フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

彼を切り取る瞬間。

投稿日:2016/12/31

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自分自身について、どれだけ知っているだろうか。
そんな疑問が、ふと浮かぶ。
自分自身について、というのは、内面的なものはもちろん、外面的なものも含む。
内面的なものというのは、実際自分が一番わかっているようで、あまりわからない部分の方が多いのではないかと思う。
自分が思っている「自分」と、周りから見た「自分」という印象を比べて見ると、意外な言葉が返ってくることも少なくない。
むしろ私は、そうした「周りの言葉」を聞いて、それがこの体に染み込んで、「自分が思う『自分』」という風に変換してきたのではないかと思う。

内面的な部分について書き始めるときりがないので、今回ここで取り上げたい外面的な話について、書いていこうと思う。

内面的なものと違い、外面的なものというのは、見ればその特徴がよくわかる。
けれどやはり、自分が見る『自分』というのは、いつだって鏡越しであったり、写真に写っているものだ。
左右反転しておらず、動いている『自分』というものは、周りの人からでないと上手く見えない。
自分自身で見える範囲は、首から下や身体の前面。顔や頭の上、背中はどうしたって見えない部分になってしまう。
では、見える範囲の『自分』は、どんな姿をしているだろうか。

私の手は小さく、指先も丸々としていて、爪も小さく丸っこい。
膝は日々の仕事でついていることが多いせいか、黒ずんでいる。

自分から見える範囲というのは、意外と狭い。
けれどそれをまじまじを見つめることはほとんどない。

人と話す時は、必ず目を見る。
どんな表情でどんな感情で話しているのかを感じるために。
人の仕草や動作も、細かく見ることがある。
その動作の先に、その人の言葉や感情が乗っかっているのを見落とさないように。

人に対して、人は興味を示す。
けれど自分自身に対してはそこまで執心しないのはなぜだろうか。
仕事や趣味で、自分自身をより高めたいという人は、きっと時間やお金を費やしてより自分を素晴らしく見せる努力をしているのだろうけれど、私はその部類には入らない。
人の目や周りの評価をとても気にする性格の割に、自分自身に興味があまりないのだ。
好きな服や帽子はあるし、それを身に付けた姿を鏡で確認して、変なところはないかとチェックはする。
かと言ってオシャレが特別好きというわけでもなく、流行りを追いかけるわけでもない。
マイペースに、私は『私』として、無理せずある程度着飾りたいと思うのだ。



ライフスタジオに入り教わったことは、「自分を出しなさい」ということだ。
写真を撮るためには、その被写体のことをよく知らないといけない。
よく知るためには、相手に心を開いてもらうことが必要だ。
そのためには、まず自分自身が心を開き、自分の姿を見せることで、信頼を得ることだ、と。

最初の頃に比べて、撮影中に肩ひじを張らずにいられることがずいぶんと多くなった。
子供達といろんな話をすることが楽しくて、時には突っ込みを入れたりなんかして、その場で誰よりも笑っているということが増えた。
それもきっと、私を見せるということなのだ。




大人になると、なかなか自己表現というものが難しくなる。
感情だけではなく、理性や周りの目を気にしてしまうと、ストレートに伝えることに躊躇いを感じてしまうのだ。

撮影に来てくれる子も、幼いころからそうした雰囲気を持つ子が時々いる。
撮影中はなんの遠慮もなく、思い切りはしゃしで笑って、遊びまわってくれていいんだよ、と思う。



8歳の彼は、スタジオに入った時から誰よりも自由に動き回っていた。
「勝手に触っちゃダメ!」と両親に叱られながらも、興味のあるものにどんどん手を伸ばす。
三兄弟の長男と言うこともあり、もしかしたら普段は我慢することも多いのかもしれない。
撮影中も、ふざけている場面が多く、それでも彼らしいなと感じたのだ。
けれどいざソロ撮影になると、よくあるパターンで、さっきまでの元気はどこに行ったのか?と思うほどしおらしくなるのだ。



1時間と言う撮影時間では、彼の内面的なものを100%知ることは難しい。
その彼がふと俯いた時の、きりっとした眉の印象が強かった。
彼自身、普段は知ることのない彼自身の『部分』。
彼の知らない彼を、私は残すことが出来ただろうか。



Photo:Miya
Coordi:Shiba

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