フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

Never-ending東京。

投稿日:2016/6/30

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Photo by gomei
Codi by HIRO
 
 
彼女と会うのは2回目だ、前回は一年前に初めて会い真っ直ぐで素直な女の子という印象を持ったのを覚えている、場所は一年前の越谷店だ。
丁度一年前の撮影では、何もかもを楽しみ2時間の撮影を過ごしていった。
この一年という時間は彼女にどのような変化をもたらしたのだろうか、まずは7歳から8歳になった、小学校だと中学年とでも言うのだろうか、話す内容や大人への対応が驚くほど変わっていた、その目には何でも楽しむという期待よりも久々の再会にしどろもどろする少女の表情が垣間見えた。
身長も大きく伸びていた、骨格が大きくなり幼稚園児のような可愛さよりもすこし大人に近づいた可愛さを持っていた、見た目の変化がもたらす印象の度合いは大きい。
ではこの一年私も変化したのだろうか、彼女ほどではないが私も少なからず変化をしている、長かった髪を切った、めがねを変えた、そして去年よりも意欲的に働いている。
それらの要素が総合的に混ざり合い結果としてお互いに恥ずかしさを抱く形になったのではないかと今振り返ると思う点である。
 
あの時感じた「去年のような撮影ではないな」という思いは当たり前だが的中をした。
基本的には恥じらいからか写真に写りたがらない、親の前だからか、兄弟の前だからかは分からないが、意思が強いがもじもじするような仕草がよく見えた。
だからこそ去年と同じインテリアで撮る事を決めた、基本的には異なったインテリアを使用することが常であるし、越谷店の1Fはリニューアルをしているのに。
その選択には勿論理由がある、まず選択の根底にあることは人を撮るという事だ、このためには去年の思い出をある程度捨てなくてはならない、去年私が思っていた彼女の素敵な要素は、今年は異なっていると考えなくてはならない。
去年は過去だ、来年は未来だ、そして今年は現在である、日々人は変化の中に存在しており、写真を通して残すことが出来るのは今現在でしかない。
写真の記録という性質をいくら考えてもそれに行き当たる目に見える形としては目の前の状況しかないのだ。
このように考えるのはそれぐらい変化があったからだ、その変化の根拠は明確にはわからないが、知識が増え、コミュニティーの変化に伴と個人的成長が理由だと思う。
 
他にも写真がもつ性質はいくつもあると考えている、その一つは過去と現在をつなげる性質を持っているという事だ、他の言葉にすると歴史という言葉が適切だろう。
私たちは教育課程で必ず歴史を勉強する、世界史も日本史も何でもだ、歴史を学ぶ上で写真を通して認識することも多かったのではないだろうか。
例えば明治時代と昭和時代、人の格好も街並みも何もかも異なるが、写真を見て時系列をつむぎ合わせ私たちは理解をする。
この写真も例外ではない、去年と今年は背格好も異なれば、癖なども異なる。印象は変わるのに彼女という人は変わってはいない。そう考えるとこの写真も彼女の歴史を撮っている一面を持っており、去年との相違点が成長という言葉を持って人に認識されるだろう。
この要素を一番強く感じる為に行った選択が、去年と同じインテリアで撮るという事になった。
 
ではこの写真を撮った理由を少し書いてゆきたいと思う。
撮影場所を決め次にしたことは、カメラの撮影モードをモノクロに設定をした、このシーンの一枚目のこの写真の為だ、そのため75cutの中にはモノクロの写真はこの一枚のみだ。
まず一つ、窓から入るスポット的な自然光の中にいることで陰影をはっきりと出すことで被写体の存在感を強く出すこと、そして極力他の要素である色をなくすことでより被写体へ向ける視線の誘導をするためだ。
 
ポーズも特別には指示をしないことにした、いわゆる綺麗なポーズというものではない。
細かくポーズの指示をするという事と自然にみえるということは、シーソーゲームのようなものだ。
ポーズを一つつけると自然にはひとつマイナスされる、逆に自然にを大切にすると綺麗にはマイナスされてゆく。
この写真においては前途した概念を大切にするため、特別ポーズはつけなかった、一つ注文したといえばうつむいてもらうことだ。
そのために「靴がずれているよ」と一言声をかけた、これはそれを直す仕草という事になる。
帽子をかぶりうつむくことで表情が隠れることは想定内だ、正確にどのような表情をしているのか分からなくしたのは、この写真を見た人の想像力への投げかけだ。
表情が分からないので想像するしかない、彼女がどのような人なのかを考え規定すること、それは歴史的側面にとても関係している。
この写真もいつかは過去になる、来年になれば去年の写真といわれる、来年の彼女がどのようになっているのかは今誰も知らない、来年を考えると想像するしかないのだ。
 
次は左半分の何かについて。
まさしく何かだ、何かでよいと思うのだが、正体は大きな花瓶だ。
過敏は少ない光も屈折光となり反射をする為、比較的明るく写る、そして大きくぼけさせることでよく分からないものにした。よく分からなくしたかったのだ。
これには空間という概念ものが大きく関係している、空間とは物体が存在しない所をさすものであり、結局は目に見えなく分からないものだ。
 
これは東京の街によく思う、特に新宿や渋谷や銀座などの大きな町に、千葉の田舎男が表現するには東京のほうがしっくりと来るので東京としよう。
新宿や渋谷や銀座も何十年もの間、新宿、渋谷、銀座という場所だ、しかしこの何十年の間にも店は大きく様変わり、訪れる人々も大きく変わっただろう、渋谷にいわゆるチーマーが今は存在していないように。
変わりゆく街の空間、しかし一つ一つの街が異彩を放っているのが東京だ。
東京の街をよくみてみると、異彩を放っているのは場所ではなく空間だという事が分かるだろう、物質は時代とともに大きく変化するのに、独自の空気が流れ続けている。
東京の街の実態の変化はめまぐるしいスピードで変わって行くものだからこそ、その実態をつかむことは私たちには出来ないのかもしれない。
それは時間とともに延々と変化をし続けるものであり終わりが無いものでもある。
 
私たちは人や空間をつかんでいるだろうか。
いくら考えても明確な答えを出すことは今の私には出来ない。
 
この写真の核心は想像だ。
この撮影場所も時間と人とともに空間は変化を重ね、撮影者も被写体も同様に変化をし続ける。
彼女が今後どのような人生を歩むのか、この場所がどのような空間になってゆくのか、私がどのような人生を歩むのか、誰一人知らない。
目に見えないものは写真にも写らない、しかし目に見えないものが写真に意味をくれるものだ。
人も空間も結局は見えないものだからということではなく、目に見えないからこそ探す面白さが必ずある。
未来のことは誰にも分からないように、今を探すことに熱中した一枚である。

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