フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
feeling myself,
投稿日:2016/4/30
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何故、この写真を撮ったのですか?と問われて、すべてを論理で説明し尽くす自信はありません。
撮影空間というライブな世界の中で、その時、その瞬間だけのナマモノな感覚のすべてに、なるべく近い言葉を着せて当てはめていくことは、いつもとても難しい。
それでも、試みてみようと思うのは、私が写真を撮っていく上で「何故なのか」という問いかけを、この1ヶ月たくさんたくさんしてきたからです。この1ヶ月は、幾つもの「いつも」と違う視点に触れることができました。
何故シャッターを切ったのか?何故写真に残そうと思ったのか?何故こう撮ったのか?
「いつも」という無意識的な反復に、再度目を向けて、今までの「何故?」を振り返り、これからの「何故?」への足掛かりにしなければならない。
私が撮る写真には、「わたし」が写っている。
自由で、楽しくて、美しい瞬間が、ここにあった。私がシャッターを切った理由は、それに尽きます。
この時、撮影空間には柔らかな光と、笑顔と、温かい空気が満ちていました。
撮影空間、という表現において、私はただその「場所」だけを表すものではなく、そこを構成するすべての要素の三次元的なフィールドであると考えるようになりました。その場所、そのインテリア、そこにいる人たち、その関係性、そういったもののすべてが複合的に、「空間」には反映されます。私たちは撮影者として、「わたしたち」と被写体である「その人」という存在との関わりを作り、「わたしたち」という言葉は撮影者だけでなく、その場にいる人すべてを表す言葉になります。「わたしたち」が、その場の空気を作り、その空間を構成します。
そこにいる家族も、子どもも、撮影者も、安心して笑い、思う存分ふざけ、互いに楽しみ合うことのできる空間。この時、新横浜店のこの部屋には、そんな空間が拡がっていました。
この空間に溢れる、お兄ちゃんの笑い声と走り回る足音、パパさんママさんがてんやわんやしている声。
可愛いかわいいとはしゃぐ、カメラマンとコーディネーターの声。大きなカメラのシャッター音。
部屋の温かさと、そのからだを受け止めるベッドの柔らかさ、嵐のようだった外が嘘のように晴れ渡って燦々と差し込む光。
それが、まだ目がよく見えない彼が「感じる」空間。
生後2ヶ月の彼に、視力で「見る」という認識はできなくても、「感じる」ことで見えない部分を補うことは、きっとできる。
言葉を話せなくても、そんなによく見えていなくても、だからこそ、カタチのないものを敏感に感じ取って、反応する。
だから、この空間は楽しさで満たさなければならない。パパも、ママも、お兄ちゃんも、撮影者である私たちも。この空間を構成する人たちが心から楽しんでいたら、彼は安心してそれを楽しむでしょう。
私がいちばん大切にするものは、撮影空間を心地良く構成すること。
居心地の良い空間が構成された時、Babyの撮影の準備は整うのだと思っています。
私自身、そこを構成する一要素として、Babyと向き合います。「居心地はどうですか」と問いかけながらファインダーをのぞけば、彼の答はその動きや表情を観察していれば、何となくわかります。
「わたしたち」はただただ楽しかった。こうしてカメラを持って、Babyと向き合って、後ろでは1歳の時から知っているお兄ちゃんが怒涛の勢いで走りまくっていて、パパやママは彼を追いかけ回していて、ずっと笑い声が響いていて、そんな空間が本当に、楽しかった。
運動会のようにやかましいのに、彼にとってはそれがとても心地良さそうで、そうしてふっとカメラの方を見た、そのあまりにも無垢な存在感に打ち抜かれて、「とっておきたい」と思ってシャッターを切りました。
生後2ヶ月の彼の姿。この時、この最高に楽しい空間を共有した、共に構成した、掛け替えのないこの姿。そして、それを写真に残した、この時の「わたし」。この写真は、私がいちばん大切に思う撮影空間が、極めて理想的に構成されたその結果。
自由で、楽しくて、美しい瞬間が、ここにあった。
私がシャッターを切った理由は、それに尽きます。
Life studio No,17
Shinyokohama
Photo by Reiri, / coodi by Yonezu
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