フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
記憶色
投稿日:2016/7/31
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写真は引き算だ、という言葉をよく耳にする。
余計なものは排除して、必要な、美しい要素で画面構成をしていく。
何を排除するのかを考えるのは、簡単なようで難しい。
また逆に、足りない部分には何かを足すことも必要だ。
それもまた、その写真のイメージに合わないものを入れてしまっては意味がない。
写真は常に、考え続けながら撮っていくものだ。
私が撮影をする際に大切にしていることは、
「声が聞こえてくるような写真」
「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」
である。
「声が聞こえてくるような写真」。
写真は動画ではないので、もちろん音声は残らない。けれどその写真を見て、笑い声や泣き声が聞こえてくるような、そしてその写真を見て撮影当日のその時間を思い出せるようなものを残していきたい。
その写真を見たご家族様が後日、あるいは数年後に「この時あなたは人見知りが激しくてね…」「この時はこのおもちゃが気に入っていて、ずっと離さなかったんだよ」「初めて見るシャボン玉に大興奮してたんだよ」等の会話をしてくれるといいな、と思う。
そんな想像をしながら私はファインダーを覗く。
これらはどちらかと言うと、ある意味での「足し算の写真」である。
1枚の写真をもとにして、そのご家族様のその後のストーリーを想像する。
どんな成長をしていくのだろう、どんな関係を築いていくのだろう。
そしてその中で私の写真の位置づけは、どのあたりになるのだろう。
対して、ある意味での「引き算の写真」とは。
「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」。
前述した「声が聞こえてくるような写真」を「動」とすれば、この「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」とは、「静」にあたる。
もちろん、私の中のイメージとしての話ということになるが。
必要最低限というのは、被写体と光、そしてそれらをより美しく見せるためのインテリア。
この写真を撮ろうと思った時、まず私の中で排除したものは「声」だった。
この1枚に、声はいらない。
被写体の女の子はとても緊張していた。
兄と、双子の妹との3人兄弟で、真ん中という立場の女の子。
兄や妹といる時はとても楽しそうに笑っているのだが、1人になると途端に表情が強張り肩に力が入ってしまう。
他の2人がどちらかと言うとおちゃらけ者というか、元気いっぱいにはしゃぐ姿に対し、彼女は静かにどこか遠慮したように遊ぶ姿が印象強い。
そんな彼女の姿をより美しく撮るために、何を排除し何を加えて行こうか。
彼女と会話を続けながら、彼女の表情や仕草を観察する。
そうした中でまず考えたのが「声」だった。
緊張していて口数が少なかったから等という理由ではない。
彼女の表情、仕草、雰囲気から感じたことは、「動」よりも「静」の方がより彼女を美しく魅力的に写せると思ったからだ。
まず彼女にこの場所を案内した。
少し足を伸ばして、と伝えると、バレエをやっているためなのか彼女のつま先まですっと芯が入っているようにまっすぐに伸び、小さな土踏まずが緩やかな曲線を描いた。
この足が伸びすぎてしまっては変に足先に力が入ってしまうし、曲げすぎてしまえばその「芯」がなくなりだらしない印象になってしまう。
その微妙な調整を、彼女はほんのわずかな時間で行ってくれた。彼女の足が一番きれいな角度で、私は「ストップ」と声をかけたのだ。
そして彼女の目線は、自然とそのつま先に注がれた。
この時彼女は何を思っていただろうか。
最初はほぼ横顔に近い角度だった。
それを少しずつ少しずつカメラの方に首を回してもらい、首を傾げてもらう。
彼女の鼻筋が一番きれいに見えた時、つま先に注がれた目線はより一層彼女の魅力を引き立てた。
緊張しているのか、困っているのか、同じ体勢を維持するためにわずかに力んでいるのか。
力の入った口元が、彼女の感情を上手く隠しているようにも見える。けれどそれが彼女の持つ「静」を一番表現している部分でもあると感じられた。
さて次に排除したのは「色」だ。
この場所に案内した時から、モノクロで撮ろうと決めていた。
「必要最低限」で表現するために、「色」は邪魔だなと、率直に思った。
モノクロ写真で「色」を表現するのは難しい。けれど時として、「色」がありすぎることで、画面構成の妨げになることもある。画面内に色が散らばっていると、鑑賞者の目はそれらを追って画面の上をあちこち移動してしまう。
それでは意味がないのだ。被写体ただその一点にのみ集中してほしいのだ。
この場所はほとんどが白色と灰色で統一された場所だ。
統一された空間であるため、写真にした時に目線が画面の中を泳ぐことはそうないだろう。
しかしそれはインテリアの話だ。
彼女の来ている衣裳は薄いピンクやサーモンピンクと言った暖色系のもので統一されている。
衣裳自体も統一されているのだが、背景とのバランスを考えて、彼女には「インテリアに溶け込んで」もらおうと思った。
つまりモノクロの世界に飛び込んで貰おう、と。
そしてその中で、彼女を際立たせること。それが私に与えられた使命なのだ。
色のない世界で、いかに彼女を主役にするのか。
色のない世界で、いかに彼女に色を「与える」のか。
色の情報に左右されない世界で、けれど彼女は彼女ただ一人の存在として、その空間の中に存在しなけらばならない。
その体のライン、仕草、表情、ライティング。
全てを総動員して、彼女を彼女足らしめる作品に仕上げていくのだ。
「色」というものは不思議なもので、その存在の定義はとても曖昧なものである。
写真用語に
「記憶色」
というものがある。
もちろん人により色の感じ方は違うのだが、この記憶色というのはそれとは少し違う。
記憶色というのは、人がある特定のものに対して記憶(イメージ)している色(色彩)のことだ。
真っ青できれいな空を肉眼で見てきれいだと思って写真に撮ったけれど、実際にプリントしてみると色が薄く感じられたり、「あれ?イメージと違う」と思ったこともあるかもしれない。
それが「記憶色」だ。
脳みそのつくりだす記憶もまた曖昧なもので、自分自身も知らないうちに、自分の都合の良いように変換してしまうことがある。
目にした空は真っ青でとてもきれいだった。
その感情的な部分と実際に見た空の色、そしてこれまでに自分が目にしてきたいわゆる「きれいな空の色」を総合して、自分がさっき見た空の色はとてもきれいな真っ青だったのだと、脳みそが修正を加えてしまうこともあるのだ。
記憶とは、現実と理想の織り交ざったとても不安定なものでもある。
ではこの「記憶色」に関して何が言いたいのかと言うと、この彼女の写真に対して、この空間にいた人達が皆同じような色を覚えていなくても良いということだ。
なぜモノクロ写真にしたのか。
これまで述べてきたことももちろんなのだが、そこに加え、私はこの1枚の写真に対して個々の「記憶色」で見てほしいのだ。
それこそが「思い出」なのではないだろうか。
人の記憶は曖昧で、何年先も完璧に覚えていられることは数少ない。
だからこそこの写真は、誰かが「ピンクの服だった」と言えば別の誰かが「黄色い服だった」と言ってもいいのだ。
そんな風にして、それぞれの色でこの写真を鮮やかに彩ってもらえればいい。
色を排除した理由としても、別にインテリアや衣裳の色がどんなものでもこの瞬間だけは関係ないと思ったから。
そのために敢えてこの画面からは色を排除し、いつかこの写真を見返した時に当時の記憶をたどってもらいたいと思うのだ。
モノクロ写真に色が載せられる瞬間、この写真は再び新しく生まれ変わりまた別の写真へとその存在意味を変えていく。その人それぞれの色と思いと記憶をのせて。
きっとその「写真」の数だけそこに思い出が生まれ、心の奥深くの大事なところにそっと仕舞い込まれていくのだ。
Photo:Miya
Coordi:Tanaka
in Lifestudio NAGOYA
余計なものは排除して、必要な、美しい要素で画面構成をしていく。
何を排除するのかを考えるのは、簡単なようで難しい。
また逆に、足りない部分には何かを足すことも必要だ。
それもまた、その写真のイメージに合わないものを入れてしまっては意味がない。
写真は常に、考え続けながら撮っていくものだ。
私が撮影をする際に大切にしていることは、
「声が聞こえてくるような写真」
「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」
である。
「声が聞こえてくるような写真」。
写真は動画ではないので、もちろん音声は残らない。けれどその写真を見て、笑い声や泣き声が聞こえてくるような、そしてその写真を見て撮影当日のその時間を思い出せるようなものを残していきたい。
その写真を見たご家族様が後日、あるいは数年後に「この時あなたは人見知りが激しくてね…」「この時はこのおもちゃが気に入っていて、ずっと離さなかったんだよ」「初めて見るシャボン玉に大興奮してたんだよ」等の会話をしてくれるといいな、と思う。
そんな想像をしながら私はファインダーを覗く。
これらはどちらかと言うと、ある意味での「足し算の写真」である。
1枚の写真をもとにして、そのご家族様のその後のストーリーを想像する。
どんな成長をしていくのだろう、どんな関係を築いていくのだろう。
そしてその中で私の写真の位置づけは、どのあたりになるのだろう。
対して、ある意味での「引き算の写真」とは。
「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」。
前述した「声が聞こえてくるような写真」を「動」とすれば、この「必要最低限で伝えたいことを伝えられる写真」とは、「静」にあたる。
もちろん、私の中のイメージとしての話ということになるが。
必要最低限というのは、被写体と光、そしてそれらをより美しく見せるためのインテリア。
この写真を撮ろうと思った時、まず私の中で排除したものは「声」だった。
この1枚に、声はいらない。
被写体の女の子はとても緊張していた。
兄と、双子の妹との3人兄弟で、真ん中という立場の女の子。
兄や妹といる時はとても楽しそうに笑っているのだが、1人になると途端に表情が強張り肩に力が入ってしまう。
他の2人がどちらかと言うとおちゃらけ者というか、元気いっぱいにはしゃぐ姿に対し、彼女は静かにどこか遠慮したように遊ぶ姿が印象強い。
そんな彼女の姿をより美しく撮るために、何を排除し何を加えて行こうか。
彼女と会話を続けながら、彼女の表情や仕草を観察する。
そうした中でまず考えたのが「声」だった。
緊張していて口数が少なかったから等という理由ではない。
彼女の表情、仕草、雰囲気から感じたことは、「動」よりも「静」の方がより彼女を美しく魅力的に写せると思ったからだ。
まず彼女にこの場所を案内した。
少し足を伸ばして、と伝えると、バレエをやっているためなのか彼女のつま先まですっと芯が入っているようにまっすぐに伸び、小さな土踏まずが緩やかな曲線を描いた。
この足が伸びすぎてしまっては変に足先に力が入ってしまうし、曲げすぎてしまえばその「芯」がなくなりだらしない印象になってしまう。
その微妙な調整を、彼女はほんのわずかな時間で行ってくれた。彼女の足が一番きれいな角度で、私は「ストップ」と声をかけたのだ。
そして彼女の目線は、自然とそのつま先に注がれた。
この時彼女は何を思っていただろうか。
最初はほぼ横顔に近い角度だった。
それを少しずつ少しずつカメラの方に首を回してもらい、首を傾げてもらう。
彼女の鼻筋が一番きれいに見えた時、つま先に注がれた目線はより一層彼女の魅力を引き立てた。
緊張しているのか、困っているのか、同じ体勢を維持するためにわずかに力んでいるのか。
力の入った口元が、彼女の感情を上手く隠しているようにも見える。けれどそれが彼女の持つ「静」を一番表現している部分でもあると感じられた。
さて次に排除したのは「色」だ。
この場所に案内した時から、モノクロで撮ろうと決めていた。
「必要最低限」で表現するために、「色」は邪魔だなと、率直に思った。
モノクロ写真で「色」を表現するのは難しい。けれど時として、「色」がありすぎることで、画面構成の妨げになることもある。画面内に色が散らばっていると、鑑賞者の目はそれらを追って画面の上をあちこち移動してしまう。
それでは意味がないのだ。被写体ただその一点にのみ集中してほしいのだ。
この場所はほとんどが白色と灰色で統一された場所だ。
統一された空間であるため、写真にした時に目線が画面の中を泳ぐことはそうないだろう。
しかしそれはインテリアの話だ。
彼女の来ている衣裳は薄いピンクやサーモンピンクと言った暖色系のもので統一されている。
衣裳自体も統一されているのだが、背景とのバランスを考えて、彼女には「インテリアに溶け込んで」もらおうと思った。
つまりモノクロの世界に飛び込んで貰おう、と。
そしてその中で、彼女を際立たせること。それが私に与えられた使命なのだ。
色のない世界で、いかに彼女を主役にするのか。
色のない世界で、いかに彼女に色を「与える」のか。
色の情報に左右されない世界で、けれど彼女は彼女ただ一人の存在として、その空間の中に存在しなけらばならない。
その体のライン、仕草、表情、ライティング。
全てを総動員して、彼女を彼女足らしめる作品に仕上げていくのだ。
「色」というものは不思議なもので、その存在の定義はとても曖昧なものである。
写真用語に
「記憶色」
というものがある。
もちろん人により色の感じ方は違うのだが、この記憶色というのはそれとは少し違う。
記憶色というのは、人がある特定のものに対して記憶(イメージ)している色(色彩)のことだ。
真っ青できれいな空を肉眼で見てきれいだと思って写真に撮ったけれど、実際にプリントしてみると色が薄く感じられたり、「あれ?イメージと違う」と思ったこともあるかもしれない。
それが「記憶色」だ。
脳みそのつくりだす記憶もまた曖昧なもので、自分自身も知らないうちに、自分の都合の良いように変換してしまうことがある。
目にした空は真っ青でとてもきれいだった。
その感情的な部分と実際に見た空の色、そしてこれまでに自分が目にしてきたいわゆる「きれいな空の色」を総合して、自分がさっき見た空の色はとてもきれいな真っ青だったのだと、脳みそが修正を加えてしまうこともあるのだ。
記憶とは、現実と理想の織り交ざったとても不安定なものでもある。
ではこの「記憶色」に関して何が言いたいのかと言うと、この彼女の写真に対して、この空間にいた人達が皆同じような色を覚えていなくても良いということだ。
なぜモノクロ写真にしたのか。
これまで述べてきたことももちろんなのだが、そこに加え、私はこの1枚の写真に対して個々の「記憶色」で見てほしいのだ。
それこそが「思い出」なのではないだろうか。
人の記憶は曖昧で、何年先も完璧に覚えていられることは数少ない。
だからこそこの写真は、誰かが「ピンクの服だった」と言えば別の誰かが「黄色い服だった」と言ってもいいのだ。
そんな風にして、それぞれの色でこの写真を鮮やかに彩ってもらえればいい。
色を排除した理由としても、別にインテリアや衣裳の色がどんなものでもこの瞬間だけは関係ないと思ったから。
そのために敢えてこの画面からは色を排除し、いつかこの写真を見返した時に当時の記憶をたどってもらいたいと思うのだ。
モノクロ写真に色が載せられる瞬間、この写真は再び新しく生まれ変わりまた別の写真へとその存在意味を変えていく。その人それぞれの色と思いと記憶をのせて。
きっとその「写真」の数だけそこに思い出が生まれ、心の奥深くの大事なところにそっと仕舞い込まれていくのだ。
Photo:Miya
Coordi:Tanaka
in Lifestudio NAGOYA
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