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写真人文学: 第3章 主題②
投稿日:2017/11/14
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第3章 ハイデガーの存在:事物の再現ではない存在の体験・主題②
お待たせしました!今回も第3章『ハイデガーの存在』を一緒に考えてみたいと思います。
前回は「存在」と「存在者」について、概念を整理し実際にライフスタジオの撮影に基づいて考えました。
「存在者」とは、目に見えるもの。現象とも言えるし、誰がなんと思ってもその事物の変わりようもないものです。つまりその面しか見えていない表面的なものであると言えます。
私は今きみどりカフェにいて文章を書いていますが、きみどりカフェの存在者とは北欧風の白を基調としたシンプルなインテリアのカフェです。
しかし、その反対の「存在」とは、目に見えないものです。厳密にいえば、目に見えていることだけではわからない深い段階での「存在」です。
本質とも言えますし、その事物の「存在」の深さを知れば、その事物の「真実」や「真理」に近づくことができるのかもしれません。
さきほどの例のきみどりカフェで言うと私にとってきみどりカフェはどこか懐かしく力が抜ける場所です。
それは私から見れば親しい友人たちのカフェで、そのカフェの想いも知っていれば、そこにいる人の人柄も知っています。
だから、きみどりカフェがどう在りたくて何をするのかの意味も理由もわかります。完全に「存在の真理」を見ることができませんが、私にとってのきみどりカフェの「存在」とはそういうものです。
これが、今回の「道具」と「作品」の概念に大きく関係します。
前回も述べていますが、「道具」と「作品」について簡単におさらいします。
「道具」…徹底して何かの目的のために作られたもの。実用性と用途。
「作品」…何の目的も無く、存在そのものに異議を持つもの。どんな意味も含んではいけない。純粋な顕示。
「道具」にはそれ以外の「存在」を疑うことができません。
紙を切るはさみは誰がどう見てもその用途がわかり、その目的が明白です。
よって、それがはさみという「存在者」であり、それ以上の在るだけではさみ自身の意味を深められるような「存在」を求めることができません。
「作品」とは、作成者が何かしらの意味や意図・真理を表そうとした事物です。
作成者の頭の中で感じ考え、これを実際の「存在者」として存在させることです。
ピカソのゲルニカという有名な作品があります。ゲルニカは、その物を見ただけでは「存在者」としての目的が理解することが難しいかもしれません。
しかし、ピカソという作家、生まれ育った国や街、歴史的背景、そして実際に描かれているものの意味付けや解釈するものを知ると、ゲルニカという「存在」が顕示しているの解釈やその作品の深さに触れることができます。それは何かに使う目的でもなんでもなく、ただ在るだけでピカソが顕そうとした真理や意志の顕示になるのです。
本当にそうでしょうか?
写真は確かに実像を写します。現実に存在するものしか写せない受動的な側面から始まるものだと思います。だからと言って、果たして写真というものが「道具」の域から出ることができないのでしょうか?
写真人文学の文章の中ではアッタ・キムという写真作家が出てきます。彼は8時間シャッターを開きっぱなしにした長時間露光の手法を使って、ニューヨークの街を写しだしています。
みなさん、これは「道具」であると言い切れますか?
「道具」であるならば、この写真の目的や用途は何ですか?
そう考えると写真は作品になり得るのかもしれません。
しかし、「実像を写す」という事実からは逃れられないため、ハイデガーの理論を崩すことができないとここでは言われています。
しかし、ハイデガーの理論が芸術の真理であるということでもないため、新たな芸術の規定が為されることが、芸術の進歩には重要であり必要です。
さて、ライフスタジオの写真で考えましょう。
ライフスタジオの写真は、写真を撮ってその写真を売ることで経済活動をしています。
よって「商業写真」を取り扱っている写真業であると言えます。
しかし、一方で顧客へ「その家族・その人」とは何かを提案し、来てくれる顧客一組一組と向き合い、
その人たちの真実をできるだけ美しく写真にしようという面も大きいです。
それがライフスタジオの写真特有の味であり、ほかの写真館が真似を簡単にできない部分です。
ここで今回の主題です。
主題1:写真において、「作品」のような写真とはどのような写真ですか?「道具」のような写真とはどのような写真ですか?それを自身の言葉で表し、ライフスタジオに置き換えて話をしてみましょう。
主題2:ライフスタジオが目指す写真とは、「作品」ですか?それとも「道具」ですか?また、どちらかに決めたらそれはなぜなのか説明してみましょう。
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