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美しい写真の条件
投稿日:2016/5/30
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美しい写真の条件は・・・・・・・・・なんだろうか?
スタジオカメラマンだったら一度ぐらいは考えてみたことがあるのではないだろうか。
仕事が終わってスタッフが帰ったあとに、熱いお茶を用意して自分が撮った写真を見返す時がある。
キーボードの→を一定のリズムでタン、タン、と叩きながら写真も一定のリズムで次々と流れていく。自分が撮影した写真をよく見ることをしていきながら、顧客との楽しい時間を思い出す時間でもある。「ああすればよかった」と客観的に自分の写真を反省する有効的な方法の一つである。
写真をよく見ると、意識していたつもりだったが、水平垂直が曲がっていたり、余計な小物が写っていたり、床の汚れが気になったりする。欠点ばかり目につくようになり、事務所に響くタン、タンという音と比例して、わけのわからない罪悪感が自分の体内で膨らんで重い鉛のようなものが作られていく。
撮影中にもっと注意して気づいていればという後悔や昨日と変わらないつまらない写真をまた撮ってしまったという後悔・・・・。
写真を見ながら、自分ができなかったことに対する非力さによって体内に黒い鉛が作られる。
しかし、黒い鉛の本当の正体は、自分の非力さからくる、顧客に対しての申し訳なさだ。
ありがたいことだが、ライフスタジオで希望の日に予約を取ることは簡単ではない。
たくさんの顧客から撮影に来るまでの過程の話を聞くと、近所のスタジオのほうがある意味では魅力的なのかもしれないと考えたりもする。ライブチケットを取るような感覚なのかもしれない。
だから、二度とは取り戻せない瞬間を永遠にした写真と生きていく顧客のことを考えると本当に申し訳なくなる。
自分がもっと写真が上手だったらこんなことにはならなかったのに・・・。
美しい写真を知らなければならないのに、よくわからないという矛盾をいつも抱えながらシャッターを切ってしまう。どこかで見たことある写真を真似しながら・・・・・。
それでいいのかもしれないが、いつかは自分の美しい写真に出会いたいという撮影者の渇望だけが頭の中に残った。
こんなことを考えながら、結局美しい写真の正体がわからず、今年の1月に本社に異動をした。
本社事業の一つに「写真の本質」について書くために一定期間が与えられたことがあった。
写真を技術的な面でばかり見ていたが、「写真とはなにか?」という概念的な面で見るのは初めての試みでだった。写真の概念を知るというのは、「自分にとって写真とはなんなのか?」を発見することであり、私と写真の関係が作られることを意味している。
つまり、写真のいくべき方向性を決定的にすることが、写真の概念を知るということである。
私は写真に関するあらゆる本を読んだり、インターネットで調べたりした。
そこで、ある写真家の言葉が引っかかった。
-私の写真の全作品はセルフポートレートである。
なぜなら自分自身を投影または反響させることなりに、写真を撮ることなど不可能だからだ。
被写体の人物の写真を撮るだけではなく、同時に自分自身の写真も撮っているのだ。-
そうだったのか!!と目の前の霧がはれて道が開けたような感動があった。
矛盾したことを言っているようにも聞こえるが、注意深く言葉を理解しようとするとこういうことなのではないだろうか。
写真を撮る時に必要なことは「撮影者と被写体とカメラ」が基本的な構成要素である。
撮影者がカメラを構えて目の前に被写体がいるという構図が頭に浮かぶと思うが、写真を撮っているのはカメラという機械が勝手に撮っているわけではない。シャッターを押す瞬間は、誰も自分の代わりにはなれない「私」だ。同様に、ファインダーから見える被写体も誰も代わりになることができない「あなた」だ。
写真はカメラの内側で造られるものではなく、むしろカメラの外側にある「私とあなた」の間で作られるものであるからだ。例えば、撮影中に子どもが突然くしゃみをして鼻水が垂れる時にシャッターを押す撮影者がいる。あまり共感はされないと思うが、その撮影者が持っている「かわいい」という概念が「鼻水を垂らす子ども」にセンサーが反応してシャッターを切るのである。
だから、撮影された1枚の写真は、「私」と「別の私」が写っているということになる。
「私は・・・・・・今までなにを撮ってきたのだろうか?」
私にとってあなたがどんな意味かも考えずに、光がどうだの構図がどうだのを言いながら、シャッターを切っていたのではないか・・・。
美しい写真を撮るポイントがあるのだとしたら、それは目の前にいたのだ。
目の前にいたのは・・・・・松山絵美という1人の女性だった。
彼女は私と同じライフスタジオのスタッフであり、3ヶ月間だけだが川口店で一緒に働いたことがある。
スタッフブログの自己紹介には
こんにちは。「まっちゃん」です。
たまに、「お兄ちゃん」と言われますが性別は女性です。
暑がりで汗かきなものでして、冬でもたまに半袖。
走ったり大声で笑ったりで、皆様と楽しい時間を一緒に過ごしたいです。
というようなことが書かれている。
知っている人がいたら少しクスッとしてしまうかもしれない。
まさにまっちゃんは、男の子のような女の子なのだ。アスリートのような引き締まったスタイルをしていて、ファッションもスニーカーにTシャツにリュックを背負って、腕時計はGショック。
「ういーっス」と挨拶をしてくるような体育会系な雰囲気だ。
ある時、寿司がぎっしりプリントされた寿司Tシャツで出勤してきた時は、あまりにびっくりして「これ・・・・・寿司だよね?」と聞いてしまった。
すかさずまっちゃんは「かわいくないっスかぁー?」と寿司Tシャツを見せてくれた時があった。
まっちゃんはやんちゃな小学生男子が好きそうなスタイルだ。
跳ねたり、飛んだり、踊ったり、歌ったり、見ているこっちが笑って撮影ができなくなってしまう時もある。
そんなまっちゃんから「鈴木さん、撮ってもらいたいんスけど、いースかぁ?」と言われた時には、正直、意外だった。自分の写真を撮られることに関心がないと思っていたからだ。
理由を聞くと、おばあちゃんになる前に残したい、と自分の美しい存在を写真に残しておきたいという秘密を打ち明けてくれたような感じだった。
私はまっちゃんをスタッフとしてではなく、一人の女性として写真で表現することが求められていると感じた。それは、女性として生まれてきた自分を肯定できるような写真を残す使命を託されたのだ。
だから、まっちゃんを女性として接することに抵抗するのではなく、私がまっちゃんを愛する人のように接すること・・・・・。もっと被写体に近づいていくこと・・・・・。もっと被写体をよく見ようとすること・・・・・。
どこから生まれて、どうやって生きてきたのか?たくさん質問を投げかけた。
断片的な情報がパズルのように少しづつ姿が見えてきた。
岩手県に生まれて、田舎の退屈さから上京をして、クラブで朝まで遊ぶようなおしゃれが好きな女の子。
1枚の写真で松山絵美を表現しようと考えたときに、特徴的な部分を美しく切り取ることが私にできることだった。広大な宇宙にはたくさんの星があるが、よく見てみると似ているようで似ていない星の特徴があるように、全体ではなく部分をよく観察してみると、その人にしかないものが見えてくる。そして、部分は全体の一部という考えではなく、部分は全体でもあるのだ。
この写真のポイントはまさにそこにある。
女性という特徴と松山絵美という特徴的な部分を切り取っているが、その二つが出会って「女性らしい松山絵美」という全体を1枚で表現されている写真なのである。
この写真の構成要素のほとんどは被写体が持っている特徴を中心に構成されている。
なるべく被写体が持っているものだけで、1枚の写真を表現したかったという意図もあり、注意すべきところは、閉じている目、まつ毛、ペンで書かれた眉毛、耳、不揃いの300円のピアス、流れるようなくせのある長い髪の毛、バリカンで切った短い毛、髪の毛に絡まった指輪をしている手、顔の輪郭、これらが自然にバランスを確保しながら整理する必要があった。
そうするためには、カメラを縦にすることが適切だと判断をした。
縦写真は、柱のような縦のラインを整理しやすいという特徴を持っている。私たちが縦写真が多いのも被写体が直立している人であるという理由の一つでもある。
この写真の場合は、上部の鼻先から下部の手にかけて、被写体の特徴が点や線となり縦というラインにきちんと配置されていることで、バランスが確保されている。
バランスは、撮影アングル・画角によるものだが、肉眼でその人を見ているかのような効果も同時に成している。
ベットに仰向けに寝ている被写体には「寝ている」という状態がとても自然であるならば、撮影アングル・画角も自然にならなければならない。まるで愛する人の寝顔をそっと見ているような遠近感のない自然な距離が被写体を表現するためには必要だった。
光についてはこの写真の場合は、特別な意味はあまり持っていない。
ただ露出比による抽象性を高めている。逆光を利用するほとんどは、影となる部分を明るくしようとする露出設定が基本であり、いわゆる「光を飛ばす」という露出オーバーの状態を意図的に作りだす。それにより、明るい箇所はさらに明るく、暗い箇所は明るくなるのである。
結局は、露出比もバランスの話だ。光をどこにどのくらい?ということを考えるからだ。
被写体の左半分の顔に当たっている光が100だとしたら、右半分の顔は50ぐらいである。右半分の50を100という適正露出に合わせると、同時に左半分の100が150になる。それによって、左半分の顔は露出オーバーの状態にあり、輪郭もほとんどよくわからなくなっている。輪郭を写す必要がなかったというより、被写体のポイントがそれ以上にポイントであるためには、顔は抽象的にする必要があった。
最後に、構成要素の割合が被写体が高い場合に重要なのは、ピントの位置である。
よくピントを目に合わせると聞くが、単純に目を写したいと強く思うからではなく、写真は顔を写すものだという習慣からそうしている場合が多い。
ピントの位置は「この写真でなにが重要なのか?」という特別な意味がある。撮影者の意思に近い。
ピント位置は、刈り上げられた髪の毛に合わせられている。それが松山絵美を象徴する特徴だからだ。髪の毛を結んでも楽なようにセットされた髪型は、冬でもよく汗をかくまっちゃんの象徴でもある。この写真をいつ見ても「私だ」と確認して肯定して生きて欲しいという私の意思でもある。
この写真は以上のような私の考えを投影させている、別の私でもある。
しかし、それは松山絵美という女性が目の前にいたからこそ知れたことでもある。
この1枚は私の写真ではなく、私とあなたの写真なのである。
まっちゃんの写真を撮った後日、LINEでお礼の連絡をもらった。
なんかー
ライフリピーターのお客さんの気持ちがわかりますね!!
自分じゃないみたいで、感動するし、綺麗に撮ってくれて嬉しいし、現実感がないんですよねー。
いつもの日常と違う空間にいる自分的な。
うまくは言えませんが。
不思議な感覚。
特別感というか。
ともかく嬉しいんです!!
また、撮って欲しくなります。
人間を良く見ようとすれば良く見えるものであり、悪く見ようとすればひたすら悪く見えるものなのかもしれない。写真を撮る行為というのは、単純に美しい光や美しい構図を探すことではない。
カメラの目の前にいる特別な原石を探そうとする行為が写真なのである。
写真に集中するとは、人に集中することと同じ意味として使わなければならない。
だから、美しい写真の条件の一つに、私とあなたを発展させる写真だったのか?、を基準として設定するのは、私たちにとって楽しいことではないだろうか。
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