menu
menu
ログイン
予約
LifeStudioとは
ライフチャンネル
ライフチャンネル一覧
ライフNow
ライフ人
MVP店舗
イベント
フォトジェニック
コラム
店舗紹介
ギャラリー
ギャラリー一覧
Baby
Kids
753
1/2成人式
Birthday
Otona
撮影プラン・料金
(料金/システム/商品)
初めての方へ
撮影プラン
商品
Q&A
コミュニティ
コミュニティ一覧
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
店舗フォトジェニック集
ご利用の流れ
よくある質問
Official SNS
サイト内投稿の検索
Official SNS
サイト内検索
LifeStudioとは
ライフチャンネル
ライフチャンネル
ライフNow
ライフ人
MVP店舗
イベント
フォトジェニック
コラム
店舗紹介
ギャラリー
ギャラリー一覧
Baby
Kids
753
1/2成人式
Birthday
Otona
撮影プラン・料金
(料金/システム/商品)
初めての方へ
撮影プラン
商品
Q&A
コミュニティ
ライフチャンネル
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
フォトジェニック
ご利用の流れ
よくある質問
ログイン
予約
フォトジェニックアーカイブ
Photogenic Archive
トップ
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
So naturally...
2016/7/31
1
At Koshigaya No.5 Photo by Kudo / Coordinate by Takako 空には光。流れる雲と照らす太陽。夜に輝く星と月。 水は流れる。川から流れて海で波打つ。 地には雨と風と光。土は雨を吸い、命を蓄え、木は風を受けて揺れ水を受けて森となる。 自然とは、 何かの存在ひとつで自然なのではなく、その周りにあるものすべてが作用し作用され作り出されるもの。 空に太陽も雲も光もなければ不自然だし、水は流れなければ腐ってしまう。土には水分と有機物があるから生き物はそこに生きていけるし、木々は揺れも伸びもせずに止まっていたらまるで作り物みたいだ。 私たち「人」も自然のものだから、必ず周囲のものに作用し作用されながら生きている。 「人」は、「自分」と「他者」の「間」で生きている。 お互いがお互いを頼り、協力し、愛し愛されて生きている。 「人」は「人」に作用しながら生きているから、家族や友達、恋人を作るということは私たちにとってはとても自然に見える。 「人」は一人だけでは「孤独」を感じ不自然な状態であり、「一人」だけでは生まれることも生きていくこともできない。 だから、人が在るべき自然な姿とは「人」に作用し作用される姿であると私は考えます。 ライフスタジオではいわゆる「自然な写真」というものを撮るために日々撮影者は努力しています。 被写体へ何もせず、何も手も声も加えないで、被写体のそのままの姿を撮ることはどうしてか自然に見えません。 なぜならば、そのままでは「人」はその内面にあるものを何も出すことはできませんし、私たち撮影者という他者が存在しているのにも関わらず、何も作用しようとしないのは、被写体から見てみれば不自然な状況極まりないからです。 私はあまり写真館で写真を撮られた経験がなく、記憶に新しいのは20歳の時に成人式の前撮りで地元の昔からある写真館で写真を撮られたことです。 その写真館ではほぼ会話がなく、着付けとヘアメイクを済まされ、いざ撮影になるとカメラマンが煙草を吸いながら無表情な顔で「笑って」と一言言うだけの写真館でした。 当時の私は写真館という場所に行ったことのなかったので、写真館というものはこういうものかと思いましたが、今でも写真を見ると不自然な笑顔に違和感を覚えます。 その逆に自分が自然体でいられるときは、誰かに自分のことを話したり、誰かの話を聞いたりして、お互いにお互いの存在を認めリアクションをして、リアクションを見ている時なのだと思います。 それは、新しい職場に行くとよく経験をすることです。 初めは新しい職場の場所や空気感、同僚の雰囲気が新しく、まだお互いを知らない状態なので、自分を出せないと思いますが、その場所と同僚と仕事をしていくうちに慣れて打ち解けて、その場所の特性も同僚の人となりも知り、やがて自分も自然体でいることができると思います。 それは、一緒に仕事をして一緒の時を過ごすことによって、「人」と「人」とが作用し、作用される関係を築いていくから、「人」が自然な姿になることができるのです。 ここで私が言いたいことは以下です。 ・「人」は内面を安心して出せる状況でないと、「自分」にも「他者」にも違和感を覚えること。 ・「他者」が何者かわからないうちは「自分」を出すことができないこと。 ・「人」は「人」と作用し作用されることで自然な姿になれること。 ・つまり、「人」は「他者」を理解し、「他者」へ何らかのリアクションし、「他者」からリアクションを引き出した時に、お互いに自然な姿になれること。 撮影の場において、被写体にとっては、写真を撮るという行為自体が生活に結び付いていないためか違和感の塊であり、私たち初めて会う人は正体不明の不自然な存在に見えるに違いありません。 その認識能力は、年齢が低ければ低いほど敏感であり正直に表面に出て、年齢が高くなればなるほど他者への壁が厚くなり表面に出にくくなります。 ライフスタジオにおいてbaby写真がより自然に見えるというのはそのためです。 赤ちゃんは私たちへのリアクションが正直に出ます。 だから人見知りでなければ家にいる姿と同じであり、人見知りならば赤ちゃん特有の「泣く」というごく自然なリアクションをし、その姿も自然に見えます。 だから、baby写真は比較的こちらから特別な投げかけをしなくても、自然に見える写真は撮ることができます。 こちらがなにもせずに存在を消すことで自然な姿を撮ろうというにも限界があり、それは赤ちゃんといえど「人」であるため、撮影者が何もしない不自然な存在である以上はカメラに向ける眼差しには違和感がありますし、なにもしなければ、被写体は家族には自然な表情を出しても、撮影者へ向ける表情には堅さが残るままです。 だから私たちは、声で呼びかけることや何か動きを投げかけることを被写体が赤ちゃんでも止めることはありません。 そうしていくうちに被写体は、時とともに私たちにリアクションをし出し、自分を出していきます。 そうしていくことで被写体と撮影者の間に流れる空気に違和感はなくなり、お互いに自然な姿を出すことができます。 撮影の場所にいる誰もが自然な関係を築くための投げかけは、がむしゃらでもなく、パターンにはめるでもなく、しかし何か誰にでも適用可能な方法である必要があります。 私が日々、撮影で行っている方法はbabyでもkidsでも大人の撮影でもよく適用しています。 それは「何かをしてもらう」ということです。 もちろんその被写体によって何が好きか、どういう人となりか、どんな癖があるかは違うので人によって何をしてもらうかのバリエーションは変わりますが、例えば階段を昇ってもらう、高いところにあるものを取ってもらう、椅子を指示したところまで運んでもらう、靴を履いてもらう、髪をかき上げてもらう、など。 年齢やその被写体の人となりによって投げかけは様々ですが、何かを「やってもらう」ことが私からの投げかけとなり、そのことによって引き出された被写体からのリアクションを見ることができますし、被写体自身もリアクションをすることで自らを出すことができます。 この写真の被写体はbaby。 こちらの言っていることもなんとなくは察してくれますが、会話というにはまだ程遠いくらい。 よく動き自分の意思もよく表現します。 もちろんそのままでも彼女自身を撮ることはできますが、そのままでは自然な写真は撮れません。 コーディネートをし、場所を指定し、おもちゃを与える。 そういったいつものように簡単な投げかけから入り、どんどん彼女に入っていくうちに、いつものようにもっと彼女にしかない表情と動きを撮りたいと思いました。 もっと彼女自身を撮りたいと思いました。 彼女はお兄ちゃんが二人いて、遊ぶおもちゃは男の子が好きなもの。 中でも車がお気に入りで、その車で遊ぶ時が一番リラックスした彼女らしい表情が出ました。 だから車を離さないのは、彼女のアイデンティティの一部を現しています。 さらに彼女のbabyにしては少し落ち着いた雰囲気をどのようにしたら表現できるかを考えました。 それは、着ていた服を半分脱がすこと。 Babyでもkidsでも、なんらかのリアクションをするはずで、その動きに隙間に表れる彼女自身の姿を引き出したいと思い、私はそのように投げかけました。 服を半分脱がすと服を再び自分で着ようとし、babyにしては少し大人で成長の早い彼女ならではの姿を見せてくれました。 その姿は、今までのどんな姿よりも自然に見えました。 赤ちゃんらしくこちらでコーディネートして当てはめた姿よりも、私にはこの表情とこの姿がなによりもしっくりきて、とても自然に見えました。 その自然さとは、私たちがライフスタジオの撮影空間で絶えず意図的に作り出すものです。 「人」における自然さとは、在るがままの姿のことでありますが、何よりも「人」と「人」とが作用しながら生み出すものであると思います。 風と水の関係性は海の波となり、水と地の関係性は川の流れになり、風と地の関係性は揺れる木々となります。 「人」と「人」との関係性も、お互いが作用することでお互いに自然になり、人は意図的にその自然さを生み出すことのできる生き物です。 その自然さは、原始的なことでありながら、今や忘れそうになっているものでもあるから、「人」としてぎく自然になれる空間が、とても特別で、とても大切だと思うのです。 ライフスタジオは、その「特別」で「自然」な「人」として在るべき姿を表せる空間を意図的に作ることが価値だとし、そのことにいつも一生懸命になります。 私たちの言う「自然な美しい写真」とは、自ら関係を作りに向かう姿によって生み出されるものだから、私たちは決して目の前の「人」から目を背けてはいけないといつも思うのです。
いつの間にか
2016/7/31
0
photo by Yumiko codi by Kazumi “いつの間にか”心を開いていた。 私はいつもその“いつの間にか”という過程を大切にしている。 心を開くっていったいどんなこと? 友達であろうと、恋人であろうと、家族だろうと、 誰しも「よし!心を開こう!」と思って心を開くのではない。 いつの間にか自然と素になっていた、笑っていた、会話が弾んでいた…。 意識することのない、その“いつの間にか”。 「こんなふうに撮りたい」「こうして欲しい」etc… 写真を撮っていくうえで自分の思い描いているイメージがあります。 もちろん、それがうまくいくこともあれば、そうやって自己を縛りつけるが故、 相手を真剣に見ることを放り出し、焦り、苛立ち、 対する人への心が閉ざされていると勝手に思い込む…。 日々の撮影には時間が限られているので、ずっと待つこともできないでしょう。 それでも私はできる限りの時間を費やし、コミュニケーションを図り、 相手を知り、相手を想い、自分を知り、自分をさらけだし、自分の想いを伝えたい。 心の扉はとてもデリケートで壊れやすい。 だからこそ強引にこじあけてしまったり、簡単に鍵をあけようしたくないのです。 写真の彼女は恥ずかしがり屋で、 とても緊張していて、とても不安そうで、手を握ると少し熱くて。 それでも懸命に私たちに応え、まっすぐに向きあってくれました。 泣くことはなかったので、表情は少々固くとも撮影を進めていくこともできたでしょう。 だけれど、彼女の“いつの間にか”を待ち続けていた私は、 急かすことなく、強いることなく、彼女のテンポに合わせて、 ゆったりとした気持ちで少しづつ少しづつ心の交流を図っていきました。 顔と顔を合わせて相手の息づかいや体温を感じる距離での関係性。 はじめこそ声すら発しなかった彼女が、次第にリラックスしていき、 “いつに間にか”心にかかっていたカーテンをあけてくれていくのが分かりました。 心が解放されたという高揚感。 心が誰かと通じ合ったという安心感。 そんな想いを少しづつ肌で感じていきました。 夏の始まりを思わせる、きらきらとした陽射しが照りつけるその日。 私は自然と玄関の扉を開けていました。 陽射しをさえぎるカーテンすらも“いつの間にか”開けたくなるような、 彼女の心のカーテンが開かれた瞬間を表現したかったから。 “いつの間にか”心を開いた彼女の優しい顔つきは、 そのきらきらとした陽射しはもちろん、彼女自身をさらに美しく見せてくれました。 私が限りある時間のなかで大切にしたいこと。 それは“いつの間にか”という自然な、意識しないうちに心を開く瞬間だ。
再現
2016/7/31
0
Soka Photo Photo by Choi Eunpyo Coordi by Oikawa 最近読んでいる本の中に、「写真は模写ではなく、再現である」という言葉がある。これは、写真がありのままの表現ではなく、人間の意志が反映される再現であることを指している。 この言葉は実際に私たちが撮影現場で行っている行為を説明しているかもしれない。被写体の自然な表情や動きを表現しようと言いながらも結局私たちの意図的な意志で被写体を動かしている。 すでにこの時点からありのままの写真ではなく撮影者の意志が多く含まれる再現の写真になる。さらに、四角形の中に何をどのように表現するのかという構図の側面から考えても、我々の写真は私たちが作った意図的な状況の表現であって、再現の要素が強いと考える。 この再現を作り上げる過程の中で、私が一番意識していることは何か? それはもちろん被写体をより美しく表現することである。 観察して、動かして、被写体の一番の魅力を見つけて表現することに一番汗をかいているかもしれない。それに加えて自然という表現方法も同様である。 被写体という客観に私の意志の主観が関与すること自体が被写体の自然さを妨害していることではないかと問われるかもしれない。 しかし、自然な表現はどのぐらい撮影者が相手に意志を持って、関与するかが大きく影響していると思う。もちろん、被写体を単純に動かすことを言っているわけではない。意図的に被写体を動かしながら、集中して観察し、一番美しいところでシャッターを押すことである。これがより美しく、より自然な再現の行為である。 このような再現の行為を実際の撮影に置き換えて考えてみるとどうだろうか。 まず撮影者は被写体に声をかけて、リラックスさせるために色んな投げかけを行う。それに対して被写体も撮影者が持っているカメラを意識しないようになり、自然に撮影者の指示通り動くようになる。 ここから本格的に撮影者の意図が発動するようになる。 それは、被写体の微細な動きや表情の変化に自分の神経をすべて集中させることである。そして、その動きが水のように流れる自然な瞬間を待つ。この瞬間こそが自分の意志がうまく浸透した一番良い再現の瞬間であると考えている。 つまり、これは静的な動作から動的な動作に、受動的な意識から能動的な意識へ変化するタイミングを待って、その瞬間にシャッターを押すことである。 こちらの一枚もその瞬間を捕促した写真である。彼女との撮影は2回目で、最初の姉妹の撮影では楽しくて笑顔と笑い声が止まらなかった。一方でソロの撮影では一変して、こちらの指示通り、一所懸命ポーズを作ってくれたり、何かをアピールするように色んな表情も見せてくれた。 それに対して私は彼女の自ら発散する魅力の瞬間をカメラに残すしながら、彼女がこちらの意図を意識しなくなる瞬間を待っていた。なぜかというと、ある程度の段階までは被写体を意図的に動かすが、最終的にシャッターを押す瞬間はこちらの指示を意識しなくなる瞬間であるからだ。 つまり、この一枚が、彼女が私を意識しなくなった瞬間に撮った写真である。 こちらから声をかけていない数秒間、彼女自ら動き出して、撮影をしている私たちを全く意識しなくなる行動を始めた。この瞬間、私は急いでシャッターを押した。 それは撮影中に把握した彼女のきれいな横顔の角度と自ら見せてくれる仕草の変化の融合はより自然な再現になるという期待が作用したからだ。 このような瞬間に出会うことは容易なことではない。でもこの瞬間に出会うためにいつも一所懸命汗をかいて動いているかもしれない。そしてそれが写真を撮る一番の理由でもあり、楽しみでもある。
Discovery
2016/7/31
2
photo:volvo codi:takako SOKA photo 神秘的が意味することは日常から脱皮して新しい事を体験しながら あるキラキラと輝くものを心の中で残すことだ これは草加店の新しいインテリアのコンセプト『神秘』を説明するひとつの文章だ。 神秘的という言葉を聞いて自分だったら何を思い浮かべるだろう。 ディズニーランドで新しいアトラクションに出会ったとき?それとも顕微鏡で細胞分裂を見たとき? 私だったら今話題の東洋のマチュピチュ、竹田城の雲海を想像する。 雲の上に浮かぶ崩れた廃城は生で見た人にしか体感できないそれこそ神秘を目の当たりするに違いない場所だろう。 まぁ、行ったことはないのだけれど。。 それでは意味がないので行ったことがある話をすると、私が家族旅行でロンドンに行ったとき 空港を降りた時に胸に入ってきた空気で感じた妙な高揚感は今でも鮮明に思い出す事ができる。 地下鉄が進むにつれて次第に太陽を浴びていき、明るくなると同時に見えてくる赤レンガのアパートは 線路沿いを永遠に続くかと思うくらいに連なる情景があった。この風景を目の当たりにした時 私は胸がなんだかかゆくなる思いがしたのを覚えている。 「神秘的」という言葉に話を戻してみる。 神秘的という言葉を辞書で引くと『 普通の認識や理論を超えて、不思議な感じのするさま』と書いてある。 撮影において神秘的な状態とはなんだろう。 いつも着ない服を着てモデルのようなポーズをとる非日常的動作の事だろうか? あるいは西洋風のインテリアに包まれて非日常的背景を従えることだろうか? 私はこう思う。 辞書的な意味の「普通の認識や理論を超える」とは、主観的に見てみれば新たな客観に出会うことであり 「不思議な感じのするさま」とは新たな客観によって自分の中に新しい主観が生まれる現象ではないだろうか。 ロンドンの風景に魅了された時に現れた高揚感は、風景が神秘的だったからというだけではなく 神秘的な風景という客観を取り入れ、自分の中の日常的な日本の風景という主観とそれとが出会い 自分の予想もしてなかった感情が現れる事ではないか。 核心的なのは 「神秘的な場所や物そのものが神秘的」 ということではなく 「神秘的な場所や物に出会う事で自分の中に新しい感覚や感動が生まれる事」 こそが神秘的なのだ。 前置きがものすごく長くなってしまったが、撮影しに来てくれる人達にこの感覚を体感してもらいたいというのが 草加店の「神秘的」というインテリアコンセプトの本質だと私は考えている。 この写真を今回選択した理由は、この写真がまさにインテリアや衣装といったライフスタジオの神秘を浴びて彼女の中に新しい感覚が生まれているその瞬間だからだ。 彼女の性格は、一言で言えば「やんちゃ」である。 着物の撮影が終わり、緊張感も抜けてきたピークに着る事になったドレスは 彼女の内面的な性格を抑えるには器が小さくソファの上を飛び回り、車を乗り回し、スカートを捲り上げる仕草は 私たち撮影者に対して彼女を枠にはめてはならないという警鐘とも取れるくらい自分を表していた。 私はその時点でいわゆる「ドレスを着ています」というポーズは彼女には不釣り合いであり、させるべきではないと判断した。 しかし、一方でただ彼女らしさをあるがまま撮る事もベストではないと感じていた。 なぜなら私たちのコンセプトは「神秘的」であり、新しい自分に出会う事だからだ。 必要な事は彼女にとって「いつも通り」の姿と「森にたたずむお姫様」という神秘的なコンセプトの融合だと規定する事だった。 すべき事を規定したら準備をしなければいけない。 彼女が別の場所で遊んでいるうちにレースのカーテンをバックにひき、ソファをそれとなく配置する。 神秘さを増すために緑を多く配置し、どのように切り取るかを決定する。 イメージの統一は写真を作り上げる上で最も重要なキーワードだ。 原本の中にはいくつかのシーンの最初があると思うが、そのシーンの最初の一枚に実力が出ると言ってもいいぐらいそこにイメージしているものが出る。 上部に配置されている酒瓶たちも、森のドワーフ達が夜の晩餐に備えて備蓄しているものだと設定してみるのはどうだろう。 森の中にあるソファはレースに包まれ、木の隙間から強い日差しが入ってくる朝方と設定したら、鳥のさえずりが聞こえてくるようではないか? 私にはそう見えるけど・・。 イメージは固まった。しかし、実際に彼女がここにどのように入ってくるかはわからなかった。 「座って欲しい」というお願いはしたが、その通りにはいかない。 実際にはうつぶせに「ドン」と寝転がった。 でもそれを座り直させる事は彼女を「枠にはめる」行為になって 背伸びをさせてしまう事になりかねないから 座り直させる事はせず「膝で立って」という言葉に修正した。 彼女は「座って」という言葉より「膝で立って」という言葉の方が自分にしっくりきたようで、すんなりと起き上がってくれた。 その瞬間、彼女をこちらの世界観に誘う事ができると思い、「帽子を触って欲しい」というお願いをした。 この掛け声は意外に彼女にきいたようで、彼女は自分がドレスと帽子を身に付けて この「forest」の中で物語の主人公であるという自覚をしたような表情を一瞬した。 帽子を触るそぶりをしてくれたが、私は帽子を触る前にシャッターを切ることを選択した。 理由は帽子を触る前の方が自然で朝日を浴びているようなイメージに合致したからだ。 このイメージを表現するにあたり重要なポイントを担っているのは半逆光の光である。 神秘的な雰囲気を出すならば光は斜め後ろからの半逆光が適切であると判断する。 理由はレースを抜けてくる拡散した光は写真全体を明るいイメージにする事と、被写体を覆うように光のラインができるからだ。 ただの逆光ではなく半逆光な理由はコントラストを保つためである。逆光では光が拡散し過ぎて全体的に色の薄い感じになってしまう。 構図上の隙間は特に気をつけた。 レースは伸ばすと三角形の形をしているので、ただ背景に敷くだけではアンバランスさを強調するだけになってしまう。 だからレースの覆いきれない部分には緑をうまくくるように配置した。 右上の少し曖昧な部分は前ボケで同じように植物を入れる事で一枚の印象として統一感を狙った。 こちらの撮影者としての準備はインテリアの構築段階から始まっていて 最大限に準備をする事が来てくれた人たちに思わぬ発見をもたらすのだと思う。 彼女にとって撮影に来たという事が神秘的な体験であったと感じてもらえたら嬉しいし その瞬間を一枚の写真として残す事が私達の仕事だと感じている。 私はライフスタジオや自分の担当する撮影が、参加する人にとって少しだけ特別で、 帰る時には来店時に持っていなかったものが胸に残っていればといつも願っている。
『黒く凛と白を感じて』
2016/7/30
0
Yokohama Aoba Photo Photographer: Ryo Takahashi Coordinater: Kaori Sasaki かたん、かたん、という足音と共に彼女は着付け室から出てきた。 少し不安そうな表情と、凛とした雰囲気が印象的なのを記憶しています。 七五三の撮影というのは着物に袖を通す時から始まっているのかもしれない。 いつもと違う姿、いつもと違う場所。 何気ない笑顔でさえ、いつものそれとは違って見える物です。 いつもカメラを向ける度、簡単な会話から始める。 好きな食べ物は何?好きな動物は何? 簡単な質問とともに彼女の表情はいつもに近づいて行く。 しかし初対面である私は求めている彼女のいつもを知らない。 だからこそ簡単な質問を繰り返し少しでも知るという事を繰り返すのかもしれません。 しかし、その質問の本質は質問の内容でなく彼女がどのような反応を見せてくれるかという洞察的な部分に有ります。 何も知らない人が私が投げかける言葉を聞けばきっと、そんな事聞いて何になるのか疑問に思うかもしれないですが私は聞きたいのではなく知りたいから聞いています。 一瞬の表情のゆるみはイレギュラーな現状をかき消すかのように空間を和ませてくれます。 自然さと不自然さとは主観的な物で客観的な物ではない。 結局それを定義するのは完成された写真であるから、その価値観をはかるのが面白いのではないでしょうか。 この写真は自然であり、自然さを演出する為の不自然な写真です。 我々の写真には矛盾点が沢山有り、何もない空間で紅葉が有る訳もなく、彼女のポーズも日常的に行われる物ではない。 しかし、この写真を見て自然という人も居るのも確かな事で、立ち姿の正体が不自然だと言う人も居ます。 私に言わせてみればまっすぐ立ちカメラを見つめる姿の方が自然と呼ぶのにふさわしいのではないかと思います。 結局自然と不自然は紙一重である事が解りますが、どのように見せるかが写真の持つ力の一つだと私は思います。 鮮やかである着物をモノクロで切り取る。 その行為に抵抗が有ると以前、写真の話の中で聞いた事が有ります。 それは笑顔が欲しい人に泣き顔を提供しているような感覚からくる疑問だと思いますが、私たちの撮影には笑顔よりも素晴らしい泣き顔を写す素晴らしさが必要です。 常に想像の先を写す事、意外性を持たせる事がその一枚の感動を高めるのだと私は考えています。 コントラストが強く、シャープネスも最大に高めたモノクロの設定はシビアな露出感覚を必要とします。 撮影段階での工夫は写真のすべてを決める事になります。 私は基本的に撮影段階で完成させ撮影後に写真の加工はしません。 それが写す楽しさでもあるからです。 この写真は見る人に依ってはバランスが悪く、モノクロという観点で否定的な感覚を覚える人も居るのかもしれませんが、フレーミング、露出、ポージング、光。 写真の構成要素の全てにおいて私なりの計算を行った物です。 良い写真とは何か。 カメラを持つ人ならば皆知っていると思います。 しかし言葉にするのは難しく、悪いとこばかりに目がいきがちになります。 写真にはそのものの感覚的背景、視覚的結果が常に有ります。 その双方を自身が理解し、客観視しても何か感じるものが有る。 それが良い写真だと思います。 まぁ、100点の基準は人それぞれが持つ物だと思いますけどね。 私はこの写真が好きです。 久しぶりのアップですが、相変わらず写真、楽しんでます。
家族の風景
2016/7/30
0
Photographer: Ta-na- Coordinater: Matsuyama Lifestudio : Tokorozawa 「なぜ、この瞬間にシャッターを押したのですか?」 よく、私たちは写真を主題に気軽に話をしあいます。 75枚の写真を1枚1枚流しながら見て、ふと、目についた1枚を眺めながら、こう相手に質問しあいます。 シャッターを切るタイミングや瞬間は、撮影者によって異なります。 同時にその1枚を撮影した瞬間にこそ、撮影者の「哲学」のような、「価値観」のような、つまり「大切に考えている部分」というのが見えるように思います。 だから、相手に聞く。「なぜ、この瞬間を残そうと思ったの?」とか、シャッターを押した瞬間、あなたはどんなことを考えていたの?と。 私の場合。その瞬間というものは、偶然生まれる奇跡的な瞬間を最初は待っていました。なので、入社した当時は、この問いに対して「なんとなく、光がきれいだったから」とか、「笑顔がかわいいと思ったから」という「感覚的」な部分が多く、よく言えば、瞬間を逃さない!ですが、異なる表現をするのであれば、いい意味でも違う意味でも「同じ写真は撮影不可能」だということも意味していました。 どんな、瞬間に自身の心が動かされるのか。 どんな、瞬間を私たちは求められているのか。 どうすれば、同じ完成度を保ったまま作品を生み続けられるのか。 どうすれば、奇跡をただ信じて待つのではなく、奇跡を、その「これだ」という奇跡的のような決定的な瞬間を自ら生み出すことができるのだろうか。 そんなことをずっと、考えてきた6年間。 私なりに導き出した「ライフスタジオらしさ」が表現されている1枚には、「すべての構成要素に「意味」がある」のではないか?と結論づけました。 「意味がある」とは、「なぜ、この瞬間にシャッターを切ったのですか?」という質問に対して、 ①空間 ②自然に見える仕草やそれにあうポージング ③表情の選択 ④光の選択 ⑤①~④をすべて統一された物語の存在 これらの要素に対しての理由が存在しています。 その場所、空間で撮影をする意味があること。 その場所、空間だからこそ自然に見える仕草やポージングを導き相手に提案投げかける技術、 その場所や仕草だからこそ、表現したい光の選択を行うこと。 最低でも、これらの要素を一つに統一することができたときに「物語」を見る人に伝えられるような1枚を生み出せる。 そんな、自身が相手の人生の物語を見た際に、生み出した条件や意味、価値観を話し合うことができる時間が、私は好きでした。 「なんで、こう撮影したの?」の質問から生まれる、その人の新しい姿を目にするたびに、私は一緒に働く一人ひとりのスタッフ仲間のことが好きになれました。 こんなことを考えながら、撮影してたんだって。 こんなことを考えながら、悩んでいたんだって。 こんなことを大切に考えていたんだって。 相手を知ることが、楽しくて仕方がありませんでした。 この写真は、ずっと個人的に集中してきた「家族写真のあり方」に対しての一つの答えのようなものが個人的に見えた写真です。 ただ、その場所でなんとなく、自然らしく撮影するのではなく。 数ある空間、インテリアの中で何をどのように選択するのか。 被写体の服装やコーディネートに使用されているドレスや小物の色に合わせて空間を選択するのか。 この写真で表現したかったのは「家族の風景写真」。 家族がくつろげる場所。家族が自然と集まる場所。家族がそれぞれの時間を過ごす場所。 その条件を満たすための空間はどこか?という問いに対しての「リビング」という選択。 どんな姿が、普段過ごしているような、自然と空間に溶け合うような仕草なのか?という問いに対しての提案をどんどん相手に投げかけて、「自然に遊んでいるような」から「本当に自然に遊び始めた瞬間」を探す作業。 本気で遊んでいるときに、楽しんでいる表情を引き出すためのさらに投げかけ。 家族の風景、家族の団欒を表現するための光は、柔らかいイメージ。まるで、子供たちを優しく見守るパパとママの目線を想像し表現できるような光とはどんな光なのか。 そんなことを、ずっと考えながら、「家族写真」に集中したライフスタジオ生活。 本当に楽しかった。本当にうれしかった。 本当に、何もかもが新しくて、何もかもが私にはキラキラして見えた。ひとつも同じ表現はないんだって知りました。 だからこそ、考えなければいけない。 「なぜ、この瞬間にシャッターを切ったのか」ということを。 それらの価値観を互いに見せ合うことが、ライフスタジオらしい表現であり、撮影する時間や空間、そして撮影した後も、互いにつながりあうことができるのだと感じました。 幸せな時間を、ありがとうございました。 ライフスタジオに入社を決めた理由であった、「写真について」そして「互いの熱い想い」をいろんな人と沢山沢山語りたいという夢。 叶えられました。本当に楽しい6年間でした。これからも、別々に一緒に。
『色を置いていく』
2016/7/21
0
photo by Yumiko codi by Kazumi 『色を置いていく』 --------------------------------- 箱のなかにきれいに整列されたチューブ さくらいろ ねずみいろ そらいろ 名前を読み上げながらチューブのおしりをそっとおして パレットの上に静かに その時の気分を純粋に感じながら並べるのが好きでした。 隣に並んだ色が互いに影響をあたえあって ひとつひとつのときにはなかった深みやリズムがうみだされるのがなんだか不思議で 画用紙にむかうまえに こっそりと静かに遊びを楽しんでいた子供のころの記憶。。。 --------------------------------- ここは茶の窓枠・グレーの壁のみが存在する空間で 意図的にシンプルに撮影することもあれば 私たちが表現したいものに合わせて小物を配置し撮影することもできる いわゆる自由度が高い空間です。 だからこそ何を配置するか。 それが大きなポイントになりますが、そのときに考えることのひとつに 『どんな色をそこに置くのか』というこということがあります。 スタジオの中にはいろいろな色がありますが、 今回選択したのはアースカラーです。 アースカラーとは、大地や木の幹の色、そして、空や海の水の色、新緑から紅葉へと季節により変化する木の葉の色など自然の織りなす美しい色をいいます。 ドライの花・アイアン・籐・レース・帽子に至るまで、 くすみがあって落ちつた色を配置し アースカラーの人間の肌の色との相性・肌なじみのよさを利用し空間に人物が違和感なく溶け込むようにしました。 それに加えて色を放つものの素材感に気を配りながら 全体の重量感やつくりだす印象を考えます。 縦横にはしる濃い目のブラウンのラインは画面全体を効果的に引き締めてくれますが、 籐のバックや帽子・腰かけているBOXにレースをプラスすること、そして被写体が身にまとっているドレスの素材感によって そのラインが強調されすぎないように全体に柔らかさをプラスしバランスをとっています。 ちょっと控えめだけれど、シックでナチュラルなこのような配色は 優しい印象をあたえながら被写体の存在を邪魔することなく 生まれ持った美しさを引き立ててくれるので私はとても好きです。 『色を置いていく』 小さいころから大好きだったこと それはかけがえのない私の要素です。 そして同じように大好きと感じてくれる人と作り上げていくものは より愛着を感じる大切なものなのです。 この日の私たちのパレットに並んだ色。 とってもとってもやさしい色でした。 kazumi
未来へ贈る証明写真
2016/7/18
0
Photo by CHIBA Codi by GAHEE 3歳の頃私は何をしていたのか覚えていません。 大抵の大人は覚えていないでしょう。 何もかも知らない記憶になっています。 そんな私は実家にあるアルバムを見た時にそう思いました。 小学校の頃の記憶ですらほとんどが曖昧です。 アルバムにある写真は海に行ったり、ディズニーランドに行ったり、姉と一緒に戯れて、ぶすっとした表情のものがずらりと並んでいました。 しかし、私は知りません。事実とはうらはらに私の中には無いものとして認識しています。 それでもそこのアルバムに写っている幼児は紛れもなく私自身なのです。 大人になって初めて知る記憶のものばかりが並んでいて幼稚園の卒園アルバムを見て『ああ、この頃よくこんな事してたな』と結びつくものが記憶と経験で一致します。 2歳や3歳の思い出、記憶とはまるで私ではないかの様に存在しています。 この時、親に写真を撮っていてもらってありがとうと思います。 でなければ0歳から幼稚園に入るまで私は存在を確認できない。 そう考えると今私達が写真を撮っていることはその子にとって大切な人生の存在の証明になるのです。 親が子供のために予約をし、スタジオへ足を運んで将来それをこの先ずっと見ていくものです。そして被写体の本人はいつか知らない自分に直面した時、今日私が撮った写真をもとに推理し自分の記憶と経験を結びつけていきます。私達が撮っている写真とはそういう存在へと変わっていくものです。 その時はどんなだったか? この写真の3歳の子はよく笑います。 小さな手をよく動かします。 髪はおかっぱであり、頬はぱんぱんに張っている赤ちゃん肌です。 どんな笑い方でどんな容姿だったのか?私は私の2〜3歳頃の写真を見ると笑顔の写真がありません。 どんな笑い方をするのかは知りません。きっとそういう子だったのです。 笑わないのが私の証明、口を半開きにして写真を撮られているのが私の証明、前髪がガタガタなのが私の証明。 虫を捕まえている写真が多いというのもわかりました。 小動物には怖がっていなかったのでしょう。 そういったものをヒントに想像するしか私は私を知る由がありません。 母親に聞きました。 姉にいじめられていたと、トイレにいかずずっとおしっこを我慢して我慢してお漏らしをしていたと、足や頭をぶつけても泣かない子だったと、笑う時は声に出さずに微笑みゲラゲラ笑わなかったと。 そこで私はそういう人間だったのだと認識しました。表に感情を表現するのが苦手な人間だったのだ。 写真と私の母親の証言は一致しました。 この子は笑うと目がなくなります、アゴもあがり声を出して笑うことを表現する子です。 何故横顔だったのかはその特徴を横顔であるために活かすための位置に私が動いたためです。その活かす構図が横のアップ写真になると思います。笑顔に集中し、この子の顔の肉付きとあがったアゴと表現する彼の手を。緑の前ぼかしは右上の余白と真ん中の彼を整えるために斜めに3分割をするために入れました。そしてより引き立たせる彼の横顔の笑顔を。未来の彼へ届く事を願い。 『へえ、僕はこんな笑い方をしていたんだ』 以上が私がとらえた未来へ贈る彼への証明写真になります。
緊張と期待
2016/6/30
0
Life studio SOKA photo by Choi Eunpyo coordi by Yoshizawa Takumi 撮影に臨むときはいつも緊張と期待が混じる。 緊張は被写体をどのように美しく表現するかという緊張であり、期待は私が意図した以上の結果に対する期待である。特に七五三の撮影の時はより緊張と期待が高まる。 華やかな着物ときれいなヘアメイクが合わさって、見るだけでも被写体の美しさが伝わってくるからだ。だからこそ、この美しさをより美しく表現するために緊張するようになり、期待以上の結果を想像するようになる。 こちらの3歳の七五三の撮影も緊張と期待でいっぱいだった。 7歳の七五三の撮影ではないかと思われるぐらいの落ち着きとこれから始まる撮影に対する期待で目がキラキラしていることが伝わってきたからだ。 その期待に応えるために私は自分が一番好きな場所に被写体を立たせた。その場所は後ろから入ってくる強い逆光とサイドの窓から入ってくる弱光が被写体をより鮮やかに写してくれる。あと正面にある前ボケのカーテンは華やかな着物の色を少し柔らかくしてくれる。 この場所に彼女を立たせて最初にシャッターを押した写真がこの一枚である。 彼女の美しさをより美しく表現しないといけないとの緊張感で自分が一番好きな場所に彼女を立たせて押した最初の一枚をカメラの画面で確認した瞬間、緊張は期待に変わった。 なぜなら、自分が考えた以上の結果だと思ったからだ。目をつぶって何かを待っているような可愛らしい仕草や柔らかく写された着物の色味や逆光の雰囲気は私がいつも撮っている場所であっても想像以上の結果だと感じた。さらにシャッターを押した1枚目から期待以上の結果に出会えると全体の撮影に対する期待が高まる。 いつもこのような撮影の繰り返しかもしれない、緊張と期待が混じって撮影に臨む。あるときは最後まで緊張するときもあるし、撮影の最初から最後まで期待感で楽しむ撮影になるときもある。 個人的にはどちらも好きな撮影であると思っている。 なぜなら緊張の撮影は自分が撮影に集中した意味になるため、自分が持っているすべてを出し切ることになる。また、期待があふれる撮影は偶然にとれる写真もあるかもしれないが、最初から最後まで心から楽しんで自信をもって撮影を終えることになるからだ。だからどちらも撮影者に必要な要素であり、意識するところでもある。 しかし、これはすべて必ず準備が必要である。光を見て、被写体を観察する。そして、その被写体を一番美しく表現できる方法を考える。これはすべて普段の意識と準備である。これがない限り、緊張と期待は撮影で得ることは難しいだろう。
花嫁
2016/6/30
0
photo by suzuki codi by kudo/masakuni/masakuninohaha/minna ガラガラガラ・・・・ゴロゴロゴロ・・・ 固いコンクリートの上を重いものがひきずっているような音がスタジオの二階にまで聞こえてきた。急いで階段を下りていくと一人の女の子がいた。 「こんにちは。よろしくお願いします。」と丁寧に私の目を見ながら挨拶をしてきてくれたが、女の子が持っていた巨大なトランクケースのほうに目がいってしまった。 これから海のきれいな島に4泊5日の旅行へ行ってきます。という感じ異様な大きさに見えたのは、女の子が小柄だったからかもしれない。 巨大なトランクケースが気になったが、とりあえずスタジオへ案内をして、他愛もない会話をしながら撮影の打ち合わせをした。 「こんなに持ってきちゃいましたー」と笑顔で言いながら、巨大なトランクケースに手をかけた瞬間、私は緊張した。一体なにが入っているんだ!!? 巨大なトランクにパンパンに詰まっていたのは、テレビで見るような一万円札の束がぎっしりと詰められていたというのは嘘で、純白のドレスと真っ赤なドレス・真っ白なハイヒール・手作りの花冠・色とりどりのブーケ・木製のアルファベット・JUSTMARRIEDと書かれたガーランドだった。その人は口を手で押さえ笑いながら「いっぱい撮って欲しくてー」と一つ一つ嬉しそうに説明をしてくれた。 まるで子供のおもちゃ箱みたいなトランクケースに詰まっていたのは、誰かに写真を撮られるという楽しみだった。 目の前のことを楽しもうとする姿は人に伝染する。 私も単純に自分を持っているものをすべて出そう。そして、楽しもうと思った。 結果・・・楽しかったが時計を見ると3時間という長時間になっていた。 私だったら、カメラを向けられている自体でも疲れることなのだが、たくさんの細かい指示を応えることにも疲れる。撮影者によくあることだが、ダムから滝のように流れてくるエナジーを止めることが本当に難しい・・・。私はわざわざ大阪から来てくれた被写体に申し訳なさを感じて、長時間になってしまったことに謝った。 返ってきたのは、建前のない「楽しかったです!」だった。もしかしたら、気を使って疲れてないフリをしてくれているんじゃないか?とも思ったが、子供のように純粋に楽しんでいた女の子を疑うことのほうが間違っていた。 男の私にはすべてを理解できないかもしれないが、女の子から花嫁になることは、特別に楽しいことなのかもしれない。 憧れのウエディングドレスを着て、自分の外見が変わることだけが、特別に楽しい理由ではない。ウエディングドレスは幸福の象徴なのである。 幸福とはなんなのだろうか・・・? 一般的に花嫁になることは、幸福になることだという認識がある。 私たちは子どもから大人になっていく過程で、何度も自分のライフステージが変わってきた。園児が学生になり学生から社員になることと同じように、女の子も花嫁というライフステージに変わってきた。自分のいるライフステージによってなにが幸福なのか?も同時に変わってくる。現具、成績、財産と漠然となにかをたくさん持つことが幸福だと思うようになるが、幸福の器にたくさん入れても穴が開いているため、なかなか満たされることがない。 結局、ライフステージが変わったとしても根本的に幸福だと思うことに変わりはないことに気づくようになる。それは「私の近くに誰か居て欲しい」ということだと私は思う。 「孤独は山になく、街にある」という言葉がある。 一人で部屋にいるから孤独なのではなく、大勢の人々の中にいて、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない・理解されていないと感じているならば、それは孤独ということである。たとえ他人と交流があったとしても、幸福の器が満たされることがなければ孤独といえる。だから、私は自分のことを無条件に愛してくれる人や人たちが一緒にいることを幸福だと思う。 花嫁のウエディングドレス姿は、私たちが本当に望んでいる誰かと一緒にいることを約束された幸福な姿として、私たちの目に美しく写る。 女の子はカメラを向けられること自体が楽しいわけではなく、幸福な私を美しく記録されることを楽しんでいたのだと私は思う。 不安や葛藤・・・安心や信頼・・・それらが混ざり合って一つの決意した女の子は花嫁になり、愛する人と共に次のライフステージを生きていこうとしているその幸福な姿・・・・・。 私たちは、独りではない一人の花嫁の美しさの存在を写真で証明しなければならない。 それがこの1枚である。 この写真の重要な構成要素は【基本的な三分割比率】【想像させる余白空間】【白の心理的効果】の点である。 【基本的な三分割比率】 この写真のベースとなっているのは、花嫁が四角の中にバランスよく配置されていることである。バランスにはいろいろある。意図的に被写体を四角の中心にしたり、右に寄せたりして余白をある割合に均等に確保することで、バランスが良くなる。想像してみて欲しいが、四角の3分の1を意識して縦の線と横の線を写真に線を引く。そうすると、格子のようになり、縦と横の線が交差する箇所が4点あり、均等な割合のブロックが9個になる。 基本的な三分割比率はこの線が交差する4点とブロックの9個を利用して、適切なバランスを形成する。 撮影者が簡単に意識できることは、どこにを配置するか?、である。 交差する4点を基準にして、ある1点を意識して配置するのもいいだろう。またはブロックの9個を基準にして、いくつかのブロックを意識して配置することを考えるのは、適切なバランスを形成する一つの戦略になる。 この写真は、被写体を中心に配置することで、均等な割合のブロックが左右に確保され、『対象』というバランスが形成される。そして、被写体の頭の上に三分割されたブロックの1個を確保することで、『三分割比率』というバランスが形成されている。 この基本的な三分割比率により、1枚の写真を『安定させる』という効果を与えている。 【想像させる余白空間】 余白空間とは、字の通りに被写体以外の白い空間である。 余白は無駄なものではなく、撮影者によって意味を与えるものだと私は考えている。この写真では、四角が約9割ほどの余白空間になっており、被写体が広大な空間に置かれているような雰囲気である。被写体を中心に前方、後方、真上に開かれた余白空間によって、目では確認できない『なにか』がそこにあるようなイメージである。 公園の古びた椅子を見て、誰かがついさっきまで座っていたようなイメージを連想するように、私たちは目だけで認識しているわけではなく頭を使って対象を『想像』するということが出来る。 一人の花嫁になるまで簡単な人生ではなかったはずだ。不安や葛藤・・・・安心や信頼・・・・・。花嫁になる決意をした瞬間に、これまであった多くの出来事を思い出すなんともいえない感情がある。想像させる余白空間は、被写体の交差する感情を『想像させる』という効果を与えている。 【白の心理的効果】 この写真を色で言うと白である。背景が白であり、ウエディングドレスも白でほとんど構成されているからだ。この写真で色はとても重要な構成要素である。 私たちは色を見て直感的に感じる感情がある。単純に、好きや嫌いという感情が働く時もあるし、思い出や物事に連想させる時もある。白というのは、清潔感、新鮮、無垢、純粋、出発・・・という高い好感度な心理的効果に働きかける特徴を持ち、花嫁のイメージと連結され、より白の心理的効果を与えている。 えりさんにとって花嫁になることは、どのような意味があるのだろうか? 本人に聞かなければ正確な答えは分からないが、幸福なことに変わりはないだろう。幸福なことは、えりさんの巨大なトランクケースが象徴しているように『目の前にあることを楽しむこと』なのかもしれない。これから普通に生きているより多くの責任も不安も発生もするが、同時に孤独ではない二人が目の前にあることを楽しむという幸福に向かっていく旅行に出発もする。えりさんは幸福のトランクケースを持って旅行の準備は出来ている。 あとは、えりさんの隣の人だ! おい!!トミキ!!旅行の準備は出来ているのか? えりさんからメッセージがきたぞ! 「今後ともとみきにビシバシご指導お願いします!!」ってな。 楽しめよ。
『 私の文芸座 』
2016/6/30
0
No.24 Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Codi by Akimi Yoshikawa 今から20年ほど前の話になりますが、私は映画の専門学校に通っていました。 当時の仲間達とは毎日、映画や音楽の話で明け暮れる日々でした。 映画監督や脚本家そしてカメラマンや音声など、皆で夢や野望を語り合ったりしたものです。 その頃、旬だった映画は岩井俊二監督の「スワロウテイル」、クエンティン•タランティーノの「パルプフィクション」、ウォン•カーウァイの「恋する惑星」、リュック•ベッソンの「レオン」などがありました。 そんな映画を観ては皆であ〜だこうだ言っていたもんです。 当時は勿論の事ながら今ほどインターネットの普及もしておらず、観たい映画があれば毎週のように映画館へと足を運んでいました。 その映画館の中でも極めて印象に残っている映画館があります。 それは池袋にあった「文芸座」という映画館です。 現在は新•文芸座としてある所だと思いますが、そこは、他で一度上映し終えた映画を二本立てにして料金は一本分というものでした。 学生だった私達には学割も効くということで更にお得なものでした。 しかも、現在のように人の入れ替えなどが無かったため、二本立ての映画を更にもう一回観る事も可能でした。 だから朝から行って外に出るともう夜になっていることもしばしばでした。 そして更に映画を観て終わりではありませんでした。 通路と外にあるショウウィンドウの中には劇中のモノクロ写真が飾ってあり、それをこれでもかと食い入るように観て閉館と共に帰りました。 その帰り道、何とも言えない満足感と共にいつも疑問に思っていた事がありました。 それは「映画を観ている時と写真を観ている時の感覚の違い」です。 共に感動や興奮があるのは一緒なのですが何かが違う。 当時は何かが違うけどどっちもいいよなぁ程度で済ませていました。 しかし私は今このライフスタジオという場所で写真を撮り続けたことで再度、その疑問と向き合う事になりました。 私達は毎回75枚のストーリーを写真に納めています。 もしくは75枚の写真でストーリーを作っているのかもしれませんが、撮影を終え、ご家族と共に写真を観ている時に時折「あの日の感覚」に戻るのです。 そして映画を見終わりショウウィンドウの写真を観て思った疑問が甦ります。 「映画と写真」 私は今、こう感じています。 映画は二時間ものであればその一瞬も見逃してはならないもの。 そして写真とはその全てを一枚に凝縮するものだと。 ある意味当然な事かもしれませんが、私達の写真は一部抜粋ではなく一枚に凝縮するものなのだと思っています。 一時間の撮影中がリアルタイムな映画であり、そこに残された一枚一枚はそのシナリオの決まっていない映画、つまりはその人の人生の縮図なのかもしれません。 写真にはその人の歴史を残せる力があります。 私にとっての写真像というものは、その人がどのように生まれ、愛され、苦しみ、泣き、笑う、そういった「生き様」を写したもの。 それは即ち「リアルな現実」であり「ドキュメンタリー」。 あの日、食い入るように見続けた写真。 あの写真、あの感覚は今の私にとってとても大きな軸となっています。 「文芸座よ、ありがとう」
見えないものが見えるものになるまで
2016/6/30
0
photo by yoshie nishijima coordi by kotaro yatsu 人はなぜ写真を残すのだろうか 写真を撮る事が日常的であるこの現代で 改めて考える必要が無い事のようにも思うこの疑問 私達はスマートフォンやデジタルカメラなどで 気軽に撮ることが出来る時代に生まれてきた 産まれた頃や小さい頃の写真があるのは当たり前で、家族によっては枚数が少ないという話がされたり時の流れを感じては昔話に花が咲く この場所に来てよく耳にする様になったのが 写真には伝える力があるという言葉である そもそもカメラという存在はこの世に最初から存在していたものではない 人という生き物が作り出し、出来あがった物である どのような理由がありカメラという存在がこの世に産まれたのかという理由は定かではないが 一つ言える事は、人という生き物には感情や理性、情景や心情、思いや考えなどを持ち合わせており、その様な生き物がカメラまたは写真を作り出したという事である この世界には何かを残したいと思い考えたものが沢山あり、それは写真以外に、書物だったり、子供だったり、歴史や存在など 目に見えないが言葉と言葉のコミュニケーションも何かを残す手段の一つである そこには、人が人に伝えたいや繋げたい、繋がりたいや認めてもらいたい、向上させたいやより良くしたいなどが挙げられる 様々な本や文章を読む中で気になる文章があった 受け継ぐものが、良いか悪いかは関係なく 受け継がれること、伝えること、残すこと そのこと自体が大事 人は生きるだけでは満足しない生き物である 生きた証を残せたからといって幸せになれるものでもない 人という字は支え合うという意味があるという昔からのことわざがあるが 人は人から何かしらの形で気づかされ、再確認したり発見をしていく 上記の文章を引用するならば、自分にとって何かしらの形で残したもの残されたものが 良いものか悪いものか関係なく、そこから私達人は何かしらの形で学ぶ事が出来るという事 写真というのは、人が残し残したいと考えた時の媒体の一つであって、それを双方が伝え受け継ぐことの出来る媒体の一つであるという事 またこれを写真に置き換え考えてみた時に 人は写真を残せたからといって幸せになるものではないという事ではないだろうか 親が子に対して幸せになって欲しいと願う 誰かが誰かにに対して幸せを願う これらに共通しているものは、ただ関係のある人だからそう考えるものではなく、または、血が繋がっているからという理由で願うものでもない 垣根を越えて、理屈無しに幸せをくれた物や人には幸せになって欲しいと願うという人間の習性の様なものが伺える 幸せを与え気づかせてくれる場所や人、時間や空間を好きになるという事ではないだろうか それを身近な例えで言うならば、ライフスタジオという場所に、大事な記念に来てくれるリピーターとの関係と繋がりがそれらを教えてくれている様に思う 何故楽しさが必要?何故美しさが必要? 幸せや感動とは何だろうか 人は毎日何かに悩み考え、何かを求め何かを目指し何かを残し何かのために生きる 結果が出ようと出まいとその日常や行為に潜む根拠は何かしらあるのかもしれないと考えると、集団生活を余儀なくされる私達人間にとって、写真も関係性もこの場所も人も、日々の日常も、より良く生きていくための必要不可欠な行為の一つであり、見方一つ変えるだけで幸せに繋がれている 私達が哲学という根拠を探る学問を学んでいるのは故にそれらが関係しているのではないだろうか 目に見て確認が出来る写真は、人という生き物にとって、ただ残すだけのモノではなく、その写真の中に楽しい思い出や気づかされる事、再確認する事など目に見えない関係と残したいという行為が、私達の写真に価値を与えているのではないだろうか それは、写真という存在が無くなったとしても残るもの、それぞれの頭の中に存在する楽しんだ思い出や人と人との関係性から気づかされた事や再確認した事、私達との関係で築いた時間や空間で ご家族の日常に何かしらの形で蘇る記憶など目に見えない価値を目に見える形で提供していっているようにも思える そしてそれが写真だけではなく、何かしらの形で、幸せを蘇らせること それがまた周りの人達に影響していくという事 回り回って人の為が自分の為になっているという事 今回のこの写真はどこかで見た事のある様な写真であり、誰もが撮れる様な写真である 注目させたいものは中心にあり、ピントも動かさずにシャッターをきれる日の丸構図で 世の中に多いのがこの構図の写真だ 今回ワタリドリで写真とは何かという主題の元、私が設定した主題が 目に見えないものが見え、目に見えるものが見えなくなった時というのに設定し それを分析するに辺り、取り組みのひとつであった構図だったという事もありこの写真に決めた 構図について調べていくうちに 人は写真を見る時に最初はどうしても真ん中に目がいってしまうという習性があるという事が分かった また平凡かつ工夫が無い様に思われる構図だが 一点に集中するという効果があり、周りを見えなくさせる これは、他の構図が主題や副主題、背景や周辺の関係性を必要としそれらが集まり一枚の写真になるという効果とは別に 中心にインパクトのあるものを持ってくる事により、強い視線集中が可能になる構図であるという事だ それらの効果を理解した上で今回目に見えないものが見え目に見えるものが見えなくなる瞬間を作り出し写真に表そうとした時に、人の顔は写さず手に集中して表現したいと考えた 手と手を繋ぐという印象の中には、沢山の要素が含まれている 人は自然と何かを掴んだり拳を握りしめたりする その行為にも意味があり、自然と人の気持ちが和らぐという効果があるのだ 産まれたばかりの赤ん坊がギュッと指を握る仕草にも現れているように、人が何かを握るという事で気持ちが和らぎ、安心感や愛などを感じられるという事である 手と手を繋ぐというのが愛情表現になっている由縁もこの効果があるからではないだろうか この撮影は一人っ子の2歳の女の子がメインの撮影で親も家族写真は少なめを希望していた 2歳という時期は個人差もあるが、自我が芽生え自己主張も成長段階の初期段階である 魔の2歳とは言ったもので、まだ成長も初期段階であるため周りの空気など読める訳も無く 嫌な事は嫌、好きなものは好きとしっかり主張してくれると同時に感情のコントロールもまだ定まらない時期である この子の場合は、人見知りや場所見知りがあったため家族写真から始めカメラの存在や空間、私達に慣れてもらう事から始まった ワンシーン目の終盤頃には笑顔も出て一人で撮影出来るまでになっていた為、私達も距離を縮めて撮影をしていたが、ふと思い出したかのように母親の元に駆け寄り手を握り始め中々離そうとはしなかった この瞬間、関係性がまだまだ作れていなかったと思うと同時に主題の事が頭を過ぎった 手と手を繋いでいる この瞬間に子供の表情と母親の表情を見ると 子供は不安げな表情をしているがどこか安心している表情をしており、母親は優しく柔らかく愛しい表情で子を見つめていた その空間には言葉や小手先の技術など必要が無い目に見えない伝わる気持ちが存在していた この時、母親と子の表情も一緒に写し表現する事も出来たが 主題を元に何をどのように表現したいかと考えた時に 一点に視線集中を可能にする日の丸構図で、目に入る情報は少なくシンプルにまた、一直線に繋いだ手を上下左右対称の効果を活かし、その場が静寂であった事を表現した 手を繋いでいた時間は5分程だろうか その後、何事もなかったかのように元の位置に戻り私達と撮影を楽しんでいた 手と手を繋ぐ その行為には安心感や愛情と共に信頼と勇気なども取り戻す効果がある様にも思えた 目に見えないものが見え、目に見えるものが見えなくなる それらが一致した時、私達の写真の価値が普遍に近づき人の感動を呼び幸せを感じる事のできる価値あるものになるのではないだろうか 写真には伝える力があるという由縁はそこにあるのかもしれない
『見えない糸』
2016/6/30
0
Life studio SOKA photo by volvo codi by Choi Eunpyo この写真にはテーマがあります。 それは「作り上げていないような空間を作り上げる」です。 この言葉の意味は、ただ被写体から見て撮影者である私を認識されないようにするという意味ではなく、 私の存在を認めてもらった上であえて認識されないような状況を作る、言葉を変えると関係性という糸を つなぐ努力をした後に、あえてその糸を切る作業をするという事になります。 私がこのいっけん意味の無いような禅問答のような取り組みにいつも集中しているのは「自然な写真」という お客様からの要求に対して私たちはいつもどのように応えているかに対する結論を出すために行っています。 「自然な写真」という言葉は人によって考え方の異なりますが、抽象性の高いこの言葉は毎日のお客様からの要望として耳にします。 私たちはそういった要求に対応し、原本を作り上げていきますが、実際に撮影した写真を見ていくと大きく分けて2つのパターンしかない事に気づきます。 ひとつは、被写体である子供たちを自由に解き放ち、それを追いかけて撮影するパターン。 もうひとつは、被写体である子供たちに指示を出して撮影していくパターンです。 しかし、言葉だけを聞くと後者の場合「自然」という言葉が当てはまるのか疑問になる時があります。 なぜなら指示を出している写真には現場にいなくとも「この写真は指示を出している」というのがわかる事があるからです。 では、自然な写真を撮るためには前者である子供たちをただ自由奔放にさせる事が正しい考え方になるでしょうか。 私はそれも正解ではないと思っています。 もちろん撮影者を認識せず、スタジオを公園のように使ってくれる事はありのままを撮る事においては いいかもしれませんが、それだけでは何かが足りません。理由は二つあります。 ひとつは写真に写っているのは「人」だけではないということです。 私たちが写真に写しているのは「人」です。 その、人の外面的要素、あるいは内面的な要素を写真という2次元の一枚の媒体に写す事が仕事です。 一方で、写真に写っているのは「人」だけではなく、その、人を取り巻く環境や 空間的要素も同時に映り込みます。 写真というのは静止画です、ありのままの姿を見せてくれる子供たちはたくさんの躍動感と元気を与えてくれますが 「美しい写真を残す」という事において必要なのはありのままの子供たちだけではなく光や構図、意図などいろんな要素が 高い次元で組み合わなくてはなりません。相手に合わせるだけの受動的なカメラマンではそれは叶う事ができません。 もうひとつの理由は、皆が同じようにありのままを見せてくれるわけでは無いということです。 元気に走り回る子供たちならば自然(すぎる)写真が撮れるかもしれませんが、もし被写体が動かないタイプだったら? あるいは大人だったら?と考えてみると、自然な姿を写していることが他力本願になっている事に気づきます。 被写体の状態に頼る受動的なスタンスでは被写体の状態によって写真が変化します。 つまり、自然な写真を要求されたとしても撮れるかどうかは被写体次第になってしまうのです。 少しややこしくなってしまいましたが、私はこのどちらもが必要であり 最初に書いた「作り上げていないような空間を作り上げる」事が 常に自然な写真を作る条件だと考えています。 写真は意図的でなければならないと思っているのが私の基本スタンスだからです。 この写真における「作り上げていないような空間を作り上げる」事を表現する為に気をつけたポイントは3つあります。 1:ポーズはすべて伝える 2:ガラス窓を利用する 3:被写体が興味を持つ言葉を投げかけて視線を誘導し、彼の集中をカメラではなく窓の外へと導く 彼はライフスタジオに10回以上来てくれていたので、私たちとの撮影にも慣れていました。 しかし、慣れているが故に自然というよりは「撮りやすい」という感覚に近かったかもしれません。 そんな彼を深く考えずにただ指示を受け取ってくれるままに撮る事は簡単だったと思います。 しかし、10回以上来てくれている家族の「自然」という要求に応える為には被写体である彼が 出してくれる以上のものをこちらが提供しなくてはいけない。そう思いました。 ポーズについて私は「写真を撮る専用」のポーズをあまり指示しないようにしています。 これも「自然」に関する考えなのですが「写真を撮る専用」のポーズはその空間に写真を撮るという行為を 意識させてしまうからです。 この写真では「この場所にいて辛くない格好」を目指しました。 重心を格子に預け、反対側の手で柵を持つ事で、ただこの場所で外を見るならするであろう楽な姿勢を目指しました。 次にガラス窓です。 前ボケ自体に被写体と撮影者との距離感を作る性質がありますが、今回は窓を一枚隔てることによって 現場でも物理的に撮影者がいなくなり、より被写体である彼はカメラを意識しなくてもよい状況を作りました。 また、彼1人の空間を切り取るという事も窓を隔てている事が、「外からカフェでお茶を飲んでいる人を見ている」ような 感覚を目指しました。 最後の3番が個人的には一番重要なポイントだと思っています。 自然さを作る一番のポイントが私は「目」だと思っています。 視線を誘導する事は日常的にやる事だと思いますが、ただ目線を誘導することと、被写体に目線を移動する理由があるのとでは 目の力強さが変わってくると思っています。 例えば「窓の方見て」というのと「外の道路のマンホールが空いてるから見て」というのでは目の輝きに違いが出ます。 「窓の方見て」という言葉は写真を撮る為にそっちを向いてという意味を直接的に伝えている事になるので、 被写体も撮影をするための指示という認識を出る事ができません。 そうなると、言葉で説明するのは難しいですがたとえ窓の方を向いていてもどこか意識がカメラの方にある写真が生まれやすくなります。 ようは視線の先に目的があるかどうかが重要であり、それを意図的に創り上げる事が被写体の認識出来る範囲から 撮影者が消える事ができるきっかけとなっていくのだと考えます。 「作り上げていないような空間を作り上げる」というのは、人の理解からはじまり、何を撮りたいのかを明確にすること。 そして完成へのプロセスを自分なりに組み立てられることです。 そしてそれがうまくできた時、他力本願ではない本当の撮影が可能になるのだと思っています。
『美しいということを、知っていくこと』
2016/6/30
0
Photo at Koshigaya Photo by Kudo / Coordinate by Takako その瞬間、彼女の持つ世界がこの世で一番美しいと感じた。 天真爛漫な彼女の表情も、少しウェーブがかったその髪も、自由でしなやかな彼女の動きも、そのすべてがこの世界に既に在ったものなのに、その当たり前に存在する美しさに、ハッとさせられた瞬間は、彼女が誰なのかを知りゆく過程の中のある瞬間だった。 彼女の美しさは、彼女を知れば知るほど深く感じる。 深く感じればただ彼女が美しいというだけでなく、彼女の持つ世界が美しいと感じる。 会ったときにはまだ謎めいていた彼女の存在から、彼女が誰なのかを知っていけば、その存在の美しさがどうして美しいのかがわかってくる。 彼女の特徴を見つめて、彼女に合わせて話して、私たちの投げかけを受け止めてもらい、それから彼女の発したものを受け取り、シャッターを切る。 その連続の中で、私の心に広がっていくのは彼女だけが持つ世界。 私の心に写ったその世界を、どのくらい形に残せるのか。 彼女の世界を、彼女の存在を、その美しさを誰でもわかるように伝えることは、どれほど技術を磨けばできるのだろうか。どれだけ感性を高めればできるのだろうか。 そんな終わりのない探求をしていると、よく海の絵を描いていた幼い日を思い出す。 幼いころ、よく海の絵を描いていた。 美しい海の青と、寄せては引く波の動き、水面に煌く陽の光がこの世で一番美しいと信じていた。 海の色と、海の波、海の光。 私の心の中で見ていたそれらを画用紙の上で現すには、ただ絵の具を重ねればいいというわけではなく、実際に海の中に入って、海の温度を知り、波の感触を知ることと、陽の光が煌くわけを実際に触れてみないとその絵に私の心に写っていた美しさを本当に描くことができないと思っていた。 海に触れて描いた絵は、絵の具で色を足さなくても、心なしか深みを増していたような気がした。 それは、海が何なのか自ら知る行為を通じて海の美しさをより深く認識する行為だ。 美しさとその存在の深さを知れば、目に映るもの美しさだけではなく、その存在がなぜ美しいのかを知ることができる。 そうして、知れば知るほど絵の深みは増していった。 ライフスタジオで写真を撮るという行為は、その時の感覚を呼び起こされる。 被写体は「人」だ。その「人」の存在を美しく残すということがライフスタジオの撮影者に求められる。 それはただ目に映る美しさのみではなく、その「人」を知っていく過程で生じるその「人」の深みを知るということである。 それは、私たち撮影者自身がその場で自分を投げ出し、被写体であるその「人」からの反応を得て、また投げ出すという繰り返しの行為である。その行為の繰り返しの中で、撮影者である私は被写体である彼女が誰であるかを知るし、彼女も私のことを知る。 その行為がとても人間的であると感じるのは私だけだろうか? 彼女は5歳の女の子。 少し茶色がかったウェーブのロングヘアー。うすく小麦色に焼けた肌。 その何とも言えない美しい瞳に惹かれた。 最初は恥ずかしがっていたけれど、話していけば、徐々に彼女の情報を引き出せる。 何が好きか。何をしたときに笑うのか。ママがどれだけ好きなのか。 そうして情報を引き出せば、なぜ彼女のウェーブヘアーが美しいのかを知る。それはママが彼女のことを世界で一番美しいと思っているからだ。 そのママの意思を現実に反映するように、彼女の髪の美しさは堂々とそこに在る。 その笑顔も、その瞳も、すべては彼女の生きてきた世界を現していた。 彼女は、彼女のことを世界で一番美しいということを知っている両親の愛情に包まれ生きている。 そのことを知った瞬間、彼女の持つ世界がこの世界で最も美しいと私も感じることができたのかもしれない。 彼女の持つ世界をより美しく現すには、彼女が彼女として生き生きとした瞬間を引き出すことが必要で、それにはさらに投げかけることを必要とする。 「お日様が気持ちいいと感じるように、その花のにおいをかいで」 そう投げかけたとき、彼女だけの美しい世界は煌いた。彼女だけの表情が、彼女だけの動きが、彼女を写した写真に唯一無二の美しさを与える。 ママが彼女を美しいと思うように、私も彼女のことを美しいと感じたから、その瞬間が煌いて感じたのかもしれない。 ライフスタジオの写真の被写体の概念とは、「存在の美」の表現であり、それは当たり前のように存在する「人」の深さを知る行為であり、その「人」が誰かを知る行為が必要なのである。 他者が誰かを明らかにするには、自分自身が誰かを先に現すことが不可欠である。 それが「投げ出す」という行為であり、その過程でその「人」が誰であるか知ることができる。 その人が「誰か」ということを知り、その「人」の深さを知る。そのことが、その「人」だけの「存在の美」を本当の認識することであり、そのことが写真の美しさにより深い味を付け加えることができる。 自らの存在を以て、相手の存在を活かし、お互いの存在をそれぞれ美しいものとして認めること。 その行為が、とても人間的だからライフスタジオの写真には体温を感じるのだと思います。
ハピネス
2016/6/30
0
「写真とは何か」。 カメラを持って、ファインダーの中を覗きながら撮影を繰り返す日々の中で、ふと投げかけられたこの問いは、私がシャッターを切るまでの時間を、少し長くした。 ここでこのボタンを押すだけで、「写真」が残る。 何故、自分は今この瞬間、このタイミングでシャッターを切ろうとしているのか。 何故、この光景を写真にしようとしているのか。 「写真」とは、「何」かを、いつも考えているようで、ともすれば習慣化されたそれは、無意識的な作業の中に「何となく」片付けられてしまっているのではないだろうか。 写真とは、何か。 改めて考えながら、シャッターを切っていた1ヶ月。 私は、「家族写真」が好きだ。家族写真を撮っていたい。 自分が大家族で、家族全員が写った写真を持っていないからか、私が撮る写真には、「家族写真」への憧憬のようなものが、時折見え隠れする。 少し極端な例かも知れないけれど、例えばその人の人生で大きな危機とか波乱とかが訪れて、気持ちがどうしようもなく落ち込んだとしても、大切な家族の写真が1枚あれば、人はその危機に立ち向かう勇気や気力を得ることさえできるのではないかと、私は漠然と思っていた。 写真には、そういう力があって欲しい。自分は、その為に写真を撮っていたい。 ただ、それはきっと、どんな写真であってもそうなのではないだろう。 その写真に写った人たち、その家族が、それが「真」の自分たちの姿を写していると感じられる写真でなければ、恐らくはそんな力を持った写真には、なり得ない。 お客様からのご要望でよく言われるような、「自然な写真を撮ってください」という言葉は、広い意味で、そんな力を持った写真を残して欲しい、という要望の一端でもあるのではないだろうか。 「自然な自分の姿」は、普段自分が実際に目にすることはあまりない。客観的に「写真」という形に残されたそれが、その人にとって初めて見るような自分の姿であって、撮影者が発見したその人たちの美しさである。 ライフスタジオのHPを見て、Photogenicに並ぶ写真を見て、スタッフblogやFacebookを見て、お客様は「自然な写真を撮って欲しい」と思う。そして私たちは、撮影者として、その人たちができる限り「自然」でいられる条件や環境を作り出さなければならない。 緊張していれば会話をし、作り笑顔であれば少し待ち、観察し、投げかけ、返ってきたものを受け止めて、考えて、投げ返すことを繰り返す。 それは、言葉でのやり取りができないBabyにおいても同じだ。 会話はできなくても、コミュニケーションを図ることはできる。観察して、状態を把握し、緊張していればパパとママの抱っこから離れなくて良いし、ひとりで歩いて動きたいならそうさせる。笑えば、私たちはもっと笑うし、泣けばいつでも抱っこしてもらえば良い。 Babyもまた人であって、その「ひと」としての美しさがある。その人が、その人として柔らかくそこに存在していられるように、私たちは整えていく。 ただ、そのすべてを知ることはできない、と思っている。撮影の間、ものの1時間やそこらで、私たちがその人たちの「真」の姿をすべて発見し、規定できる訳ではない。「その人らしさ」を声高に語ることを、おこがましく思う時もある。 私が撮る写真は、飽くまでも「わたし」というフィルターを通す。「わたし」は、「あなた」たちの美しさをこのように発見し、演出し、表現した。その結果がこの写真であって、それはその人たちのすべてを余すことなく語る訳ではないけれども、それでもこの時見付けた美しさは、四角い世界を温かく満たした。 ニコニコと笑って機嫌の良かったBabyが、撮影の終盤に疲れと共にぐずり始める。最後のカットは家族写真にしようと思っていて、抱きしめてあげてください、とパパママに声をかけ、3人の世界が作られるのを、待つ。 抱っこされたBabyが少し落ち着き、パパとママに更に距離を詰めてもらう。3人の内側の空気感に集中してフレーミングのラインを探し、パパママの頭をトリミングした。少し首を傾げてもらうことで、ふたりの顔が立体的になる。 前ボケは、対角線上に柔らかく、原形を残さないくらい淡く入れ込んだ。空間の距離感と、柔らかさの視覚的表現。また、Babyの足というやや主張すると思われるパーツを不自然でない程度に隠し、表情により集中させる効果を狙っている。 ぐずっていたBabyが、パパママに触れ、体温を感じ、柔らかく笑った。その瞬間綻んだパパとママの口元、その表情が、この世界を完成させた。私がシャッターを切ることで、ほんの一瞬のこの世界が、写真に残る。 この日、この撮影の75カットめ。初めまして、から始まって、共にこの時間を過ごしたことで、最後に生まれる一種の連帯感のような、達成感のような、そんな感覚を共有しながら残された彼らの姿は、美しかった。 私の目を通して、ファインダーを通して、記録される「写真」が、人に力を与えるものであって欲しい。 あなたがこんなに愛していること、あなたがこんなに愛されていること。 どんな時であっても、それを思い出せる写真を残していきたい。 写真とは、人を幸せにするもの。人に、力を与えるもの。 だから、写真を撮っている。 Life studio No,17 Shinyokohama Photo by Reiri, / coodi by Hachiyama
家族写真のイメージカット
2016/6/30
0
ライフスタジオは今年で10周年になります。この10年という間に私たちはたくさんの家族と出会い撮影してきました。当時、生まれたばかりの赤ちゃんだった子たちは、もうハーフ成人式を迎えます。私たちはその間にたくさん写真の話をし、写真のことを考えてきました。最近では「成人写真」の話が中心的にされるようになりました。フォトジェニックに掲載される写真の被写体も7歳以上が多いのではないでしょうか。 でも、赤ちゃんの写真はやっぱり可愛いと思います。誰が見てもそのままで可愛い姿形をしているからです。 私のいる新横浜店はオープンしてからずっと赤ちゃんを中心に撮影している店舗です。新横浜店へ来てまだ3か月ですが、客観的に見ても新横浜店のスタッフの赤ちゃんを撮影する技術は高いと思います。その理由は、本当に心から「可愛い」と感じ、その瞬間にシャッターを切っていると思うからです。毎朝、「誰がこのプニプニ(赤ちゃんのこと)を撮影する〜?」なんて話が出たり、道で通りすがった赤ちゃんに「は〜癒された〜。」なんて口にするくらいです。そして、シャッターをいつ切るのか、その瞬間というのは撮影するカメラマンに全て任されています。赤ちゃんに普段から集中をしているからこそ、「可愛い」写真が撮れるのだと思います。 しかし、赤ちゃんの写真はいくら可愛いと言っても、成人写真とは違った難しさというものがあります。まず言葉では意思疎通ができません。こちらの意図したポーズもとれませんし、体力もまだ少ないです。撮影とお昼寝のタイミングが重なってしまうこともあります。コーディネートに関して言えば、いつも着慣れた動きやすい服とは違うことでご機嫌が優れなかったり、帽子や髪飾りは一瞬でとってしまいます。そんな中でも私たちは撮影できる技術を数多く持っていますし、その中に楽しさや発見があります。言葉で意思疎通ができなくても、こちらがした何かに答えてくれたときの何とも言い表せない嬉しさや、お母さんの肩越しにこちらの様子を伺っていて、無言で何かを訴えていることがわかります。意図したポーズが取れなくても、想像の上を行くリアクションを取ってくれます。撮影中に寝てしまっても、寝顔を写真に残すことができます。帽子や髪飾りをあっという間に取ってしまっても、その取っている瞬間の仕草を残すことができます。 そんな新横浜店では家族写真のイメージカットを撮影することに取り組んでいました。イメージカットというと、とてもジャンルが広く、話されることも様々です。いつも撮影する写真の中にもイメージカットはもちろんあります。そういった写真だけではなく、改めて集中して撮影するということは、私たちの考えるイメージカットとはどういうものなのか?を考えなくてはなりません。 この家族はとってもおしゃれなご家族で、3人で頭の先から足元までバッチリとコーディネートしてきてくれました。ここまでコーディネートしてくれたのであれば、足元のカットも残したいなぁと思っていましたが、ママさんから「靴だけのカットも撮影できますか?」とのお声があったので、ぜひ!ということでこの写真が生まれました。この赤ちゃんは人見知りもなく、はじめから最後までご機嫌が良く立つのも上手です。家族1人1人が自立しており尊重しあっているそんな関係を感じました。私は「この家族にはきちんと画面を整理し、撮影するのがいい」そう思いこの形で撮影をしました。家族写真のイメージカットで一番大切なことは何よりも家族らしさだと思います。それがその家族の日常で、自然な姿です。どんなに私たちがイメージする姿や演出したいことあっても、その家族らしさがなくては、その家族にとっては不自然な姿になってしまいます。赤ちゃんが抱っこを求める姿はかわいいものです。しかし、それを赤ちゃん自身が求めていなければ、こちらが無理やりやってもらうのは変な話です。 私たちがいかに自然に日常的な写真になるよう演出するのか、それが家族写真のイメージカットの真髄ではないでしょうか。 yoyogi photo by hachiyama/codi by yonezu
Never-ending東京。
2016/6/30
0
Photo by gomei Codi by HIRO 彼女と会うのは2回目だ、前回は一年前に初めて会い真っ直ぐで素直な女の子という印象を持ったのを覚えている、場所は一年前の越谷店だ。 丁度一年前の撮影では、何もかもを楽しみ2時間の撮影を過ごしていった。 この一年という時間は彼女にどのような変化をもたらしたのだろうか、まずは7歳から8歳になった、小学校だと中学年とでも言うのだろうか、話す内容や大人への対応が驚くほど変わっていた、その目には何でも楽しむという期待よりも久々の再会にしどろもどろする少女の表情が垣間見えた。 身長も大きく伸びていた、骨格が大きくなり幼稚園児のような可愛さよりもすこし大人に近づいた可愛さを持っていた、見た目の変化がもたらす印象の度合いは大きい。 ではこの一年私も変化したのだろうか、彼女ほどではないが私も少なからず変化をしている、長かった髪を切った、めがねを変えた、そして去年よりも意欲的に働いている。 それらの要素が総合的に混ざり合い結果としてお互いに恥ずかしさを抱く形になったのではないかと今振り返ると思う点である。 あの時感じた「去年のような撮影ではないな」という思いは当たり前だが的中をした。 基本的には恥じらいからか写真に写りたがらない、親の前だからか、兄弟の前だからかは分からないが、意思が強いがもじもじするような仕草がよく見えた。 だからこそ去年と同じインテリアで撮る事を決めた、基本的には異なったインテリアを使用することが常であるし、越谷店の1Fはリニューアルをしているのに。 その選択には勿論理由がある、まず選択の根底にあることは人を撮るという事だ、このためには去年の思い出をある程度捨てなくてはならない、去年私が思っていた彼女の素敵な要素は、今年は異なっていると考えなくてはならない。 去年は過去だ、来年は未来だ、そして今年は現在である、日々人は変化の中に存在しており、写真を通して残すことが出来るのは今現在でしかない。 写真の記録という性質をいくら考えてもそれに行き当たる目に見える形としては目の前の状況しかないのだ。 このように考えるのはそれぐらい変化があったからだ、その変化の根拠は明確にはわからないが、知識が増え、コミュニティーの変化に伴と個人的成長が理由だと思う。 他にも写真がもつ性質はいくつもあると考えている、その一つは過去と現在をつなげる性質を持っているという事だ、他の言葉にすると歴史という言葉が適切だろう。 私たちは教育課程で必ず歴史を勉強する、世界史も日本史も何でもだ、歴史を学ぶ上で写真を通して認識することも多かったのではないだろうか。 例えば明治時代と昭和時代、人の格好も街並みも何もかも異なるが、写真を見て時系列をつむぎ合わせ私たちは理解をする。 この写真も例外ではない、去年と今年は背格好も異なれば、癖なども異なる。印象は変わるのに彼女という人は変わってはいない。そう考えるとこの写真も彼女の歴史を撮っている一面を持っており、去年との相違点が成長という言葉を持って人に認識されるだろう。 この要素を一番強く感じる為に行った選択が、去年と同じインテリアで撮るという事になった。 ではこの写真を撮った理由を少し書いてゆきたいと思う。 撮影場所を決め次にしたことは、カメラの撮影モードをモノクロに設定をした、このシーンの一枚目のこの写真の為だ、そのため75cutの中にはモノクロの写真はこの一枚のみだ。 まず一つ、窓から入るスポット的な自然光の中にいることで陰影をはっきりと出すことで被写体の存在感を強く出すこと、そして極力他の要素である色をなくすことでより被写体へ向ける視線の誘導をするためだ。 ポーズも特別には指示をしないことにした、いわゆる綺麗なポーズというものではない。 細かくポーズの指示をするという事と自然にみえるということは、シーソーゲームのようなものだ。 ポーズを一つつけると自然にはひとつマイナスされる、逆に自然にを大切にすると綺麗にはマイナスされてゆく。 この写真においては前途した概念を大切にするため、特別ポーズはつけなかった、一つ注文したといえばうつむいてもらうことだ。 そのために「靴がずれているよ」と一言声をかけた、これはそれを直す仕草という事になる。 帽子をかぶりうつむくことで表情が隠れることは想定内だ、正確にどのような表情をしているのか分からなくしたのは、この写真を見た人の想像力への投げかけだ。 表情が分からないので想像するしかない、彼女がどのような人なのかを考え規定すること、それは歴史的側面にとても関係している。 この写真もいつかは過去になる、来年になれば去年の写真といわれる、来年の彼女がどのようになっているのかは今誰も知らない、来年を考えると想像するしかないのだ。 次は左半分の何かについて。 まさしく何かだ、何かでよいと思うのだが、正体は大きな花瓶だ。 過敏は少ない光も屈折光となり反射をする為、比較的明るく写る、そして大きくぼけさせることでよく分からないものにした。よく分からなくしたかったのだ。 これには空間という概念ものが大きく関係している、空間とは物体が存在しない所をさすものであり、結局は目に見えなく分からないものだ。 これは東京の街によく思う、特に新宿や渋谷や銀座などの大きな町に、千葉の田舎男が表現するには東京のほうがしっくりと来るので東京としよう。 新宿や渋谷や銀座も何十年もの間、新宿、渋谷、銀座という場所だ、しかしこの何十年の間にも店は大きく様変わり、訪れる人々も大きく変わっただろう、渋谷にいわゆるチーマーが今は存在していないように。 変わりゆく街の空間、しかし一つ一つの街が異彩を放っているのが東京だ。 東京の街をよくみてみると、異彩を放っているのは場所ではなく空間だという事が分かるだろう、物質は時代とともに大きく変化するのに、独自の空気が流れ続けている。 東京の街の実態の変化はめまぐるしいスピードで変わって行くものだからこそ、その実態をつかむことは私たちには出来ないのかもしれない。 それは時間とともに延々と変化をし続けるものであり終わりが無いものでもある。 私たちは人や空間をつかんでいるだろうか。 いくら考えても明確な答えを出すことは今の私には出来ない。 この写真の核心は想像だ。 この撮影場所も時間と人とともに空間は変化を重ね、撮影者も被写体も同様に変化をし続ける。 彼女が今後どのような人生を歩むのか、この場所がどのような空間になってゆくのか、私がどのような人生を歩むのか、誰一人知らない。 目に見えないものは写真にも写らない、しかし目に見えないものが写真に意味をくれるものだ。 人も空間も結局は見えないものだからということではなく、目に見えないからこそ探す面白さが必ずある。 未来のことは誰にも分からないように、今を探すことに熱中した一枚である。
存在の証明。
2016/5/31
1
photo by gomei codi by KudoSatsuki&HIRO 写真はコミュニケーションである。 私たちは写真の先にある人と人との関係に重きをおき撮影を行っている、目的は人であるからです。 越谷店がリニューアルオープンをし今日で一か月が経ちました、オープン準備から約2か月越谷店に関わっているのですが、毎日が目まぐるしく過ぎてゆく状況の中で気づけば営業再開後一か月が経っており、思い返すとまだ一か月かと時間流れの間に立っているような不思議な感覚を覚えます。 越谷店のスタッフは皆一緒に働くことは初めてのメンバーの為、本当に真っさらなところからスタートをしました。この一か月の中で自分がどのような存在で居られるのか、また居るべきなのかを考え悩みの尽きぬ一日を過ごしてゆきます。 外部的には私たち越谷店はライフスタジオの店舗として、一組織としてどのような存在になるべきか、なりたいのかを毎日全員で悩んだ月でもあります、越谷店を通した私たち一人ひとりの存在証明をしたかったのだと振り返ると感じます。 越谷店は平日のみ営業をしているので、必然的にBaby撮影が多くなります。おそらく8割以上のお客様に1歳未満のお子様の撮影を行ったと思います。 Babyの撮影は基本的にカメラマンの作りこんだイメージを具現化することは難しいといわれます。 なぜなら年齢の高い被写体よりも、被写体自体の自由度が高いことが大きな要因だからです。もちろんのことどのような一歳のお子様でもカメラマンの意図を伝え理解してもらうことはできませんので、思うがままに自由に動き回ります。 だからこそ偶然性の高い撮影に自ずとなってゆくため、カメラマンも思うようにイメージの具現化にはなかなかつながらないものであります。 つまり一歳以下の年齢の撮影になると、その偶発性をいかに予測をし、誘導をし、イメージの具現化を行ってゆくのかがカメラマンに必要とされるスキルでもあるのです。 この写真はお客様の唯一のご要望でもありました。 「指輪を手に持った写真を撮ってください。」 それ以外に参考資料などはなく完全にイメージは私に任されました。必要とされた条件は指輪を手に持つことだけです。 指輪を手に持っている写真はこれ以外にも勿論数多く撮ることができます、もっと指輪をアップにしてとることもできますし、手のひらに乗せた写真を撮ることもできます。 しかしお客様は持つという情報を私に投げかけてくれました、それには必ず意味があるのであり、言葉は伝えるためのツールであることから、私たちは意図をくみ取り撮影を行うこととなります。 指輪を手に持つという情報からまず考えなくてはならないのは、この写真を撮るにあたっての主題である。 決して指輪という物質が主題ではなく、手というパーツが主題ではない、手に持つという行為を通して目に見えない何かを私たちは一枚の写真に込めなくてはならないと感じる。 この写真を撮るにあたっての主題は「存在の証明」だ、時系列で考えるとパパさんとママさんが独身時代に出会い、結婚をして、子供が生まれた。 一年以上前にはこの手の主はこの世に存在をまだしていない状態である、一つ一つの愛の形が時間とともに育んでゆく中で、新たな存在が生まれたというドラマに関しては写真の通り説明はいらないと思う。 ではこの新たな生命の存在感をいかに一枚の写真に入れるのか。 まず一つは被写体の配置である、写真の中央に配置をし寝そべるように手の位置に合わせて撮ることで真っすぐに視線が集まる等に、そして上向きの手を撮り、上部を大きく開けることでポジティブなイメージを出す。 そして自然光を逆行にとり、背景を飛ばすことで、写っているものは指輪と手のみにすることで、より存在感が出るように工夫をする。 そして赤ちゃんは自由に指輪を握る、幾度かシャッターを切り人差し指が入り込むような写真を選んだ、握る手の形に生命の力強さが欲しかったからだ。 一つの主題の為に私たちは計算しシャッターを切ることで、すべてのことの意味を知らなくてはならないし、説明ができなくてはならないものであり、写したすべての要素が、価値につながらなくてはならないものであると考えます。 そのとき初めていわゆる良い写真となるのだと思います。 指輪と手という被写体の存在の証明、これはカメラの先にあるものだがカメラを通してもしかしたら自分自身の証明をしたかったのかもしれない。 私自身フォトジェニックに写真を上げることは1年ぶりくらいかもしれません、この一枚が私にとってもカメラマン五明としての存在証明であり、越谷店の存在証明の第一歩でもあります。 そしてもちろんのことこの写真のご家族と、新たな生命の証明でもあります。 きっとこの写真と文章を読み、いろいろなことを思っていただけると思う。 おそらくその感情は正解であり、その感情以外の物はないと思います。 良いも悪いもすべてあっていいものです。 この写真を開いた時点で、私とあなたのコミュニケーションは成立をしているのです。 この写真を見て思う言葉や感情が、結局は写真の魅力ではないでしょうか。
繋がり
2016/5/31
0
"自分"を構成する要素を分解していくと、何が見えてくるでしょうか。 外見だと、髪の色、肌の色、瞳の色。鼻や目の形、体型。 中身だと、優しい、優柔不断、頑固、繊細、几帳面など、いろいろな特徴をあげることができます。 そして、そのすべてが総合して、人と違う自分をつくりあげています。 外見は、自分の意思とは関係なく、変化をしていくものです。 でも自分の中身は、自分の意思で変化をしていきます。無意識にどうするか選択をして、今のような人格になっています。 ではその人格は、どのようにしてできているのでしょうか。 スタッフで映画討論をしたときに、自分たちの父子関係について喋っていたら、面白い話が出ました。 「今まで親と自分は全然似ていないと思っていたけれど、気が付いたら似ている部分があって、なんだか妙な気分になった」というのです。 自分の性格だと思っていたことが、実は親から譲り受けた部分だったというのは、自分なのに、自分じゃないような、変な感じだねという話をしました。 確かに、今の自分は確かに一個人として、親とは別の人間なのですが、親から譲りうけた性格は必ず存在します。 人と人の違いは、私たちの身にふりかかる出来事そのものではなく、その出来事をどう処理するか、によって決まってくるように思います。 ピクサー映画「インサイド・ヘッド」では、少女の頭の中でいろんな感情が話し合いをしています。 外部で起きた出来事を少女の頭に中の感情たちが整理し、いろいろな感情が彼女を動かして行動を起こしています。 ただ引っ越しをして、新しい場所に馴染めなかった、親の顔を見て、思っていることを言えなかった。 そんな些細に見える事柄でも、彼女の中では感情たちが右往左往しています。 一番は事故によって指令塔から「ヨロコビ」がいなくなってしまったことが原因ですが、次第に彼女は笑顔をなくしていきます。 行動だけで見ると、外側の人たちには彼女の中で何が起きているのかがわかりません。だからこそ、わがままを言っていたり、わけもなく不機嫌になっていると思って、親が怒ったりし、そのことで彼女と両親の溝ができてしまいます。 映画では、主人公の少女の頭の中にはたくさんの思い出が蓄積しています。 小さいものから、彼女の性格に影響する大きなものまで、様々な思い出たちが収納されています。 その中でも「特別な思い出」は、彼女が彼女であるために必要なものです。 特別な思い出が、人格の島をつくり、彼女という人間を形成しています。 子供の頃は単純だった世界が、たくさんの経験をし、いろいろな感情をもった記憶が増えることで人格がつくられていきます。 だからこそ、人はみな違うといえるのだと思います。まったく同じ経験をしている人はいません。 その特別な記憶こそが、その人の核ともいえるものです。 記憶を積み重ねていくこと、それが、自分を形成していくことなのだと思います。 親と共通している部分は、 私はいたって普通に育ち、何かの英才教育を受けたり、大きな事柄が起きたことがありません。 そんな自分が思い出した特別な経験は、そういえば小さいころから文章を書いていたな、ということでした。小さいころから、お母さんと交換日記のような感じで話を書いていました。小説といえるほど立派なものではないのですが、国語も本も好きだったので特に大変に思う事なくお話を書けていました。 私は詩などが好きで、よく印象深い言葉をこういった文章に使ったりすることがありますが、親の影響をがあったのだなと感じます。 子どもと親を繋ぐ橋は、記憶です。 親子は似た者同士、共通する部分がきっとあると思います。 パパやママにも、その人格を形成する特別な思い出が何かあったのだと思います。 それをお子様に話すことで、何か共通する繋がりが、お子様にも伝わるのではないかなと思います。 そして、そのつながりを大切に思い、伝えていけるような存在であればいいなと思います。
Best of you
2016/5/31
0
新横浜店で、たくさんの母と子の写真を撮ってきました。 以前にも書いた通り、Baby撮影店舗である新横浜店においては、『普遍的に美しいBabyの写真』を追求し続けることが、責任であると思っています。 1年半、その責任を果たすべく、人見知りBabyも場所見知りBabyも、暴れん坊でも泣き虫でも、みんなそれぞれに、大切な思い出になるような時間を過ごしてもらえるように、『美しい思い出の記録』として写真を残せるように、試行錯誤と悪戦苦闘をし続けてきました。 今年に入ってからは、『New Birth Baby』と銘打ち、生後半年未満〜新生児を対象とした撮影も行っています。過ぎ去ってしまう時間を大切に、成長の過程を大切に、変化の大きい時期の写真を残したいという想いから、『記憶の、記録』として、新横浜店はBaby写真を美しく残すこと、に全力を注いできました。 Babyの写真を、『可愛い』という切り口以外から説明することは、いつもとても難しく感じます。 私は、Babyに対して『可愛い』と思わずに撮影したことなど、今までに一度たりともありません。技術的な計算なんて二の次で、『か、かわいい!!!!』と思ってしまったらカメラを放り出して抱きしめてしまうかも知れない程(実際に何度かやってしまったこともあります)、その無垢な存在感や、きらきらした瞳や、まん丸いお腹やほっぺた、ちいさな手、おむつのお尻、眠くてぐずる泣き顔も、顔をくしゃくしゃにするあくびも、そういったBabyのBabyたる所以を表すような全ての要素を、ことごとく愛しています(こう書くとただの変態みたいですが)。 冷静に、ちゃんと論理的に撮影を遂行しなければならない、と言い聞かせながら、心はいつもBabyの可愛さに捕らわれてしまいます。 『可愛い』と思うそのこと自体は、別に悪いことではないのかも知れません。 可愛いと思う、その気持ちが観察を始めるきっかけになります。自分が何故そう思うのか、それを誰が見てもそう思うように表現できるか、そういうことを考えながら、『普遍的に美しいBabyの写真』となるように構成します。 しかし、シャッターを切る理由のすべてを、『可愛いから』を基準にすることは、撮影者としてあまりに浅はかであると言えるでしょう。 可愛い写真を撮るだけであれば、ライフスタジオである必要はありません。 この時、眠ってしまったBabyに優しく寄り添うママの表情を見て、私は『母親、とはこういう表情のことなんだ』と強く感じたことを覚えています。 それくらい、彼女の表情は私が思い描く抽象的で、ある意味では一般的な『母親』のイメージに、美しく合致しました。 眠っているBabyを起こさないようにそっと寝かせながら、その口元が綻んだその瞬間、その表情が、この3ヶ月でこの女性が『母親』として自らを顕わしてきた全てだと感じました。 彼女を母として顕わすのは、安心して眠るBabyの姿。Babyにピントを合わせながらレンズを解放にし、寄り添う『母親』という存在を柔らかく写しています。寄せた頬から伝わる熱、安心して眠るBabyの寝息まで感じられるかのような空気感を出したくて、ふたりの存在感に集中してフレーミングしました。 こういう写真を撮る時に、私は、そのBaby本人や、そのパパママにとって、価値ある写真を残したいと思っています。 生まれたばかりのBabyが加わり、新しい形になっていく『家族』の、始まりの姿。 まだひとりでは何もできないBabyが、ただそこにいてくれるだけで、パパとママの心に掛け替えのない気持ちをもたらしてくれるということ。 ひとりの男性や女性が、夫になり妻になり、父になり母になる、その姿。 自らの何もかもを置いて、我が子に心を注ぎ続ける愛情深い時間の、記録。 価値のあること、とは、もう二度と戻ることのない、過ぎ去ってしまうこの時間が、どれだけ寝不足で大変でてんやわんやだったとしても、大切な、本当に大切な時間だったということを、未来の「あなたたち」に思い出してもらえるような、そんな写真を残していくことなのではないでしょうか。 そして、それらを表現しようと試みた新横浜店の、ライフスタジオでの写真が、5年後、10年後、20年後に見返される時に、「価値ある写真」として「ひと」の心を揺さぶる瞬間を夢見て、私はカメラを持ち続けています。 いつだって、被写体を目の前にphotogenicの予感にわくわくし、自分の技術不足に絶望し、悔しさを経てまた写真から喜びを得ます。私自身にとっても、それは「写真」にまつわるかけがえのない「価値」であると思っています。 Life studio No,17 Shinyokohama Photo by Reiri, / coodi by Yonezu
前へ
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
/ 155
次へ
コミュニティに戻る
フォトジェニックに戻る