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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
clarity
2017/3/31
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透明感。女性ならば雑誌や本でもよく目にする言葉です。化粧品の説明などでも「透明感のある肌へ」という文があるように、人を美しく見せる要素のひとつでもあります。 透明感とはなんなのでしょうか? 透明感を他のものに例えるなら、澄みきった水のようなイメージです。 水は、色々な姿を見せます。滝は荒々しく力強いですし、海は深く穏やかな印象を与えます。 どの姿も美しいことには変わらないのですが、透明感とは、泉の湧き水のような姿を想像します。濁りのないその姿は、何色にも染まっていません。 純粋さ、というのは"白色"に例えられますが、水は無色です。 無色透明に感じるものは、純粋さというよりは、何か他のものに感じられます。 透明感はどこに存在するのでしょうか。 例えば森の空気にも、透明感があるような気がします。 空気や風や水という、色のないものも人はなぜか美しく感じます。 それは人の感覚が視覚だけではなく、触覚、聴覚、嗅覚、様々な感覚を使っている証拠であり、全身を使って美しさを感じているのだと私は思います。 だからこそ、透明という、色も形もない姿も捉えることができたのでしょう。 では人の持つ透明感とはなんなのでしょうか。 単純に、色白な肌は透明感があるように感じますが、美白と透明感は厳密には一応分離されています。 肌でいうならきめ細かさとか、ツヤ感など。 ですがその人のまとう空気が清く澄んでいることも透明感のひとつです。そういった人の持つ透明感の要素は、はっきりと視覚だけで捉えることは難しいものです。 ある人が、有名な女優さんに直接お会いした際「画面の中で見るよりも、透明感が圧倒的に違った」と言っていました。 当時の私は不思議に思いました。透明感のある人ってどういうことだろう? なぜ直接会うことで、その透明感がわかるのだろう? 私たちはみんな、自分とは何だろう、どんな人だろう?と考え、人と接していく中でその答えとなる部分を見つけていきます。その中で、自分はこうありたいと意志を持って接するようになります。そして、周りにもその意志の感じられる行動をします。 しかし、透明感を意識した人柄とか、行動とはあまり耳にしません。 透明感とは、意識してこう行動するというものではなく、その人の持つ「視覚だけで捉えることのできない、美しい部分」のことではないかと思います。 木が揺れたり、肌に空気があたって「風が吹いている」と感じるように、空気が澄んでいると感じるように、視覚以外でも人は形のないものを感じ取っています。 透明感とは、その人が持っている心が、所作や息遣いや言葉や表情に表れ、周りがそれをなんとなく視覚以外でも感じているのではないでしょうか。 形がないから、捉えるのも難しく、意識していなければ見過ごしてしまうようなものです。 写真の女の子から私が感じたのも、その透明感だった気がします。 全体的に淡い印象で、肌も白い子だったのですが、その他にも形にはならないけれど綺麗をつくる要素がある気がしました。子供らしく元気で活発なのですが、私はこれが好き、とはっきりした自己を持ち、少し落ち着いて大人びていて、この子独特の綺麗さがありました。 ふわりとした見た目に反して、あまりフリフリしていたりガーリーな女の子らしい服装を好まずかっこいいものを好む子だったので、コーディネートもモノトーンでシンプルなものに決まりました。必要以上に着飾らないのも、彼女の綺麗さを引き出していました。 私はこう、という意志が、目には見えないけれどそこにある内面の美しさを感じさせました。 ●どのようにして表現したのか? まず要素の一つは光です。 コントラストの強い光は、力強さをイメージさせます。男性をよりかっこよく撮ったり、女性の強い心を示すなら影のはっきりとつく光が良いと思います。 ここでは彼女の持つ透明感を出すために、あまりコントラストのつかない光を使用しました。 全体的に柔らかい光があたり、包み込むような光は、強弱の無い落ち着いた雰囲気を描きます。奥側の窓から入ってくる自然光が彼女の輪郭を淡く照らし、ふわりとした肌感、茶色の優しい髪色がより存在感を持ちます。 コントラストが無く平坦な光ですが、彼女の持つ空気感に合っているかなと思います。 しっかりしたカメラ目線ではなく、伏せた顔は私たちが意識して見ることのないふとした表情のひとつです。笑顔は人の目を惹く表情で、好まれる側面ですが、人は常に笑っているということは当然ありません。誰かといて楽しかったり、嬉しかったりしたときに現れる表情であり、「その人以外の存在」を感じさせるものです。人との関係性を映すのであれば笑顔は素敵な意味を持ちますが、そうで無い場合は違和感を感じさせます。 この伏せた表情は露出をアンダーに撮れば、アンニュイな、悩める人のようになりますが、このような光の中ではもう少し柔和な印象になります。どちらかというと安定した、静かな思考です。子供と大人の狭間で「自分とは」を考える、ひとりの人としての姿です。 リボンやレースなど少女風でもなく、子供らしくもない服装。そして大人びた表情が、彼女の「子ども時代を過ぎ、自分自身の姿を探している時代」に合っていると思います。 まだ色のついていない、でもしっかりとそこにある彼女の意志は、森の空気や澄んだ水のように人を美しいと思わせる要素だと考えました。 透明感とは、形にない分捉えることのできないものですが、確かにそこに存在しているその人の意志であり、他者が感じることのできるものだと思います。 しかし誰でも持っているものではない、特別な要素の一部です。 そういった特別な空気感を写真で現し、彼女自身や彼女の周りの方が初めて発見する彼女の美しい側面のひとつとなるなら、カメラマンとして嬉しいことだと思います。
純粋な心
2017/3/31
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・被写体から感じたもの この日、初めて会った彼は無邪気に笑っていました。 その時に感じた純粋無垢なイメージは撮影が終わっても変わることはありませんでした。 そして短い時間でしたが、時間を共有して改めて思ったことは、楽しい時は素直に楽しむことができ、悲しい時には涙を流したり、嬉しい時は素直に喜べる子であると言うことでした。 常に満載の笑顔で、撮影を楽しんでくれているんだなと感じました。 純粋とは、自分の本心に対して素直で正直なことです。 純粋な人は一途な人が多いです。人を疑うことをせず常に心を開いています。ありのままの嘘偽りのない姿を他人にみせることができます。 私が感じる「純粋」な人のイメージはいつも目がキラキラしているということです。山ほどのご馳走を見た時や星いっぱいの空を見た時のような。 子供心を持ち合わせている人に出会ったことがあります。やはり目がキラキラしていました。そう言った人の話は夢があって壮大でワクワクします。 感情を表に出すことは大人になると自然とブレーキがかかりできなくなります。 相手の顔色を伺っては言いたいことを我慢することも少なくはなく、その集団に溶け込むように当たり障りなく過ごしている人もいます。 私もそう言った人間の一人で、だからこそ羨ましくも思います。 また、私と彼は彼が1歳の時が初対面で、今回で二度目でした。 あの頃から約4年が経ちました。 弟ができたり、幼稚園に行き始めたりと環境の変化はありますが、変わらない笑顔、自然と作られた1才の時と同じポーズ。 いつまでもこの笑顔を忘れないでいてほしいと思いました。 ・どのように表現をしたか、 一番尊重したかったことは、彼の素直な行動です。いつもはこれぐらいの年齢の子にはポーズをつけますが、これだけ純粋な彼の行動を制限してしまうのは勿体無いと思ったので彼を行動を観察しました。 スタジオの中を見ながら触ったり。一通り終えると私たちのところに歩み寄ってきます。 これは私たちとかくれんぼをして隠れている瞬間です。ちょっと悪いことを考えているいじわるな笑顔。 この瞬間が一番彼らしい表情でした。 ターコイズブルーのベレー帽とチェックの蝶ネクタイ。 色のあるコーディネートは彼によく似合います。 彼の印象をガラッと変えるのであればスーツのような大人びた衣装だと思います。 しかし、私はありのままの姿でいてほしいという思いがあったので、動きやすいラフな衣装を着てもらいました。 私が写真を撮り始めてから変わらずに大事にしていることは、 記憶に残る写真を撮ることです。 今回、彼の写真を撮って、彼の母親から写真の感想を頂く機会がありました。 そこには「彼の成長に気づかされた写真」と。 そのような言葉は私が写真を撮っていてよかったと思う瞬間です。 lifestudio nagoya / tanaka misa
『 といろのはる 』
2017/3/31
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No24. Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Coordi by Akimi Yoshikawa 「といろのはる」とは、文字通り「十色の春」のこと。 これは十人の女の子たちが共に迎えた春の物語。 「春」それは、様々な物事の始まり。 入学や就職など、新天地で多くの期待と少々の不安を抱えて新たな人生がスタートします。 物事の始まりには、その分岐点として終わるものもあります。 「卒業」もそのひとつです。 そんな終わりと始まりが合い重なっている大切な分岐点を時折、私達は写真に納めさせてもらっています。 そういった記念撮影の話からは少し離れますが、人はある一定の学業を終えると就職をして「働く」ということを始めます。 そしてその後、その職業を辞め転職をしたりもします。 新たな仕事に就いた際、その仕事場の先輩からこういう質問をされた覚えはないでしょうか? 「何か質問ある?」と。 勿論、初めてやる仕事であれば分からないことだらけです。 だからそう言われた時にこう思ったのではないでしょうか。 「分からないことが分からない」と。 そうなんですよね、分からないことが分からないから本来考えることすらも出来ないんです。 でもそんな時ほど人は必要以上に考えてしまいます。 同時にそういう時はとても苦しく辛い時期でもあります。 そんな「考える」ということ。 私も毎日の撮影で考えています。 でも、この「考える」と新天地での「考える」とは当然異なるものです。 ではその違いは何なのか?と思った時、ひとつの言葉が出て来ました。 それは「意図」です。 『 意図 』 意図とはご存知の通り「どうしたいのか?」という目指すべきものみたいなものです。 したがって明確ではないにせよ、そこには「こうしたい!」という意識が繁栄されます。 この意図が無ければもう何年間も続けている撮影でも路頭に迷い核心的なものなど生まれないでしょう。 「良い写真を撮りたい!」と、そう思えば思う時こそほどこの意図が自分自身に無く、 そのずっと先にある「良い写真」という壮大なテーマだけを考えてしまうのです。 しかし、その意図を考えざるを得ないシステムがこのライフスタジオには存在します。 それが「75cut」というものです。 文字通り75枚の写真ということですが、この75cutについて我々スタッフは幾度も考えてきました。 なぜ、75cutなのか? 75cutだからどうなるのか? これもまた何年間も話され続けていますが、その意味は多くあるかと思います。 そこで、それは単にいくつかの衣装での可愛い写真をたくさんの枚数で。という事だけではなく「一本の映画」に例えれば今まで述べてきた「意図」と繋がっていくことになります。 私は今、『ヒッチコックの映画術』という本を読んでいます。 この本は、サスペンス映画の巨匠であるヒッチコック監督のインタビューをまとめたものであり、その映画一本一本、そのシーンひとつひとつの意図が記されています。 その中に、「ヒッチコックの映画は音を消して台詞が無くても話が解る」とありました。 それはヒッチコックが様々なシーンに意図が伝わるようなフレーミングやカット割りをしているからです。 写真には勿論台詞はありません。 しかしながら意図を持ち、それを一枚一枚の写真として表現していけば言葉が無くしても伝わっていくのではないかと私は考えます。 意図が無ければ考えることを始められない。 しかし意図があれば考えることを始められます。 まぁ、勿論初めにその意図を考えなければならないんですけどね。 でもその意図は目の前にあります。 なぜなら私たちは何かの意図があって訪れている人たちを撮影しているのですから。 『 起点 』 湘南店で春の時期だけに限定で行なっている卒業、入学イベント。 この日は、色とりどり華やかな袴を纏った十人の小学校卒業生の女の子たちが来てくれました。 まさに「黄色い声」という例えがふさわしい声で歌い、皆楽しそうに笑っていました。 そんな彼女たちは四月から中学校に進学するわけですが、その仲の良い十人がみんな同じ中学校に進むわけではありませんでした。 私はその話を耳にした瞬間、自分の小学校卒業の頃を思い出しました。 もうかれこれ三十年以上も前の話ですが。 私の通っていた小学校は大きく二つの中学校におよそ 7 : 3 の割合で分かれました。 私は3割の方でした。 その時は少し寂しく思ったものです。 だからこそその想いと重ねて私が意図としたのがこの写真です。 特に何か真新しい写真という訳ではありません。 むしろ重要なのは、このあとの写真、そしてその次の写真なのでしょう。 しかしこの写真があるからこそ、これが起点となり、そのあとに続く写真をイメージさせ、楽しみに思わせ、意図を伝えることに繋がるのであると私は思っています。 彼女達の背中に三方から当たる光。 そしてその腕と腕の狭間から重なり合う手に当たる光。 この写真のポイントは光でも表情でもなく「意図を表す起点である」ということです。 こういったものを意図として納めることが75枚の奥深さであり意味のひとつなのではないかと私は感じています。 『 春 』 私にも四月から一時離れ離れになる仲間がいます。 そして新たに仲間になる者もいます。 別れがあるからこそ再会があります。 この「重なる手」が彼女たちの一時の別れを表し、そしていつの日か再会した時にまたこの写真が生き始めてくれればこれ幸いです。
写真で人々を幸せに
2017/3/31
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ライフスタジオ大宮店では、「ぽぽぽ」「あいあい」というCSR活動をしています。 既存のお客様も大切だが、なかなか写真館に足を運ぶことができずにいる人達も含め、私たちは写真で人々を幸せにしたい…と考え、まずは障がいを持つ子供達(ぽぽぽ)と児童養護施設にいる子供達(あいあい)を対象に、写真でできることをしている。 今月「あいあい」にて高校三年生の彼女たち二人に出会った。私の担当したNさん。 メイクが大好きで、メイクルームの鏡台の前で二人でメイクし合う姿は、男である私にとっては、まじまじと見てはいけないもののように感じてしまい、覗くのは気もそぞろ。 びくびくしながら覗いてみると、真剣なまなざしで友だちのメイクをしてあげていた。 そこにいる彼女はまるでメイクアップアーティストのような出立ち。 こっこれは…美しさとの遭遇!! キラキラと輝く彼女の真剣な顔は、美しさそのもの。 この今の瞬間を写真に残してあげることが私の使命となった。 慌ててカメラを取りにいき、そっと1枚だけシャッターを鳴らして消えた。 ああ、きっと彼女は自分を知っている人なんだと思った。 ボブヘアー専門のサロンでカットしてもらったという芸術的なヘアスタイル 丹念になぞられたアイラインとカールカールしたまつ毛 一目惚れして買ったというお出掛け着のブラックドレス 楽しそうにヘアスタイルや衣装の話をする彼女は、ファッションへの興味を超えた熱のようなものを感じてやまなかった。 「自分の素敵なところ」「自分の魅力」そこに自分の意識を向けている人って、自然と輝いてみえてくる。 そういう人を見ると羨ましく思うし、感動すら覚える。 撮影中、メイクルームの鏡台を前に、メイク道具を代わる代わる持ち替えながら、鼻歌まじりで写真を撮られる姿は魅力的で、女優のような、いたって自然な振る舞いをする。 撮影者としてその魅力を写真の力で、目に見える形にしていく、 この写真が ”彼女のこれからの未来を支える支柱の一本になれば” と思いながら。。。 私が写真を通してできることは、美しい今の瞬間を写真に残してあげること。 多くのことはできないけど、大きな力にはなれるかもしれない。 彼女には、社会に出て数多くの壁にぶち当たっても、一番身近な存在である自分だけは自分の見方であるように、自己を突き動かす原動力の一部になればと心を込めて、ただただ素敵な写真を残してあげたいと強く思う。 それは ”写真で人々を幸せに” という、 私達の使命のようなものだ。 来月4月からは渋谷のアパレルショップ店員になり、社会人としてスタートを切るというNさん。 ここで撮影した写真や思い出が、あなたの「存在の意味を証明するもの」になっていくことを願っております。
Wedding
2017/3/31
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写真を見た後に、ママが”結婚式に使いたいな”なんて話をしている姿を見ます。 そう話すのはパパではなくママなのです。 ママはこの写真を見てどんな気持ちになるのでしょうか。 結婚式とは一生に一度の事で、特に女性が一番輝く日なのだと思います。 長く住んできた家を出て、自分の新しい家庭を持つ。 ついこの間まで自分は子どもで、お父さんお母さんお兄ちゃんと一緒に寝ていて、たくさん出かけて、幼稚園に行き始めて、小学校を卒業して、反抗期になって、家族との会話が減っていって、社会人になって、ずっと一緒にいたいと思える人に出会う。 結婚式が決まって結婚式を迎えるまで、未来の事より、今までの事をたくさん考えるような気がします。その中で一番考えることは親の愛です。 どれだけの愛で自分を守ってきてくれたのか。 どれだけの愛で自分を叱ってきてくれたのか。 私のおばあちゃんも、私の母親も、私も、そして私の子どもも、皆んな同じようにこの日を迎えます。 どれだけ自分が親に愛されて来たのか、 写真を見返すと感じる事ができます。 この写真に込められているのは、幸せの形です。 自分が結婚して親になって、自分の親と同じように自分の子も愛して、それが永遠と受け継がれて行くのです。 自分がどれだけの愛情を注いだのか。 それは今も、未来も。 親から子への愛情を、自分が家庭を築いて行くときに感じて、同じように愛情を持って幸せになって欲しいと願う。 そんな気持ちになるのかなと思います。 私も去年結婚式を挙げ、その際に実家に戻って昔の写真を見返しました。 昔の写真を見返すと、たくさんの思い出が詰まっていて、なんとなくその時の記憶がよみがえります。 両親のあたたかい表情や、兄と遊んでいる楽しそうな姿、見ているだけで幸せな気持ちになります。 今、この仕事をしていて思う事は、こんな風にその時の自分を綺麗に残せる事が、本当に貴重な事なのだと感じています。 もちろん日常の中で撮る写真もとても大切な写真ですが、その時の自分らしさや美しさを1枚の完成された写真も、残っていたら嬉しかったなと思います。 そう思うからこそ、来てくれる皆の美しさを残したいと思うのです。 それは、1人の写真でも、兄弟の写真でも、家族の写真でも、その時のその瞬間のその人らしさを残すことが、私が出来る事です。 白いドレスに、ヘッドアクセサリーのチュール、そして透き通るような白い肌。 光に包まれて、それがとてもあたたかく、凛とした大人びた表情。 それは彼女が結婚式を迎える日を想像させるような姿。 彼女が結婚をするときに、この写真を見て何か感じてくれたら嬉しいです。 その時しかない美しさを、残すことの大切さを改めて感じる事ができました。 Photo:MukaeYuka
光の詩
2017/3/31
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Photo by HIRO Coordinated by Takumi 光は語りかける。 あなたの存在はこんなにも美しいんだ。 こんなにも輝いて、 こんなにも尊いものなんだと。 光は照らし続ける。 あなたの輝きが暗闇に埋もれてしまわぬよに。 あなたの未来に希望が溢れるように。 光は語りかける。 詩を詠うように。 もしこの世から光が消えてしまえば、何一つ見ることはできなくなる。 むしろ何も存在することもできないだろう。 聖書の一節で有名な聖句がある。 「光あれ」 神が天地創造を行なった時に最初に言ったとされている言葉だ。 実際に科学的にもビッグバンからこの宇宙は始まったとされている。 全ては光が存在するところから始まったのかもしれない。 写真にとっても一番重要なものは光だろう。 光がないところでは写真は存在することすらできない。 写真と光は切っても切り離せない関係だ。 そんな光のことを考える時、光にも生命が宿っているんじゃないかと思わされる時がある。 青白く澄み切った早朝の光。 新しく始まる一日に、命の息吹を吹き込むように、私たちの心を優しく包み込む。 力に満ち溢れた白昼の光。 力強く進んだらいい。 胸を張って堂々と生きたらいい。 そんな気持ちを掻き立ててくれる。 世界を一色に染める茜色の夕日。 どこか儚くそれでいて美しく煌めく光の粒。 もうすぐやってくる一日の終わりを告げ、時の移ろいと儚さを教え、胸の奥をぎゅっと掴まれたような気持ちにさせる。 光は私たちの心の底にある感情の扉を叩き、その扉を開いてくれる。 私たちの心にいつも語りかけているのだ。 光を使って彼女を表現したいと思った。 夕暮れの色に景色が染まる前、 世界に一番強く光が溢れる時間帯。 日光の入射角が低くなり、目も開けられないくらい眩しくなる。 そんな時間帯に彼女に出会った。 三兄弟の長女で下に弟二人を連れた6歳の女の子。 元気いっぱいの弟二人の面倒を見るのに慣れたように、彼女はしっかりとした少し落ち着いた印象だった。 でもその雰囲気の中にも子供らしい可愛い笑顔が溢れていて、優しさと無邪気さを持ち合わせた魅力を持っていた。 そんな彼女の魅力は私の心をとても純粋な気持ちにさせてくれた。 彼女の魅力を三兄弟の姉としてではなく、彼女自身の女の子としての魅力として表してあげたい。 むしろこの子の魅力をより美しく表現しなければという使命感にも似た気持ちに駆り立てられていた。 彼女のソロ撮影も行うことに決まり、この時間帯の強い西陽の力を借りて、逆光をメインとして彼女を表現できる光を探した。 逆光の写真が持つ神秘的な雰囲気、 強く差し込む光が作るフレアの煌めき。 彼女のために準備されたかのようなその日の強く差し込む西陽が、きっと彼女の魅力を輝かせ、彼女が主役の舞台を作ってくれると思った。 光が彼女の魅力を輝かせてくれるそんな瞬間を探して撮影を進め、その瞬間は最後に訪れた。 ソロシーンの最後、彼女にぐっと近づき、アップの写真を撮ろうとして角度を探している時だった。 強い逆光を取り入れるために開けていた奥の窓から差し込む西陽が彼女を包み込み、ファインダーの中にその光が満ちるのを見つけたのだ。 そして、その光に導かれるようにシャッターを切った。 あなたの美しさはここにある。 こんなにも輝いてて、こんなにも美しい。 あなたの存在はこんなにも尊いんだ。 これから進む未来にはきっと希望の光が満ちているよ。 光は彼女にそんな想いを込めた詩を送っているかのようだった。 そんな光の詩に添えるように、彼女の内側にある美しさと華やかさを表現する花束で色味を。 瞳はそっと閉じ、彼女を象徴する長い睫毛に焦点を当てる。 瞳を閉じたその姿は、まるで光の中優しく未来に祈りを込めるかのようで、そこに彼女の持つ心の優しさが表れていた。 横の窓から入るサイド光と白い砂の部屋特有の光の反射が、強い逆光の中でも彼女の表情を照らし出し、その表情を写し出すのを助けてくれる。 そして彼女の純粋な想いと希望を、光が溢れる左側の余白に込めて。 いつかまた彼女に会えるだろうか。 光が教えてくれた彼女の輝き。 それはきっといつまでも変わらない彼女の輝き。 これから大人になっていく彼女の未来が、光に満ち溢れますように。 写真にとって光は不可欠な存在だ。 でも逆に光にとっても写真はとても重要なものだ。 きっと光が語る詩を残すことができる、それが写真なのだろう。 今日も光は語りかける。 まだ見ぬあなたにどんな詩を残せるのだろうか。 ファインダー越しに耳を傾けよう、私に贈られた光の詩を探しながら。
感情
2017/3/30
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私は感情が入った写真が好きです。 大人になるにつれて子どもの頃に感じた感情は薄れていくものです。 しかし大人になって、記憶になかったはずの小さい頃の写真をみると、 なぜかその時の悲しかったり楽しかった感情を思い出すことができるような気がします。 自分がどんな子どもだったのか どれだけ育ててもらってきたか 言葉だけでは伝えきれないものを 写真は伝えてくれます。 もし、感情を未来の誰かに伝える手段を考えたときに その時感じていたことを文章を書いたり 言葉で伝えたりもできますが、 それらはどうしても伝え手の感情や主観が入ったものになってしまいます。 その点、写真は客観的にその瞬間の出来事や感情を残すことができる方法だと思います。 そんな写真をとるために、私が意識したことは2つあります。 まず一つに、カメラマンが被写体に対して先入観を持たないことです。 カメラマンは被写体のイメージを考えて撮影します。 そのイメージがカメラマンの考えた一方的なものでは 撮られた写真もただ被写体に演技をさせたものになってしまいます。 そして被写体はやらされる恥ずかしさや違和感を感じます。 私は写真を撮るときまず最初にすべきことはまっすぐに被写体へ向き合うことだと思います。 大人の撮影であれば、事前にお話をしっかり伺ったり打ち合わせを重ねることで その人を知っていくということができます。 しかし、私たちが向き合う子どもという対象については単純なやりとりでは 分かり合えない難しさを感じます。 それは子どもがまだ未完成な存在であること、もっと言えば私たちの考えるよりも大きな感情を持っているからです。 例えば、大人は相手にとって正解の答えを探しながら話しますが、 子どもは自分の思いを1番端的な方法で伝えます。 たとえこちらの指示と違う動きをしても、それはその子なりの答えであり、間違いではない。 泣いたり笑ったり黙ったりコロコロと変化する行動とその感情の意味を読み取るのは大人になってしまった私たちには難しい。 だから私はいつも撮影のときは自分がその年齢のときどんなことを考えていたのか思い出しながら、 多分こういうことを伝えたいんだろうなと考えながら接しています。 そして二つ目に、そのとき感じたものをすぐ写真に反映させなければならないこと。 ただのスナップ写真と表現された写真の1番の違いは、カメラマンの意図があるかどうかだと思います。 コロコロと感情が変わる子どもをそのまま撮影するだけでは子どもの動きや表情もただのバリエーションになってしまいます。 なので、子どもが発信する感情を理解した上で、どうすればその子の思いに近づけるか、 もっと理解するにはどんな質問を投げかけようか考えながら撮影します。 この写真は被写体を理解しイメージを引き出して、それに合わせた表現ができたと思った1枚です。 ◯被写体のイメージと表現 7歳という年齢は世間的にはまだ守られるべき子どもですが、 内面は大人と変わらない感情をもっていることに気付かされます。 自分の意思は有っても、相手が大人であればそれを出すことを躊躇したり、考えを合わせるようなことができる場合もあります。 だからそれに合わせて大人の様に撮るのではなく、 大人の前では見せない普段の7歳らしい姿も残したいと考えます。 この子に会ったときは、とても聞き分けも良く大人の言うことも理解してくれるお利口な7歳という印象を受けました。 なのでそういったかっちりと光を組んで、視線の指示もしてというような撮影は容易にできました。 そうすると、私の中にこの子がよりこの子らしく振舞う姿を撮りたいという願望が芽生えました。 そのために、少し離れたところから観察します。 なにが好きでなにが苦手か、ベッドで遊ばせてみたりしても、写真を意識したきっちりとした感じはありました。 もっと夢中になれるものはないかと探したとき、お花屋さんになりたいと話してくれたことを思い出しました。 ジョウロを渡せば、はしゃぐわけではないですが、わくわくした様子がありました。 それは、ジョウロという新しいおもちゃを手に入れた高揚感ではなく、 自分の将来の理想像があってそれに近づけた嬉しさだったのではないかと思われます。 ジョウロがあれば、お花屋さんになれる。 たくさん髪飾りをつければお姫様になれる。 たくさん練習すればもっともっと上手になれる。 そうやって子供が未来を想像する心には疑いも不安もなく、 憧れや何をしようかという想像や前向きな感情が溢れます。 そんなところが子どもの持っている1番の純粋さだと思います。 未来に対する純粋で前向きな感情をずっと覚えていてほしいと思いました。 被写体の内面を残したい場合は直接あまり声をかけることは止め、 被写体自身がなにかに気づいたり感情に変化が起こる瞬間を察知して撮影しました。 なにか動作をする姿ではなく、動作をしようと思いついた瞬間に 本人として無意識な表情やその変化にその人特有の表情や柔らかさが出ると感じるからです。 何かを感じても、頭で考えそれを表情や言葉に出すころにはもう感じたものは古くなり、 そんな感情表現には人に見られる意識や計算が入っているものです。 被写体の感情が入った写真を作るためには、被写体が何かを感じるのと同じ瞬間に カメラマンも何かを感じてシャッターを切らなければなりません。 人の写真を撮る上で1番大切なものはその人と感情を合わせること。 カメラマンの技術は、ただ撮る人というのを抜け出して、被写体の1番の理解者になっていくこと。 写真は撮るものではなく、一緒に作っていくものなんだと教えてくれた撮影でした。 photo by noro witten by noro
彼女を追う
2017/3/26
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自分らしい写真とは何か。 先日ある写真を見ながら大内さんから「この写真からはまなみちゃんらしさが出てる」 そんな言葉いただきました。 見てくださった写真の構図はもう少し改良の余地があるものでしたが、 大内さんは特に被写体の表情に注目してくださり、 被写体の顔から楽しい撮影の雰囲気や私自身のエネルギーも一緒ににじみでている出ているようだ、 そんな話をしてくださり、私はもっと、写真に私の楽しさや私の心を写し出していかなければ 私らしさは出ていかないのだと改めて思いました。 今回形象化という課題を進めていく中で、最初はある程度自分の中で決めた場所で形象化を進めていましたが、 大内さんからいただいたアドバイスをもとに、 被写体を見て、被写体にあった場所を探して構図を決めてイラストを描く事プラス、 その場所に合う表情にもより着目して形象化を進めていきました。 被写体の小物と背景 今回の被写体の女の子は着物、ドレスを着て、最後は自分が選んで自宅から持ってきた 可愛らしいお洋服を着用していて、店舗にある赤いベレー帽をかぶり、赤いカバンを持っていました。 彼女が着ていたお洋服に赤いラインと胸にも赤色のワンポイントがついていたので、 帽子カバンの色と合わせ、赤い色味がわかりやすくなるよう暖色が入るインテリアは避け、 背景は白めで緑などの赤と反対の色が少し背景に入る2階の白ゾーンで撮影をしました。 白ゾーンの一番手前の棚の場所に被写体を立たせたのは、あまり背景の色を目立たせないためです。 奥に入りすぎてしまうと、背景の色が濃く出すぎてしまうので背景色は控えめに 被写体がつけている小物にスポットをあてました。 構図 形象化を書いた時には最初は全身を写して撮影をしようかと思いましたが、 被写体を会話をしていく中で彼女の天真爛漫な可愛らしい姿と表情をもう少し近くで切り取りたいと思い、 彼女に言葉をかけていきふとご両親の方を見ながら彼女の本当に自然で屈託のない表情が生まれたとき、 彼女が身に着けている小物も合わせて魅せるようにミドルで切りぬきました。 左側に空間と奥行を出す事で被写体に躍動感を出しました。 こんな写真が撮影したいと思っても、頭での中だけで考えているだけではどうしても限界があります。 自分が撮影したいと思うお手本の写真を見てみたりするのと同じように、 頭の中で考えているものを改めて絵という形にして具現化する事で もっと撮影したいと思う写真の形が具体的になり、形象化しようと思った絵から、 絵とは少し違ってもより良い構図が見つかるかもしれません。 私の頭の中だけにあるものを外に出して紙の上で形に書き起こし、 紙の上にあるイメージを今度は写真で具現化する作業をしていく事で、 イメージをより早く写真に反映できるようになるのではと思いました。 今回形象化にはじめて取り組んでみた事で今まで撮影しなかった場所で撮影したり、 挑戦してみるきっかっけにもなったので、今後も形象化というものを撮影に取り入れながら進めていきたいです。
Mihiro
2017/3/19
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人に写真に自分自身に深く入っていきたい・・・ 『HPに道がある』 ライフスタジオの社長が投げかけてくれた一言であった。 私たちにとってどんな意味があるのだろう。 自分なりの解釈を少ししていきたいと思う。 今回のHPに道があるの核心は『根拠をつくることである』 根拠とは辞書的な意味で言うと物事が存在する理由を示す。 つまり、ここで意味する根拠とは私なりの解釈でいうと ライフスタジオが存在する理由を個人個人の魅力を最大限開花させ それを全てHPに投げ出していこうという事ではないかと考えた。 つまり、スタッフ一人一人が自分言葉でライフスタジオの構成要素を紐解き、 再確認しながら、発信を通じて広めていくとう、 『確認・連結・拡大』の関連性をもってライフスタジオの道を自らが切り開いていこうというものである。 このような一連の流れは、HPの側面だけではないと考える。 写真でも同じようなことが言えるのではないかと思う。 私たちライフスタジオは、美しさを表現し思い出を記録する楽しみの空間 という定義を日本の写真館に対して代案した。 その意味というのは、時代が求めているものを共に求めたかった。 そんなシンプルな理由だったのではないだろうか。 今の時代は普遍的な価値を求めていると考える。その中でも私が今もっとも関心を強く抱いていることは 豊かさという価値である。この豊かさとは物質的、金銭的な側面での豊かさではない。 精神的な面であり、個人的に豊かになればいいというわけではない。 豊かさは共に創ることを意味し、それはお客様や働くスタッフ同士、 人と人が重なり合って共に創り上げてくことを目指している。 また、ライフスタジオという写真館も同じ価値観を持っていると私は信じている。 撮影では私たちができる最大限の行いをすることが、共に創る最大限の努力であるし、 それを通じていい写真を生み出していくというのは、私もそれを求めていることであるから、これは一方的な事ではない。 被写体の存在理由を見出すことは、あなたもわたしもしたい事であり、 それを通じてわたしたちは私達になっていくのである。 被写体の美しさの根拠は私達が作り上げる関係の結晶でもある。 MihiroちゃんFamiyは2年前草加店で出会っている。 今年は私を訪ねて越谷店まで足を運んでくださった。 恥ずかしさを胸に私は聞いてみた・・・。 なぜ、私に会いに来てくださったのですか? 『会いたかったら』 という心地よい言葉の響きと真っ直ぐな気持ちは私を和ませてくれた。 私はその瞬間その家族のことが好きになった。 そして、小さな反省もした。 同じタイミングで好きになりたかったと。相手も好きで私も好き。 人が人を愛することは目には見えないけど、会いたいという行動がその意味を証明している。 社長が昔から言っていた言葉が頭を過った。 人を好きになるとその人の写真も好きになるという単純な真理を ライフスタジオのスタッフ皆が分かることを願っている・・・。 私はその意味を全身で感じた。 この一枚の写真のポイントを整理すると2つの内容を挙げることができる。 【目線】 この原本にはカメラ目線とそうでない目線の2枚が入っている。 今回フォトジェニックに選んだ写真はカメラ目線ではないこちらの写真を選択した。 理由は、クローズUPイコールカメラ目線という固定概念を超えた新しい発見をすることが出来たからだ。 そのお陰で、また自分なりの美しさの定義が更新された。 特にポイントである目線は意図的に外している。 なぜならば、彼女の美しい瞳は全体を緩やかに見渡す余裕さえ感じさせる、とても優しくて温かい目線であった。 その観察をもとに、その要素がカメラ目線では合わないことを直感で感じた。 その代案として考えたのが全体を見渡すように目ん玉をゆっくり左右に動かしてくださいという声かけだった。 そして、この四角の中をもっとも美しく満たしてくれる目線がこの瞬間であった。(左斜め下) これが、トリミング、前ボケ、彼女の魅力、前髪の乱れ具合に調和を齎せてくれる最高な目線であった。 きっとこれが、右下や左上では調和が出せなかったと考える。 【スタイリング】 いい写真を生み出すために必要な要素の中で、私は遊び心というものを一つ重要視している。 こういった工夫が実は写真の表現方法をより自由に、そして無限大にしてくれる秘策ではないかと自分なりの考えている。 Mihiroちゃんと二年ぶりに再会したとき、彼女の髪型の変化に注目した。 以前はオールバックのポノーテールだった。 2年ぶりの再会で彼女は水原希子風のボブカットに変わっていた。 その彼女にひと手間加えるために、髪型を遊ばせようと考えた。 その瞬間私の美しい髪形レイダーに引っかかったのが、モデル、女優で活躍する中村アンさんを 彷彿とするかきあげバンクで美しい女性のイメージであった。 Mihiroちゃんには、モデル気分で思いっきり髪の毛をかきあげてみてと声かけをし その様子をずっと観察していた。ワンレンの髪の毛は上下に移動し、その間を空気が通りぬけ ふんわりを重なった編み物のような按配になった。 私は心の中で、キター!!!!!と思った。 このスタイリングはまさに、共に作りあげた過程で舞い降りた被写体から湧き出た美しさであった。 美しさは相乗効果によって産み出されることに 今回の一枚で確信が持てたような気がする。。 10年経ったら、流行りのカフェにでも行こうか^ ^? そんな繋がりがこれからも続きますように。 色んなことを語りあいたいね。
2歳
2017/3/14
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photo by KATSU/ coordinate by KAI どの撮影も必ず撮影に入る前に必ずカウンセリングの時間があり、僕は必ずこのカウンセリングの時間に行うことがあります。 それは、みなさんを笑顔で迎えいれること、お客様の心の扉を開くこと、この撮影でどんな関係を築いていきたいのか、そのために自分がどのようにやっていくのか、自分の紹介を交えながらお客様と接しています。 そしてもう1つ。どんなママさん、パパさん、お子様なのか観察をよくしています。外面、内面自分の頭にある知識、直観、経験をふる活用し、どんな感じで撮影していこうかなと考えます。この習慣が今僕の中で定着されつつあり、人を見る目、どのようにこのご家族を表現していくかのレパートリーのなさを反省しつつ最善を尽くしながら、いつも僕は表現しています。 今回は来てくださったのはひまりちゃんFAMILYです。 ママさんパパさんは、笑顔がとても似合い、よく笑ってくださる方達でした。僕が話すことに対しても笑顔で対応してくださるとても暖かさを感じる方達です。撮影中もひまりちゃんの姿を見て笑顔で見守ってくださり、きっと撮影中お子様を見て幸せを感じているのだろうとこちらまで伝わってきたほどです。 ママさんパパさんがよく笑ってくださる方達だったので、撮影中の雰囲気も自然と楽しい雰囲気がながれ、とても心地の良い空間でした。 その心地の良い空間の中にいるひまりちゃん。2歳を迎えたばかりの可愛い女の子です。ひまりちゃんは好奇心旺盛でありながらも、この場所で自分が遊んでいいのか、初めてみる人達はどんな人なのか、勝手におもちゃで遊んでいいのか、よく観察する慎重な性格をもっている女の子でした。 撮影に段々慣れていくにつれて好奇心旺盛なひまりちゃんが出てきました。そして彼女の本来の姿をまた観察しながら1つのシーンを終えました。 そして1シーン目で撮った写真をパソコンに入れながら僕は1つの決断をしました。3シーン目にドレスを持ってきて2階の白のインテリアの場所で、ひまりちゃんらしさを表現しようと。 テーマ「らしさ」 2歳のお子様の特徴は、好奇心旺盛な子が多いです。そのため色んな物に興味をもちます。そのため興味をもったものがあるとそこに集中し、また違うと思ったら違う興味があるものに移動していきます。つまりよく動くということです。でもその動いてるときは、とても楽しそうに動いています。 今回はこの特徴を利用し、写真を作っていきました。 以前、僕がbaby撮影で意図的に写真を撮ることが難しいのではないのか、どういった方法で意図的に撮っていけばいいのか、ライフスタジオにあるスマイルサークルでみなさんに聞いたことがありました。その時に所沢店の店長のボルボさんが、撮影手段を変えるだけで意図的に撮影はできるといってくださいました。6歳の子には6歳の子の撮りかた、1歳には1歳の撮り方、6歳の子には6歳にあった声のかけかた、1歳には1歳にあった声のかけかた。つまり年齢別に撮影手段を変えるだけで意図的に撮影はできることを気づかされました。 そして僕は今回、2歳の子の特徴の集中したらずっとそこに集中する性格を利用しました。 そのためにまず空間作りを始めました。 2階の白いインテリアは、朝の時間帯とても良い光が窓から入ってきます。そのため自然光をメイン光に決めました。 そして「らしさ」を表現するために、逆光となる場所を探しました。逆光となる場所を探した理由は、逆光の特徴が体のラインに光が当たるため、幻想的な写真、抽象的な写真を写すときに僕は適していると思ったからです。 そして「らしさ」なので、陰影を強めにいれてしまうと、光を強調している写真と勘違いされてしまうので、コントラストは強めにならないようにしました。 次にどの位置から撮れば背景の整理ができるか考え、位置を決めました。そして人は動くので、背景の整理がすぐできるように前ボケのレースを用意しておきました。 次に奥行きと色味を出すために花瓶2つを奥に置き、手前に白カゴを設置しました。僕の中で奥の花瓶に被るように白カゴを置いた理由があります。 それは花瓶が置いてある位置と、子供を立たせる位置の距離感が短いので、花瓶と白カゴを被らないように置いたら、奥の花瓶の存在感が強く被写体に集中できないのではないかと考えたからです。 そして白い棚の中にある白い箱は、もともと入っていました。最初どけようか、そのままでいこうか考えましたが、ちょうど白色で統一感があり、なおかつスペースを埋めてくれる役割をしてくれていたのでそのまま置いておきました。 この準備を撮影が始まる前にしておき、アシスタントのかいちゃんに子供を白カゴの前に誘導してもらいました。このとき、2歳の特徴を利用しました。興味があったらずっと集中する性格を利用して、興味を持たせるようにかいちゃんにずっと誘導してもらいました。 かいちゃんとは自分が撮りたい写真、どうしたらもっと写真がよくなるか一緒に撮影に入ったらほぼ毎日意見を聞き、一緒に撮影、写真を作っているので、かいちゃんも僕の姿をみて、どのような声量でかいちゃん自身がかいちゃんという存在感が出すぎないように声かけをしてくれました。 本当は横顔を撮りたかったのですが、必ずしも自分が撮りたいように子供は動いてはくれません。しかし強制したららしさが消えてしまうので、急遽イメージカットに変えました。 そして背景を整理するために用意していた前ボケで余分な部分を隠しました。 今回この写真を撮って新たな発見がありました。 最近ずっと人の心を写すにはどのようにしたらいいのか考えていました。そして最近ブログにもアップしましたが、心を心境と定義し、心境は表情に表れ、そして行動で現れると勝手に定義しました。 心=心境 眠たい=眠たい顔 心境→行動 眠たい→寝る そのため、表情と動きに注目できる圧縮写真がもしかしたら、心を写す方法として1番いいのではないのかなと思い圧縮写真を撮ってました。 しかしこの写真を撮り、そもそも人間は、腹が減ったらご飯を食べる。つまり行動がポイントなのかなとも考えるようになりました。 行動だけでも人の心、そのこらしさは表現できるのかなと。 何が正解とかはわかりません。しかし、自分の中で納得できる自分自身の答えを出していきたいと思いました。 まだまだ探していきますよ!ありがとうひまりちゃんFAMILY^^
いもうと。―形のないものを形にすること―
2017/2/28
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Tokorozawa Photo Photo: Sastuki Kudo Coordinate: Kaori Kinoshita 想いを形に。 心の動きを形に。 見えないものを見えるように。 そうでないと、今たしかにここに在る私の想いも、あなたの心も、 過ぎ去ったものとしていつかは忘れ去られてしまうのかもしれないから。 仕事が終わって家に帰ると、旅行鞄の中に白いストラップのやや小さい一眼レフの青いレンズフィルターのふちが光っていて、 ああそういえばこの間の旅行で撮った写真を整理していないな、なんて気付く。 大学生の頃に格安で買って、思えば10年以上使っている私の一眼レフ。 センサーが古くて、ピントなんかレンズがウィンウィンとせわしなく音を立てて不確定に外れるし、 色だって1000万画素しか出ないし、ISOは1600が限界で。 そんな中途半端なデジタルのほとんど時代遅れでカメラだけど長く使い込んでいるからか、 なぜか愛着があって、旅行や猫の写真を撮るときには必ず持っていく。 そんな時代遅れの小さなカメラから取り出したデータは、見事なほどその時の記憶を留めていて、 ピントなんかどうでも良くなるくらい私にとっては記憶の集合体であり、 楽しいという感情が確かに存在しているという確認物である。 そのときみんなで見た桜をできるだけきれいに美しく撮ろうと努力してしまうのは、職業病なのか、 それともやや濃いめのピンク色の世界から特別な感情を抱いていたからか。 感情が過ぎ去った今ではそれはどちらだったのか覚えてはいないけれど、 桜というモノから何かを感じていたのは確かな証拠で。 私にとって、その旅行が、その桜が、誰かと過ごした時間が、ただの結果物ではなく、 意味があったものであるということが、どこか記憶に体温を与える。 それはスタジオにいればなおさら、そんな毎日の連続であるということを、しみじみと感じる。 朝陽がスタジオに入ったばかりの土曜日、午前9時。 スタッフ以外でその日に最初に出会ったのは、その姉妹だった。 姉は背筋を伸ばし凛としていて、妹はおっとり笑顔が多かった。 対照的な二人。 だからこそ仲が良く、スタジオに入ってすぐに二人のおしゃべりで空気が賑やかになったのを覚えている。 姉がヘアメイクをしている間、今日の撮影の話をママとしてるときに、妹が「お姉ちゃんはいつも可愛いなー」と言いながら、姉に向ける真剣な眼差しに気が付く。 この眼差しは、どこかで見覚えがある。 いや、見覚えがあるというよりは、自分の記憶を呼び覚ますもののようで。 ああ、そうか、この眼差しは、姉への憧れの眼差しだ。 この妹にとって姉は、センセーショナルで洗練された存在で憧れの対象。 自分もこうなりたいけれど、自分ではどうあってもかなわない。 同じ存在になれない。 少しの悔しさが混じる眼差し。 私にも5歳上の姉がいる。 私のとっても姉は先に人生を歩み、常に流行りやファッションをリードしている存在だった。 妹の眼差しを見ていると、私の幼いころの姉への想いと重なるようで、同調してしまうような感覚があった。 私を置いて、前へと走る姉の存在へ抱く憧れを通り越した悔しさを、 口にしたところで負け惜しみにしか聞こえないし、それを口にする道理もないと思っていた。 私と姉は違う。だから、私は私の道を歩くと決めるまで、この想いが付いて回ったのを覚えている。 私が彼女を見ると、そのときの思いと重なってしまうのは、彼女に記憶や想いを投影しているのは明らかで、 彼女本人にはその気がなくても、 私自身が彼女の眼差しや表情に感情を発生させて意味を持たせていることは確かである。 それが自分勝手なのか、そうで在るべきなのかはわからないが、ただの妹として見ることだけでは、 彼女自身が写真で引き出すことができないのは経験で知っている。 だから、私の目で見て発生した感情で被写体である彼女に意味を持たせることが、 写真を用途で見ることなく、生きたものとしての命を与えることであると、そう考えている。 彼女自身を撮りたいな。 そう思っているときに、彼女もドレスでソロ写真を撮るはこびになった。 私が彼女自身を何で見出したかは、眼差しである。 その眼差しから発せられたものは言葉にするにはとてもじゃないけれど繊細で、 形が在るものから発せられた形のない何か。 それが彼女自身であると思った。 それを形で言うならば、伸びた睫毛、そこから覗く黒目、きゅっと少し力の入った口角。 その形から発せられるものは、今この瞬間ここにしかいない彼女であって、 今私が言葉にした形を他の誰かが同じようにしても、きっとこの情感を発せられるのは彼女しかいないだろう。 だから、言葉にするもどかしさを感じてしまう。 私が、彼女自身を感じているのはその形になっているものからなんだけれど、 実際に感じ取っているのは形じゃない何か。 それを表現するのも形である写真でしかないから、写真で私の感じているものを、写実的に、 でも人の感情に触れるように撮ること。それが、私の写真であり、ライフスタジオの写真なのだと思っている。 ある程度、写真を流れで撮っていく中で、会話をし、端々に感じる彼女の姉への憧れとコンプレックス。 彼女には彼女の魅力があって、二人とも十分魅力的だ。 二人はもともと違う人だから、違っていていい。 それを伝えたいなんて、驕った考えはないけれど、私は姉とは違う魅力を持った彼女を最大限美しく、 彼女らしく撮りたいと思っただけ。 彼女が姉への憧れを持っていることを否定するつもりはないし、それも彼女の存在の一部だ。 だから、その羨望の眼差しから彼女自身を感じたのは確かだし、 それが今の彼女自身の自然な魅力であると言える。 姉の魅力を寂しそうな笑顔でつらつらと話す彼女の話に相槌を打ちながら、 だからその表情、睫毛と、少しかたく結んだ口もと。 彼女の健気な感情は、遠くだと見落としてしまうから。 なるべく、近くで。 だけど、彼女の胸を締め付ける少しの苦しさは、左の空間に任せて。 控えめで、健気な彼女の心情を表すのは寒色のラベンダー。 透き通るような感情と、届かない想いは、心を滲ませるような色味で表せるような気がして、 私との距離感を表現するのも兼ねてぼかして空間に散らす。 髪を透かして、頬と鼻筋まで届く光は、美しく彼女の輪郭を作るように。 そしてまるであの日の名残のように。 形を作るということは、そのために、瞬時に構成するものを判断し選択し、組み立てること。 想いを形作るには、写真を形作るものを、料理の材料のように、絵画の絵の具のように、 その要素ひとつひとつに意味を付け、写真全体に意味を作り価値を生むこと。 見えないものをできるだけ見えるように、 カメラを通し、被写体と話し、自分の主観を信じて、組み立てること。 それは形だけど、その意味さえ知らなければ、何の意図もなければ、それはただのモノと同じだから。 想いを形にするには、写真というモノに人を表すことをすること。 中身を、外側から作ること。 そのために、形を構成するフレーミング・光・露出・インテリア・ポージング・表情というものたちを駆使し、 ただそこに在るものという結果物としてだけではなく、 それを超えた唯一無二の存在として、被写体を際立たせること。 それが私の考える、形のないものを形にする方法。 こうして彼女から発せられるものを形作り、彼女だけの特別な存在を示すことで、 写真がただの写真としてではなく、永遠に心に残る何かになったらいいと心から望んでいる。 写真が、生きているように。 写真を見るだけで、鼓動が聞こえるように。
楓季と馮煕
2017/2/28
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そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。 顧客カードを書いているママの手元を見ていると、姉の名前を「楓季」と書き、そして弟の名前は「孔明」と書いた。珍しい名前だったので、私が「この名前は特別な意味があるんですか?」とママに尋ねてみたところ、三国志に登場してくる人物の名前だということを教えてくれた。弟の「孔明」は「諸葛孔明」から付けてものだった。 理由は「頭を使ってなにかを成し遂げて欲しいからです」というようなニュアンスで答えてくれた。諸葛孔明は、知恵を使っていろいろな戦い方を考え、少人数でたくさんの軍勢に勝利するなど、三国志に関するさまざまな作品でその活躍が描かれている。 姉の「楓季」は、「馮煕(ふうき)」から付けたものだった。その時はどのような人物がわからなかったが、孔明のように三国志という舞台で活躍していたのだろうと感じた。後日、「馮煕」を調べてみると、外交官として国に尽くした忠義にあふれた人物のようだった。 子供の名前には、親が願う子供の生き方が深い意味が込められている。 両親は多くの人生の時間を過ごし、子供がこれから経験する学生から社会へと自分の人生を生きていくことを知っている。その時間のなかで、声を上げるぐらいの歓喜も待っているかもしれないし、声も失うぐらいの悲劇も待っているかもしれない。ということも知っている。 我が子にはこれからの人生の旅を三国志の武将のように、現実を突破しながらまっすぐに生きていくことの願いが込められている。 それは両親が人生で重要だと思っている「生き方の美しさ」である。だから「楓季」と「孔明」という子供の名前に私は美しさを感じた。 私は、この名前を頭の片隅に置いたまま撮影していたが、ガラスケースから少女を覗き込んだ時に、そこには楓季と馮煕が写り込んでいた。それは私の中で少女の真理である。 真理とは、他者と私の観念の一致である。 簡単に言うと、目の前の人が泣いているとしたら、「悲しんでいる」という観念を持つだろう。だが、本当は嬉しくて涙を流していたら、それは真理にはならない。 しかし、すべてのことを間違わずに真理だと認識することはできない。 私たちができるのは、客観に制限されながらも、真理はこうだ!と決定することで、私の目の前 の霧を晴れさせることはできる。 「楓季」という名前の少女は、ただ少女であるが、少女という範囲ではなく、「楓季」は「馮煕」から生まれたただ一人の少女なのである。 馮煕という一人の少女の真理と出会うように、ファインダーを覗いて、焦点距離のリングを回し、カメラを傾ける。その行為自体が私の客観だ。 そして、ピントのピピッという音と同時に、私の客観と真理が瞬間的に出会いシャッターを切るのだ。 そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。 この1枚の写真のポイントを整理するとこうだ。 ガラスケースに写り込んだもう一人の少女は、楓季と馮煕を表現している。 それを強調するためにポイントが3つある。 1、光に向かう視線 少女の目線は光量が一番大きいところを指している。 写真において最初に目がいくところはハイライトの部分であり、そこに視線を持っていくことで、少女が優先的な存在として配置されている。 露出もハイライトに設定されているため、他の部分との露出比があり、より暗くなりコントラストを生むような結果になっている。 2、フレーミングのフレーミング 写真の四角の中に四角を作るという表現方法である。 この効果は、被写体を簡単に注目させるという効果を持っている。 また、四角というバランスがとりやすい構成であるため、同時に安定感を確保している。 3、反射したもう一人の少女 シンメトリーのようにガラスに写り込んだ少女は、シンメトリーという効果を持っている。 これも一種のバランスである。また、写りこみは視覚的に写真のおもしろさも同時に与えてくれている。 写真にはこのようなポイントがあり、それは私から生まれた客観でもあるし、少女の真理が与えてくれたものである。だから、写真は私の1枚ではなく、私たちの1枚なのではないだろうか。
葛藤と光
2017/2/28
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Photo by CHIBA Coordinater by Macchan 私が毎日写真撮っている生活を改めて振り返りました。 自分の現在の技術はうまく作用しているのか?自分に問いました。 こんにちは!どうぞこちらへお上がりください。 今日の撮影で何かご要望はありますか? お客様とはここからスタートする日々を送っています。 現在持っている技術をどう使って行くのかという点を頭においてカメラを構えていないのでは?と私自身に問いかけたとき。見えた一つが撮影数分前もしくは当日の朝、はたまた現在抱えている写真課題のことが大部分を占めているのが現在の自分、もっと言えばそれがちょっと前からの自分なのではないかと思います。つまりは技術を使っていこうというより今この瞬間頑張ろうと思うことを頑張ろうとなっているような気がしました。いい写真を残したいこれは共通でどのカメラマンも思っていることだろうし、写真館で働いている以上、商業写真を撮る者にとってそれは根底にあるものです。 私は屈指しているのだろうか? Cannon5DMⅢを使い、レンズはEF24-70m、EF85m、EF70-200mを主に使っている。 これらのレンズの特性はちゃんと作用させているのだろうか。広角も望遠もそれぞれ特性があり、使いどころをちゃんと選んでいるのだろうか?毎日とっているといつものところで自分なりのルーティンがある。毎日少しづつ崩そうと少しでもスタジオをフル活用できるように練習を重ね皆取り組んでいるかと思います。もし私がコーディネーターであるのならば子供に笑ってもらえるようにたくさんの技術を屈指して全力でアシスタントをおこないます。出し惜しみのないように全力です。カメラマンであるのならば出し惜しみのない撮影にするべく行うのが常でなければ全力とは言えないと思いました。時には広角を活かした写真を残さずに終えてしまった、、インテリアを活かせず終えてしまった、、もちろんその場その場で状況は異なるのですが、ああ、なんでもっと自分の技術を表現できなかったのだろうか、、、と反省します。 そのきっかけが鈴木さんによって行われた写真教育に参加したときです。この時完全にスイッチが切り替わりました。それと同時に私は初歩的な知識がところどころ抜けているということは知りました。カメラのことや撮影のこと。ある程度知っているものだと過信していた自分がそこにいると知った時、私は認めるところから始めなければ次に進めない、いや進んではならないのではないかと感じました。なぜなら私の周りには「なんとなく」が充満していたからです。みなさんの場合はどうでしょうか。。 立ち止まる そして整えて前を見る 今の生活を当たり前に過ごしているという安堵と、当たり前の生活の中にある見えない欠損にいつ気づくのか、これを知る知らないでは大きく私の今後と私の周りの今後が変わってくるのではないかと思いました。自分の情けなさを知ると同時に見えた光です。 その光へ進むべく条件の整理を行います。 その目の前にいる被写体が訪れるだいぶ前に。 私の場合、美学感覚は人よりも劣っていると思ってしまいます。 感覚で撮るというのがおそらく性に合ってないのだと思います。ゆえに被写体が私の前に現れる以前に準備を行わなければ私は1つの撮影で「私とあなたを満足させることができない」となります。この前提がなんとなくが充満していた私から離脱。 条件の整理のために自分の撮影に疑問を持つこと。たくさんの要素をどう作用させている?広角レンズは意味をなしているのか?目線に意味を持たせたのか?その前ぼかしは効果があるのか?昨日の自分となにが変わった? こうしてようやくみえた光の方向に進めると今は確信しています。 私は歩き方を知りました。 そして私は1人で撮影をしていないということの大切さにも思考を展開していく必要性を改めました。コーディネーターがいるということの重要性。シャッターを押す前にコーディネーターの表現が目の前にあるのです。 この子の場合は10歳で背も高く、私の認識の年齢の感覚よりもはるかに大人らしさを感じていました。コーディネーターのまっちゃんもそう捉えました。大人と同じようにメイクをしましたがそれは当たり前のことではなくまっちゃんがその子を捉えた選択があったとが前提にあります。そうなれば大人らしく撮るのがまっちゃんへの返答になり、この子に対する撮影の条件を整理しなければならないと思いました。10歳で大人らしくという1枚表現を。黒いワンピースと長い黒髪、その一つにアクセントカラーとなっている赤いリップとします。 彼女は撮影中撮られることに恥ずかしさはなく気持ちにゆとりがあり、親御さんから見られていても妹が甘えている様子を横目にしても撮影に集中している姿がありました。その「落着き」と「強さ」が彼女です。 まっちゃんのメイクを含むコーディネートもそれを引き立てるものでした。 そこで統一感のある空間とすべく私が何度も練習した青山店の小窓のわずかな光で陰影をつけ、赤いリップと彼女の余裕のある表情を確認後シャッターを切りました。わずかな前ぼかしは白い木なのですが光の当たらない場所のものあるゆえにグレーっぽくなっています。仮にこれがなかった場合もう少し明るい写真になっていました。白系の前ぼかしは明るくするだけでなく薄暗くさせ、ぼかした右半分を統一感のある1枚へと導いてくれます。そしてこれは180mで撮影しており望遠レンズの特性でもあります。 また少ない光でなおかつサイド光だったゆえできる表現になるかと思います。スタジオ内の光と影を利用し、これを空間の作用と定義したいと思います。スタジオ内の1か所、2か所と表現イメージ図を少しでも整理して撮った中の1枚です。 私は思いました。 準備と条件について。旅と準備、旅と条件。旅と準備であれば支度荷物のことで、旅と条件であれば旅行プランとかそういった話になるかと思います。しかし、撮影と準備は1枚撮るまでに自分がどう思考を整理したか、撮影と条件は1枚とるために自分がどう思考を整理したのか。 つまり準備と条件は言葉は違えど撮影においての意味合いはほぼ一緒になるのではないかとさえ感じました。 兎にも角にも今の自分がすべく1本道をまずは描けたのかなあと思います。自分の中にある「なんとなく」を砕いて駆逐してやる。
空間
2017/2/28
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photo:Tomiki codi:Soo "こころを自由に遊ばせる" 何かに没頭し、無我夢中で遊ぶ子供たち その自然な姿が、あんなにも愛おしく美しいのはなぜなのだろう 子供たちは何にも縛られていない どんな時も、ここがどんな場所であろうとも 世間のルールも常識も、関係ない ただ世界をあるがままに受け入れて その中で思いきり楽しむことだけを考えている そんな風に"こころを自由に遊ばせている状態"が 本来私たちのあるべき姿なのかもしれない そしてそんな姿は愛おしく美しい 上記の言葉は代々木店のアイデンティティであり、代々木店に所属するメンバーの代々木店という空間に対する願いでもあります。 当たり前のことですが撮影する限り開放的なスタジオの空間で「さぁ自由に遊んで」といって撮影は成立しません。 だからといって被写体に指示を出し強制すれば、心を自由に遊ばせる状態を表現をすることは出来ません。 そこには被写体を無意識に写真を撮れる状態に誘導するという方法が必要となってきます。 その誘導とは一緒に遊ぶということが一つの手段だといえます。 "こころを自由に遊ばせている状態"とは被写体だけの状態を指すのではなく撮影者たちの状態も指しているのです。 一緒に遊ぶことで楽しさを共有し、撮るに良い瞬間を逃さないのです。 この写真は上記の"こころを自由に遊ばせている状態"を表現した写真であります。 無我夢中に遊ぶ彼のその表情は上記の文章のように愛おしく美しい。 この写真の構成は全て被写体を魅力的に 見せる工夫を施してあります。 1.視線の誘導-彼の表情に自然と引き込まれる視線誘導は前ぼかしがキーポイントとなっています。更には望遠レンズを使い写真にぐっと入り込む印象を持たすことのできる「圧縮効果」を用いることにより、更に表情を印象的に表現しています。 2.光の存在-主体になる光は後ろからと被写体を表情を印象的にする左からの光、2種類の光を主に数値化することが出来ます。 3.黄金比-この写真は黄金比の構図使うことにより、写真に安定感とレイアウト的美しさを持たせる工夫をしています。 黄金比の説明 新宿駅の人混みを抜け、大通りを少し入った静かな路地 くるくると螺旋階段を登ると、そこは都会のビル群を見渡す開放的なスタジオ 喧騒から離れ、いつもの自分を少し横に置き 大人も子供もこころを自由に遊ばせる場所 この場所が、ただ記念に写真を撮る場所ではなく 写真を通して何かを確認する場所であってほしい 自分と自分の大切なものが こんなにも愛おしく美しいのだと再確認する場所 自分が今まで知っていたようで気がつかなかった 「幸せ」に出会えるかもしれない
モノクローム 〜観察
2017/2/28
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モノクローム 〜観察 先日、『カメラ・オブスクラ』に触れる機会がありました。 私の夫は、ライフスタジオ湘南店のカメラマンでもあります。 湘南店は、カンボジアでのボランティア活動を行っており、カンボジアの人々が職業選択のひとつとして『カメラマン』という選択肢を得ることができるように、写真学校を作ることを目標に活動しています。 その一環として、現地での『手作りカメラでの日光写真』の企画準備をしていた夫が、自宅で日光写真を撮る為の『カメラ・オブスクラ』の試作やテストを重ねていました。 『カメラ・オブスクラ』とは、ラテン語で『暗い部屋』という意味があります。暗い部屋の小さな穴を通して、外の光景が壁に写し出されるという光学原理に基づいた、いわば『カメラ』の原初的な仕組みです。 日光写真では、その仕組みにコピアートペーパーやアイロンによる加熱を加えて、とってもシンプルな、本当に原始的な『写真』を撮ります。 牛乳パックに虫眼鏡と黒い画用紙だけで作った、ハリボテのようなカメラ。 本当にこんなので写るんだろうか…という危惧を抱きつつも、アイロンで加熱したコピアートペーパーをひっくり返した時に、ぼんやりとした青の濃淡で外の風景が焼き付いていた時には思わず「おぉっ」と声が出ました。 自分が今使っているカメラはフィルムや紙を使わず、撮りたいものにレンズを向けてボタンを押せば、その一瞬でレンズを通して見えている範囲の何もかもを克明に記録します。その仕組みは、元を辿っていけばこんなにシンプルなものでした。 穴の開いた暗い部屋と、光があれば、写真が始まっていくのです。 写真は『光で描く絵』と言われます。光のないところでは、写真を撮ることはできません。 写真を撮っていく上で、「光を見る目」というのは、撮影者に必要不可欠なものです。 光がどの角度から入ってきているのか、それが被写体にどのような当たり方をしているのか、同時に影はどうなっているのか、それらが写真にどのように作用するのか…… それらを見て、仮定して、あるいは規定して、その後ようやく私たちはカメラという機械の操作へと移ることができます。 最近のカメラは、それこそものすごい進化を遂げているので、カメラ側が何もかも判断してくれるようにもなりました。 ぱっと向けてピッと撮れば、様々な最先端の機能があちこちに作用して、それこそ色鮮やかな写真が一瞬で撮れます。30分も屋外に放置して、アイロンで加熱してようやくぼんやりとした像が焼き付けられる『カメラ・オブスクラ』とはえらい違いです。 レンズから入る光量によって自動で絞りやシャッタースピードを調節し、ピントを合わせ、顔認識で笑った瞬間シャッターを切る、なんて芸当は、一昔前には想像もできなかったことですし、それはそれですごいテクノロジーだと思います。 しかし、機械の判断はやはり『機械』でしかありません。 光量調節は飽くまでも平均値を算出しますし、ピントは広範囲に合わせて、顔認識では笑顔以外の写真は撮れません。機械は飽くまでも『機械』であり、意思を持つことはないので、「敢えて」という操作をすることがありません。 利便性はありますが、撮影者が自らの表現をしようとするならば、これらの機能はoffにするしかないと思います。 私たちは撮影者として、目の前の光を見て、被写体を見て、表現の仕方を考えます。 それには、「見る」を超えて、より深く「観察」した上で判断をしていかなければなりません。 ただ見るだけでは、表面的なことしか分からないものです。表面的なことだけで良いのなら、オートマチックな機械の平均値に合わせたところで何の問題もないでしょう。 しかし、「人」が「人」を表現しようとする時に、その多様性や特殊性は、機械が算出する平均値で表すことはできないと考えます。 カメラの算出する数値より敢えて明るく、あるいは暗く撮ることも多くあります。全てを写そうとはしませんし、笑顔以外を望むこともあります。 目の前にいる被写体の存在、部屋に溢れる光の性質、空間の面や線……カメラの前の、あらゆる複合的な要素のひとつひとつを観察し、その観察に基づいて相互に作用しているそれらを写真の中で効果的に再構成することが、撮影者の意思であり、表現であり、ライフスタジオの写真であるのではないでしょうか。 彼の周りには綺麗な光があって、無邪気に笑って遊んでいた幼い少年が年齢にそぐわない凛とした眼差しを向けた時、私は彼のその存在を、生きている意思を感じます。 それを表現したいと思った時に、撮影者としての私の意思で、カメラをモノクロ設定にし、光を受ける前ボケを配置し、露出と構図を決めてシャッターを切ります。敢えてモノクロに、敢えてオーバーに、敢えて笑顔ではない写真にしました。 モノクロにしたのは、色の情報を失くすことで「光」と「被写体」に集中された写真にしたかったからです。 光には、強弱や濃淡、硬軟での表現がされます。モノクロームの写真では、光のもっとも強い部分を白とすれば、光の当たらない影の部分を黒として、白から黒の間のグラデーションで強弱や濃淡が表されています。 本来、色も同様で、赤い色の面に光が当たれば、光が強く当たっている箇所は白寄りの赤になり、光の当たっていない箇所は逆に影を含んで黒に寄った赤になります。 光の強弱や濃淡に加え、更に色がその要素に加われば(しかも何色も…)、それこそ情報量が多くなってしまい、写真を見た時に目を引く部分が散漫になりがちです。 この時、青葉店の2階の窓から差し込んでいた午後の光は、インテリアのあちこちに反射して幾つかの色を含みながら彼の肌色にも影響を及ぼしていました。 肌や服や床の色、背景の面や線、そこに反射する光の強弱……ありとあらゆるものがそこにあり、互いに作用している中で、幾つかの取捨択一を経て、今回はモノクロームを選択しました。 色、という要素を排除することで、写真の中には白と黒の間に存在する濃淡のみで世界が描かれます。それはシンプルで、まとまった印象をもたらしてくれました。 被写体の彼に対して光は逆光で当たっており、彼の髪や輪郭をなぞる光のエッジは彼の存在感を写真の中でより浮かび上がらせるように強調します。 青葉店のインテリアは線が多いので、被写界深度を浅くして背景の窓枠を適度にぼかしつつ、手前に置いた花で有機的な曲線の前ボケを入れ込みました。物質的な場所としての空間を示す人工物の直線と、三次元の奥行きという空間を示す前ボケの曲線が『空間』を多角的に表現するのに一役買っています。 これらの構成で、写真の中の全体像を整えながら、最後に主題として主張するべきは彼の瞳のコントラストです。 前述の通り、モノクロームに設定した時に、写真の中は白から黒の濃淡で表されます。 光があれば、影がある。この写真の中でいちばん黒いところは、彼の瞳です。そこに、床に当たった光が反射して、キャッチライトとして入ったことで、彼の瞳は白と黒のコントラストによって際立ちました。 目は口ほどに物を言う、とはよく言いますが、人の存在感を表す時に、「目」の表現は欠かせません。 光が溢れる場所で、彼の瞳の深い黒に惹き付けられて、この写真を構成しました。 光があることで、写真が始まります。 ただの記録から、撮影者が意図を持って表現するまでに「写真」の概念は変わりました。 シンプルな仕組みの『カメラ・オブスクラ』は、ただ目の前の光を受けてその通りに像を焼き付けることしかできません。しかし、カメラの進化と共に、写真も変わっていきます。 光があれば写真が始まり、そこから私たちの観察が始まります。 その観察に基づいた、意図ある表現を拡げていくことが、カメラマンとしてのたゆまぬ姿勢だと思っています。 Life studio No,99 Yokohama Aoba Photo by Reiri Kuroki coordi by Kaori Sasaki
『Oblivion』
2017/2/27
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Photo by HIRO Coordinated by Kaori Kinoshita 子供の頃、何でもない休日の昼下がりに何かが始まる気がして心躍った。 特別なことなんてなくても、毎日が特別で一瞬一瞬が輝いて見えた。 何もないのにワクワクして、なんでもないことに我を忘れて無我夢中だった。 大人になったらいつの間にか忘れてしまう子供の頃のワクワクする気持ち。 無邪気にただその瞬間を生きながら、純粋に未来を信じる姿。 本当は大人になったから消えるわけではないでしょう。 きっといろんなもので蓋をして自分で鍵をかけてしまうのかもしれません。 フォトスタジオで撮影をしていると、毎日子供の姿を通してたくさん自分が忘れかけていた気持ちを思い出させてもらうことがあります。 もしかしたら大人になった時、幼かった頃の写真を見返した時に思い出だけではない何かを思い出すことができるかもしれません。 子供の頃の無邪気な姿を残せることは、未来への大切な宝物になるのでしょう。 写真は物理的には平面ではありますが、そこには時間、空間、空気、気持ち、思い出、関係性・・・ いろんなものを詰め込むとができるすごく4次元とも5次元とも言えるような箱になります。 写真という宝箱に子供の頃の純粋に人生を楽しみ、純粋に未来を信じて夢を見ていた姿を詰め込んで残してあげたい。 いつかもし、大人になり子供の頃のワクワクを忘れてしまうことがあった時、その写真を見て子供の頃の気持ちの鍵を開けてくれ たら。 今回の写真ではそんなことを思い、「休日に1人で遊ぶ子供の夢」をテーマに子供の頃の気持ちや夢を想起させる写真を形象化しようと決めました。 形象化とは目に見えない感情や想いなどを目に見える形で表現するとされています。 どんな想いをどんな形にするのか。 それはカメラマンに与えられた特権であると共にとても大きな責任でしょう。 所沢店の特徴的なインテリアに家のリビングのような部屋があります。 そのインテリアの特長として普段のような飾らない自然な雰囲気の撮影ができるという特長があります。 この特長を使って子供の頃の気持ちを想起させてくれるような写真を形象化したいと考えていました。 今回の被写体の子は白く透き通った白い肌とキレイなブロンドの髪が印象的なアメリカと日本のハーフの女の子。 まだいたずらも好きな天真爛漫な可愛らしい性格の5歳でした。 コーディネーターが提案してくれた白いワンピースと麦わら帽子の衣装を見た時に、彼女の持つ雰囲気と衣装のイメージが合わさり、考えていたリビングでのイメージの形象化を行うことを決定しました。 彼女が持つ印象的なブロンドヘアの色と透き通った白い肌の色、そしてシンプルな白いワンピース。 物理的な面においてもその色たちがリビングのインテリアのナチュラルな色味と、窓に写り込む外の景色の色合いとキレイにマッチし、彼女の持つ特徴を活かせると考えました。 また、撮影中に彼女の内側にある天真爛漫な内面が見え、今彼女がもっている子供らしい無邪気さや純粋さを未来に残して届けたいと思い、最後のシーンでこの形象化に取り組みました。 まず頭の中にイメージを膨らませて、紙に形象化のイメージをまとめ、それをコーディネーターに見せながら相談し、お互いにイメージを共有して準備は完了。 実際にインテリアを整え、コーディネーターに子どもを誘導してもらい撮影を開始しました。 リビングで自然に遊ぶ姿を撮影しようと思いましたが、ただ遊んでいるところを残すだけではそこに残したい想いを詰め込むことはできないでしょう。 一枚の写真としてそこに想いを込め、形象化するにはそこに表現が必要となります。 この写真の表現のポイントとしては 「自分と被写体の間に窓ガラスを入れた撮影」 となっています。 窓ガラスがあることによって3つの表現効果がもたらされています。 1つ目が「被写体との関係性の断絶」です。 写真では必ず被写体を取り囲む人たちとの関係が影響してきます。 カメラマン、コーディネーター、パパママ。 直接は写っていなくても子供の目線だったり表情でその写真に周りの人たちとの関係が写り込みます。 それが重要な要素になることもありますが、今回のテーマは「休日に1人で遊ぶ子供の夢」だったので自然に遊ぶ姿を表現するために彼女をこの写真の中で1人にする必要がありました。 物理的に被写体と関係しないように窓ガラス越しに撮影をすることで、部屋の外から見守っているような表現がされ、被写体を1人にすることに繋がっています。 2つ目が「写真全体の統一感」です。 窓ガラス越しに撮影をすることで、窓に反射する光によって全体的なコントラストが下がり、色味が柔らかくなっています。 リビングの中のインテリアや小物、彼女の肌や髪の色など色味の要素が多くなっていますが、全体的なコントラストを下げることで統一感がもたらされています。 また、写真全体の色味をパステル調にすることによって、彼女の透き通ったイメージの表現を助けてくれています。 3つ目が「窓に外の景色を写り込ませる」ことです。 まず、この景色の写り込みを入れることにより写真全体に明るいイメージをもたらしてくれています。 リビングのインテリアをこの角度から撮ると奥のソファーの方が光が当たりづらく少し暗くなります。 そこで、景色にある空の部分のハイライトや植物の黄緑色を奥の暗くなる部分に写りこませることによって写真全体の印象が明るくなっています。 また、視覚効果的にも一見リビングと窓ガラスに写った外の景色が同化されたように見え、どこか綺麗なアニメーション映画のような世界観となり、リビングが持つリアル感を薄めて表現したい「夢」のようなイメージの表現にも繋がっています。 窓越しに撮影することの他にも一工夫入れているポイントがあります。 それはリビングの奥のソファーにあるカラフルなクッションです。 被写体を誘導し撮影に入る前に撮影する角度を考えて配置をしました。 カラフルなクッションを入れることにより、写真に色味を加えると共に、奥に目が行くポイントを置くことで、写真に奥行きをもたせています。 そして被写体のポージングは、その子らしい自然な姿が出るように彼女が遊べる小物をコーディネーターに選んでもらい、それを彼女に渡して自由に遊んでもらいました。 あとは部屋の外に出て彼女が夢中になる瞬間を待ち、シャッターを切りました。 実際に彼女が大人になってどんなことを思うのかは想像しかできませんが、ライフスタジオを通して彼女の人生に携わらせてもらったからには彼女の人生に何か少しでも力になるものを残せしてあげたいものです。 不安や失望の試練がこれからの人生待ち受けていたら、こんなにも一瞬一瞬は輝いていて、希望に溢れてたんだということを忘れないようにと願いを込めて。 子供の頃の気持ち。 忘れ去っていたその気持ち。 今、自分も持つことができているでしょうか? 大人になるといつの間にか特別なことでもないとワクワクする気持ちを忘れてしまいます。 そんなワクワクする気持ちは写真にも繋がるでしょう。 彼女の未来に何か残せればと考え形象化を行いましたが、けっきょく気づかされるのは自分の方です。 いつまでも子供の頃の一瞬一瞬に目を輝かせた気持ち、それを忘れずにファインダーを覗き続けることを教えてくれた大切な写真となりました。
ととせ。
2017/2/8
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aoba photo:gomei codi:Sasaki 写真館につとめていると多くの祝い事に参加する事があります。 一般的なお祝いを時系列で纏めてみると、 お宮参り 生後一ヶ月目ごろに、無事に出産したことのお礼と子供の健康と幸福を祈って、氏神様への最初のご挨拶として、近くの神社や天神さま、お稲荷さん、観音さまなどへ詣でるお祝いの撮影です。 七五三 三歳:平安時代の「髪置の儀」に由来します。平安時代の上流階級では生後七日目に髪をそって丸坊主にし、三歳の春から髪を伸ばし始める習わしがありました。その頃の乳幼児は死亡率が高く三歳まで健やかに育つことはとても喜ばしいことで、それを祝ったのが始まりとされています。 五歳:平安時代に公家階級で行われていた、始めて袴を着ける「着袴の儀」に由来します。 七歳:鎌倉~室町時代頃からの習わしで「帯解の儀」に由来します。当時の子供のきものには紐をつけて着せていました。そのつけ紐をとって帯を結ぶまでに成長したことを祝う儀式です。 では十歳(ととせ)とはどのような起源があるのでしょうか。 十歳記念に関しては歴史的起源の様にしきたりは調べても特段ありませんでしたが、現在ではハーフ成人式という言葉と共に、学校行事の一環として導入されている地域もあります。 あえて起源を辿ってみると、思い病気を患っていた子供を持つ両親が20歳の成人式を迎えられないかもしれない、だから10歳の時に成人式のお祝いをしてあげよう。という思いが起源と言われています。 七五三までは神にまつわるお祝いの儀式として行われておりますが、ハーフ成人式においては親心からなるお祝いという事が分かります。 十歳(ととせ)のお祝い普及促進委員会のHPにこのような文章がありました。 育児というものに携わり、子供と格闘する年月でもあり、うれしいこと、楽しい事でもあり、また思い悩むことも多い歳月。 それは人生の中で、一番「愛おしい時」でもあるのです。 ここからわかる事は、子供の為でありながら親心からなることであり、親の願いが詰まったお祝いと願い事です。 10歳の記念と称して身体の成長を撮影する事だけがハーフ成人式撮影に必要なことなのか、私はそうは思いません。 ハーフ成人式の起源が親の思いだとするのならば、目に見る事の出来ない感情や心情が表されている物を撮影する事が重要で、目に見える身体や仕草や表情からその思いをくみ取る事が必要です。 これから大人の階段を一段づつ上がってゆく、子供への未来への希望、そして成長の記録これこそがハーフ成人式撮影に求められる内容なのだと思います。 彼女はハーフ成人式枠に新規の顧客としてママと二人で来店されました。 ピンポーンとインターホンがなり出迎えると、第一声は「宜しくお願いします。」緊張と不安からか少々うかがっている様子にも見えましたが、第一印象はとても行儀の良い女の子という印象でした。 終始おどけるスタッフたちに対して必ず敬語で会話をし、質問に対してはっきりと受け答えをしてくれ、落ち着いた空気が流れてゆきました。 多くの会話をしてゆく中で、彼女自身の人間性を知れるポイントがありました。 1.年上は敬う存在であると認識している 2.何事も真面目に取り組む性格である 3.母親の存在が緊張感を緩和させてくれている。簡単に言うと中がものすごく良い。 中々簡単に初対面で普段の姿は見れないものですが、それが見える瞬間はいつも不意にやってきます。 ママと2ショットの撮影をしてゆく中で、お互いの顔を見合う時がありました。 緊張しているママさんに対し、ふざけながら顔を近づけ緊張を解きほぐそうと、少々いたずらっ子な一面を見せました。 その時に私は、あぁなるほど。私はハーフ成人式撮影という形式に囚われていた事を強く痛感しました。 誰でも環境によって気を使うものであり、素の姿があるものです。 その素の姿の撮影こそが、10歳の記念であり、ハーフ成人式の撮影であり、ライフスタジオの撮影であると思います。 それは環境に抑圧された内面の自由ではないか。 そう感じると共に、親の思いと、成長性ゆく内面の撮影対していくつかの方法を用いりました。 ●不意を衝く 前途した通り、とても行儀の良い女の子です。 言われたことは少々難しくても我慢して頑張るタイプでした。つまりは撮影に対し固い指示をすればするほど頑張って行ってくれますので、一つの私の指示に対して彼女らしさが一つ隠れてゆくものだと感じました。 例えばこの年齢の子達は大体小学4年生から5年生くらいで、学校という組織の中で生活し社会性が備わっています。だから低年齢の撮影の様に偶発性が低くなりますし、健気でありながら同時に不自由な感覚すらあります。 それが大人になる事かもしれませんが。 そのような撮影をしていると、なんだか物足りなさをカメラマンとして感じます。 「何かが足りない」 まるで被写体の感情が読み取れなく、被写体は誰でもいいような写真になりがちです。 目に言える要素ばかりが混在し、良い写真である内容と形式の一致がされていない事を意味します。 端的に言うとそれは被写体に何かがあるのではなく、カメラマンの能力が足りないということでしょうか。 この写真ではその目に見えない部分をどう見せるのか、つまりは相手の素にどのように近づくかがカギとなりました。 この写真は2シーン目の一枚目に撮影されました。 ママやコーディネーターと談笑している間に、そそくさとライトボックスを設置しながらカメラの露出を決定します。 そしてカメラマンからの指示は極力シンプルにします。 「ここに立ってママと話していてね~」 会話の途中に話を切るように 「ねえ、ねえ。」 ふとこちらを振り向いた瞬間にシャッターを切ります。 その時必然として、何?ん?といった疑問の感情が沸き、表情としてその感情が露わになります。 社会性が身に付き出すと素の感情というものは心の内にしまわれやすくなってしまうものです。 高い城壁の小さなヒビを探すように、撮影をすることが彼女との撮影を通した対話には不可欠だったのです。 ●シンプルな線の処理 極力シンプルな線の処理を行う事で、ある種無機質な印象を作る事も方法のひとつです。 インテリアとライトボックスの縦線を極力まっすぐ捉えるために、インテリアに対して正面にカメラを配置します。 ライトボックスが画角の左半分を締め、二分割構図にしました。 縦線を意識し整理を行う事で、シンプルに無機質的な印象を演出し、その為インテリアの色も白色が基調となる場所に設定しました。 ●露出差による奥行きの演出(光) ライトボックスを被写体後ろの近くに設置したのもこのためです。 ライフスタジオの写真の特徴として逆光が多く採用されていますが、逆光撮影の注意点としては、インテリアまでもが白飛びしてインテリアの存在が感じなくなってしまう事です。 ライフスタジオの構成要素の大きな一部にインテリアの存在があります。 初めてご利用いただくお客様が第一に感じる点はインテリアですが、そのインテリアが全て無くなってしまうのは何とも悲しい出来事でもあります。 よって一枚の写真の中に露出比をつけることで、被写体への存在感とインテリアの存在感の協同を作ります。 ライトボックスに仕込まれているタングステンライトは消しました。 何故ならインテリアと衣装との色調に統一性を持つためです。 全体的に白で統一されているところに、唯一色を持った彼女が入る事で、明確な色調差が作られるからです。 ●統一感 結局はこの一言で纏められるものかもしれません。 光、インテリア、衣装、ヘアメイク、色調、画角…多くの目に見える要素と、彼女の人間性、タイミング、空気、ととせ…多くの目に見えない要素を一致させるもの。 それは現象から情報を取得し、分析し、提案を行うカメラマンの意図とそれを感じ取り反応する素だと考えます。 だからこそ何となくという漠然性はなくなり、より具体的なアプローチが必要になるのです。 そこから垣間見えるものの撮影こそが、ライフスタジオで行われる撮影の空間、 美しさを表現し思い出を記録する楽しみの空間ではないでしょうか。
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2017/1/31
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Photo by yatsu cordi by Lisa [ iris 002 ] 私は写真作家に憧れていました。 初めて観たフランスの写真家は、ロベール・ドアノー。 彼のパリ市庁舎前のキスを見て、 写真の持つドキュメンタリー性に思春期ながら心を奪われたわけです。 キャパやブレッソン。森山大道や東松照明、名前を挙げればきりがありませんが、 写真の対象は違えど、 今私もれっきとしたカメラマンであると自覚したとき、 烏滸がましいですが、彼らと同じ門をくぐったのだ思い込むことにしています。 「写真はどこまでも真実を守るもので、絵画の抽象化とは違った道を進むものである。 単なる写実ではなく、対象をどのように感じ、どのように強く受け入れるかということだ。 そこに何か本当に作者が闘っている姿がなければならない。」 これは、私が愛してやまない木村伊兵衛の言葉です。 「写真はどこまでも真実を守るものだ」という言葉の通り、 写真とは被写体・インテリア・衣装・小物・カメラマンの想像・関係性、 その存在すべてを映し出す鏡のようなものです。 長い時間をかけて作成する絵画とは違い、その判断を瞬時にしなくてはなりません。 写実ではなく、写真であることが、LifeStudioに求められているのだと思います。 では、写実ではなく、写真であることはどういうことなのでしょうか。 ありのままを写すのが写真であることに変わりはありません。しかし、明確に写実と写真は違うのです。 私はそれが「矛盾」という混沌だと思うのです。 不協和音という言葉があります。 2つ以上の音が同時に出されたとき、全体が調和しないで不安定な印象を与える和音のことです。 しかし、この不協和音は使い方次第で非常に美しく響く可能性を持っています。 君の名はで大ヒットしたRADWIMPSのスパークルという曲は、本来コードとして存在しない和音が含まれています。それがまた曲の存在感を際立たせているのです。 本来重ならないはずの音同士が重なることで起こる不協和音が美しい。 そこには大きな矛盾が生じているわけです。 写真も同様です。単に美しいものを写実するだけなら、 私たちカメラマンとは存在理由を見つけることが非常に困難だと思います。 美しくあるものは、逆立ちしても美しいのです。 写真とは、写実から自由になろうとして生まれたのかもしれません。 物事には始まりと終わりがあるように、私たちの世界も始まりと終わりが存在します。 私が思うに、 夫婦とは、ひとりの人間の、ひとつの世界の始まりを作ることが許された、自然界で最もシンプルな形式だと思っています。 約75億の人の中から出逢い、約1/140000000000000(1400兆分の1)の確率を乗り越えて育まれる命というものは、 希望・期待・夢といったポジティブな面だけではなく、不安・恐怖・というネガティブな面も抱えています。 母になること。 父になること。 目の前にある命をすべて受け止めていくこと。 撮影の際、ご夫婦がふたりぼっちになることを決めました。 私はカーテンの向こうに隠れて、ただ、ふたりぼっちになる。 初めての出産、撮影という緊張の中で、1番傍らにいて欲しい人が目の前にいる。 その人のお腹には、新しい命があって。 ひとりからふたりに。ふたりからさんにんに。 緊張の中にある安堵。 現実と幻想の境目になるように、レースのカーテンの隙間から、 そんなふたりぼっちの世界を覗くように撮影しました。 被写体が受ける光は全て自然光を使いました。 草加店特有の逆光です。 被写体が受ける100%の逆光は、想像以上に草加店のテーマである「神秘的」 にふさわしい表現をしてくれます。 前ボケに使ったこのレースのカーテンは、幻想的な空間と現実的な空間を分離するためにあえて順光を当てています。順光が出す光線と被写体とには距離があるため、被写体が受ける順光の影響は最小限にしています。 また、縦写真は安定感をもたらしやすい一方で、横写真は安定感を得ることが難しいのが特徴的です。 しかし、不協和音と同様に、横写真は使い方によって縦以上に安定感をもたらすことができる写真になります。 ー 美しさという想像を、創造する。 ー ライフスタジオがいつまでもそういう空間であってほしいと願います。 生まれてくるお腹の子へ。生まれを待つ父と母へ。 HAPPINESS TO YOU.
もういちど
2017/1/31
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10才の男の子の撮影は、私にとって忘れられないことを思い出させます。 何年も前ですが、浦安店でカメラマンデビューしたばかりの頃、撮影を嫌な思い出にさせてしまった男の子がいました。 その男の子は3兄弟の真ん中で、5才の弟の七五三撮影がメインでしたが、10才の彼と15才の兄も一緒に撮影をしました。 当時は、ハーフ成人式という概念はあまり浸透しておらず、ライフスタジオで7才以上の子どもたちを撮影することすら稀だったように思います。 経験の浅い当時の私は、10才の少年の心の動きが全く読めなくて、ただただ「ポーズを付けさせる」ことしか念頭になかったのかも知れません。 来店時から口数も少なく、撮影に対してとても非協力的で、むしろ心底嫌そうだったのをよく覚えています。そんな彼に対して、撮影していく上での技術の引き出しが圧倒的に少なかった私は、「ポーズをつけて、笑ってカメラを見る」ことばかり彼に要求していました。 結果的に、彼は撮影途中で感情的になり、写真を撮られることを拒否しました。 家族写真を撮った時には、他の家族が笑顔の中、まったくの無表情でカメラを見据えていた、10才の男の子。 パパさんママさんはとても朗らかな良い方で、「まあ思春期だからね〜」「これも思い出だよね〜」と笑って写真を喜んでくださっていました。 しかし、私にとって、それはその先何年も、自分の『撮影』というものの根幹に影響する経験になったのだと思います。 10才という年齢の子どもたち。 大人と同じように会話をし、考え、ひとつの言葉に対しての感じ方も千差万別。ひとりの「人」としての自我や精神が育まれています。 勿論、「自分」というものに対しての認識も出てきていて、男女問わず撮られるのが大好きな子もいれば、恥ずかしいと感じ緊張してしまう子もいます。子ども扱いを嫌い、ひとりの人間として尊重されたいという気持ちも芽生えてきているかも知れません。 無邪気なコドモ、という時期をある程度過ぎ、自分と他者という世界の隔たりが意識され始める年齢であることを考えれば、それはごく当然なことです。 そんな「人それぞれ」の子どもたちを前にして、撮影者である私たちは、偶然性に頼らずに「今」の彼らを美しく表現することを試みていかなければなりません。 私は、あの時の男の子を、ひとりの「人」として尊重しようとしていませんでした。 すべては経験不足から来ることですが、それまで7才以下の、いわゆる「無邪気なコドモ」を撮っていた当時の自分にとって、会話をしても心を開いていない、ふざけても笑ってくれない、そんな男の子をどう撮って写真にすれば良いのかが、まったくわからなかった。 10才ならできるでしょ、ここに立って、こうして、こうしてくれれば良いのに。そんなことばかり考えて、彼自身の緊張感や、家族に見られている気恥ずかしさや、子ども扱いされることへの不満、そういった心情を汲むことができていなかった。 今も、思い返しては後悔します。 そして、あんな想いをさせるような撮影だけは、もう絶対にやらないと固く誓っています。 人それぞれ、その個性や多様性を受容するには、自分の技術的な引き出しをより多く持たなければならなかったし、被写体である「人」と撮影者である「わたし」が本当に「人として」向き合いながら一緒に撮影をしていく、という基本的なスタンスが必要でした。 相手を深く知ろうとすること。私を知ってもらうこと。私から見たあなたの姿を、新しい自分の発見として見てもらうこと。 あれから何年も経つ間に、私が何よりも撮影で大切にしていきたいと思うようになったことです。 私はこの2年間、Baby店舗である新横浜店で撮影をしていました。 Babyの撮影では、撮影者の意図を反映させるのが極めて難しく、「偶然性」に任せたとしてもある程度「可愛い写真」は撮れてしまいます。 ただ赤ちゃんであるが故に「可愛い写真」となりやすいのは事実です。だからこそ、新横浜店で撮影をしていくにあたり、「ある程度可愛い写真」ではなく、きちんと撮影者の意図を反映して構成された写真を残すこと、を命題にしてきました。 偶然性さえも考慮して、意図的に「偶然」を引き起こすように状況を整えていく。その過程で、自分に必要だったもののひとつが『観察力』でした。 そして、その『観察する』ということは、間違いなくすべての撮影において極めて重要な要素であり、私が撮影で大切にしたいと願う「相手を知ること」の第一歩でもあります。 1月からは、Baby店舗の新横浜店を離れ、ハーフ成人式撮影を行っている横浜青葉店で撮影をしています。 この極端な環境の変化がありながら、「観察」は撮影の中で欠くことのできない過程であり、Babyの撮影経験があったからこそ、人を知ろうとする視点が変わったように思います。 この写真の彼は、とても礼儀正しく、真面目な男の子でした。 初めてライフスタジオに来てくれた彼は、弟と共にとても緊張した面持ちで、でもきちんと挨拶をしてくれ、こちらが投げかける言葉ひとつひとつにきちんと応じてくれていました。 しかし、その言葉の端々からは緊張感や気恥ずかしさが滲み出ていて、でも大人の顔を立てないといけないというような使命感も感じられました。 言葉を介したコミュニケーションができる、ということは、撮影においては撮影者の意図を相手に届けやすいという大きな利点を持っています。 それと同時に、言葉だけを鵜呑みにするには、10才の男の子の心情は繊細な機微があることも、知っています。 私は、私の撮りたい写真、私の意図を反映させた写真を撮らなければなりません。 撮影者として、この場で彼の今の姿を美しく残す、という責任があります。 しかし、私の一方的な意図だけを反映させる為に、彼の個性を、多様性を、人間性を看過することはできません。 私は彼を知り、彼に私を知ってもらい、私から見た彼の姿を表現しなければならない。だからこそ、彼の気恥ずかしさも緊張感も把握して、その時のBestを探していかなければならない。 Bestを探していく過程で、言葉だけを頼りにしない「観察」が、彼の本当の「今の姿」に導いてくれます。 夕日の差し込む部屋の入り口で、カメラを見なくて良いよ、と言った時、彼は少し安堵したように力が抜けました。 言葉が理解できるからこそ、事細かくポージングの指示をしてしまいがちですが、私はこの時、彼に投げかける指示は二言まで、と決めていました。 畳み掛けられる指示は、彼の緊張感や上手くやらなければならないという責任感を煽り、結果的に力ませてしまうと判断しました。 背筋を伸ばして、上を見てみて。 このシンプルな指示と、カメラを見なくて良いという安心感が、彼の自然体を生みました。 窓からの逆光は柔らかく彼の輪郭を滲ませ、溶けるような力の抜けた雰囲気を演出します。前ボケは、光源となる位置のアクセントとして入れました。 撮影の合間、力の抜けたエアポケットのような時間。 緊張している10才の男の子に、こんな時間を作ってあげられたことが、何よりも嬉しかった。 忘れられない撮影があるおかげで、良い意味で忘れられない撮影をさせてもらうことができています。 いつか、あの時の男の子にもう一度会ってみたい。 彼は写真を撮られるのが嫌いになっているかもしれないけれど、今度はもっと、彼の為の写真を撮らせてもらえるような、そんなカメラマンになっていたいと思っています。 Life studio No,99 Yokohama Aoba Photo by Reiri Kuroki coordi by Natsuko Takagawa
『 母の光 』
2017/1/31
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No.24 Life studio Shonan Photo by Masashi Kuroki Cordi by Mayuko Hara 私はまだ何も分からなかった。 いや、分かって泣いていたのかもしれない。 ただ、あの時のことを覚えていないだけなんだろう。 彼女はずっと泣いていました。 彼女の泣いている理由など私には分かるわけも無く、そもそも私にとってその「泣いている理由」は重要な事ではありませんでした。 だから、無理に泣き止ませるような事も考えませんでした。 こう言ってしまうと、なんて心の無い人!と感じられてしまうかもしれませんが、私がこう思ったのは目の前に「母に抱かれた子の姿」があったからに他なりません。 なぜなら彼女が泣き続けていたからこそ母の暖かい腕の中にいたのですから。 とは言っても、ここが写真館である以上、泣いている表情よりも笑っている表情が求められる事であり、ご家族が求めている事でもあります。 ですが、それは「主体」を変えることで一変します。 まず、目の前にいる子どもを撮っている場合、主体は必然的にその「子ども」になりその子が泣いていれば主体はおのずと「泣いている子」になります。 ところが、そこに泣いている子を抱きしめる母が入ることで「新たな主体」が登場します。 それは、母ではなく「温度」です。 その母と子の間に生まれた「温度」を主体とすればこの状況の捉え方は一変するのではないかと思います。 私たちライフスタジオだからこそ残せる写真、もしくは残すべき写真とは「先々に繋がる家族の今」であり「人の気持ちをも写す事」だと私は考えます。 そこで、私はこの「母から子への温度」をいかにしていつか思い出せるような記憶という写真として残せるかを模索しました。 まず、私が常日頃から重要視している「色味」です。 この写真の主体は「温度」なので、あたかもその写真に触れたら暖かいかと思わせるようにライトを選択していきました。 はじめに「暖色」であるタングステンの光をふたりの左側の手前と奥に一灯ずつ点けました。 手前の一灯で彼女の輪郭(エッジ)と肌の立体感を。 奥の一灯が回り込むことで生まれる暖かみを表現しました。 そして手前の一灯と重なるように差し込む白い蛍光灯の光。 これは彼女と母の間に差し込み、全てを中和させ美しさを増す役割をしています。 さらにはこの白い光が母の背中にまで回り込み、母の存在を強く主張させない事に一役買っています。 光の当たり方としては、被写体に対しては逆光、カメラに対しては側光になります。 写真の重心としては、親指をくわえる彼女の向かって左頬あたりに集中させるため被写界深度の深めのレンズを選択します。 これにより、同時に母の背中をより柔らかいものに感じさせます。 そしてフレーミングですが、母の女性らしさと子を支える指先、母に抱かれ親指を噛み少し安心した表情を見せ始めた子の全ての要素を何一つ欠けることのないよう一つの枠に納めます。 フレーミングやアングルは空間がある限り無数に存在するので、「ここしかない」と思えることはそう多くはありません。 ですが、光や位置、その他多くの事をその場その瞬間に分析することでそのフレーミングは決定的なものになると思います。 本来の写真分析とは後ではなくその瞬間に行なわれていなければならないのです。 そして、撮影者、コーディネーターは、感情の趣くままに撮るのでは成らず、その大切な瞬間を逃してはなりません。 被写体やその状況に意識の全てを持っていかれるのではなく、被写体と写真とを完全に分けて写真と闘う必要があるのです。 このあと彼女は笑顔を見せてくれました。 その笑顔は正真正銘の安堵の笑顔であり、泣いていた今があったからこそ暖かい温度を写すことも出来ました。 満面の笑みに匹敵するほどの泣き顔も残す事が出来ました。 あの時、私は何で泣いていたのか分かりません。 でもこの「温度」は確かに覚えているような気がします。 あたたかい「母の光」に包まれて。
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