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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
意味のある横写真。
2016/12/1
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横写真は縦写真より難しい。 人物を置く場所から始まり 空いた空間に何を入れ、 余白をどう残すかが問われる。 経験がないころは、まずは画面に余白ができないようにと、望遠レンズでインテリアを端から端まで入れることを考えた。 なのでカメラマンデビューしてからも、しばらくは横写真を撮るのは写す画角を横に広く変えるくらいの認識しかなかった。 時が経ち、私は圧縮という技術を教わった。 とにかく特徴を真似て何枚も撮影した。特に意味を知ることもなく撮り続けたが、お手本の圧縮写真にはほど遠かった。 何かたくさんの物を写したり、極端に余白を詰めれば完成するものではなかったのだ。 横写真と圧縮写真の最大のポイントは、まず一つに余白に意味が持たされているか、そしてその画面内の配置のバランスだ。 この写真を用いて説明すれば、 おおよそ横3分の1に被写体を配置し、それを強調するよう前ぼかしで垂直な線を引いた。 それだけでは、画面内で被写体の顔がある左上が極端に重くなってしまう。 横写真として全体を見たときに右の余白が無意をなくしてしまう。 そうならないよう左右の右下四角ふたつ分にぼかしを入れた。 このぼかしも単なる丸いぼかしでは画面から浮いてしまうため、四角の中の更に3分の1の部分に平行に入れた。 また被写体の身体の傾きと同じ斜めの線を右側にも配置した。 歪むことも偏ることもなく、上手くバランスをとって収めることができれば、写真の中で被写体がより引き立って見えた。 最近は楽しいという雰囲気だけでシャッターを押しがちだったが、このように几帳面に完成図を考えながら撮影をすると、やはり写真に必要なのは計算なのだと思った。 photo by Noro coodi by Suzuki
a beautiful woman
2016/11/30
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出産予定日も間近、 わが妻のマタニティフォトを撮影したのです。 これまでマトモに妻を撮影することがなく、今回はじめて今の妻の姿を美しく残そうと、真剣にカメラを向けました。 今にも裂けて飛び出してきそうなくらいに、真っ直ぐ、突き出たお腹。 その中に生命が宿っているというのは不思議でならない。 広瀬香美の「promise」が好きなようで、曲をかけるとノリノリに手足をばたつかせたり、 ときどきするシャックリを手のひらに感じるときには、本当にこのお腹の中に赤ちゃんがいるんだ…といまだに思う日々なのです。 まもなく母になる彼女もこれまでの10ヶ月間をさまざまな気持ちで過ごしてきました。 ずっと憧れていた母になること。 胎動を感じる喜びや、赤ちゃんを向かい入れる準備のあれこれ。 幸せを感じる瞬間がたくさんありました。 しかし時には、ふとした拍子に悲しくなってしまう気持ちが出てきたり、不思議な感覚を感じていたようです。 父親になる私にできることは、心配をすることくらい。 それさえマトモにできず、鈍感で妻の気持ちの変化に気づいてあげられない私に幾度も苛立ちと悲しみの感情を行き来したかと思います。 スタジオにいらっしゃるお客様は、ほとんどが妊娠と出産を体験した方々です。 心強い先輩のお話をお伺いさせていただく度に、夫のサポートが大切だということと、そのサポート次第でその後の夫婦関係に大きく関わることを学びました。 だから、これまでの感謝の気持ちをこの撮影に込めた。。笑 シャッターを切りながら、まるで妻を撮っているとは思えない感覚におそわれ、ただただ彼女の美しさに惹きこまれるばかり。 そこには妻としてでも、母としてでもない、ひとりの美しき女性が目の前に立っていたのでした。 そのとき気付かされたのです。 マタニティフォトは産まれてくる子どものために残すのではなく、ここまで自分の身体の大きな変化を目の前にしながら、お腹の子を育ててくれた妻のために残すのだということに気づいたのです。 あともうひとつ、 生命を宿した女性というのは "美しい"ということ。
you are Life
2016/11/30
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最近、とある映画を見た。 その中で心に残っているのが、人と人との繋がりに対するメッセージの部分であった。 『糸は繋がって、離れて、絡まって、捩れて、また繋がって・・・』 人と人との関係もそのように同じことが繰り返されていくという話であった。 人と人との巡り合わせの不思議さは今に始まったことではないが、人生32年生きてくると ふと、そんなことが時々ものすごく奇跡みたいに素晴らし事だと感じるときがある。 でももしかしたら、誰しもそのような奇跡を追い求めているかもしれない。 そして、その為に今を精一杯生きているのかもしれない。 例えば、人生は誰かと出会うためにあるのだとしたら・・・? それは、一つの長い旅のような映画だ。 時として、自分は女優になれることもあるし、監督になれる時もある。 もちろん大工さんや演出家にだってなれることもある。 だが、この仕事をさせてもらえている時は、むしろ映画監督のようなものかもしれない。 なぜならば、脚本を考え、シナリオから演出まで、自分の考えを通して表現者としての役割を与えてもらえるからだ。 出会った人を映し出すという事は、その人の人生を映し出すことと同じようなものでもある。 皆がそれぞれに『人生』というタイトルの映画を記録している。。 記憶は保存することにより、記録になるし、 記録は蓄積することにより、思い出になる 思い出は保管することにより、その人の映画となる。 その映画のタイトルはまさに『人生』だ。 人生は何かしらの方法で、記録され、蓄積される。 その一番いい方法が写真ではないだろうか・・・? この一枚に写る、2人は2人だけにしかわからない関係がある。 ゲーテの名言の中にこのような言葉があった。 『人生でいちばん楽しい瞬間は、誰にも分からない二人だけの言葉で、 誰にも分からない二人だけの秘密や楽しみを共に語り合っているときだ』 まさにその通りであった。 ママときみの間にあるその繋がりは、新しい人生の始まりを象徴する美しい瞬間であった。 私は、その瞬間をどのように記録したらいいのか考えた時に、もっとも自然にそれを 成してくれる自然の恵みに力を借りようと考えた。それが『光』である。 ふたりの世界に少しでも触れたい。 そんな気持ちで二人の関係を眺めるように写し出そうとした。 光の強さ、光の色味、光の方向、光とインテリアのバランス、光と被写体の関連などなど、 自然ありきの撮影だからこそ、自分がその恵をどう捉えるかが非常に需要であると考えた。 私にとって光は恵だ。 だから、その恵みに感謝して、その恵をありのままに受け入れ、 適切な技術で被写体と結びつけることで最高の瞬間が訪れた。 その瞬間、私は導かれるようにシャッターを押すことが出来た。 それが、わたしにとっては最高の機会であり 2人の門出にとっても最高の一枚になれたらと願う。 私は素晴らしい仕事に巡り合えたと思っている。 人と出会い、人の人生に触れ、その記録を通じて 自分も幸せになれるからだ。 ずっと続けるためには・・・ 私はもっと人について、人生について学ばなければいけない。 その為にも次の新しい道をまた歩んでいきたい・・・。
『見ているものは真実か。』
2016/11/30
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『見ているものは真実か。』 Tokorozawa Photo Photographer: Satsuki Kudo Coordinater: Takahiro Sakai ふと思うのです。 私がいつも見ているあなたは、真実のあなたなのかと。 肩書や役割や評判という衣装を着ているままのあなたは誰なのかと。 例えば、もしも私がライフスタジオで働いていなかったとしたら、あなたから見た私はいったい誰なのかと。 例えば、もしも私があなたと初対面で、私のことをほかのだれからも聞いていない状態で接してみたならば、 あなたから見た私はいったい誰なのかと。 鏡で自分の姿をずっと見ていると、鏡に映っている自分の姿が何故だか自分の姿に見えないような気がして。 じゃあ、私が私として認識しているものはなんなのか。それは、周囲の固定概念を着せられた自分であると気付くのです。 私たちは、日々人と接して生きています。 家にいる時も、仕事をするときも、外に出てスーパーやコンビニに行く時ですらも、誰とも接することがないことはありえません。 だから、他人から見た自分や、自分から見た他人へのイメージを作り上げながら人と接しています。 そのイメージとは、本当に自分で作り上げたものなのか。 それとも多数の他人の感想を総合的にまとめて作り上げられたイメージなのか。どちらなのか。 この撮影のときもそうでした。 この被写体に会うのは今回で2回目です。私の観念の中では、この被写体は7歳の恥ずかしがり屋の生えかけの前歯が気になっている大人しい女の子。 パパとママからは、いつも無愛想でわがままだそうです。楽しいとこどもらしくはしゃぐ姿をあまり見たことなく、穏やかに佇むことが多い子。 だけど、撮影しているうちに「あれ、この子は誰だ?」とふと気づくのです。撮影しているうちに、自分が事前に持っていたイメージが崩れていくような感覚。もちろん被写体が何か目に見える変化をしていたわけではないのですが、よくよく見てみるとどんどんイメージが変わってくる。それはきっと私の中で起きた観念の変化なのだと思います。 パパやママから聞いたイメージや、私が前回までこの被写体に抱いていたイメージが徐々に剥がれ落ちるかのように無くなっていき、やがてまるで初対面で接するときのように新鮮な姿の被写体のイメージに辿り着きます。 それは写真を撮るという過程の中に生じてくる一種の錯覚なのかもしれません。ファインダーを通して表情や被写体の向き、光やインテリア・コーディネート、そして会話をすることによって、この被写体を最大限美しく表現しようとすることが、その被写体が普段から着せられている固定概念を崩すことになります。 最大限美しく撮ろうとすることは、様々な要素に鋭敏になります。光やインテリア・構図の配置もそうですし、コーディネートのテイストや、その被写体の僅かに揺れ動く表情の全てに敏感に反応します。そうするために撮影者は自ら投げかけ被写体からの反応を引き出し、その反応を僅かでも取りこぼすまいとファインダーに集中します。そうすることで、再びその被写体のイメージを写真というツールを以て再構築するのです。 この被写体は、物静かな雰囲気が特徴的でした。 しかし、会話し接していくうちに、会話の内容が深く、人を良く見て観察をしていることを知りました。そんな彼女の透き通った瞳を見ているうちに、人の奥の心まで見透かされてしまうような錯覚を覚えました。 透き通った泉のように美しいイメージ。彼女と話していると、私自身の真実まで映されるようなそんな感覚を覚えました。 そんな彼女のイメージを再構築するのに適した画角はクローズアップ。 そうすることで、彼女の瞳に集中することができます。澄んだイメージを出すために、光は半逆光と床の照り返しでハイキー気味の露出。 加えて青い色の青ぼかしを入れることで、透明感をイメージしました。普段は青い前ぼかしは使わないのですが、彼女の透きとおったイメージを表現するために、顔半分にかぶせて透かせるように撮りました。 またあえてポージングを指示せずに、真正面を向かせることで彼女の人へ向けた真っ直ぐさが良く表れます。 固定概念を崩し、概念を再構築すること。そうすることで、私から見たその人が徐々に見えて来ます。その過程は、普段見ているものを見慣れないように見ることを意識することで日常的に発揮されるのかもしれません。例えば、同僚や家族を写真に撮ってみる。すると、普段は見ないようなところまで気にする。よく観察してみると、だんだん今まで抱いていた固定概念が崩れ、その人へのイメージが変わってきます。 それが、その被写体の真実の姿に向かうことなのかもしれません。 しかし、それもまた固定概念なのかもしれないという不安定さを持っています。 だから常に、何事にも固定概念を壊し再構築していくということが必要なのかもしれません。 ライフスタジオでは、「人」が「人」として接することが理念としてあります。それは、自らが「人」として「人」に接して「人」ならではの関係性を築いていくことを意味します。自らが「人」になるということは、自らの基軸を持ち、自らの目で判断し、自ら考え、自ら接し、自ら作っていくこと。 そこに、既存のイメージや概念は意味を持ちません。なぜならば、「人」としてその「人」を見るということは、その人を取り巻いている固定概念を見つめているでもなく、自らの目でその「人」自身を見るということだからです。 誰かに作られた固定概念や習慣化した固定概念というフィルターを外して、自らの「人」として接し考え、再構築すること。 私の解釈として、私の言葉であなたを語り、私の写真であなた自身を表現することで、あなたの真実に近づくのかもしれないと思い、私は日々ファインダーをのぞくのです。
『Answer of my picture』
2016/11/29
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Photoby Ryo codi by Misato in YokohamaAoba 私はカメラを持ってから10年間、常に写真に対して『美しさ』を求めて来ました。 4年前、あるきっかけからライフスタジオと出会い私の中の写真への概念は大きく変化していきました。 ライフスタジオの写真に出会うまでの私はただ漠然とした思考で写真を撮っていました。 ただ見た目に美しく。 ただ直観的に美しく。 しかしそれは具体的なものではなく自身のイメージの世界に依存していました。 私が追求してきた『美しさ』とはこれだというものに定義するのがとても難しいものです。 見た目では構成要素に依存し、写真に残る記憶には関係性が依存します。 思い返せばライフスタジオで約4年間撮影を繰り返しながら見た目と記憶の一致を探し続けて来ました。 この場所で撮影しているうちに私の中で変化が起き、求めるものが以前よりも一歩先へ進んだのだと思います。 人は常に変化し続け、当たり前だったものが時間と共に変化し当たり前ではなくなります。 写真にとってもそれは同じことで、人が行うことは常に不安定で何かにとらわれ、何かよってに自由にされます。 撮影空間ではそれが明らかになり、結果として残る写真にその時のすべてが反映されるものだと感じます。 だからこそ正解、不正解を定義するのは難しく、写真として技術的な観点から見たときに美しさを感じない物でも、撮影背景を知ることで美しく思える事すらあるのです。 感傷、感動、依存、思い入れ、知っている人、知らない人。 その写真を美しく思う原因はたくさんあります。 そしてそのことから、人によって美しいというイメージもまた違うものと判断できます。 例えば私の写真を100人に見せたとき100人中全員が美しいと言うことはないでしょう。 それは可能性であり、足りない何かであり、実力ともいえます。 某有名な写真家の写真を私は良いと思わないが、世界はそれを賞賛しています。 まるで選挙のような評価は、クリエイティブ性の高い写真という媒体には適していると言えるでしょう。 物議を醸しだし、注目される物、撮影者のブランドがつくもの、奇跡的にも万人が素晴らしいと評価したもの。 どの要因でも良いか悪いかの判断はされます。 その中でも私が追ってきた美しさは『万人に共通して綺麗だと言われる写真』だと考えています。 そのために私は写真を構成する要素すべてに美しさに通じる理由をつけています。 この写真においてはフルターの利用によりハイライトをソフトに表現し、柔らかさをもたせながら被写体のエッジを緩くすることで一つの美しさを作り上げ、前ぼかしに関しても手前、中間と二段階の設定で配置し、手前は光りとして、中間はものとして写しています。 これは距離の表現です。 柔らかさと距離の二つの効果に加え、カメラ内の設定でシャープネスを下げたセピアに写す。 これにより色の表現も加わります。 カラーでは様々な色が混在する空間で写真に統一感を出すのが困難なためセピアを選択しました。この写真の重要な要素は質感にあるからです。 加工しなくても十分に自分が思う美しさの要素は作り上げていくことができます。 被写体をよく観察し、この写真は原本の中でも初めの数カットの中で撮影をしました。 それはなぜか。 知りすぎた場合、表せるものが増えるとも限らないからです。 彼女を見た瞬間もうすでにこの画は浮かんでいました。 そして少し会話をしただけでこの写真のイメージに合う子だと思ったのです。 本当はすごく元気な女の子ですが、彼女の動きをみながらたまに見せる表情はギャップという感覚的な美しさの表現のヒントをくれました。 このように様々な要因から一枚が完成するのですが、今もなお私の写真は常に未完成です。 きっと完成などないのだと思います。 今の感覚が自分の中で当たり前になった時、今の写真は過去のものとなり新しい現在の私の写真が生まれてくるのだと思います。 誰が見ても美しく。 私の写真の答えをしっかりと考えながら。
素晴らしき生成物の来訪。
2016/10/31
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「イメージ」という言葉はひどく曖昧で、言葉としての存在ははっきりしているのに、それが表わすものはどこか宙にさまよっている。 イメージという言葉は、何か表現したいものをぼやかす時や、具体的な表現が見つからない時に使用しているような気がする。 例えば撮影時においては、「かっこいいイメージで」「かわいいイメージで」といった言葉を良く耳にするし、私自身も使っている。 ではこの「かっこいいイメージ」とはどういったものなのだろうか。 そここそが、この「イメージ」という言葉が曖昧な印象を与える要因ではないだろうか。 「かっこいい」という単語ひとつでも、人によりそれをイメージするものは異なってくる。 それぞれの考えるものを、脳みそをコードか何かで繋いで共有することが出来ないから、それを具体的に表現することはその表現者に委ねられる。 時には互いに食い違いも生まれるだろうし、時にはぴたりと合致することもあるだろう。 けれど私達カメラマンは、その「イメージ」を撮る時に必ず持っていなくてはならないものがある。 その言葉を表現するための、明確な方法。 そして、「これがこの言葉に対する私の答えです」という、具体的なイメージを持つことだ。 つまり、撮影前にそれを表現するための完成された「画」を、自分の中に持っていないといけない。 表現者は、そうした明確な答えをもとに、それに近づけるためにああでもない、こうでもないと試行錯誤をしていくのだ。 答えが決まっていないと、目指すべきものがわからず、結果的に自分でも納得できないものになってしまう。 しかし具体的なイメージを持っているだけでは、それを十分に表現することは出来ない。 表現するための技術もまた、必要な要素なのだ。 彼女を撮影しながら、どんな写真にしようと色々と考えてみた。 来店した時に来ていた服はトレーナーにレギンスという、活発な女の子という出で立ちだった。 衣裳提案の時に聞いた彼女の好みは、ふわふわとしたスカートが好きだという。 また彼女に「好きな人はいるの?」と尋ねると、とても恥ずかしそうに体をくねらせていた。 とてもかわいらしい女の子の反応だ、と思った。 彼女の口から出たのは「EXILE」。 なるほど、とどこか納得した自分がいた。 ヒップホップを踊っていそうなイメージが彼女の中にあり、彼女の口から出た単語は私の中で撮りたいイメージを明確な物に変えてくれた。 3歳以上の女の子を撮る場合、その子の負担にならない程度にポージングの指示をする。 その中でも、私は「かっこいい女の子」を撮ることで、普段とは違った一面を残したいと思っている。 普段写真に撮る時はかわいい笑顔でピースサインをするであろう彼女達は、まだまだ「かっこいい女」とは無縁だろう。 だからこそ、私は「今」の彼女たちを「かっこいい女の子」に変身させてみたいと思う。 この時目の前にいた彼女も例外ではなく、「どんな風にかっこよく撮ろうか」と思っていたところだったのだ。 普段はどちらかと言うと「背伸びをして大人っぽく」という意味でのかっこよさを表現しようと思っている。 けれど彼女に対しては、「ワイルドなかっこよさ」を表現してみたいという気持ちがむくむくと湧き上がってきた。 ワイルドという言葉と、それに繋がる女の子という言葉を考えた時、私の中で一つの仕草が生まれた。 「髪の毛をかきあげる」。 かきあげる仕草自体ではなく、その後の乱れた髪の毛というものに「ワイルドなかっこよさ」を感じる。 まだ小さな彼女に対してこの仕草は少し難しく、何度か繰り返し行ってもらった。 その時は、うまくできないということや、パパママに見られているという羞恥心からか、照れ笑いでその仕草をしてくれていた。そうして目的だった「髪の毛をかきあげる」という仕草を撮影し終え、彼女の長い前髪が顔にかかった時、彼女はそれまでにない魅力的な雰囲気を醸し出していた。 どこか色気があってフェミニンな彼女に、私は釘付けになった。 その雰囲気が壊れないうちに、すぐにライトを一灯に切り替えた。 彼女の後方から当たる光は、無造作に流れる髪の毛一本一本に輪郭を与え、その細くて繊細なラインを描き出す。 彼女の特徴的で高い鼻を強調し、強いコントラストにより彼女のフェミニンさ、力強さをより魅力的なものへと変化させてくれる。 俯いた目のまつ毛、目の中に入るキャッチライト、少し力の入った口元、髪の毛により半分隠れている左目。 そのすべてが、彼女を「かっこいい女の子」だと感じさせる要素になり、それまで撮っていた「髪の毛をかきあげる」という仕草以上に、彼女のワイルドさを表現できたのではないかと思う。 撮影前にイメージを持つということは、カメラマンにとってとても重要なことだ。 けれど、その被写体を前にしてそのイメージを崩されることは少なくない。 思い描いたイメージ通りに撮影をしていると、時折こうして、まったく違うところからそのイメージは私の中に湧いてくる。私の頭の中で描くだけではとても足りない。被写体から私に訴えてくるその雰囲気、色、声…すべてのものが、体内に流れ込んでくるのを感じる。 事前のイメージに加え、そうしたイメージの突然の来訪により、さらにそれは膨らんでいくのだ。 イメージとは、私と被写体の化学反応による、素晴らしき生成物でもあるのだ。 Photo:Miya Coordi:Tanaka in Lifestudio NISSHIN
白いキャンバスの条件
2016/10/31
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Photo by CHIBA coordi by TANAKA 真っ白なホリゾントは言わば不自然である。 そこに1人でカメラを見るのも不自然である。 もちろん本を持っていても、3人、5人でいたとしても不自然には変わらない。 ここは非日常代表である。 そこにどんな色をつけるのか自由で、壮大な場所でもあります。 どこか書道に似ていて、言葉とその表現がイコールでないと成立しないものが書道の楽しみかたと私は思います。 その言葉とは写真でいう被写体『人』です。 その真っ白な場所が表現の全てです。 "0"の場所です。 スタジオ内であればどんな物語も非日常からスタートです。 その非日常を活かすには不自然を自然に見せることや、シンプルにその人を表現すること。そしてこの1枚と同様メッセージ性を作るのも1つの方法です。 この子で言えば 前回の撮影は泣いてしまって機嫌をとるのに時間をたっぷり使ったとおっしゃってました。 その子が今回着替える楽しみと自分を表現する方法を得た状態で来店されたのです。 この写真自体にタイトルをつけるのであれば『選択と決断』とつけます。 【 選択 と 決断 】 選択と決断という言葉を頭において写真を見るとかなりシンプルな写真に見えるはずです。 ごちゃごちゃしてる床は選択と決断をするための可能性の床です。 後ろにあるドレスも選択と決断です。 靴も選択と決断です。 自ら条件を作るように被写体も綺麗になる条件が存在します。 つまり被写体も自ら条件をつくっていくのです。 ドレスを可愛く着たいから選択と決断を繰り返す。 それがこの1枚になります。 そしてそれが白いキャンバスの条件となります。 ① 0を1以上にする 全ての原点は価値を創造するところから始まります。 そしてイメージ持ち整理する。イメージを明確にするために私たちは学習を繰り返し撮影を繰り返します。 ② 被写体を知る 前回の撮影は泣いてしまったと聞き、今では着替えること、プリンセスになる楽しみを知った。それを聞いたのならばそれを表現したたかった。それが0を1以上にするきっかけです。 そしてその子の成長の物語を描きおろしました。 ③ 衣装、小物、姿勢にメッセージ性を成立させる どんなメッセージ性があった方がいいのか?それは楽しみをそのまま表現すること、ドレスが楽しみであればそれを決める過程がメッセージとなる。 前後の写真でも楽しめる75cutならではの流れも楽しみにさせます。 ④ 私の感じた画角でシャッターを押す シャッターを押す前の条件には光が関係してきます。今回のイメージはそもそも彼女の成長を勝手にストーリー構成し条件を揃えました。それは夢にもならない夢の様なものだ。だから逆光で背景が消えるくらい絞り、感度を上げました。 そして見た彼女の夢を捉えました。 シンデレラストーリー @aoyamaとでも言いましょうか。そんなイメージです。 インテリアであるための条件はホリゾントにも存在し同等の場所になります。 それが何なのか?何であるのか? それが、私の過程であり私の感受性であり私の色味になります。
me
2016/10/31
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写真には撮影者の性格が表れるといいます。 繊細な性格であれば、計算された美しい写真に。 大胆な性格であれば、思い切った写真に。 かつての私は”物事はこうあるべきだ”という考えがあり、それに則して自分の行動を決めていた。 教わったセオリーに忠実に、正しさを守ることが全てだった。 とても頑なな気持ちの持ち主で、しばしばそれが写真を撮る際に邪魔をした。 美しい写真はこうあるべきなのに、そのようにならない状況では、どう表現したら良いかわからず苛立ちを覚えることすらあった。 2年前の自分は、誰から指摘されてもその考えを譲ることはできなかった。 その考え方が間違いだと感じるまでに長い時間がかかった。 正確に言うとお客様と過ごした時間や出来事の中で 自分の中の正しさの基準を満たすことよりも 目の前にいる人をもっと集中して見なければならないことに気がついた。 人の気持ちや動きを引き出して、 それをもっと美しく撮ることを考えるのだ。 美しさの表現はその人の良さを見つけるところから始まる。 彼女は外見も愛らしい顔をしていたが、 柔らかく動く表情や明るい笑い方に人懐こい魅力がある。 もっともっと彼女に自由な振る舞いを求めた。 その時、私の中にあった撮影の緊張感やつまらない固定概念はなくなっていた。 彼女の振る舞いを見て私も開放的な気持ちになって、もっと近くで見たいと近づき、 伸び伸びした動きに余裕を持たせたいと思ってレンズを広角にした。 彼女が彼女らしく、 私が私らしく撮影された1枚になった。 photo by noro coodi by shibata
『Look at...』
2016/10/31
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life studio KOSHIGAYA photo by volvo codi by takako 写真の構成要素で一番大事にしている事を考えるとき、どうしても写真に「統一感」があるかどうかという点から 私の考えは逃れることができません。 毎度同じことを書いているかもしれませんが私にとって統一感というのはそれくらい大事で むしろ統一感が成されていればそれだけでいいとも思うくらいに重要視しています。 統一感を出すにあたりこの一枚が何か特別なことをしたわけではなく 75枚全てに統一感が出るよう意識して撮影はしていますが 特に集中して表現がされた写真というのはこのように紹介したくなるもののようです。 テーマは「今の彼女の最も美しい部分に集中する」というものです。当たり前の言葉ですが笑。 カメラマンは写真を撮るにあたりシャッター越しに見る被写体を見て、どのように写すかを 規定をしなければならないと思っています。 彼女を撮影するにあたり私の中で規定したことは二つです。 1:「被写体の美しさは何なのか」 2:「それを写真として表現する手段は何が適切か」 彼女は16歳。 書いてみてびっくりしたが今の私のちょうど半分の年齢です。 まあいつもは年齢の30分の1くらいの子供たちを撮っているのがほとんどなのですが・・・。 彼女は中学生から高校生へと階段を上がり始めたばかりです。 人生の変化が最も大きいこの時期に撮影にきてくれたという事の意味は理解せずとも感じるものがあり 小学6年の妹と2人姉妹を持つおおらかなお母さんからの要望もまさに 「中学から高校へ進級した」という変化の記憶を残したいというものでした。 春まで着ていた中学校の制服は膝を余裕で覆うほどの長さのスカートと明るめの紺色のブレザー。 その姿は中学校に入学したばかりかと思わせるほど幼く見えるものでした。 対して高校の制服は急にスカートの丈が20センチくらい短くなり どう見ても「女子高生」といった風貌へと変化をとげていました。 いでたちは大きく変わり、写真として変化を残すには正直十分な材料が揃っていました。 しかし私の中ではただ衣装だけが変化した彼女を撮ることに何だか物足りなさを感じる 部分があり、話をしてみたり、色んなポーズや表情、輪郭を確認してより観察をするようになりました。 その中で私は彼女を規定する核心的な部分は制服ではなく、彼女の「目」なのではないかと思い始めました。 思い返せば気になっていたのは「こんにちは」と声をかけた瞬間に私と顔を合わせすぐにそらした目。 その目は「照れ」と「素直さ」が混ざったようなとても綺麗な瞳でした。 望みである「変化の記憶」をただ制服の変化を残すだけでは現象に過ぎず 特徴のある「目」が訴えてくる様々な感情にフォーカスを当てたいと私の中で決定するようになり そんな時、何か表現のきっかけがないかと探していたところお母さんが考えてきてくれた提案は 「化粧をする」事でした。 化粧しながら変わっていくその目には、高校生へと進級し大人へと進んでいく変化と 彼女が本来持っている「素直さ」を秘めた変わらない瞳が混ざり合っていくような感覚を覚えました。 化粧が終わった後のその「目」を見た瞬間規定し 目だけにフォーカスを当てられる方法を考え 統一感を持って女性らしく表現する事を選択しました。 繰り返し説明するようですが、統一感とは写っている全ての構成要素が 「その一枚専用」になっている事を意味しています。 「その一枚専用」にするためにはフォーカスを当てている「目」 女性として美しく表現する「ポーズ」、そして光とインテリアとの調和が必要です。 それらを具体的にあげてみるならば 「目」にフォーカスを当てるという事において集中したことは 1:窓の反射によって「目」意外がぼやかされ、彼女のまつげが化粧によって巻かれている感じを強調している点 2:「目とまつげ」の両方が強調される視線の角度を斜め上と規定すること 女性らしく表現するという事において集中したことは 1:彼女の左手が顔に少しかかって目以外の部分の気をそらす作用をしている事 2:窓の反射が強めに出ている事で右肩や後頭部の部分が見えにくくなっている事 インテリアとの調和という事において集中しているのは 1:右端に配置されている窓の格子が重心の均等化と引き締め効果を担っている事 2:真ん中の格子は彼女を物陰に隠れさせ、まるでクリスマスに相手を待つ彼女をショーウインドウ越しに目にしたようなイメージを持たせる事 重要なのは「光」と「右端の窓の格子」です。 「光」は撮影をするにあたり一番最初に見なければいけない構成要素のひとつです。 一般的に「光」といえば<被写体に対して>という前置詞が付くことが多いですが 光とは写真の全ての構成要素に関係があり被写体にあたるいわゆるメインライトだけではなく 色んな副次的な関連がされています。 例えば窓の反射をこの写真のように彼女の目だけにフォーカスが当たるよう 表現するためには、そうなる為の「光」の調節が必要です。 背中の部分が反射でほとんど見えなくなるようにすることも同様です。 もちろん彼女自身にも光が当たるように左を向いてもらいメインライトも確保しつつ ちょうどいい場所を探し出します。 これを3秒くらいで判断します。やってはいけないのは時間を掛けすぎることです。 主役は光ではなく彼女であることを忘れてはいけません。 次に「右端の窓の格子」ですが、これは「重心のバランス」を取る役割をしています。 写真の重心とは写っているものの質量のバランスの事を言います。 写真の左側にばかりものが写っていれば重心は左に寄っているということになりますが この写真では被写体が左にいることから重心が左に寄りがちなところを右端に格子を入れる事で 左右の均等を図っています。 もしも右端の格子が無かったら、私はこの写真を選択しなかったかもしれません。 被写体の美しさを表現するということと、写真に写る全ての構成要素が連結し全てが意味のある状態になる事が「その一枚専用」になる事 であり、それが私たちがスタジオで「人を撮る」という事の核心ではないかと考えています。 撮影後、隣の中学に0−8で負けるようなサッカー部に入っていたくせに自分はプロよりうまいと思っていた自分の16歳のころを思い出し「自分はあの頃何も考えていなかったな」と撮影に来てくれた彼女のしっかりした言葉使い聞きながら考えてしまいました。 家に帰り、自分が高校生の頃の写真を探してみましたが、友達とふざけているプリクラしか出てきませんでした。 写真を撮るというのは重要な事ですね。
Subtle
2016/10/31
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Subtle Photographer: Satsuki Kudo Coordinater: Kaori Kinoshita 所沢店に来てから、日々が新鮮に感じます。まだ慣れきっていない店舗というのもあるけれど、新しいメンバーと共に、新しい発見をしていくというのはまるでしばらく開かれなかった窓を開いて新しい風を心の中に入れているようです。今まで当然と思って習慣的に行っていた業務を、再度分解し意味を付け、それを人に伝えること。そのことが慣れきっていた日常に再び命を吹き込むことになり、毎日が違う日だという当然のことも忘れていたのだと気を付かせてくれます。 きっと変化をするということは、日常を新鮮に感じて生きることから始まるのだなと、所沢店に来てからよく感じるのです。 それは写真においても感じます。 所沢店が新鮮だと言っても、3ヶ月毎日写真を撮っていれば、合計180件の撮影に入っていることになり、インテリアに慣れ、光に慣れてくるのは当然です。そうして店舗の写真は安定するものですが、安定するということは同時に気付くことに鈍くなることを意味します。気付きに鈍くなると、その場所を自らの固定概念で見るようになり、決まった場所・決まった光で撮影をし、毎日違う人が来ているのにも関わらわず、同じように撮影して自ら毎日をルーティン化してしまう。そうなると、被写体が違う人だということにも気付きにくくなり、いつも撮影している場所を知り尽くした気になってしまう。写真が変化しにくくなる条件がそこにはあります。 つまりマンネリした日常を打破し、写真を変化させるには、自らが「何も知らない」ということを知ることから始まります。 いつも見ているインテリアや光は、私たちが見ているものが全てなのでしょうか。この時間帯に入ってくる光は、本当にいつも撮っている場所がベストポイントなのでしょうか。インテリアは、撮影場所だけが全てなのでしょうか。 誰にも見つけられなかった光と場所、誰も意味を見出すことができなかったもの。それらは、いつも見ている慣れてしまった場所をよく観察することから始まります。今まで見ているものを、敢えて初めて来た場所のように新鮮に見てみる。いつも気に留めていなかったものを細かく見てみると、慣れていた場所と光に新しい意味を見出すことができるかもしれません。そうして、自ら日常を変化させて、外側からの刺激だけではなく、常に自らの中に変化ができるようになる装置みたいなものを身に付けることができるのかもしれません。 『観察する』。ただそれだけの基本的なことです。基本的なものであるからこそ、日常的に継続して取り組みやすいことでもあります。今回の主題は、『光を観察する』こと。ひとえに『光を観察する』と言っても、良く観察をして、いつも撮らない光で撮ることもありますし、スタジオを観察しいつもは気付かなかった光に気付くということもあります。この写真は、後者の観察を意味します。 よく晴れた日でした。 カウンセリングでよく使うこの部屋は、朝になると気持ちのいい朝日が差し込み、部屋全体を暖かなオレンジ色の光で満たします。朝の掃除をするときもこの部屋を掃除するときは、爽やかな気分になりますし、朝一番のお客様をカウンセリングしているときは、とても穏やかで気持ちのいい空気が流れます。7歳のとても落ち着いた大人っぽい雰囲気が先行するイメージを持った女の子。大きなアーモンド形の目が少しミステリアスな雰囲気を作っていましたが、話してみると7歳らしい恥ずかしがりやの女の子でした。 この年頃の女の子は、大人と接するのが恥ずかしくなるような子もいてこの子も例外ではありませんでした。特に、歯の生え変わりで口元を気にしてあまり喋らず、笑顔も口角のみを上げ口を開けることが少なかったように見えました。 実際、精神的に子どもから女性になりつつあるなかで、歯が抜けることは多少表情を出すのが恥ずかしくなる要因のひとつになるでしょう。この女の子は特に、精神的な成長が早い印象を受けたので、このときは恥ずかしかったのだと思います。 7歳の頃、少し女性に目覚め始めたころ、もしも自分の美しい部分を発見できたなら、きっとこの子は歯を気にすることなく堂々と笑顔になれるのではないか。そう思いました。そして、カメラマンである私にはその女の子の持つ特有の美しさを最大限表現したい、その子自身に美しいということを伝えたいという欲求にかられました。そしてそれは、今この時間、この場所で、ここにしかない誰にも見つけられなかった美しい光で。 カウンセリングをしたこの部屋にいたときに、この部屋の光にあたる瞳がとても美しかったのが、とても印象的でした。それは、この光だからそう見えるのか、そもそもこの女の子の持つ魅力なのか。そんなことをばんやりを考えながら、『あぁそうか。その子も、この光も、ふたつの要素が新しく見えるから、もともと美しかったものが、より際立って美しく見えるのか。』と気付きました。 『光を観察すること』を意識してから、いつもなら七五三は、和室から撮ることが多かったのですが、今回は和室だけではなく、この部屋を使ってみようと思いました。この部屋の光は午前中しか入らない陽光。太陽側の窓から入る光は強くけれど柔らかく入っているように見えました。この光を知ってはいたけど、撮影場所ではないからと決めつけてよく見てはいませんでした。よく見てみると、自然とイメージが湧いてきました。 その特徴的な光が入る窓を見るように被写体に立ってもらい、声をかけ少し振り向いてもうと、美しい瞳と鼻筋に綺麗な輪郭を描くように光が当たります。また、この強烈な光が床に反射して優しい照り返しが頬のラインを描きます。この照り返しの光をメイン光にして、被写体を動かし、インテリアの少しオリエンタルな雰囲気を活かすように末広を広げて口元に当ててもらい、質問を投げかけ考え事をしてもらいます。照り返しの光と窓から入る逆光、インテリアの線状のカーテンの雰囲気に、その表情とポージングがマッチし、その子の持つミステリアスな雰囲気をより際立たせます。 また、被写体に左側に向いてもらい、カーテンの左側がピンクで右側が緑なので、写真の右側が重たく重心がそちらに傾くように見えるのですが、帯にカーテンの一部を掛けることにより、画面全体の重心を調節しました。またこのことは平面的な背景を立体的に見せる効果と共に、この被写体がここにいるという存在感をより際立たせるようにしました。 またトリミングも、敢えて上を空け被写体の上半身だけを写すことで、窓の桟と空間のバランス、被写体の大きさのバランスを調整することにより、まるで洋画に出てくる和服美人のオリエンタルな雰囲気を出し、着物とインテリアの違和感がないように自然に見えるように調整をしました。また、画面の左下5分の3くらいのバランスに被写体を配置すること、目線の反対側の空間を空けることでこの被写体が考えていることを想像させ、被写体自身の持つミステリアスな雰囲気を表現しようと思いました。 『光を観察する』ということに意識を向けて撮影されたこの写真のポイントは、 1.いつもは使わない部屋で、誰も使わなかった光を使うこと。 2.メインの光をいつもよく使う光ではない光を使うこと。(この写真のメイン光は逆光ではなく、照り返しの光です。) 3.被写体の雰囲気と光を組み合わせて、美しく自然に撮れるように工夫をすること。(画面全体に広がるオレンジ色の光と着物を自然に見せること、インテリアの重心と被写体の配置のバランス、立体感を出すための工夫をすること。) ここで観察して実際に行っている工夫は僅かでとても繊細なものです。しかしそれは、今まで見慣れていたものをより繊細に見てみることで、今までに無かった観点が生まれます。新しい気付きは、写真に新しい意味を付けることになり、それが変化になります。見慣れているものをより繊細に観察し、既存のものから新しい何かを見つけていくというサイクルが、外的な刺激のみではなく自分の内側からの変化の装置になります。そして、自らの写真を完成させるために、画面の隅から隅までどんな意味を持っているのかを考え、組み立てることによってその写真は偶然に撮れた1枚ではなく、意志を持った1枚になります。 『観察する』ということを通して、写真に関することだけでなく、日常的に毎日を過ごしていくことや、いつも当然のように会っている同僚や、毎日・毎回変わるお客様、恋人、家族、普段当然のように私の周りにいてくれている人たちも、当然のように接するのではなく、毎日よく観察し繊細に気付くことで、いてくれるありがたみに気付き、また今まで知らなかった新たな魅力を発見できるかもしれません。だとすると、『私はあなたのことを何も知らない』から『知りたい』というようになり、毎日人に会うのがワクワクし楽しくなります。 写真を撮るということはなんだか、生きる上で大切なことを私にひとつひとつ教えてくれるようで…。『人を撮る』という行為に真摯に向き合うことが、人生を豊かにしていくことに繋がるような気がして、私はそれを止めることができないのです。
母になる。
2016/10/31
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Koshigaya Photo:gomei Codi:Takako Kawahara 年間にどのくらいスタジオで撮影しているのだろうか、おそらくマタニティーの撮影は年間担当2~3件程度かなと思います。 あえて写真館で撮影をすることは少ないだろうし、しっかりとお腹が出てくるのは8か月くらいからだと考えると、出産直前の2か月間くらいしかタイミングがなく当社の予約システムなどを考えても、そのような出会いは大変貴重でありがたいことだと思います。 同い年のハツラツとした女性は少し恥ずかしがりながら 「いろいろと小物を持ってきたんです。」 と手作りのベルトやこれから産れるお子様用の靴などを見せてくれました。 衣装を決めてゆく段階でたまに見せる笑みは、幸せと期待が読み取れる柔和な印象を私に植え付けてくれました。 画角:母とは何か マタニティー撮影をする際によく考えることは、女性と女親の違いはなんだろうかと考えます。 一般的には出産をした経験により呼び名と共に質も変化するものですが、人の内面はそのように形式的に変化をすることはできないのではないでしょうか、徐々に人が変化してゆくように、一人の母には子供の成長と共に時間と経験によって母になってゆくものではないかと考えます。 妊娠をし、ゆっくりとお腹が大きく出産の準備がされてゆく中で、エコー写真、お腹の内側から蹴られる振動、膨らむお腹、いろいろな現象を感じながら、一人の女性でありながら、自分の体内にもう一つの生命を認識します。 自分であって自分でない存在、これから産れてくるお子様へ対しての期待と幸福感、そして女性から母になるしなやかな覚悟からなる強さは、マタニティー最大の特徴だと思います。 しなやか且つ強さのある、ある種神秘的な表情を最大に生かすことを考えました。 シャッターチャンスはいつでもあるわけではなく、考える時間も数秒間で答えを出さなくてはなりません。 目、髪、眉、指先… 選択肢は限りなくあります、物事の決定を行うには正確な情報取得が必要になります。 一つ投げ出してみます。 「お名前はもう決まったのですか?」 ふとお腹を見たときの口元が、フワッとなんとも軽くしっとりとした印象を可持ち出した瞬間、「これだ!」と内心ガッツポーズをしました これは単純に微笑んでくださいと指示したところで出てこない色のある表情でした。 産れてくるお子様へ対しての期待と幸福感、そして女性から母になるしなやかな覚悟からなる強さをシンプルに伝えるべく、画角は口元とお腹のみに決定しました。 光:美しさの演出 辞書的意味で美しいとは、視覚的、聴覚的にきれいで心を打つものという意味になります。 私はこの写真の美しさとは、しみじみと深い愛情を感じるさまと定義します。 写真を語るうえで光の存在は必ず通る道です、簡単な話真っ暗なところで素晴らしい被写体をとっても何も映らないように、光の印象は写真の印象を決定づけると言っても過言ではありません。 つまりしみじみと深い愛情を感じる光の設定をしなくては、美しく心を打つ写真になりえないのです。 お腹の曲線を軸として、逆光条件で撮ることで被写体全体のラインを強調。 母になる力強さを出すために絞りは6.3に、そのため極端に光源に近く立ってもらい濃淡をつける。 光によるラインを出すため、被写体の真横から撮影。 以上3点をシンプルに設定(条件)をし、撮影をしました。 よってこの写真の設定は、 F値6.3 シャッタースピード 1/125 ISO感度 500 としました。 それから:母 この書き込みより2か月前に撮影をしたお客様なので、ちょうど出産時期にあたります。 元気な姿で泣いているだろうか?どのような表情で眠っているだろうか?どのような表情で我が子を見つめているだろうか?どんな気持ちで子どもを抱きかかえているだろうか? 次ぎ合う時にどのような表情なのだろうか?どのような撮影になるだろうか?どのような話をしようか?どんな話を聞かせてくれるだろうか?出産前のシューズは履いているだろうか? 私は3人になった家族の形を見て、どのような認識をするでしょう、今度会う時は我が子に無償の愛を注ぐ母の姿を撮りたいと思う。 そして毎年成長を記録しながら、懐かしい話ができたら本望だ。
『幸せな関係』
2016/10/30
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人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・ ライフスタジオに遊びに来てくれている子ども達にまた10年後、再会したい。 そして、こんなことを聞いてみたい。 小さい頃の記憶、どんなことを思い出しますか?また、どんな方法で思い出しますか? そんな時もし機会があったらライフスタジオに連絡下さい。 『私が待っています』 ご家族皆さんにとって最高の贈り物を準備しています・・・。 最高の贈り物とは、みなさんにとって世界にひとつだけの家族の物語です。 物語は、写真から読み取れる全ての事柄です。 だから、わたしたちはより良いフォトエッセイを残していくことに集中しています。 フォトエッセイは、写真を構成している全ての要素を書き上げます。その中でもポイントは、なぜその写真を撮ったのか? という事と、もう一つはそれをどうやって撮ったのかということです。そしてそれを通じて、お客様の人生に寄り添えるように 温かい気持ちを贈る手紙のようなものです。 この写真に写るご夫婦の子ども達が、私の元をいつか尋ねてくれたら私はこんな風に答えると思います。 お二人は本当に『美しいご夫婦』でした。 私は、こんなにも爽やかで気さくなご夫婦に出会えて本当に幸せでした。 素敵なお父さんとお母さんを出会わせてくれて本当にありがとうございます。 初めて出会ったときにお父さんとお母さんは色んな話をしてくれました。 お二人が同じ職場で働いていて、そこからのご縁でゴールインしたこと、 お父さんの仕事の関係で海外に在住していたこと、 マイホームを買ったこと、そして夫婦間では時にルールを決めずにお互いにやれることを精一杯やっていること、 そしてスーパーポジティブなお父さんの人柄。 そして、それを支える愛情溢れるお母さんの人柄。そして家族みんながいつも元気いっぱいで、 誰かが誰かを見つめて微笑んで、そしてその笑顔が連鎖する微笑ましい光景。 一言で言うと、周りの人を幸せにしてくれる家族でした。 ライフスタジオは写真館でありながら、人と人が出会いスタッフとお客様がお互い幸せを感じる空間になることを願っています。 まさに理想の家族に出会えた瞬間でした。 写真館が記念で撮りに行く場所から、人に会いに行く空間へと変化を目指してきましたが その方向性が間違っていなかったということをライフギフトで証明することができた瞬間でもありました。 私は、ライフギフトで必ず夫婦写真を撮っています。 その理由は、ライフスタジオ=子ども写真館。写真館に来たら子供が主役という固定概念を変え、 本当に楽しい一日をみんなで過ごすためには、家族みんなが主役になる事を提案しながら ライフスタジオを全身で楽しんでもらいたいからです。 それが、日本の写真文化を変える第一歩だとも考えています。また、それがライフスタジオのサービスだとも思っています。 例えば、毎日鏡の中に居る自分の顔を見ながら、その顔と同じように写真も写っていたとしたらそれは満足になると思います。 ですが、美しいもう一人の自分を写真の中で発見したとき、私たちは感動という表現を使うと思います。 そのように、ライフスタジオは満足ではなく感動を提供するためにあるのだと思います。 この写真は二人の美しさを最大限引き出すために、望遠レンズを通じて回りの背景を抽象的にぼかしました。 そうすることによって、二人の存在感がより浮き出てきます。 また、夫婦が触れ合っていることに不自然さがないこともポイントです。 お父さんの右手と左手、指の一本一本までが本当にリラックスしているのもこの写真の構成には欠かせないところです。 また、カメラを見つめる表情は、私を見つめる表情そのものです。 わたしはお二人をどんな表情で見つめているでしょうか。 それはお二人しか分からないことだと思いますが、お互いが本当の意味で見つめ合えた瞬間 良い写真が撮れる条件が揃ったことを示します。 ですが、やはり一番シンプルなことは良い家族に出会えたからです。 それが、いい写真が撮れる一番の理由だと思います。 出会えてよかった。そう思える一日に今日も感謝です。
ポーズについて考える
2016/10/29
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photo by mitsui codi by nana ポーズについて考える 今回は、写真を構成する要素の一つであるポーズに限って考えてみたいと思います。 ポーズという言葉を調べてみると、「姿勢。特に、絵画・彫刻のモデルなどのとる姿勢」という事を意味します。 つまり要求された姿勢であるという風に考えることが出来ます。 写真を撮影する上で、ポーズをとってもらうということは、撮影側が被写体に対して、要求した姿勢になってもらうことを意味します。これが「pose」です。 また、ポーズには他にも意味があります。それは「休止 間 一時停止」というものです。 撮影において考えるのであれば、被写体の動作をカメラで連写した場合の一時停止的な1枚1枚がそれに当てはまるのではないでしょうか。これが「pause」です。 つまり撮影する上で、「pose」と「pause」が混在していて、全ての動作はポーズの連続であると考えられます。 私達の撮影のスタイルは、動作というものを撮影側の意図によって「pause」させることによって「pose」にさせるということになると考えられます。 私たち撮影側は、動作を点でとらえるのではなく、線でとらえることが大切になってくるのではないでしょうか。 この写真では、彼に、自分で帽子を被ってもらい、その後に横を向いてもらうように伝えた時の写真です。 私は以前から男の子を男らしく撮影したいと考えていました。 男らしい撮影をする上で、まず男らしさについて考える必要がありました。そしての1歩目として身体的な特徴を強調することに重点を置きました。 この写真では肩幅が見えるように正面向きに立ち、片手を頭に添えた状態で横を向かすことで、体重移動による若干の身体の流れと、首の筋を強調する「pose」を作り出すようにしました。 しかし、この写真をより男らしくしたのは、彼の表情だと私は考えます。私が考えていた「pose」に彼の表情が加わり、その瞬間を「pause」したことによってこの写真が生まれました。
そこにあるもの
2016/10/18
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at Kokubunji photography:Yukari Shiiba coordinator:Arisa Tansho 写真とは現実にあるものを再定義するものである。 彼女と出会ったのは約5年前。 一番上のお姉さんである彼女は昔から控えめに、そしてやさしく下の子達を見守るお姉ちゃん。 今回2年ぶりの再会でした。昔から変わらない部分と子供から少女に変化している部分を感じました。 それはどちらかというと目に見えない変化だったと思います。 それをどう表現したらいいのかと、それがお姉ちゃんの撮影に入る時の私の課題でした。 いつも撮影では色々と悩みながら撮影します。 こうかなーやっぱりこっちかなーどんなものが被写体に似合うかを考えながら。 でもこの写真は彼女のソロの最後に皆がこの部屋を出て行って二人になって ふと撮った一枚でした。 今回の課題はこれだ!と意気込み、考えて行動して。 それが結果になることもあれば、ならないこともある。 そんな時にふと見つけるものがある。 あ、こんなところに落ちていたのかという感覚。 でもそれがすごくいいものだったりする。 頭を振り絞っても出てこないもの。 逆に振り絞ろうとしているから出てこないのかもしれません。 暗い部屋に入ってくる落ちついた日差しと彼女を映し出す鏡。 ずっと撮影している場所なのに未だに新しい場所が見つかるという不思議。 色々書きましたがこの時にしてもらったポーズや向きはすべて私が彼女にお願いして やってもらったものになります。カメラマンならきっともっている 「あーーー!!!いい!!ちょっとまって!!」という瞬間。 その時にこっちの準備がいつも出来ていないといけないという事実もあります。 作られているものと作られていないものの間。 完全に作ったわけではなく、完全なスナップでもない。 ライフスタジオには作られたインテリアがあります。 そして初対面だったり1年に一度しか会わない被写体。 関係性を作ってもそこには緊張感があると思います。 でもそれは悪いものではありません。 その緊張感が良い具合に写真に反映されることがあります。 その写真がこの写真だと思っています。 準備と余裕。そしてどんな状況でもちょっと遊ぶこと。 それも大切なのではないかと思います。
『 ユメ、カナエ 2 』
2016/9/30
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No.24 Life studio Shonan Photographer : Masashi Kuroki Coordinater : Akimi Yoshikawa 「単純に見えるものほど踏み込むと難しく、難しいからこそ出た結果は普遍的なものとなる」 私は何でも出来る人間よりも何かひとつでいいから秀でた人間になりたいと思っていました。 これは小学校の頃からそう思っていました。 しかしその「何か」というものはその時期によって変わってゆき、一年中半ズボンでガリガリでカサカサな足を出しながらいた小学校の時代は「漫画」をひたすら描いていました。 そしてその漫画が「映画」になり、その映画が「音楽」となり今は「写真」になっています。 結局、何かを秀でているのか?と言われればそれは分かりませんが未だにその全てに関しては半中毒のように抜けられずにいます。 しかし、このいくつもの「何か」を通して来て今思う事は、その全ての事が他者からの共感や反応を得られることであり、何より自分自身が必然として「夢中になれること」でした。 そして私は今、写真に夢中です。 夢中で追いかければ追いかける程分からなくなることもありますが、「自分の撮りたいもの」がはっきりもしてきます。 私が撮りたいもの、それは「ドキュメンタリー」です。 それは、人の生き様や報道のような時代の動きであったり、その瞬間を逃したらもう二度と撮り直しの利かないもの。 こう言ってしまうとこのライフスタジオでの写真とは少しかけ離れているように感じますがそれほどかけ離れてもいないような気がします。 それは私がここで撮る写真に関して最も夢中になるのは「家族写真」だからです。 家族写真には「子どもを笑顔で見守る親」が写し出されます。 まずその写真の主体となるのは「子ども」です。 しかしそこには、その子どもを見守る親自身の生き様、そして子ども達ほど顕著には現れませんが親自身の成長も写し出されています。 だからこそ私にとってみれば家族写真はれっきとしたドキュメンタリーなのです。 少し話を戻しますが、私はドキュメンタリーを撮りたいと言いました。 しかし、ライフスタジオではある種の「自然な写真」を作るために様々なディフォルメをします。 そのディフォルメはある意味ドキュメンタリーとは反対に位置するものです。 そして、そもそも私が撮りたいと望んでいるものとその家族が望むものとが一致しない事にはいくら自然であってもドキュメンタリー要素が強くとも全くもって意味がありません。 湘南店では今年の始めから半年間、家族と真正面から向き合いそのご家族だからこそのある種ドキュメンタリー性の強い家族写真を残すよう集中してきました。 その取り組みの名称はその意味の通り「Session」 セッションとはミュージシャンが各々の楽器とで合わせて曲を奏でること。 主体を父から母、母から子、そしてみんなで、と変化させ撮影者とコーディネーターとも一体となりその瞬間にしかない写真を作り出す。 この取り組みにより多くを学びました。 それは「より自然にそしてドキュメンタリー性を強くする写真を残すためには、より近くそして深く家族に近づかなければならない」と。 このご家族とお会いするのも今回で四回目。 年数にするともう四年以上が経っています。 再会する度に感じる子どもの成長は勿論のこと、父と母の成長も合わせて記録しています。 そして私自身の成長(又は老い?)もこのご家族には自然と見せていることになります。 だからこそ撮影に入るのにも説明は必要ありませんでした。 遠く西から見守る仲間も含めて、お互いを知っているからこそカメラの前に現れる「家族のドキュメンタリー」 そこでそのドキュメンタリーをより活かすため、光源が左から家族の真ん中に差し込み立体感を生むようにし、その姿を間近で見ながらフォーカスを合わせる。 どこに合わせるか? それによってその写真の意味は変化します。 しかしこの瞬間は迷うことなどありませんでした。 迷う事無く「父の視線」に合わせました。 そうすることでその視線が見つめる先の子と奥から見守る母との三人のドキュメンタリーが完成するのです。 そして一点の重心を決めフレーミングをします。 その一点の重心とは三人の視線が描く三角形の中心部分です。 「核心的な重心」が見極められればその写真のフレーミングは自ずと決まります。 核心的な重心とは例えて言うのならば、この写真をまず写真としてプリントし、裏側からその重心に向け針を垂直に刺します。 そしてその針の上で写真を回転させると綺麗な円を描いて回り続けるであろう点を指します。 単純であるように見え一見して特別なものでもない。 冒頭で記したことは、かなり飛躍して例えるならば、カップラーメンで言うところのカップヌードル。チョコレートで言うところのアポロなどでしょうか。 もう変えることも無い、変わる必要も無く永遠に残り続けるであろうもの。 ある意味これらは何かしらが秀でているものなのでしょう。 写真においても少しでも多くそういった意味を持つ写真を残していきたいと私は考えています。 そして、以前に願った「夢」が少しずつ近づいて来ている。 だからこそ、これからもずっと「ユメ、カナエ」
20年後の家族写真
2016/9/30
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母「とにかく着て着て〜」 娘1「もー、おとうさんつるつるだからどうかぶせていいかわからーん」 娘2「ひーーー七福神!」 娘3「え、ななめ?まっすぐ?え???」 父「(なんで俺がこんな赤いちゃんちゃんこ着らないかんのじゃ)←内心」 撮影が始まって間もない、この瞬間。 お父さんにちゃんちゃんこ着せるだけで大爆笑が巻き起こる、 これが、この家族の姿でした。 今、思い出すだけでも涙が出るくらいおもしろい撮影であったと同時に、 お父さんを中心に家族がぎゅっと集まれる、 お父さんのことが大好きすぎる女性陣を見ながら、 本当に本当に、いい家族だなぁと感じた時間でした。 撮影中も、撮影が終わってからも、そしてこんな時間になっても、 こんなに仲のいい家族がいるもんやね、って思うばかりです。 「うちは老若男女、0歳から、むしろ生まれる前から、上は90歳以上まで、 わんちゃんでも何でも、生きとし生けるもの、家族の姿を撮っているんです、 特に下関店は………。 子供写真館じゃないんです、ライフスタジオなんです。」 わたしたちはいつも、わたしたちのスタジオをこう伝えています。 関東にいた頃よりも幅広い撮影が増えたのは、片田舎で始めたスタジオということで、 ライフスタジオをご存知の関東のお客様が帰省のタイミングでおじいちゃんおばあちゃん、 時にはひいおじいちゃんひいおばあちゃんも一緒に下関までいらっしゃって、 大家族集合写真を撮ってくださることが多かったということと、 そしてもうひとつに、 わたしの故郷でスタジオをさせていただいているという要因があると思います。 10年、故郷を離れていたのでその間なかなか会えなかった友人たちが、いつの間にか妻となり母となり、 スタジオで再会するという嬉しい時間も多くあります。 そしてまた、ちょうどわたしたちの親世代が還暦を迎えており、 結婚してからとかこどもが生まれてからというタイミングでなくても、 いい機会だからお父さん主人公で写真でも撮ってもらおうか〜という声が多くあり、 大人が主役の家族写真を撮る機会も増えました。 このご家族の中にもわたしの同級生がおり、写真館に普通やったら大人だけで行こうとは思わんけど、 カメラマンがわたしということで20年振りに写真を撮りに行こう、と家族で話してくれ来店してくれました。 家族全員が仕事をしているので、予定を合わせるだけで一苦労、 なんと撮影の日は、お父さんは夜中から撮影予定の朝9時ギリギリまでお仕事で、 そのまま撮影に駆けつけてくれました。 ハードな上に、いつの間にかちゃんちゃんこ着せられるし、ひとりで写真も撮られるし、 きっとお父さんの内心は何が何やら。。。 そんなお父さんを見て最初から最後まで大爆笑な妻と娘たち。 一見怖そうに見えるお父さんは、言われるがままやられるがまま、 いつの間にか色々着替えもして、そしていつの間にか少しずつ笑顔も出てきて、 この家族が家族であるしあわせを感じる時間になりました。 お父さんが、明るいお母さんと出会ったからこその笑顔。 このふたりあってこその、三人娘たちの笑顔を見ているだけで、わたしたちも笑っていました。 そして同級生だからこそ知っている、思春期や進路やら何やらで、 葛藤だらけの悩んでいた姿も知っているからこそ、 自分で選んだ人生が続いてきた「今」、こうして、家族で笑って過ごしている、 ただその姿を見ているだけで、じんわりとした気持ちがこみ上げるものです。 「わたし」はひとりの「わたし」であり、 「わたし」ではない「あなた」と結婚し「夫」になり、子を授かれば「父」になった。 「夫」も「父」も、それはひとつの代名詞であるかもしれませんが、 全て「わたし自身」の選択であり「わたし」として生きていくことになります。 夫であり、父として生きてきた、あの日から今日までの日々。 なんだか一直線に夫であり父であったからこそ、こんなにも求心力のある存在なのだろうと感じました。 何年経っても家族は家族であり、その家族の姿の写真は、やはりひとつの家族写真でした。 この撮影があって以来、小さな子供たちを連れて撮影にやってきてくれるご家族にこの日の撮影エピソードをよく話しています。 今は20代、30代のお父さんに向けて、 「お父さん、60歳になった時もこどもたちを連れて撮影に来てくださいね、 その時も今日のようにこどもたちと思いっきり仲良くいてください!」と伝えています。 20年、30年後も、いつまでも。 この場所で家族写真を撮っている、一番の想いです。 shimonoseki kawano yoh
photo is..
2016/9/30
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人は写真を撮らなくても、今この瞬間を目に焼き付けておけば、記憶を残しておくことができます。 でもなぜわざわざ、写真に残すのでしょうか。 写真とは何のためにあるのか。 ひとつは、記憶のための記録です。あの日の天気、あの瞬間の表情、仕草や服装、覚えておけないこまごまとしたことをちゃんと残しておくために、写真を使います。 もうひとつは、写真による表現です。よく出る言葉ですが、写真という区切られた空間、レンズをのぞいた世界の中で見える景色はまったく違います。 パパやママと一緒にお写真を見ていて、「実物と違う!」という声をよく耳にします。 カメラを通すことによって、人の目では見られない表現ができるので、いつもとは違う新鮮な姿を残すことができます。 ふとした瞬間の仕草、指先の動き、ふせられたまつ毛の長さだったり、柔らかい光のあたる頬だったり、一瞬「きれいだな」と思ってしまいながらも、見過ごしてしまいがちな瞬間を、自分の感覚に触れた何かをとらえて、永遠にすることができます。 写真が瞬間を切り取るものですが、「何かが起きた瞬間」もあれば、「何もないけど、意味のある瞬間」を残しておくこともできるのです。 何もないけれど、確かにあるもの。今この瞬間しかないその人の姿。それをより綺麗な形でとらえるのが私たちの役目だと思っています。 車で遊ぶ男の子、よく見る光景です。 この瞬間に男の子が車にどんな興味を持っているのか、何を考えているのかはわかりませんが、その真剣な表情も、差し伸べる手も、生まれて1年経って、いろんなことに関心をもつ今の彼の姿です。 カメラを持つ私たちも、意外な発見をします。 レンズごしに相手を見ながら、撮りながら、自分自身の心に向き合う作業があります。 「なぜ、この瞬間を撮るのか?」常に問いかけながら、撮る必要があります。 四角く区切られた空間で、彼らの何を残したいのか?それを考える事は、自分自身に向かい合う作業です。 写真はカメラマン自身の興味の表れでもあります。 75枚のストーリーは、相手のためのものですが、私たちカメラマンの人に対するイメージを形にしたものになるのです。 写真とは、私自身と人を結びつけるツールでもあります。
生きていることを見つめる眼差し。
2016/9/30
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Tokorozawa Photo Photographer: Kudo Coordinater: HIRO Tomorrow is Another Day. この日はとても暑く日差しの強い日。 インターフォンの音を聞いて玄関を開けたら、両親に手をつながれて夏の名残のある日に焼けた女の子が、 その年齢にしては少し大人びた落ち着いた笑顔で入ってきた。 最初は3歳かと思ったら、2歳だった。 そのくらい大人びた表情のその子は、接してみるとやはり2歳らしい自我の芽生えと好奇心。 お洋服には好みがあり、帽子を被るときと被らない時が気まぐれである。 そして私たち大人の行動がとても気になるようで、その綺麗な瞳はよく私たちを見つめていた。 しかし醸し出されるどこか落ち着いた雰囲気は、きっとその子が他者を見つめる眼差しにあるのだろう。 その眼差しは、とても優しく、人が好きであるという愛に満ちていた。 きっとご両親がその子に向けている眼差しが、その子に表れ、その家族の愛情の温かさを感じ、その愛情の中で世界を知っていくという過程であることが伺える。 日々広がっていく世界の中で、生きているということを驚きと喜びで満たしていっている。 そんな感じがした。 「生きている」ということは、私たちには当たり前のことであるけれど、それはとても「特別」なことです。 なぜなら、「人」の人生には同じものがただひとつもないからだし、 同じ人生を生きることができないということは、とても「特殊的」だから、その人が「生きている」ということ自体が「特別」であるからです。 2歳のその子が教えてくれることは、その「生きているということを見つめる眼差し」だったと感じます。 日常を通り過ぎていく日々の積み重ねが「人生」であるから、その日、その時、その瞬間が特別であるということが「生きていること」自体に向けた眼差し。 繰り返されるよう見える日々を繰り返すように生きていることが、「生きている」と言えるのかということ。 物事はすべて変化をし、その瞬間の中に芽吹く何かがあり、その中で私たちは生きているということ。 生きているということをそのように見つめるという眼差しに、力強い生命力を感じます。 早いもので、私がスタジオで撮影するようになって4年が過ぎて、あと少しで5年経とうとしています。 その年数が長いか短いかでいえば、世間的にはきっとまだまだ短くのでしょうが、 毎日のように撮影をさせていただいているライフスタジオにおいては、5年も撮影をしていればもう立派なベテランです。 撮影が日常的になった今の生活になって、撮影がルーティーン化するのが当然のように思えますが、今なお飽きもせず撮影のたびに新鮮な気持ちで入らせていただけているのは、 このスタジオにある「人」という存在へ向けた思いのようなもののおかげなのでしょう。 ライフスタジオでは、「人」という言葉がよく出てきます。 ひとえに「人」といっても、当たり前のことなので、そんなに大きな感動を覚えるほどのものではないのかもしれません。 しかし、撮影に慣れてくればくるほど、撮影が日常化すればするほど、仕事自体がルーティーン化してしまいがちで、撮影がパターン化してしまいます。 「人」をパターンにはめるということは、目の前のその「人」自身を知ることをやめ、ひとりひとり違うその「人」を見ても同じように見えてきてしまいます。 それは「人」を見ているとは私には思えません。 私がフォトジェニックで何回もしつこいくらい書いているように、 「人」という存在は唯一無二であり、誰一人として同じ「人」がいないから、「自」と「他」があり、だからこそ私もあなたも同じように「生きている」ということを知ることができます。 この「独自性」と「同一性」という矛盾しているように思える概念が表裏一体のように存在しているのが「人」であり、 目の前にいる「被写体」を見つめる眼差しも、この2つの概念があるからその被写体だけのたった一つの写真を生むことができ、かつ共通する人間的な感覚で感動を引き起こすことができます。 そういった「人」の概念を以て、私が写真を撮るときに見つめていることは、その被写体が「生きている」ということです。 いつも私が写真を撮るときに考えるのは、被写体のどの瞬間に「生」が宿り、どう写したら「生きている」ということを表現できるのかということです。 今回、私がこの写真を撮るにあたって実践した方法は2つです。 まず一つ目は、被写体をよく「観察」することです。 「観察」すると言っても、ただ何もせずにじっと被写体を見ることではありません。 話しかけて、投げかけて、その被写体が何にどのような反応を見せるのか。 単純なものだと、何が好きで何が嫌いかもそうかもしれませんし、 何を見たら目を輝かせて、何を聞いたら動くのか。 そのときの癖や特徴は何か。 その子を表す外的な特徴は、どんな動きでどんな仕草か。 撮影が始まるわずかな時間でできるだけ観察し、情報を集めます。 それは撮影が始まっても同じです。 撮影中に、投げかけたものへどのような化学反応が起こるかどうかは始まってみないとわからないこともあります。 その時も「観察」するというアンテナがあれば、その瞬間を捉える眼差しを持つことができます。 二つ目は、生きているその瞬間を作り出すことです。 その生きている瞬間が出る状況を、どの撮影でも作り出すことがプロとして私たちに求められていることです。 観察をしている中で、気まぐれで帽子を外したり、シャボン玉への興奮した反応があったり、小悪魔的な笑顔があったり。 その子らしさを引き出し、そこを捉えるポイントを把握すること。 そのことで、突発的ではなく意図的にその瞬間を作りかつ写真のフレーミングや光を落ち着いて作ることができます。 つまり、意図的に「生きている」瞬間を作り出すことができます。 その二つの方法を実践して撮影したこの写真では、この被写体の生命力を表現したいと思いました。 この被写体の最大の特徴は表情です。 特に眼の表情が豊かで、興味のあるものがあると眼がきらきらと輝きます。 この瞬間は、シャボン玉を吹いたと同時に帽子を取りました。 きらきらした表情と、帽子を取ったときに乱れたさらさらの髪の毛がこの写真に動きと風を吹かせてくれました。 その決定的な生きていることが滲み出している瞬間を、どのように切り取るかが写真において一番重要です。 この写真は、目線の先の上部半分の空間を空け、外を抜ける緑をぼかし光るように写すことによって、吹き抜けるような空間を作ろうと思いました。 その結果、まるで外で風を受けているような写真になりました。 また、左端の本棚を写したのは空間に少しフレーム的な要素を加えることにより、写真を収まりを良くするためです。 その左端があるかないかで、ぼやけた雰囲気を引き締めることができます。 光は、外から入る残暑の強い自然光。 コントラストをやや強め、かつ柔らかい印象を残すことで、髪の毛が透ける様子とこの子の持つ力強く優しい生命力を表したいと思いました。 このような要素を組み合わせることで、このとき、ここにいた、この被写体自身が「生きている」ということを表現した写真を撮ることができました。 この子が持つ独自の生命力と、それを写真に表現するために整えるべき条件。 それを撮影の中で毎回行うには、撮影をルーティン化し、パターンにはめることができないのだと私は思います。 なぜならば、私たちが写そうとするものは、その被写体の「人生」の一部であり、それを写そうとするには被写体が「生きているということを見つめる眼差し」が必要だからです。 そのことは毎回変化することを求められ、人へ向けても写真に対しても向上していくことが求められるからです。 上機嫌で撮影を終え、モニターで昼寝をし、帰り際に少し不機嫌な彼女を見ていると、 あれだけ観察し写真に捉えた彼女のことをまだまだ全部知らないような気がして、私はまた彼女に会いたくなるのです。。。
Birth,
2016/9/30
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何故、写真を撮っているのかと尋ねられれば、 自分が唯一、自分の好きなことを誰かの為に役立たせることができるからだと、答える。 何故、自分の好きなことが写真なのかと尋ねられれば、 自分が人と繋がりを持つことができるものであるからだと、答える。 ただ純粋に、芸術的な観点から「写真」の完成度を探求する程「写真家」としてストイックではないと思う。 しかし、お客様の写真を撮るということを、「写真館のおねーさん」としての割り切った作業にできる程、熱がない訳でもない。 目の前の家族を、抱っこされた小さな赤ちゃんを、あるいはその成長した姿を、 私は自分で見て、感じて、考えて、意図をもって表現する。 その写真が、その空間が、その人たちにとって大切な記録であり、記憶となる。 ライフスタジオはそういう場所で、その時その人たちの前に立つ「わたし」は、「カメラマン」としての逃れられない責任がある。 そして、カメラマンとしての「わたし」には、その責任の重さと同時に、それを果たす為の自由は与えられている、と思う。 自分が見て、観察して、感じたこと、考えたことを、自分で組み立てて、ファインダーの中を整えて、光や構図や色や何かに託して、1枚の写真にする。 「わたし」から「あなた」を見た時、こう見えて、こう感じて、だからこう表現した。 それは飽くまでも「写真館としてのルールやマニュアルに則った写真」ではなく、「わたし」が「ひと」を見る時の眼差しを反映したものとなる。 だから、私が撮る写真には「わたし」が写っている。 彼らの写真を撮る時に意識したのは、ひとつに「記録性」という写真の性質だった。 生後1ヶ月半の、双子のBaby。生まれて間もない、まだ細い手足。いちばん小さなサイズのおむつが、大きく見える月齢。 この世に生まれた人間の誰もが、ここからスタートしているなんてにわかには信じ難いような、新生児の姿だ。 街を行く厳ついお兄さんも、テレビで見るような綺麗なお姉さんも、しわしわの老獪な政治家であっても、皆生まれたばかりの時は自分で何をすることもできない。 ただ泣き、世話をされ、大人の庇護のもとで育っていく。 今、この時の姿が、ごくごくわずかな時間の姿であることを、毎日Babyの世話に追われる父母は気付かない。 怒涛のように過ぎていく毎日(ちなみに彼らには元気いっぱいの兄がふたりいるので、ママさんは本当に日々怒涛だと思う)の中で、気付けばおむつのサイズがちょうど良くなり、手足はぷくぷくと脂肪を蓄え、泣き声は逞しくなっていく。 彼らのふたりの兄だって、ほんの数年前にはこんな姿だった。 たった2年、たった3年で、彼らは日焼けした手足をひょいひょい使って、スタジオ中のインテリアのあらゆる高いところを制覇していくようになるのだ(頼むから怪我だけはしないでくれ)。 変わっていくことを、知っている。それを留めおけないことも、わかっている。 だから、写真に残しておきたいと思う。 「記録性」において、その1枚で明確に表されていること、に重きを置いた。 ホリゾントというシンプルな空間で、全身を写真の四角の中に収め、彼らのからだの造形を隠すことなく、真っ直ぐに向き合う。 双子である彼らの、今現在の姿、かたち。それへの集中を妨げるものは、排除した。 しかし、ただ「記録」だけで終わってしまうのは、あまりにも作業的だと感じてしまう。 記録性の為の条件を損なわずに、写真の中に私の意図を反映させる。 それは、ちょっとだけ自分なりの「芸術性」を加えていくことに他ならない。 言うまでもなく、彼らの月齢ではコミュニケーションを図るのが困難で、視界も不明瞭で、首も据わっていない。 それが、ふたり。 慎重に慎重に作為的なうつ伏せをさせることができない月齢ではないが(そしてそのスキルを持つコーディネーターもいるのだが)、ふたりを同時にポーズを組むということは極めて難しい。 だから、私の意図を反映させるのは、彼らのポーズや表情ではなく、その周囲の条件になってくる。 私は彼らを観察し、彼らが次に何を表そうとするのかの予測を立てながら、どの条件を用意すればその予測に従ってコトが運ぶのかを考えて、構成する。 前述の通り、「記録性」に重きを置いたシンプルな空間は、非日常的でどこか冷たさや堅さを感じた。 それは写真としての視覚的な意味もさることながら、何より撮影空間でのBabyの不快感に繋がる。そこが、彼らにとって居心地が良いか、安全であるかは、Babyの撮影において重要な要素のひとつである。 この時、写真には白い背景とふたりのBaby、そして写真の輪郭である直線と直角しか存在していなかった。 この無機質で、非日常的で、堅さを感じる中に、記録性としてのシンプルさを損なわずに加味できるもの、として、円形のクッションを置く。 柔らかなクッションは、ふたりのからだの重みを受け止め少し沈み込む。 そのくぼみが彼らのからだを安定させ、安全性を確保すると共に、クッションの曲線が与える視覚的な柔らかさの印象が、写真の中の温度を少し温めたように感じる。 そしてブルーのクッションは、白い背景の中からくっきりと彼らのからだのラインを浮かび上がらせた。 敢えて、人の肌色とは極端に違う色の上にからだが乗ることで、Babyの肌の質感や存在感を強調する。 これが白い布団やマットだったら、彼らの存在感がぼやけてしまう結果になっただろう。 そして、双子、という彼らの関係性を表す為に、対を成すように並び、頭の位置を逆にする。 背景がシンプルな白である分、写真の天地があやふやになり、ちょっと不思議な浮遊感が漂った。 お腹の中をたゆたうような、そんな時間の再現をイメージしていた。 だが、彼らはもう生まれてきている。産声を上げている。 ひとりは泣き、ひとりは眠る。赤ちゃんとしての、ごくごく当たり前の、至ってシンプルな「生きる」ことの発現。 四角い写真のど真ん中に、彼らを受け止める円を置き、上下左右を対称に整える。 見る者は真っ直ぐに、彼らの存在を、小さなからだで「生きる」ことを発現する姿を、目にすることができる写真になるだろう。 私は、彼らの兄が、今の彼らよりもう少しだけ大きい頃に会っていた。 1年と経たずに、彼らはその頃の兄の面影を辿りながら成長するだろう。 きっとあと2年もすれば、兄たちと同じようにインテリアの高いところを制覇していくに違いない(恐ろしい)。 その姿を、私は笑いながら、でも本当に怪我だけはしないでくれよと祈りながら、写真を撮るのだろう。 そして、その写真を見返しながら、この1枚を思い出す。 彼らと私の初めての接触であり、関係性の繋がりが生まれた日の写真。 初めまして。これからよろしく。 私にとって写真とは、こうして人と繋がっていくことができるもの。 そしてライフスタジオとは、私が「わたし」という眼差しで写真を撮ることができる場所である。 Life Studio No,17 shinyokohama Photo by Reiri, / coodi by Yonezu
声に応えること、とは。
2016/9/30
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撮影に対する思い、感じたもの、表現したかったものとは― 入学の記念として撮影に来た彼のこの撮影を始める前に、ママから一つの要望をお伺いしていた。 「前歯が抜けているので、(歯が)見えているのと見えていないのを、両方のパターンで撮ってください。1人、兄弟、家族どのパターンも、両方お願いします」。 彼と同じくらいの年齢の子ならば歯が何本か抜けているのはごく自然なことで、パパママからも「この(写真を撮る)タイミングで抜けちゃって…」と苦笑いをされている姿もよく見かける。そうした、歯が抜けているということに対して少しでも気にしていらっしゃる様子がある場合(もちろんそうでない場合も)、事前に「口を開けて笑っている写真を撮っても良いですか?」と確認をする。けれど、こうして事前に念押しをされるということは、普段よりもお子様の表情を気にして、撮影後の写真を見られるのだろうと思った。 だからと言って撮影スタイルや雰囲気を変えるわけではなく、ママのその一言をいつもの撮影以上に頭によく書き込んで臨むことにした。 穏やかでよく笑う彼は、家族や弟と一緒にいる時がとても楽しく大好きなのだろうということが、ファインダー越しに伝わってきた。家族・兄弟写真では、そんな彼の様子をあまり制限したくなく、最低限の「口を閉じている表情」を残すことに留めた。 その後、彼1人の撮影に入ったのだが、彼自身も「口を開けないように」と意識していることが、よくわかった。まず私が撮り始めた場所も、それまでの明るい雰囲気から一転し、クールな雰囲気の場所を選んだことが、もしかしたら彼に少なからずそうした意識を持たせる影響を与えてしまったのかもしれない。 私から表情の指示を何もしていないけれど、彼は最初から口元を閉じて口角を上げた表情をしてくれていた。 入学という、それまでの幼稚園生という子供らしい雰囲気から、男の子という雰囲気への変化を表現するために、しばしば私はその表情やポーズに細かい指示を出すことがある。今回の彼にも初めのうちはそうしていたのだが、彼の表情がどうも気になって、あまりこちらから細かい指示を出しすぎてしまうと、彼の表情がどんどん固まって行ってしまうような気がしてしまった。 そこまでで、所謂「かっこいい」写真はたくさん撮れていた。あと少しだけ残っていた写真は、彼の彼らしい表情を残したいと強く思ったのだ。口元を気にせず、今だからこそ撮れる「前歯の抜けている写真」を。 そのためにまず用意したのは、彼がうつ伏せ出来るぎりぎりの大きさの椅子。そこにうつ伏せになってもらい、「椅子が小さいけど、絶対落ちないでね?落ちたらこちょこちょするからね!」と、彼の笑いを誘いながらその目線をカメラに誘導する。まずその一言で、彼に少しだけリラックスしてもらうことが出来た。それからは、彼と私の一対一での会話の時間だ。 それまでは望遠レンズを多用して撮影していたが、ここでは彼に思い切り寄りたかった。彼の僅かな表情の変化を逃さないように。 コーディネーターは近くにいる弟と一緒に遊んでくれているため、自然と私と彼の空間になる。それまで物理的に遠かった彼との距離も縮まり、彼の表情がよりよくわかる。 「カメラの真ん中の色が変わるんだけど、何色に見える?」。 撮影中よく使う言葉だ。この言葉を彼にかけた瞬間に、私は集中した。それまでの彼の口角の上がり方が、意識的にされていたものから、筋肉の弛緩からくるものへと変化する瞬間を捉えるために。自らの口元に向けられていた意識が、私の提示した「カメラの真ん中」へ向けられる瞬間を。 そして私はそれに成功した。 口元だけではなく、目元も、それまでの表情とは違い柔らかい印象をしている。 モニター時にこの写真が流れた時にも、ママから一際大きな「可愛い!」という感嘆の声を頂けた。ママのご要望だった、「口を閉じている笑顔の写真」を、不自然でない表情として残せたことに安堵しつつ、この1枚にかけた「瞬間」に確かな手応えを感じた瞬間だった。 この写真の核心とは― この写真の核心は、「意識的な中に生まれた無意識の表情」である。 前述してきたように、被写体の彼自身が、抜けている歯が見えないように口元に意識を集中していた状態であった。その中で生まれた、「口を閉じている【けれど】意識的に見えない口元」。 彼は恐らく、口を閉じて微笑むということが上手な子なのだと思う。だから余計に、それを意識している時とそうでない時というのがわかりにくく、それでいてとてもわかりやすい。というのは、ずっと意識的にそうしている姿に見慣れてしまうと、それが自然なのだと思ってしまうのだが、一瞬口元が緩んだ時のその表情は、その直前までとはまるで違う。 その「無意識」を知ることで、それまでが意識的なものだったのだと改めて知ることになる。 それを見つけるためには、彼が「今」意識しているのかそうでないのかをまず見極めなければならない。その意識している状態で、その意識を他の方へ向けさせることが出来た時、彼本来の表情が出てくるのだ。 この1枚を撮るために適用した技術とは― この1枚を広角写真として撮ると決めた時、まずその効果をわかりやすく出せる場所を選んだ。ここでポイントにしたのは、画面右側の白い扉である。この扉には格子がついているため、縦横のラインがたくさんある。それを画面の端に配置することで、中心に向かってそのラインは集まるように描かれる。ラインの終着点に被写体の顔が来るような配置にすることも意識した。 また背景のポイントとして入る緑も、被写体にかぶってしまっては意味がなくなってしまう。格子扉と背景のポイントである植物の間には、窓がある。その窓の部分は何もない空間であるため、そこを埋めるという意味でも被写体の位置を決定した。 次にライティングについて話をすると、まず光源は画面右から来るライト。左側に設置してあるライトはすべて消し、ダブルライトにならないように注意した。また、右側のライトを全てつけてしまうと明るくなりすぎてしまうため、真ん中の部分を3、4つ程つけた状態にした。 ポージングとしては可愛らしいイメージのあるものだが、男の子らしさを表現するために顔に影を付けたいと思った。そのため、被写体の体・顔の角度も、顔半分に当たる光は少し落ちるように調整している。 最後に被写体との距離を測る。レンズは24㎜にし、ぎりぎりまで被写体に近付くことでより広角写真としての特徴を出すように意識した。 ここで構図の切り方として、椅子の上面ラインで切ってしまうと椅子の脚が切れてしまうため、被写体の寝転がっている場所が椅子の上なのか何なのかわからなくなってしまう。しかし椅子の脚を入れると、床の余計な部分が写ってしまうため、画面内のバランスが悪くなってしまう。 そこで椅子の脚元にランドセルを入れたのだが、ここではランドセルの入れ方が効果的ではないため、入れない方が良かったかもしれない。ランドセルとカメラの間に植物の前ぼかしを入れており、これは右下の床を隠すためのものである。ランドセルをなしにして、この植物の位置を調整すれば、画面下の比重が少し軽くなりより被写体に目線が行きやすいものになっていたかもしれない。 この撮影で得たものとは― 普段、パパママからのご要望やご希望があれば、出来る限りその期待に応えられる撮影・写真を撮ろうという意識が働く。けれどそれはいつも、それに「応える」ということが自分の中でのゴールになってしまっていたのかもしれない。 今回も、ご要望としては「口を閉じている写真」という、言葉だけ見ればとてもシンプルなものだ。けれど、ではただ口を閉じていればいいというわけではない。口を閉じていても無表情であったり、写真のイメージ・雰囲気も統一感のないものであれば、それは本当に「ただ口を閉じている写真」でしかないのだ。そしてママのご要望としても、口を閉じているというのは最低限のもので、そこには笑顔やその他被写体の彼のきらきらと輝く表情が必要条件なのだということは、言うまでもないことなのだということは理解しなくてはならない。 今回この撮影の中で、私はその一歩先を考えた。 被写体の彼が表情やポーズを作ることがとても上手な子だったということはもちろんあるのだが、ママのご要望をただのご要望で終わらせるのではなく、そこにいかに被写体の彼らしさを加えられるか、ということが重要なポイントになる。 彼がリラックスできるポージング、言葉かけ、私との距離。そうしたもの一つ一つを、いつも以上に意識しながらの撮影であった。 年齢が上がるにつれて、被写体となる子供達には様々な意識が働く。その意識の間を縫いながら、その緊張を解しながら、被写体の魅力を出来る限り引き出して残していくこと。 カメラマンとしてそれは当たり前のことなのかもしれないが、実はそう簡単なことではないのではないだろうか。実際、彼のようにポージングも表情も出来る子は、それを維持することに意識が働いてしまい、表情が強張ってしまう場合もある。 そうした中で、どんな風に接していくのか。そうしたものを、被写体に合わせた方法・速度・距離で探していくことが、一番その子らしい瞬間を残すのに最短な道なのかもしれない。 Photo:Miya Coordi:Tanaka
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