Photogenic
所沢店
scrollable
認識
投稿日:2017/7/29
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Photo by HIRO
Coordinated by Caori
写真とは、撮影者の被写体に対する認識の産物。
最近自分の中で定着しつつある写真哲学の一つです。
被写体をどのように認識し、そこから何を感じ取り、それをどう表現するのか。
それが撮影の過程であり、写真として映し出される始まりは認識するところからなのです。
よく言われている話かもしれませんが、最近その内容が自分の中でとても腑に落ちてきています。
人は認識によってそこから推測することやインプットすることが大きく変わってきます。
いわゆる世界をどんな目で見るかというものでしょうか。
認識一つで見え方、聞こえかた、感じ方、受ける感情など様々なものが変わります。
すみません、写真と全然違う話になっていましますが。
最近認識でこんなにも変わるのかと思わされた動画があります。
僕がここ最近ハマっているミュージシャン、岡崎体育の楽曲で「Natural Lips」のMVです。
せっかくブログにYoutubeが貼れるようになっているので貼ってみたいと思います。
いきなり写真分析にこんなふざけた動画を入れていいのかどうかわかりませんが・・・。
日本語を英語風に歌っているのですが、動画に表示されている字幕を見なければ完全に英語に聞こえます。
でも字幕を見ながら曲を聴くと完全に日本語に聞こえます。
もし暇があったら聞いて見てください。
この動画を見ながら英語として認識すれば英語に聞こえるし、日本語して認識すれば日本語になんだなと、
認識によってこんなにも結果が変わるのかと実感させられた面白い動画でした。
話を写真に戻しましょう。
所沢店で先月多く話されてきた写真人文学の写真主題、「アウラの再構成」。
簡単にいうと被写体から受ける印象(アウラ)から自分の目で被写体を見つめ直し、それを再構成し写真に表すという内容です。
それに関して話せばもっと深く広い内容があるのでここでは認識という部分に絞って考えてみますが、
自分の目で被写体を見つめるということが認識であると思います。
その被写体を美しいと認識すれば、美しく。
可愛いと認識すれば、可愛らしく。
かっこいいと認識すればカッコよく。
実際にはこんなに単純なものではないと思いますが、被写体をどう認識しているかでそこに写し出そうとするものは大きく変わります。
大げさに言ってしまえば、写真を決定づける一番の原因は認識であると言っても過言ではないかもしれません。
ある漫画の一言を借りれば、「認識を制する者は、写真を制する」とでもいいましょうか・・・。
前置きが寄り道をし、長くなってしまいましたが今回の写真を写真分析で書こうと思ったのも、
この写真が自分の中の認識によって生まれた写真であると感じる写真であったからです。
2月にお姉ちゃんメインの撮影を行い、今回は妹ちゃんの七五三での撮影でした。
4ヶ月ぶりにあった彼女は前よりも少ししっかりした印象で、一人で元気に遊んでいました。
そこからその成長した3歳らしい元気な姿を残そうと七五三の撮影を行い、2シーン目のドレッシーな衣装に着替えた彼女を一目見た瞬間、彼女の中にまだ眠っている美しさを感じたのです。
さっきまで無邪気に走り回っていた3歳の少女が、もう既に自分の美しさを知っているかのように、彼女からは綺麗におしゃれすることの喜びが溢れていました。
そこでもう一度自分の中での彼女に対する認識を考え直し、
「幼さの中に眠る、未来の女性としての美しさを持つ少女」と考え、
ママやパパもまだ知らない彼女のその一面を写真に写し出したいと考えました。
認識が変わることで、そこから導き出される行動や貼られるアンテナが変わります。
その認識を形にするために、その雰囲気にあったインテリアや光を準備し環境を整えます。
そして声かけをしたり撮影方法を変えたり、彼女の中に眠る美しさが顔を出すように、彼女を探していきます。
彼女の表情を捉えようとクローズアップを狙っていた時、その瞬間に出会いました。
ふと彼女が窓の方を見つめた瞬間、その横顔と瞳の輝きに彼女の美しさが溢れていました。
その瞬間にファインダー内の構成要素を整理し、よりその魅力が写真の中に収まるように調整をしてシャッターを切りました。
光の当たっている明るい部分だけでなく、左側の少し暗い部分を入れることで全体的に落ち着いた印象を与え、彼女に少し大人びた演出をしてくれます。
大人の女性のようにおしゃれに被ったカクテル帽のレースは前後に広がり、少し前ボケのような効果も加えてくれて微妙にある彼女との距離感を表します。
表情は無表情に見えますが、瞳には目線の先にあるライトの光がキャッチアイになっていて瞳には輝きがあり、見つめる瞳の力強さを与えてくれています。
まるでこれから大きくなって進んでいく未来を見つめるかのように。
モニターの際にこの写真を見ながらママさんが「こういう撮り方かー」と喜んでくださいました。
もしかしたら何かまだママさんも知らない彼女の一面を見せることができたのかもしれません。
もし自分の認識が別のものだったら、そのアンテナは貼られずに、彼女が不意にみせた瞬間に何かを感じることがなかったかもしれません。
認識を深いものにしてけばいくほど、そこに写真の深さが生まれてくるものなのでしょう。
その分だけ被写体の中のいろんなその人と出会うことができるのだと思います。
どんなに綺麗な光を見れても、どんなに綺麗な構図を知っていても、どんなに美しいポーズを知っていても、それをどんな表現のために使うのかを知らなければ、価値を持ったいい写真にはならないのでしょう。
何を表現するのか、その始まりはどう認識するか。
やはり、もしかしたら認識を制するものは写真を制するなのかもしれません・・・。
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