menu
menu
ログイン
予約
LifeStudioとは
ライフチャンネル
ライフチャンネル一覧
ライフNow
ライフ人
MVP店舗
イベント
フォトジェニック
コラム
店舗紹介
ギャラリー
ギャラリー一覧
Baby
Kids
753
1/2成人式
Birthday
Otona
撮影プラン・料金
(料金/システム/商品)
初めての方へ
撮影プラン
商品
Q&A
コミュニティ
コミュニティ一覧
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
店舗フォトジェニック集
ご利用の流れ
よくある質問
Official SNS
サイト内投稿の検索
Official SNS
サイト内検索
LifeStudioとは
ライフチャンネル
ライフチャンネル
ライフNow
ライフ人
MVP店舗
イベント
フォトジェニック
コラム
店舗紹介
ギャラリー
ギャラリー一覧
Baby
Kids
753
1/2成人式
Birthday
Otona
撮影プラン・料金
(料金/システム/商品)
初めての方へ
撮影プラン
商品
Q&A
コミュニティ
ライフチャンネル
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
フォトジェニック
ご利用の流れ
よくある質問
ログイン
予約
フォトジェニックアーカイブ
Photogenic Archive
トップ
ライフファミリー
ゲストストーリー
ライフストーリー
スタッフブログ
店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
身支度
2018/2/28
0
・白い部屋に赤い衣装で存在感を引き出す ・洋服をちらし被写体に着替えてもらう ・彼が次、何を着るのかを分かるようにレンズは望遠レンズを使用した。 ・後ろに布団を敷き、目覚めて彼が身支度を1人でする様子を想像してシャッターを切った 彼は2歳の男の子。2歳とはとても思えない程に表情豊かだった上行動がとても大人びていた。 彼に似合う衣装は何だろう!といくちゃんと一緒に服を選びながら「彼を赤一色で揃えてみたい!」といくちゃんから提案を受け、私も絶対彼に似合うと思いパパさんママさんに提案し選んで頂けたので嬉しかったです。 白い部屋で布団を敷き、衣装を散りばめ彼に一着ずつ着替えてもらいその様子を私は低い姿勢から望遠レンズで撮影しました。 彼は目覚め、身支度を始めた。 タンクトップを着てズボンを履きチャックを閉めその後セーターを着て。 さて、彼はこれから何処へ出かけるのでしょうか。 cordy by ikuyo photo by kazuki
natural
2018/2/28
0
今月、店舗の主題である写真家の映画を見た。 作品の中でその写真家さんが言っていた言葉がある。 「自分から探しても写真は撮れるものではない。被写体次第だ。」 人の写真を撮るということは自分と被写体との関係性もあるし、自分自身の技量バリエーションも必要になってくると感じている。ただ、キッズの撮影に置いて私が難しいと感じるのはその子に撮られているという意識があることでその意識をどう崩すことが出来るのか、それが難解であり壊し方に苦しむ事がある。 この子もそう感じた一人した。目線を外して欲しくても、会話をして欲しくても、シャッター音が聞こえるとレンズから目をそらしてくれない。いい方を変えるととてもモデルとして素晴らしく、撮影しやすい子でした。大人っぽ顔立ちの彼女は実年齢よりもお姉さんに見えていて、かつ表情も作るのも上手いためどうしても大人っぽいい印象に見えてしまう。それはそれでとても良いことなのですしクールビューティーに撮れたカットもありましたが、撮影の合間に見る自然体の彼女の表情や言動が残せてないようにも感じていました。どうアプローチをしたらそれが残せるのか?意識を変えるにはどうしたらいいのか?模索は続きました。が、それは案外シンプルなところで崩れました。 キッチンでイチゴの入ったカップを渡した時です。不意に彼女は嬉しそうにぴょんぴょんと足を弾ませました。これだったのか!その姿が私にはとても愛おしく見えて、なんて可愛いやつ!!その足の感じ可愛い!などとカメラ越しに思ってしました。そこに至るまでのポーズもカメラ目線も上手に決めてくれる可愛い子ではなく、本来の自然な彼女の可愛さをそこに見た気がしたのです。 この時に、私は最初に書いた言葉が妙にしっくりときたのです。 自分が思うこう写真ああいう写真というのは、自分が探したところで撮影することは難しい。被写体と自分の関係、撮影している雰囲気環境を汲み取った被写体によってそれが形となり一枚となる。だからと言ってその答えを探さないわけでもないし、偶然が来る事を待つだけではないこともわかっている。その答えを導けるヒントや環境を整える事をしてこその「自分から探しても写真は撮れるものではない。被写体次第だ。」この言葉が成り立つように感じた。
寝顔
2018/2/26
0
寝顔 月齢が低い赤ちゃんだと、撮影の合い間に愚図ってしまい授乳し眠ってしまうという事は多々ある事かと思います。今回はそんな寝顔に纏わる話しになります。 本当はあともうちょっと目を覚ましてもらって撮影したかったなぁ~って思うところですが、この寝顔を見た瞬間思わず「ゆっくり、おやすみ」という言葉が出させてしまう程、あかちゃんの寝顔には強力な力が宿っていると思います。 泣く事で沢山の運動をし、ママからお腹いっぱいミルクを貰い、温かい布団と家族みんなの愛情に包まれて、至福の時という言葉を体現させるくらい穏やかな寝顔です。欲は大人になるにつれて種類も欲の満足度合いも、自分のサイズを大幅に超えて膨らんでいきます。この寝顔見ながら、私も欲求が身体見合ったサイズだった小さな頃は、欲が満たされたという幸福感を沢山味わう機会が多かったなと、しみじみ感じました。 幸福感は人生において熱意、勤勉、思いやり、知的好奇心、人生に対する前向きな態度から充足をもたらすとの事です。そして思考において常にプラスの考えを持つ事が重要な鍵であるのです。また熱意をもって熱意で返される、思いやりを思いやりでもって返されるなど、つまり一方的に欲しがるものは無く、自身も同等のモノを与えるというプラスの作用状態である事が幸福感へ繋がるのです。 先ほどの赤ちゃんの寝顔に話を戻しますが、赤ちゃんの寝顔を見ると、どこかホッコリと心が温かく穏やかな気持ちになります。それは、心が満たされた赤ちゃんから周りの大人たちへのお返しなのかと思いました。 最近、鏡を見て自分の表情を確認する事をしていませんが、私の表情に幸福感が出ているかは私次第であり、今回の撮影で改めて表情と心の繋がりの深さを感じました。
「違い」よりも「深く」
2018/1/31
0
Tokorozawa Photo Photographer: Satsuki Kudo Coordinator: volvo 写真で私は何を成すことができるのでしょうか。 ライフスタジオに入社して6年が経ち7年目を迎える今も、私はこのことをずっと考えています。 今まで何かしらの価値を写真で成してきたと思っていても、 それは全くの勘違いで、本当は何も成していないのかもしれません。 まだ何もわかっていなかったのかもしれません。 ただ、毎日写真を撮る日々の中の、1件1件の撮影の、1枚1枚の写真の、 一秒一秒の瞬間に、私は意味を付けて生きてきたのか…。 そう振り返ると、いたずらに時を過ごしてきたことのほうが多かったのかもしれません。 私は所沢店のメンバーとともに「写真人文学」という学習を継続的に行っています。 その中に、“芸術の価値とは何か”という問いがあります。 そこには、歴史的な芸術の発展の過程で、“普遍的な美の基準の確立”と“古い因習の踏破”が同時に成されることが、芸術の価値につながるという意味のことが述べてあります。 つまり芸術は、“いつの世も誰の目から見ても美しいと思えること”と“新しく広い世界への美しさの模索”という2つの面があるということです。 芸術の価値にはいつもこの2つの相反する面が作用していきます。 今まで在る基準は非常に重要ですが、この先に進むには広く新しい視点も非常に重要です。 これら2つを切り離すことはできません。 この観点をライフスタジオの写真へと向けてみましょう。 ライフスタジオの写真は、“芸術”なのか“商業写真という道具”なのかという問いにおいては、“限りなく芸術作品を目指した商業写真である”と言えます。 使用目的のある“道具”という面は商業的な活動をしている以上切り離せませんが、被写体である“家族”や“人”の真実や真理を表現しようとしている以上は撮影者の意図は限りなく芸術的です。 そういった規定がされたときに、「いつ誰が見ても美しいもの」と「新しく広い視点」はライフスタジオの過去と今を繋ぎ未来への扉を開くカギとなります。 それを提示する場所がフォトジェニックの場だと私は思います。 そして、実際マンスリーフォトジェニックで選ばれる写真も、堅実で論理的な美の基準を持つものもあれば、真新しい何かを追い求めているものもあります。 そして今もここフォトジェニックの場では、各店舗の撮影者が思い思いのライフスタジオの写真を提示する場となっています。 真新しいものはライフスタジオの写真の未来において非常に重要ですし、それがなくては発展がありません。 実際に、人の目というものは“見慣れたもの”よりは“真新しいもの”や“物珍しいもの”に行きやすいのだと思います。 誰しも、どんなに美しいものだとしてもいつもそばにあり見慣れてしまえばその美しさに気付きづらくなるように、ライフスタジオの写真も美しく真理を得ているものでも見慣れればその良さを発見することは無くなります。 その中で、“真新しく”“物珍しい”物は魅力的に映るかもしれません。もしかしたらその発想力に憧れの念すら抱くかもしれません。 そういった風潮が広がると、人は誰かと違うことや個性的であることに価値を見出すことになるのかもしれません。 自分という存在の表現や、自分の視点を信じて表現をするということは、決められたように見える世界からの脱出かしれませんし、自分という存在を自律させる第一歩になります。 だから、自分の言葉で表現し、自分の視点で写真を撮ることはライフスタジオで許されている撮影者の自由であるといえると思います。 でもときどき、私は私自身に問いかけることがあります。 「私はただ違いばかりを求めているのではないか」と。 誰かと違うことに固執しすぎて、本当に写真で表したいものに誠実になっているのかと。 そして空しい気持ちになることもあります。 外面だけ繕った写真で、果たしてこの中身に在るものはなんなのか。 その写真で写したかったものはその被写体自身なのかと。 そこでライフスタジオの写真の価値とは何かを考えてみることにします。 常々、フォトジェニックで言っているようにライフスタジオの写真とはどのような方法であれ、「被写体の存在の美しさを表現する」という目的に向かっていくべきものであると考えます。 なぜならば、ライフスタジオのすべての基準が「人」であるからです。 つまり、写真の基準も「人」であり、目的も「人」です。 だから、その写真はどんな表現方法であれ「人」を表すものであるといえなければならないと思うのです。 つまり、先ほど言った「差異」とは方法であり、「意味」とは内容であり目的になります。 ライフスタジオの写真は、この「差異」と「意味」が両立されているものであると言えるのです。 「差異」だけあっても「意味」がないと価値とは言えないのです。 反対に「意味」を考えられた写真には、そのように形作られていきます。 今回、フォトジェニックに上げさせていただいた写真は、一見平凡に見えるミドルアップの写真かもしれません。 ここで私が表したかったものは、紛れもなくこの被写体自身であり、被写体の持つ美しさと被写体の存在の真実でした。 この被写体自身は、小学2年生の男の子で爽やかな笑顔と力強い視線と自分の存在への信頼感が印象的な子でした。 撮影風景を両親に見られると恥ずかしがっていましたが、大人への受け答えもしっかりしており、言われたことは忠実にこなし、私たちとの会話も変な違和感もなく、人前でもごく自然な立ち振る舞いができる子でした。 そんな彼を表現するには、誰かがこの写真を見た時に彼の自然な存在感で魅了できるような写真を撮ることでした。 そのために、私はスマートフォンとイヤフォンを渡し音楽を聴かせました。音楽を聴かせることで撮影の世界観に集中させる狙いもあったのですが、スマートフォンとイヤフォンを用いることで現代の子どもらしさと何かをしてもらうことで自然な動きを引き出せるようにするためでした。 音楽を聴きながら、いくつか指示を出しこちらに目線をもらう瞬間に、印象的な瞳を力強く写そうとしましたが、敢えてミドルアップの画角に動きを出すようにウインクをしてもらうようにしました。 これは一緒に入ったvolvoさんの発案でしたが、これが1枚の写真で彼の魅力を端的に表現するための最後のパズルの1ピースになりました。 このウインクに合わせて、斜めに動きを出すように金属の前ぼかしを入れます。 この前ぼかしによってこの絵の何か抜け落ちたような空間の欠落を補い、この被写体の魅力を表すスパイスにしました。 レンズは85mm。 後ろの背景を溶かし、前ぼかしの質感を損なわずに、目に集中させるレンズ。 これは、彼という存在を表すため目にフォーカスすると決めて予め装着していたレンズです。 光は半逆光。 サイド光でも逆光でもなく半逆光を選んだのには、被写体の輪郭を際立たせ、露出を少し落とすことにより瞳に目が行くようにしたかったから。 こうして、構図・ポーズ・表情・レンズ・光に「被写体を表現するという」意味を持たせること。 この「意味」があって初めて写真に深みが出ます。 この深みを知った時に、写真は「差異」よりも動かされる何かを得ることができるのではないかと思います。 そして目指すべき写真は、「意味」のある写真であり、その方法は「意味」があって初めて決まるものなのです。 哲学エッセイに「内容」と「形式」という言葉があります。 「内容」は「形式」に先行するということですが、要するに事物は「内容」にあった「形式」になるということなのです。 だから「形式」ばかりを追い求めても「内容」が空洞になってしまうし、「内容」があるなら「形式」になるということです。 ライフスタジオの追い求めている写真も、「内容」である「意味」と「形式」である「表現」その両方があって初めて価値のある写真と言えると考えています。 もちろん、「意味」を追求していけば「表現」も発展していきます。 しかし、「意味」の追求を止めてしまったら、「表現」は既存の伝統的な表現に留まってしまいます。 その両立を常に追い求めていくこと。 そういった価値のある写真を、私は追い求めていきたいのです。 そして肝に銘じておかなければいけないと常々感じるのです…。
harmony
2018/1/31
0
ライフスタジオの美しさの表現とは何か これは、ずっとライフスタジオのカメラマンであれば、避けては通れない課題でもあり、 自分が考える“美”について、ずっと問い続けなくてはいけないことだと言えます。 ライフスタジオのカメラマンは、各自が考える“美”について追及し、それを写真で表現しています。 だからこそ、写真が多種多様な、その人が考える”美“が、写真で表現されています。 私は自分が考える“美”を定義する上で、美しさの条件について考えてみました。 “美しさ”の条件とは、撮影をするにおいて、条件を軸におきながら、シャッターを押す瞬間をどう判断しているかということです。 私がシャッター押す条件とは、 被写体の表情としぐさ 被写体をひきたてるためのインテリアと小物 コーディネーターとの関係 でした。 被写体の表情としぐさについて 被写体が表現する“表情”や“しぐさ”は写真において重要な部分だと考えます。 笑顔なのか、おすましなのか、 被写体の表情には、写真を見る人たちにイメージや背景を想像させるからです。 被写体の表情は、写真を表現するにおいて、見る側にイメージを一番与えるものであると言えます。 被写体が表す表情は、“感情”であり、撮影時、どんな状況だったのか想像することができるからです。 お子様にはじめて会った時、めちゃくちゃ元気でテンションが高く、撮影中も要所で、変顔をみせてきたり、いろんな表情を私達に見せてくれました。 そんな彼を一番表現したかった部分とは、彼の”自然な瞬間“でした。 私達に変顔を見せている彼は、彼を表現する一部であり、もっと彼の違う一面も知りたいと思ったからです。 それには、私たちと、彼との距離がもっと近づく必要がありました。 だからこそ、撮影中は、彼に自然な表情になってもらえるように、とにかく、いろんな話をしたり、彼と一緒に遊びを交えながら動かしていました。 彼が好きなこと、好きな物の話を聞きながら、ベットの上で飛び跳ねてもらったり、寝っ転がってもらったり、 そうやって互いを認識していく中で、徐々に彼の表情からも変顔が少なくなり、彼の中に、私という存在が見えはじめた瞬間押した一枚でもあります。 被写体をひきたてるためのインテリアと服 新横浜店のインテリアは”自然な姿“を引き出す為に考えられたインテリアです。 自然な姿とは、人の無防備な瞬間でもあり、 ベットの上でくつろぐ姿こそが、人間の一番“無防備な瞬間”を撮影することが出来ると考えたからです。 ベットの上でゴロゴロと姿勢を変えながら、時折見せる表情は、 その人の自然な“表情”や“しぐさ”が垣間見えた瞬間でもあり、 自然な”表情”や”しぐさ”をより一層引き立たせるための、“インテリア”でなくてはならないと考えています。 だからこそベットの上での撮影を選択しました。 そして小物についてですが、帽子を使った表情を引き出す為に、スーツを選択し撮影しました。 もっと、自然な表情を表現するには、被写体が着る服もシンプルな服をきてもらい、表現することも出来ると言えますが、今回はあえてしていません。 それはなぜか、この帽子が、自然な表情を引き出す為のポイントでもあったからです。 ベットの上で帽子を使い、ふざけていた彼。それこそ今回の写真がうまれたヒントがあったからです。 そしてインテリアの背景がアイボリーや白で統一されており、 被写体の着る服に“重さ”を持たせるためにも、今回はあえてスーツそしてグレーという色を選択しています。 白やアイボリーで構成されている色の中に、あえて濃い色を置くと自然と目線がいきます。 それは、被写体の”表情”や”しぐさ”に目をむけてもらうためでもあります。 コーディネーターとの関係 撮影において、コーディネーターはとても重要な役割だと考えています。 コーディネーターはただ服を用意したり、カメラマンのフォローする人だけに存在しているのではありません。 コーディネーターは“すべてを繋ぐ役割”を持っていると考えています。 だからこそ、コーディネーターの役割が、とても重要なのです。 今回のお子様は、私たちとはじめて会った時から、私たちに変顔やふざけた姿をみせてくれました。 そこには、彼が私達に感じている目では見えない“距離”がありました。 それを壊すために、ずっと彼や、家族に対して、コーディネーターが中心となって空気を作り続けてくれたからこそ、彼との距離を近づけられる架け橋となってくれたのです。 彼にクイズを繰り返したり、ぼけたりする過程の中で“笑い”がうまれていき、和やかな雰囲気がうまれたからこそ、彼がすこしずつリラックスをしはじめ、 はじめは何に対しても「やらない~」と言っていた彼が、心を開いていってくれたのだと言えます。 そういった過程があったからこそ、今回のような“自然な瞬間”の彼を写真で残すことができたのです。 美しさの表現とは、美しい瞬間を切り取るための条件を、自ら定義し、条件がそろった瞬間にシャッターを押し“美しさ”を表現することであり、その過程を文を通して整理する中で、再度“確認すること”でもあると、今回の分析で気が付きました。 そしてもう一つの、気づきもありました。 自分の中で”美”を表現する上で”自然な瞬間”こそが自分が考える“美”に近づける条件であるということも・・・ photo by oikawa coodi by nasu
belinda
2018/1/31
0
彼と初めて会ったのは3年前。 彼がまだ2歳のときでした。 他の男の子よりも少し髪が長かったのですが、いかにもハーフらしい透き通った色合いだったので、軽やかに見えました。 感情を抑えることなく動き回る姿は自由そのもので、当時のカメラマンだった伊藤さんはそれを止めずに撮っていました。 日進店の庭で、私も一緒に楽しく遊んでいたのを覚えています。 白い肌にふくふくしたピンク色のほっぺたで、よく絵画で見る天使のようにすごく可愛らしかったです。 今回、彼は5歳の753で来てくれました。 2歳の頃にあった幼さを残しながら、笑顔もそのままの彼は、やっぱり動くのが大好き。 前よりもはっきりとコミュニケーションをとってくれました。 面白かったのは、 撮影中なにかふとした拍子で英語を話したときがあって、「(勝手な偏見で)あ、英語わかりますか?」と聞いたらママが「いえ全然」と答えてくれたこと。 日本に住んでるから当然ですね。 見た目はとっても日本人離れした彼ですが、はっきりと日本語でした! 少し照れてはにかみつつ、ふざけたり、興味のあるものへ引き寄せられていったりする姿は、5歳さんらしいなぁという感じでした。 さて、彼をどう撮ろう?と考えたとき、目を惹かれたのは透き通った瞳。 その瞳にインパクトを与えるには? ただのクローズアップはつまらないかな。 ということで、植物を使ってみることに。 名古屋店の1階には光がよく差しますので、置いてある植物の葉も輝きます。 普段は前ぼかしや背景としてちょこっとだけ利用する葉を、あえて全面に。 彼を誘導し、この葉っぱの隙間からこっち覗いてー!と声をかけました。 遊ぶのに夢中でなかなか思う通りにはやってくれませんでしたが、それでも何度かトライし、何とか角度を見つけてシャッターをきりました。 ほんとは目線が欲しかったけど、まぁ、こんな表情も彼らしくていいな!とお気に入りです。 結果的に、とても楽しそうな1枚になりました。
瞬間の交差点
2018/1/31
0
朝ごはんが美味しいと1日のテンションがあがります。夜ご飯が美味しいとよく寝れます。それくらい1日の中で食事の時間が楽しみです。みんなでワイワイ食べるもの、1人で黙々と食べるのも。美味しいはそれぞれ違えど味わう時間が至高なのです。 唯一のルールは「いただきます」と感謝すること。私の親はそう私に言い聞かせてきました。 日常でも会話の中に食べ物の話はよく出ると思います。 例えば 『新大久保と高田馬場のあいだに出来たラーメン屋、名古屋じゃすげー有名でさ今度行ってみようぜ!』 『なんでも〝台湾まぜそば〝だってよ』 こんな会話みなさんしませんか?? 私の場合はよくします。雑誌や友人との会話の中で入ってくる情報を,実際に自分が食べに行った時の情報を共有したく話します。承認欲求というものですでしょうか。 好きな物へのアプローチなどにはいろんな形があって、それが写真でも同じと言えると思います。それがどれなのか何なのか知ってるのは私自身で、それをいいと思って貰えるために工夫をこらして日々の撮影を声を枯らし汗を水流して行っています。なのでこれからは撮影中に私は何をみたのか?被写体と出会い何を感じたのかそれが大事だと思い始めました。 『瞬間の交差点』 Photo by CHIBA coordi by SERIN LIFE STUDIO JIYUGAOKA いい写真ってなんだ?? そうざっくり考えたことないだろうか? 安易に考えていた私は、様々な写真を見てきた中でさえも「いい写真って何?」心でつぶやき、声に出しても言っていました。 ざっくりとした言葉『いい写真』 『光がいい写真』とか、『構図がいい写真』と視点を明確に話すべきではあります。しかしいいねって思うには直感だったり、話を聞いたりした時に思う部分もあります。 これこそ個人差がある話ですね。その写真をみて目が止まり、また観たくなるようにと。。。 ある写真家が言っていました。 『人生とは君の芸術だ。開かれ、覚醒した心が君のカメラだ。世界との一体感が君のフィルムだ。君のかがやく目と気楽な微笑みが君の博物館だ。』 生きていく中で私にしかない視点があります。ファインダーをのぞいて考え感じ、自分の観点で思いのままにシャッターを切る。その連続の中でまた新たな自分との出会いが待っている。心から楽しむのが写真の本質ということでしょう。 だからいい写真の基準は私にしかない視点があります。美しいと感じる写真、楽しくなるような写真。いいとおもうポイントは私の中にもたくさん存在しています。 ◇今回の写真について 私は今回撮影したこの兄弟と会うのは2回目になります。2年前に一度私がカメラマンとして撮影しています。その時は七五三の撮影でした。記憶ではっきりしている部分がありました。それはとにかく元気いっぱいでとにかくしゃべる、笑う、走る、というところです。撮影側の私たちも負けじと元気になるような2人です。そんな2人にこの本棚の前で兄弟撮影をしようとしましたがなかなかじっとしてくれませんでした。だから脚立にお兄ちゃんを座らせて撮影をしました。その背景を知っているのは私とコーディネーターとお父さんお母さんです。撮影背景を知っていてこの静かな雰囲気の写真が撮れたというのがあるためクスッと笑ってしまう部分があります。ゆえにこの写真は楽しさのある写真だと思います。 わたしは撮影中少し困っていました。何度も何度も降りては笑う、少し大人が困るのが面白いくらいに感じていたこの2人は声も大きくなぜそんなにテンションが高いのかと。でも結局2人は最後までその元気な姿を私たちに見せてくれました。 そんな中、一つだけお願いをしました。 『パパとママとお兄さんとお姉さんに聞こえないように今日の夕ご飯何食べたいか相談して!絶対に聞こえないようにね!』 スタジオ内に響く2人の声は今度は小鳥のさえずりより小声で話しました。それがこの瞬間になります。 あんなに2人の声が響き渡る中、突然訪れた静寂な時間。時間が止まったようなそんな感覚が私の体を走ります。 シャッターの瞬間は撮影前から事前にセッティングした空間で行いました。白のレースと葉っぱの前ボケを置き、2人だけの空間、撮影者の存在を感じない写真にしたかったのです。ボケみがあることで、普段人前ではしないであろう2人の顔と顔を近づけたポーズにより神聖さを加えてくれます。この準備があってこそ、この瞬間を待てたのだと思います。正直こんなに顔を近づけてくれると思いませんでした。洋服の雰囲気とインテリアの雰囲気もありこの子達が表現したヒソヒソ話がすごく私の心に響きました。ゆえにこの写真は美しいと私は感じます。 上記の内容が今回の撮影で見た内容であり、準備した内容になります。 だから楽しく感じ、だから感情が入ってしまって、だから美しいと感じたのだと思います。 この一瞬には様々な背景が交差しています。 そのどれかでなく、それらの要素が詰まった写真だから私はこの写真が好きです。 好きな物は人に教えたくなります。それは食べ物でも写真でも同じです。自分がまず好きになっているというのが何なのか自分自身がわかっていることが重要だと思います。 Q.いい写真とはなんですか? A.人に語りたくなる写真です。
変化の瞬間をつくり出す
2018/1/31
0
恥ずかしながら自分がなぜ写真を撮るかということが時々わからなくなるときがある。 自分の中でこれという感覚がなく、撮影はいつものようにすすんでしまう。 そんな自分自身を振り返りながら、 自分に足りないのは撮影の条件をつくりだす力だと思った。 一つの問題は、自分の中で理論が不足しているということだ。 そのなかでもう一度、写真を撮るということを学び直さなくてはならないという思いが強く出てきた。 写真分析というのに苦手意識をもっている私は 感覚で撮ってきた写真ばかりだ。 今の自分には写真を裏づける理論、それを実践していく段階が必要なのだ。 『光に意味を持たせる』という取り組みをしていた月、 前回コーディとして入らせてもらった3兄妹に再会した。 今回カメラマンで撮影をさせてもらい、末っ子の妹ちゃんのソロはお兄ちゃんたちの撮影が終わってから始まった。 去年より大人びた彼女の雰囲気から彼女自身が撮影を楽しみにしてくれていたことがわかった。 彼女の魅力は凛とした目元と雰囲気、そこに見え隠れする可愛らしさ。 撮影がはじまると彼女は女優さながらの落ち着いた雰囲気を出す。恥ずかしがるそぶりも見せない。 ふわっとしたイメージよりも強いコントラストのある写真が似合うと思った。 部屋の窓から降り注ぐ光、そこに彼女に立ってもらった。 光と影が生み出すコントラスト、そして彼女が放つ魅力が一つになった。 彼女のことをたくさん知っているわけではない。 でも彼女の心はそこにあって、その扉をノックするように近づく。 髪の毛を耳にかけてもらった。 私が更に何かを言えば、彼女は表情を変えるだろう。 何も言わなければ、このまま意味ありげに視線をこちらに向けているだろう。 変化は勝手に起こるのではない。 自分が意思をもって何かを投げかけたときに起こるものなのだ。 「変化の瞬間」をつくり出す。 そのために光という条件をみずから設定していくことを学んでいる。 ただそこに存在するものを受け入れる自分から、 自ら変化を投じる自分へ。 photo by kazu codi by yoshi lifestudio omiya
撮りたいもの
2018/1/31
0
Photo by Natsuko Takagawa Coordi by Volvo @Tokorozawa 所沢での交換勤務が始まってすぐに、工藤さんが「クローズアップ」と「美しく撮ること」について話してくださった。 それはたぶん、クローズアップが「美しさを抽出する写真」だからだ。 写真の彼女はとてもにこにこしている女の子だった。パパさんママさんも終始素敵な笑顔で、お兄ちゃんも優しくて、2ショットも仲の良さが伺える兄妹写真となった。 そして、彼女は撮られることが好きな子だった。 「撮られたい」という気持ちを隠すことなく、モデルさんみたいに笑顔もポーズも決めてくれ、本当に撮られることそのものを楽しんでくれていた。 その様子から私は、彼女が「可愛く写りたい」と思ってくれていると感じた。 着物のシーンを撮る中で、楽しんでくれている彼女の気持ちを感じ、2ショットでお兄ちゃんと遊んで緊張をほぐして、ついに最後のドレスソロ。 工藤さんの話を思い出しながらシーンをスタートする。 この子の可愛い角度はどこだろう、この子の可愛い表情は何だろう、この子に合う仕草は何だろう。 ボルボさんが動かしてくれる角度が、仕草が可愛くて、「なるほど!なるほど!」と思いながらシャッターを切ったのを覚えている。笑 また、撮影そのものも、私たちとのやり取りも楽しんでくれていた彼女に対して、素直に嬉しさを感じていたので、誠意をこめて可愛い写真を撮りたい、とも強く思っていた。 そして、クローズアップへ。 私のブログ一覧を見ていただくとわかるが、私は伏し目の写真が好きなのだ。(この交換勤務中にボルボさんに言われて気づきました。笑) それは何故なのかを考えたときに、もうひとつ工藤さんのお話を思い出した。 ライフスタジオの写真を「自然な写真」と言ってくれる人がいる。 その「自然な写真」というのは「違和感がない写真」ということ。 「違和感がない写真」というのは「何かをしている写真」。 (だから、カメラに目線が来ると一気に違和感が生まれる。だから、その違和感をなくすために手で仕草をつけたり、動きの流れをつくるんだよ、、、と話は続いていくのですが、今回はここで一旦話を戻します。) つまりは、より自然なカットを撮りたかったのだ。 カメラを向けるとにこっと笑顔を決めてくれる彼女だから、自然な可愛さも残したかったのだと思う。 自分のネックレスを手に取り見てもらい、 彼女がきっと描いている「可愛い」に近づけるように、逆光で明るくふわっと女の子らしく。 「お姫様」が残るように花冠も入れて、ボルボさんが私の横で持って下さった植物を前ボケで入れて重心のバランスもとる。 可愛い、美しい写真を撮るにはその表現を知らなければならない。 もっともっと、その子に合ったBestの美しさが撮れるように、 見て、撮って、学んでいきたい。
「その子」をきりとる
2018/1/31
0
photo by chappy cordi by Ara-chan # joy × joy × joy (撮影の思い出) 出会った当初、彼は抱っこされながら僕と荒さんの方をじーっと凝視していた。パパさんママさん曰く、少し人見知りだと言う彼。 初めてのライフスタジオに期待と不安を秘めつつも、心配な様子で愛子を見守っているご両親。 ゆっくり、お子さんに合わせて撮ってくので大丈夫ですよ〜とカウンセリング中にお話ししてカメラの準備に取り掛かる。 その間衣装を提案してくれていた荒さん。 家族撮影から始めるといういつもの流れをご両親に伝え、お鏡チェックをして貰っている間に、パパママから離れた彼と仲良くなろうと荒さん十八番の積み木で一緒に遊んでいると、、、何と早速笑っているではないか。 「これはイケる!!」と荒さんと目を合わせ確信し、早速撮影を始めると、、、あれ、笑わない? そこから様々な手を使うも、ニヒルな笑みを浮かべ、満面の笑顔を見せてくれないのだ。 最初に受けた積み木には最早見向きもしてくれない。 パパさん曰く、「ツボにハマると笑うんですけど結構変わりやすいんですよね〜」と。 1人撮影の時には、カメラに気づくとと顔を俯かせる。 (もしかして何かされてるのを感じ取って、それが気にくわないのかも) 誰かに何かをさせられる、というのは大人でも子供でも少なからず抵抗を覚えざるを得ない、、、僕自身もそこには強く共感する。 例え相手が赤子だとしても。 そう考えてから、こちらからアクションを起こす方法→彼自身が動きたくなるよう誘発する方法へとシフトしました。 その結果、彼の興味を惹け、且つ動作が生まれるモノを荒さんにセットしてもらうことで、その動きの瞬間を捉えることができた。 そんな「彼」と僕と荒さんの写真だった。 # photo × recipe (撮影技術) 冬の新横浜は光の強弱が激しい時間が大体決まっている。 15時くらいからメインルーム【プライベートリゾート】に設置されているドレッサー側の窓から強い西日が差し込んでくる。 その光の量はもちろん天候によって変わるのだが、ホリゾントまで明るく照らす日も少なくはない。 キッズ位の背丈の子であればその前に立ったり、ドレッサーに座って逆光として使うことができる。 ただ赤子の場合はそれができないから扱いが難しいと僕は感じていた。 この撮影の時は、光がドレッサーより少し離れた位置まで届き、スポットライトのようにスタジオを照らしていた。 ちょうど彼が動いてくれるようになった頃合い、試すなら今だと思いママさんに抱っこで光の位置まで連れて行ってもらう。 彼が動くことを予測しシャッタースピードを上げる。 それと同時に白い床の照り返し、アッパーライトとなって彼に当たるその光量を見計らってISOを下げる。 以前であれば小さな年齢の子供の動きに翻弄される僕でした。ただ良い写真の基本【水平垂直】を保つことを念頭に置いていたので、焦らずシャッターを切ることができました。 # what makes you beautiful ?? (美しさの規定) 直前の文章でも上げた良い写真の基本、新横浜の先輩方に教えてもらった五箇条がある。 【ピント】【光】【トリミング】【水平垂直】【レンズ】だ。 この写真では、ピント・水平垂直はもちろん意識し、手足、頭が切れないようなトリミングも心がけた。 また彼に撮られているという圧迫感を与えないよう望遠レンズで狙うことも行った。 そして、今回特にこだわったのは光だ。 赤ちゃん=かわいい→明るい、柔らかい写真という印象が世間一般にあると思う。 しかし、撮影の思い出でも語ったが、彼は何かを強いられていることが好きではない、そう僕は感じた。 その時点で世間一般の可愛さに彼を収めるのは、彼らしさを失くすことと同意義なのではないか。 だからこそ光を絞り、ただ可愛いだけではない、彼の彼としての葛藤や気持ちがあることを表現したかった。 明るい部分が赤子らしい手足の輪郭を浮き出し、暗い部分が彼らしさを印象づける。 撮った写真を見て、自分が撮りたかった写真、自分の好きな写真に一歩近づけた気がした。 ------------------------------------------------------------------ ライフでのカメラマンとしての経験はまたまだ浅い僕ですが、その子を見て、その子の今を写真に映し出せるカメラマンになりたい。 その証として、お客様に求められるカメラマンを目指そうと思います。
魅せる
2018/1/31
0
見えているものが全てではない。 「見えないものを写すこと」 写真にはそんな可能性があると思う。 私たちが普段目にしているものはなんだろうか。 人、建物、道路、車・・・ 起きている間は常に視覚的情報を得ていることになり、 視覚的に捉えたものが「何であるか」は、見れば分かる。 しかし、いちいち見えているものに関して深く考えようとはしない。 知らない人とすれ違っても、特にその人のことは気にならないだろう。 どんな人であるか、何が好きなのか、どこへ向かうのか。 建物・道路・車など、人によって創造されたものに関しても、 誰が、いつ、どんな思いで、どのような過程で造られ使用されているのか、あまり考えることはないだろう。 興味の対象ではないと、見えていても見ていないのだ。 それでもやはり興味のあるものに関しては、 人は自ら「見よう」と思って視覚的媒体を利用している。 テレビや本、雑誌、動画、写真。 「見える」ということから「見る」という行為になり、自主的にしていることになる。 その「見る」ものに関しては誰かが見てもらおうと「見せている」ものである。 我々が商品として扱っている、写真に関してもそう言える。 ライフスタジオにいらっしゃるお客様は「自然な写真」を求めている方が多い。 それは普段家族が「見えている」自然な光景を私たちが「見せるもの」にすることだ。 お客様がわざわざ足を運んで、お金を払って私たちに求めているのは、 ただありのままを写してシャッターを押すだけの「見せるもの」ではない。 目には見えない被写体の中身や家族の関係を見つけ、 魅力を探して表現する「魅せるもの」にする技術である。 だから私たちは被写体と、家族と、コミュニケーションを通じて相手を見ようとする必要がある。 そして目には映らない「家族の愛」や「感情」「その子らしさ」「個性」を写真に収めようとしている。 実際には「見えない」けれど伝わって「見える」ものにできる。 写真にはそんな可能性があると、私は思います。 技術にしてもそうです。 この写真には、フレアと呼ばれる光の影響で写真が白っぽくなる写真技術が使われています。 フレアは目で確認することはできません。 カメラに光を取り込むことで光の玉を写し、表現の一つにしました。 この光を利用して明るく撮ることもでき、実際にこの写真の前に撮った写真はたくさんの光を取り込み、明るく撮った写真です。 被写体である彼女の魅力はなんといっても目です。 第一印象は、お人形のような子。 ママさん手作りのヒラヒラのドレスを着て、表情を変えずしっかりと受け答えをする彼女。 おとぎ話から出てきたかのようでした。 少しクールな印象は彼女の魅力であり、表現したいと思った表情でした。 撮影中、五明さんの問いかけに幾度と笑い崩れる彼女でしたが、 この時折見せるクールな表情からは、 「ちゃんとやらなきゃ」という思いや、 「ゴメラマン笑わせないで」という意思、 そして「緊張」があったように感じます。 緊張は目には見えない「感情」です。 カメラに目線を向けて貰った時に、彼女の思いが伝わる目力に魅了され、光の量を抑える選択をしました。 彼女を実際に見ていない人にも、彼女の魅力が伝わるよう。 「魅せる」写真を撮りました。 見ようと思って見ていなくても、 たまたま目に入った「魅せられた」ものに足を止め、 ついつい興味を持って見てしまう。 そんな魅力ある写真を撮りたいと思います。 Photo by Lisa Coordi by Gomei
あなたへの道
2018/1/31
0
人生の写真館。 生まれたてのbabyから、孫に囲まれたおじいちゃんおばあちゃんまで。 お宮参りや七五三、ハーフ成人式、そして20歳の成人式…… ひとりひとりの人生という長い旅路で、振り返ってみればそれらは節目であると同時に、積み重ねられる日常の中に内包されているもの、でもあります。 旅路の中の、通過点のひとつ。 いろんなひとの、いろんな旅路の通過点に、カメラを持って寄り添いに行く。 そのひとの旅路の足跡や、その時そのひとが持っている荷物や大切な宝物、共に行く家族や仲間たち、進もうとする道。そういうものを、記録して、確認して、また前に進んでいく、そんな力になれるような写真を撮る為に。 とは言え、その通過点で待ち構えて「へいらっしゃい!1枚撮ってあげるよ、どうだい?」みたいなのは、ナンセンスだと思っています。 そこで出会ったそのひとが、これまで歩いてきた道を少し遡って見てみたり、一緒にいるひとたちに話を聞いたり、何より本人と会話や感情を交わしながら、少しの間だけ同じ道を歩きたい。 今ここで出会えたことを喜び、その道をここまで進んで来たことを共に誇り、その先を進む背中を見送りながら、あなたがここを通過した、その証を残すこと。 カメラを持ってひとの人生に寄り添う、とは、きっとそういうことであり、 人生の写真館とは、そういう姿勢でひとと関わる場所でありたいと思っています。 20年という時間を生きてきたひとりの女性は、日本国内の社会的な観点からも『大人』として認定される、その瞬間を迎えました。 彼女は成人式を迎えたひとりの『大人』です。しかし同時に、誰かの『娘』『子ども』でもあり、『女性』であり、ひょっとしたら誰かの『恋人』でもあるのかも知れません。 はじめまして、の私が一方的に想像し、推し量るには、その『ひと』そのものは複雑で、繊細で、多様な側面が幾重にも蓄積されています。 幾つもの通過点を経て、彼女は今、ここにいる。そのひとつでも欠けたら、今の彼女には成り得ない。 大人を撮影する、ということは、そういうものを表現する写真を撮る、ということです。 待ち構えて「へいらっしゃい!」では、決してそういう写真を残すことは、できません。 複雑で繊細な、『ひと』の姿を美しく表現するには、自分自身がまずその『ひと』の美しさを集中して探すところから始まります。そして、その『美しさ』が、彼女の中の何に起因してそう感じさせるものなのかを仮定することで、表現のきっかけを手に入れます。 誰しもがそうであると思いますが、彼女の歩んで来た道も、決して平坦なものではないでしょう。 その平坦ではない道程で、彼女はたくさん泣き笑い、喜び悲しみ、時に怒ったり、悔しかったり、愛したり……そういう様々な感情で心を震わせながら、『ひと』という精神の部分を広く深くしながら、歩んできたのではないでしょうか。 それらはきっと、家族や友人といった他者との関わりの中で交錯し、彼女自身という存在を確立してきました。20年分の彼女の旅路は、様々な感情を味わいながら、『自分』という存在確認をする過程でもあるのだと思います。 そして私は、そんな彼女の前に、カメラを持って立つのです。 彼女の内部で確立されたその存在確認を、『わたし』という客観を通して表現し、彼女が新たな自分を知る、その為に。 お母様が着たという晴れ着を着て、お母様が作った髪飾りを付けて、彼女は凛と佇みます。 自分が20歳だった頃、周りの大人をどんな風に見ていただろうか、と思いながら、私も彼女の前に立ちました。大人然として余裕ぶることができる程、今の私は大人でもないなぁと、率直に思います。 そんな私に、彼女は礼儀正しく挨拶し、雑談に応じ、私の指示を待っていました。 私は、彼女の人生の通過点で、たまたまこうして出会うことができた写真館のカメラマンでしかありません。 それでも自分には、ちょっとした使命感のようなものがありました。 折しも世間は、『成人式』にまつわる残念なニュースで溢れていました。 事件に発展して扱われたそのニュースの当事者ではないにしろ、20年分の時間を積み重ねて、社会的にも『大人』として認定されるその一歩を踏み出す日を、商業形態の中でただの消費として扱われることほど、残念なことはないでしょう。自分自身もまた、そういった経験は苦い思い出になっています。 だからこそ、せめて自分がカメラを持って出会ったひとたちには、そういう思いはさせたくありません。 ここで出会った、生身のひとりの『ひと』として、敬意を払い存在を尊重し、互いに感情を表しながら『ひと』として、関わりたい。 私の目の前の、晴れ着を纏った彼女自身を、その存在の美しさを、全力で向き合って写真にしたいと思いました。 幾つかの型を撮りながら、集中して、慎重に『彼女』を探します。 大人の撮影においては、カメラマンの力量が如実に表れるものです。20年分の社会経験を積んだ被写体は、小さな子どもたちとは違い、赤の他人の前で感情を剥き出しにしたり、無邪気に遊んだりすることはありません。 だからこそ、基本的に私の指示以外のことが自然発生することがなく、頭のてっぺんから爪先まで、指先まで、撮影者は被写体を動かしていかなければなりません。 とは言え、彼女たちの世代は、私の世代よりも写真を撮ることの気軽さが浸透しています。カメラを向けられた時に、定番のポージングへの指示をなぞることも、意識的に微調整を加えることも、恐らく容易なのでしょう。 被写体が、自分の『写り方』をある程度意識して、作用することができるのです。 それは、撮影者にとっては撮影慣れしたスムーズな進行と同時に、被写体の本質そのものが隠れゆく、ということでもあります。 写り方への作用は、被写体が自分で認識している範囲内しか表層に表しません。それは、彼女のごくごく一部でしかないのです。 勿論、この日会ったばかりの私が、彼女の全てを理解して写真に表現するなんて、現実的には不可能でしょう。それでも、私は彼女を彼女の外から見ていて、彼女自身からは見えない角度から彼女を観察することができます(物理的にも、概念的にも)。 彼女を構成する、様々な要素。そのひとつでも欠けたら、今の彼女には成り得ない。大人を撮影する、ということは、そういうものを表現する写真を撮る、ということで、その為には、『彼女』という存在の中の『本質』を探さなければ、ならない。 何気ない会話をするのは、緊張を解きほぐす為でもあり、彼女が辿ってきたこの道を振り返り確認する、そんな過程でもあります。 彼女の好きなことは、今の彼女が大切にしている宝物であり、大学で学んでいる内容は、これから彼女が進む道で選択の判断材料となるものでしょう。たまに、撮影を見守ってくださっているお母様も会話に巻き込んで、お話をします。彼女の言葉と、彼女を見守って来た家族の言葉で、彼女の道を振り返って、今の彼女への繋がりを確認します。 勿論それは、一方的では意味がなく、私自身もまた自分のことを話します。 会ったばかりで得体の知れない人間に、そうそう本質は見せられません。自分もまた、彼女と同じ歳の頃に歩いていた道を思い出し、家族の話をします。彼女にもまた、『わたし』を知ってもらう過程です。 撮影の為の会話、ではなく、目の前の『ひと』を互いに知る為の会話。それは『あなた』への道となり、私は『あなた』の道に少しだけ、共に歩かせてもらうような気持ちになります。 そんな中で、会話の最中に不意に表れ、すぐに潜んでしまう一瞬の、屈託のない笑顔がありました。 写真において『笑顔』の訴求力は言うまでもありません。しかし、『写り方』への作用ができる20歳の女性が見せる屈託のない、いわゆるちょっと無邪気なその笑顔は、晴れ着を身に纏って瀟洒な佇まいを見せる静的な美しさの中で、動的な感情の発現としてより際立ちました。 とは言え本人は、あまり自分の笑顔に肯定的ではない反応を見せていました。 無邪気な、屈託のない笑顔、というのは、本人にとっては油断した時に見せてしまう、ちょっと無防備な表情だったのかも知れません。その無防備さは、撮影者への警戒心が薄れた証でもあり、彼女の本質を隠していた表層的な『写り方』への作用が崩れた瞬間でした。 私にとっては、それはとても、とても美しく見えました。 撮影者の指示をそつなくこなす、大人の女性。社会的には『大人』と認定されているその美しい女性が、初対面の人間にカメラを向けられ大人然として振る舞いながらも、つい無邪気に笑ったその顔は、彼女自身の無垢な少女性を表しました。 蓄積された時間が、進んで来た道が反映されていると感じさせるその表情は、きっと彼女のアルバムに幾つも見られる笑顔なのではないかと感じさせます。 そして、それに対してちょっぴり肯定的ではない、恥ずかしそうな彼女に、その美しさを見せてあげたいと、強く思いました。 少し距離を取ったのは、彼女が油断してくれる距離感を保つ為でした。 窓を挟みながら望遠で撮影することで、反射やガラスを通した僅かな歪みが、空気感を柔らかく表します。 その為に、私は建物の外にまで出ています。あまりに離れると今度は、その隔たりが被写体との意思疎通に問題を生じさせそうですが、そこはこれまでのコミュニケーションとコーディネーターが確実に繋いでくれていました。 お母様の着物、帯、手作りの髪飾りは、彼女への想いを託された大切な構成要素です。帯の形も綺麗に入るように、やや角度を付けてもらいます。 前述の通り、ポージングへの指示をなぞることは彼女には難しいことではありません。しかし、カメラマンが建物の外から窓越しにカメラを向けて来たあたりから、写り方のイメージが予想できなくなったのか、やや戸惑いを見せていました。 その戸惑いに畳み掛けるように、窓の外から大きな声で投げかけた一言に、彼女は思わず、笑います。 それは、投げかけられた言葉そのものに対してかも知れないし、いい大人が寒空の下で大声で騒いでいるのが滑稽だったからかも知れません。何にしろ、『思わず』笑ってしまった、その不意の、その瞬間が、私が見付けた『彼女』の美しさでした。 20年分のこの旅路を一歩ずつ進んで来た、彼女の姿。今、ここを通過しようとする『あなた』の記録。赤ちゃんの頃から、この瞬間までの、『あなた』という存在を一貫して表す、無垢で屈託のない、笑顔。 『あなた』がこの先の道を往く、その力になるような、新しい自分との出会いとなる、写真。 私はこの写真を、そう規定して、あなたに提示します。 私が感じた『あなた』の美しさ。『あなた』にとっても、そうであって欲しいと、願っています。 『掲載不可』と書かれた顧客情報を見ながら、一晩悩みました。 それでも、自分にとって大切な出会いだと思ったから、大切な写真だと思ったから、お母様にお電話をさせてもらいました。 「あの、掲載不可だったのは承知しているのですが、あの時の写真の分析を書かせてもらえませんか?」 その言葉に、お母様は喜んでくださり、ご本人にも承諾を取ってくださいました。 それは、写真が価値を持ったということの、ひとつの証であるのかも知れません。 いろんなひとの、いろんな旅路の通過点に、カメラを持って寄り添いに行きましょう。 生まれた時から始まるその旅路。あなたが歩くその道を、その時間を、寄り添いながら記録して、あなたの背中を見送ります。ライフスタジオが、人生の写真館として、できること。 写真を撮ることしかできないけれど、その写真が、あなたの旅路の力になれることを、心から願っています。 Photo&Write by Reiri Kuroki Coordi by Mayu Kanasugi @Yokohama Aoba
舞台
2018/1/31
0
ネオン街の光、高いところから見る夜景 これらの人工的な光が私は好きだったから ただ毎日、陽が昇り、沈む。 そう無意識に感じていただけだった。特に気にすることもなく。 大学に入り、作品の作業時間が夜明けまで及んだ時があった。 新聞配達の音でぼんやりしていた意識が覚めて、外を見ると また陽は昇らないが辺りはうっすら色を変えていた。 その時私は初めて これは「蒼色の世界だ」と思った。 その時から何となくそのことが頭の中にあって 作品作りの世界観とか、 感動する基準だったり、綺麗だなと思うものが統一されてきたと感じていた。 ぼんやり ふわっと 霧がかったような・・ もしもこの世界の物語に登場するとしたら・・ ---------------------------------------- 彼女は「愛し愛される少女」だ。 両方から太陽の光を与え合っている 言い換えれば、互いだけで十分満ち足りて 全てを補えている。 だから住んでいる場所や物語の舞台は存在しない。 ---------------------------------------- このあらすじには確かに根拠がある。 現実、写真を撮る側は彼女の住む場所を知らない。 だが目の前にいる彼女と、両親がどういう会話をして、どんな言葉で伝えあっているのか、 触れ合って愛情表現しているのか、ただそれを見ることで幸せを感じ取ることができるからだ。 物語に沿えば、一つ目の太陽である彼女 彼女がそこに「居る」ことだけでどれほどの表現力があり それがいかに魅力的かということを表したいが 彼女には、第三者からは当然わからない 何百という表情があることを知っている。 そのすべてを引き出すことはできないし、 見せてくれるとも限らないが 彼女を撮り終え、 彼女を照らす太陽には確かに見えているものがある、とすぐに分かった。 必ず残しておきたい、と選ぶ写真には 彼女以上に彼女の表情が写っている だから私はいつも 彼らの会話を聞きながら 彼女が「愛されている」ことを感じるのだ。
証
2018/1/31
0
目に見えない物を形にする事はできるだろうか? 私は“できない”と思っていた。 小さい頃母親は私に「あなたの事が世の中で一番大事よ」とよく言っていた。 その時はその意味がまったく分からなかった。 「じゃ、セーラームーン買って!」と返していた事を覚えている。 母親はそんは私を見つめながらただ微笑んでいるだけだったから“何なんだろう”と思っていた。 成人になった私は家族と離れ日本に来た。 親が代わりにやってくれていたことを自分がやるようになり、 こんな事までやってくれてたんだと少し気が付いた気がした。 それから自分が社会人になって色んな事を経験しながら傷ついた事も多かった。 その時に一番に思い出すのは親だった。 電話越しの声が私を落ち着かせ支えてくれた。 電話を切った後はいつも笑顔だった事に気がつき思ったことがある。 私を一番分かっていて笑顔にしてくれる人がいる。 これが愛の証だってことを。 この日スタジオに来てくれたファミリーは姉妹の七五三の撮影で来店してくれた。 ママさんが撮影のことをとっても楽しみにしていたようで、 「こういう家族写真が撮りたいです!」と色んな写真を持ってきてくれていた。 そのうち一枚を元に撮影を行った。 お互いのおデコにチューをしているポーズの写真だったが、 意外とすんなり終わるのかなと思いながら何回かシャッターを切った。 分類をしながらママさんのご要望の写真とそのあと撮れた写真を消していくうちに“この一枚”を見つけた。 チューをしたあと「オッケー!」という私のサインが出た後家族が一斉に下の子を見つめていた。そしてその視線の先にいる主人公はこっちを向いて笑顔を見せてくれた。 その時に思った。 “この子は家族みんなから愛されているんだな”と ”自分のイメージを十分に再現するには技術も大事だと思うが、一瞬のヒラメキや偶然が入る事も可能だと思う。 リラックスした空間で自然に出てくる被写体の表情、仕草、雰囲気。 それはその人だけのモノであり、成長でもある。”
『その子らしさ』
2018/1/31
0
写真を撮るためには条件はたくさんあります。 技術面、相手との会話、 その子らしさを撮影したい、 見たことない表情を引き出してみたい、 美しい一瞬を切り取りたい、 など出てくると思います。 だからこそ同じ写真はありません。 同じ場所で違うカメラマンが同じ場所、同じ時間に撮影したとしても 同じ写真は生まれない、撮影の仕方感じるものも大きく違うと思う。 被写体が違うと言う事もありますが、 イメージ、会話、想像力から描く事で 写真もその人らしい写真が撮れます。 話が変わりますが、 この写真は パワーがある兄弟写真です。 元気いっぱいとかではなくてパワーを私自身は感じた撮影でした。 全力で遊び、全力ですべてを返してくれる二人 この写真は、「本読んでみて?」 コーディネーターの玉田さんが、 二人に絵本を渡してくれました。 その瞬間動き回っていた二人は静まり 本をめくりはじめました。 二人の違いは 本の高さ 読み方 角度 姿勢 顔の近くにもって行き微笑ましい表情で、本を読んでいる兄。 足元に置き下を見ながら本を読んでいる弟。 兄弟の違いを表現し、この子らしさを表現できた1枚。 玉田さんが本を手渡してくれてなかったらこの写真は生まれていません。 この場所を借りてお伝えしたいです。ありがとうございます。 また話は戻させていただきます。 被写体にあった美しいさ、イメージを最大限に引き出す事をすること、 求められているものを「最大限」に表現したい。 私には不足していることがたくさんあります。 適当な言葉を並べるではなくて、 分からないままにして迷っている場合ではなく、 自分の中で何が不足しているのか、解釈出来ているのか分析して行きます。 悩んでいる場合ではないので、今しかない写真と言う形に対して 向き合って行きたいと思います。
I am...
2018/1/31
0
I am... 少年がそれを手に取り自然にかけた瞬間・・・少年の心の声 「 I am... 」 を増幅させた 写真の彼は、実はまだ幼稚園児だ 可愛らしい園服とカバンに帽子、温かく見守られ育まれ来た愛情の一人息子 頬は少しかわいらしく赤く、 まつげが長く目がくりっとはっきりした可愛らしい表情を見せてくれていた ランドセルのシーンでもとぼけたり、こちらの撮りたい意図に対しては そう簡単に欲しい表情をくれるわけではない 少し大きくなろうとする少年の頃によくありがちな・・・ ささやかなる抵抗・・・ それもその時期のらしさである 撮影中に家族写真、園服、入学ランドセル、 どれもささやかな彼の抵抗があったように思う それは成長過程にある彼の今らしさである 撮影の私たちもご両親もそれを話題には出さないがそれを組みながら撮影をしていく この撮影シーンの時にご両親は 「見ているよりも離れていること」を察し 自然と1Fに降りて私たちに撮影を任せてくれていた パパさんママさんからの自然なナイスアシストにより この空間には男同士の私たちだけだった まったくもって、75カット内の写真で比較対照するその対照が際立つくらいの 対照的な写真を撮ることができたことは 表現者として嬉しく 子供の今のそのままである「今らしさ」と 成長の加速を感じさせる「瞬間さ」の 二面性、意外性や瞬間に思う成長への心を揺さぶるある種の矛盾を 75カットの写真から感じさせることができた 大人の写真は具体的な指示を持って意図的に作りこむこともできるが、 子供の写真は子供が常に撮影の状況を察したり大人の要求を素直に受け入れてくれる訳ではない為、 「そのある種の偶然が訪れるように作る瞬間」=「必然の瞬間」が訪れるよう 導くものであるといえる ママさんがお得な買い物をしたという持込の革ジャンは ジャストサイズではなく、 まだ少しだけ大きいサイズ感が、この状態がまたこの日最高に良かった 映画の名作「ターミネーター」シリーズをご存知だろうか (見てない人には是非、名作のシリーズなので見て頂きたい) 登場人物の中に「ジョンコナー」という名前だけを聞いても思い出す登場人物がいる 劇中でジョン・コナーが象徴し表すのは、 「強く勇敢に生き抜く姿」 「己の生き方で未来が変わる」 「未来への選択」 自らの意思でほんとうの意味で「生きる」ことを選ぶことだ 見守られ育つ時期の幼児期から、 より自らの意思や考え、言葉で育つ少年期に入る彼は 彼が今持つ、自分自身の意思、 I am... 少年のささやかな反発、反抗とシンクするような アンダー気味の露出で カラーではない濃淡の深いモノクロで写真を表現したい・・・ がこの写真を通じて強く響いてくる撮影だった 光:メイン光はサイドにある照明を使用、日が落ちる子窓からの光はサブ光源気味に 前ボケに使用した壁掛けで照明背景を処理 同時に背景、バイク、被写体に前後の奥行きの距離感、立体感を作る 少年をバイクに浅く腰掛けさせ,重心はバイク前にただ立っているよりもクールに 手がサングラスにかかるポーズから、 メイン光が顔に当たる光を遮り、顔の影の部分に濃淡を濃くさせた モノクロの選択 モノクロとは対照にカラーは言うまでも無く、より現実に近くなる なぜなら、現実には色があるからだ。そういう意味でカラーは「リアル」であり、 現実を忠実に再現するという意味ではより「具体的」となる たとえば部屋のディテールを写真で説明するにしても、 色という情報がない場合かなりの程度説明不足になる。 対してモノクロは、色がない分、非現実的な効果をもたらし 結果的に写真は抽象的になり、より、観念性を帯びてくる 光を遮ったこの仕草・・・この瞬間・・・最高だった!! それは前記した >「そのある種の偶然が訪れるように作る瞬間」=「必然の瞬間」が訪れるよう 導くもの そこをさらに裏切る、彼の意思による動きだ 私たちが誘導した動きで作った意図やライティング、それらを超えて来た意図しない仕草こそ 自らの意思でほんとうの意味で「生きる」ことを選ぶことだ 彼が選択した必然であり自然だ その瞬間を捉えられたことを嬉しく思う Special Thanks 撮影でアシスタントをしてくれたPONちゃん PONちゃんが用意してくれた小物のサングラス 衣装選択 ブーツ PONちゃんの絶妙なヘアワックスアレンジセット ママさんの見つけて購入しお持込の少し大きめのサイズの革ジャン この時間のアンダーな光を選択するに至る陽の状況、大宮店のインテリア環境 偶然にもこの日 風邪を引いたスタッフのヘルプで行くことになった大宮店の一室で撮った写真 環境を変えることで、新たに生まれる写真がある 越谷店では日々明るい環境に恵まれ、明るめの写真を選択することが多く アンダー目の露出選択や、モノクロで写真を入れることも 私の選択としては非常に少ない 少年から引き込まれるように聞こえてきた I am... が 写真を通じ私自身の心にある写真で表現したい私のI am… を呼び起こし 写真の欲求イメージをくれた それが今この瞬間何なのかを新たに唱えさせてくれた 最後に言いたいことは唯一つ Hasta la vista, Baby! Photo:Takanori Makita Coordi:PON
親と子
2018/1/30
0
「僕の写真ってなんだろう」 最近ずっと頭の中で悩んでいました。どんな写真を撮っても、誰かの写真に似ている。 「KATSUらしい」という言葉が聞こえるのではなく、なぜかいつも僕が写真を撮っても違う人の名前が出てきました。 何年か前だったらその言葉は僕にとってほめ言葉でしたが、今の僕にとっては悩みでありました。 むしろ悩みを超えて、少し写真を撮ることに恐怖も感じていました。 しかし今のままではだめだ。何も楽しくない。 だから今の自分に降りかかってきた壁だと改めて自分自身で認識して打開しよう! そう思い今まで写真を教わってきた先輩方から、写真を撮る上で何を大切にしてきているのか振り返ってみました。 西さんからは「光」「99%の必然と1%の偶然」 あかねさんからは「家族写真」と「インテリア」 ヘヨンヌナからは「写真の基礎」と「美しさ」 ムーさんからは「写真を作ること」「技術」 ボルボさんからは「1つのことを作り出すまでのプロセス」 工藤さんからは「写真の細かな部分の見方」「写真人文学」 キングからは「兄弟写真」「写真の撮り方」 これらのことを僕は先輩方から教わりました。 そしてこれらの内容は、先輩方が大切にしていることであり、1つの基準であるとも思います。 僕は「写真で影響力ある人間になりたい」と思っているだけで、自分だけの大切にしている基準というのが明確にないことに気づきかされました。 今までは向上心だけでがんばってきましたが、これからは自分自身の基準を作らなければならないと気づくことができました。 「自分の基準って何だろう」 ~仕事をする上で大切な基準はなんだろう~ ライフスタジオで学んだことがたくさんあります。 ・挑戦すること ・本質を追求していくこと ・継続して行うこと ・学ぶことの重要性 ・自分自身で規定すること ・最善を尽くすこと ・変化と発展をしていくこと 様々なことを学び、またプロジェクトを通して「仕事」と「生きること」を僕に教えてくれました。 そして私がライフスタジオで学び、素直に1番喜びを感じたことは「人と一緒に、人と共に、人と追求して作りあげること」です。 フォトジェニックから学んだこともあります。 ・十人十色の写真 ・写真の見る視点・価値観 ・その人のプロセス・思い ・写真を決めるに当たっての店舗討論・写真選定 その中で私が1番良いと感じたのは、写真を撮るプロセスにおいて「新たな発見」をし、それが自分の「新しい基準」となり、フォトジェニックを通して全店舗に共有できることです。 そしてライフスタジオの仲間の存在。 所沢店のヒロさんは、一緒にフォトジェニックを競争する仲間であり 自店舗の仲間は叱咤激励をしてくれ 一緒に働いた仲間達、他店舗の仲間達はいつも応援してくれます。 そんなライフスタジオのスタッフは仲間であり、「感謝」の気持ちしかありません。 整理してみると自分が仕事をする上で大切にしている基準が ・人と一緒に追求して作り上げること ・写真を撮るプロセスでの発見を自分自身に装着して新たな基準を作り続け、文章を通して証明・共有すること ・感謝を忘れないこと の3つがあることが分かりました。 ~自分の写真の基準て何だろう~ 細かく言えばたくさんありますが、大まかにいうのであれば ・光 ・説明できる写真を撮る ・主題を持ち撮影に挑むこと ・被写体と副主体の関連性 ・被写体を美しく こういった要素があげられます。 そして1番僕が撮影で大事にしていることは、「私が思うあなた」を美しく丁寧に撮るということ。 どんな特徴があって、どんな表情があって、どんな仕草があって、どんな行動をして、何が好きで、何が嫌いで。色んな面から観察して、75カットを通して色んな美しいあなたを残すことです。 そしてここから1組のファミリーを紹介します。 僕の写真とは何かを具体的に導いてくれたファミリーです。 「親と子」 4人家族がご来店されました。ママ、パパ、4歳の兄、1歳の妹。 ママさんパパさんは撮影前で緊張もあったと思いますが、初めてあった僕たちに暖かく対応してくれるとても良い方でした。 4歳の兄は4歳なのにしっかり者で、照れ屋が若干ありましたが要求には何でも答えられる凄い子でした。 また1歳の妹ちゃんは、場所と人見知りがありながらも無邪気さが可愛い子でした。 撮影はママさんパパさんのご協力のもと無事に終えることができましたが、撮影が終わり何気なしに話をしていると妹ちゃんはママに、兄はパパの方に身を寄せていました。 その時その姿をみて気づきました。もしかして僕はまだ観察しきれてなかったかもしれない。 撮影に入るときにいろんな「 あなた」を撮りたいので、主題として観察をテーマに撮影に挑んでいます。 しかし子供に集中するあまり家族という単位で観察がしきれていなかったこと、そして「私が思うあなた」という僕の写真を撮る基準は、僕の主観が強すぎるとここで気づきました。 僕よりも子供達のことを知っている親、どんな子か詳しく聞けばよかった。当たり前だけど当たり前にやってこなかったとここで気づかされました。 実際ママさんパパさんに話を聞いてみると、パパさん曰く「兄は妹が生まれてから、妹がママに寄り添うので、気を使って僕の方に来てると思います」とおっしゃっていました。 この言葉を聞いたときに、パパの言葉に感動しながら、これからはパパが思う「子の姿」、ママが思う「子の姿」、そし てそれを知った「みなさん」を美しく撮るのが僕でなければならないと思いました。 そのため最後にまた「パパと兄」「ママと妹」「4人家族」を数枚撮らせてもらいました。 そして今回写真分析をしたのが「パパと兄」の写真です。 「モノクロにした理由」 写真の中には「目に見える物」と「色」が存在します。そしてカラー写真とモノクロだと少し違ってきます。 それはカラー写真は「目に見える物」と「色」があるのに対し、モノクロはカラー写真に対し「色」の情報量が少ないので、「目に見えるもの」が強調されます。 今回僕は「パパ」と「兄」という2人の関係性を表現したかったので、カラーより、モノクロの方が2人を強調できると思いました。 また他の理由として普段私たちの目はカラーで空間を認識しますが、モノクロは普段私たちの目から見ることのできない特別な色です。 この二人の関係は特別なものだったので、モノクロの効果とかけてみました。またモノクロにすることで色の統一感が生まれるので 1石3鳥と思いモノクロにしました。 「この空間を選んだ理由」 写真の情報量が少なければ少ないほど、写真を見る第3者のイメージをかきたてるといわれています。 では逆に情報量を増やせば、私の意図が明確に伝わるのではないかと思いました。 最初ホリゾントで撮った方が余分なものがないので、良いかとおもったのですが、越谷店が一部のインテリア工事をして、新たなコンセプトとして「癒し」を掲げました。 2人の関係はいつも家の日常にあり、イメージとして家のリビングでいつもの二人の様子を撮りたかったので、この新たなインテリアが1番2人に会うのかなと思い選択しました。 「小物と前ボケ」 写真は立体的でなければならないと思っています。そのため、まず被写体と僕の間にクッション、つみき、カゴを設置しました。 クッションとつみきは、リビングを想像させるため、カゴは背景に四角形が多く見えるので四角形の物を置いた方が統一感が出るのと、少しインパクトあるものをもってきた方がデザイン性があり面白いかなと思いおきました。 またipadを持ってもらった理由も日常を想像させるためです。 また撮る時にガラスと、ドアをカメラの左右に入るように設置して空間の整理をしました。 「撮る瞬間」 99%の必然と1%の偶然は、生きている写真を生み出す条件だと思っています。100%必然の写真は硬く作られた印象があり、100%偶然は、2度ととれない写真。 しかし、環境と条件を99%必然的に作り、残りの1%で被写体の素を引き出す投げかけを行えば「自然かつ本来の被写体の写真」をカメラマンの意思で作ることができると思っています。 そのため撮る瞬間、そのための過程も意識して作りました。 「2人の関係」 ママさんに2人が家でどんな感じですごしているのか聞いたら、この光景をよく目にするそうです。ということで普段の日常のポーズを作りました。 整理と撮影を通して、自分の写真とは何か分かりました。 また、今までは家族写真のレパートリーとして男性チーム、女性チームと分けていましたが、その家族だけの特別な事情も踏まえ家族写真を撮っていくことが、本当の価値ある家族写真だと学びました。 僕の写真とは「私とあなたで一緒にあなたと、みなさんの関係を表現していく」 これからもそのファミリーだけの形を残していきます。 2018年 「KATSU STYLE」構築していきます。
だから撮る。
2018/1/30
0
スタッフ同士で写真の話をすることが日常になっている今日この頃。 あるとき、 写真を撮りたい欲。 写欲がありますか?と聞かれたとき、一瞬戸惑ってしまったことがあります。 写真を提供する以上、 どんな写真を供給するべきかは、 お客様の好み次第なんじゃないか?というのが正直な感想です。 自然な姿を残してほしい。という方が多くご来店くださいます。 むしろ、自然な姿が撮れるからライフスタジオに来てくれる方が多いです。 そんな中、 どんな写真を望んでいるのか?を私達は考えなければなりません。 家族写真を残す時に それぞれ違う関係性が当たりまえで、 その家族の良い表現方法を見つけ出す必要があると思います。 自然というのが、表情のことなのか。 目線がない、みんなで遊ぶような雰囲気で撮りたいのか・・・・。 ここで戻ります。 写欲はありますか?と聞かれたとき。 こういう写真が撮りたいのですが、なかなか撮れず…。 良い声掛けがみつからなくて、 お客様によって、出来るものと出来ないものがありますよね…。 服装によっても、自分が撮りたい写真を諦めることだってありますよね…。 写欲はあるんですけど、なかなかうまくいかないですね…。 なんて、言い訳にもならない言い訳を並べていると…。 それは、傲りだ。と今では思います。 こういうのが撮りたいと言ってくれるのはチャンスだよ。 出来る出来ないじゃなくて、この人たちだからやる写真が、 やってみる写真が、出来上がる写真が,良い写真なんじゃないか。 それは写欲があるないの問題ではなくて、 まず、人として見てないのではないか? これが撮りたいからこうやって動いてください。って求めて、 出来ないと諦めるのは、ただの支配欲。 写欲じゃないんじゃない?と言ってくれました。 そんな話をスタッフとしていた時に 確かに。と自分の中に落ちてきました。 写欲はありますか?と、今聞かれたら 撮りたいです。と、はっきり言う事ができます。 そんな話をしてから、 撮ればとるほど、もっとこの人達の事を知りたいと思います。 話せば話すほど、残したい写真のイメージが浮かびます。 コミュニケーションをしていくと写欲が出てきます。 写真の主役は被写体。 まずは被写体と話さないと、写真は撮れないとまで感じるようになりました。 スタッフと写真の話しをしている時、 衣裳について話している時、 お客さんと会話をしている時、 イメージが浮かぶのは皆と一緒に居る時。 写欲がこれ以上ないくらい上がってるとき、 いい写真を、いい表情を、収めることが出来るのだと思います。 この家族は、笑顔が絶えない方々でした。 明るく、ふんわりした雰囲気で撮りたくて逆光になる場所を選び、 なおかつ、スペースの広い場所で自由に動いてほしいと、場所を決めました。 皆で遊ぶのが好きなパパの上に妹さんに乗ってもらって、 写真は苦手だけど、家族で遊ぶのが好きなお兄ちゃんに、パパに抱き着いて!と 言ってみると、 チャンスとばかりに、パパに乗っかる兄。 そこは便乗するしかないでしょうと、参加するママ。 家族で出かけるのが好きなパパ。 仲のいい兄弟。 家族がふざけても、笑いながらノるママ。 どんな家族写真ができるのか。 それは撮影に来てくださった方とのコミュニケーションからヒントを得ます。 期待通り、 それ以上の表情 ヒントを探して写真を作っていく。 探りながら写真を撮る楽しさを最近感じています。 コミュニケーションができるからこそ、 人の写真を、 家族を撮りたいです。 Photo:Suzuki Coordinates:Shibata
幸せの温度
2018/1/30
0
幼い頃の記憶 人それぞれ、覚えている記憶の量は異なる。 外で身体いっぱい遊んで泥んこになった土の匂い、 幼い頃住んでいた木造の階段のキシキシとした音、 大好きだった公園から見た住み慣れた街の風景、、、 情景ではなくもしかしたら初めてタッチが出来て、喜んでくれたお父さんとお母さんの表情の記憶かもしれないし、 兄弟と遊んでケンカをして泣いてしまった涙の味かもしれない。 目で見た光景、感じた感情。 味わった思い出の味、匂い、音、、、 どれも愛おしいもの。 もし、もう一度思い出したいと思えばそれを感じる場所に行くこともできるし、食べることもできる。 しかしそれは“モノ”だけ。 思い出したいのはきっとそれだけではなくて自分への愛情を感じる温もり、相手の体温や触れ合った人と人の質感、 心動かされる愛情という目に見えない五感を超えた特別なものだと思います。 お母さんの身体に安心して身を預け、気持ちの良さそうな赤ちゃん。 瞳を閉じて大好きなお母さんの心臓のリズムを感じながらきっとお腹にいた時の感覚、 心地よい温もりを感じているのでしょう。 今、感じられる自分への愛情と懐かしい記憶を共に感じる、幸せの記憶はこうやって構築されていく。 そしていつか大人になった時、幼い記憶が少なくても、どんなに断片的であっても必ずそこには心から愛されていたという愛情があったのだと、幸せの記憶はなくならない。 なくならないけど見ることはできない。 だから写真がある。 たった1枚の写真から記憶を辿ることもできるし、そこから想像させることもできる。 そこに母の顔、髪の毛、体が僅かにしか写っていなくとも伝わる姿。 そして赤ちゃんの気持ち良さそうな気持ち、母の我が子への想い、 余白の白の部分には2人の心、幸せの記憶を表現しました。 母の目から見た我が子の姿はお母さん自身に愛おしい気持ちを思い出してもらえるように。 お子様には自分を見守るお母さんの表情を想像してほもらえるように。 いつかこの赤ちゃんが大きくなって自分が愛されていたことを確認したくなった時、 または思い出してほしいとお母さんが思う時がきたら2人で見てほしい。 少し照れ臭い写真かもしれないけれどこの1枚にたくさんの愛情がここには詰まっていて、 お互いの温度を感じられると思うから。
溶け合うように
2018/1/29
0
私には兄が2人います。 ふたりの兄とはとても仲がいいですが、昔から兄二人の同性同士の関係性がときたま羨ましかったのを覚えています。 この姉妹も姉妹だけにしかわからない笑うポイントがあり、ふたりでフフフと楽しそうに仲良く笑いあっていました。 また姉妹独特の距離の近さがあり、お揃いのコーディネイトであったこともあり、ふたりがひとつに溶け合うようにみえました。 逆光の光で、手前に淡い前ボケをいれることにより、柔らかな素材のジャケットがより柔らかく二人を包むように撮影しました。 時には大きなケンカもするでしょう。 大人になってきたら、こんなに近い距離は恥ずかしく感じるかもしれません。 けど、写真を見返して、かけがえのない姉妹の存在を感じてくれたらと思います。 Photo by Tonegawa Coordinate by Asana
前へ
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
/ 155
次へ
コミュニティに戻る
フォトジェニックに戻る