フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
『Answer of my picture』
投稿日:2016/11/29
844 1
Photoby Ryo
codi by Misato
in YokohamaAoba
私はカメラを持ってから10年間、常に写真に対して『美しさ』を求めて来ました。
4年前、あるきっかけからライフスタジオと出会い私の中の写真への概念は大きく変化していきました。
ライフスタジオの写真に出会うまでの私はただ漠然とした思考で写真を撮っていました。
ただ見た目に美しく。
ただ直観的に美しく。
しかしそれは具体的なものではなく自身のイメージの世界に依存していました。
私が追求してきた『美しさ』とはこれだというものに定義するのがとても難しいものです。
見た目では構成要素に依存し、写真に残る記憶には関係性が依存します。
思い返せばライフスタジオで約4年間撮影を繰り返しながら見た目と記憶の一致を探し続けて来ました。
この場所で撮影しているうちに私の中で変化が起き、求めるものが以前よりも一歩先へ進んだのだと思います。
人は常に変化し続け、当たり前だったものが時間と共に変化し当たり前ではなくなります。
写真にとってもそれは同じことで、人が行うことは常に不安定で何かにとらわれ、何かよってに自由にされます。
撮影空間ではそれが明らかになり、結果として残る写真にその時のすべてが反映されるものだと感じます。
だからこそ正解、不正解を定義するのは難しく、写真として技術的な観点から見たときに美しさを感じない物でも、撮影背景を知ることで美しく思える事すらあるのです。
感傷、感動、依存、思い入れ、知っている人、知らない人。
その写真を美しく思う原因はたくさんあります。
そしてそのことから、人によって美しいというイメージもまた違うものと判断できます。
例えば私の写真を100人に見せたとき100人中全員が美しいと言うことはないでしょう。
それは可能性であり、足りない何かであり、実力ともいえます。
某有名な写真家の写真を私は良いと思わないが、世界はそれを賞賛しています。
まるで選挙のような評価は、クリエイティブ性の高い写真という媒体には適していると言えるでしょう。
物議を醸しだし、注目される物、撮影者のブランドがつくもの、奇跡的にも万人が素晴らしいと評価したもの。
どの要因でも良いか悪いかの判断はされます。
その中でも私が追ってきた美しさは『万人に共通して綺麗だと言われる写真』だと考えています。
そのために私は写真を構成する要素すべてに美しさに通じる理由をつけています。
この写真においてはフルターの利用によりハイライトをソフトに表現し、柔らかさをもたせながら被写体のエッジを緩くすることで一つの美しさを作り上げ、前ぼかしに関しても手前、中間と二段階の設定で配置し、手前は光りとして、中間はものとして写しています。
これは距離の表現です。
柔らかさと距離の二つの効果に加え、カメラ内の設定でシャープネスを下げたセピアに写す。
これにより色の表現も加わります。
カラーでは様々な色が混在する空間で写真に統一感を出すのが困難なためセピアを選択しました。この写真の重要な要素は質感にあるからです。
加工しなくても十分に自分が思う美しさの要素は作り上げていくことができます。
被写体をよく観察し、この写真は原本の中でも初めの数カットの中で撮影をしました。
それはなぜか。
知りすぎた場合、表せるものが増えるとも限らないからです。
彼女を見た瞬間もうすでにこの画は浮かんでいました。
そして少し会話をしただけでこの写真のイメージに合う子だと思ったのです。
本当はすごく元気な女の子ですが、彼女の動きをみながらたまに見せる表情はギャップという感覚的な美しさの表現のヒントをくれました。
このように様々な要因から一枚が完成するのですが、今もなお私の写真は常に未完成です。
きっと完成などないのだと思います。
今の感覚が自分の中で当たり前になった時、今の写真は過去のものとなり新しい現在の私の写真が生まれてくるのだと思います。
誰が見ても美しく。
私の写真の答えをしっかりと考えながら。
codi by Misato
in YokohamaAoba
私はカメラを持ってから10年間、常に写真に対して『美しさ』を求めて来ました。
4年前、あるきっかけからライフスタジオと出会い私の中の写真への概念は大きく変化していきました。
ライフスタジオの写真に出会うまでの私はただ漠然とした思考で写真を撮っていました。
ただ見た目に美しく。
ただ直観的に美しく。
しかしそれは具体的なものではなく自身のイメージの世界に依存していました。
私が追求してきた『美しさ』とはこれだというものに定義するのがとても難しいものです。
見た目では構成要素に依存し、写真に残る記憶には関係性が依存します。
思い返せばライフスタジオで約4年間撮影を繰り返しながら見た目と記憶の一致を探し続けて来ました。
この場所で撮影しているうちに私の中で変化が起き、求めるものが以前よりも一歩先へ進んだのだと思います。
人は常に変化し続け、当たり前だったものが時間と共に変化し当たり前ではなくなります。
写真にとってもそれは同じことで、人が行うことは常に不安定で何かにとらわれ、何かよってに自由にされます。
撮影空間ではそれが明らかになり、結果として残る写真にその時のすべてが反映されるものだと感じます。
だからこそ正解、不正解を定義するのは難しく、写真として技術的な観点から見たときに美しさを感じない物でも、撮影背景を知ることで美しく思える事すらあるのです。
感傷、感動、依存、思い入れ、知っている人、知らない人。
その写真を美しく思う原因はたくさんあります。
そしてそのことから、人によって美しいというイメージもまた違うものと判断できます。
例えば私の写真を100人に見せたとき100人中全員が美しいと言うことはないでしょう。
それは可能性であり、足りない何かであり、実力ともいえます。
某有名な写真家の写真を私は良いと思わないが、世界はそれを賞賛しています。
まるで選挙のような評価は、クリエイティブ性の高い写真という媒体には適していると言えるでしょう。
物議を醸しだし、注目される物、撮影者のブランドがつくもの、奇跡的にも万人が素晴らしいと評価したもの。
どの要因でも良いか悪いかの判断はされます。
その中でも私が追ってきた美しさは『万人に共通して綺麗だと言われる写真』だと考えています。
そのために私は写真を構成する要素すべてに美しさに通じる理由をつけています。
この写真においてはフルターの利用によりハイライトをソフトに表現し、柔らかさをもたせながら被写体のエッジを緩くすることで一つの美しさを作り上げ、前ぼかしに関しても手前、中間と二段階の設定で配置し、手前は光りとして、中間はものとして写しています。
これは距離の表現です。
柔らかさと距離の二つの効果に加え、カメラ内の設定でシャープネスを下げたセピアに写す。
これにより色の表現も加わります。
カラーでは様々な色が混在する空間で写真に統一感を出すのが困難なためセピアを選択しました。この写真の重要な要素は質感にあるからです。
加工しなくても十分に自分が思う美しさの要素は作り上げていくことができます。
被写体をよく観察し、この写真は原本の中でも初めの数カットの中で撮影をしました。
それはなぜか。
知りすぎた場合、表せるものが増えるとも限らないからです。
彼女を見た瞬間もうすでにこの画は浮かんでいました。
そして少し会話をしただけでこの写真のイメージに合う子だと思ったのです。
本当はすごく元気な女の子ですが、彼女の動きをみながらたまに見せる表情はギャップという感覚的な美しさの表現のヒントをくれました。
このように様々な要因から一枚が完成するのですが、今もなお私の写真は常に未完成です。
きっと完成などないのだと思います。
今の感覚が自分の中で当たり前になった時、今の写真は過去のものとなり新しい現在の私の写真が生まれてくるのだと思います。
誰が見ても美しく。
私の写真の答えをしっかりと考えながら。
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