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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
涙の意思。
2016/9/30
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まだ生まれて数か月の彼女と、私の体感時間は恐らく全く別の速度で進んでいるのだろう。 毎日大体23時に就寝して、起床するのは朝4時半。 睡眠時間は平均5時間半の私に対して、彼女は1日の内に何度か就寝と起床を繰り返す。 食事も、1日3回の私よりも彼女の回数はずっと多い。 けれどそんなまだまだ小さな彼女にも、彼女なりの生活リズムというものがあって、 それはこの日撮影に来ることで少し、いつもと違う感覚にさせてしまった。 いつもなら心地の良い家でゆったりとした時間を過ごしているであろう時間帯。 車に揺られて目が覚めたら、初めて感じる雰囲気。 そのよくわからない感覚に、不安を感じる子も多い。 そんな不安からか、空腹からか、眠気からなのか、 彼女は撮影中に何度もその不快感(と表現して良いものか…。 とにかく彼女にとって、好ましくないであろうその感情を)私たちに訴えてきた。 この1枚を撮ったのも、そんな最中のある瞬間。 小さな目にたまった涙が、ライトの光を反射して輝いているように思えた。 「涙」と一言で言えば、最初はなんだか悲しいようなイメージを持ってしまう。 けれど私たちは悲しい時ばかりに涙を流すわけではない。 嬉しくて幸せな時にも涙は出る。 悔しくて腹立たしい時にも涙はこみあげてくる。 この時の彼女の涙はそうした類の物ではなく、 ただただ不快感や嫌悪感から来る悲しさだったのだろう。 それがなぜ、美しいと思えたのだろうか。 なぜ、私はその涙を収めたいとシャッターを切ったのだろうか。 その涙に、小さな彼女の頑張っている姿を見たからだ。 その涙に、小さな彼女の両親へ求める愛情を見たからだ。 その涙に、小さな彼女のはっきりした意思を見たからだ。 物事がよくわからない小さな時から、私たちには意思がある。 でなければ、お腹がすいたと主張するために泣かないだろう。 その空腹を満たしたいという意思があるから、それを主張するために声を上げるという選択をするのだ。 もちろんその選択は、生きるために必要だからこそ行われるもので、何よりも大切な主張だ。 大人になれば、主張したいことがあってもぐっと堪えなければならない場面も数多くある。 それは人と生きていく中で必要な「我慢」であり、人と人との関係性を築くために必要な「意思」でもあると思う。 そうした日々の中で、彼女の涙に見た意思は、私にハッと何かを気付かせてくれたように思う。 けれど、その涙が零れ落ちてしまう前に、パパママの腕に抱え上げられ、ぎゅっと抱きしめさせてあげよう。 Photo:Miya Coordi:Tanaka
あなたにできること
2016/9/30
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写真を残すのは、 楽しい思い出を美しく記録するためだ思っていた。 なので、写真を撮り始めて1年くらいは いかに技術的に上手く撮るかを考えていたし 最近はいかに楽しく負担なく撮影を進めていくかを考えていた。 けど、写真で大切なことは どれも今は違うと考える。 最近、撮影とは関係ないことだが、大切な友達が結婚をした。 二人は友達からカップルになって、夫婦になった。 これから命が生まれることで ママになり、パパになる。 私もただの友達ではなく ママの友達でパパの友達になる。 たったひとつのことで、 私たちの関係が全て変わっていく。 みんなで夜遅くまでゲームをしてそのまま寝た日。 くだらないことにたくさん笑った日。 日が変わるまで、自分のことをたくさん話した日。 今の私たちはずっと永遠だなんて 無邪気に言っていたとしても 時が過ぎれば過ごす環境も 笑い方も話し方も考え方も 全て変わっていくことでしょう。 そして人と人の関係性は これからも変わっていくし そのままを保ったり 誰かが手を加えて変えることはできない。 しかし、写真は一瞬の出来事でも 確かにあった事実として美しく残すことができる。 見逃しそうな小さい幸せを未来まで伝えることができる。 幸せを感じる写真をたくさん残していきたい。 写真で愛情を確認してもらうこと、幸せを感じてもらうこと。 それがカメラマンである私が人に唯一できることだ。 photo by Noro Coodi by Suzuki
『観察』
2016/9/30
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Lifestudio KOSHIGAYA photo by volvo codi by takako 私たちは概ね1日に3件の撮影を担当させてもらっている。 週に換算すれば15件、月なら60件、年間なら720件だ。 720回の撮影をしていれば大概の子供達の事は「どんと任せてくれ」と言えそうなものだが 残念ながらそう簡単にはいかせてくれないのが子供達だ。 経験を積めば当然ある程度は知るようにはなるが、まだまだわからないことは多いし そういう意味では全ての撮影、全ての写真が同じにはならない特殊性に富んでいる。 人は皆違うのだと改めて実感させられる毎日だ。 彼女も5年勤めた私がそんな事を改めて考えさせられた1人だ。 妹と2人姉妹で来てくれた彼女だが、撮影のメインは彼女ではなく妹の七五三だった。 撮影前からすでに「二人とも男性が苦手だ」という情報は伺っていたが、7歳と9歳ならば「そんなこともないだろう」 と5年で蓄積した自分のノウハウを信じきっていた私は、出会った直後に玉砕することになる。 しかも5年前にも私が撮影に入っていたのだ。恵比寿店で・・・。 ママさんと感動の!?再会を果たした事で関門はひとつ突破したが、まだまだ先は長かった。 目も会わなければ会話もままならない状態が続きながらも心のドアを叩き続けていた所に 「お姉ちゃんが小声でずっとシャボン玉やりたいって言ってる」というコーディネーターのたかちゃんの一言 が私にヒントをくれた。 それはシャボン玉で笑うかもしれないという事ではなく、彼女が心の奥底に野心を秘めている事を意味しているのだという事だった。 彼女は本当は「やりたいようにやりたい」のだ。 私も長男だから同じような経験がある。 自分も欲しいのに分け与えなければならず、譲らなければならない。 望みを打ち明けたいのだが照れが邪魔をする性格なのだろう。 たかちゃんと話しながら彼女の望みは衣装にも拡大していった。 洋服を決めながら次第に撮られたいという野望が強くなっているのを確認し、彼女のソロパートを迎える事になった。 私は常々自分の写真の核心は「統一感」だと思っているが、逆に言えば気をつけている事もこの統一感だ。 統一感とは写真を構成する全ての要素が「その一枚専用」になっている事を意味しているが、言葉を変えると全部にきちんと「意味」があるということになる。 最近世界遺産になった上野西洋美術館で有名人の絵画をみればわかるが、絵画は無意味なものがキャンバスの中に入る性質を持っていない。 キャンバスに絵を描くには「行為」が必要で、行為するためには「意図」が必要だから意図の無いものは描かれない。 ではなぜ写真には時として必ずしも意味を持たないものが写されるのだろうか。 残念ながら写真には必ずしも「意図」していないものが映し出されるからである。 絵を描く人が描く前に「どう構成しようか」と考えるように、写真を撮る前に自分の中に「どう撮ろうか」という意図がはっきりと ないまま子供達のテンションに押されシャッターを押す事に慣れてしまっているのである。 写真は美しさの観点は絵画と似ている部分が多い。 写ってしまう余計なものをそぎ落とし、衣装や背景、光や表情などが「その一枚専用」にさせることが絵画でいうところの 「意味のないものは書かない」ということと似ているのだろう。 絵画にはあまり興味は無いが・・・。 この写真における「その一枚専用」の示す所は上に書いた「彼女の野心」にある。 ポイントは「ヒールを履いた足」と「表情」。この二つだ。 表情の重要性は上述の通りであり、この表情を引き出す伏線になっているのが衣装であり、特にヒールの靴だからだ。 恥ずかしがり屋さんではあったがポーズは取ってくれたことは感謝すべき点だった。 特にヒールを履いた事によってポーズの意識が高まり、また女性特有のしなやかさが上がる事で私も動かしやすくなった。 ポーズに関しては女性を撮る時のセオリーを実践したにすぎないが、足を左右ずらすことは女性特有のラインをキレイに出す事と ヒールで上がったふくらはぎを強調できるポイントだ。 口元に手を置くのもセオリー通りだが、彼女にこの動作をしてもうらうには「ポーズを取らされていない」と感じさせる事が肝心だった。 この写真の前の写真では上半身は起きた状態で、手は膝の上に置いて足元を見ている。 この写真に移る過程でで手をひっくり返し、膝の上に寝そべってもらう。 あとはその瞬間に何かこの表情を生み出す言葉を言う。何を言ったかは忘れたが・・・。 瞬間、カメラに見せた不敵な笑みはポーズやヒールと相まって女性らしい雰囲気と彼女の「野心」が表に溢れていた。 次にポイントとなるのはトリミングだ。 トリミングも写真の構成要素の大きなひとつであることから、これも同様に「その一枚専用」でなければいけないと思っている。 トリミングで注意した点は二つ 1:不自然にならないこと 2:伝えたいものだけに限定すること 「ヒールを履いた足」と「表情」の二つにヒューチャーするためにはできるだけ 余計な要素はそぎ落とし、いわゆる圧縮効果を利用してできるだけ伝えたいものだけが伝わるように調整する。 この写真は極限までそぎ落とした写真と言えるだろう。 頭の上に隙間をあけなかったり、体の一部分を切ったのにはこの圧縮効果が意味している。 人は写真を見る時に写真に写っている要素が多ければ多いほど主題を見つける事に苦労する。 この写真において伝えなければいけない事を伝えるためには隙間があってはならないし、体さえも写さない方が よいと考えた。しかし、セオリーをはずれれば当然違和感が出る事から「体がきちんと想像できるギリギリでトリミング」する事に注意を払った。 もしもう少し切りすぎて左肩が見えなかったりすれば違和感が出ていただろうし、逆にもっと体を写していれば ヒールを履いた足は強調されなかっただろう。 足ものとに投げ出された鞄が軽く写っているのもこの状況を想像する要素となっている。 最後は「光」だ。 黒髪がキレイに見える彼女を見ながらどこで撮影する事がベストか考えていると、逆光が適切であると規定した。 また、足にヒューチャーするには足をよりキレイに撮らなければならず、細く撮らなければならないような足でもないが 一部に日を当てる事で足の印象を強めた。 さらにこの写真における光の核心部分ともなるのが左側の隙間を埋めるフレアだ。 前ボケの造花が西日を浴びて輝く事でフレアのような働きをして左の隙間を埋め、構図の安定としての役割も果たしたし、 彼女の雰囲気をひきたたせる役割も担った。 撮影が終わってからも様子の変わらない彼女を見ていると、この一枚を撮る事が出来たのが不思議なくらいだった。 「非日常を撮る」ということの難しさを改めて感じた一枚だが、同時に自信にもなる一枚だ。
二人の10年後・・・
2016/9/27
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実はあなたを10年前から知っています。 もちろん、あなたのお父さん、お母さん、妹さんも知っています。 でもあなたは私たちの事を知らないと思います、もう一度言わせて下さい。 『あなたに会えることを心待ちにしていました』 そして、もう一言・・・。 初めての出会いからずっと思っていましたが、あなたは私たちにとって大切な家族です。 数ある写真館の中であなたが私たちを見つけて下さったのも何かの縁だったかもしれません。 そして、そこから毎年会えるという喜びは言葉で表現することが簡単ではない感情の連続でした。 毎年の再会であなたが成長していく姿を見て、私たちももっと成長しようと思いました。 あなたに可愛い妹ができたときは皆で喜びを分かち合いました。 あなたが何かに挑戦していると知ったら、皆で応援をしました。 あなたは変わりなく健康でいますか? 今度会える時は、どんなことを話そうかな? もしかして、悩みの一つやふたつ抱えていたりするのかな? 気がついたらあなたの存在が私たちの心の中にいました。 私たちライフスタジが考えるいい写真とは、そのような相手を見つめる態度で決定されると考えます。 例えば、あなたを赤の他人だと思ったら、写真もそのように反映されます。 目で見えることだけを映し出します。つまり外見だけのあなたを見るのです。 人間関係もそうですが、外見が良い人もいいと思いますが、 やはり人は中身も重要だという話を良く聞きます。 それというのも結局、人を見る時には人の内面をよく理解することで相手を本当の意味で知ることができます。 つまり、カメラを向ける私たちもそのように、相手の内面も良くみて相手の魅力に注目し それを短い時間の中で発見できるよう人に集中することが私たちの仕事です。 欲を言うともう一つ、理想なのは私たちがカメラを向けたとしてもあなたが緊張しないことです。 だから、話すようにシャッターを押す。そう心がけています。 では、それをどのように実践したら良いのでしょうか? 次は技術的な面で話をしていきたいと思います。 皆さん、パーソナルスペースという言葉を聞いたことがありますか? それは何かと言うと、例えば好きな人が近くに来た時に、ドキッとときめいた経験があると思います。 反対に、なんとも思っていない人が近くに来たり、満員電車で他人とくっつかなければいけない時には、 不快な気持ちになったことがあると思います。自分の気持ちやその人との関係性によって 人には許せる空間があり、その空間をパーソナルスペースといいます。 これには4つの分類があります。 一つ目は、ごく親しい人に許される空間で密接距離です。 二つ目は、相手の表情を読み取ることが出来る個体距離です。 三つ目は、体には触れませんが会話が出来る社会的距離です。 四つ目は、複数人を見渡すことが出来る公共距離です。 このように見ると私たちは普段様々な人たちと交流し様々な距離感を保っています。 では、今回の一枚は何番目の分類に当てはまるでしょうか? 写真に写る二人の関係は父親と息子の関係です。 私が考えるに血縁関係の家族であっても時と場合、年齢、その時の心情によって お互いに心地よいと感じる距離感は異なってくると考えます。 そのような考えを元に、今回は二つ目の表情を読み取ることが出来る個体距離で設定をしました。 そして、お互いこちらに座ってください。そしてお互い10年後の姿をイメージしてお互い見詰め合って下さいと声かけをしました。 わたしが見つめた二人はとても似た笑顔でお互いを認め合う光景でした。 その瞬間・・・私には見えました。その優しいまなざしが・・・。 それを確認した直後、私はとっさに、四角の中に移りこむ被写体の面積と余白(白い部分)とのバランスを 望遠レンズで切り取り、余分な空間を省き圧縮しました。 つまり、ポイントはトリミングです。 トリミングはカメラマンが何を伝えたいか?の場合に意図的にそのポイントに目線が行くように効果を齎すことができます。 ですので今回は、写真をぱっと見たとき最初に白い余白の部分に視線が向く効果を予測しながらシャッターを押しました。 そして、その効果を通じて私の考えが伝わるよう調整しました。 それによって父親と息子が見つめあう適切な距離感を表現したかったからです。 そしてもう一つはこの逆光の光です。光は二人を照らす太陽の意味があります。良い写真は光で決まるといいますが まさにこの場所、この露出は二人の温かいまなざしを具現化するための手助けになりました。 そして最後に、この写真を自分が良いと考える最大の理由は二人の表情です。 声かけの時に私は二人に、お互いの10年後を想像してみてくださいと言いました。 実際どんなことをイメージししていたかは分かりませんが、相手の未来を想像して笑顔がこぼれる。 きっとそうなると予測していました。そして、その予測は私の予想をはるかに超えました。 目に映りこんだのは、美しい光景でした。 なぜそれが美しいのか?美しさの理由はひとつ。家族だからです・・・。 イメージしてみてください。写真館という空間が、第二の我が家のようなところであったら 今までよりも写真を撮られるという行為に抵抗は無くなると思います。 ライフスタジオは、誰にとっても安心できる空間。くつろげる空間。そんな風に思ってもらえると有難いです。 そうなれるように私たち自身も努力しつづけていきたい思います。
あなたを想うと笑顔が溢れる
2016/9/4
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“あなたを想うと笑顔が溢れる” 家族思いのとても優しい女の子。 この日は彼女と弟の七五三がメインの撮影だった。 撮る前に彼女と何気ない会話を交わし、撮影を始めた。 一人で撮っている時も弟が気になって仕方が無い様子。 面倒見がよく着替えも手伝ってあげたり、移動のときはいつも弟の手をひいてあげていたことをよくみかけた。 ”私がやらなきゃいけない” ”守ってあげなきゃ” という正義感を彼女から感じて、笑っているけど肩に力が入っている状態が続いた。 あと少しで終わるという時に彼女が小さく深呼吸をした。 その瞬間張りつめていたものが一気に放たれた。 そしてこの表情。優しい微笑み。楽しいことを考えている時の顔。 きっとこの時も弟のことを考えていたのではないか。 たまにはケンカもするだろうし、大きくなるにつれ一緒にいる時間は少なくなってくる。 そんな中、今ある状況のありのままを撮影することが私たちのやるべき使命でもある。 大きくなってこの日の写真を見直したとき、 この時の状況と気持ちが蘇りますように。
『 四角い視覚 』
2016/8/31
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No.24 Lifestudio Shonan Photo by Masashi Kuroki Codi by Chisaki Yamane ライフスタジオには撮影に対して情熱を注ぎ続けている者が多くいます。 そんな仲間たちと日々、写真の話をする機会がたくさんあります。 時には朝方まで話し合う事もしばしばです。 写真に対する想いや得意分野などはその人によって様々なので話す人により話す内容は変わってきます。 ですが、どの人と話していても必ずと言っていいほど話す話題があります。 それは、「いい写真の条件とは?」という話題です。 自分は正直この話題が好きではありません。 むしろ嫌いであると言い切れる話題かもしれません。 なぜなら、その話題には明確な答えなど無いからです。 ですが、今回は敢えてこの自分が嫌いな話題に関して話していきたいと思います。 嫌い、と言うと少々子どもじみた言い方に聞こえますが、この答えの無い、もしくは答えなど無数にありすぎて絞ることが出来ないであろう話題をここで触れる理由としては「写真」というものに携わり、撮影を人生としている者たちとして逃げることが許されない話題だからです。 正直、嫌い嫌いと言っていても朝方までこの話題で進むことも多々あります。 そもそも人には十人十色の感性や受け取り方があるのにも関わらず、写真という壮大な括りに対し「良い」とするのは無粋な気がします。 例えば、「いい人の条件」として考えた場合、「優しい」や「面白い」など色々あるとは思いますが、実際自分が「いい人」と思うのは個人的な意見が多く含まれるでしょう。 つまり、そんな一般的な言葉だけで「いい人の条件」としてしまったら世の中いい人だらけになってしまいますよね。 もちろん世の中いい人だらけですけど。。。 これは「いい料理の条件」などとも同じことで写真も同じことです。 ですが、言い方を変えてこう考えたらその意味は変わってくると思います。 それは、「いい写真に必ず備わっている条件」です。 つまり、「こういった写真が良い写真である」という事ではなく、「良いとされる写真にはこれが備わっていることが多い」という意味です。 しかし、その条件はこれまた多くあるでしょう。 そこで私が思うその条件の中で全てに当てはまると言っても良いのではないかという条件をあげます。 それは「バランス」です。 先に言ったように条件はたくさんありますがその中でも必須の一つであると私は思うのです。 本来、切れ目など無い視界を四角い枠で切り取る写真。 そしてその四角の中でバランスを保ち、その四角の中にその状況の全てを詰め込む。 まずこの段階こそが「いい写真の最低条件である」と思います。 そこから人を写す際にはこの準備が出来てからこそようやく感情移入をしていくのです。 私はこのご家族に会うことを楽しみにしていました。 なぜなら、スタジオとしては決して大きいとは言えない部屋に九人の家族。 これを楽しみにしなくてどうするのでしょうか。 私がワクワク、ドキドキする事。 それは、手強い相手にこそ感じます。 普通に写すだけならば手強くはないでしょう。 ですが、一人一人をどう写すか? それを考えれば考えるほど被写体はどんどん力を増していきます。 自分の中で勝手に相手を強くして臨む。 ある意味ドMの精神のようなものでしょうか。 そんな瞬間が一番集中と興奮が湧いてきます。 車がスタジオに到着し、一歳の女の子を抱いて入ってきたお父さん、ではなく二十歳のお兄ちゃん。 そしてぞくぞくとスタジオに入ってくる九人の家族。 私はまずその一人一人と会話をし、少々緊張しているように見えた一人一人をほぐす事に徹しました。 なぜならその緊張は私だけに必要なものであり写る人たちが持ってしまっていると私の思う良い写真の第一条件であるバランスが保てなくなるからです。 撮影の時間はあっと言う間に過ぎました。 今、これを綴りながらも「あぁ、あの時こうすれば良かった。。。」などと悔しい想いも正直あります。 それと同時に「次回はこう写したい!」 そんな想像で頭がいっぱいでもあります。 日々、目にする日常の風景。 駅のホームで電車を待つ人達。 ベンチに座っている人、並んでいる人、歩いている人。 気が付くと、見ているだけなのにそんな日常の光景を四角い枠に入れて切り取ってしまう。 意図的に配置しようもない人達をバランス良く切り取るために自分の視覚の中に四角を描く。 自分の頭の中だけで出来たいい写真。 「いい写真の条件」 その第一条件とは私はバランスではないだろうか、と言いました。 勿論、それも必要不可欠なことです。 ですが、「いい写真の条件」それは、 貪欲に追いかけ続ける者たちが写した写真なのではないでしょうか。 そんないい写真の条件を満たした写真がこのライフスタジオには多く存在しています。 そしてそんな写真こそがライフスタジオが追いかけ続ける写真なのだと私は思います。
「poses」
2016/8/31
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YOYOGI Photo Photo:Soo Coordi:Tomiki 私はこの少年をダンサーにしたいと思った。 この一カ月、店舗の課題に取り組みながら 「ポージングとはなんだろう???」ということを考えてきた。 ポージングと聞くと、私たちは形に囚われてしまう。 この撮影で例えてみるならば、 「はい、あなたはダンサーです。 手を耳に、足を前にだして、はい、笑って。」 そう言いながら、 撮影者の中にある絶対的な形に向かって、 被写体を意のままに操ろうと試みるといったことである。 しかし、これを私は良く思わない。 これでは、相手を全く尊重していないし、 ただの指示であって、暴力的だとさえ感じる。 ポーズの中には、被写体の態度が含まれている必要があるのだ。 楽しいなら楽しいなりの。退屈なら退屈なりの。 被写体の内側から出てくるものに対応した形というものがある。 俳優の演技をうまいと感じるか不自然だと感じるかの違いは、俳優がどれだけ本当に役の気持ちになりきっているかではないだろうか。 まるで本当に恋人が出来たとか、大切なものを失くしたとかのように、どれくらい本気で感じ切っているかによって、私たちへの伝わり方が変わってくるものだと思う。 それと同じようなことで、被写体がどのように感じているかという態度が顕れ出ることによって、ポージングはいきいきとしてくるのである。 しかし、単なる被写体の態度だけでは、自然な写真は撮れても、ポージングと呼ぶことはできない。 だから、ポージングと呼ぶためには、撮影者の意図と被写体の態度が一致するようなものを目指さなければいけないのではと考えたのだ。 今回でいえば、この少年をダンサーにしたいと思った私の意図があり、 ダンサーではないこの少年から、まるでダンサーになったかのような態度が顕れ出ること。 そのためには、 被写体と撮影者の距離感や関係、その場にある空気感が重要になってくる。 私は私だけに主導権があるような撮影はしない。 被写体がリードする時もあれば、コーディがリードする時もある。 一つの撮影の中で誰が主導権を握るかがあっちこっちと変わっていく。 そういった関係こそが自由な環境を作っていき、 お互いが尊重されて、自然な態度が顕れ出てくる瞬間を作ると考えるからだ。 だから、私が踊って見せたら、コーディも踊ってみせ、少年も踊ってみる。 時には撮影しようという意図と共にカメラを置いて、みんなで踊ってみる。 そうこうしているうちに、みんなの気持ちが高まってきたところで、ピンときたポーズを提案すれば、あっというまにダンサーの出来上がりである。 私の中には確かに、ダンサーにしたいという意図があった。 しかし、絶対的な形があったわけではない。 撮影の中での私たちのやり取りや、 被写体から顕れ出た態度をヒントに、一緒に作り上げた形なのだ。 私は、それがポージングなのだと思う。
被写体を動かす
2016/8/31
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HPにこのような文章があります。 Life Studio はなによりも関係を大事に考えます。 スタジオを作り出すたくさんの要素の中でも最も大事なものを選べといわれたら “被写体を動かす力” だと考えます。 被写体を動かす力とはなんだろうか? とても抽象的な言葉のため、単純に「被写体に自然なポーズ」を指示することが「被写体を動かす力」ということができるでしょう。 そのように思う理由は、ライフスタジオは「自然・自由」というイメージを与える写真が特徴的だからです。 このようなイメージは日本の写真館にはありませんでした。 写真館の写真は歴史が説明してくれます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 写真館の写真を辿っていくと、自分の姿を絵で再現する肖像画がモデルになっています。 カメラが登場すると肖像画が肖像写真に移行していき、リアリティであることが大きく異なっているだけで、肖像画と肖像写真の構成要素は大きく差がありませんでした。 その理由は、カメラの技術的な制限に要因があります。 カメラの技術がまだまだ発展途上だったため、被写体が10秒間動いてはいけない制限があったからです。被写体が動かないように頭を固定する器具も必要だったようです。 そして、撮影するまでにたくさんの機材とたくさんの光が必要でした。 現在のように、数えるだけの準備で簡単に写真は撮れる時代ではなかったのです。 写真館は技術者の実験室のような空間になってしまい、撮影者は「ただ撮るもの」として存在しており、被写体は「ただ撮られるもの」として存在しているだけの、ただ要求を出すものと受けるものの関係になっていました。 だから、被写体に特別な表情や動きがなく被写体が単なる物として、真ん中に写っていることが多いのです。 こうして写真館の写真はカメラの技術が発展したことに関係なく「不自然・不自由」というイメージを与える写真が特徴になっていきました。 そのイメージを壊したのがライフスタジオだと言えます。 被写体の体を自然に自由に動かすため、制限を最小限された工夫がされています。 ①ストロボではなく蛍光灯と自然光を光源にすること。 ②どこでも撮影可能なスタジオ空間にすること。 この2点により、被写体は既存の写真館から自由になったといえるでしょう。 だから、私たちカメラマンは可能な限り空間を自由にする条件を作り出し、その中で最大限に被写体の美しさを引き出していかなければならないのです。 しかし、ただ「被写体の体が自然に自由に動くこと」だけが「被写体を動かすこと」ではありません。 私たちの写真でー被写体の心も動かすことーも含まれているのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 被写体の心がどのように動いたら本当に動いたと言えるのでしょうか? 私はこう思います。 承認欲求という言葉があります。 人は誰しも他人に認められたいという欲求を持っています。 それを承認欲求と言います。 アドラー心理学は、その承認欲求に基づいた行動を否定しています。 なぜ、アドラーが承認欲求を否定するのでしょうか? 承認欲求とは、 「人に認めてもらうために良い行いをする」 という考えに基づいているからです。 しかし、この考えでは 「褒めてくれる人がいなければ適切な行動をとらない」 という危険性もはらんでいるのです。 人は本来、他人の期待を満たすためだけに生きているわけではありません。 他人の承認ばかりを優先するような行動は、結果的に自分が本来やるべきこと に没頭できなる可能性があります。 承認欲求を持つことは悪いことではありません。 人として認められるということは、本当に素晴らしくかけがえないことです。 ですが、まずはー自分が自分を認めること、自分が自分を必要とすることーの方向に心が動くことが重要なのだ私は思います。 1枚の写真で「知らなかった私」を発見して心が被写体自身に動いた時が、被写体を動かすことだと言えるのだと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この1枚の写真は、まるで被写体が映画の主人公のようになるように構成されています。 被写体の日常的な瞬間を切り取った【自然な姿】という特徴の写真というより、被写体が映画の主人公のように演出された【非日常的な姿】という特徴を持っています そのような意図があったため、構成美という技術で「知らなかった私」を表現することを考えていました。 構成美とは【比率・線と点・材質・色彩・光】という数理的・心理的に美しいとされるイメージをスタジオの空間を利用して被写体と構成することです。 【比率】 左右対称と1/3構図という数理的にバランスが良いとされる比率で、写真全体を視覚的に安定させている。 【線と点】 写真の中に複雑に線が混じっているが、基準となっているのは縦となる線があるため四角の中にバランスを確保している。左からトタンの線、中心の柱の線、天井からぶら下がっているライトの線が基準となっている。 【材質】 インテリアは、古さや懐かしさを感じさせるようなアンティークではなく、近代的を感じさせるようなトタンやライトといったような人工的な材質がほとんどである。そのことにより、都会的な新しさのイメージを作り上げている。 【色彩】 モノクロ写真であるため、白と黒の色彩で構成されている。モノクロ写真の特徴は、2つある。一つ目は、複雑な色彩を人為的に単純化できるため、視覚的にシンプルな写真にできることである。シンプルというのは美しさの条件である。二つ目は、光のグラデーションが視覚的にわかりやすく表現されることである。単純に白と黒というわけではなく、階段のように白から黒にかけてのさまざまな色があり、それが光のグラデーションとして認識されるため、美しく見える効果がある。 【光】 メインライトは被写体の左に仕込んであるボックスライトである。コントラストをできるだけ被写体の輪郭に当てるようにしており、被写体との距離も近い。バックライトとして被写体の後方にも光源があるため立体的な効果をもたらしている。また、右側にある天井からぶら下がっているライトの光の量が異なっているため、写真が平面的にならずに、遠近感のある空間として演出されている。 できれば写真で人の心を動かしたいという渇望はあります。 それは顧客から「かわいいですね」を超えて、1枚の写真で顧客が顧客自身を認められて、その人の人生が動くような写真をいつかは撮ってみたいものです。それが、関係を大事にするということなのかもしれません。
『One』
2016/8/31
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Photo by CHIBA Codi by Macchan 1歩踏み出した時から全てが始まり、1呼吸を置いてまた踏み込みます。 何度も何度もRE START 変わる事は私に到来した好機であり 新たに生まれた価値の始まり 朝、目が覚めてから何度も一呼吸を置き1日を過ごしています。私たちは朝ごはんを食べる時も、電車に乗る時も、シャッターを押す時も全てにおいて一呼吸を置いているのです。タイミングを取るとは判断し行動する助走の部分となっており皆意識をしなくとも行っているものです。 この夏から青山店は新たなメンバーでRE START ライフスタジオの記念すべき第1号店で始まりの場所になります。これまで何度もメンバーの入れ替わりがあり、インテリアも衣装も小物も何度も変わり、RE STARTしてきました。 1からスタートがされ変化を繰り返してきたこの場所の大切さを現メンバーで噛み締めていきたいとも思います。 そんな私は3年前入社して初めに配属となったのも青山店です。また縁があって青山店で過ごす日々が始まりました。私自身もここで1からSTARTすることもあり嬉しい気持ちです。 このSTARTをきった今だからこそ青山店で個の持ち味を発揮できる場所でもあると感じれます。お互いを知ることから始まった今月の店舗は慌ただしさと新鮮さと活力で満ち溢れていました。みんなで踏み出したこの1歩こそが全ての価値の観方の構成要素です。 そこで私はこの新しい環境でみた一歩目に対するそれぞれの思考と対応についてと場面にあった適切な選択について考えました。 1歩目に対するのそれぞれの思考と対応について スタジオにくる子供は十人十色で様々な対応を私たちに求められます。 ほとんどの場合でこれまで生きてきた経験からくる思考を分岐させ考えていくものです、しかしあくまで予想でしか1歩目を踏み出せません。確実なものはないからです。常に直感と交友させながらみていくしかありません。 ここでライフスタジオの大きな強みが発揮されます。お客様と接する時間が、接客業の中でも対話できる時間が確保されている事です。限られた空間でありながらもお客様は予約制な上、時間帯もほとんどの場合で被りづらくペアで付きっきりの状態になり歩み寄りのしやすい環境であること。これの繰り返しの場合1歩目の経験値も重ねることもしやすい状況であります。また子供相手の場合が多いと思われがちだが親御さんも来る、その祖父母も来店されることがあるので私たちは様々な事をかんがえることが多い環境であることになります。それぞれに対する思考と対応の積み重ねは私たちに大きな影響を与えてくれます。これを繰り返しの行なう私たちは重要な1歩目への対応が円滑にすることが出来やすい環境と可能性が高い状態にあるのです。 人とコミュニケーションをとる場合に相手によって1手目の選択肢が重要になってくると思います。 将棋や囲碁は1手目がとても重要で自分の1手目を出した場合に相手もまた第1手打ってくるのです。野球もまた投手が投げた第1投目は見ものなんです。短距離走の場合も一歩目の踏み込みと言うように。 つまりはほんとんどの場合でスタートが肝心ということです。 この環境上では私たちの強みとなる部分はここだと思います。 初対面の相手にどう自分が動くのか 緊張している人には安心できる環境をつくる努力をします。緊張にもいらんな形があり、私という人間でその持っているキャラクターで接し方があり様々な形に変化させていきます。明るい子には楽しさを重ねることもありますし、全てを出しすぎぬように自分の出処を考えながらやります。私たちは当たり前のように自分を少しづつ変えながら接していきます。そのために相手の出方に自分の中で分析と予想を繰り返し経験を積み上げていきます。 場面にあった適切なものを選択という事について この写真の彼は陽気で彼自身の興味の欲に関しては貪欲に行動するタイプの子でした。この時の1手目は彼の肩を組み『暑かったでしょお茶飲もうか』と一言放ったのがSTARTでした。撮影が始まると私がシャッターを押した次の瞬間は彼の方が先の興味へ足を運びそこで自分の楽しみを見つけるのが得意な子でした。気がつけば私とコーディネーターのまっちゃんは大量の汗と大きな声を発声していました。そんな彼をそのまま形にしたい面とまた違った面を残していきたいと思う私でした。ここにおいての適切とは瞬間瞬間にみる被写体のとらえ方であって状況や環境、撮影者によってもちろん異なってくるものです。 この写真のポイントは光と彼の表情にあります。 そこで窓から降り注ぐ自然光を活かす環境を条件として整理。 横写真にすることによって彼を画面の中でとらえるゆとりを作ります。右手前のグリーンの前ぼかしは夏のの爽やかさと感じさせてくれます。あとは彼のあどけない表情待ちに、そして強い日差しを麦わら帽子でカバーし木漏れ日も少々。 笑顔でなく、会話の中彼がおいた一呼吸の瞬間を待ちシャッターを押しました。 それがこの彼の1呼吸の1場面となります。 一呼吸の場面の重要さはすべての行動において存在するその人の「素」の部分になります。 ゆえに私はこういった写真を残すことを好みます。 答えは一つでない写真の楽しみ方がここにはあるとそう思っています。
優しさの理由
2016/8/31
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「パパって、世界一やさしい」 「パパは優しいんじゃなくて、お前を愛しているんだよ」 映画の中でそんなセリフがありました。 人の優しさは、どこにでもあります。誰でも、他の誰かに親切にしたり、やさしくすることができます。 でも親が子に与える優しさは、やはり他人のものとは何かが違います。 その答えが、その言葉を聞いたときにわかりました。 どんなときでも、たとえ自分が間違ったことをしたときでも、最後まで突き放したりしないのは大抵の場合お父さんやお母さんだと思います。 優しいからではなくて、愛情があるからなのでしょう。 愛してるから、きっとどんなに我儘を言っても、困らせるようなことがあっても、めいいっぱい優しくしてくれる。 もちろん叱るときも、親だって不機嫌になるときもあります。 でも、けして嫌いになったり、突き放したり、守らなくなることはないのです。 どんな子供でも無条件に愛してくれるのは、親だけなのではないかと思います。 パパもママも、穏やかで優しいご一家でした。 着物で緊張をしていましたが、彼女にとってはよくわからない存在だろうお姉さんたちの言うこともよく聞いてくれ、小さい手でおかばんを持ったり、ポーズをとったりして、一生懸命に答えてくれました。 とても人のことをよく見ている子で、なかなか緊張がとけませんでしたが、パパやママと遊んでいるとやっぱり表情が和らいでいきました。 そんなときにだからこそ、こんなお茶目な仕草も見せてくれたのだと思います。 愛情を受けた子供が親にいろんな表情を見せてくれる。それは、子供から親への最大のお返しです。 子供は、親の元だと一番安心して、自然体な姿でいられます。 「どんなあなたでも好きだよ」という気持ちが伝わり、それを信じているからこそ、自然体な姿を見せてくれるのだと思います。 それを写して残すために、みんなが一番リラックスしていること、それが良い家族写真への条件なのだと思います。
教えてくれた事
2016/8/31
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彼女の美しさは、私の思いもよらないところにあった。 私の伝える事を一生懸命に受け止めて返してくれる彼女。 そんな彼女の想いにも応えたいと、残したい、残さなきゃいけないと気合が入る。 寝転がってもらい、目を閉じてと言うと、彼女は目を閉じてくれた。 私がシャッターを切る瞬間、ふふふと笑って彼女は目を開いた。 もう一回お願いすると、また笑っていたずらな表情を見せた。 その瞬間、彼女の美しさを見た。 私が肩に力が入りすぎていたときに、彼女はふと自分の素を見せてくれた。 いたずらな表情は、私に考えすぎる事をやめさせてくれ、素を見せてくれた彼女に、私も素直でいたいと思えた。 子どもは自分が思ってる以上に周りの事を見てて、周りの人の感情を察知している。そんな時気づかされる事がある。 彼女も空気を察知したのかはわからないが、私の思い描く美しさ、以上の美しさを彼女から開いて見せてくれた。 撮影をしている中で、考える事は山程あって、考える事をやめてしまうと、そこに伝えたいもの、その子らしさ、私らしさはなくなってしまう。 でも考えすぎていても、自分を押し付けるだけで、そこにその子らしさはなくなってしまい、今目の前にあるものの美しさに気が付かないかもしれない。 考える事ももちろん必要だが、まずは自分の目の前にある美しさを素直に感じる事が大切なんだなと、 彼女が教えてくれたような気がします。 Photo:MukaeYuka Coordi:SuzukiJunko
僕たちは記憶の虜
2016/8/31
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No.10 omiya photo Photo:tomiki Coordi:Kazu 僕たちは記憶の虜だ 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 話を進めるにあたり私達の存在は、この3つに集約されています。 ・美しさ ・表現の楽しさ ・思い出の為の記録 表現者としての私達のアイデンティティ 私は表現者として淡く存在する愛おしさを、様々な工夫こらしながら一つ一つ丁寧に、いかにこぼれ落さないで拾い上げるかを常に考えています。 そのための工夫が自由な空間を創造していくということです。自由という言葉はとても抽象的な言葉です。もし自由というものが暴走すれば無秩序が生まれます。そこで自由な空間には必ず緊張と緩和が存在する必要性があると考えるます。例えば名作と言われる映画は緊張と緩和のバランスが本当に良く取れていると言われます。心踊らされる楽しさ、美しさにうっとりするような情緒がうまく織り成されているのです。私達のライフスタジオにおける撮影もそのような映画のようなものであると私は考えます。喜びあふれる姿ばかりではなく、ふと悲しみに触れるような瞳もどちらも大切で愛おしいのです。 愛おしさとはすべてのものに存在する人生 大切なのは楽しさばかりを追求する事が正しいことではなく、ただ美しさだけを表現することが正しいことでは無いと私は考えます。その2つ絶妙なハーモニーを奏でながら交差する点に思い馳せ恋い焦がれるのです。その点に愛おしさを感じる瞬間、私達が人として生まれてきた命の喜びを被写体と撮影者が共に甘受できる様な空気に包まれるのです。また人が人としてお互いが持ち合わせている生を瞬間的にあれ共に体感することによって素晴らしい感動が愛おしさとして実るのです。その実を大切に収穫していくことが我々の責任でも在ると考えています。 楽しい遊びの空間 具体的に私たちは、関係性をなによりも大切にします。関係性とは人生と人生が交わることを表す事なのだと私は考えています。つまり他の人の人生が私の人生の一片となるのです。関係性をつくり上げるためにらリラックスした空間は必要となります。しかしただ癒される空間があっても仕方がありません。そこで私たちは遊びを一つの導火線として使うのです。ジリジリと迫る導火線の火が爆弾に点火し「ドン!」という音とともに楽しさがあふれだすのです。そこでお互いが持つ丸裸の人生が出会うとき愛しさを心から感じることができるのです。 どのような写真を撮るか?と考えることは大切なことです。しかし結果、撮影においてお互いの人生が出会う事がなければそこに残るものは何だったのでしょうか? 閑話休題 私が彼らに出会った時、こう撮りたいあゝ撮りたいとは強くは考えませんでした。どこに彼らの人生に向かい合える瞬間が在るかに胸をときめかすのです。そのための空間を作り上げていく事が一種の楽しみであるわけです。そして一番最後に、どのような光を手に入れるか?どのようなフレーミングにするのか?という結果を考え息を吸い込みシャッターを切りました。愛おしさを感じることが出来たのです。楽しい遊びの空間が宇宙のように広がりを見せるのです。 まとめに、この写真は以下の点で分析しました。 1.光が与える美しさ 逆光の光を使うことによって画面には柔らかさが生まれます。 2.空間の広がり 光を取り入れるために画角は少し歪みます。しかし広角的表現が歪みを不安定感をなくし、何よりも被写体の表現に自由度が生まれます。 どんなに素晴らしい写真であっても愛しさがなければ私たちはやかましい銅鑼と同じなのだ。
Right
2016/8/31
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Photo by yoshie nishijima Coordi by yuko oikawa 彼は5歳の男の子で、彼を取り巻く要素の中には人であるという事、日本に生まれたという事、5歳という特性と男の子であるという事、長男であるということなど他にも沢山あり、また私が気付けていない要素も沢山あると思います 彼は5歳特有のヒーローものや車、電車などが好きで、こちらが悪者役になれば負けないという気持ちが働き何としても成し遂げるといったような瞬間が出てくる 長男という事もあるのか責任感なども強く、こちらが提案した事に対し一生懸命応えてくれようとし、また自らポーズを決めるなど愛らしい瞬間などが見られました 撮影を進め3シーン目の洋服に着替え彼も恥ずかしさが無くなり私達と打ち解けて、撮影にノリノリになってきた頃、丁度窓枠から西日が射し込んでいるのを見つけた 今までなら窓枠から限られた形の光で尚且つ、光も硬く強い直射光を利用し撮影する事はしなかった 何故ならばこのインテリアは壁に張り付いており、ヴィンテージ調で、どちらかといえばカッコ良い雰囲気が似合う場所 廊下である事もあり、人の通りも多く中々この場所での撮影をするカメラマンは少ない またインテリアと被写体、カメラマンの距離なども考えると、どうしても被写体が壁にくっつき、立体感に掛け良い写真になるのは難しいのではないかという固定概念もあった 壁に当たる光は強く、その光を利用し表現する事に難しさを感じていたという事もある 他の店舗でもあまり使われていない場所や光があるのではないでしょうか 一般的にスタジオ撮影でよく使われる光は、ある程度決めらていてサイド光か逆光が多い 順光を利用しない原因の一つに、順光はベタ光と言い、あまり良い写真が無い事や被写体が立体的に写らず表現が難しいという事もあり、順光への固定概念を私自身も、崩す事なく深く考えずに利用しなかったという点もある しかし、果たしてそうだろうか?と1度立ち止まり考えてみる その瞬間、疑問を抱いた事に対しての答えを探す作業が始まる 光について学び、順光でも良い写真があるのではないかとあらゆる手段で探し、順光の写真が世の中には沢山あるのだという事を改めて知った その作業を通して、今の自分の考えや写真に変化を与える事が出来るのではないかと考えました 自身が持ち合わせているものとその環境と条件に新たに学んだ知識を加える 人が目標を決め、何かに向かって行動する事は 自身の知らなかった世界を知れる事に繋がり見えなかったものが見えるようになる 写真を残す事においてその変化は、撮影の進行や人との関係性を変えるだけではなく、自身の表現の幅を広げる事にも繋がり、また何が良くて何故ダメなのかという考えに迫り、自身の意識を変え考えを変え行動を変える その経験と実績は、人に与える影響も変える そんな中で挑戦したのが、この一枚 順光の光は被写体の正面から当たるため、被写体だけではなく周囲の色や形が印象的に写るという事と、鮮明に分かりやすく写る効果があるということを念頭に置き撮影をした また光の強さで被写体のシルエットが壁に写るという効果もあることに気づき、それらにも意識を向け撮影を進めた 窓枠から射し込む限られた形をした光は、見方によっては、被写体のポーズや立ち位置で容易に表現を変える事が出来、彼の中で、ヒーローになりたいという生き生きとした姿を生かすべく、硬く強い直射光をそのまま生かし、被写体の正面から当てた そうする事により被写体に当たる光の効果は、コントラストの強いカッコ良いイメージを与える また壁に写るシルエットを生かす事でインテリアと被写体のポーズとの調和を生かしている まるで彼がスポットライトを浴びているかのような表現を目指した 彼の人間性と特性、コーディネートの雰囲気やインテリア、光を見ながら一致する瞬間を共に努力し作っていった中で生まれた一枚 自ら何かに挑戦する事、何かを作っていく事は人によって状態によってはとても労力を必要とするし失敗ももちろん繰り返す しかし、その経験と実績は見方一つで自らの糧となり、他に影響を与える この時、私は彼の今ならではの姿を引き出し、より良く表現したいと考える一心であった 彼やその家族がこの写真を見返した時何を思い思い出すか それがどこに繋がり、何に影響を与えていくのか そんな事を考えながら、これからも崩しては作るを繰り返す
扉の向こう側。
2016/8/30
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何か新しいものに出会う時、人は様々な感情を抱くだろう。 ドキドキわくわくとした高揚感、不安と恐怖の入り混じった焦燥感、そもそも自分がどんな感情を抱いているのかわからない時もあるだろう。 私は撮影をする際に、ドキドキわくわくを探しながら撮影をしている。 淡々とロボットのように作業的に撮影するのでは、自分の存在意味がない。 たった1時間の撮影の中で、その空間にいる人たちは皆、それぞれいろんな感情を抱きながらその時間を過ごしているのだ。 例えば、人見知りの子供を持つパパママは不安を抱え、 例えば、真新しいランドセルを背負った子は写真撮影に緊張を覚え、 例えば、いろんなおもちゃのある空間にわくわくして走り回りたい高揚感を抱く そんな多種多様な人たちを迎え、私は「この撮影ではどんなものに出会えるのだろう」とそわそわしてしまう。 人見知り、とひとことに言ってもその度合いや反応は子供によって全く異なる。 そうしたもの一つが、私にとって新しい出会いなのだ。 成長も子供によって差はあり、同じ年齢の子供でも大人びた子もいれば、おっとりマイペースな子もいる。 それぞれの育ってきている環境で、彼らはゆっくりといろんなものを吸収し、いろんなものに出会い、いろんなものを大切に仕舞い込んでいく。 年齢というものは、私が思うに単なる記号であり、カテゴリ分けをするためのものだという認識だ。 前述したように、同じ年齢の子が皆同じ事が出来て、同じことが出来ないなんてことはないのだ。 そこにはたくさんの新たな出会いがある。 撮影をする際、もちろん子供に合わせた撮影をしてなるべく負担のないように進めていく。 1歳の子供にポージングをさせることはまずないし、3歳の子供に大人のポーズをさせることもない。 しかし時折、そうした垣根を飛び越えてきて、とても良い意味で私を裏切ってくれる子供達がいることも事実なのだ。 そんな出会いがあった時、私はいつも以上に心が躍るのを感じている。 彼との出会いも、私としては予想外でとても刺激的で、もっと色んな構図で撮りたい撮りたい撮りたいと心の中で叫んだ。 3歳の彼にとって、上体、首だけを捻るという行為は普段の生活の中でほとんどすることのない行為だろう。 たいてい、同じ年齢の子にそれをやってとお願いすると、足ごとぐるりと後ろを向いてしまう子がほとんどだ。 それを見越して、彼に「肩を見て」と声をかけたのだが、そこで彼は私の予想を超えてきてくれたのだ。 もちろんすんなりのこの1枚に収まったのではなく、そこにはコーディネーターとの協力が不可欠だった。 彼女の、彼を応援する言葉がなければ彼も私自身もすぐにあきらめてしまっていたように思う。 彼がこの体の曲線を見事に描いた時、私はいつもと違う感覚でシャッターを切った。 いつもなら、被写体である彼をもう少し右側へ配置するのだが、今回は敢えてぎりぎりのところ…というよりもむしろ、身体の半分を切る位置へ配置した。 あるいはクローズアップとして、もっと顔に寄った写真を撮ることもできる。 けれどこの時感じたのは、彼の表情を印象的に写すことではなく、体の曲線を余すことなく画角内に収めることでもなく、彼と彼を包む柔らかな光そして淡い背景の色をより美しく写したいということだった。 つまりこの1枚の中で、彼は主役として存在しているのだけれど、それを引き立てる背景もまた主役になりえる存在でいて欲しかったのだ。 その背景に、絵画的な美しさを見た。 撮影場所は日進店の入り口の扉の前。 周りはコンクリートに囲まれた無機質な空間なのだが、その扉の正面に続く階段側から撮影すれば庭の緑が背景となり、同じ場所でも全く異なる写真を撮ることが出来る場所だ。 撮影をした時間帯はすでに夕方の時間帯で、夏だからまだ光がかろうじて入るという程度だった。 昼間に比べて、扉という限られた部分からしか入らない光量はとても少ない。 それを補うために扉を開けて、ほんの少し明るさを持ち上げる。 この時、この扉が私に新しい出会いを届けてくれた。 この扉は、手前から奥に開く作りになっている。 ガラス越しの写真を撮ると、ほんの少し見え方が変わる。 ガラスという物体が入ることにより、その純度にもよるが白みがかったり、あるいは青みがかったりする。 いわゆるフィルターを入れたように、それを通して見たものは靄がかかったように写る。 この扉は、庭の緑をより柔らかく幻想的に写すためのフィルターへと変化したのだ。 撮影場所から最大限離れられる場所から望遠レンズを構える。 被写体と庭との距離、私と庭との距離、被写界深度の距離も踏まえ背景の緑は通常その細かいディティールがわからないくらいにはボケる。 けれどそこにガラス扉が入ることで、一見なんだかわからないような背景へと変わる。 扉がなければその緑はもっと濃く写るのだが、ここでは緑の植物も茶色いレンガも灰色の砂利も、全てが彼をより引き立てる要素へと変化した。 その、新たな発見が、私にこの画角を選ばせたのだ。 いつも見ていた風景が違う形で目に映った。 ガラス扉という存在が目の前に現れた時、固定概念というフィルターが私の中から外れた。 写真を撮るということは、常に新たな発見との出会いの連続だ。 そのために私は写真を撮り続ける。 自分の写真に満足することはない、もっと面白い表現を、もっと美しい表現を、もっと質の高い技術を。 求め続ける心があれば、新たな出会いは広がるばかりだ。 新たな人との出会いを、 新たな写真との出会いを、 新たな自分との出会いを そこにドキドキとわくわくを探し求めながら。 Photo:Miya Coordi:Tanaka in Lifestudio Nisshin
『think and make』
2016/8/29
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Yokohama Aoba Photo Photographer: Ryo Coordinater: Misato カメラマンは何を材料に写真を撮っているのか。 私自身写真を撮っていてたまにそのような事を考えます。 その場のひらめきはいったい自分のなかの何から 産まれるものなのか。 良い写真を撮るためには良い写真を沢山見る事が必要。そんな言葉を多く耳にします。 これは間違いない方法だと思います。 しかし、何故それをするのかを認識する事が大切です。 無心に写真を見て無意識に自分の中に感覚を植え付 けるのは非常に時間がかかるうえに、四六時中写真を眺めていなければ自然に入ってくる事などなかなかないと思います。 良い写真を沢山見る、何故良いのかを分析する、準備をして分析の結果を撮影で撮る。 この行程をしっかりと踏まなければいけません。 沢山の写真を見る事により自分自身がどのような写真が好きなのかを認識できます。 どんな写真が良い写真なのかを自分の中ではっきりと認識する事が、写真を見る事で得られる最大の収穫だと思い ます。 写真集を見たり、雑誌を見たり、現代の世の中にあふれている多くの写真 の中から自分の好きと思える物を探す作業はとても重要です。 しかしこれは簡単な事では有りません、感覚の定着と言う物は起こりうる物ではなく、私たちの持つ感覚は 変化したらまた変化してします。 1万枚写真を見てつけた感覚は10万枚の写真を見た時にはまた違う物になって行くのです。 それでも、得た物を失う事は有りません。 どんどんプラスされて行くような感覚です。 常に吸収して行く意識を持てば良い写真の理由を探し、自分の 感覚を把握し、終わる事無く得た物は足されて行くのだと感じます。 こんな写真がとりたい、あんな写真がとりたいと沢山のイメージが産まれてくるようになると思いますが、 その写真を撮影現場で再現するには技術的な部分が絶対的に必要になります。 たまにイメージに技術がおいて行かれてしまう現象があります。 これは撮影において最ももったいない事です。 イメージは完成しているのに何故か思ったように写せない。 こういった場合はその写真を撮るための技術的な面が足りない事が多いと思います。 沢山の写真を目にして、感覚がふくれいけばそれに対応するための技術も大きくなって行かなければ望んだ 結果にはたどり着けません。 人が直感的に良いと思う写真には撮影者の技術も詰め込まれています。 切り離す事ができない感覚と技術、この双方がバランスよくのびて行かなければ自分の写真に大きなストレ スすら覚えるのではないでしょうか。これはもっとも良くない状況です。 沢山の情報の中からうまれたイメージを写真として再現するためには素材を整理し、順序を踏む事が大切です。 下に書く事は私が実際に行っている行程の一例です。 ・自分が好きな写真を探す ・何故それが良いかを分析する 。 ・その写真が撮影できる条件を準備する。 ・撮影状況をよく見て、イメージから実現可能な範囲を決め足し算引き算をする。 ・結果の一枚を写す 。 この過程をしっかりと行うことはとても重要で、考えなければ結果物も存在しないことを証明してくれます。 考えてから写すこと、そして考え出されたイメージを形にすること。 しっかりと考えてから行動する。 それは一見硬い感覚なのかもしれませんが、人の感性を発揮するために必要な事なのだと考えます。 今回の写真もあらかじめイメージを持ち、コーディネーターに伝え撮影の際実際にイメージに沿って写したものです。 イメージは形になり写真は作られ、考えてから行動する事の意義を私たちに教えてくれます。 写真の楽しさとはその一瞬だけではなく、準備の段階からなのかもしれませんね。
Fly me to the moon
2016/8/25
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Lifestudio kokubunji Photography:Shiiba Coordinator:Tansho 写真とは現実にあるものを再定義するものである。 私達はカメラを通してなにを撮ろうとしているのでしょうか。 美しいものを撮るのか、人がきづかない美しい部分をクローズアップして見せたいのか、 事実をそのまま表現したいのか、美しさではない部分をあえて見せたいのか。 写真とは本当に不思議なもので撮った人がどういう人なのかが色濃くでます。 機械をひとつ通すだけなのに、未だに不思議でなりません。 私達は被写体に長くはない時間で多くのことを投げかけそしてキャッチします。 しかし、それだけではなく被写体もまた私達を引き出してくれているのです。 人には人を引き出す力があります。だから思いもよらないことが人と話しているときに出て来たりするのでしょう。 3才の女の子が来るという情報があると私達も頭の中でこういう子かなー?と想像し 準備します。しかし予定とは違うことが起こり、想像の範囲を超えることが出来るのです。 準備、練習そして想像はとても大切なことですが、そこに私達が引き出される隙間を作っていなければ対人の写真はどこか味気ないものになってしまうのかもしれません。 それらが重なり合って、そこに新しいものが生まれる時にいい写真といわれるものが出てくるのではないでしょうか。 そしていい写真はその人を再定義することが出来るのだと思います。 私達は日々生きていて、この人はこういう人である。とかあの人はこんな人であるとかという風に人を定義したりします。それはいい意味でも悪い意味でも。 しかし写真の力では写真を通して私達が生きているベクトルと少し違う場所からその世界を覗くことが出来るのです。いい写真では被写体のまた違った一面を正当に表しているのです。だからこの人はこういう人だと思っていたけれど、こういう一面もあったのかと驚いたり納得したり。説明出来なかったものが写真を通して説明されるのです。 人に身をゆだねるというのはすごく難しいことです。それが撮影の1時間という短い時間でも。しかしそれが出来た瞬間はとても心地が良く、きっとその気持ちは被写体も同じことを感じてくれているのではないのかなと思うことがあります。この写真もその瞬間の一枚でした。もっともっとそんな瞬間を多く作れるようになっていきたいです。
『 意味 』
2016/8/1
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No.24 Shonan photo/Chisaki Yamane coordinate/Akimi Yoshikawa 私たちは日々多くの写真を撮っています。 私たちはなぜ写真を撮っているのでしょうか? その写真を撮る意味とは何でしょうか? それには、 2 つの意味が存在すると考えます。 まず 1 つは、お子様の成長の記録。できるだけ今のその子のありのままの色んな姿を残すこと。 そして、お子様だけではなく、家族の記録も同時に残していきます。 これらの記録は、やがて過去になりますが、将来その写真を見た時に、その時の記憶が蘇り、時空を超えて、記録というものだけではなく、記録から記憶を蘇らせることができるものになります。そして、その写真を将来子供たちが目にした時に、自分たちがどれだけ両親に愛されているのかということを実感するものにもなります。 また、その写真を家族で見ながら、あの時はこうだったね~思い出を振り返りながら 笑い合うこともできるでしょう。 過去と今を繋ぐ。今と未来を繋ぐ。過去と未来を繋ぐ。あなたと大切な人を繋ぐ。 私たちが残している写真にはそういった役割が存在し、それを残すのが私たちの使命であるとも言えます。 そしてもう 1 つはこの写真を撮ると言う事が、目的ではなく私たちの手段であるということ。私たちは 1 つめに言ったことを目的にしながら、写真と言う手段を使い、お客様に喜んでもらったり、多くのことを感じてもらったことに対して、自分の存在意義を感じたり、自分が行った事に対して多くの実感を得るでしょう。 私たちは写真を仕事にしています。 これはある意味私たちが生きる手段であって目的ではありません。 世の中では、生きる手段ばかりを教えられ、生きる目的を教えることを忘れられている場合が多くあるように思います。 そして、多くの人は、人それぞれどんな仕事をして生きようかと、生きる手段ばかり考えて生きているようにも感じます。しかもそれは数え切れないほどたくさんあり、目的といってもそう簡単には分かりません。 しかし、生きていく上で、どんな手段を用いるにせよ、 1 つだけ、全ての人に共通する目的があると考えます。 私たちが毎日生きているのは、他でもない、幸せを求めているということ。 どうやって幸せになるかという方法や手段は人それぞれですが。結局は誰もが幸福を求めて生きていると言えます。 そして、その手段の1つとして私たちは写真という方法を使っていると考えます。 このように、主に自分以外を主体(目に見えるものだけでなく、子供やパパママの考えや思いなど)として写真を撮っていくこと、 そして、自分を主体として撮影していくこと、 私たちの撮影では2つとも必要であり、どちらか1つが欠けてしまっては、成立しません。 彼女と会うのはこの時が2度目。 お互い最初から心を開放し、会話をするように私はシャッターを切った。 シャッターを切る度に、彼女の無邪気さと、1年前に会った時とは違う少し大人になった 彼女の魅力に触れた。 そして、自分が主体となりながら、彼女も主体となった瞬間が成立し、 私に写真を撮る意味を改めて投げかけてくれたのだ。
『 気づくが築く 』
2016/7/31
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No.24 Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Codi by Mayuko Hara 気づくことが築く 私が四十年以上住んでいる街も開発を繰り返し年々その形を変えてきました。 幼少の記憶を辿るとそこに思い出されるのは、私が生まれる以前からあった昔ながらの商店街、駅前の不二家レストラン、バスターミナル横の写真館、田んぼと畑しかなかった場所にそびえ立つマンション郡などなど、変わったものを上げれば切りがありません。 もうここまで来るとこれ以上何をどう変えるのか?もう変えられる場所など無いのではないだろうか?とも思いますが、またこれからもずっと変わり続けていくのです。 なぜなら、「人は変化を好むから」です。 今思えば、変わらなければ良かったのになと、思うことが多いような気がします。 そう思うのもある種、人間の「性」なのかもしれませんが、人々が好むこの「変化」という言葉について考えようと思います。 まず変化ということにはたくさんの種類があります。 • 変化すべきこと • 変化してはならないこと • 気が付かず変化しないこと この中で、変化すべきことというのはするべき理由や対象があるため自ずと変化していくでしょう。 例えば高齢者のために階段に手すりやエレベーターが設置されたりといったような明確な利便性がある変化です。 次に、変化してはならないことというのは、そこに変化してはならないという核心があるのであれば変化をせずその状態を維持し続けるでしょう。 例えば伝統工芸品や歴史のある老舗など。 上の二点はそれぞれ変化するしないの理由が明確でありますが、三つめの「気が付かず変化しないこと」は少々意味が変わってきます。 それは、変化する対象が明確でないがために変化するべきかどうかも分からず素通りしてしまう物事のことです。 その物事とは何か? それは自分自身の中に存在しています。 例えば人間性や性格といったところでしょうか。 他者に対してあからさまに悪い事をしてしまった場合、人は謝ります。 ですがそういった明確な事が無い限り本来変化しなければならない部分に気づかず一生を終えてしまう可能性があるのです。 それは写真を撮ることにおいても同様です。 いつもの場所でいつも通りに写真を撮る事はそれほど難しい事ではないかもしれません。 ですが、場所はどうであれ撮られる被写体は千差万別です。 私はこの日、第一子をお腹に授かった女性を撮影していました。 そこで撮影の中盤、ある想いが私の頭をかすめました。 それは、目の前にいるその女性は「母になる直前の女性である」という事。 言葉で言うともっぱら当たり前のことなのですが、今まで一人の女性として生きて来て、母になる直前の過程をマタニティフォトという一つのカテゴリーで納めてしまってはならないと感じたのです。 そこで今までとは違う視点から撮影を変化させていきました。 一人の女性と母になる女性を分離し同居させたいと。 そして敢えて小物やポーズなどでの変化ではなく、あくまで被写体自らそれを出してもらえるように。 私はフレームの真ん中に縦の線を引き、分離と同居を意識し続けました。 無機質である光源とシチュエーションを選び、本人に意識をさせない意識をしてもらえるよう進めていきました。 私は男に生まれた以上、母にはなれません。 したがってその分離と同居を身をもって感じる事はできません。 だからこそ、感じられない側から感じるように私自身変化を臨みました。 こういった変化は何度も撮影を続けるだけでは気が付かず変化のきっかけもありません。 ですが、そのきっかけはいつでもどこにでも存在していて変化されるのを待っているのです。 変化したと感じているのは自分の中だけなのかもしれません。 写真の中にどれだけ封じ込められたのかも分かりません。 しかし、その気が付かなければ変化のしようもないものに気が付いた事こそが自分自身にとっての大きな変化なのです。 気付くことが築くことでありそれこそが変化の始まりなのではないでしょうか。 間もなく、お腹のその膨らみは産声を上げ、その女性は母となります。 次は母となった女性、そして家族としてのカタチを写真に残せる事を切に願っています。
影を作る
2016/7/31
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Babyを表現する、ということを意識的に続けて、1年半が経った。 毎日スタジオに訪れる、多様な性格を持ったBabyたち。 彼らは、言葉を介したコミュニケーションを図ることはできず、誘導が困難で、それでもとにかく可愛いから、ある程度の『可愛い写真』を残すことは、ひょっとしたらそれほど困難なことではないのかも知れない。 偶発的な仕草や表情、あるいはパパやママと一緒に撮ることで安易に関係性云々と論じることができる。そして、「Babyの写真とはこういうものだ」という固定概念により、表現が画一化していく。 白くて明るいインテリアで、自然光が燦々と差し込む中で、Babyがニコニコ笑っていれば「素敵な写真」「ライフスタジオっぽい!」と言われる。勿論、それはそれで素敵だ。予約の電話の段階で、撮影時の天気を気にされるお客様も一定数いる。ライフスタジオの写真において「自然光」の使い方は重要な構成要素のひとつだ。 しかし、ただ自然光さえあれば「良い写真」になる訳ではない、とも思う。 「光」を効果的に使ってこそ、写真は「良い写真」になる。そこに、撮影者の作為がなければならない。良い撮影者は、良い光を作り出す。それは、晴れていても天気が悪くても、だ。 差し込む自然光を効果的に切り取る。あるいは、影の中に一筋の印象的な光を差し込ませる。影は、相対的に光をより印象づける効果も持つだろう。 ライフスタジオに入る少し前に、ストロボを使う写真館に10ヶ月だけいたことがある。 とある繁華街の雑居ビルの中、自然光の入らない奥まった部屋がスタジオで、そこでは、光は作るものだった。 ストロボを繋いで、太いコードをうねらせて、ライトの角度や光量を調整した。シャッターを切ると、狭い空間に閃光が溢れて、ジェネレーターがピーッと鳴った。Macintoshのディスプレイには、瞳の中にこちらの姿が写り込んでしまう程くっきりと写された、鮮明な写真が並ぶ。 そこで、「写真を撮る」ということの形式を、幾つか学んだ。先輩が細かなことを教えてくれる中で、印象的だったのは「どこに光を当てたいか、…あるいは、どこに影を作りたいかだね」という言葉だった。 今、自分は自然光を使って撮影をしている。そして、新横浜店で長くカメラを持つ以上、「Babyの表現」は常に追求していかなければならない課題だった。 ただ『可愛い写真』という基準だけを持つならば、きっとこんな写真は撮らなかっただろうと思う。求めていたのは、「ちょっと異質なBabyの写真」だ。 「ライフスタジオのBabyの写真」で連想されるような写真と、少し違うもの。しかし、ただ奇をてらったものではなく、撮影者の意図と結果がきちんと反映されているもの。 初めてのスタジオ勤務を思い出す。あそこには自然光はなく、自分で調整しながら光を作り、影を作った。その時の経験は、機材や環境が違っていても応用ができるものである筈だった。私はこの時、影を作りたかった。 天気の悪い日の最終枠は、絶好のシチュエーションだった。 窓から入る光もない薄暗いスタジオの中を、ところ狭しと駆け回ったスピードスターのBabyは、撮影の終盤になってもそのスピードを衰えさせることはなかった。普通に考えたら、ライトを全灯にして光を回し、シャッタースピードを少しでも上げて追いかけ回す状況である。 しかし、自然光がないことで可能になる表現も、ある。燦々と自然光が差し込む環境では逆に、思うような光と影を作り出すことは難しい。 アンダーな写真はライティングがシビアで、光の当たる角度を細かく調整しなければならない。Babyにそんな理解はできないことは明白だったが、それでも、自分の中に欲求が出てくる。 今、環境は整っている。 そして何よりも、被写体である彼自身が、少しくらいの暗がりを恐れることなく「自分」を存分に謳歌していた。 インテリアの明かりをすべて消し、小さなライトボックスを1灯ホリゾントに放り込んだ。 光は、彼のBabyらしい曲線の輪郭をなぞる。額と頬の曲線、丸みのある腕。ぺたりと直に座った、体の柔らかさを感じさせる一筋の光と、それを引き立たせる為の影。 暗がりの中、Babyの存在感を際立たせる。 ただその為だけに、このシンプルな空間を構成した。 『可愛い写真』だけに価値を置いていれば、こんな写真は撮らなかった。 あらゆる角度からのBabyの表現。ただその為に、「いつもなら、こうする」というスタンダードの逆を行く。 たまにはこんなのも、良いんじゃないだろうか。 Life studio No,17 Shinyokohama Photo by Reiri, / Coodi by Yonezu
記憶色
2016/7/31
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写真は引き算だ、という言葉をよく耳にする。 余計なものは排除して、必要な、美しい要素で画面構成をしていく。 何を排除するのかを考えるのは、簡単なようで難しい。 また逆に、足りない部分には何かを足すことも必要だ。 それもまた、その写真のイメージに合わないものを入れてしまっては意味がない。 写真は常に、考え続けながら撮っていくものだ。 私が撮影をする際に大切にしていることは、 「声が聞こえてくるような写真」 「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」 である。 「声が聞こえてくるような写真」。 写真は動画ではないので、もちろん音声は残らない。けれどその写真を見て、笑い声や泣き声が聞こえてくるような、そしてその写真を見て撮影当日のその時間を思い出せるようなものを残していきたい。 その写真を見たご家族様が後日、あるいは数年後に「この時あなたは人見知りが激しくてね…」「この時はこのおもちゃが気に入っていて、ずっと離さなかったんだよ」「初めて見るシャボン玉に大興奮してたんだよ」等の会話をしてくれるといいな、と思う。 そんな想像をしながら私はファインダーを覗く。 これらはどちらかと言うと、ある意味での「足し算の写真」である。 1枚の写真をもとにして、そのご家族様のその後のストーリーを想像する。 どんな成長をしていくのだろう、どんな関係を築いていくのだろう。 そしてその中で私の写真の位置づけは、どのあたりになるのだろう。 対して、ある意味での「引き算の写真」とは。 「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」。 前述した「声が聞こえてくるような写真」を「動」とすれば、この「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」とは、「静」にあたる。 もちろん、私の中のイメージとしての話ということになるが。 必要最低限というのは、被写体と光、そしてそれらをより美しく見せるためのインテリア。 この写真を撮ろうと思った時、まず私の中で排除したものは「声」だった。 この1枚に、声はいらない。 被写体の女の子はとても緊張していた。 兄と、双子の妹との3人兄弟で、真ん中という立場の女の子。 兄や妹といる時はとても楽しそうに笑っているのだが、1人になると途端に表情が強張り肩に力が入ってしまう。 他の2人がどちらかと言うとおちゃらけ者というか、元気いっぱいにはしゃぐ姿に対し、彼女は静かにどこか遠慮したように遊ぶ姿が印象強い。 そんな彼女の姿をより美しく撮るために、何を排除し何を加えて行こうか。 彼女と会話を続けながら、彼女の表情や仕草を観察する。 そうした中でまず考えたのが「声」だった。 緊張していて口数が少なかったから等という理由ではない。 彼女の表情、仕草、雰囲気から感じたことは、「動」よりも「静」の方がより彼女を美しく魅力的に写せると思ったからだ。 まず彼女にこの場所を案内した。 少し足を伸ばして、と伝えると、バレエをやっているためなのか彼女のつま先まですっと芯が入っているようにまっすぐに伸び、小さな土踏まずが緩やかな曲線を描いた。 この足が伸びすぎてしまっては変に足先に力が入ってしまうし、曲げすぎてしまえばその「芯」がなくなりだらしない印象になってしまう。 その微妙な調整を、彼女はほんのわずかな時間で行ってくれた。彼女の足が一番きれいな角度で、私は「ストップ」と声をかけたのだ。 そして彼女の目線は、自然とそのつま先に注がれた。 この時彼女は何を思っていただろうか。 最初はほぼ横顔に近い角度だった。 それを少しずつ少しずつカメラの方に首を回してもらい、首を傾げてもらう。 彼女の鼻筋が一番きれいに見えた時、つま先に注がれた目線はより一層彼女の魅力を引き立てた。 緊張しているのか、困っているのか、同じ体勢を維持するためにわずかに力んでいるのか。 力の入った口元が、彼女の感情を上手く隠しているようにも見える。けれどそれが彼女の持つ「静」を一番表現している部分でもあると感じられた。 さて次に排除したのは「色」だ。 この場所に案内した時から、モノクロで撮ろうと決めていた。 「必要最低限」で表現するために、「色」は邪魔だなと、率直に思った。 モノクロ写真で「色」を表現するのは難しい。けれど時として、「色」がありすぎることで、画面構成の妨げになることもある。画面内に色が散らばっていると、鑑賞者の目はそれらを追って画面の上をあちこち移動してしまう。 それでは意味がないのだ。被写体ただその一点にのみ集中してほしいのだ。 この場所はほとんどが白色と灰色で統一された場所だ。 統一された空間であるため、写真にした時に目線が画面の中を泳ぐことはそうないだろう。 しかしそれはインテリアの話だ。 彼女の来ている衣裳は薄いピンクやサーモンピンクと言った暖色系のもので統一されている。 衣裳自体も統一されているのだが、背景とのバランスを考えて、彼女には「インテリアに溶け込んで」もらおうと思った。 つまりモノクロの世界に飛び込んで貰おう、と。 そしてその中で、彼女を際立たせること。それが私に与えられた使命なのだ。 色のない世界で、いかに彼女を主役にするのか。 色のない世界で、いかに彼女に色を「与える」のか。 色の情報に左右されない世界で、けれど彼女は彼女ただ一人の存在として、その空間の中に存在しなけらばならない。 その体のライン、仕草、表情、ライティング。 全てを総動員して、彼女を彼女足らしめる作品に仕上げていくのだ。 「色」というものは不思議なもので、その存在の定義はとても曖昧なものである。 写真用語に 「記憶色」 というものがある。 もちろん人により色の感じ方は違うのだが、この記憶色というのはそれとは少し違う。 記憶色というのは、人がある特定のものに対して記憶(イメージ)している色(色彩)のことだ。 真っ青できれいな空を肉眼で見てきれいだと思って写真に撮ったけれど、実際にプリントしてみると色が薄く感じられたり、「あれ?イメージと違う」と思ったこともあるかもしれない。 それが「記憶色」だ。 脳みそのつくりだす記憶もまた曖昧なもので、自分自身も知らないうちに、自分の都合の良いように変換してしまうことがある。 目にした空は真っ青でとてもきれいだった。 その感情的な部分と実際に見た空の色、そしてこれまでに自分が目にしてきたいわゆる「きれいな空の色」を総合して、自分がさっき見た空の色はとてもきれいな真っ青だったのだと、脳みそが修正を加えてしまうこともあるのだ。 記憶とは、現実と理想の織り交ざったとても不安定なものでもある。 ではこの「記憶色」に関して何が言いたいのかと言うと、この彼女の写真に対して、この空間にいた人達が皆同じような色を覚えていなくても良いということだ。 なぜモノクロ写真にしたのか。 これまで述べてきたことももちろんなのだが、そこに加え、私はこの1枚の写真に対して個々の「記憶色」で見てほしいのだ。 それこそが「思い出」なのではないだろうか。 人の記憶は曖昧で、何年先も完璧に覚えていられることは数少ない。 だからこそこの写真は、誰かが「ピンクの服だった」と言えば別の誰かが「黄色い服だった」と言ってもいいのだ。 そんな風にして、それぞれの色でこの写真を鮮やかに彩ってもらえればいい。 色を排除した理由としても、別にインテリアや衣裳の色がどんなものでもこの瞬間だけは関係ないと思ったから。 そのために敢えてこの画面からは色を排除し、いつかこの写真を見返した時に当時の記憶をたどってもらいたいと思うのだ。 モノクロ写真に色が載せられる瞬間、この写真は再び新しく生まれ変わりまた別の写真へとその存在意味を変えていく。その人それぞれの色と思いと記憶をのせて。 きっとその「写真」の数だけそこに思い出が生まれ、心の奥深くの大事なところにそっと仕舞い込まれていくのだ。 Photo:Miya Coordi:Tanaka in Lifestudio NAGOYA
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