フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
見えないものが見えるものになるまで
投稿日:2016/6/30
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photo by yoshie nishijima
coordi by kotaro yatsu
人はなぜ写真を残すのだろうか
写真を撮る事が日常的であるこの現代で
改めて考える必要が無い事のようにも思うこの疑問
私達はスマートフォンやデジタルカメラなどで
気軽に撮ることが出来る時代に生まれてきた
産まれた頃や小さい頃の写真があるのは当たり前で、家族によっては枚数が少ないという話がされたり時の流れを感じては昔話に花が咲く
この場所に来てよく耳にする様になったのが
写真には伝える力があるという言葉である
そもそもカメラという存在はこの世に最初から存在していたものではない
人という生き物が作り出し、出来あがった物である
どのような理由がありカメラという存在がこの世に産まれたのかという理由は定かではないが
一つ言える事は、人という生き物には感情や理性、情景や心情、思いや考えなどを持ち合わせており、その様な生き物がカメラまたは写真を作り出したという事である
この世界には何かを残したいと思い考えたものが沢山あり、それは写真以外に、書物だったり、子供だったり、歴史や存在など
目に見えないが言葉と言葉のコミュニケーションも何かを残す手段の一つである
そこには、人が人に伝えたいや繋げたい、繋がりたいや認めてもらいたい、向上させたいやより良くしたいなどが挙げられる
様々な本や文章を読む中で気になる文章があった
受け継ぐものが、良いか悪いかは関係なく
受け継がれること、伝えること、残すこと
そのこと自体が大事
人は生きるだけでは満足しない生き物である
生きた証を残せたからといって幸せになれるものでもない
人という字は支え合うという意味があるという昔からのことわざがあるが
人は人から何かしらの形で気づかされ、再確認したり発見をしていく
上記の文章を引用するならば、自分にとって何かしらの形で残したもの残されたものが
良いものか悪いものか関係なく、そこから私達人は何かしらの形で学ぶ事が出来るという事
写真というのは、人が残し残したいと考えた時の媒体の一つであって、それを双方が伝え受け継ぐことの出来る媒体の一つであるという事
またこれを写真に置き換え考えてみた時に
人は写真を残せたからといって幸せになるものではないという事ではないだろうか
親が子に対して幸せになって欲しいと願う
誰かが誰かにに対して幸せを願う
これらに共通しているものは、ただ関係のある人だからそう考えるものではなく、または、血が繋がっているからという理由で願うものでもない
垣根を越えて、理屈無しに幸せをくれた物や人には幸せになって欲しいと願うという人間の習性の様なものが伺える
幸せを与え気づかせてくれる場所や人、時間や空間を好きになるという事ではないだろうか
それを身近な例えで言うならば、ライフスタジオという場所に、大事な記念に来てくれるリピーターとの関係と繋がりがそれらを教えてくれている様に思う
何故楽しさが必要?何故美しさが必要?
幸せや感動とは何だろうか
人は毎日何かに悩み考え、何かを求め何かを目指し何かを残し何かのために生きる
結果が出ようと出まいとその日常や行為に潜む根拠は何かしらあるのかもしれないと考えると、集団生活を余儀なくされる私達人間にとって、写真も関係性もこの場所も人も、日々の日常も、より良く生きていくための必要不可欠な行為の一つであり、見方一つ変えるだけで幸せに繋がれている
私達が哲学という根拠を探る学問を学んでいるのは故にそれらが関係しているのではないだろうか
目に見て確認が出来る写真は、人という生き物にとって、ただ残すだけのモノではなく、その写真の中に楽しい思い出や気づかされる事、再確認する事など目に見えない関係と残したいという行為が、私達の写真に価値を与えているのではないだろうか
それは、写真という存在が無くなったとしても残るもの、それぞれの頭の中に存在する楽しんだ思い出や人と人との関係性から気づかされた事や再確認した事、私達との関係で築いた時間や空間で
ご家族の日常に何かしらの形で蘇る記憶など目に見えない価値を目に見える形で提供していっているようにも思える
そしてそれが写真だけではなく、何かしらの形で、幸せを蘇らせること
それがまた周りの人達に影響していくという事
回り回って人の為が自分の為になっているという事
今回のこの写真はどこかで見た事のある様な写真であり、誰もが撮れる様な写真である
注目させたいものは中心にあり、ピントも動かさずにシャッターをきれる日の丸構図で
世の中に多いのがこの構図の写真だ
今回ワタリドリで写真とは何かという主題の元、私が設定した主題が
目に見えないものが見え、目に見えるものが見えなくなった時というのに設定し
それを分析するに辺り、取り組みのひとつであった構図だったという事もありこの写真に決めた
構図について調べていくうちに
人は写真を見る時に最初はどうしても真ん中に目がいってしまうという習性があるという事が分かった
また平凡かつ工夫が無い様に思われる構図だが
一点に集中するという効果があり、周りを見えなくさせる
これは、他の構図が主題や副主題、背景や周辺の関係性を必要としそれらが集まり一枚の写真になるという効果とは別に
中心にインパクトのあるものを持ってくる事により、強い視線集中が可能になる構図であるという事だ
それらの効果を理解した上で今回目に見えないものが見え目に見えるものが見えなくなる瞬間を作り出し写真に表そうとした時に、人の顔は写さず手に集中して表現したいと考えた
手と手を繋ぐという印象の中には、沢山の要素が含まれている
人は自然と何かを掴んだり拳を握りしめたりする
その行為にも意味があり、自然と人の気持ちが和らぐという効果があるのだ
産まれたばかりの赤ん坊がギュッと指を握る仕草にも現れているように、人が何かを握るという事で気持ちが和らぎ、安心感や愛などを感じられるという事である
手と手を繋ぐというのが愛情表現になっている由縁もこの効果があるからではないだろうか
この撮影は一人っ子の2歳の女の子がメインの撮影で親も家族写真は少なめを希望していた
2歳という時期は個人差もあるが、自我が芽生え自己主張も成長段階の初期段階である
魔の2歳とは言ったもので、まだ成長も初期段階であるため周りの空気など読める訳も無く
嫌な事は嫌、好きなものは好きとしっかり主張してくれると同時に感情のコントロールもまだ定まらない時期である
この子の場合は、人見知りや場所見知りがあったため家族写真から始めカメラの存在や空間、私達に慣れてもらう事から始まった
ワンシーン目の終盤頃には笑顔も出て一人で撮影出来るまでになっていた為、私達も距離を縮めて撮影をしていたが、ふと思い出したかのように母親の元に駆け寄り手を握り始め中々離そうとはしなかった
この瞬間、関係性がまだまだ作れていなかったと思うと同時に主題の事が頭を過ぎった
手と手を繋いでいる
この瞬間に子供の表情と母親の表情を見ると
子供は不安げな表情をしているがどこか安心している表情をしており、母親は優しく柔らかく愛しい表情で子を見つめていた
その空間には言葉や小手先の技術など必要が無い目に見えない伝わる気持ちが存在していた
この時、母親と子の表情も一緒に写し表現する事も出来たが
主題を元に何をどのように表現したいかと考えた時に
一点に視線集中を可能にする日の丸構図で、目に入る情報は少なくシンプルにまた、一直線に繋いだ手を上下左右対称の効果を活かし、その場が静寂であった事を表現した
手を繋いでいた時間は5分程だろうか
その後、何事もなかったかのように元の位置に戻り私達と撮影を楽しんでいた
手と手を繋ぐ
その行為には安心感や愛情と共に信頼と勇気なども取り戻す効果がある様にも思えた
目に見えないものが見え、目に見えるものが見えなくなる
それらが一致した時、私達の写真の価値が普遍に近づき人の感動を呼び幸せを感じる事のできる価値あるものになるのではないだろうか
写真には伝える力があるという由縁はそこにあるのかもしれない
coordi by kotaro yatsu
人はなぜ写真を残すのだろうか
写真を撮る事が日常的であるこの現代で
改めて考える必要が無い事のようにも思うこの疑問
私達はスマートフォンやデジタルカメラなどで
気軽に撮ることが出来る時代に生まれてきた
産まれた頃や小さい頃の写真があるのは当たり前で、家族によっては枚数が少ないという話がされたり時の流れを感じては昔話に花が咲く
この場所に来てよく耳にする様になったのが
写真には伝える力があるという言葉である
そもそもカメラという存在はこの世に最初から存在していたものではない
人という生き物が作り出し、出来あがった物である
どのような理由がありカメラという存在がこの世に産まれたのかという理由は定かではないが
一つ言える事は、人という生き物には感情や理性、情景や心情、思いや考えなどを持ち合わせており、その様な生き物がカメラまたは写真を作り出したという事である
この世界には何かを残したいと思い考えたものが沢山あり、それは写真以外に、書物だったり、子供だったり、歴史や存在など
目に見えないが言葉と言葉のコミュニケーションも何かを残す手段の一つである
そこには、人が人に伝えたいや繋げたい、繋がりたいや認めてもらいたい、向上させたいやより良くしたいなどが挙げられる
様々な本や文章を読む中で気になる文章があった
受け継ぐものが、良いか悪いかは関係なく
受け継がれること、伝えること、残すこと
そのこと自体が大事
人は生きるだけでは満足しない生き物である
生きた証を残せたからといって幸せになれるものでもない
人という字は支え合うという意味があるという昔からのことわざがあるが
人は人から何かしらの形で気づかされ、再確認したり発見をしていく
上記の文章を引用するならば、自分にとって何かしらの形で残したもの残されたものが
良いものか悪いものか関係なく、そこから私達人は何かしらの形で学ぶ事が出来るという事
写真というのは、人が残し残したいと考えた時の媒体の一つであって、それを双方が伝え受け継ぐことの出来る媒体の一つであるという事
またこれを写真に置き換え考えてみた時に
人は写真を残せたからといって幸せになるものではないという事ではないだろうか
親が子に対して幸せになって欲しいと願う
誰かが誰かにに対して幸せを願う
これらに共通しているものは、ただ関係のある人だからそう考えるものではなく、または、血が繋がっているからという理由で願うものでもない
垣根を越えて、理屈無しに幸せをくれた物や人には幸せになって欲しいと願うという人間の習性の様なものが伺える
幸せを与え気づかせてくれる場所や人、時間や空間を好きになるという事ではないだろうか
それを身近な例えで言うならば、ライフスタジオという場所に、大事な記念に来てくれるリピーターとの関係と繋がりがそれらを教えてくれている様に思う
何故楽しさが必要?何故美しさが必要?
幸せや感動とは何だろうか
人は毎日何かに悩み考え、何かを求め何かを目指し何かを残し何かのために生きる
結果が出ようと出まいとその日常や行為に潜む根拠は何かしらあるのかもしれないと考えると、集団生活を余儀なくされる私達人間にとって、写真も関係性もこの場所も人も、日々の日常も、より良く生きていくための必要不可欠な行為の一つであり、見方一つ変えるだけで幸せに繋がれている
私達が哲学という根拠を探る学問を学んでいるのは故にそれらが関係しているのではないだろうか
目に見て確認が出来る写真は、人という生き物にとって、ただ残すだけのモノではなく、その写真の中に楽しい思い出や気づかされる事、再確認する事など目に見えない関係と残したいという行為が、私達の写真に価値を与えているのではないだろうか
それは、写真という存在が無くなったとしても残るもの、それぞれの頭の中に存在する楽しんだ思い出や人と人との関係性から気づかされた事や再確認した事、私達との関係で築いた時間や空間で
ご家族の日常に何かしらの形で蘇る記憶など目に見えない価値を目に見える形で提供していっているようにも思える
そしてそれが写真だけではなく、何かしらの形で、幸せを蘇らせること
それがまた周りの人達に影響していくという事
回り回って人の為が自分の為になっているという事
今回のこの写真はどこかで見た事のある様な写真であり、誰もが撮れる様な写真である
注目させたいものは中心にあり、ピントも動かさずにシャッターをきれる日の丸構図で
世の中に多いのがこの構図の写真だ
今回ワタリドリで写真とは何かという主題の元、私が設定した主題が
目に見えないものが見え、目に見えるものが見えなくなった時というのに設定し
それを分析するに辺り、取り組みのひとつであった構図だったという事もありこの写真に決めた
構図について調べていくうちに
人は写真を見る時に最初はどうしても真ん中に目がいってしまうという習性があるという事が分かった
また平凡かつ工夫が無い様に思われる構図だが
一点に集中するという効果があり、周りを見えなくさせる
これは、他の構図が主題や副主題、背景や周辺の関係性を必要としそれらが集まり一枚の写真になるという効果とは別に
中心にインパクトのあるものを持ってくる事により、強い視線集中が可能になる構図であるという事だ
それらの効果を理解した上で今回目に見えないものが見え目に見えるものが見えなくなる瞬間を作り出し写真に表そうとした時に、人の顔は写さず手に集中して表現したいと考えた
手と手を繋ぐという印象の中には、沢山の要素が含まれている
人は自然と何かを掴んだり拳を握りしめたりする
その行為にも意味があり、自然と人の気持ちが和らぐという効果があるのだ
産まれたばかりの赤ん坊がギュッと指を握る仕草にも現れているように、人が何かを握るという事で気持ちが和らぎ、安心感や愛などを感じられるという事である
手と手を繋ぐというのが愛情表現になっている由縁もこの効果があるからではないだろうか
この撮影は一人っ子の2歳の女の子がメインの撮影で親も家族写真は少なめを希望していた
2歳という時期は個人差もあるが、自我が芽生え自己主張も成長段階の初期段階である
魔の2歳とは言ったもので、まだ成長も初期段階であるため周りの空気など読める訳も無く
嫌な事は嫌、好きなものは好きとしっかり主張してくれると同時に感情のコントロールもまだ定まらない時期である
この子の場合は、人見知りや場所見知りがあったため家族写真から始めカメラの存在や空間、私達に慣れてもらう事から始まった
ワンシーン目の終盤頃には笑顔も出て一人で撮影出来るまでになっていた為、私達も距離を縮めて撮影をしていたが、ふと思い出したかのように母親の元に駆け寄り手を握り始め中々離そうとはしなかった
この瞬間、関係性がまだまだ作れていなかったと思うと同時に主題の事が頭を過ぎった
手と手を繋いでいる
この瞬間に子供の表情と母親の表情を見ると
子供は不安げな表情をしているがどこか安心している表情をしており、母親は優しく柔らかく愛しい表情で子を見つめていた
その空間には言葉や小手先の技術など必要が無い目に見えない伝わる気持ちが存在していた
この時、母親と子の表情も一緒に写し表現する事も出来たが
主題を元に何をどのように表現したいかと考えた時に
一点に視線集中を可能にする日の丸構図で、目に入る情報は少なくシンプルにまた、一直線に繋いだ手を上下左右対称の効果を活かし、その場が静寂であった事を表現した
手を繋いでいた時間は5分程だろうか
その後、何事もなかったかのように元の位置に戻り私達と撮影を楽しんでいた
手と手を繋ぐ
その行為には安心感や愛情と共に信頼と勇気なども取り戻す効果がある様にも思えた
目に見えないものが見え、目に見えるものが見えなくなる
それらが一致した時、私達の写真の価値が普遍に近づき人の感動を呼び幸せを感じる事のできる価値あるものになるのではないだろうか
写真には伝える力があるという由縁はそこにあるのかもしれない
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