フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

素晴らしき生成物の来訪。

投稿日:2016/10/31

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「イメージ」という言葉はひどく曖昧で、言葉としての存在ははっきりしているのに、それが表わすものはどこか宙にさまよっている。

イメージという言葉は、何か表現したいものをぼやかす時や、具体的な表現が見つからない時に使用しているような気がする。
例えば撮影時においては、「かっこいいイメージで」「かわいいイメージで」といった言葉を良く耳にするし、私自身も使っている。
ではこの「かっこいいイメージ」とはどういったものなのだろうか。
そここそが、この「イメージ」という言葉が曖昧な印象を与える要因ではないだろうか。
「かっこいい」という単語ひとつでも、人によりそれをイメージするものは異なってくる。
それぞれの考えるものを、脳みそをコードか何かで繋いで共有することが出来ないから、それを具体的に表現することはその表現者に委ねられる。
時には互いに食い違いも生まれるだろうし、時にはぴたりと合致することもあるだろう。

けれど私達カメラマンは、その「イメージ」を撮る時に必ず持っていなくてはならないものがある。

その言葉を表現するための、明確な方法。
そして、「これがこの言葉に対する私の答えです」という、具体的なイメージを持つことだ。
つまり、撮影前にそれを表現するための完成された「画」を、自分の中に持っていないといけない。

表現者は、そうした明確な答えをもとに、それに近づけるためにああでもない、こうでもないと試行錯誤をしていくのだ。
答えが決まっていないと、目指すべきものがわからず、結果的に自分でも納得できないものになってしまう。
しかし具体的なイメージを持っているだけでは、それを十分に表現することは出来ない。
表現するための技術もまた、必要な要素なのだ。



彼女を撮影しながら、どんな写真にしようと色々と考えてみた。
来店した時に来ていた服はトレーナーにレギンスという、活発な女の子という出で立ちだった。
衣裳提案の時に聞いた彼女の好みは、ふわふわとしたスカートが好きだという。

また彼女に「好きな人はいるの?」と尋ねると、とても恥ずかしそうに体をくねらせていた。
とてもかわいらしい女の子の反応だ、と思った。
彼女の口から出たのは「EXILE」。
なるほど、とどこか納得した自分がいた。
ヒップホップを踊っていそうなイメージが彼女の中にあり、彼女の口から出た単語は私の中で撮りたいイメージを明確な物に変えてくれた。


3歳以上の女の子を撮る場合、その子の負担にならない程度にポージングの指示をする。
その中でも、私は「かっこいい女の子」を撮ることで、普段とは違った一面を残したいと思っている。
普段写真に撮る時はかわいい笑顔でピースサインをするであろう彼女達は、まだまだ「かっこいい女」とは無縁だろう。
だからこそ、私は「今」の彼女たちを「かっこいい女の子」に変身させてみたいと思う。


この時目の前にいた彼女も例外ではなく、「どんな風にかっこよく撮ろうか」と思っていたところだったのだ。
普段はどちらかと言うと「背伸びをして大人っぽく」という意味でのかっこよさを表現しようと思っている。
けれど彼女に対しては、「ワイルドなかっこよさ」を表現してみたいという気持ちがむくむくと湧き上がってきた。

ワイルドという言葉と、それに繋がる女の子という言葉を考えた時、私の中で一つの仕草が生まれた。


「髪の毛をかきあげる」


かきあげる仕草自体ではなく、その後の乱れた髪の毛というものに「ワイルドなかっこよさ」を感じる。
まだ小さな彼女に対してこの仕草は少し難しく、何度か繰り返し行ってもらった。
その時は、うまくできないということや、パパママに見られているという羞恥心からか、照れ笑いでその仕草をしてくれていた。そうして目的だった「髪の毛をかきあげる」という仕草を撮影し終え、彼女の長い前髪が顔にかかった時、彼女はそれまでにない魅力的な雰囲気を醸し出していた。
どこか色気があってフェミニンな彼女に、私は釘付けになった。

その雰囲気が壊れないうちに、すぐにライトを一灯に切り替えた。
彼女の後方から当たる光は、無造作に流れる髪の毛一本一本に輪郭を与え、その細くて繊細なラインを描き出す。
彼女の特徴的で高い鼻を強調し、強いコントラストにより彼女のフェミニンさ、力強さをより魅力的なものへと変化させてくれる。
俯いた目のまつ毛、目の中に入るキャッチライト、少し力の入った口元、髪の毛により半分隠れている左目。
そのすべてが、彼女を「かっこいい女の子」だと感じさせる要素になり、それまで撮っていた「髪の毛をかきあげる」という仕草以上に、彼女のワイルドさを表現できたのではないかと思う。


撮影前にイメージを持つということは、カメラマンにとってとても重要なことだ。
けれど、その被写体を前にしてそのイメージを崩されることは少なくない。
思い描いたイメージ通りに撮影をしていると、時折こうして、まったく違うところからそのイメージは私の中に湧いてくる。私の頭の中で描くだけではとても足りない。被写体から私に訴えてくるその雰囲気、色、声…すべてのものが、体内に流れ込んでくるのを感じる。
事前のイメージに加え、そうしたイメージの突然の来訪により、さらにそれは膨らんでいくのだ。


イメージとは、私と被写体の化学反応による、素晴らしき生成物でもあるのだ。



Photo:Miya
Coordi:Tanaka

in Lifestudio NISSHIN
 

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