フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

Birth,

投稿日:2016/9/30

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何故、写真を撮っているのかと尋ねられれば、
自分が唯一、自分の好きなことを誰かの為に役立たせることができるからだと、答える。

何故、自分の好きなことが写真なのかと尋ねられれば、
自分が人と繋がりを持つことができるものであるからだと、答える。

ただ純粋に、芸術的な観点から「写真」の完成度を探求する程「写真家」としてストイックではないと思う。
しかし、お客様の写真を撮るということを、「写真館のおねーさん」としての割り切った作業にできる程、熱がない訳でもない。
目の前の家族を、抱っこされた小さな赤ちゃんを、あるいはその成長した姿を、
私は自分で見て、感じて、考えて、意図をもって表現する。
その写真が、その空間が、その人たちにとって大切な記録であり、記憶となる。
ライフスタジオはそういう場所で、その時その人たちの前に立つ「わたし」は、「カメラマン」としての逃れられない責任がある。
そして、カメラマンとしての「わたし」には、その責任の重さと同時に、それを果たす為の自由は与えられている、と思う。
自分が見て、観察して、感じたこと、考えたことを、自分で組み立てて、ファインダーの中を整えて、光や構図や色や何かに託して、1枚の写真にする。
「わたし」から「あなた」を見た時、こう見えて、こう感じて、だからこう表現した。
それは飽くまでも「写真館としてのルールやマニュアルに則った写真」ではなく、「わたし」が「ひと」を見る時の眼差しを反映したものとなる。
だから、私が撮る写真には「わたし」が写っている。

彼らの写真を撮る時に意識したのは、ひとつに「記録性」という写真の性質だった。
生後1ヶ月半の、双子のBaby。生まれて間もない、まだ細い手足。いちばん小さなサイズのおむつが、大きく見える月齢。
この世に生まれた人間の誰もが、ここからスタートしているなんてにわかには信じ難いような、新生児の姿だ。
街を行く厳ついお兄さんも、テレビで見るような綺麗なお姉さんも、しわしわの老獪な政治家であっても、皆生まれたばかりの時は自分で何をすることもできない。
ただ泣き、世話をされ、大人の庇護のもとで育っていく。
今、この時の姿が、ごくごくわずかな時間の姿であることを、毎日Babyの世話に追われる父母は気付かない。
怒涛のように過ぎていく毎日(ちなみに彼らには元気いっぱいの兄がふたりいるので、ママさんは本当に日々怒涛だと思う)の中で、気付けばおむつのサイズがちょうど良くなり、手足はぷくぷくと脂肪を蓄え、泣き声は逞しくなっていく。
彼らのふたりの兄だって、ほんの数年前にはこんな姿だった。
たった2年、たった3年で、彼らは日焼けした手足をひょいひょい使って、スタジオ中のインテリアのあらゆる高いところを制覇していくようになるのだ(頼むから怪我だけはしないでくれ)。
変わっていくことを、知っている。それを留めおけないことも、わかっている。
だから、写真に残しておきたいと思う。

「記録性」において、その1枚で明確に表されていること、に重きを置いた。
ホリゾントというシンプルな空間で、全身を写真の四角の中に収め、彼らのからだの造形を隠すことなく、真っ直ぐに向き合う。
双子である彼らの、今現在の姿、かたち。それへの集中を妨げるものは、排除した。
しかし、ただ「記録」だけで終わってしまうのは、あまりにも作業的だと感じてしまう。
記録性の為の条件を損なわずに、写真の中に私の意図を反映させる。
それは、ちょっとだけ自分なりの「芸術性」を加えていくことに他ならない。

言うまでもなく、彼らの月齢ではコミュニケーションを図るのが困難で、視界も不明瞭で、首も据わっていない。
それが、ふたり。
慎重に慎重に作為的なうつ伏せをさせることができない月齢ではないが(そしてそのスキルを持つコーディネーターもいるのだが)、ふたりを同時にポーズを組むということは極めて難しい。
だから、私の意図を反映させるのは、彼らのポーズや表情ではなく、その周囲の条件になってくる。
私は彼らを観察し、彼らが次に何を表そうとするのかの予測を立てながら、どの条件を用意すればその予測に従ってコトが運ぶのかを考えて、構成する。
前述の通り、「記録性」に重きを置いたシンプルな空間は、非日常的でどこか冷たさや堅さを感じた。
それは写真としての視覚的な意味もさることながら、何より撮影空間でのBabyの不快感に繋がる。そこが、彼らにとって居心地が良いか、安全であるかは、Babyの撮影において重要な要素のひとつである。
この時、写真には白い背景とふたりのBaby、そして写真の輪郭である直線と直角しか存在していなかった。
この無機質で、非日常的で、堅さを感じる中に、記録性としてのシンプルさを損なわずに加味できるもの、として、円形のクッションを置く。
柔らかなクッションは、ふたりのからだの重みを受け止め少し沈み込む。
そのくぼみが彼らのからだを安定させ、安全性を確保すると共に、クッションの曲線が与える視覚的な柔らかさの印象が、写真の中の温度を少し温めたように感じる。
そしてブルーのクッションは、白い背景の中からくっきりと彼らのからだのラインを浮かび上がらせた。
敢えて、人の肌色とは極端に違う色の上にからだが乗ることで、Babyの肌の質感や存在感を強調する。
これが白い布団やマットだったら、彼らの存在感がぼやけてしまう結果になっただろう。

そして、双子、という彼らの関係性を表す為に、対を成すように並び、頭の位置を逆にする。
背景がシンプルな白である分、写真の天地があやふやになり、ちょっと不思議な浮遊感が漂った。
お腹の中をたゆたうような、そんな時間の再現をイメージしていた。
だが、彼らはもう生まれてきている。産声を上げている。
ひとりは泣き、ひとりは眠る。赤ちゃんとしての、ごくごく当たり前の、至ってシンプルな「生きる」ことの発現。
四角い写真のど真ん中に、彼らを受け止める円を置き、上下左右を対称に整える。
見る者は真っ直ぐに、彼らの存在を、小さなからだで「生きる」ことを発現する姿を、目にすることができる写真になるだろう。


私は、彼らの兄が、今の彼らよりもう少しだけ大きい頃に会っていた。
1年と経たずに、彼らはその頃の兄の面影を辿りながら成長するだろう。
きっとあと2年もすれば、兄たちと同じようにインテリアの高いところを制覇していくに違いない(恐ろしい)。
その姿を、私は笑いながら、でも本当に怪我だけはしないでくれよと祈りながら、写真を撮るのだろう。

そして、その写真を見返しながら、この1枚を思い出す。
彼らと私の初めての接触であり、関係性の繋がりが生まれた日の写真。

初めまして。これからよろしく。


私にとって写真とは、こうして人と繋がっていくことができるもの。
そしてライフスタジオとは、私が「わたし」という眼差しで写真を撮ることができる場所である。


Life Studio No,17
shinyokohama
Photo by Reiri, / coodi by Yonezu

 

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