フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

扉の向こう側。

投稿日:2016/8/30

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何か新しいものに出会う時、人は様々な感情を抱くだろう。
ドキドキわくわくとした高揚感、不安と恐怖の入り混じった焦燥感、そもそも自分がどんな感情を抱いているのかわからない時もあるだろう。

私は撮影をする際に、ドキドキわくわくを探しながら撮影をしている。
淡々とロボットのように作業的に撮影するのでは、自分の存在意味がない。
たった1時間の撮影の中で、その空間にいる人たちは皆、それぞれいろんな感情を抱きながらその時間を過ごしているのだ。

例えば、人見知りの子供を持つパパママは不安を抱え、
例えば、真新しいランドセルを背負った子は写真撮影に緊張を覚え、
例えば、いろんなおもちゃのある空間にわくわくして走り回りたい高揚感を抱く

そんな多種多様な人たちを迎え、私は「この撮影ではどんなものに出会えるのだろう」とそわそわしてしまう。

人見知り、とひとことに言ってもその度合いや反応は子供によって全く異なる。
そうしたもの一つが、私にとって新しい出会いなのだ。
成長も子供によって差はあり、同じ年齢の子供でも大人びた子もいれば、おっとりマイペースな子もいる。
それぞれの育ってきている環境で、彼らはゆっくりといろんなものを吸収し、いろんなものに出会い、いろんなものを大切に仕舞い込んでいく。

年齢というものは、私が思うに単なる記号であり、カテゴリ分けをするためのものだという認識だ。
前述したように、同じ年齢の子が皆同じ事が出来て、同じことが出来ないなんてことはないのだ。
そこにはたくさんの新たな出会いがある。
撮影をする際、もちろん子供に合わせた撮影をしてなるべく負担のないように進めていく。
1歳の子供にポージングをさせることはまずないし、3歳の子供に大人のポーズをさせることもない。

しかし時折、そうした垣根を飛び越えてきて、とても良い意味で私を裏切ってくれる子供達がいることも事実なのだ。
そんな出会いがあった時、私はいつも以上に心が躍るのを感じている。


彼との出会いも、私としては予想外でとても刺激的で、もっと色んな構図で撮りたい撮りたい撮りたいと心の中で叫んだ。

3歳の彼にとって、上体、首だけを捻るという行為は普段の生活の中でほとんどすることのない行為だろう。
たいてい、同じ年齢の子にそれをやってとお願いすると、足ごとぐるりと後ろを向いてしまう子がほとんどだ。
それを見越して、彼に「肩を見て」と声をかけたのだが、そこで彼は私の予想を超えてきてくれたのだ。
もちろんすんなりのこの1枚に収まったのではなく、そこにはコーディネーターとの協力が不可欠だった。
彼女の、彼を応援する言葉がなければ彼も私自身もすぐにあきらめてしまっていたように思う。

彼がこの体の曲線を見事に描いた時、私はいつもと違う感覚でシャッターを切った。
いつもなら、被写体である彼をもう少し右側へ配置するのだが、今回は敢えてぎりぎりのところ…というよりもむしろ、身体の半分を切る位置へ配置した。
あるいはクローズアップとして、もっと顔に寄った写真を撮ることもできる。
けれどこの時感じたのは、彼の表情を印象的に写すことではなく、体の曲線を余すことなく画角内に収めることでもなく、彼と彼を包む柔らかな光そして淡い背景の色をより美しく写したいということだった。
つまりこの1枚の中で、彼は主役として存在しているのだけれど、それを引き立てる背景もまた主役になりえる存在でいて欲しかったのだ。

その背景に、絵画的な美しさを見た。

撮影場所は日進店の入り口の扉の前。
周りはコンクリートに囲まれた無機質な空間なのだが、その扉の正面に続く階段側から撮影すれば庭の緑が背景となり、同じ場所でも全く異なる写真を撮ることが出来る場所だ。

撮影をした時間帯はすでに夕方の時間帯で、夏だからまだ光がかろうじて入るという程度だった。
昼間に比べて、扉という限られた部分からしか入らない光量はとても少ない。
それを補うために扉を開けて、ほんの少し明るさを持ち上げる。
この時、この扉が私に新しい出会いを届けてくれた。

この扉は、手前から奥に開く作りになっている。

ガラス越しの写真を撮ると、ほんの少し見え方が変わる。
ガラスという物体が入ることにより、その純度にもよるが白みがかったり、あるいは青みがかったりする。
いわゆるフィルターを入れたように、それを通して見たものは靄がかかったように写る。

この扉は、庭の緑をより柔らかく幻想的に写すためのフィルターへと変化したのだ。
撮影場所から最大限離れられる場所から望遠レンズを構える。
被写体と庭との距離、私と庭との距離、被写界深度の距離も踏まえ背景の緑は通常その細かいディティールがわからないくらいにはボケる。
けれどそこにガラス扉が入ることで、一見なんだかわからないような背景へと変わる。
扉がなければその緑はもっと濃く写るのだが、ここでは緑の植物も茶色いレンガも灰色の砂利も、全てが彼をより引き立てる要素へと変化した。
その、新たな発見が、私にこの画角を選ばせたのだ。

いつも見ていた風景が違う形で目に映った。
ガラス扉という存在が目の前に現れた時、固定概念というフィルターが私の中から外れた。

写真を撮るということは、常に新たな発見との出会いの連続だ。
そのために私は写真を撮り続ける。
自分の写真に満足することはない、もっと面白い表現を、もっと美しい表現を、もっと質の高い技術を。
求め続ける心があれば、新たな出会いは広がるばかりだ。


新たな人との出会いを、
新たな写真との出会いを、
新たな自分との出会いを

そこにドキドキとわくわくを探し求めながら。



Photo:Miya
Coordi:Tanaka

in Lifestudio Nisshin

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