フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
記憶の、記録 Ⅱ 〜New Birth,
投稿日:2016/12/31
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いつか遠い未来で、記憶を繋ぐ記録になるように。
生まれてきたばかりの「あなた」に注がれる、深い深い愛情と、
生まれてきたばかりの「あなた」からもらう、胸の奥がじんわりと温かくなるようなこの気持ち。
第三者の撮影者である筈なのに、いつしか目の前の家族の間で行き交う感情を、想いを、共有して、共鳴する。
愛おしい、という想いを、カメラを通して記録する。
大切な、記憶の、記録。
2016年12月末、新横浜店が1年間通して行ってきた『New Birth Baby撮影』は、一旦の終了を迎えた。
1年間、生後半年以下のBabyたちを見詰め続けた。その総数、60組。
元気な子もいたし、おとなしい子もいた。人見知りな子も、ずっと泣いている子も、ニコニコ笑ってばかりの子もいた。
第一子の子もいたし、たくさんのきょうだいに囲まれていた子もいた。赤ちゃん返りをしたお兄ちゃん、お姉ちゃんもいれば、生まれたばかりの弟や妹を見ながら、張り切ってお世話をしてくれる子たちもいた。
みんなみんな、父と母に、家族に、待ち望まれて生まれてきたBabyたち。
そのすべてのBabyたちにとって、家族にとって、その日の写真はどんな価値を持つことができるだろう。
あなたたちが、覚えておくことのできないくらいの、小さな小さな赤ちゃんだった頃の記憶。家族の誰もが、あなたを見て、触れて、いのちの重さを感じた。あなたが笑っていても、泣いていても、ただそこにいてくれるというそれだけが、こんなにも温かな気持ちにさせてくれるということ。
ひとは誰しもがこうして生まれ、時間を積み重ねて成長していく。
今、この時だけ。そんな一瞬を積み重ねながら、ひとの生きる時間は深くなっていく。
通り過ぎていくその一瞬を、留めおくことができるのが、『写真』であるのだと思う。
新生児撮影をやってみよう、という思い立ちは、新横浜店が『Baby撮影を中心とした店舗』と謳っている以上、ごく自然な発案だった。
Baby任せの『可愛い写真』ではなく、撮影者が主体的に構成する『普遍的な美しさ』の要素を用いてBabyを表現するということ。それを、試行錯誤しながらも実践していくことで、ライフスタジオにおけるBaby表現の新境地を開拓していくことが、Baby店舗たる新横浜店の命題だと思っていた。
衣装や小物を充実させながら、スタッフはBaby撮影の経験をひたすらに増やし、感覚的なBabyとのコミュニケーションや対応能力は身に付いてきた。しかし、他店舗でも日常的に撮影されているBaby撮影との決定的な違いが、明確であった訳ではないと思う。
だからこそ、ライフスタジオ新横浜店がBaby店舗としての専門性と特殊性を発揮するステージとして、『New Birth Baby撮影』が始まった。
私がライフスタジオに入社したばかりの頃は、『New born』という概念はあまり一般化されていなかったようにも思う。
特に、75カットから構成される原本という性質を持つライフスタジオの写真で、動きの少ない新生児を撮っていくことの難しさは、1年間『New Birth Baby撮影』を行ってきた今であっても感じる部分でもある。
PinterestやInstagramで目にするようなNew born photoの多くは、絵としてとても美しい。世界観が確立されていて、その1カットの為にライティングも小物もセッティングされ、完結している。多くの修正や合成を加えながら完成しているものもある。同じようにはできない、という言い訳は、幾らでもできた。
しかし、本来重要だったのは、その写真の『カタチ』を忠実に再現することではなかった。
見極めるべきことはいつも『本質』だ。New born photoの多くが、そのライティングや小物で作り上げた世界観を用いて表現したい、Babyという存在の本質。それを感じさせる写真。
Baby写真とは、一体何なのか、ということ。
それは、いのちへの敬意であり、存在の美しさをありのままに表現する、ということだったのだと、思う。
Babyにとっても、家族にとっても、愛おしい記憶の、記録。
新横浜店で1年間追求してきた『New Birth Baby』の写真は、これに尽きた。
小さなBabyを前に、どうしようもなく沸き上がってくる感情が、論理的で客観的な写真の邪魔をしていると思った時期もあった。しかし、自分にとってはそれが、何よりの武器にもなっていた。
どうしようもなく、愛おしい。それは、きっと父母の感情への強い共感でもあり、主観的な感情であり、その時の『記憶』を代弁する。
それに対し、写真は、そのものだけであれば『記録』である。カメラという機械が、レンズから入る光を基に様々な機構を複雑に絡ませながら、瞬間的に絵として切り取る。数値として弾き出されるそれは、メカニズムに対してそう作用させたから、そう記録されたに過ぎない。
そう作用させる、そこに至る過程。それこそが、写真の本質的な部分であるのかもしれない。
何故そう撮ったのか?何故、その瞬間を残そうとしたのか?シャッターを押すきっかけは、『ひと』がファインダーを覗いている限り、『ひと』の主観に依っている。
私の主観は、目の前のBabyに対して、そのいのちに敬意を払い、その重さを感じ、泣いていても笑っていても、ただその子がそこで生きることを謳歌する、その存在の美しさに、沸き上がる愛おしさを覚える。その主観を基に、私はカメラを動かし、ファインダーの四角の中を整える。この想いを、記憶を、どうしたら写真に残していくことができるのかと模索しながら。
記録という客観に、記憶という主観が作用して残されるもの。それが、新横浜店で1年間撮ってきた、Baby写真だった。
60組目のBabyの、75カット目。
眠くてたまらないBabyは泣き、日はとっぷりと暮れていて、状況はそんなに良いという訳でもなかった。
だからこそ、最後の1カットの為の最適解を探し、今まで敢えて撮らなかった場所で、使わなかったものを使って光を作って撮った。
ライトボックスの光は頼りなく見えたが、モノクロームにすることでその存在感を増した。ドキュメンタリーを印象づける、コントラストの強いモノクローム。ライトボックスの光だけでは青っぽくなってしまいがちな状況下で、色彩をなくすことで光を強調し、顔を寄せ合うふたりの存在を印象づけた。
泣く妹をあやしてあげて欲しい、と頼むと、ライダーベルトで変身の真っ最中だった兄は、すぐさま妹の側に寄り添ってくれた。彼のことは、1才の頃から知っている。1才の頃の彼の面影が、生後1ヶ月半の彼女にも見て取れて、ほんの5年前の彼自身を、容易に思い出すことができた。それもまた、あの日の『記憶』を代弁する写真があったからこそ、より鮮明に思い起こされる。
あの時、小さな彼を見て、その仕草を見て、『可愛いなぁ』と思った。その彼が、5年後に、こうして兄になり、泣いている妹をあやしている。額から鼻へのラインも、目元も、とてもよく似たふたりの兄妹。
ふたりの顔が交差して、空間的な奥行きが生まれるような角度に回り込んだ。写真の四角の中に更に枠を作るイメージで、アイアンベッドのフレームを入れ込んで集中させる箇所を作る。
赤ちゃんだった彼が、頼れる兄になり、生まれたばかりの妹は、彼に良く似た顔で泣く。全力で、顔を真っ赤にして、妹がその存在を主張する。それを、まだお兄ちゃんになりたての彼が、穏やかに見守る。赤ちゃんだった彼と、赤ちゃんである妹の、今の姿。
それが、ただひたすらに、愛おしいと思う自分の想いが、この瞬間の写真を残させた。
この時、私の視点は、記憶の代弁者となる。
赤ちゃんだった彼の姿を鮮明に思い出した、あの日の写真のように、きっとこの写真が、この瞬間を呼び起こす。兄と妹がどんなに大きな喧嘩をしても、あなたたちの『きょうだい』という関係性の原点を象徴する写真として。
Baby写真がどんな価値を持つことができるかと、いつも考えてきた。その答のひとつを、赤ちゃんだった彼と、赤ちゃんである彼女が教えてくれた。
いつか、遠い未来で、写真を見返した時に呼び起こされる記憶。
生まれたばかりのBabyの、ありのままの存在の美しさ。蓄積される時間の中で、いつしか忘れてしまっても、写真という記録が呼び起こすことのできる記憶として、ありったけの想いを込めて、カメラを持つ。
大切な、記憶の、記録。
Life studio No,17
Shinyokohama
photo by Reiri, / coordi by Yonezu
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