Staff BlogTokorozawa

volvo
所沢店

volvo(nakanouchi)

こんにちは、中之内隼です。
ライフスタジオではvolvo(ボルボ)と呼ばれています。

なぜボルボと言うのかはお会いした時にお話ししましょう。
あまり楽しくないかもしれませんが(汗)

転勤族です。
6年間の間に10店舗以上異動しています。

私がどこにいるかはこのブログのありかを探していただければわかります(笑)

ちなみに今は所沢店にいます。

写真と旅とサッカーが好きです。
写真はフォトグラファーなので当たり前ですが(笑)内容はポートレートでも風景でも撮ります。
今では人を撮る事に楽しさを感じていますが、写真を始めるきっかけになったのは風景写真でした。

23歳の時に一人旅で行った京都がきっかけでした。
紅葉が満開の嵐山を見て「これは記録に残すべきだ」と直感的に感じたのがはじまりです。
しかしその時は寒く、懐から出したデジカメが結露してしまい、一枚も撮る事なく壊れてしまいしばらく呆然と山を見ているしかなく焦ったのを未だに覚えています。
結露は1時間ぐらいで奇跡的に治り、写真を撮る事ができたので感動を収める事ができました。

もしその時デジカメが治らなかったら、私はここにはいなかったかもしれません。

関係あるかわかりませんが(笑)
だからこの仕事では一期一会で唯一無二の感動をいつでも見れる写真へと残す事にやりがいを感じています。

ライフスタジオの写真はスタッフがやりがいや生きがいを感じていなければ美しく残す事はできません。

だから私たちは自分自身の発展に重心を置き、本を読んだり、旅行に行ったり、自分たちも経営に参加したりしています。

私もフォトグラファーですが、写真と同じくらい時間ほかの事もしています笑

そんな私ですが、少し「写真」そのものの話を・・・。
持論ですが笑

写真とは、私は撮影者と被写体の人生のリンクポイントだと思っています。

他人である私たちが写真館という場所で出逢い写真を撮るという事は、その場だけの接点ではなく、お互いがそれぞれ生きてきた人生が一枚の写真に現れると思っています。

撮影者の人生がシャッターチャンスを作り、被写体の人生が写真に生命力を宿す。

だからこの仕事には「やりがい」があります。

こんな私ですが、撮影は全力がモットーです。
汗くさかったら言ってください(笑)

Yourself choose....

2018/10/27

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photo by volvo

codi by moriya

 

 

 

写真は芸術では無いという観点があります。

写真は絵画や彫刻のように一から生み出すものではなく、現実に存在するものを写すに過ぎない為

その写実性を排除できない以上写真は自分で作った作品ではないという理由から、このように言われる事があります。

 

例えば絵画なら自らの手によって描かれてますから自分の作品であると言い切ることができます。

しかし写真は、よく撮れたと思ってもただ被写体が美しかったからで片付けられてしまう事もあります。

つまり写真に写っているものは自分の力で作り上げたものじゃないのだから芸術ではなく現実を写す道具であると言われるのです。

 

確かにその面は大いにあります。

風景写真家が雲海を撮りたくても雲を発生させる力は無いので、自然が生み出すのを待つしかありません。

槇原敬之の曲の一節にある「君の笑顔のわけがもう一つ増えるなら、今降り出した雨だって僕はやませてみせるよ」

という事ができれば別ですが・・・。

 

写真館という視点から見ると、写真の道具性は明らかです。

今日まで写真館で撮られている記念写真というのはまさに現実を残す道具としての役割を担っています。

いわゆる七五三やウエディングというのは、残したいという記録的要素が多くを占めます。

 

我々にも置き換えてみます。

私達は毎日のように写真を撮っていますが、その質は必ずしも一定ではありません。

なんか調子出ないなと思うときもあれば、やたらと調子が良いときもあります。

なぜでしょうか。

 

もちろん実力が足りなかったり理由は色々ありますが

最も大きいのは上述したものと同じ写そうとしているのが自分の操る力を超えた「現実」だからです。

現実を写す事は自分の力だけではどうにもならないことがたくさんあります。

光やインテリア、思考状態、そして被写体。

その時その瞬間の全ての状態が唯一無二であるが為に、シャッターを押すたびに

自らの意思、思考、意図を写真に取り入れる事がとても難しい仕事です。

 

そうすると我々はどうなっていくでしょうか?

写真の芸術的要素を撮影者が自ら放棄します。

記録写真に留まる事を自分で設定し、写真に対する欲求や自由意志を捨て

決められたように、慣れたようにシャッターを切るようになります。

 

そうなった瞬間、知らずしらずのうちに写真が芸術ではない事を自ら認めてしまっているのです。

 

写真は芸術ではない・・・。

こうなってくると認めるしかないようにも思えてしまいますね。

 

一方で写真というものがどのような構成要素をもっているのかもう一度考えてみると、芸術的側面も見えてくるかもしれません

例えば、写っているものは全て現実に存在するものでしかないけれど、それをどのように写すかは

撮影者の判断によって変わってくるものでもあります。

例えばカメラの設定はカメラというルールの元でしか変える事はできませんが、どの数値にするかは撮影者だけが

決められます。

例えば、いつ、どのタイミングで、どのようにシャッターを切るかは、撮影者にしか決める事はできません。

 

 

だから私の出した結論はこうです。

 

写真は完全な芸術ではないが、芸術の面も持っている

しかし、撮り手が何も考えていなければそれは芸術ではないし

見る側が芸術だと思わなければそれは芸術ではない

 

 

見る側にとって芸術的感想がなければそれは芸術ではないと私は思います。

例えば何億円で取引される絵画には、いまや芸術的価値よりも数字的な価値の方が重要視されていますが

これはもはやその絵画が芸術ではなく金儲けのために道具化している事を意味します。

その絵画を見る目線によって芸術にもなるし、道具にも変わってしまうのです。

 

 

私は今回のこの写真が道具には到底思う事ができません。

もしこれが道具というなら、逆に道具として成立していないように思います。

記録として残したいというだけでは説明がつきにくい印象の写真ですが、それだけでは

芸術とは言えません。たしかに全ての構成要素に私の意図が入っていると言える自信はありますが

自己中心的な写真を撮るだけなら芸術ではありません。

モニター時、この写真が出てきた時の親御さんの歓声があって初めて芸術として成立するのだと思います。

 

 

私がこの写真で伝えたい事はまだまだあるのですが、くどくなってしまうのでこれくらいにします。

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