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生きていることを見つめる眼差し。
投稿日:2016/9/30
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生きていることを見つめる眼差し。
Tomorrow is Another Day.
この日はとても暑く日差しの強い日。
インターフォンの音を聞いて玄関を開けたら、両親に手をつながれて夏の名残のある日に焼けた女の子が、
その年齢にしては少し大人びた落ち着いた笑顔で入ってきた。
最初は3歳かと思ったら、2歳だった。
そのくらい大人びた表情のその子は、接してみるとやはり2歳らしい自我の芽生えと好奇心。
お洋服には好みがあり、帽子を被るときと被らない時が気まぐれである。
そして私たち大人の行動がとても気になるようで、その綺麗な瞳はよく私たちを見つめていた。
しかし醸し出されるどこか落ち着いた雰囲気は、きっとその子が他者を見つめる眼差しにあるのだろう。
その眼差しは、とても優しく、人が好きであるという愛に満ちていた。
きっとご両親がその子に向けている眼差しが、その子に表れ、その家族の愛情の温かさを感じ、その愛情の中で世界を知っていくという過程であることが伺える。
日々広がっていく世界の中で、生きているということを驚きと喜びで満たしていっている。
そんな感じがした。
「生きている」ということは、私たちには当たり前のことであるけれど、それはとても「特別」なことです。
なぜなら、「人」の人生には同じものがただひとつもないからだし、
同じ人生を生きることができないということは、とても「特殊的」だから、その人が「生きている」ということ自体が「特別」であるからです。
2歳のその子が教えてくれることは、その「生きているということを見つめる眼差し」だったと感じます。
日常を通り過ぎていく日々の積み重ねが「人生」であるから、その日、その時、その瞬間が特別であるということが「生きていること」自体に向けた眼差し。
繰り返されるよう見える日々を繰り返すように生きていることが、「生きている」と言えるのかということ。
物事はすべて変化をし、その瞬間の中に芽吹く何かがあり、その中で私たちは生きているということ。
生きているということをそのように見つめるという眼差しに、力強い生命力を感じます。
早いもので、私がスタジオで撮影するようになって4年が過ぎて、あと少しで5年経とうとしています。
その年数が長いか短いかでいえば、世間的にはきっとまだまだ短くのでしょうが、
毎日のように撮影をさせていただいているライフスタジオにおいては、5年も撮影をしていればもう立派なベテランです。
撮影が日常的になった今の生活になって、撮影がルーティーン化するのが当然のように思えますが、今なお飽きもせず撮影のたびに新鮮な気持ちで入らせていただけているのは、
このスタジオにある「人」という存在へ向けた思いのようなもののおかげなのでしょう。
ライフスタジオでは、「人」という言葉がよく出てきます。
ひとえに「人」といっても、当たり前のことなので、そんなに大きな感動を覚えるほどのものではないのかもしれません。
しかし、撮影に慣れてくればくるほど、撮影が日常化すればするほど、仕事自体がルーティーン化してしまいがちで、撮影がパターン化してしまいます。
「人」をパターンにはめるということは、目の前のその「人」自身を知ることをやめ、ひとりひとり違うその「人」を見ても同じように見えてきてしまいます。
それは「人」を見ているとは私には思えません。
私がフォトジェニックで何回もしつこいくらい書いているように、
「人」という存在は唯一無二であり、誰一人として同じ「人」がいないから、「自」と「他」があり、だからこそ私もあなたも同じように「生きている」ということを知ることができます。
この「独自性」と「同一性」という矛盾しているように思える概念が表裏一体のように存在しているのが「人」であり、
目の前にいる「被写体」を見つめる眼差しも、この2つの概念があるからその被写体だけのたった一つの写真を生むことができ、かつ共通する人間的な感覚で感動を引き起こすことができます。
そういった「人」の概念を以て、私が写真を撮るときに見つめていることは、その被写体が「生きている」ということです。
いつも私が写真を撮るときに考えるのは、被写体のどの瞬間に「生」が宿り、どう写したら「生きている」ということを表現できるのかということです。
今回、私がこの写真を撮るにあたって実践した方法は2つです。
まず一つ目は、被写体をよく「観察」することです。
「観察」すると言っても、ただ何もせずにじっと被写体を見ることではありません。
話しかけて、投げかけて、その被写体が何にどのような反応を見せるのか。
単純なものだと、何が好きで何が嫌いかもそうかもしれませんし、
何を見たら目を輝かせて、何を聞いたら動くのか。
そのときの癖や特徴は何か。
その子を表す外的な特徴は、どんな動きでどんな仕草か。
撮影が始まるわずかな時間でできるだけ観察し、情報を集めます。
それは撮影が始まっても同じです。
撮影中に、投げかけたものへどのような化学反応が起こるかどうかは始まってみないとわからないこともあります。
その時も「観察」するというアンテナがあれば、その瞬間を捉える眼差しを持つことができます。
二つ目は、生きているその瞬間を作り出すことです。
その生きている瞬間が出る状況を、どの撮影でも作り出すことがプロとして私たちに求められていることです。
観察をしている中で、気まぐれで帽子を外したり、シャボン玉への興奮した反応があったり、小悪魔的な笑顔があったり。
その子らしさを引き出し、そこを捉えるポイントを把握すること。
そのことで、突発的ではなく意図的にその瞬間を作りかつ写真のフレーミングや光を落ち着いて作ることができます。
つまり、意図的に「生きている」瞬間を作り出すことができます。
その二つの方法を実践して撮影したこの写真では、この被写体の生命力を表現したいと思いました。
この被写体の最大の特徴は表情です。
特に眼の表情が豊かで、興味のあるものがあると眼がきらきらと輝きます。
この瞬間は、シャボン玉を吹いたと同時に帽子を取りました。
きらきらした表情と、帽子を取ったときに乱れたさらさらの髪の毛がこの写真に動きと風を吹かせてくれました。
その決定的な生きていることが滲み出している瞬間を、どのように切り取るかが写真において一番重要です。
この写真は、目線の先の上部半分の空間を空け、外を抜ける緑をぼかし光るように写すことによって、吹き抜けるような空間を作ろうと思いました。
その結果、まるで外で風を受けているような写真になりました。
また、左端の本棚を写したのは空間に少しフレーム的な要素を加えることにより、写真を収まりを良くするためです。
その左端があるかないかで、ぼやけた雰囲気を引き締めることができます。
光は、外から入る残暑の強い自然光。
コントラストをやや強め、かつ柔らかい印象を残すことで、髪の毛が透ける様子とこの子の持つ力強く優しい生命力を表したいと思いました。
このような要素を組み合わせることで、このとき、ここにいた、この被写体自身が「生きている」ということを表現した写真を撮ることができました。
この子が持つ独自の生命力と、それを写真に表現するために整えるべき条件。
それを撮影の中で毎回行うには、撮影をルーティン化し、パターンにはめることができないのだと私は思います。
なぜならば、私たちが写そうとするものは、その被写体の「人生」の一部であり、それを写そうとするには被写体が「生きているということを見つめる眼差し」が必要だからです。
そのことは毎回変化することを求められ、人へ向けても写真に対しても向上していくことが求められるからです。
上機嫌で撮影を終え、モニターで昼寝をし、帰り際に少し不機嫌な彼女を見ていると、
あれだけ観察し写真に捉えた彼女のことをまだまだ全部知らないような気がして、私はまた彼女に会いたくなるのです。。。
Tomorrow is Another Day.
この日はとても暑く日差しの強い日。
インターフォンの音を聞いて玄関を開けたら、両親に手をつながれて夏の名残のある日に焼けた女の子が、
その年齢にしては少し大人びた落ち着いた笑顔で入ってきた。
最初は3歳かと思ったら、2歳だった。
そのくらい大人びた表情のその子は、接してみるとやはり2歳らしい自我の芽生えと好奇心。
お洋服には好みがあり、帽子を被るときと被らない時が気まぐれである。
そして私たち大人の行動がとても気になるようで、その綺麗な瞳はよく私たちを見つめていた。
しかし醸し出されるどこか落ち着いた雰囲気は、きっとその子が他者を見つめる眼差しにあるのだろう。
その眼差しは、とても優しく、人が好きであるという愛に満ちていた。
きっとご両親がその子に向けている眼差しが、その子に表れ、その家族の愛情の温かさを感じ、その愛情の中で世界を知っていくという過程であることが伺える。
日々広がっていく世界の中で、生きているということを驚きと喜びで満たしていっている。
そんな感じがした。
「生きている」ということは、私たちには当たり前のことであるけれど、それはとても「特別」なことです。
なぜなら、「人」の人生には同じものがただひとつもないからだし、
同じ人生を生きることができないということは、とても「特殊的」だから、その人が「生きている」ということ自体が「特別」であるからです。
2歳のその子が教えてくれることは、その「生きているということを見つめる眼差し」だったと感じます。
日常を通り過ぎていく日々の積み重ねが「人生」であるから、その日、その時、その瞬間が特別であるということが「生きていること」自体に向けた眼差し。
繰り返されるよう見える日々を繰り返すように生きていることが、「生きている」と言えるのかということ。
物事はすべて変化をし、その瞬間の中に芽吹く何かがあり、その中で私たちは生きているということ。
生きているということをそのように見つめるという眼差しに、力強い生命力を感じます。
早いもので、私がスタジオで撮影するようになって4年が過ぎて、あと少しで5年経とうとしています。
その年数が長いか短いかでいえば、世間的にはきっとまだまだ短くのでしょうが、
毎日のように撮影をさせていただいているライフスタジオにおいては、5年も撮影をしていればもう立派なベテランです。
撮影が日常的になった今の生活になって、撮影がルーティーン化するのが当然のように思えますが、今なお飽きもせず撮影のたびに新鮮な気持ちで入らせていただけているのは、
このスタジオにある「人」という存在へ向けた思いのようなもののおかげなのでしょう。
ライフスタジオでは、「人」という言葉がよく出てきます。
ひとえに「人」といっても、当たり前のことなので、そんなに大きな感動を覚えるほどのものではないのかもしれません。
しかし、撮影に慣れてくればくるほど、撮影が日常化すればするほど、仕事自体がルーティーン化してしまいがちで、撮影がパターン化してしまいます。
「人」をパターンにはめるということは、目の前のその「人」自身を知ることをやめ、ひとりひとり違うその「人」を見ても同じように見えてきてしまいます。
それは「人」を見ているとは私には思えません。
私がフォトジェニックで何回もしつこいくらい書いているように、
「人」という存在は唯一無二であり、誰一人として同じ「人」がいないから、「自」と「他」があり、だからこそ私もあなたも同じように「生きている」ということを知ることができます。
この「独自性」と「同一性」という矛盾しているように思える概念が表裏一体のように存在しているのが「人」であり、
目の前にいる「被写体」を見つめる眼差しも、この2つの概念があるからその被写体だけのたった一つの写真を生むことができ、かつ共通する人間的な感覚で感動を引き起こすことができます。
そういった「人」の概念を以て、私が写真を撮るときに見つめていることは、その被写体が「生きている」ということです。
いつも私が写真を撮るときに考えるのは、被写体のどの瞬間に「生」が宿り、どう写したら「生きている」ということを表現できるのかということです。
今回、私がこの写真を撮るにあたって実践した方法は2つです。
まず一つ目は、被写体をよく「観察」することです。
「観察」すると言っても、ただ何もせずにじっと被写体を見ることではありません。
話しかけて、投げかけて、その被写体が何にどのような反応を見せるのか。
単純なものだと、何が好きで何が嫌いかもそうかもしれませんし、
何を見たら目を輝かせて、何を聞いたら動くのか。
そのときの癖や特徴は何か。
その子を表す外的な特徴は、どんな動きでどんな仕草か。
撮影が始まるわずかな時間でできるだけ観察し、情報を集めます。
それは撮影が始まっても同じです。
撮影中に、投げかけたものへどのような化学反応が起こるかどうかは始まってみないとわからないこともあります。
その時も「観察」するというアンテナがあれば、その瞬間を捉える眼差しを持つことができます。
二つ目は、生きているその瞬間を作り出すことです。
その生きている瞬間が出る状況を、どの撮影でも作り出すことがプロとして私たちに求められていることです。
観察をしている中で、気まぐれで帽子を外したり、シャボン玉への興奮した反応があったり、小悪魔的な笑顔があったり。
その子らしさを引き出し、そこを捉えるポイントを把握すること。
そのことで、突発的ではなく意図的にその瞬間を作りかつ写真のフレーミングや光を落ち着いて作ることができます。
つまり、意図的に「生きている」瞬間を作り出すことができます。
その二つの方法を実践して撮影したこの写真では、この被写体の生命力を表現したいと思いました。
この被写体の最大の特徴は表情です。
特に眼の表情が豊かで、興味のあるものがあると眼がきらきらと輝きます。
この瞬間は、シャボン玉を吹いたと同時に帽子を取りました。
きらきらした表情と、帽子を取ったときに乱れたさらさらの髪の毛がこの写真に動きと風を吹かせてくれました。
その決定的な生きていることが滲み出している瞬間を、どのように切り取るかが写真において一番重要です。
この写真は、目線の先の上部半分の空間を空け、外を抜ける緑をぼかし光るように写すことによって、吹き抜けるような空間を作ろうと思いました。
その結果、まるで外で風を受けているような写真になりました。
また、左端の本棚を写したのは空間に少しフレーム的な要素を加えることにより、写真を収まりを良くするためです。
その左端があるかないかで、ぼやけた雰囲気を引き締めることができます。
光は、外から入る残暑の強い自然光。
コントラストをやや強め、かつ柔らかい印象を残すことで、髪の毛が透ける様子とこの子の持つ力強く優しい生命力を表したいと思いました。
このような要素を組み合わせることで、このとき、ここにいた、この被写体自身が「生きている」ということを表現した写真を撮ることができました。
この子が持つ独自の生命力と、それを写真に表現するために整えるべき条件。
それを撮影の中で毎回行うには、撮影をルーティン化し、パターンにはめることができないのだと私は思います。
なぜならば、私たちが写そうとするものは、その被写体の「人生」の一部であり、それを写そうとするには被写体が「生きているということを見つめる眼差し」が必要だからです。
そのことは毎回変化することを求められ、人へ向けても写真に対しても向上していくことが求められるからです。
上機嫌で撮影を終え、モニターで昼寝をし、帰り際に少し不機嫌な彼女を見ていると、
あれだけ観察し写真に捉えた彼女のことをまだまだ全部知らないような気がして、私はまた彼女に会いたくなるのです。。。
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