso感度:100 5DMK3の標準感度設定で最も低い感度設定です。 ストロボ、自然光を伴う環境ではかなりの高露出を得られるため最も解像度の高い感度を使用可能にしてくれます。 感度を下げるほど高精細になるので美しい写真を撮る際に低い感度は必須です。 特に複雑に光が絡み合う環境で、なるべくディテールを出したい時は低い感度設定の撮影は必須となります。 カメラマンは環境をみて、仕上がりを想像して設定を行い、写したい写真にとってもっとも適切な判断を行わなければいけません。 経験から教訓から全ての数値は算出され、想像した物を現実に写し出します。 ※レンズ:EF70-200 望遠レンズを使用していますが、撮影時焦点距離は70ミリでの撮影となっています。 では標準レンズでも可能なこの焦点距離をなぜ望遠レンズを使用して写す必要が有るのかについて話したいと思います。 レンズには外見から見える一枚と裏に有る一枚、そして目に見えないレンズ内に数枚のレンズが内蔵されています。形状を群と数え枚数はそのまま何枚と数えるのですが、望遠レンズの方が群数、枚数共に標準レンズよりも多くなっています。 従ってその分描写は劣るのでが、逆手に取れば少しくすませて柔らかい質感を再現する事が可能です。 この写真のよう強い光を使う場合で意図的に少し淡く写すのであればレンズの特性を生かす事が重要です。 望遠レンズの特徴は遠くが撮れてボケ味が強いという単純な物ではないのです。 同じ焦点距離で同じ数値で撮影しても僅かに露出差が発生するのはレンズの枚数に依る光の屈折率の差でもあるのです。 ですからこの写真に感じては普段デメリットと思われがちな環境を逆手に取る事が成功への鍵だったのです。 ※レンズフード無し 当たり前のように装着しているレンズフードですが光の角度により四辺に影が生まれる事が有ります。 特にストロボを使用し強い光であり低い感度設定の場合はその影響を受けやすい物となります。 低い感度はフィルムで言うラチチュードが広い状態であり、アンダー部分からハイライト部分までが白飛び黒つぶれを押さえるので、構図内の些細な露出差を拾ってしまいます。 ですからマイナスの要因になりうるパーツは解除するのが妥当です。 逆にそれを利用し弱いヴィネットの用な効果を出す事も可能ですがこの写真には適切ではないと判断した為、レンズフードは解除しました。 ※ストロボ:580EX2マニュアル発光2/1設定 ストロボのスタンダード設定はETTL発光ですが、今回のようにトランスミッターを利用し、離れた場所で発光させる場合はそのままの設定だと光量が不安定になります。 そのため光量の自動調節(TTE)を解除し、マニュアル発行にする事により安定的な光量を維持する事が可能です。 ストロボの580という数字はガイドナンバーと言い、光量の最大値を示す物ですが580というのはかなりの光量です。 実際青葉のスタジオの広さならば430くらいで十分なので、発行量を2/1まで押さえて使用しています。 ※ストロボトランスミッター:CactusV6 聞き慣れない名称だと思いますがこれはクリップオンストロボを外部発光させる為の機材です。 クリップオンの基本的な使い方はカメラ本体のアクセサリーシューに装着します。しかしそのままではカメラ位置からの照射のみ可能で、希望の位置からの発光は出来ません。 今回のようにカメラからはなれた位置にストロボを設置し赤外線通信を利用し遠隔操作する為の機材です。 この場所から光が欲しいがその場所に光源がない場合大きく貢献してくれる使い勝手のいい機材です。 ※カラーセロハン:黄色2枚 カラーセロハンは文房具店などにおいてあるビニール製の折り紙のような物です。 これはストロボに対しての応用編なのですが、西日を再現する為に黄色のセロハン2枚をストロボの発光面につけています。 ですがもちろんそのままでは色が強すぎ美しさに欠けます。 そこを補うにはカメラ内の色調設定が必要ですのでカメラ内設定の項目で詳細を書かせて頂きます。 ※カメラ内設定:彩度マイナス:ピクチャースタイルポートレート セロハンの使用により黄色くなりすぎる光を調節するためピクチャースタイルの設定で意図する色に近づけて行く作業を行います。 今回は彩度を下げ、ポートレート設定の元々の赤みを活かしバランスをとりました。 かなりの微調節が必要となる作業ですが、今までの経験からおおよその設定を想像する事が可能だったため色の出し方はスムーズに行う事が出来ました。 ※ライトボックス 被写体の斜め後ろからのストロボと自然光が強いため、それによって生じるアンダー部分の対処をしなければいけません。 そこで活躍してくれるのがライトボックスです。 イメージ的にはレフ版の代用です。シャドー部分に当たるように配置し、違和感のある影を消すのに利用しました。 自然光やストロボよりも光量は低いため、心地いい陰影を作る事が出来ます。 有る物は効果的に利用出来るなら全て利用するのが私の写真の特徴でもあります。 ※ソフトフィルター ソスト効果の強いソフトンBを使用。 このフィルターはざらつきがなくきめ細やかに画を柔らかくしてくれます。 西日を再現するには最も適したフィルターです。 画にたいして温かさ、柔らかさが加わり、元々の固い光のイメージを綺麗に変換してくれます。 青葉に有るフィルターは標準レンズ用の直径のものしかない為、望遠レンズの場合はレンズの前で手で支え利用しています。 サイズが合わなければ使えないというのもまた先入観で工夫さえ有れば大抵の事は実行可能です。 ※自然光 かなり日が落ちた状態で既に床に僅かに光が当たるような時間帯でした。 肉眼では美しく見える光景も写真に写すとなるとなかなか難しい物です。ですから今回はこうであったら良いなという希望を様々な工夫と機材により再現しました。 ※被写体の配置:3分割方に基づき左側に配置 美しさの表現は第一に着本意忠実な事であると考えています。 斬新なフレーミングもお洒落という言葉で片付け、なんか良いよねで終わってしまう。 視覚的に安定感を感じ、普遍的に美しいとされる構図は美しい写真には必須な物であると考えます。 ※ポージング:座り姿、構図のバランスを整える為の姿勢 被写体に焦点を当てたとき最も重要なのがポージングと表情で有るのではないでしょうか。 ポージングはフレーミングにも依存します。 余白を埋める為にどのような姿勢を撮ってもらうのか、他の小物と複合的に見て被写体の位置を言う物を強く考えます。 今回の写真は右側が光、左側が人物と小物で構成されています。 分割する方法により写真を見た時にどこに焦点がいくのかをコントロールする事が可能です。 左右両方共に美しさが存在します。光、人、小物、インテリア。 全体的に見渡したくなる写真は、どこを見ても美しさのポイントが有ります。 一つ一つの要素に緻密な計算を入れる事は写真のそのものの魅力に関係し、人の目を引きつける為に必要な事です。 ※フレーミング:横写真 横写真で有り、引き写真であるこの写真は水平垂直が保たれんなければ大きくバランスを崩してしまいます。 今回の写真の場合部屋の角に対してスタンドポジションを45°とり、奥に広がる線を水平のラインとして捉えました。 垂直は部屋の角の床から天井までのラインを重視しやや高めからの構図でありながら水平垂直をキープしています。 横写真を選択する理由は全体的に写したいポイントを写す為に必要だったからこその選択です。 ※前ぼかし:スタジオ常備の植物、透過光を得るため葉の薄いトネリコの葉を使用。 私は普段の撮影の時から何かしらの効果的要素が有るときのみ手前にぼかしを入れます。 今回は全体的に明るい写真となる為、明るさを有る程度落ち着かせるため、四辺に透過効果の有るトネリコの葉を使用しています。 何故この植物を使うかにも理由があります。 光をすかしやすいこの木の葉は重たくなりすぎる事なく、程よく画を安定させてくれるからです。 造花の葉や他の厚手の葉を利用すればたちまち手前に濃い緑が入り画全体のウェイトを重たくしてしまいます。 一枚の写真を良く見せる要素として前ぼかしを利用するのが理想的だと考えます。 まだ細かく開設すれば技術的な話は尽きないのですが、他にも大切な事は多く有ります。 時間は人を成長させ、時間は、全ての物を変化させ、時間により交わされる言葉も変わって行く。 写真を媒介して長く人と接して行くという事は時間と共に互いも変化して行くという事。 その関係は写真だけではなく、相手との信頼関係や、共に残してきた人生の証でもあります。 私たちの写真は決して1人で作る事は出来ないものです。 大切な人が目の前に居る事と、大切な仲間が横に居る事が絶対的な条件となります。 10年近く前、私がカメラを持った頃彼女は産まれ、私がカメラマンとなった頃彼女はきっと歩き始めた。 そして大切な仲間達も当時それぞれの人生を必死に歩みながら今共にこの場所で美しい光景を見ています。 時間は全ての人に平等で多くの偶然と巡り合わせから今この場所に居ます。 残して行く事は彼女が生きてきた証でもあり、私たちがここに居た証でもあります。 写真とは時間の記録であり、時間とは止める事の出来ない美しい流れなのではないでしょうか。 過去も、今も、この先も。 私たちはその時間の美しさを記録してきたいと願います。 それが写し手の使命であり、価値であり、証であるから。 大切な出会いと素晴らしい人たちに感謝の気持ちを込めて。
なかったことにしないで
2016/5/4
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OMIYA Photo Photographer: Soo Cordinater: Kazuko Saito 「自然な感じ」というのは、 ライフスタジオの写真に求められるもので1番多いものかもしれない。 私たちは幾度となく、「自然とは何か」と考えていることだろう。 私たちは「自然な感じ」をたくさん撮る。 お客様からも「こんなに自然な感じで撮れるなんて」という言葉を頂き、 そんな写真が撮れるということはスタジオの強みだ。 しかし、本当にそのままの「自然」というのはどうだろうか。 それはすごく難しい。 そもそもスタジオは、非日常な場所だし、 あまりにそのままの姿では、スナップ的で、画として残すのは難しくもある。 けれど、「自然な感じ!」「可愛かったー」で終わりたくはないのだ。 なぜなら"感じ"ではない「自然」には、 その時その瞬間の本当のその人が居るはずなのだから。 それを無かったことにはしたくない。 それに、 そのありのままの自然な姿に美しさを感じた自分の心も、 無かったことにはしたくないのだ。 何かを決めつけることなく心を開いていれば、日常的で自然な姿は溢れている。 そして、その瞬間はもう二度とない。 それに気がつけるか、 受け取る準備ができているかどうか。 そんな瞬間がないわけでも、難しいわけでもなく、 自分が自分に制限しているだけだと気がつくこと。 そう自覚することができれば、 受け取れる範囲はいくらでも広げていけると思う。 だからキャッチ出来るように、 いつも自分の中に余白を残しておく。 あらゆることの中にある美しさを、 素早く見出せるように。 自然な姿というのは、相手にとってはあまりにもありふれていて 普段は意識もせず、気がつきもしないものかもしれない。 けれど、それが何よりも尊く美しい。 記憶と写真が繋がった時によみがえる感情。 それすらも含むような家族の光景。 その瞬間を逃したくないし、残して伝えたいのだ。 だって、そうやってハッと気がつける場所が、 ライフスタジオなのではないかと思うから。
『 花、開く 』
2016/4/30
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Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Codi by Mayuko Hara 人生は無駄の積み重ねで花開く。 最近、流行っていた言葉の一つに「ルーティン」というのがあるのは皆さんもご存知の事。 その意味としては、決まりきった仕事、日々の作業とある。 文字通りこの意味から取ると多くの人が毎日の仕事や動作、生活において該当するそれがあるでしょう。 しかしこのルーティン、毎回必ずやり続ける事は難しく、毎回やり続けてこそ意味を成す事なのでしょうが、そもそもこのルーティンには何の意味があるのでしょうか? その答えに関して私は「ルーティン自体には意味が無い」そう思います。 なぜなら達成したい目標やどうしても出したい結果があるからこそ、そのルーティンに意味が宿るのだと思うからです。 でもこれは当たり前ですよね。 そういった目標や結果が元々無ければそれはただの癖やジンクスみたいなものに過ぎないからです。 私が今まで生きてきた上でいわゆるルーティンと呼べるものがあります。 それは20代の頃、バンドをしていてLIVEをする時の事。 私は日頃、靴下はハイソックスと決めています。 靴下とLIVE、そしてルーティン、その関係はこうです。 LIVE前、楽屋から出る直前にLIVEの成功を誓うと共にその靴下を膝下までススッと上げるのです。 この私のルーティンに関しては賛否両論あると思うので軽く聞き流してもらっても構いませんが何百と繰り返したある種のルーティンなのかもしれません。 では、本題である撮影に関してのルーティンに話を移します。 それは単刀直入に言うと、毎回同じポイントで撮影を繰り返すというものですが、これだけではまだルーティンと呼べるものではないでしょう。 同じポイントを繰り返すというのは撮影という大きな世界を小さく分けるためです。 サッカーで言うところのフリーキックのようなものでしょうか。 そうすることで自分自身にルーティンの準備をさせます。 そして「その場所で最も鮮やかな景色を想像」します。 毎回のその瞬間を決定的なものとし核心となる写真を残すために決まった想像をします。 するとそのシュートは決定率を増していきます。 そしてそれを繰り返したある時、自分の想像していた景色を目の前にする事が出来るのです。 その瞬間それは想像ではなくなり現実のものとなっていきます。 そしてまたそこで新たな景色を想像する。 つまりこれに終わりは無く、永遠に同じ場所で違う景色を観る事が出来るのです。 それと同時に始めの景色を想像していなければ次の景色は無いという事。 これが私が最重要に思う事です。 冒頭に述べた「無駄」というもの。 何の景色も想像せずに繰り返すのはただの無駄になってしまう事が多くあります。 それだけでは身に成る事には至り辛くただの無駄の積み重ねに過ぎないかもしれません。 しかし、頂上の景色を想像し、同じ山を登り続けることでその一歩一歩は初めて努力というものに変化をしていくのでしょう。 その為に、時には遠回りだと分かっていても通らなければならない道もあるし本当の無駄を探す事も必要です。 だからこそ、無駄を積み重ねる事がその山の頂上に花を咲かせることに繋がるのです。 撮影者として、目の前にある宝ものを写真の中でより宝ものとして表現する。 これが私の想像していた一つの景色であり、次の景色を目指そうという実感を得た瞬間であり、彼と一緒に山を登った瞬間でもありました。 人生は無駄の積み重ねをする事でようやく一つの小さな努力となり、その繰り返しで花開く。
心を拾う
2016/4/30
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なんでもない時間が愛おしいと思うときがあります。 晴れた日に広い公園を歩いているときや、電車から景色を眺めているとき、ぼんやりと人を待っているとき、何にも予定の無い日に早起きしてみて、どう一日を過ごそうか考えている瞬間。「何かをしている」ときではなく、「何かをする前」または「何かをする途中」の、小説でいえば「空白」の時間。そんなときに、なぜかふと急に「いいな」と思うときがあります。いつもは時間を見て、「次にこれをしなくちゃ」という予定を考えるのですが、たまに時計を気にせずに過ごしてみると、いつもは追いかけたり急き立てられていた時間というものが、自分の手の中にあることに気が付きます。なんでもない時間が愛おしいと思えるのは、たぶん、「なんでもできる」からでしょう。 時間は自分の周りを常に流れていて、けしてつかむことも止めることもできないものであり、目には見えないけれど確実に存在しているものです。 その当たり前のような存在を確かに自分の手の中に感じたとき、それをどう使おうか、と考えます。 なんでもできるから、自分の心に問いかけます。「今、何がしたいか?」「今、何を思っているか?」なんでもない時間は、自分が自分の心を見つめるときです。 小説などでは、電車の窓から景色を眺めたり、ぼんやりとしているとき、体が動いていないときは心理描写が入ります。 過去に思いを馳せてみたり、未来を考えたり、誰かのことを考えたり、頭や心はせわしなく動きます。そんななんでもないときに考えていることは、実は価値のあるものだったりします。 そのときにでてきた言葉とは、その人がどういう人かを、表すものです。 そうして考えていったことが積み重なって、自分の頭の中の世界観をつくっていきます。 大きくなる、というのはそうした思いが増えていくことかなと感じます。 3年前に初めて会った時、まだ赤ちゃんよりの体型で、手もほっぺたも柔らかくて丸っこかった彼女はもう6歳。 すらりとスタイルが良く、すっかり大人のお姉さんになっていました。 昔から人なつっこくて、何をしてもにこにこしてくれていた彼女。 今回も変わらないその笑顔を見て、「お花のように笑う」とは、このことなのだろうと思いました。 可愛らしい笑顔はそのままでした。 靴を触って、と声をかけて撮っていたら「これでいいのかな?」というようにこちらをちらりと見た彼女。 恥ずかしかったのか、何かが面白かったのか、ふふっと笑ってくれました。ほとんど考えずにシャッターを押していました。 心に響いた瞬間というのは、頭を通さないでも指を動かすのだなと感じます。 このとき考えていた写真とは違うものでしたが、それでいいのだと思います。その瞬間にしかないものをおさめることができたということ、それが大事です。 彼女は、照れて屋さんで、あんまり多くは話しませんでした。 たぶん、彼女に1年後「どうしてこのとき笑ったの?」と聞いてみても、覚えていないのでしょう。 でもそれを拾うことができて、こうして残せたことで、なにげない日常として彼女の世界のひとつになってくれればとても嬉しく思います。 小さなときは、こちらが何かアクションをすれば笑うので、なぜ笑っていたのかなんとなくわかっていたのですが、もう「幼児」から「少女」へと変わった彼女には、彼女だけの世界ができています。 秘密めいたその心に何があるのか、わかりません。 でも、きっと彼女は彼女で、いろんなことに心を揺らしていくのだと思います。 そうして何気ない日常を過ごしながら、世界に色をつけていうのかなと思います。 「なんでもない」に価値を与えていくのは、人の心と言葉です。 そうして世界はどんどん色づいて、輝いていくような気がします。
“写真を撮る”ことから“表現する”ことへの一歩
2016/4/30
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Photo by Choi Eunpyo Coordi by Katsu “写真を撮る”ことから“表現する”ことへの一歩 写真と向き合う際に"技術的にどのように写真を撮るのか?"という問題と"どのように対象に接近して、主題を写真的に表現するのか?"との問題はいつも悩まなければいけない内容だと考えている。 そしてこの二つの問題は切り離して考えられない内容だとも考えている。 ここで、技術的な考えが知性なら、対象への接近や表現に対する考えは感性であると個人的には理解している。 私がはじめて写真を撮り始めた時、関心を持ったのは、写真ではなく、カメラだったと思う。 なぜならば、カメラを設定し、自分が望む結果を出したときの喜びがあったからだ。 結局、自分は"技術的にどのように写真を撮るのか? "という知性的観点で写真に興味を持つようになったと思う。 実際に本格的に写真を撮り始めながらも、どうすれば写真技術を習得し、向上させることができるだろうか? という考えとともに、技術が向上すればより良い結果の写真を撮ることができるだろうという観点からいつも考えていたと思う。 しかし、写真を撮るための技術は向上するかも知れないが、写真を表現するに当たっては、その限界があるということを近頃改めて感じている。つまり、技術的に写真を撮るということに対する知性の習得が、対象をどう表現して理解するのかについての感性的な発展を図るものではないということを感じるようになったのだ。 もちろん、カメラの操作、照明、構図など写真の技術的な発展は、撮影に余裕を与えることができ、感性的表現にも多少良い影響を与えている可能性はあるものの、写真の感性的意識自体を発展させることでないと考えている。 例えば、撮影を始める前に、その日の天気と光の強さ、衣装やコーディネートなどの組合せなどを見て露出はどれくらいだろうか、光がよく入ってくるところはどこか、どのような流れで写真を撮るかなどを先に考える。 これは撮影をするため、基本的に必要な観点であると思う。 そしてほとんどのカメラマンが行う行為であると思う。 しかし、これとともに重要視しなければならないことが、"どのように対象に近づき、表現するのか?"という感性的な観点であると判断している。 つまり、目の前の対象を観察して、対象が何を考えていて、それに対する私の感情意識がどうであるか考えること。そしてそのような理解を通して、目の前の対象をそのままではなく、どのような姿の対象に変えたいかを考えることが感性的な観点であると言える。 写真はカメラではなく、人が撮ることである。 この一節は当たり前な言葉に聞こえるかもしれないが、私の意識を大きく変化させる言葉だった。 私が撮っている写真は果たしてカメラという機械が撮っているのだろうか? 私という人間が撮っているのか? 単に写真を機械的な観点で眺めているのではないかという反省とともに。 これは上にも言及したどのように対象に近づき、表現するかという観点への認識の転換において大きな契機になったと言える。 知っていたが、知らないふりをし通り過ぎていたこと、しなければならないと思ったがしなかった部分を刺激させるきっかけになった。 そのため、今は人の心を理解して表現する方法とそれに対する私の感情をどう表現するのかをよく考えるようになった。 そしてそれを実践に移す為に日々努力もしている。 ただ、今の時点では私に頭ではなく心で写真をどのように撮ろうとするのかを問いかけられると、まだ具体的な答え持っていないかもしれない。 しかし、認識の転換に私はより大きな意味を置きたい。 単に"写真を撮る"という行為で"写真を通じて表現する"という行為の第一歩を踏み出したと思えるからだ。 このような意味で、現在草加店で進めている夫婦写真のコンセプトの撮影は私に多くの刺激を与えている。 お母さん、お父さんという役割で訪れた顧客を一人の女性男性として表現すること、そして二人だけの関係性を表現することは技術的な面よりも対象を理解する心がより必要とするからである。 ロマンチックな二人の写真を撮る時もそうだった。 子供への愛情と同じくらい、溢れる笑顔で終始互いをみつめあっている夫婦は、新婚夫婦であるといわれても、信じるほど仲が良い関係である。 そしてそんな二人の関係性が私にも伝わってきて、その感情が感じられるたびに、シャッターを押した。 短い撮影時間であったため二人と多くの話を交わすことはできなかった。 しかし、二人の関係を知るには十分な時間だった。 私も結婚をして息子がいる父であるため、夫妻の写真を撮る際の感情を誰よりよく知っている。 お互いに見つめあう時は恥ずかしさより、ぎこちなさを感じて、そのぎこちなさで早く撮影が終わったらいいという心が先にある。 しかし、この2人からはそのような雰囲気よりは信頼というのが感じられた。 お互いを見つめる目の輝きで感じられる余裕からお互いを信じているという感情が私に伝わってきたからだ。 お母さん、お父さんという役割で二人の関係を定義するだけではなく子供を愛するだけに、その子供を一緒に育ってて家庭を作っていく人生の同伴者としての信頼が撮影と写真を通じても感じることができた。 このようにまだ足りないところばかりだが、"単純に写真を撮ること"から"写真を通じた表現"する行為に発展させられるように、さらに多くの努力をしていこうとしている。 始まりは単に相手を観察してその感情を理解する程度に過ぎないからかも知れないが、それが熟練されて、写真でその感情と感性を豊かに表現できるようになると思っている。 そして、そのような写真を通じて機械ではなく、人が人を撮った表現であると堂々と言える自分の姿を期待している。
通じる
2016/4/30
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人と人とが想いを通じ合うことはどんなことでしょうか? 目と目があえば通じ合うものでしょうか? 言葉を交わさずにテレパシーのようなものがあるのでしょうか? 私は少しの間通じ合うことができずにどうしたら良いのか もがいていたように思います。 今までこうすれば良いと思っていたことが通じなくなっていました。 でも人間同士の関係ってなかなかそう簡単にはいかないものです。 だからこそ、人は面白いのかもしれない。 だからこそ、人に対して悩み続けるのかもしれない。 そう思うことができたのは ここで私がいることで気付けたとても大きな財産だと思っています。 それは私だけでなく一緒に撮影に関わったスタッフや同じ店舗で毎日過ごしている仲間にもそう感じて欲しいと思います。 4月はペア制を取り入れて以前よりガヒと撮影に入ることが多くなりました。 今まではあまり撮影以外のことは話さなかったのですが、 それがなんだか少し距離があるように感じました。 だから、もっと色んな話をしながらガヒの事を知っていかないとこれから後悔するかもしれない。 とにかく話をしなくていけないと思い以前より話すことが増えました。 今ガヒがなにが好きなんだろうかと撮影以外の話をする事から始まったのです。 好きな映画や音楽からなんでも。 今月の主題の家族写真について話した時も 少しづつ以前よりも流れる空気が違うことを感じました。 そんな中でがひはコーディネーターとしてどんな風に取り組みたいかという話の時に イメージ画を描いてくれるということとなり描いてくれました。 今回のphotogenicにした写真がイメージ画と重なりました。 色んなタイミングがあったからというのも一つかもしれません。 この家族は笑いながらだけど、恥ずかしさがなくて色々こうしてくださいということに対して パパとママが向き合ってくれたから、がひのイメージと重なった写真でもあると思います。 パパとママが内緒話をしているのを恥ずかしそうに見る子供はどんなことを思ったのでしょうか? 色々なことが通じあってそれが形になることは 今までやってきたことが間違っていなかったことでもあるのかもしれません。 Jiyugaoka Photo by aimi ,Coodinate by Gahee
解放
2016/4/30
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新しいインテリアが始動した。 扉が開いた瞬間に目に映るもの、差し込む光、いろんな色を持つ植物、テーブルに並ぶ食器、棚に並ぶ絵本、飛び跳ねたくなるようなベット、天井から吊るされる様々なレース、香、、、 好奇心を掻き立てられ、遊ばずにはいられない。 棚に置いてあるもの、どれを使って遊ぼうか。 ベッドの上に置いてある、いろんな形をしたクッションで遊ぼうか。 植物に触れてみようか。 テーブルの上には何があるのか覗いてみようか。 レースに隠れてみようか。 そんな気持ち達が溢れている時間だった。 それは、子どもだけではない。 私も同じように好奇心が沸き立つ。 解放された空間の中で、無邪気に遊ぶ子どもたちを見ると、私も解放される。 決められた形はなくて、自由に、のびのびと。 そんな自由な空間で、無邪気に遊ぶ彼女。 ドレスを着て、ティアラをつけて、裸足で走り回り、扉を開けたり、締めたり、覗いたり。 私も上から撮ってみたり、隠れてとってみたり、その子をいろんな角度から覗いて、ふと声をかけてみる。 撮影をしているという意識から解放してあげて、 同じ目線で、同じ気持ちで、同じ空間の中で過ごしてみる。 ただ手にはカメラを持っている、くらい。 そんな風に、自分も自然体でいられる事、好奇心を持つこと、同じ目線で遊ぶ事、それがとても大切なのだなと 改めて感じる事のできた撮影でした。 Photo:Mukae Coordi:Suzuki
feeling myself,
2016/4/30
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何故、この写真を撮ったのですか?と問われて、すべてを論理で説明し尽くす自信はありません。 撮影空間というライブな世界の中で、その時、その瞬間だけのナマモノな感覚のすべてに、なるべく近い言葉を着せて当てはめていくことは、いつもとても難しい。 それでも、試みてみようと思うのは、私が写真を撮っていく上で「何故なのか」という問いかけを、この1ヶ月たくさんたくさんしてきたからです。この1ヶ月は、幾つもの「いつも」と違う視点に触れることができました。 何故シャッターを切ったのか?何故写真に残そうと思ったのか?何故こう撮ったのか? 「いつも」という無意識的な反復に、再度目を向けて、今までの「何故?」を振り返り、これからの「何故?」への足掛かりにしなければならない。 私が撮る写真には、「わたし」が写っている。 自由で、楽しくて、美しい瞬間が、ここにあった。私がシャッターを切った理由は、それに尽きます。 この時、撮影空間には柔らかな光と、笑顔と、温かい空気が満ちていました。 撮影空間、という表現において、私はただその「場所」だけを表すものではなく、そこを構成するすべての要素の三次元的なフィールドであると考えるようになりました。その場所、そのインテリア、そこにいる人たち、その関係性、そういったもののすべてが複合的に、「空間」には反映されます。私たちは撮影者として、「わたしたち」と被写体である「その人」という存在との関わりを作り、「わたしたち」という言葉は撮影者だけでなく、その場にいる人すべてを表す言葉になります。「わたしたち」が、その場の空気を作り、その空間を構成します。 そこにいる家族も、子どもも、撮影者も、安心して笑い、思う存分ふざけ、互いに楽しみ合うことのできる空間。この時、新横浜店のこの部屋には、そんな空間が拡がっていました。 この空間に溢れる、お兄ちゃんの笑い声と走り回る足音、パパさんママさんがてんやわんやしている声。 可愛いかわいいとはしゃぐ、カメラマンとコーディネーターの声。大きなカメラのシャッター音。 部屋の温かさと、そのからだを受け止めるベッドの柔らかさ、嵐のようだった外が嘘のように晴れ渡って燦々と差し込む光。 それが、まだ目がよく見えない彼が「感じる」空間。 生後2ヶ月の彼に、視力で「見る」という認識はできなくても、「感じる」ことで見えない部分を補うことは、きっとできる。 言葉を話せなくても、そんなによく見えていなくても、だからこそ、カタチのないものを敏感に感じ取って、反応する。 だから、この空間は楽しさで満たさなければならない。パパも、ママも、お兄ちゃんも、撮影者である私たちも。この空間を構成する人たちが心から楽しんでいたら、彼は安心してそれを楽しむでしょう。 私がいちばん大切にするものは、撮影空間を心地良く構成すること。 居心地の良い空間が構成された時、Babyの撮影の準備は整うのだと思っています。 私自身、そこを構成する一要素として、Babyと向き合います。「居心地はどうですか」と問いかけながらファインダーをのぞけば、彼の答はその動きや表情を観察していれば、何となくわかります。 「わたしたち」はただただ楽しかった。こうしてカメラを持って、Babyと向き合って、後ろでは1歳の時から知っているお兄ちゃんが怒涛の勢いで走りまくっていて、パパやママは彼を追いかけ回していて、ずっと笑い声が響いていて、そんな空間が本当に、楽しかった。 運動会のようにやかましいのに、彼にとってはそれがとても心地良さそうで、そうしてふっとカメラの方を見た、そのあまりにも無垢な存在感に打ち抜かれて、「とっておきたい」と思ってシャッターを切りました。 生後2ヶ月の彼の姿。この時、この最高に楽しい空間を共有した、共に構成した、掛け替えのないこの姿。そして、それを写真に残した、この時の「わたし」。この写真は、私がいちばん大切に思う撮影空間が、極めて理想的に構成されたその結果。 自由で、楽しくて、美しい瞬間が、ここにあった。 私がシャッターを切った理由は、それに尽きます。 Life studio No,17 Shinyokohama Photo by Reiri, / coodi by Yonezu
capacity
2016/4/26
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Omiya photo Photo by Soo Coordinate by Yu capacity 容量・能力・力量・技量・手腕・技能・受け入れ・取り込む能力・潜在的な可能性… コーディネーターの私には何ができるのだろうか。 私はいつもその問いを考え続けています。 ふいのハプニングに涙を見せる姉。 なんとかしようと奮闘する父。 弟を抱っこしながら声を掛ける母。 このピンチともとれる状況をシャッターチャンスに変えようとファインダーを覗くカメラマン。 はたから見れば私はその時、何もしていないのかもしれない。 カメラマンの意図を感じ、写り込む場所を離れ、声を掛けつつただ見守っていただけなのだから…。 子どもが泣いたら落ち着くまで待とう。 そういう選択肢ももちろんあります。 しかし、この時は“残そう”という考えがカメラマンと私の間にありました。 言葉を交わしたわけではありません。 ではなぜそれがわかるのでしょうか。 それはカメラマンの考え方や撮影スタイルを知っているからでもあり、この時大宮店が親子写真に集中していたという事実と共通理解があったからでもあります。 もしもこの時、私がカメラマンの意図を察知できずにいたらどうなったのか。 それも一つの違う形になっていたかもしれないし、そうでなかったかもしれません。 コーディネーターがシャッターを押すことは出来ないけれど、シャッターを押せる状況を作り出すのはコーディネーターの役割でもあります。 その時、その瞬間に何を残せるのか、どう残すものにするのか。 被写体によって表現されたこの世界をどう扱うのかは実は私たち次第なのです。 そしてcapacityが大きければ大きいほど受け止められる状況が広くなります。 そしてカメラマンとコーディネーターがお互いのcapacityを理解し、受容している事も大切な要素のひとつだと考えます。 だからこそLifestudioは、読み、書き、討論をはじめとする学習に重きを置いているのだと思います。 自分を知るために、 仲間を知るために、 お客様を知るために、 世の中を知るために、 世界を知るために、 人を知るために… そしてそれはcapacityを広げることに繋がっているのです。 どんな状況も受け止められるcapacity。 そしてそれを美しい写真として残すcapacity。 そんなcapacityをもつことが出来るように…。 コーディネーターの私には何ができるのだろうか。 私はこれからもその問いを考え続けていきます。
『愛、繋いで』
2016/4/12
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Photographer: Ryo Coordinater: Kaori Lifestudio : YokohamaAoba 2016年4月9日 世界のどこかでまた一つ、愛は繋がれる。 何故ここでこのような写真が生まれたのかはこの場所に居た僅かな証人達しかしらない。 人生とは人がこの世に生を受け、その生涯を閉じるまでの時間の事を示します。 人はその時間の中で、多くの経験をして、喜びや苦悩を味わい『今』に至ります。その条件には年齢など関係なく今この日この瞬を間生きている人たちに平等な条件です。 さかのぼる事50数年前、おばあさまが13歳のときに仕立てた着物は50数年後3歳の女の子が来ている。 そう、人の時間を形として残していくのは大切な思い出の品。 半世紀の時を越えて当時の愛は今へ繋がれている。 撮影をいやがる彼女へ、気分を変えて外にでも行こうかと声をかけた。 そんな一言を発した瞬間からこの時を待っていました。 時に伝えたい写真はいつも私達が居る空間とは別の場所に有る事が有る。 その瞬間私は単純にリアルを求めていました。 作られた環境ではなく、その人たちが一番居心地のいい場所で。 春の温かい日差しは、それが繋がれる写真が約束されていた場所でもありました。 ここでなければ、土に汚れた小さな手は、温かく優しい少し大きな手に小さな花を渡す事は出来なかったでしょう。 少し違う場所だったら、2人の赤色を囲む春色の緑も無かったでしょう。 そしてここでなければ、温かな日差しも無かったでしょう。 願わくばこの写真がまた愛を次へ繋ぐ物になりますように。 いい時間だった。この時事をそう記憶している。 7回目の撮影は私を私でなくしていたのかもしれない。 そこに居る私達含め全ての人が家族のようだった。皆が笑顔でその瞬間を見ていた。 そう、それだけで私達の写真の目的は遂げられていたのです。 技術的な設定も工夫し、自分の出来る技術全てをその一瞬に詰め込みワンシャッターでおさめたが、数字など細かい話はこの写真に必要なく思います。 必要なのはただ一つ目の前にある時を越え、繋がれた愛のみ。それで良かったのです。
『 今、何を想う 』
2016/3/31
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『 今、何を想う 』 Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Codi by Mayuko Hara 先日とある情報番組でリアルイラストレーターの特集をしていました。 そこに描かれていた野菜や果物、寿司などの絵は、それは緻密で繊細であたかも本物を写した写真、又はCGかのように見えました。 その多くは普段、誰もが手にする商品のパッケージなどに使われ販売促進の役割も担っています。 そこで番組に出ていたコメンテーターがこう言いました。 「写真のようにそこにある物をただ撮る事は簡単ですが、この絵の様にここまで美味しそうに表現する事は出来ないですからね」と。 確かに写真は今そこにある現実を写すもの。 美味しそうでない物を美味しく見せる事とはまた違った話しかもしれません。 しかしそこにある現実というものに向けてただただシャッターを切るということではフォトグラファーとしては成らず、そうなる為にはその現実に「表現」という技術を使わなければなりません。 そうすることで、例えば冷たい料理をあたかもあたたかい物のように写す事も出来るのです。 しかし、これは写真というものの奥深さでもあり難しさでもあります。 それは時に、その表現を重視してしまうが故に本来の美味しさの部分を失わせてしまうことに繋がる場合があるからです。 例えていうのならば、美味しそうであるけれど冷たいカレーライスをあたたかそうに写せたものの、美味しそうではなくなってしまった。といった感じでしょうか。 欲しいものを手に入れるために失ってはいけないものを失ってしまう。 これでは勿論、表現という名の技術と呼ぶにはほど遠い訳ですが、写真の世界ではよく起きていることだと感じています。 自然な光景を作ろうと不自然になってしまったり、高級感を高めるがあまり本来の良さが薄れてしまったり、と。 季節は春になり、幼稚園や小学校、そして中学校と入学の季節となりました。 まもなく中学に通う少女はもう昨年とは違い、照れや恥じらい、意志などを感じさせるいわゆる思春期の門も開こうかとしていました。 そこで、彼女の「今、何を想う」を紐解き撮影を進める必要がありました。 最小限のワンポーズで彼女の今の「想う」を表現し、彼女の美味しさの部分を決して失わないように。 自分の目の前にある人を写真に残すことはもっぱら簡単な事かもしれません。 ですが、今、そして今までを写し、且つ「今、何を想う」までをも写し出す事は大変難しい事であり、マニュアルとして表すことの出来ないれっきとした技術であると私は思います。 だからこそ、その技術を会得するために私たちは毎日「発想」を繰り返すべきなのです。 「一年間かけての準備より、日々出し続けていく瞬時の発想。」 発想とは瞬時のものであり全てが事前に準備できるものではありません。 本当の準備とは、毎日の鍛錬のことを示し、それとはまた区別した「発想するという概念」が無ければならないと私は思います。
想像
2016/3/31
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想像の世界は無限大です。 子供のころは、自分の知らない場所や物事を、自由に想像することができていました。 知らないからこそ、自由に思い描けるものがあります。 ちょっとがんばればどこへでも行けるような気もしていました。 お金は必要だろうけど、少し用意すれば遠くまでは行けるのではと思っていました。 海を渡れば外国へ行ける、電車に乗れば、面白い建物がある。 クリスマスの夜にはサンタがプレゼントを配っている。 子供に大きくなったら何になりたいか聞くと、ケーキ屋さんだったりアイドルだったり歌手だったりサッカー選手だったり、いろんな答えが返ってきます。 子供の目にはたくさんの楽しい世界が映っています。それは知らないことを武器に、想像することができるからです。 行ったことのない町はどんな風景があるのか、どんな人が住んでいるのか。 ケーキ屋さんはどんな仕事をしているのか。 いろいろ考えることで、自分の中の世界をつくるのです。 子供の寝顔がなんだか幸せそうに見えるのは、楽しい世界が作られていることがなんとなくわかるからかもしれません。 でも大きくなるにつれいろんなことを知って、知識や、現実的な計算の幅が広くなると同時に、固定概念ができてしまって、想像には少しずつ境界ができてきます。 変わった日常も、意外と早く日常へと変わってしまうものです。 でもその想像と現実を上手に合わせる方法もあります。そうして作られたのが映画や小説です。 それは私たちに、新しい想像の形を与えてくれます。 もしかしたら、こんなことがあるかもしれない、という想像に現実という情報が加われば、よりリアリティのある、面白いお話ができるものです。 大人も、結局は子供の延長戦で、楽しいことを考えずにはいられないのです。
成長過程
2016/3/31
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毎日写真を残すことが成長につながるという風に私は思ってました。 私は入社して3年、カメラマンとしてちょうど1年が経ちました。なぜ私はここにいるのか、なぜ写真を撮る選択をしたのか人それぞれ思うことはありますが 人生の写真舘で働くということへの意識大切さこそが使命になり私たちの思考と思想への導きの原点になるのではないでしょうか。 今現在の私がここで働く中で表現したものは関係性です。 「あなたらしさを見つけて、自分らしく写真を残す」 ・美しさ・表現の楽しさ・思い出の為の記録 を念頭に置き働く私たちにとっては当然のことでありこの部分を楽しんでこそライフスタジオのカメラマン、心から接してこそライフスタジオのスタッフです。 この家族とは三度目の仲になります。去年は私とのアルバムを作って届けてくれました。ライフスタジオに入社しここで働く私にとって大切なファミリーになります。毎年訪れる大切な時間に、1度目より2度目、2度目より3度目、どんどん接する会話や時間の過ごし方が違ってくるのは当然のことで楽しみが増える一方です。予約入った日嬉しく思い、撮影日が近づくにつれてワクワクしてくるものです。 入社してすぐに出会った家族で当時は2人兄弟でした。それが今は3人目の妹を支える兄達です。その兄達がこれまで撮影した経験と私自身の経験が活き活きとした撮影でした。3人で手をつないで足をみんなでクロスさせたかったのが私ですが、兄達の手際の良さがささえてくれた行動過程。それがこの1枚です。私が声をかける必要もなく彼ら自身の意思で行動し妹を導いていく姿になります。 そして、それは同時にこの子達が今日までに到達した成長ということにもなります。 「人生は選択の連続」と誰かが言ってました。人を選ぶのも選択、その場所に向かうのも選択、しかし相手を知ろうとするのも選択でそれはどこか近いようで遠いものです。仲がよくなるにつれて見えてくるものとは、内なる部分の整理によってわかって来るものであってこの写真の持つ力はきっとそういったものがキーになるのかもしれません。 私たちは日々被写体へ指示をし、それが遊んでもらうことだったり、ポーズをとってもらうことだったり、その被写体の行動そのものの過程を写真に残し、流れとしてもしくはストーリーとして原本の中へ入れます。 写真を残すだけでなく思い出も、その映像もちゃんと残るように接しどう行動するのかどう考え表現するかが成長への第一歩と感じました。 また来年が楽しみでしょうがないです。
私は海の男、漁師だ
2016/3/31
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OMIYA Photo Photographer: Soo Cordinater: Yu 漁師の話で例えてみよう。 私は海の男、漁師だ。 仲間と一緒に船に乗り込み、何時間も共に漁をして、 暴れまわったり、ぜんぜん引っかかりもしなかったり、幾多の苦難を乗り越えながら、 やっとの思いで魚を釣り上げる。 船の上でさばいて共に食べる魚の味は、 海の香りがして、目をつぶればさっきまで生きていた魚が、 ゆうゆうと海を泳ぐさまが浮かぶほどの新鮮さがある。 苦労を分かち合いながら食べるその味は格別ってもんだ。 魚は市場にも運ばれる。 セリにかけられ、値段が付き、お店などに運ばれ様々に調理されることでしょう。 とある料理屋さんで魚を食べる人に対してシェフが、こう言った。 「あの日は大荒れで大変だったんだ」「これが釣れた日は大しけでなかなか釣れなくて」 なんて話をしても、食べる人にはピンとこないし、その料理の価値もそうそう上がるもんじゃない。 「この魚は今が旬で、脂がのっております。さっとゆでてお召し上がり頂くのが最高です」 「この魚の良さを生かすために、レモンで酸味をきかせました」 などと説明されて、食べる人はなるほどと思い、料理の価値も上がるのだ。 私は漁師。 時々、船を降りてお店に直接出向き、魚を調理する。 フライにしたこともあれば。 色々なスパイスも試した。 沢山の言葉で伝えてみようともしました。 ”私の釣った魚は最高です” けれど、船の上の臨場感を知らない人に、そのいきいきとしたさまを伝えるのは 本当に困難であり、むしろ不可能なのかもしれない。 けれど、私は海の男、漁師でいたい。 やっぱり鮮度で勝負したいのだ。 船の上でいつもやるようにさばこう! その魚が最高においしく感じられる、 大胆で、分厚くって、一番おいしい切り方で。 海の香りがして、ゆうゆうと泳ぐさまが感じてもらえるような食べ方で。 それを味わってほしい。それが私の方法なのだ。 もちろん皆さんの口に届く頃にはやっぱり鮮度は落ちるから、 本当の海の味が知りたいならば、ぜひ一緒に船に乗ってみませんか。 これからも沢山の人たちと、一生モノのその味を分かち合いたいって思います。 シェフでも料理研究家でもなく、 私は海の男、漁師なので。
調和
2016/3/31
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調和 URAYASU Photo Photo by Ta-na- Coordinate by volvo 写真を撮影する際に、私達はきっと様々な角度から被写体に向き合い、本当に様々な思考を巡らせています。 時々、考えすぎてシャッターを押すことも出来なくなる瞬間や、逆に考えすぎてシャッターを押し捲る瞬間もあると思います。 何をそんなに私達は撮影者という面からそして、時間と空間をコーディネートするコーディネーターという面から思考を巡らせているのでしょうか? 何も考える事を選択しなければ、私達は楽になれるのでしょうか? 何も考える事を選択しなければ、私達はもっと互いに自由になれるのでしょうか? 私達は少なくともライフスタジオという場所で様々な出会いによって導き出された結論としてはその問いかけに対しては やはり「違う」と答えるのではないでしょうか? 私達が伝えたい「想い」とは何なのか? 私達が表現したい「想い」とは何なのか? 伝えたい想いを表現する方法として、どのような技術を習得する必要があるのか? この子はどんな子なんだろう? 今、どんなことを考えて、どんなことを思っているんだろう? 10人いたら10通りの引き出しを、私達は持つことが求められているように感じています。 同じ場所、同じ時間帯、同じ年齢、同じ家族構成だったとしても、きっと私達はまったく同じ 表現をすることを望んではいません。 その子ならではの。その瞬間ならではの。その家族ならではの。その時々に化せられる条件ならではの。という「~らしさ」というアイデンティティーを引き出したい、きっとそう感じている。 だからこそ、私達は向き合う事、そして考える事を諦めてはならないと私は感じています。 その時々の条件によって、私は変化することを楽しむことが求められているし、 その変化を「楽しむこと」を選択し続けて生きたい。そう信じて様々な現場で撮影を続けてきました。 この1枚が生まれた背景に存在していた条件は 「その子ならでは」 「その瞬間ならでは」 「その時間帯ならでは」 「その条件ならでは」 という様々な「ならでは」でした。 753撮影にスタジオへ足を運んでくれたNagiちゃん。 着付けを途中まで頑張ってくれていましたが、途中で体調を崩し、着物を脱ぎ毛布に包まって倒れこんでしまいました。 その瞬間から、既に「いつもと同じ」ではなくなりました。時間が経過し、コンディションを崩してしまったNagiちゃんの姿を最初に見たときに、着付けを続行することは難しい=今日は753撮影をすることは出来ないかもしれない、そう感じていました。 休憩後、着付けを再び行う姿を見た時に、「大丈夫かな」そう思いました。 同時に「条件が不足している」ようにも感じ罪悪感も感じました。 いつもと同じ撮影時間ではなくなり、段々日も傾き始め、いつもの時間帯ではない光の具合になり、 辛うじて着物の撮影が出来たとしてもドレスとカジュアル撮影は難しいかもしれない。 どこで判断をしよう?何を提案することが今求められているのだろう? そう考える私達を横に、着物を黙々と耐えながら着替えてくれるNagiちゃんの姿、 そんなNagiちゃんの姿を見て、「頑張って」と心配そうに見守るママ、 2人の姿に必死に答えてくれようと着付けを続ける先生。 そして、着付けを心配そうにでも、諦めずにNagiちゃんの心の扉を静かにノックし続けてくれたボルボさん。 そんな、姿を見て少し私は恥ずかしくなりました。 今日は駄目かもしれない。今日は最高の条件がないから上手く撮影を最後まで出来ないかもしれない。 そう少しでも感じていた自分。勝手に変化を避けようとしていた自分の姿に気づかされてしまいました。 信じて待ち続けること。 頑張りたい、その気持ちに対してその時々の条件を判断しながら寄り添うこと。 向き合う事を諦めないこと。 最高の条件とは何なのか? 最高の条件は、生まれるものではなく、その時々、瞬間瞬間によって作り出されるもの。 だとしたら、今の私が彼らに対してどんな変化を受け入れて、どんな変化を楽しみながら表現をするのか。 耳を澄まし続けること。今存在している様々な「条件」を選択し、表現をすること。 らしさが表現された写真とは、「時間」「空間」「光」「被写体」「条件」「作り手」を「調和」させることで生み出されるのだという事を改めて感じる事が出来た1枚。 着付けを耐え、ボルボさんがノックし続けてくれた扉が着物の撮影の前に開かれ笑顔いっぱいで撮影に臨んでくれたNagiちゃん。着物を脱ぎ、様子を見て着物以降の撮影は辞めようかと提案しようとしていたドレスにも着替えた直後に和室にいつもの時間帯だったら差し込むことの無い綺麗なオレンジ色の夕日。 全てが、重なった瞬間でした。 全ての条件が、融合された瞬間でした。 この瞬間、現場にいる全ての人が与えられた条件に対して、変化に対して楽しさを感じていました。 「どんなものが、生まれるのだろう?」そんなワクワク感。 夕日の温かくて、力強い光に包まれたNagiちゃんを撮影したいと思いました。 この光は、その現場で感じた、Nagiちゃんを優しく見守る全ての人の「目線」として表現したいと考えました。 「大丈夫だよ。」「頑張れ。」「待ってるよ。」「無理しないで。」 そんな、互いを見守りあう優しい時間と空間の中で徐々に笑顔を取り戻す彼女の姿を残したい。 光を見た瞬間にここまでハッキリと表現したい明確なイメージが生まれた自分に対しても、 新しい発見のような新しい自分との出会いのようなものを感じました。 10人いたら10通りの条件が存在します。 そんな、様々な条件を「調和」するこの過程と生み出される瞬間を記録すること、そして記憶に残すこと。 それが、私達の仕事の醍醐味であり、「いい仕事」の答えであると私は思います。 半年間、様々な発見をありがとう。 この場所では、5人それぞれの「ならでは」が表現された作品に毎日感化され続けていました。 おかげで、この半年間で最も「これが私の大切なもの」に気づくことが出来、表現することの楽しさ、 参加し共に作り上げる楽しさを現場で本当に感じました。 これからも、別々に一緒に。
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