フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
もういちど
投稿日:2017/1/31
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10才の男の子の撮影は、私にとって忘れられないことを思い出させます。
何年も前ですが、浦安店でカメラマンデビューしたばかりの頃、撮影を嫌な思い出にさせてしまった男の子がいました。
その男の子は3兄弟の真ん中で、5才の弟の七五三撮影がメインでしたが、10才の彼と15才の兄も一緒に撮影をしました。
当時は、ハーフ成人式という概念はあまり浸透しておらず、ライフスタジオで7才以上の子どもたちを撮影することすら稀だったように思います。
経験の浅い当時の私は、10才の少年の心の動きが全く読めなくて、ただただ「ポーズを付けさせる」ことしか念頭になかったのかも知れません。
来店時から口数も少なく、撮影に対してとても非協力的で、むしろ心底嫌そうだったのをよく覚えています。そんな彼に対して、撮影していく上での技術の引き出しが圧倒的に少なかった私は、「ポーズをつけて、笑ってカメラを見る」ことばかり彼に要求していました。
結果的に、彼は撮影途中で感情的になり、写真を撮られることを拒否しました。
家族写真を撮った時には、他の家族が笑顔の中、まったくの無表情でカメラを見据えていた、10才の男の子。
パパさんママさんはとても朗らかな良い方で、「まあ思春期だからね〜」「これも思い出だよね〜」と笑って写真を喜んでくださっていました。
しかし、私にとって、それはその先何年も、自分の『撮影』というものの根幹に影響する経験になったのだと思います。
10才という年齢の子どもたち。
大人と同じように会話をし、考え、ひとつの言葉に対しての感じ方も千差万別。ひとりの「人」としての自我や精神が育まれています。
勿論、「自分」というものに対しての認識も出てきていて、男女問わず撮られるのが大好きな子もいれば、恥ずかしいと感じ緊張してしまう子もいます。子ども扱いを嫌い、ひとりの人間として尊重されたいという気持ちも芽生えてきているかも知れません。
無邪気なコドモ、という時期をある程度過ぎ、自分と他者という世界の隔たりが意識され始める年齢であることを考えれば、それはごく当然なことです。
そんな「人それぞれ」の子どもたちを前にして、撮影者である私たちは、偶然性に頼らずに「今」の彼らを美しく表現することを試みていかなければなりません。
私は、あの時の男の子を、ひとりの「人」として尊重しようとしていませんでした。
すべては経験不足から来ることですが、それまで7才以下の、いわゆる「無邪気なコドモ」を撮っていた当時の自分にとって、会話をしても心を開いていない、ふざけても笑ってくれない、そんな男の子をどう撮って写真にすれば良いのかが、まったくわからなかった。
10才ならできるでしょ、ここに立って、こうして、こうしてくれれば良いのに。そんなことばかり考えて、彼自身の緊張感や、家族に見られている気恥ずかしさや、子ども扱いされることへの不満、そういった心情を汲むことができていなかった。
今も、思い返しては後悔します。
そして、あんな想いをさせるような撮影だけは、もう絶対にやらないと固く誓っています。
人それぞれ、その個性や多様性を受容するには、自分の技術的な引き出しをより多く持たなければならなかったし、被写体である「人」と撮影者である「わたし」が本当に「人として」向き合いながら一緒に撮影をしていく、という基本的なスタンスが必要でした。
相手を深く知ろうとすること。私を知ってもらうこと。私から見たあなたの姿を、新しい自分の発見として見てもらうこと。
あれから何年も経つ間に、私が何よりも撮影で大切にしていきたいと思うようになったことです。
私はこの2年間、Baby店舗である新横浜店で撮影をしていました。
Babyの撮影では、撮影者の意図を反映させるのが極めて難しく、「偶然性」に任せたとしてもある程度「可愛い写真」は撮れてしまいます。
ただ赤ちゃんであるが故に「可愛い写真」となりやすいのは事実です。だからこそ、新横浜店で撮影をしていくにあたり、「ある程度可愛い写真」ではなく、きちんと撮影者の意図を反映して構成された写真を残すこと、を命題にしてきました。
偶然性さえも考慮して、意図的に「偶然」を引き起こすように状況を整えていく。その過程で、自分に必要だったもののひとつが『観察力』でした。
そして、その『観察する』ということは、間違いなくすべての撮影において極めて重要な要素であり、私が撮影で大切にしたいと願う「相手を知ること」の第一歩でもあります。
1月からは、Baby店舗の新横浜店を離れ、ハーフ成人式撮影を行っている横浜青葉店で撮影をしています。
この極端な環境の変化がありながら、「観察」は撮影の中で欠くことのできない過程であり、Babyの撮影経験があったからこそ、人を知ろうとする視点が変わったように思います。
この写真の彼は、とても礼儀正しく、真面目な男の子でした。
初めてライフスタジオに来てくれた彼は、弟と共にとても緊張した面持ちで、でもきちんと挨拶をしてくれ、こちらが投げかける言葉ひとつひとつにきちんと応じてくれていました。
しかし、その言葉の端々からは緊張感や気恥ずかしさが滲み出ていて、でも大人の顔を立てないといけないというような使命感も感じられました。
言葉を介したコミュニケーションができる、ということは、撮影においては撮影者の意図を相手に届けやすいという大きな利点を持っています。
それと同時に、言葉だけを鵜呑みにするには、10才の男の子の心情は繊細な機微があることも、知っています。
私は、私の撮りたい写真、私の意図を反映させた写真を撮らなければなりません。
撮影者として、この場で彼の今の姿を美しく残す、という責任があります。
しかし、私の一方的な意図だけを反映させる為に、彼の個性を、多様性を、人間性を看過することはできません。
私は彼を知り、彼に私を知ってもらい、私から見た彼の姿を表現しなければならない。だからこそ、彼の気恥ずかしさも緊張感も把握して、その時のBestを探していかなければならない。
Bestを探していく過程で、言葉だけを頼りにしない「観察」が、彼の本当の「今の姿」に導いてくれます。
夕日の差し込む部屋の入り口で、カメラを見なくて良いよ、と言った時、彼は少し安堵したように力が抜けました。
言葉が理解できるからこそ、事細かくポージングの指示をしてしまいがちですが、私はこの時、彼に投げかける指示は二言まで、と決めていました。
畳み掛けられる指示は、彼の緊張感や上手くやらなければならないという責任感を煽り、結果的に力ませてしまうと判断しました。
背筋を伸ばして、上を見てみて。
このシンプルな指示と、カメラを見なくて良いという安心感が、彼の自然体を生みました。
窓からの逆光は柔らかく彼の輪郭を滲ませ、溶けるような力の抜けた雰囲気を演出します。前ボケは、光源となる位置のアクセントとして入れました。
撮影の合間、力の抜けたエアポケットのような時間。
緊張している10才の男の子に、こんな時間を作ってあげられたことが、何よりも嬉しかった。
忘れられない撮影があるおかげで、良い意味で忘れられない撮影をさせてもらうことができています。
いつか、あの時の男の子にもう一度会ってみたい。
彼は写真を撮られるのが嫌いになっているかもしれないけれど、今度はもっと、彼の為の写真を撮らせてもらえるような、そんなカメラマンになっていたいと思っています。
Life studio No,99
Yokohama Aoba
Photo by Reiri Kuroki
coordi by Natsuko Takagawa
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