フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
モノクローム 〜観察
投稿日:2017/2/28
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モノクローム 〜観察
先日、『カメラ・オブスクラ』に触れる機会がありました。
私の夫は、ライフスタジオ湘南店のカメラマンでもあります。
湘南店は、カンボジアでのボランティア活動を行っており、カンボジアの人々が職業選択のひとつとして『カメラマン』という選択肢を得ることができるように、写真学校を作ることを目標に活動しています。
その一環として、現地での『手作りカメラでの日光写真』の企画準備をしていた夫が、自宅で日光写真を撮る為の『カメラ・オブスクラ』の試作やテストを重ねていました。
『カメラ・オブスクラ』とは、ラテン語で『暗い部屋』という意味があります。暗い部屋の小さな穴を通して、外の光景が壁に写し出されるという光学原理に基づいた、いわば『カメラ』の原初的な仕組みです。
日光写真では、その仕組みにコピアートペーパーやアイロンによる加熱を加えて、とってもシンプルな、本当に原始的な『写真』を撮ります。
牛乳パックに虫眼鏡と黒い画用紙だけで作った、ハリボテのようなカメラ。
本当にこんなので写るんだろうか…という危惧を抱きつつも、アイロンで加熱したコピアートペーパーをひっくり返した時に、ぼんやりとした青の濃淡で外の風景が焼き付いていた時には思わず「おぉっ」と声が出ました。
自分が今使っているカメラはフィルムや紙を使わず、撮りたいものにレンズを向けてボタンを押せば、その一瞬でレンズを通して見えている範囲の何もかもを克明に記録します。その仕組みは、元を辿っていけばこんなにシンプルなものでした。
穴の開いた暗い部屋と、光があれば、写真が始まっていくのです。
写真は『光で描く絵』と言われます。光のないところでは、写真を撮ることはできません。
写真を撮っていく上で、「光を見る目」というのは、撮影者に必要不可欠なものです。
光がどの角度から入ってきているのか、それが被写体にどのような当たり方をしているのか、同時に影はどうなっているのか、それらが写真にどのように作用するのか……
それらを見て、仮定して、あるいは規定して、その後ようやく私たちはカメラという機械の操作へと移ることができます。
最近のカメラは、それこそものすごい進化を遂げているので、カメラ側が何もかも判断してくれるようにもなりました。
ぱっと向けてピッと撮れば、様々な最先端の機能があちこちに作用して、それこそ色鮮やかな写真が一瞬で撮れます。30分も屋外に放置して、アイロンで加熱してようやくぼんやりとした像が焼き付けられる『カメラ・オブスクラ』とはえらい違いです。
レンズから入る光量によって自動で絞りやシャッタースピードを調節し、ピントを合わせ、顔認識で笑った瞬間シャッターを切る、なんて芸当は、一昔前には想像もできなかったことですし、それはそれですごいテクノロジーだと思います。
しかし、機械の判断はやはり『機械』でしかありません。
光量調節は飽くまでも平均値を算出しますし、ピントは広範囲に合わせて、顔認識では笑顔以外の写真は撮れません。機械は飽くまでも『機械』であり、意思を持つことはないので、「敢えて」という操作をすることがありません。
利便性はありますが、撮影者が自らの表現をしようとするならば、これらの機能はoffにするしかないと思います。
私たちは撮影者として、目の前の光を見て、被写体を見て、表現の仕方を考えます。
それには、「見る」を超えて、より深く「観察」した上で判断をしていかなければなりません。
ただ見るだけでは、表面的なことしか分からないものです。表面的なことだけで良いのなら、オートマチックな機械の平均値に合わせたところで何の問題もないでしょう。
しかし、「人」が「人」を表現しようとする時に、その多様性や特殊性は、機械が算出する平均値で表すことはできないと考えます。
カメラの算出する数値より敢えて明るく、あるいは暗く撮ることも多くあります。全てを写そうとはしませんし、笑顔以外を望むこともあります。
目の前にいる被写体の存在、部屋に溢れる光の性質、空間の面や線……カメラの前の、あらゆる複合的な要素のひとつひとつを観察し、その観察に基づいて相互に作用しているそれらを写真の中で効果的に再構成することが、撮影者の意思であり、表現であり、ライフスタジオの写真であるのではないでしょうか。
彼の周りには綺麗な光があって、無邪気に笑って遊んでいた幼い少年が年齢にそぐわない凛とした眼差しを向けた時、私は彼のその存在を、生きている意思を感じます。
それを表現したいと思った時に、撮影者としての私の意思で、カメラをモノクロ設定にし、光を受ける前ボケを配置し、露出と構図を決めてシャッターを切ります。敢えてモノクロに、敢えてオーバーに、敢えて笑顔ではない写真にしました。
モノクロにしたのは、色の情報を失くすことで「光」と「被写体」に集中された写真にしたかったからです。
光には、強弱や濃淡、硬軟での表現がされます。モノクロームの写真では、光のもっとも強い部分を白とすれば、光の当たらない影の部分を黒として、白から黒の間のグラデーションで強弱や濃淡が表されています。
本来、色も同様で、赤い色の面に光が当たれば、光が強く当たっている箇所は白寄りの赤になり、光の当たっていない箇所は逆に影を含んで黒に寄った赤になります。
光の強弱や濃淡に加え、更に色がその要素に加われば(しかも何色も…)、それこそ情報量が多くなってしまい、写真を見た時に目を引く部分が散漫になりがちです。
この時、青葉店の2階の窓から差し込んでいた午後の光は、インテリアのあちこちに反射して幾つかの色を含みながら彼の肌色にも影響を及ぼしていました。
肌や服や床の色、背景の面や線、そこに反射する光の強弱……ありとあらゆるものがそこにあり、互いに作用している中で、幾つかの取捨択一を経て、今回はモノクロームを選択しました。
色、という要素を排除することで、写真の中には白と黒の間に存在する濃淡のみで世界が描かれます。それはシンプルで、まとまった印象をもたらしてくれました。
被写体の彼に対して光は逆光で当たっており、彼の髪や輪郭をなぞる光のエッジは彼の存在感を写真の中でより浮かび上がらせるように強調します。
青葉店のインテリアは線が多いので、被写界深度を浅くして背景の窓枠を適度にぼかしつつ、手前に置いた花で有機的な曲線の前ボケを入れ込みました。物質的な場所としての空間を示す人工物の直線と、三次元の奥行きという空間を示す前ボケの曲線が『空間』を多角的に表現するのに一役買っています。
これらの構成で、写真の中の全体像を整えながら、最後に主題として主張するべきは彼の瞳のコントラストです。
前述の通り、モノクロームに設定した時に、写真の中は白から黒の濃淡で表されます。
光があれば、影がある。この写真の中でいちばん黒いところは、彼の瞳です。そこに、床に当たった光が反射して、キャッチライトとして入ったことで、彼の瞳は白と黒のコントラストによって際立ちました。
目は口ほどに物を言う、とはよく言いますが、人の存在感を表す時に、「目」の表現は欠かせません。
光が溢れる場所で、彼の瞳の深い黒に惹き付けられて、この写真を構成しました。
光があることで、写真が始まります。
ただの記録から、撮影者が意図を持って表現するまでに「写真」の概念は変わりました。
シンプルな仕組みの『カメラ・オブスクラ』は、ただ目の前の光を受けてその通りに像を焼き付けることしかできません。しかし、カメラの進化と共に、写真も変わっていきます。
光があれば写真が始まり、そこから私たちの観察が始まります。
その観察に基づいた、意図ある表現を拡げていくことが、カメラマンとしてのたゆまぬ姿勢だと思っています。
Life studio No,99
Yokohama Aoba
Photo by Reiri Kuroki
coordi by Kaori Sasaki
先日、『カメラ・オブスクラ』に触れる機会がありました。
私の夫は、ライフスタジオ湘南店のカメラマンでもあります。
湘南店は、カンボジアでのボランティア活動を行っており、カンボジアの人々が職業選択のひとつとして『カメラマン』という選択肢を得ることができるように、写真学校を作ることを目標に活動しています。
その一環として、現地での『手作りカメラでの日光写真』の企画準備をしていた夫が、自宅で日光写真を撮る為の『カメラ・オブスクラ』の試作やテストを重ねていました。
『カメラ・オブスクラ』とは、ラテン語で『暗い部屋』という意味があります。暗い部屋の小さな穴を通して、外の光景が壁に写し出されるという光学原理に基づいた、いわば『カメラ』の原初的な仕組みです。
日光写真では、その仕組みにコピアートペーパーやアイロンによる加熱を加えて、とってもシンプルな、本当に原始的な『写真』を撮ります。
牛乳パックに虫眼鏡と黒い画用紙だけで作った、ハリボテのようなカメラ。
本当にこんなので写るんだろうか…という危惧を抱きつつも、アイロンで加熱したコピアートペーパーをひっくり返した時に、ぼんやりとした青の濃淡で外の風景が焼き付いていた時には思わず「おぉっ」と声が出ました。
自分が今使っているカメラはフィルムや紙を使わず、撮りたいものにレンズを向けてボタンを押せば、その一瞬でレンズを通して見えている範囲の何もかもを克明に記録します。その仕組みは、元を辿っていけばこんなにシンプルなものでした。
穴の開いた暗い部屋と、光があれば、写真が始まっていくのです。
写真は『光で描く絵』と言われます。光のないところでは、写真を撮ることはできません。
写真を撮っていく上で、「光を見る目」というのは、撮影者に必要不可欠なものです。
光がどの角度から入ってきているのか、それが被写体にどのような当たり方をしているのか、同時に影はどうなっているのか、それらが写真にどのように作用するのか……
それらを見て、仮定して、あるいは規定して、その後ようやく私たちはカメラという機械の操作へと移ることができます。
最近のカメラは、それこそものすごい進化を遂げているので、カメラ側が何もかも判断してくれるようにもなりました。
ぱっと向けてピッと撮れば、様々な最先端の機能があちこちに作用して、それこそ色鮮やかな写真が一瞬で撮れます。30分も屋外に放置して、アイロンで加熱してようやくぼんやりとした像が焼き付けられる『カメラ・オブスクラ』とはえらい違いです。
レンズから入る光量によって自動で絞りやシャッタースピードを調節し、ピントを合わせ、顔認識で笑った瞬間シャッターを切る、なんて芸当は、一昔前には想像もできなかったことですし、それはそれですごいテクノロジーだと思います。
しかし、機械の判断はやはり『機械』でしかありません。
光量調節は飽くまでも平均値を算出しますし、ピントは広範囲に合わせて、顔認識では笑顔以外の写真は撮れません。機械は飽くまでも『機械』であり、意思を持つことはないので、「敢えて」という操作をすることがありません。
利便性はありますが、撮影者が自らの表現をしようとするならば、これらの機能はoffにするしかないと思います。
私たちは撮影者として、目の前の光を見て、被写体を見て、表現の仕方を考えます。
それには、「見る」を超えて、より深く「観察」した上で判断をしていかなければなりません。
ただ見るだけでは、表面的なことしか分からないものです。表面的なことだけで良いのなら、オートマチックな機械の平均値に合わせたところで何の問題もないでしょう。
しかし、「人」が「人」を表現しようとする時に、その多様性や特殊性は、機械が算出する平均値で表すことはできないと考えます。
カメラの算出する数値より敢えて明るく、あるいは暗く撮ることも多くあります。全てを写そうとはしませんし、笑顔以外を望むこともあります。
目の前にいる被写体の存在、部屋に溢れる光の性質、空間の面や線……カメラの前の、あらゆる複合的な要素のひとつひとつを観察し、その観察に基づいて相互に作用しているそれらを写真の中で効果的に再構成することが、撮影者の意思であり、表現であり、ライフスタジオの写真であるのではないでしょうか。
彼の周りには綺麗な光があって、無邪気に笑って遊んでいた幼い少年が年齢にそぐわない凛とした眼差しを向けた時、私は彼のその存在を、生きている意思を感じます。
それを表現したいと思った時に、撮影者としての私の意思で、カメラをモノクロ設定にし、光を受ける前ボケを配置し、露出と構図を決めてシャッターを切ります。敢えてモノクロに、敢えてオーバーに、敢えて笑顔ではない写真にしました。
モノクロにしたのは、色の情報を失くすことで「光」と「被写体」に集中された写真にしたかったからです。
光には、強弱や濃淡、硬軟での表現がされます。モノクロームの写真では、光のもっとも強い部分を白とすれば、光の当たらない影の部分を黒として、白から黒の間のグラデーションで強弱や濃淡が表されています。
本来、色も同様で、赤い色の面に光が当たれば、光が強く当たっている箇所は白寄りの赤になり、光の当たっていない箇所は逆に影を含んで黒に寄った赤になります。
光の強弱や濃淡に加え、更に色がその要素に加われば(しかも何色も…)、それこそ情報量が多くなってしまい、写真を見た時に目を引く部分が散漫になりがちです。
この時、青葉店の2階の窓から差し込んでいた午後の光は、インテリアのあちこちに反射して幾つかの色を含みながら彼の肌色にも影響を及ぼしていました。
肌や服や床の色、背景の面や線、そこに反射する光の強弱……ありとあらゆるものがそこにあり、互いに作用している中で、幾つかの取捨択一を経て、今回はモノクロームを選択しました。
色、という要素を排除することで、写真の中には白と黒の間に存在する濃淡のみで世界が描かれます。それはシンプルで、まとまった印象をもたらしてくれました。
被写体の彼に対して光は逆光で当たっており、彼の髪や輪郭をなぞる光のエッジは彼の存在感を写真の中でより浮かび上がらせるように強調します。
青葉店のインテリアは線が多いので、被写界深度を浅くして背景の窓枠を適度にぼかしつつ、手前に置いた花で有機的な曲線の前ボケを入れ込みました。物質的な場所としての空間を示す人工物の直線と、三次元の奥行きという空間を示す前ボケの曲線が『空間』を多角的に表現するのに一役買っています。
これらの構成で、写真の中の全体像を整えながら、最後に主題として主張するべきは彼の瞳のコントラストです。
前述の通り、モノクロームに設定した時に、写真の中は白から黒の濃淡で表されます。
光があれば、影がある。この写真の中でいちばん黒いところは、彼の瞳です。そこに、床に当たった光が反射して、キャッチライトとして入ったことで、彼の瞳は白と黒のコントラストによって際立ちました。
目は口ほどに物を言う、とはよく言いますが、人の存在感を表す時に、「目」の表現は欠かせません。
光が溢れる場所で、彼の瞳の深い黒に惹き付けられて、この写真を構成しました。
光があることで、写真が始まります。
ただの記録から、撮影者が意図を持って表現するまでに「写真」の概念は変わりました。
シンプルな仕組みの『カメラ・オブスクラ』は、ただ目の前の光を受けてその通りに像を焼き付けることしかできません。しかし、カメラの進化と共に、写真も変わっていきます。
光があれば写真が始まり、そこから私たちの観察が始まります。
その観察に基づいた、意図ある表現を拡げていくことが、カメラマンとしてのたゆまぬ姿勢だと思っています。
Life studio No,99
Yokohama Aoba
Photo by Reiri Kuroki
coordi by Kaori Sasaki
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