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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
「彼女と私」
2017/1/31
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彼女からにじみでているもの 彼女の奥に潜んでいるもの 彼女が自ら発しているもの 彼女が見てほしいと思っているもの 彼女の心のうったえ 私から見えるもの 私が感じること 誰かが彼女の魅力を引き出そうとかける声かけ そこにあるもの カメラを通してとらえたその世界 要素と要素がぶつかり合い重なり合い 織りなされる一枚の写真 自由に そして、まっすぐ…。 彼女と私 彼女と私は正反対 写真だって 性格だって 得意と苦手も… けど、 彼女と私はどこか似ている お客さんに言われる 電話の声がそっくりですね!って なんか姉妹みたいですね!って 息があってますね!って…。 ライフスタジオのマインドに美しさの表現という言葉がでてくる。 被写体が自ら表現する美しさ。 コーディネーターが引き出す美しさ。 カメラマンが捉える美しさ。 カメラ、レンズ、光、構図… すべての物的条件的要素。 それらに加え 被写体、カメラマン、そこにいる人たち、空気…。 そこにある全てが1つになり、1つの形として表現される。 写真は、今、その時、その場所、その共同体により生み出される芸術なのだと思う。 被写体のもつ美しさは、その個々により違う。 同じ被写体でも、その場その場の雰囲気によって被写体の美しさの表現は変化する。 そして、同じ被写体、同じ空間にいても、それを捉えるカメラマンの思考や目線によって、映し出されるものは違ってくる。 写真にはどこか自分が入る気がする。 この日は水戸店の皆がお互いを撮りあった。 被写体1人、コーディネーター1人、カメラマン2人を、みんなでローテーションして、撮りあった。 みんなで生みだしている空間の中で 彼女が私を撮ってくれた。 私も彼女を撮った。 彼女の撮った私は、カッコよく表現されている。 自分だけでは引き出せない、表現できない、見ることのできない姿。 いつも知っている自分、自分が主観的にみている自分とは別の姿。 新しい自分との出会いがそこにあった。 私の撮った彼女は、どこかまだ少女の面影を残す。 彼女は、妻であり、母であり、普段の姿を表面的にみると強くて、元気で、ザ浜っ子な元ヤンキーガール。笑 けど、頭の中ではちゃんと考えてる。そして、本当はきっと弱い。 私+αが、彼女のフィルターを通しうつしだされたもの 彼女+αが、私のフィルターを通しみえたもの 写真を通して、私を知ることができる 写真を通して、彼女に気づくことができる 写真を通して、そこにいるすべての人で空間を共有することができる だから写真って、おもしろい。 Mito Photo Photographer:erika Model:yuki Other involved:mikiko.karen
別世界
2017/1/31
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まるでモデルに所属しているかのような明るくて元気な女の子だった。 指先まで細かく動かすことができ、カメラを向けると笑ってくれる。 義務的にやっているわけではなく、写真を撮られることがモデルになったように純粋に楽しんでいるようだった。 私はあれこれと大人に要求するポーズも楽しみながら応えてくれるその姿に私自身が一番楽しかったのかもしれない。 たくさんのインテリアで撮ったし、たくさんの小物を使って、たくさんの角度から撮影をすることができた。 だからなのかもしれない。 頭のどこかで「カチッ」とスイッチが入るように、ただこの子をまっすぐに撮りたくなった。 明るくて元気な女の子かもしれないが、また別の美しさを表現したかった。 被写体を別世界に連れ出すような写真にしたかった。 そんな私の観念は、人は単純に一つのイメージで在るわけではない。という考えによって、作られている。 この写真の重要なポイントは「ただこっちをじっと見つめる被写体のまなざし」だ。 写真を見ているこちらに主張するなにかがあるようなまなざしには、子供なのに距離感が遠いような緊張がある。子供のようで成人のようでもある。 そんな感覚になってしまうような被写体のまなざしは、元気で明るい子供とはまた別の存在であるかのようだ。 そのような感覚になるのは、写真の構成要素がその世界を作っているからでもある。 【均一化された光】 この写真にはあまり光と影というコントラストがない。 均一化された光の量で撮影しているため、立体ではなく平面という印象がある。 特徴的な光ではないため、写真にポイントがないことがポイントであり、被写体と他の構成要素が平等に写されている。写真は場合によって「光の良さ」を重要視されることがある。もちろん重要だが優先ではないと考える。被写体よりも光に注目される写真になってしますからだ。だから逆に光に特徴をあえて設定をせずに、じっと見つめる被写体のまなざしを強調するようにしたかった。 【統一化されたイメージ】 女の子のマフラー、スカートの色や質感、インテリアのレンガ、木枠、植物の色や質感、 前ボケの色や形。このすべてが同じような性質を持っているため、写真のイメージが統一化されている。それによって、写真の静的バランスを確保しているため、均一化された光だとしても違和感のない写真になっている。 写真の構成要素では大きく分けてこの2点がポイントになっている。 子供の美しさとはなんだろうか? どれも正解でどれも間違っているような気がする。 見慣れている自分の目を疑ってみることで、私自身を別世界へ連れ出してくれるのだと思う。
Permanent invariance
2017/1/31
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変わらないもの、と言うととても曖昧で大雑把な括りではありますが、私たちの人生の中にはその「変わらないもの」がたくさん溢れています。 日々進化していく時代で、永遠に変わらないものというのは恐らく限られてくるのではないかと思います。 その中でも、私が思う「永遠に変わらないもの」の最たるものは、【家族】という関係性なのではないかなと思います。 父と母という存在は、どこまで行っても父と母でしかありません。 それ以外に、あり得ません。 例え私が50歳になっても、100歳になって父と母がこの世にいなくなってしまっても、そこには変わらず【家族】という関係があるのです。 自分にとって、人生の中で永遠あるいはほぼそれに近い状態で変わらないものって、なんだろう。 そんなことを、最近よく考えるようになりました。 環境、心境の変化もあるのかもしれません。 【家族】という言葉がまず出てきたのは、私がこの仕事を選んでいることが大きいのかもしれません。 この仕事に、誇りと、愛情と、そして楽しさを感じているからです。 「職業:カメラマン」と言うようになってから、今年で5年になります。 これまでに、たくさんのご家族様と出会って来ました。 そのご家族様もきっと、これから先何があっても、その関係は変わらないでしょう。 彼女達姉妹に出会ったこの日も、彼女達の姿を見て、ずっとこのままでいて欲しいと強く願いました。 三姉妹ということもあり、きっと私自身と重ねてしまったこともあるのかもしれません。 三人共が着物を着て、それぞれが主役で、とても華やかな撮影でした。 この1枚を撮ったのは、ちょうど一番下の子の揃撮影が終わった直後でした。 まだ小さな彼女にとって慣れない着物での撮影というのは、緊張もするだろうし心にかかる負担も多少なりともあるでしょう。 この位の年齢の子の撮影では、特にその部分に注意を払いながら、なるべく負担にならないよう、短時間で撮影を進められるようにしています。 それが無事終わり、私自身もほっと一息ついた時でした。 2人のお姉ちゃん達が、自然と妹の元へかけていき、「頑張ったね」「可愛かったよ」と声をかけてあげていました。 その自然な姿に、彼女たちにとっては当たり前の光景に、強く心を揺さぶられました。 お姉ちゃん達から妹への、深い、深い愛情を感じた瞬間だったのです。 午前中の柔らかい光が差し込む時間帯。 大通りに面した大きな窓からは、光が溢れるように注ぎ込まれてきます。 すぐさま私は自分の位置を移動して、彼女たちがその光に包まれる場所に移動しました。 その愛情あふれる瞬間は、逆光によってより美しく洗練されたシーンに変わるのだという確信がありました。 そこに不要だった黒い柱は、レースのカーテンで前ぼかしを作ることで消し去ることができ、なるべく彼女達だけの世界を作り上げることにしました。 ここで選択出来た構図は、他に圧縮写真や上半身のアップ写真もありました。 私がこの構図を選んだのは、人物に寄りすぎてしまえば、彼女達の間にある「愛情」を抑え込んでしまうような気がしてしまったからです。 ここに絶妙な空間を作ることで、その光の柔らかさや彼女達の愛情の広がり、子供ならではの伸びやかさを表現しました。 そして、華やかな彼女達の着物姿を、全身で美しく残したいという思いからでした。 またここでは三人の中で特に一番下の妹に注目を集めたいと思いました。 それはこの1枚のテーマが「お姉ちゃん達から妹への愛情」というものであったので、その対象である妹の表情に注目してほしかったからです。 妹を見つめるお姉ちゃん2人の表情はよくわからない角度です。 だからこそ、白い歯を見せてにこやかに笑む妹の表情が、より際立っているのです。 この瞬間が正に、私の待っていた、狙っていた瞬間でした。 そしてそれはまさに、「飛び込んできた」感情でした。 「アンテナを張る」という姿勢は、クリエイティブな活動をしている人たちにとってはとても重要なことだと思っています。 カメラマンにとっても、とてもとても重要なことです。 クリエイティブということに限らず、もっと多くの場面で言えることかもしれません。 アンテナを張るということはつまり、常に周りを意識し情報を探し求めている状況とも言えますから、そうした状況下にいる人達にとって皆大切なことだと思います。 撮影中だけに限らず、生活の中の多くの場面でアンテナを張るように意識しています。 私にとってのアンテナは大きく分けて二種類あります。 一つは「自分から掴みに行くアンテナ」と、もう一つは「向こうからやってくるアンテナ」です。 言葉にすると上手く表現できないのですが、何か小さなきっかけがあり、その「何か気になるな」と思った瞬間が前者、思いも寄らぬところから表れて「どうだ、気にせずにはいられないだろう!」と訴えかけてくるのが後者です。 今回、彼女達を見て反応したのは、後者のアンテナでした。 けれどそこにも、私自身のアンテナがなければ反応し得なかったものがあるのは確かです。 彼女達がこれから大きくなっても、この関係はなくならないで欲しいと思っています。 幼いころの私と姉妹を思い、どこか懐かしく、羨ましくもあり、そしてとても愛おしいと思えるのです。 いつも兄弟・姉妹写真を撮る時の私の原本の1枚目は、全員がカメラ目線の写真から始まることが多かったのですが、この原本では珍しく、こうしたイメージ写真を1枚目に選びました。 それを選んだ自分自身にも少し驚き、無意識のうちにあった自分自身の撮影スタイルを「変えさせた」のも、彼女達の存在なのです。 変わらないものもあればもちろん、変わるもの・変えなければならないものもあります。 ライフスタジオのホームページに、こんな言葉があります。 ―現在は “記念写真” だけで構成されている日本の写真館の概念を変えなければなりません。― ハウススタジオ型写真館と呼ばれるものが、ずいぶんと増えてきました。 従来の「記念写真館」というものは、どんどん減ってきています。 きっちりと、仰々しいイメージのあった写真館というものが、ずいぶんと生活の中に近くなり、その一部にもなってきています。 写真館という概念は、確かに変わって来ています。 けれど一方で、「日本特有の文化」というものは、決してなくしてはいけないものだとも思っています。 その中でも、着物文化というものは後世にまで残していきたいものでもあります。 お宮参りに始まり、初節句や七五三、卒業式、成人式、結婚式等、日本文化の中では節目のお祝いで着物を着る人がたくさんいます。 それが、日本人にとって当たり前だと、私は思っています。 先日、とあるテレビ番組の中で、中国から観光に来ていた女性が話していました。 Q.どんな目的で日本へ来られたのですか? A.主人と結婚10周年なので、その記念に着物”体験”をしに来ました。 この女性の言葉を聞いて、改めて、着物というのは日本独特のものなのだと感じたのです。 チャイナドレス、漢服、チマ・チョゴリ、アオザイ等、同じアジア圏であっても着物とは全く違う形の衣裳が、それぞれの国の服としてあります。 着物を”体験”するために日本を訪れる外国人。 そこまでしたい魅力が着物にあるのだと思うと、やはりこの着物文化だけはなくしてはいけなものなのだと思ったのです。 人生の中で、あって当たり前のもの、変わらないものは意識していないだけでいくつもあります。 その存在に自分が気付けるかどうか。 そこには、人生をより豊かにするためのヒントがるような気がするのです。 Photo:Miya Coordi:Noro
natural
2017/1/31
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題目:natural 「らしさ」という言葉を最近よく耳にします。 その人らしさ、そのものらしさ等の言葉によく使われます。 巷では、オーガニックやナチュラル感などの自然的なモノが溢れかえっています。なぜ現代人は作られたものより、自然なものを好むのでしょうか? 日本が高度経済成長期に入り様々なものが新しく生まれ、ビックバンの様に増え広がる時代となりました。 その様に新しいものが数多く生まれた背景には我々現代人の生活がより豊かになる為の利便性を求めた結果であります。 そこで現在よく耳にする話に「私たちは利便性を追求するがあまりに様々なものを失った」と聞きます。 学校でも環境問題に対して皆さんも考えた事があると思います。 さらに現代では環境の問題だけではなく人々の精神的な部分に対しても言及するところがあると私は感じてます。 その上で現代人が求める「らしさ」という表現は2つに要素を含んでいると私は考えます。 環境と精神の二つです。 環境的に言えば多くの自然であり、精神的に言えば自然の木々の温もりや野菜につく土の温かな匂い、職人が丹精込めて作った製品の温かさということができるのかもしれません。 動物は本能的に暖かいとこへ向かおうとする性質があります。もちろん心も温かさを求める性質がります。 その様な温かさという表現を現代人は「らしさ」と表現するのではないでしょうか? 晴れた日に期待を胸に来店されたご家族は何よりも撮影を楽しみにされていました。 3人の元気な姉弟とパパとママの5人で来店されたご家族には、もう一人これから生まれてくる命がありました。 生まれてくる命に対して喜びに胸をときめかす、ご家族の姿に私は温かさを感じました。 私が考える「らしさ=温かさ」という考えとインスピレーションが結びついた写真がこの写真だと言えます。 何よりも兄弟たちの愛おしいその姿、一人一人の顔は何よりも可愛らしさが溢れています。弟の幼いその表情と、 しっかりしないとと目をギュっとつぶる次女、そして母性までも感じさせるほどにシッカリとした長女の姿。 その兄弟を見つめるママは全てを包む温かさ。 3人の子供を大きな両手で抱きしめるパパの指先はママまで伸び家族の全員を包む姿。 この温かさこそが、家族の「らしさ」であると言うことができるのではないでしょうか? Life Studio がなによりも大事に考えている関係性が美しく現れた瞬間でした。 “共に森に・・・木が木に言いました。・・・共に森になって守って行こう。” 素晴らしい友達に出会い、素晴らしい写真を創り出し、すばらしい思い出を、大切にしていくこと・・・ この写真はライフスタジオのその様な希望の象徴と言えます。 写真の工夫を凝らした点を以下の様に分析する事ができます。 『温かさを表現する光』 光は逆光を使うことにより画面の構成をふんわりとした柔らかい表現をすることができます。その柔らかさは「温かさ」という表現につながります。 『静かな印象を与えるモノクロの表現』 写真が白黒な理由を説明するには色というものに対して話す必要があります。 色というものは情報を持っています。 情報とは色に対する感情や意味さらに記憶と言っていいのかもしれません。 例えば赤色見れば血を想像したり消防車を想像したり、プレッシャーや熱い感じ等、様々なインスピレーションを持つことができます。 そのインスピレーションを「情報」ということができます。 つまり写真様々な色があればあるほど、たくさんの情報が存在し騒がしい印象を持たせる事ができます。 風景画などで街の喧騒などを表現をする為には様々な色を使えば効果的と言えます。 逆に静かな印象を与える為には色を簡略化あるいは減らす事が効果的です。 この写真は白と黒の二つの色に情報を絞ることで、静かな画面構成を表現しました。静かな表現は家族の温かさをより強調する為に用いています。 『未来を想像させる為の余白』 画面にある左の大きな余白は未来を表現しています。 被写体の進行方向に余白を作ると前進するかの様な印象を与えることができ、逆に後方に余白を作ると後退するかの様な印象を与える事ができます。 未来を表現する事でこれから生まれてくる命に胸を膨らますご家族の心情を表現しました。
Miria 2
2017/1/31
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人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・。 皆さん、突然ですが『ミューズ』という言葉をご存知ですか? 私は以前、あるカメラマンからその言葉を教えてもらったのですが、ここ最近は雑誌などでも良く見る言葉として広く用いられています。 辞書的な意味を調べてみると、ミューズとはギリシャ・ローマ神話の芸術の女神達のことを言います。 彼女らが芸術家にインスピレーションを与えると言われるところから、 同じようにデザイナーや作曲家などの創作意欲を刺激する美しい女性のことをミューズと呼ぶそうです。 ありがたい事に、私もそのようなミューズ的存在である一人の少女がいます。 その名は『Miria』です。 Miriaと初めて出会ったのは、2013年7月のことでした。 最初は、753の着物の見学をしたいということで越谷店に尋ねてきてくれました。 一目見たときに、あぁ~~~可愛い子だなと思ったのが最初の第一印象でした。 その後、すぐに越谷店に753の予約を入れてくれて撮影をさせてもらったときに、 カメラのファインダー越しに彼女を集中してみたとき、私が気づかなかった彼女の魅力に気がつくことが出来ました。 それは瞳の輝きです。 でも、どうしてそんなに輝いているのだろう? とっても興味がわいたので自分なりに考えてみたのですが、結論としては、きっと彼女の目に映ってきた世界がそれを物語っているのだと考えました。 彼女の目の輝きの理由を理解するために、私が彼女と色んな話をして彼女の思い出話を全て聞いたとしても、 それだけでは知ることが出来ない、彼女が生きてきた人生があると思います。 つまり、過去の彼女をすべて理解することは現実的に難しいですが、思い浮かべることなら出来ると思います。 それが、私にとっての『被写体に深く入る』ということです。 人を思い浮かべるということは、相手の立場に立って相手が見てきた世界を自分も知るということです。 知るためには情報が必要ですが、その情報というのも闇雲に聞くのではなく 彼女の人生に影響があることを一つ一つ丁寧に聞いていくのです。 例えば、自分の家族のことや今一番興味があること、また自分にとって大切な存在が何かを聞いていくのです。 そういう対話を通じて、彼女が生まれ育ってきた過程を理解したり、 彼女が今一番情熱を注いでいるものが何かを知れたり、 彼女が愛するものが何かを知ることが出来ます。 このような思考するという行為というのは、ライフスタジオのカメラマンでは必ず必要な技術であると考えます。こ の技術というのは、容易に言えばコミュニケーションであるとも言えます。 また、他の言い方でいえば言えば、哲学であるとも言えます。 このように、人に深く入るという実践を通じて、被写体の過去全て理解することは出来ませんが、 せめて現在と未来になら彼女と交流することができると考えました。 ある時、彼女に将来大きくなったら何になりたい?と聞きました。 そうしたら、Miriaは少し照れた様子で『モデル』になりたいと言いました。 私はそれを聞いて、Miriaの夢が私の夢にもなりました。 彼女の夢ができる限り叶うよう私が出来ること、そして私達ができることが何かと真剣に考えました。 そうだ!!ライフスタジオの専属モデルになってもらうのはどうだろうと考えました。 彼女は、私の話を半分冗談だと受け止めていましたが・・・ 私は基本的に冗談がうまく言えない人間なので、 そのアイディアが思い浮かんだときも本気で伝えていたと思います。。 その後、.wihがオープンする時のサンプルのモデルに協力してもらいました。 また、LifeNextの自宅訪問撮影のサンプルモデルにも協力してもらいました。 また、あるときは越谷店がリニューアルオープンするときのサンプルモデルにも協力してもらいました。 また、ある時はハーフ成人式の撮影で草加店を訪れてくれました。 その時はMiriaが大好きな少女時代をスタジオ内に流して皆でダンスしながら盛り上がりましたね。 このように、少なからずMiriaの夢に、そして人生に 『共にする』という経験をほんの数日間ですが重ねてくることができました。 これはライフスタジオでいう顧客との真の関係ではないかと考えます。 お客様と出会い、その関係が自然と続くためには、その日だけが楽しいという短期的なものではなく、 例えば、今回のMiriaとの出会いのようにお互いの共通点を見つけ それを元にまた会う事を約束する。このように、具体的に関係を結んでいく過程こそ ライフスタジオのアイデンティティーを象徴することができる一つのエピソードではないでしょうか。 今回の一枚は、写真の種類で分類してみると『クローズアップ』の分類になります。 そもそも、クローズアップとは被写体の顔をただ大きく表現することではありません。 クローズアップの核心は被写体さえも知らない美しい表情を映し出すことです。 また、表情や手のしぐさを用いて被写体の魅力を最大限表現することです。 文章の初めに話したように、Miriaの美しさは輝いている瞳です。 そして、その瞳の輝きの理由を彼女の見てきた世界観と整理しました。 では、その世界観をどのように表現しようと考えた時、 今回彼女の持っている『本』という小物を通じて彼女の世界観を表現しました。 本には、知識という概念があり彼女の現在過去を含め被写体の美しさの理由をその小物に託しました。 また本の持ち方もポイントで、左手の親指で彼女の好きなページをしおり代わりにして 両手で持っていますがその仕草も被写体の美しさをより引き立たせるために慎重に誘導しました。 また、写真全体にかかるベールの様な前ボケは彼女のまだ見ぬ未来を創造する 『夢』をイメージして表現しました。 これがあることによってMiriaの可能性をより含む一枚になりました。 次にトリミングです。 クローズアップの時によく、どこで切るのか?という問題が派生します。 これは、被写体を最大限動かせていないことで発生する問題が大きいと考えます。 良いクローズアップは、カメラマンと被写体の意思疎通がもっとも適切に行えている象徴だと考えます。 なので、被写体との距離感がポイントになってきます。また、アングルやレンズや露出などの技術を織り交ぜ カメラマンが最終的な決断をしてシャッターを押します。 つまりクローズアップとは総合的な能力を要する一枚になります。 よって、75CUTの原本を全体的に見た時、その中でも決定的なクローズアップを記録するという事は 私たちのやるべきことでもあります。やるべきことを撮影中に行うということは私達が向かうべき 方向性に真っ直ぐ進んでいる証だと思います。 Miriaは私にとってのミューズであり、写真館としてこの社会に何を記録していくのか? いつも気が付かせてくれる大切な存在です。 出会って、繋がる。 夢を共にする私のミューズ・・・。
Miria 1
2017/1/31
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人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・。 私達ライフスタジオはどんな写真館なのだろう? もう一度自分自身に問いかけてみようと思う。 なぜならば、そこにライフスタジオの誕生理由があるからだ。 私はやはりこの一文字が浮かんだ・・・『人』である。 2016年5月、越谷店は約一年間の休業を経て再編成された。 様々な事情はあったが、一度お休みした理由も、もう一度始まった理由もやはり『人』の存在が大きかった思う。 何故ならば、ライフスタジオはただ単に売り上げを上げる為だけに営業を行っているわけではない。 ライフスタジオは価値を生み出すために経営をしている。 では、その価値とは何かというとそれが『人』なのである。 つまり、ライフスタジオは自立した人を生み出していける会社を目指しているのである。 よって、時には人の成長や組織の変化によって店舗の運営が関わってくるのである。 極論、人が育たなければスタジオも育たないし会社も育たないのである。 だから、会社の軸である価値基準というものに沿ってライフスタジオの運営というのは進んでいるのである。 昨年、越谷店が再編成された理由は、ライフスタジオが持続可能な組織になっていけるのかという主題が大きく関係している。 ライフスタジオはオープンしてから10年を無事迎えることができた。 しかし、それはお客様の存在が大きい。 やはり一つの企業としては、11年目からのライフスタジオというものがより自分たちの実力ではないかと考えたのだ。 何故ならば、これまではライフスタジオが日本の写真館のパイオニア的存在であり、 今までにない存在感と爆発的な口コミ、そしてそこからのブランド力のお蔭で 多くのお客様に愛される写真館に昇りつめることが出来た。 しかし、一度駆け上がった大きな山がずっと続くとは考えられない。 山あり谷ありという言葉の通り、ライフスタジオも避けては通れない下り坂の時期が必ずやってくるのである。 その時に、ライフスタジオが今まで長年積み重ねてきた『価値』 というものが発揮されるだろうし、他には真似できない 唯一無二の写真館として歩み続けることが出来るであろう。 では、唯一無二というものが何をもって証明されるのかというと、 一番分かりやすいのはやはり、写真の質ではないだろうか。 ライフスタジオを長年愛してくださる100組のお客様にライフスタジオの写真について尋ねたところ 他の写真館とは『何かが違う』という話を熱く語ってくださるお客様がほとんどだった。 では、その何かが違うということをお客様の代わりになって代弁させて頂きます。 ライフスタジオは数年前から『哲学』という学問を通じて写真の命題である 良い写真とは何かを追求しています。哲学というと何か近寄りがたいイメージがあったり、 写真とどのような関係があるのかと不思議に思うかもしれません。 しかし、哲学はある種の知識なのです。良い写真を生み出していく為には 自分が知っている知識について考えを深めたり、時には仲間と互いの知識を共有したり、 そのような積み重ねがやがて自分なりの哲学になっていくのです。 今回の一枚は、私の人に対する哲学が集約されている一枚です。 私自身、人と人が出逢い過ごしていく中で一番大切にしていることはその場の雰囲気です。 雰囲気とは、その空間にいる人達が自然に作り出している気分。 または人が周りの人に感じさせる特別な気分を意味します。 つまり、人と空間の調和とも言えます。 ライフスタジオの空間は、人とインテリアが多くの割合を占めています。 また、原本CD75CUTの中で被写体(人)とインテリアの調和を表現するカットは欠かせません。 越谷店の1階のメインルームのインテリアは大きく分けて三つの要素があります。 一つは自然。二つ目は日常。三つ目は非日常です。 自然の象徴は、木と土とレンガです。 日常の象徴は、大きなベットとクッションです。 非日常の象徴は、ドレッサーや輝かしいアクセサリーです。 これらの象徴が壁ごとに配置されており、被写体の魅力を様々な場面で引き出せるよう演出されています。 その中でも、私が今回選択したストーリーは日常の美しさでした。 なぜ、日常にしたのかというと理由は、この少女が10歳という年齢だったからです。 カメラマンという職業は観察から始まり観察で終わるといっても過言ではありません。 それぐらいに人に集中するという技術が試されます。 これは私の持論ですが、10歳は大人と子供の中間であり、大人になるための準備をしている段階だと考えます。 だから、コンセプトは一人暮らしの練習をしている少女としました。 私自身20歳から一人暮らしを始めました。親元を離れて最初に感じたのは、 洗濯物がめんどくさいのと、母親が作ってくれる料理がどれだけ有難かったかということです・・・。 当たり前のことですが、実家暮らしでは気が付かなかった『支え』というものを 一人暮らしをしてから初めて知ることが出来ました。 そんな『支え』というのは家族の愛であり、自分がここまで成長できた理由そのものでもあります。 例えば、Miriaが一人暮らしを始めたら掃除、洗濯、買い物、料理、公共料金の支払いや税金を納めるなど 知らない世界が開けてきます。 まさに、そのような出発を日常生活のひとコマに当てはめてみました。 そのシナリオが少女が朝目覚めて、布団を直したり、朝の身支度を済ませる様子を通じて表現しました。 技術面の話でいうと、前に話したように被写体(人)の存在感とインテリアの調和が保たれるように 違和感のない適切なトリミングをするよう心がけました。 例えば、この写真が縦であったら被写体が布団を直している動きが消されてしまいますし それと比例して少女の動きに合わせてなびくスカートのふんわり感が引き立ちません。 このような被写体から出る自然な動きというのを適切に切り取り、 収めることがこの一枚を決定的なものにしてくれました。 また、コンセプトに合わせたコーディネートとも重要な役割を担っています。 例えば、この少女の洋服が非日常のコンセプトに合う黒いジャケットにブーツにハットに眼鏡というコーディネートだった場合 殆どの人がその写真を見て違和感を感じるはずです。合わないという事をすぐ感じるはずです。 このような時、カメラマンとコーディネートの考えが一致されていないという欠点さえも 垣間見ることが出来てしまうかもしれません。 それくらい、インテリアとコーディネートの関係を考えて撮影に挑まなくてはいけません。 また、窓から入る朝日が部屋全体に行き渡っているように演出させる手前の白い前ボケの存在も欠かせません。 また前ボケ効果のお蔭で被写体の存在がより立体的に際立っています。 このように私なりの写真分析を通じて、この写真を見てくださって人に何かを感じてもらえる きっかけになるよう私自身、物事を深く考え常に自分なりの哲学をもって 将来的にはライフスタジオという写真館が唯一無二の存在になっていけるよう日々前進していきたいと思います。
写真館とは・・・・。
2017/1/31
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写真館とはどのような企業なのだろうか? 私たちは「写真館」という単語を聞いてイメージするのは、商店街に今にも潰れそうな建物で「暗くて古い雰囲気」だった。写真館業界の時代が発展すると、「明るくて新しい雰囲気」になっていき、どこに行っても見かけるような大手チェーン店に進化した。しかし、「料金が高い」ということは変わらずに、限られた特別な節目の日だけに行く場所になっている。そして、競争力は「衣装」や「キャラクター」、「割引イベント」が中心になっており、「写真」や「空間」、「システム」は顧客のニーズとは合っていない印象を受ける。そうした、日本の写真館のイメージは「固い」だ。 なぜそうなったのか?を考えてみると、写真館の歴史で説明ができる。 写真館の出発点を辿ると、自分の姿を次の世代に残していく必要があった貴族や富裕階級の「肖像画」から実は始まっている。 カメラが発明されると、絵の具ではなく写真で自分の姿を残すことが主流となり、少しずつ普及するようになる。しかし、昔のカメラはcanon製品のような高性能ではなかったため、多くの露光時間と多くの光を放つストロボ機材を必要としたため、顧客は「実験体みたいに動かないこと」が条件だった。 その空間は、巨大なストロボと背景紙、そして複雑なカメラ機材で構成されている。またストロボが自然光に影響されないようにカーテンは常に閉められており、薄暗いという印象を受ける。 撮影者は数えるほどの写真の構成要素のみ撮影を行わなければならず、顧客を単純な型にはめ込む仕事をするようになる。まるで工場で生産される商品のように機械的にシャッターを切っていくのが昔の写真館であった。 このような習慣が現代の写真館にも反映されるようになった。 だから、どこかで「写真館は固い」というイメージが払拭されずにいるのではないだろうか。 こうした日本の写真館の「固い」概念を変えようとする動きが、まさにライフスタジオの一つの存在理由である。それは、顧客が自然にそして自由になれる空間と同時に、私たちも自由になれる空間に向かっていくことを意味している。 現実を見てみると顧客は従来の写真館と比較して、料金やシステム、そして写真から自由になったと言えるが、果たして私たちは私たちの空間から自由になったと心の底からそう思えるだろうか? 決められた場所で決められたようにシャッターを切っていないだろうか。 それが「当たり前」であるという価値観ならば、誰かに呪いをかけられている。 日本の写真館の概念を変えるとは、既存の写真館とは別のシステムを提供することではなく、ライフスタジオで働くスタッフの概念を変えることだと聞いたことがある。 概念を変えるとは考え方を強制するようなことではなく、私たちの目の前の現実が変わっていくためにあるのである。 写真とはなんだろう?仕事とはなんだろう?人生とはなんだろう? 私たちは、どのような概念なのかによって、どのように行動するかが決まっている。 だから、私たちは私たちの概念を問わなければならない。 「私の写真とはなんだろう?」と。 もちろん世界に正解があるわけではない。 概念は誰かから教えられるものではなく、自分が「こうだ!」と自分の人生を楽しくさせるようなことを基準に自分が決めればいい。もしかしたら「なにかつまらない」という不自由さは誰かに決められたことを、決められたようにしていたからかもしれないからだ。 写真1枚にしても、自分が決めて自分が規定することで、もしかしたら写真が楽しくなる原動力になるのだと思う。 ハーフ成人を迎えた女の子は、礼儀正しくとてもおとなしい子だった。 小学生高学年になり、小学1年生から見ればお姉さんであり、逆に小学1年生は子供のように感じるだろう。そういった学校環境のなかで、お姉さんと見られていることを自然と意識するようになり、仲良い友達と話すことと、大人と話すことを良い意味で区別しているような感じだった。 だから、社会という外の環境では「ちゃんとしなきゃ」という小さな緊張と、相手を配慮する態度がおとなしさに表現されたのだろう。 私は、この緊張を絡まった糸を解くようにしてあげ、被写体が自然で自由な美しい姿になるように動かしてあげることが、私の使命だと思った。 なぜなら、草加店のコンセプトはforestだからだ。それは単純に森のように植物がたくさんあるスタジオではなく、私が考えるに「私とあなたが自然に、そして自由になれる空間がforestである」と私は規定した。だから、この写真は「スタジオがまるで子供部屋のような空間」のイメージを演出している。 ポイントは以下の通りである。 【意味のある被写体の動き】 この子はバレエを習っている。バレエのことは詳しくないが、細かい手と足の動きでその美しさを表現する。しかし、本番のようなバレエのポーズをさせてしまうと、子供部屋のような空間に違和感が出てきてしまう。自然にバレエの練習をしているかのようにしたかったため、右足のつま先を伸ばしてもらい、 手は後ろに伸ばして、背中の筋肉を解すようにすることで、リラックスしているような印象になっている。 私とバレエの日常的な関係を表現した自然な動きである。 【空間整理の柱】 この写真には多くの写真の構成要素がある。言い方を変えると複雑にできた写真なのかもしれない。 子供部屋という空間イメージを表現するためには、多くの構成要素を配置する必要があった。 柔らかいソファー、ソファーに散らかっているコップや洋服、背景にある植物やその他の小物・・・・・。 このような複雑な空間を整理するために、水平垂直のバランスをとる柱を利用した。 柱は直線であり、写真のフレームをつくるように利用すれば、バランスは確保され複雑な写真の構成要素を包括する特徴を持っている。 【1:9の光バランス】 この写真は90%以上が自然光で構成されている。残りの10%はガラスに映りこんだ暖色系ライトの反射だ。この10%の役割は大きい。もし、この10%がなかったら、平面的な写真になってしまう。空間を演出するため、光と影のように写真が立体的な視覚的効果を得るために、とても重要だ。 また、それと同時に暖色系の持つ「温かい、明るい、元気」という被写体イメージにも影響を与えている。 【質感の同居】 空間整理の柱は写真を安定化させるために必要だったが、あまりにも柱の直線が多いと「作られている」というイメージを持ってしまう。柱の直線はどうしても「硬い質感」になってしまうからだ。 しかし、天井に吊るしてある布や背景の植物の曲線、ソファーが沈むときのしわなどの「柔らかい質感」 を同居させることで、お互いがお互いの質感を緩和している。 ライフスタジオの撮影空間とはなんだろうか? 今一度考えてみると、楽しいという水準を超えて、スタッフと被写体が自由に表現できるスペースとして在るのではないか。私はこの子と出会わなければ、おそらくこのような写真は写せなかっただろう。 私はこの子に自由にしてもらったのかもしれない。 だから、被写体1人に対する特別な1枚を探求することを私とあなたのために続けていかなければならない
自分への課題
2017/1/17
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Photo by katsu Coodi by Makita takanori Write by katsu 撮影しているときに、写真を偶然でなく、意図的に撮る。 それを去年から意識して撮影に取り組んできたため、自分の中で意図的に撮ることが撮影する上で当たり前くらいの概念として認識されてきました。 意図的に写真を撮るとは、私の中でどのように写真を撮って行くかイメージをもち、そのように撮影を進めていくことです。 そのために撮影をはじめる前に、スタジオに入ってくる光がどこから入っているのか確認し、被写体となる子の特徴、イメージを見つけ、どのような道順で撮影に行くか考え、撮影空間を自分が撮りたいように整理し、スムーズに撮影が続くように前ボケを設置し、アシスタントに共有して撮影を行います。 そして、ファインダー越しにみる4角形の中にある様々な構成要素を今まで自分が培ってきた経験と技術を駆使しながら、光を利用して構成要素を組み合わせてこれだと思う瞬間にシャッターを切っていきます。 その際に気をつけている事は、写真の構成要素を組み合わせていく過程で一手間を入れる事です。意図的に撮っても、パパさんカメラマン、ママさんカメラマンでも撮れる写真を残してしまったら、意味はなさないと考えています。そのために、ママさんカメラマン、パパさんカメラマンでは撮れない写真を一枚でも多く残すことを自分への課題としてあげています。 では実際に今回どのようにして意図してとり、どんな一手間を入れたのか。 キッズの撮影と違い、ベイビーの撮影は、撮影の流れを考えてうまく誘導していくことが難しいです。そのため、ベイビーの撮影をする際に自分が心がけていることが、ベイビーの動き、表情、一部のポイントを撮ることです。 そして自分の中で最も重点においていることが、ベイビーが何かに集中しているときにどのように撮るかです。ただその絵を撮るのでなく、それにプラス@を付け加えていくことです。 今回は、朝の一件目の撮影でした。今の季節の朝の9時は、越谷の店舗の中で光が一番綺麗に入る場所が2階の白いインテリアの場所です。 この白いインテリアの場所には窓があり、その窓から多くの光が入ります。 本当は、そこの窓を開けると窓の柵に直接光があたり柵の影が床に強く残るため、その柵の影を使い逆光気味で撮影しようとしましたが、そこの白いインテリアの場所は2段の段差があり、正直影を使って撮りたい気持ちはありましたが、背景の処理、撮り方に自信がなかったのでやめました。そのため窓はしめたままで撮影の準備をはじめました。 そして、ベイビーは物が無ければ注意が散漫してしまうため、置物をおき、そこに意識が向くように最初に置いておきました。 また、2階のスペースは電気が色んな所に設置されていますが、全て消し自分が一つの光に集中して撮れるように電気を全て消しました。 そして前ボケを本当は設置しようと思ったのですが、前ボケに光が当たらないと写真を撮ったときに、黒く写ってしまうので、逆光気味で撮れる場所で前ボケに使えそうな物を探したときに、2階の撮影ルームに入るドアの窓が光の反射を利用して背景も整理できるし、前ボケにも使えると思いドアを前ボケに決めました。 そして準備が出来たので、一緒に入った蒔田さんにウサギの置物の迎え合わせにお子様を座らせてもらい3シーン目の撮影を始めていきました。 私が意図した場所に座らされたお子様は、案の定目の前にあるウサギの置物に注意がいきました。 このときに光と影が私の中でポイントだったので、コントラストをあげて撮影しました。 そうすることにより、陰影がはっきり写しだされ、私がポイントにおいた光と影を表現しました。 ここからは、正直撮影しながら偶然見つけたのですが、窓の光の反射を使って写真を整理しようと角度を微調節して撮ってたときに、カメラの画面を見たら、ドアの窓縁が少し黒く写りました。 その瞬間自分の頭の中に、この窓縁を利用すれば光のグラデーションが出来ると思い、急遽窓縁を入れることにしました。そして置物とお子様の影がポイントなので横写真にして、背景の整理が難しかったので、窓の反射部分を左上に持ってきて、左上側のインテリアを隠す意味で反射の前ボケをいれました。 今回は光と影を感じる写真をベイビーの動きで表現し、窓縁を使い一工夫をしてみました。 キッズの撮影は、自分のなかで自分だけの撮影システムがあり、それに基づいて75カットをつくっていますが、ベイビーに限っては未だに自分だけの撮影システムと呼べるものが明確にありません。 しかしそれが、この撮影を通して、なにか自分の頭の中でたまっていたものと繋がりそうな感じがしました。 以前新横浜に行った際に帰り際に少しれいりさんと写真の話をする機会がありました。75カットのストーリーの作り方を聞いた際に、シナリオ作りの話をしてくださりました。ソロの写真から家族写真に入るシナリオです。それと同時に生まれてくる問題もです。 そして最近下関店の報告書を読んで頭に残っている文書があります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一度きたお客様に、いかに家族としての姿、一人一人の成長の姿をずっと撮り続けたいと思わせられるか、今の姿がかけがえないものだと感じてもらえるか、なにか生きていく中でのきっかけになってもらえるか、そんな事をいつも考えています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こういった文章がありました。 そして、越谷のあかねさんとお昼を食べながら写真のことを聞いた際に、あかねさんは、ママと赤ちゃんをこうやって写真撮りたいんだーと写真のイメージを教えてくれました。 キッズの写真を、ポーズを作っていきながら細かく写真を作っていくとしたら、ベイビー撮影は、ベイビーの時にしかない特有のライン、ムチムチ感、動き、仕草、表情を生かしたベイビーならではの撮影をしていかなければならないと感じました。 そしてその特徴に、どのようなプラス@をいれていくのか。 そして、産まれたばかりのベイビーだからこそ出来る家族写真、そして写真を残すための具体的なイメージ材料。 そして、キッズは75カットのストーリーをお子様1人で作成するとしたら、ベイビーは75カットのストーリーを家族を交えて撮っていくのかな?とも頭の中で出てきました。 今の私の現状は、写真一枚に対して、単発で意図的に一工夫しています。 しかしライフスタジオは75カットをストーリー性をもたせる撮影をしています。そのため75カットのストーリー性を感じながらも、一枚一枚が良い写真と思ってもらえるように自分が次のステップにいかなければならないと感じています。 そのために、今ぼんやり頭の中にあるもの、だいたいのイメージであるものをこれからは、細かく具体的にイメージして、それをどう実現していくのか考えて撮影に挑んでいきたいと思います。自分の中で考えが止まっていたベイビー撮影が段々動いてきました。
L/W/H
2016/12/31
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KOSHIGAYA photo photo by volvo codi by takako ライフスタジオが目指す非日常的な体験を 【神秘的】 と捉えるならば その核心的な意味は 「非日常的な場所や物そのものが神秘的」 ということではなく 「非日常的な場所や物に出会う事で、自分の中に新しい感覚や感動が生まれる事」 が神秘的なのだ、と いつかの文章に書いた気がします 神秘性を持った瞬間を記録するというのは、言葉を変えれば写真とはありのまま「ではない」姿を写すとも言えます。 本来であれば写真とはありのままを記録する性質を持っていることから 泣いている子供を笑って撮る事はできませんし、残念な事に私をキムタクとして撮る事はできません。 私の場合キムタクにする為にはフォトショップという後処理が必要になります。 しかし写真は時としてありのまま「ではない」姿を写し出します。 草原を海のように写す事もできますし、私をキムタクの「ように」写す事が可能です。 それでも私の場合フォトショップという後処理が必要になりますが・・・。 写真に被写体本来のありのまま「ではない」ものが映し出される理由には 写真の特性がたとえありのままを写す機械だとしても カメラを扱うのが「人」であるからだと思っています。 ビジネス用語でヒューマンエラーという言葉があります。 電卓がたとえどんなに精密であっても扱うのが人である以上間違いは起こるというような意味ですが 写真とは芸術的で感覚的な要素が大半を占めることから 写真におけるヒューマンエラーとは 間違いという概念ではなく個性として発揮されることになります。 その撮影者の感覚的要素(個性)がどのようなものであるかが 自分の中に新しい感覚や感動といった神秘さ(非日常)を持った 被写体がどのように表現されるかの要因の大半を占めます。 そしてその感覚的要素に最も影響を受けるのが「判断」です。 良いカメラマンの条件とは良い判断ができる事だと思っています。 子供たちを撮影する場合、特に素早い判断が必要となります。 当然ですが私の望む場所に座ってくれる事というのは正直ほとんど無いと言っていいと思います。 無いと考えるべきです。 もちろん止める努力はすべきですが、 子供とはそういうものです。 だから「子供が動いてイメージ通りに撮ることができない」というのは言い訳であり それは「子供の動き」をイメージ内に入れてない範囲の狭い思考です。 「イメージ通りの写真」を撮りたいのなら 「子供の動きを踏まえたイメージ通りの写真」として目指さなくてはなりません。 逆光の使い方とモノクロ設定、35mmという焦点距離、そして網目の前ぼかし。 この4つの技術的要素は「このように使う」と決定したタイミングがバラバラです。 大きく分けて被写体である彼女がこの場所に座る前と座った後の二つのタイミングに分類されます。 「光」とモノクロ設定は大体「この辺」で撮る事を決めていた事から事前に準備する事ができましたが 実際に彼女が「この辺」の「どこ」に座るかは決定する事が困難なため焦点距離と前ぼかしは座ってから調節する事になります。 持論ですが 「光を見る力」は経験によって磨かれますが 「光を使う力」は感覚的な要素が強く出ると思っています。 最近、「観察をしなければならない」とよく聞きますが 光を観察する力というのは「見る力」では無く「使う力」と認識すべきだと考えます。 普段町を歩いていて「綺麗な光だな」と感じるように、私たち撮影者に「光を見る力」は すでに経験によってある程度培われており、恵みの自然光が 大きくスタジオへと入ってきたならば私たち撮影者がそれを見過ごす事はまずありません。 12月は強い冬の日差しが入ってくる時期です。 彼女を撮影していた時間帯には被写体の後方の窓から突き刺さるような光が舞い込んできていました。 重要なのは「光がどうきているか」見ることではなく「どう使うか」であり それはそれぞれの撮影者によって違いますし、状況によっても変わります。 私はこの写真において後方から来るいわゆる逆光を「斜光」のように使用しました。 後方からのいわゆる逆光という光はライフスタジオの写真において核心的な要素を含んでいます。 逆光の最も現れる特性はフレアを起こすことで幻想的なイメージを強める効果もあることから、 確かにこのシチュエーションで幻想的な雰囲気を活かすことはひとつの方法として悪くなかったと思います。 しかしこの写真における被写体のポイントは手元での仕草と目元です。 そこに光が当たることが重要であったこと、そして私の感覚的要素では 彼女をただの幻想的な雰囲気で包むだけではなく、女性らしい凛としたイメージも同時に表現すべきだと判断しました。 理由は着物撮影の時から継続的に高いテンションで撮り続けた原本の構成に緩急を加える必要があったこと、 そして3歳の彼女が持つ黒髪のしなやかさがその緩急に一役買ってくれそうだったからです。 しかし急にテンションを落ち着かせることは難しいことでもあります。 本来無邪気で明るい性格の彼女を無理やりに抑える事はネガティブな要素を生み出す可能性も否定できません。 結局は撮影終了まで3歳らしいひょうきんさを持続していたのでその隙間に時折見せる雰囲気を切り取る事に 集中しなくてはなりませんでした。 だから「幻想感」と「凛とした」姿が両立されるポジションを、彼女の左右の動きに合わせながらゆらゆらと調節を繰り返しました。 モノクロ設定にした理由はこの光が持つ「明暗差」をより鮮明にさせる為です。 写真とは彩度と輝度の二つの組み合わせで形式が作られますが、彩度を必要としないモノクロ設定では 輝度のみが必要とされるため、より光に集中する事ができます。 逆に言うと、光がきちんと整理されなければモノクロ写真は綺麗に成り立つ事ができません。 彼女の凛としたいでたちとドレス、そして西日の照らす床に集中するには背景の赤い壁は彩度のみを消す事で統一感を保てるようにしました。 35mmという焦点距離は使う頻度としてはあまり多くはないかもしれませんが 広角写真は原本の幅を広げてくれることから使っていくべき方法のひとつです。 越谷店のスタジオは狭くはないものの 望遠レンズを使用してインテリアをきちんと入れる写真を撮れるほど長いわけではありません。 もしそうするならば被写体は大体が壁に背中をつけています。 遠近感を出す方法はより望遠で撮るか、より広角で撮るかの二つです。 35mmで撮影し、背景をこの写真のように取り入れる事はお姫様が迫り来る巨壁に気づいていないという映画でよくある1シーン。 あるいは宝物を見つけ、後ろの出口が開いた!というようなイメージを連想し、 モノクロと相まって背景に意味を持たせようとしています。 また、彼女の動きに合わせて焦点距離も前後しつつ落ち着くのを待ちました。ファインダーの四隅をじっと見つめながら・・・。 この35mmという画角で撮るにあたり少し物足りないと感じたのは彼女の両脇の空間でしたが その悩みを解消してくれたのが網目の前ぼかしでした。 前ぼかしの特徴である写真を平面的に見た時の重心の維持と被写体との距離感の維持、この二つの要素が 満たされたのがこの前ぼかしでした。 もちろん子供達が相手なのでそんなに時間はかけられないため目の前にあった椅子をつかったのですが・・・。 彼女の両脇にある物質的な空間の穴埋めと、下を向いて作業をしている彼女から「カメラマン」という要素を感じなく させるための壁の役割をしてくれた事でこの写真の物足りなさに最後のスパイスを投げかけてくれたように思います。 私たちは毎日同じ場所で撮影をします。 それが習慣化されるというのは悪い事ではありませんが、同時に見慣れてしまう欠点も隠れています。 見慣れた視点というのは一期一会の子供達とは無縁です。 その時、その瞬間に合ったセッティングをする事が私たちに求められている事だと思っています。 被写体である彼女が新しい自分に出会ったという証を証明できる写真を残す為には 私たちカメラマンが被写体の特殊性に合わせる事ができる「幅」を持ちながら お互いの個性を組み合わせられる「奥行き」を表現し 質の「高い」ものへと昇華する事。それが「空間撮影」だと思っています。 余談ですが、感覚的要素の中身は「センス」ではなく、努力と準備の積み重ねだと個人的には思っています。
『 大人という名の子どもたちへ 』
2016/12/31
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No.24 Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Codi by Akimi Yoshikawa 「子どもと大人の違いって何ですか?」 「自分を客観視する事など出来ない」 「初めて観て感動した景色をその後複数回観た時のこと」 今回は上の三つと写真を絡めて話を進めていこうと思います。 皆さんもそれぞれ色々なものに執着をし、様々に興味を持っている事かと思います。 子供達にも興味や好きな事はその子達によりカードやフィギュア、ぬいぐるみやゲームなど様々あります。 そんな興味は、四十を過ぎ、いわゆる大人になった自分にもあって、恐竜やミニカーなどは幼い頃と見方や好きな度合いも変わっていません。 そんな中、毎日子供達と接していて思う事は「大人と子供とは何が違うのか?」「何が出来れば大人と呼ぶのか?」ということです。 容姿や経済的な部分などを除くと一般的には二十歳以上を「大人」と呼んでいますが、その年齢という事も除いてしまうとたいした違いは無いように思えます。 おそらく大人と子どもの違いなど無いわけでただ私たちは「大人として生きている」だけなのでしょう。 しかし、大人として生きる上で持たなければならないものはあると思います。 それは、「自分を客観視すること」です。 結論から先に言ってしまうと、自らが考え、想うことの全ては主観ですから自分を客観視することなど出来る訳がありません。 客観視をしているようでも、しているような「気」になっていることが多く、実際にはそれが出来ているのかは疑問です。 ですが、人の多くは自分を客観視しようとします。 それは大人として生きるということがそうさせるからです。 では、先より出来ないのでは?と言っていた「自分を客観視する」ということは何の事を言うのでしょうか?と尋ねられたら私はこう答えます。 「自分の足りていないことや非を認められる事」と。 しかし、言葉では簡単に言えますがこれはつまり自分で自分自身を否定する事でもあるので容易ではありません。 本来の客観である他者の意見も認めたくないと思うのもある意味人間として当然なことかもしれません。 ですが、認めざるを得ないきっかけが訪れた時、そこから逃げなければ本来の「大人として」というものに大きく近づくことになります。 私も今までの人生で二度、三度ほどその瞬間が訪れました。 とても辛い瞬間でもありますが認めると同時に「受け入れる」ということをする事で目の前が開く感覚がありました。 そこで初めて今の自分が10の内の5であって、そもそも10がそこにあるのだと実感するのです。 極々小さなきっかけではありますがそれは日々の撮影でも作ることが出来ます。 こちらを観ている彼と会うのはもう六度目。 彼の事は勿論よく知っているし、彼もまた私の事をよく知っています。 彼の眼に写っている私は、初めてシャボン玉を観てキラキラしているだけの状態ではなく無意識に私の新たな部分を観ようとしています。 私も彼の新たな部分を観ようとします。 それはまるで初めての絶景に感動し、その後その景色を観る回数を重ねる上でその景色の新たな部分や細部を観てしまう事と同じように。 75枚の中にあるこの一枚の写真は、彼もしくは親御さんのために撮ったのではありません。 この写真は私自身のために撮りました。 それは「彼という眼を透して自分を客観視するため」です。 なぜならこれは、私を知っている彼にしか出来なかったからです。 カメラを挟んでおよそ70cmの距離で眼と眼を向かい合わせる。 彼の眼を透すというよりもまるで彼の中から自分を観るような感覚です。 彼との温度を一定に保ち緩やかな気持ちで写真に納める。 その瞬間、それは自分の不甲斐なさを感じ、今現在の位置を確認し、次の目標の位置を定めることに繋がるのです。 あるきっかけがあったからこそ僕たちは度々こうして顔を会わせることが出来た。だから君の成長も自分自身をも観ることが出来た。 私はいつまでも「大人として生きる子どもでありたい」そう思っています。
彼を切り取る瞬間。
2016/12/31
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自分自身について、どれだけ知っているだろうか。 そんな疑問が、ふと浮かぶ。 自分自身について、というのは、内面的なものはもちろん、外面的なものも含む。 内面的なものというのは、実際自分が一番わかっているようで、あまりわからない部分の方が多いのではないかと思う。 自分が思っている「自分」と、周りから見た「自分」という印象を比べて見ると、意外な言葉が返ってくることも少なくない。 むしろ私は、そうした「周りの言葉」を聞いて、それがこの体に染み込んで、「自分が思う『自分』」という風に変換してきたのではないかと思う。 内面的な部分について書き始めるときりがないので、今回ここで取り上げたい外面的な話について、書いていこうと思う。 内面的なものと違い、外面的なものというのは、見ればその特徴がよくわかる。 けれどやはり、自分が見る『自分』というのは、いつだって鏡越しであったり、写真に写っているものだ。 左右反転しておらず、動いている『自分』というものは、周りの人からでないと上手く見えない。 自分自身で見える範囲は、首から下や身体の前面。顔や頭の上、背中はどうしたって見えない部分になってしまう。 では、見える範囲の『自分』は、どんな姿をしているだろうか。 私の手は小さく、指先も丸々としていて、爪も小さく丸っこい。 膝は日々の仕事でついていることが多いせいか、黒ずんでいる。 自分から見える範囲というのは、意外と狭い。 けれどそれをまじまじを見つめることはほとんどない。 人と話す時は、必ず目を見る。 どんな表情でどんな感情で話しているのかを感じるために。 人の仕草や動作も、細かく見ることがある。 その動作の先に、その人の言葉や感情が乗っかっているのを見落とさないように。 人に対して、人は興味を示す。 けれど自分自身に対してはそこまで執心しないのはなぜだろうか。 仕事や趣味で、自分自身をより高めたいという人は、きっと時間やお金を費やしてより自分を素晴らしく見せる努力をしているのだろうけれど、私はその部類には入らない。 人の目や周りの評価をとても気にする性格の割に、自分自身に興味があまりないのだ。 好きな服や帽子はあるし、それを身に付けた姿を鏡で確認して、変なところはないかとチェックはする。 かと言ってオシャレが特別好きというわけでもなく、流行りを追いかけるわけでもない。 マイペースに、私は『私』として、無理せずある程度着飾りたいと思うのだ。 ライフスタジオに入り教わったことは、「自分を出しなさい」ということだ。 写真を撮るためには、その被写体のことをよく知らないといけない。 よく知るためには、相手に心を開いてもらうことが必要だ。 そのためには、まず自分自身が心を開き、自分の姿を見せることで、信頼を得ることだ、と。 最初の頃に比べて、撮影中に肩ひじを張らずにいられることがずいぶんと多くなった。 子供達といろんな話をすることが楽しくて、時には突っ込みを入れたりなんかして、その場で誰よりも笑っているということが増えた。 それもきっと、私を見せるということなのだ。 大人になると、なかなか自己表現というものが難しくなる。 感情だけではなく、理性や周りの目を気にしてしまうと、ストレートに伝えることに躊躇いを感じてしまうのだ。 撮影に来てくれる子も、幼いころからそうした雰囲気を持つ子が時々いる。 撮影中はなんの遠慮もなく、思い切りはしゃしで笑って、遊びまわってくれていいんだよ、と思う。 8歳の彼は、スタジオに入った時から誰よりも自由に動き回っていた。 「勝手に触っちゃダメ!」と両親に叱られながらも、興味のあるものにどんどん手を伸ばす。 三兄弟の長男と言うこともあり、もしかしたら普段は我慢することも多いのかもしれない。 撮影中も、ふざけている場面が多く、それでも彼らしいなと感じたのだ。 けれどいざソロ撮影になると、よくあるパターンで、さっきまでの元気はどこに行ったのか?と思うほどしおらしくなるのだ。 1時間と言う撮影時間では、彼の内面的なものを100%知ることは難しい。 その彼がふと俯いた時の、きりっとした眉の印象が強かった。 彼自身、普段は知ることのない彼自身の『部分』。 彼の知らない彼を、私は残すことが出来ただろうか。 Photo:Miya Coordi:Shiba
指先の描く未来。
2016/12/31
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まだ小さい頃、いくつか習い事をしていました。 私は三姉妹の真ん中で、小さい頃はなんでも姉の真似をしたがる子供でした。 だから習い事も姉の真似をして、エレクトーン、スイミング、通信学習もしていました。 唯一、私が自発的に習いたいと母にお願いしたのは習字で、それは三姉妹の中でも一番最後まで、どの習い事よりも長く続けていました。 今、スタジオに来てくれる子供達にも、よく「習い事はしてる?」と尋ねます。 時代としてそういう傾向なのかはわかりませんが、最近の子供達は本当にたくさんの習い事をしているなという印象です。 塾に通っているというのはほとんどの子供達が教えてくれますし、他にも2、3の習い事をしているのは当たり前のように、たくさんの習い事を教えてくれるのです。 「そんなに毎日習い事ばっかりで、遊ぶ時間がないんじゃないの?」と素直に聞いてしまいます。 私が保育園の頃は習い事なんでしていませんでしたし、小学校低学年の頃は、放課後学級のようなところで友達と遊び回っていました。 中学年、高学年では合唱団に入っていましたので、放課後は毎日その練習で音楽室で歌っていたものです。土日も友達の家に遊びに行くことが多く、母と姉妹達と出かけることも多くありました。 放課後は自由にたくさん遊べる時間がある方が良い!と思ってしまうのですが、こうして考えてみると、私もどちらかと言えば学外で遊ぶというよりも、学内で何かしている時間の方が長かったんだなと、改めて思います。 習い事と言っても、大変なことばかりではありません。 違う学年や学校の友達も出来ますし、そんなふうに思えば、より自分の世界が広がっていくのかもしれません。 いろんな人と出会い、いろんな影響を与え合って、豊かな人生にしたい。 そんな風に考え成長した私は、いろんな場所にも行ってみたいと思うようにもなりました。 大学は、地元山口から飛び出して大分県へ。 社会人になる時は名古屋まで足を延ばしてきました。 行く先々で出会う人出会う人、みんなとても個性的で刺激的で、笑いの堪えない人生を送ることが出来ています。 こうして20歳以上も歳の離れた子供達と出会うことが出来るのも、そうした人生の中で生まれた「カメラマン」という選択肢のおかげなのです。 「大きくなったら、何になりたい?」 どんな夢を持っているのだろう、どんな風になりたいんだろうという期待から、いつも私は子供達に尋ねます。 かわいらしい夢を教えてくれる子や、しっかりとした意志を持っている子、様々です。 そんな彼、彼女らに共通しているのは、今この瞬間、とても美しくきらきら輝いているということです。 目の前にいる彼、彼女から、私はまた一つ、幸せをもらうのです。 彼女もまた、そんなキラキラとした存在でした。 まだ始めたばかりだというバレエですが、その立ち姿からは一生懸命さと楽しさと、すこしの恥ずかしさが伝わってきました。 これから彼女はどんな人生を歩むのでしょう。 どんな場所でどんな人と出会い、選択し、成長して行くのでしょう。 幼稚園という枠組みの中では体験の出来ないことを、これからその場所でたくさん見つけて行くのでしょう。 まだぎこちないその指先が、しなやかに美しく曲線を描く時。 そんなもう少し先の未来。 淡く彼女の雰囲気に色を添える衣裳のように、たくさんの出会いが彼女の人生に色を添えてくれるといいなと思います。 やわらかなその光とその場所は、その時彼女の背中を優しく押しているようでした。 Photo:Miya Coordi:Shiba
記憶の、記録 Ⅱ 〜New Birth,
2016/12/31
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いつか遠い未来で、記憶を繋ぐ記録になるように。 生まれてきたばかりの「あなた」に注がれる、深い深い愛情と、 生まれてきたばかりの「あなた」からもらう、胸の奥がじんわりと温かくなるようなこの気持ち。 第三者の撮影者である筈なのに、いつしか目の前の家族の間で行き交う感情を、想いを、共有して、共鳴する。 愛おしい、という想いを、カメラを通して記録する。 大切な、記憶の、記録。 2016年12月末、新横浜店が1年間通して行ってきた『New Birth Baby撮影』は、一旦の終了を迎えた。 1年間、生後半年以下のBabyたちを見詰め続けた。その総数、60組。 元気な子もいたし、おとなしい子もいた。人見知りな子も、ずっと泣いている子も、ニコニコ笑ってばかりの子もいた。 第一子の子もいたし、たくさんのきょうだいに囲まれていた子もいた。赤ちゃん返りをしたお兄ちゃん、お姉ちゃんもいれば、生まれたばかりの弟や妹を見ながら、張り切ってお世話をしてくれる子たちもいた。 みんなみんな、父と母に、家族に、待ち望まれて生まれてきたBabyたち。 そのすべてのBabyたちにとって、家族にとって、その日の写真はどんな価値を持つことができるだろう。 あなたたちが、覚えておくことのできないくらいの、小さな小さな赤ちゃんだった頃の記憶。家族の誰もが、あなたを見て、触れて、いのちの重さを感じた。あなたが笑っていても、泣いていても、ただそこにいてくれるというそれだけが、こんなにも温かな気持ちにさせてくれるということ。 ひとは誰しもがこうして生まれ、時間を積み重ねて成長していく。 今、この時だけ。そんな一瞬を積み重ねながら、ひとの生きる時間は深くなっていく。 通り過ぎていくその一瞬を、留めおくことができるのが、『写真』であるのだと思う。 新生児撮影をやってみよう、という思い立ちは、新横浜店が『Baby撮影を中心とした店舗』と謳っている以上、ごく自然な発案だった。 Baby任せの『可愛い写真』ではなく、撮影者が主体的に構成する『普遍的な美しさ』の要素を用いてBabyを表現するということ。それを、試行錯誤しながらも実践していくことで、ライフスタジオにおけるBaby表現の新境地を開拓していくことが、Baby店舗たる新横浜店の命題だと思っていた。 衣装や小物を充実させながら、スタッフはBaby撮影の経験をひたすらに増やし、感覚的なBabyとのコミュニケーションや対応能力は身に付いてきた。しかし、他店舗でも日常的に撮影されているBaby撮影との決定的な違いが、明確であった訳ではないと思う。 だからこそ、ライフスタジオ新横浜店がBaby店舗としての専門性と特殊性を発揮するステージとして、『New Birth Baby撮影』が始まった。 私がライフスタジオに入社したばかりの頃は、『New born』という概念はあまり一般化されていなかったようにも思う。 特に、75カットから構成される原本という性質を持つライフスタジオの写真で、動きの少ない新生児を撮っていくことの難しさは、1年間『New Birth Baby撮影』を行ってきた今であっても感じる部分でもある。 PinterestやInstagramで目にするようなNew born photoの多くは、絵としてとても美しい。世界観が確立されていて、その1カットの為にライティングも小物もセッティングされ、完結している。多くの修正や合成を加えながら完成しているものもある。同じようにはできない、という言い訳は、幾らでもできた。 しかし、本来重要だったのは、その写真の『カタチ』を忠実に再現することではなかった。 見極めるべきことはいつも『本質』だ。New born photoの多くが、そのライティングや小物で作り上げた世界観を用いて表現したい、Babyという存在の本質。それを感じさせる写真。 Baby写真とは、一体何なのか、ということ。 それは、いのちへの敬意であり、存在の美しさをありのままに表現する、ということだったのだと、思う。 Babyにとっても、家族にとっても、愛おしい記憶の、記録。 新横浜店で1年間追求してきた『New Birth Baby』の写真は、これに尽きた。 小さなBabyを前に、どうしようもなく沸き上がってくる感情が、論理的で客観的な写真の邪魔をしていると思った時期もあった。しかし、自分にとってはそれが、何よりの武器にもなっていた。 どうしようもなく、愛おしい。それは、きっと父母の感情への強い共感でもあり、主観的な感情であり、その時の『記憶』を代弁する。 それに対し、写真は、そのものだけであれば『記録』である。カメラという機械が、レンズから入る光を基に様々な機構を複雑に絡ませながら、瞬間的に絵として切り取る。数値として弾き出されるそれは、メカニズムに対してそう作用させたから、そう記録されたに過ぎない。 そう作用させる、そこに至る過程。それこそが、写真の本質的な部分であるのかもしれない。 何故そう撮ったのか?何故、その瞬間を残そうとしたのか?シャッターを押すきっかけは、『ひと』がファインダーを覗いている限り、『ひと』の主観に依っている。 私の主観は、目の前のBabyに対して、そのいのちに敬意を払い、その重さを感じ、泣いていても笑っていても、ただその子がそこで生きることを謳歌する、その存在の美しさに、沸き上がる愛おしさを覚える。その主観を基に、私はカメラを動かし、ファインダーの四角の中を整える。この想いを、記憶を、どうしたら写真に残していくことができるのかと模索しながら。 記録という客観に、記憶という主観が作用して残されるもの。それが、新横浜店で1年間撮ってきた、Baby写真だった。 60組目のBabyの、75カット目。 眠くてたまらないBabyは泣き、日はとっぷりと暮れていて、状況はそんなに良いという訳でもなかった。 だからこそ、最後の1カットの為の最適解を探し、今まで敢えて撮らなかった場所で、使わなかったものを使って光を作って撮った。 ライトボックスの光は頼りなく見えたが、モノクロームにすることでその存在感を増した。ドキュメンタリーを印象づける、コントラストの強いモノクローム。ライトボックスの光だけでは青っぽくなってしまいがちな状況下で、色彩をなくすことで光を強調し、顔を寄せ合うふたりの存在を印象づけた。 泣く妹をあやしてあげて欲しい、と頼むと、ライダーベルトで変身の真っ最中だった兄は、すぐさま妹の側に寄り添ってくれた。彼のことは、1才の頃から知っている。1才の頃の彼の面影が、生後1ヶ月半の彼女にも見て取れて、ほんの5年前の彼自身を、容易に思い出すことができた。それもまた、あの日の『記憶』を代弁する写真があったからこそ、より鮮明に思い起こされる。 あの時、小さな彼を見て、その仕草を見て、『可愛いなぁ』と思った。その彼が、5年後に、こうして兄になり、泣いている妹をあやしている。額から鼻へのラインも、目元も、とてもよく似たふたりの兄妹。 ふたりの顔が交差して、空間的な奥行きが生まれるような角度に回り込んだ。写真の四角の中に更に枠を作るイメージで、アイアンベッドのフレームを入れ込んで集中させる箇所を作る。 赤ちゃんだった彼が、頼れる兄になり、生まれたばかりの妹は、彼に良く似た顔で泣く。全力で、顔を真っ赤にして、妹がその存在を主張する。それを、まだお兄ちゃんになりたての彼が、穏やかに見守る。赤ちゃんだった彼と、赤ちゃんである妹の、今の姿。 それが、ただひたすらに、愛おしいと思う自分の想いが、この瞬間の写真を残させた。 この時、私の視点は、記憶の代弁者となる。 赤ちゃんだった彼の姿を鮮明に思い出した、あの日の写真のように、きっとこの写真が、この瞬間を呼び起こす。兄と妹がどんなに大きな喧嘩をしても、あなたたちの『きょうだい』という関係性の原点を象徴する写真として。 Baby写真がどんな価値を持つことができるかと、いつも考えてきた。その答のひとつを、赤ちゃんだった彼と、赤ちゃんである彼女が教えてくれた。 いつか、遠い未来で、写真を見返した時に呼び起こされる記憶。 生まれたばかりのBabyの、ありのままの存在の美しさ。蓄積される時間の中で、いつしか忘れてしまっても、写真という記録が呼び起こすことのできる記憶として、ありったけの想いを込めて、カメラを持つ。 大切な、記憶の、記録。 Life studio No,17 Shinyokohama photo by Reiri, / coordi by Yonezu
『始まるのはいつだって人の意志から。』
2016/12/30
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『始まるのはいつだって人の意志から。』 Tokorozawa Photo Photo by Satsuki Kudo Coordinate by Lisa Arai 私は時々、写真を撮っていると思うことがあります。 人が心を動かされる写真とは何なのかを。 人は何を見て、何を感じ、心が動くのかと。 それは形の美しさや趣向の凝り方なのか。 それとも、それら物理的・技術的なものの一切を超えた感覚的に訴えかけることができる目に見えない何かなのか。 結論から言うと、それはその全てであると言えると思います。 形が美しくなければ、人は共通した美しさを感じることができませんし、 撮りたいものを表現をするためには、趣向を凝らす必要があるかもしれません。 そして、何よりもその写真に感覚的に訴えかける力がなければ、その写真に惹かれるものがないからです。 写真を撮ってお客様へ提供するという仕事を6年間も続けていると、 経験的に「ああ、これは良い写真だな。」と思う写真に何回か出会うことがあります。 その「良い写真」とは何かとは、様々な要素があります。 撮っている人が皆違う人なので、その写真によって要素のバランスが異なりますし、 毎回違う被写体の美しさを表現するためには、決して形だけでは測れないものがあります。 それは何なのかと漠然と考えていた4年前のこと、私はある文章を読む機会がありました。 かつて、Mr.Leeが書いたカメラマン教育の文章で『2012年撮影者変化発展プログラム』というものがありました。 ライフスタジオの写真とは何か、ライフスタジオの撮影者とは何なのかを知りたかった私は、この文章を読んですっきりとした答えを持つことができました。 その中にこんな文があります。 "一般人を対象にするスタジオでは撮影者を上手な人と下手な人、 または、有能な人と普通の人程度の2つの段階で区分している。 ならば、それ自体を決定する基準は何なのか?いろいろな基準があるだろうが、 「自分が自ら条件を作ること」と「あるがままの条件から探すこと」では、勝負が分かれると考える。 [自分が新しい条件を作ること]は 自分の意志が積極的に介入されているということから価値が発生する。 ある条件だけで探すことは、ほとんどがコピーと同じであるが、 [自分が新しい条件を作ること]は創造であり、無限の可能性を含んでいる。 私達は人を対象にしている。 人は、自分がどんな人生を生きてきて、どんな価値観を持っているのか書かれた本を持って歩いているわけではない。 短い時間の中でその人に対する情報取得と共に分析が同時になされなければならない。 そして、同意を得る過程がなければならない。 あたかも精神科治療のために催眠療法を使用し、その人の内面にあるものを表に出していくことと同じだ。 より多くの情報と正確な判断をすればするほど、私達が写真で表現できる可能性は高くなるようになっている。 人間は普遍性と特殊性とを同時に持っている。人間が持っている普遍的価値は誰にでもあるが、一人一人違う。 このような普遍性と特殊性の結合が、その人が存在している美しさであり、私達はそれを表現する義務がある。 被写体が持っているものを捕らえ、外に表現することが条件を作ることであり、散らばった状況に魂を与えることは、 発する言葉やポーズのような撮影者の技術である。 人に集中するということは、実践を基盤にしている。 これは、単純に撮影過程で起きている人間関係に限ったことではない。 私達が息をし生きているすべての部分に、いつでも同じ基準と行動が適用されなければならず、撮影過程ではより真正性が含まれた実践を必要とする。 人間を顧客として対象化しないこと。 慣れないために常に自分を新しい条件に追いやること。 人間と社会に対する勉強を面倒くさいと思わないこと。 原則と目的を失わないこと。" 一般的な商業写真という括りに苦しめられてきた私にとって、この文章は衝撃的でした。 それと同時にとても気持ちが楽になったのを覚えています。 私が知っている商業写真とは、自分の意志とは別に 「wedding写真では、この場所で、このポーズで、この光で、キスシーンと指輪のシーンは必須で撮らなければならない。」、 「baby写真とは、おむつ写真がなければ、笑顔のクローズアップ写真がなければいけない」と言ったような、 weddingとはこういうものだ、babyとはこういう存在だというような固定概念を押し付けられているようでした。 それがこの文章では、ライフスタジオの写真に重要なのは、「人」であり、 その「人」を見て、接し、深く入り込み、その中で撮影者自身の「意志」を以て、 写真を撮ることでその写真に価値が発生するとあります。 その「意志」があるから、写したいものをその人の「意志」を以て表現する。 その「意志」があるから、インテリアやライトボックスや他者に制限されず、 自らの「意志」を以て外にあるものの条件を変化させることができる。 他者も同じ人だから、自分の「意志」に自然に不快な思いをさせず同意を得てもらうために、「人」に深く入り、 その唯一無二の関係性を以てさらなる自由を得ること。 それがライフスタジオの原則と目的であること。 それがライフスタジオの写真の価値であること。 原則と目的のもと、自ら「意志」を持つということは矛盾しているように見えるし、 文面から見ると不自由そうに見えるかもしれません。 しかし、私たちは自ら始まる「意志」を尊重すると同時に、 他者の「意志」を尊重せずに本当の意味で「自由」になることができません。 全ての存在を排除せず、否定せず、自らを変化させ、 外側を変化させる能力を持つ人が本当に「自由」な人であると思います。 そうすることで自分の「意志」を無理やりではなく自然に人生に、写真に反映することができるのではないかと思うのです。 そう。 「良い写真」とは、撮影者の意志が無理やりではなくごくごく自然に反映されていることが基準の一つではないかと私は考えました。 volvoさんが以前、「良い写真とはそつのないこと」だと定義しました。 また「その一枚専用に写真が作られていること」だとも言いました。 「そつがない」とは「不自然さがないこと」、「その一枚専用に作る」とは「自らの意志で条件を変化させていること」を意味します。 そのためには、技術的な部分の練習も必要だし、深く考え自ら結論を出す感性的な部分の学習も必要です。 自分の意志を表現するには、技術的な手数と知識、そして自分の意志が何かを知るための哲学がなによりも重要です。 そうして人の「意志」のもと、人の「手」、人の「考え」が入り創られたものには魂が宿ります。 それが人が自らの「意志」から写真という形から創り出した価値であり、 そこから滲む人の「意志」が形を超えた価値になるのではないかと思います。 意志とは形を作る原動力であり、そこから作られた形から人は作り手の意志を感じる。 そうやって人と人は、目に見えるものを超えて、価値を認め合い繋がっていくのかもしれません。 この原則と目的のもと、ライフスタジオの骨組みから教育までがすべて写真につながり、人生につながります。 この写真を撮るときに、考えていたのは「特徴的であろう」ということでした。 それは私自身の「意志」でもありましたが、被写体自身の存在感の「特殊性」を強く感じました。 この子は8歳で写真を撮られるのが好きな、いわゆる上手な子です。 しかし、それだけではなく話すだけではわからない、眼差しや表情、醸し出す雰囲気に この8歳の男の子から人としての深さを感じました。 この子の存在をただ認識するだけでは、きっと私の最大限の得意分野で撮っていたことでしょう。 しかし、ライフスタジオの原則と目的は「被写体の美しさ」や「被写体の唯一性」を、 自らの意志を以て最大限表現するということです。 よって、私はここで表現するのはこの被写体の特に際立った存在感であると考え、 いつもは使わない洗面所の1mほどしかない隙間の、誰も注目されていなかった美しい光で撮ろうと思いました。 狭く、光も美しいとはいえシビアな場所は非常に「特殊的」であり「特徴的」です。 この光で撮るということは、いつもと違う撮り方になるのでいつもと違う美しさの写真を撮るということです。 それゆえ、私がこれまで撮ってきた得意のふんわり明るい写真ではなく、 敢えて顔に影を作り光と表情を強調するという表現をしました。 光を当てる範囲に気を付け、鼻筋まで光がいかないよう、 かつこの被写体を際立たせるために睫毛にはきれいに光が当たるように、 後ろ斜めから入る自然光の角度に気を付け、さらに光と影を強調するための前ぼかしをいれました。 そして被写体の立ち位置を設定し、声をかけます。 光と画角、ポージング、そして表情がすべてマッチしたその時に、その子の深さに触れたような瞬間でした。 1シーンを撮っていく中で、笑顔も節目がちな表情もお手の物の彼ですが、 くるくると表情を変えていく中でまっすぐにこちらを見る目にハッとさせられたのが、 この被写体の特殊的な雰囲気だったと感じました。 この表情をこの子らしく特徴的に撮るために、こちらもその被写体らしさを撮りたい意志を持ち、 敢えていつもとは違う特徴的な撮影の仕方を執ること。 それを毎日繰り返し行うことが、写真だけではなく、人との接し方、 広く見れば人生を生きる姿勢につながるのだと、写真を撮っていると感じます。 日々何か価値を生むということは、面倒くさいし、疲れるし、簡単なことではありません。 しかし、価値とはそれにも勝る楽しさや喜び、嬉しさがあるのだと感じます。 それはいつも、誰かから刺激を与えてもらったときだけ変化するのではなく、いつだって自らの意志から始まるものです。 哲学エッセイを勉強していると、矛盾の話が出てきます。 物事や事物における矛盾とは、変化するか変化しないか両方の面を持っており、 変化するにはそのもののなかに変化に向かう要素が必要なのだとあります。 人に置き換えるとその要素とは「意志」なのではないかと思います。 「意志」がなければ、いくら外側から知識や技術を教えても、話をしてもその人のアンテナが作動せず、 外的要因は内へは入りません。 だから、変化をさせるのは外側の要因ではなく、自分自身が「意志」を持ち、 その「意志」にまっすぐに自由に生きているかどうかになります。 写真を撮るということは、自分の内面に正直であることです。 いつだったか、ミンさんにどうすれば自分の写真を撮れるようになるのかお話を聞いたことがあります。 それはいたってシンプルな答えでした。 「簡単ですよ。 自分が撮りたいと思った瞬間に、自分が心惹かれた瞬間に、ただシャッターを切ればいいんです。」 その言葉には、シンプルですがライフスタジオの原則が力強く滲んでいました。 そのシンプルな言葉を実践するには、日々自らの条件を変え、常に強い意志を持つことが必要となります。 だけどそのことを楽しめれば人はいつだって自由になれる。 それを始めるのはいつだって人の意志から。
『10年後もあなたを愛しています』
2016/12/30
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人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・ ライフスタジオはお客様とスタッフが一緒に楽しむ人生の写真館として、2006年青山店に一号店をオープンしました。当時は、ライフスタジオのようなハウススタジオは日本には無く、当日お渡しでデーター販売しているところもありませんでした。10年前はライフスタジオもまったく認知されておらず、無料撮影イベントをしたり、チラシを作って配っていたり、スタッフの身内を呼んで沢山撮影をしていました。そんな中、当時流行っていたMIXIというSNSで少しづつライフスタジオの口コミが広まり、おかげさまでオープン3年目からは平日も予約が埋まるようになってきました 私は、ライフスタジオがオープンして3年目の年に入社しました。入社当時は色んなことが手探りの中、自分のできることは何か?ということに必死だった気がします。でも、今思うと必死だから楽しかったのだと思います。まさに、自分の天職はこれだと思えた時期でもありました。なぜならば、毎日素敵なご家族と出会い、色んな話をしながらその人の人生に触れ、その人の思い出の1ページを一緒に増やしていくお手伝いができる仕事はまさにやりがいがあるにつきます。 そんな中、出会った喜多さんファミリー。最初に出会ったのは7年前です。成城店で出会って3回ほどご縁があり撮影に携わらせてもらいました。そこからはなかなか会える機会が減っていたのですがなんと、今年になってライフギフトを通じて5年ぶりの再会を果たすことができました。 ライフギフトは昔からライフスタジオを創業当時から支えてくださっている第二のスタッフのようなご家族を対象に越谷店に招待し、一緒に過ごす一日をお互いの思い出として分かち合い、お客様とスタッフの関係を越えてもっと仲を深めていこうという企画を今年ライフスタジオが10周年と言うこともあり始まりました。 また、お客様の要望に対応するだけの写真館、それ以上を夢見ているライフスタジオの企業理念を実現するべく始まったプロジェクトでもあります。 喜多さんとの再会はある意味運命だったかもしれません。 数ある写真館の中からライフスタジオを選び続けてくださり、また多くの人にライフスタジオの魅力をスクラップブッキングの講師という立場としても伝えてくださり、写真を通じて思い出を楽しむライフスタイルに私は憧れています。 そんな喜多さんファミリーも今年で結婚10周年を迎えるということで、お祝いもかねて家族でもう一度あのときの愛を確かめあう、『リマインドウエディング』を撮影させて頂きました。日本にはまだ広まっていない新しい文化ですがお隣の韓国では、3年、5年、10年の結婚記念日の日に、もう一度ウエディングドレスを着て家族で写真を撮るという風習があるそうです。子供たちにも囲まれ、夫婦そして家族の絆を確かめ合う節目としても本当に素敵な時間を一緒に過ごさせていただきました。 照れているお二人を見て、わたしは、これが幸せなんだなということを実感しました。恥ずかしいと言う感情は日常生活の中にはないギフトなのかもしれません。 大切なことが何かを確かめ合うという空間としてもこれからライフスタジオは多くの人に愛される写真館として発展していきたいと思います。
『奇跡の集合体』
2016/12/30
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Photo by HIRO Coordinate by Choi Eunpyo & Lisa この世界に当たり前なことなど存在するでしょうか? ふと見上げた空に広がる景色。 同じ色、同じ雲の形、同じ空模様は二度と現れないでしょう。 たまたまつけたラジオから流れる音楽に心救われること。 もしチャンネルが一つでも違えばその音楽に出会うことはなかったでしょう。 今日出会えた人々。 人は生きているうちに一体何人の人に出会えるのでしょうか。 70億人の中で巡り会うその限られた出会いは奇跡的な確率でしょう。 私がここに存在し、この世界に生きていることに当たり前なことなど一つもないはずです。 当たり前というメガネをかけてしまえば、見えてくる世界は色を失い、つまらない日常になってしまうかもしれません。 そのメガネを外せばそこには輝かしいたくさんの奇跡が溢れています。 きっと人生はそんな数えきれない奇跡の集合体なのでしょう。 写真とは人生に無数に散らばった奇跡の証を、時間と空間を超えて残すことができる物なのかもしれません。 シャッターを切り、撮像素子に光が当たっている時間は1/100秒など本当に一瞬です。 その一瞬にたくさんの要素が写真という四角いフレームの中に詰め込まれます。 被写体、背景、光、色、構図、撮影の時間帯・・・。 一つ一つがその一瞬にそこに存在したということは当たり前なことではなく、どれも奇跡的なことです。 無数に散らばったその奇跡をどう集めて、いつどうやって四角いフレームの中に写していくのか。 カメラを握った人間にその選択権が委ねられ最終的にアウトプットをする責任が与えられます。 二度と同じ瞬間はない、大切な一瞬を収める重要な責任がカメラマンにはあるのだと思います。 ライフスタジオでカメラマンとして毎日カメラを握らせてもらい、当たり前のようにたくさんのお客様と出会わせてもらい、撮影をさせてもらっていますが、果たして自分はどんな奇跡の集合体を残すことができるのか。 常にその責任の大きさを考え、見つめ直していかなければならないでしょう。 今回の写真の被写体との出会いは午後3時頃。 12月のこの時間帯は、もう太陽が沈み始め西日が強く差し込む時間帯です。 まだあどけない8歳の笑顔の中に、少しずつ大人への道を進み出そうとするようなちょっと大人びた雰囲気が印象に残るお兄ちゃんでした。 彼には3歳の妹がいて今回の撮影は妹の七五三がメインでしたが、本当はお兄ちゃんも撮影をしたがっていたということで、着付けをしている間にお兄ちゃんの撮影もすることになりました。 カウンセリングの報告を聞いて私は 「彼の雰囲気をこの時間帯しか撮れない強い西日の光に包まれた写真で表現してみたい」とすぐに思いました。 所沢には外にガレージがありますが、基本的に小学生以上の子でなければ使用しないので、この時間帯に適切な年齢の子が来たらこの西日を使って撮影をしようとイメージしていて、そのイメージとすぐに合致しました。 ちょうどこの時間帯に撮影をさせてもらうことになった巡り合わせも一つの奇跡だったでしょう。 ガレージに移動し、シャッターを開けて中から外を見るとそこにはイメージしていたキレイな強い光が差し込んでいました。 光の準備は整いましたが、撮影を開始する前にもう一つ今回の写真においてポイントとなったことは意図的に配置されたギターです。 ライフスタジオの写真撮影は一人では行わず、必ずコーディネーターと撮影に入り、一緒に撮影を作り上げます。 コーディネーターとカメラマンのイメージがどうクロスして一つの写真を作ることができるのかもとても大きなポイントとなります。 被写体が着ている衣装は持ち込みの衣装で、その姿はイギリスのロックスターを思わせるような印象的な衣装でした。 この時にコーディネーターで入ってくれたウンピョさんがその彼のイメージに合わせて、すかさずガレージにあるギターを彼の横に配置してくれたのです。 当たり前にペアで撮影に入っていますが、その時に一緒に撮影に入っていることも一つの奇跡だと思います。 光、被写体、コーディネートと、撮影をする舞台は整いました。 あとはどうそれを写真の中に収めていくのかです。 まず一番に考えたのは、初めからイメージしていた光の部分です。 逆光になるように構え、イメージする光に包まれるような表現になる太陽光の入射角を探しました。 また、レンズフレアが現れるように位置と露出を調整しました。 レンズフレアが追加されることにより、ただ明るい逆光ではなく輝く一瞬という動きのある光の表現を加える効果になっています。 次に構図です。 被写体とその横に配置されたギターを左右対称のバランスで画面構成することで写真の左右の重さのバランスをとっています。 今回は特に光を中心とした表現にしたかったので画面全体を二分割した半分に光が差し込む余白のスペースを構成しました。 背景には写り込んでいる木と上部のシャッターの部分が入り、広く構成された余白の部分に要素を配置することで写真全体のバランス的にイメージを締めると共に、ただ光と被写体という構成だけではなく写真の中に何かストーリーを感じさせるような要素になっています。 そして最後にポーズです。 イメージカットとして撮影するために被写体に「自分でジャケットを直してみて」と声をかけ、彼がうつむきながらジャケットに手をかけた瞬間、ファインダー越しにストーリー性を感じシャッターを切りました。 まるでこれからギターを手にし、大きなステージへ向かう準備をするミュージシャンのような。 まさにそれは、これから大人への道を進み出し、未来へと進んでいく彼の希望が表現に現れた瞬間でした。 今回の写真は、被写体・光・時間帯・コーディネーターなど一枚の写真を構成する一つ一つは当たり前なことなど何もなく、貴重な奇跡の集合体であることを再認識させてくれた一枚でした。 特に今回は光を観察し、スタジオの中のまだ知らない光を探そうと取り組んでいる中で見つけることができた瞬間でした。 もっともっと一つ一つのことを注意深く観察し、自分がかけている当たり前というメガネを外すことができればもっと多くの奇跡を見つけ出すことができるのでしょう。 写真の中に写るたくさんの奇跡の証。 その中でも一番の奇跡は被写体がそこに存在し、生きているということだと思います。 そして、そんな奇跡に毎日出会い、撮影を担当させてもらうことは本当に当たり前なことではないはずです。 被写体に何を感じ、そこに散らばった無数の奇跡をいかに紡いでどんな奇跡の集合体を生み出すのか、その最終的な権限はやはりカメラマンに委ねられています。 ライフスタジオに大きな期待を抱いて来てくださる方々の想いを考えると、その権限の対にある責任の大きさに毎回緊張感が押し寄せます。 しかしその反面、次は一体どんな奇跡と出会えるのだろうか、そんなことを考えると期待に胸が膨らみます。 もう2016年も終わり、新しい年を迎えます。 来年もどんな奇跡と出会い、どんな奇跡の集合体を残していくことができるのでしょうか。 今から楽しみにしながら、その時のために日々準備をしていきたいと思います。
『今日もどこかで』
2016/12/29
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HairMake:Kaori Coordinaite:Koba photographer :Ryo 心残りがあるとすれば、最後に彼女の写真を撮ることができなかったことでしょうか。 新松戸での出会いからもう何年も時間が経った。 私がライフを去ることも一番言いにくかった。 結婚式まで撮ると約束したことはまだはっきりと覚えている。 そんなことを言ってもらえたことがすごく光栄であり、写真を撮る喜びだと感じた。 彼女からは実にたくさんのものをもらった。 お客さんとの繋がり、そして子供と心通わせる素晴らしさ、家族の美しさ。 早い段階で彼女たち家族に出会えたからこそ今の自分があるとも言えます。 ですが、辞める事実を別れにしてしまうのも自分自信の行動次第だと考えています。 人との繋がりはきっとどこにいるかが重要じゃなくて、どのようにつながっていくかが重要なのだと思います。 いつか再開した時私は今よりも優れたカメラマンであり、人としても成長していなければいけません。 先日青葉のスタッフと別れる時、これからは広い社会を舞台にまた会おうと約束をしました。 どこにいても忘れなければいつかまた会える、そして写真は人をつなげる力があると信じています。 全てにありがとうを、今はそんな気持ちです。 また会いましょう。 今日もどこかで写真、撮ってます。
「とまどい」
2016/12/26
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初めての写真撮影 ママのお膝は安心するんだ だからね、離れたくないんだ。 けどね、本当はね、ちょっと気になる シャボン玉…。 ものごとの最初の一歩には、誰しもとまどいがあると思います。人によってはほんの少しだったりするかもしれませんが、安心した場所から、知らない世界に一歩を踏み出すというのは、勇気のいるものです。 先のことは誰にもわかりません。だからこそ、不安になることもあります。けれども、だからこそとまどいの先は楽しみもあるのです。 優しく温かく応援してくれる人がいるからこそ、見守ってくれる人たちがいるからこそ、そんなとまどいを乗り越えて、未来や自分を信じ、新しいものに手を伸ばし、初めの一歩を踏み出す勇気がでるのではないかと思います。 この子はちょっと人見知りちゃんでした。お姉ちゃんの3才の七五三撮影で一緒に来て、それぞれのソロ写真と姉妹写真、ご家族写真をとりました。お姉ちゃんのソロ写真、家族写真、姉妹写真と順番に撮って、いよいよこの子のソロ写真撮影。その1枚目の写真です。実はこの写真、ママのお膝にちょこんと座って、様子を伺っています。その背中と横顔が、今の気持ちと興味、これからの選択と歩みを予感するようで、その姿が愛らしくて、シャッターを切りました。 ママに座ってる姿を表現したかったのではなく、とまどいつつもこの子がこれから自分の足で歩んでいくその最初の姿を記録したかったので、あえてこの子のみを写しました。 明るい窓を背景にすることで、とまどっている暗い様子ではなく、これからの前向きなとまどい、歩みを想像できるよう、今はそっちには目もくれないけれど、窓の先と明るい未来が連想されるものになるようにしました。 一人ひとりの今を、未来への力になるような写真を、撮っていきたいと思います。 mito Photo Photographer: erika Coordinater: yuki
[家族の今を形に残す]
2016/12/25
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[家族の今を形に残す] 家族全員が写っている写真はきっとあまりないだろう 写真を撮るとなると子供が居る家族だとつい子供だけを撮影してしまったりシャッターを押す人が写っていなかったりして自分の小さな頃から今までの写真を見ても家族写真は全体の3分の1ぐらいしかなかった。 だからこそ家族全員が写っている写真を大切にしたいと思っている。 それぞれの家族にはそれぞれの歴史があるだろう。例えば去年は2人での撮影だったが今年は新しい命の誕生で3人家族になっていたり、また新しい命の誕生で4人家族になっていたり、子供が大きくなって1人で立っている姿になっていたり、ママの身長と同じぐらいに子供の身長が伸びていたり去年とは違った家族の姿を見せてくれる。 変わっていく家族の姿、変化し続ける家族の姿、全く同じ姿で撮影する事は出来ない。 もう二度と同じ姿で撮影することなど出来ない。 泣いていたり、すねていたりする姿だってその時にしか撮影出来ない写真だからこそ全てが笑顔でカメラ目線の家族写真だけが素敵ないい家族写真ではないと思う みんなが笑顔での写真より何かポイントがあった姿のほうが時間が経ってから見返したときにも会話が広がるしありのままの姿を残すことが出来ている。 一生に一度しかない今の本来の家族の姿を写真に残すことも大切だと思う 過去にも未来にも撮影出来ない今が写っている家族の姿を写すことが出来る。 そんな色々な家族の歴史を感じる事が出来るのが家族の「今」が写っている家族写真ではないのだろうか。 他の家族には絶対に真似をする事が出来ないこの家族にしか表現できない写真 常に終わりがない家族の歴史に触れられること それを形に出来ること それの空間に一緒に入れること その瞬間を私がシャッターを切れること・・・etc カメラを握る私達の特権ではないでしょうか もう何十組、何百組、と撮影をしただろう。 毎日色々な家族に出会い撮影が出来るこの喜び そこに終わりはないからこそ完成形が無いからこそ私は家族写真を追求し撮り続けて行きたい 家族写真の魅力にはまっているのかもしれない 何十組、何百組、何千組と撮影し続けたい これからも私の写真で沢山の家族を笑顔にしたい,会話の一部になりたい、幸せにしたい 色あせる事のない家族の一生の宝物を一枚一枚増やしていけるように mito Photo Photographer: yuki Coordinater: karen
故郷
2016/12/1
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故郷はどんな場所ですか? 思い起こす場所は、生まれたという、ただそのひとつの場所だけではないということを、 出会う人、出会った場所で感じたことが誰しもあるのではないでしょうか。 写真に写る彼女たちは、故郷が全員違います。 通っている大学が同じで、日本各地からこの下関に集結しており、 せっかくこの場所で仲良くなったから成人の写真をみんなで撮りたいということで来てくれました。 発起人はメンバーのひとり、なっちゃん。 かつてライフスタジオで撮影していた女の子、というかもう女性ですね。 予約の段階から、とうとう撮影してきたこどもたちも成人か。。。っとライフスタジオの10年を感じつつ、 振袖女性6人の撮影はわたし自身も初めてであったので、当日まで想像に想像を重ねて準備をしました。 今回の撮影で、いい意味でいろいろ覆されました。 成人式の写真は生まれ故郷の親族がいる場所で前撮りしたり、成人式ついでに少し撮るだけのものだと、 自分の成人の時を思い出してもそう思っていました。 彼女たちもまた、地元の成人式に行くのでその際も写真を撮ると言っていたり、既に前撮りを終えている方もいました。 ただ、それとは別に、大学の仲間と一緒に成人写真を残したいとのこと。 いくら思い返しても、自分が20歳の頃働いていたのもありますが、その頃一緒に過ごしていた仲間と成人の写真を撮ろうという話にはならなかったなぁと思いながら、 地元の友達とも成人式でそれぞれ持参のカメラや、それこそ今のものとはくらべものにならない画素数の携帯で撮っただけであり、 写真館で撮ってもらった自分の成人写真はというと…どこにしまったかもわからず、むしろ出てきてほしくないと思うほどに自分が自分でないような写真ばかりで、 そりゃ「卒業写真」という青春の歌はあっても、【成人写真】という歌がないのにも納得するようなものでした。 だからこそ、この6人の撮影をしながらただただ思ったこと。 羨ましい!!!! 人生の節目の成人写真を封印したままであるわたしが言うのはなんですが、ただただ羨ましかったのは、若さだけではなく、その想いでした。 生まれ故郷ではないけれど、今の場所で出会った仲間と写真を残そうと決めた想いが現実となり、撮影者のわたしたち自身も本当に楽しくてたまらない時間の中で撮影したこの写真たちは、 時が経っても見たいと思うな、見返しちゃうよな、、、と思えたからです。 成人6人を同じひとつの空間に迎えるにあたって、小さくてこじんまりしている下関店を、最大限広く見えるように努力しました。 着物の撮影なので、余計なことはせずに存在感を重視しつつ、 撮影開始の6時間も前から支度をしていた彼女たちの着物が崩れてしまう前に…と思って真っ先に撮影した後ろ姿が、 6人なのにひとつに見えた瞬間、撮影開始3分くらいでしたが、わたしたちはこれからまた次の20年を想像して、「40歳になったらまた、このメンバーで撮影したいね」と話していました。 ここに映るひとりひとり。 このひとりひとりが、この20年間、たくさんの人や環境に育まれて、今こうして出会っているということ。 なんだかそれだけで嬉しかった、と言ったら変に思われるかもしれませんが、 大切に想いあうのは家族でも仲間でもおんなじだなぁと、この人とこの人が出会えてよかったと思っては嬉しくなるものです。 彼女たちはまたいつかこの先、故郷へ戻ったり、新しい場所へ行くのかもしれません。 想いを馳せる場所、心落ち着く場所が故郷になりえるのなら、今過ごしているこの場所も、ひとつのふるさとになるのでしょうか。 10代から20代を過ごすこの町で、これからも彼女たちの人生にとって素敵な出会いがありますように。 lifestudio shimonoseki kawano yoh (※成人式の写真や友達同士の撮影を行っていない店舗もあるので、予約前に事前のお問い合わせをお願いします。)
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