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写真人文学:プンクトゥムとストゥディウム②

2017/7/31

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前回はストゥディウムとプンクトゥムとは、いずれも感覚や感情の段階のことだという話をしました。
写真におけるストゥディウムは、比較的多くの人にわかりやすく解釈にしやすい要素であり、その要素の情報や説明的な意味合いを持ち、人の好みや傾向・流行りなど一般的に理解がしやすいもので、その要素について単一的(あるいは少数)な意味を持つものであるということをバルトは言っています。写真において、見てすぐに理解や推測がしやすいものであり受容されやすいものです。難しい言葉ですが、少し例を出してみましょう。

この写真は一般的に良いとされる家族写真です。この写真の一番わかりやすいストゥディウムは、「笑顔の家族写真」であることです。大人が2名いて子供が2名。この人たちは家族であると私たちは容易に理解します。そして、家族みんながギュッと密着し笑顔でカメラを見ています。ポイントはママの手に重ねて家族ごと抱きしめるパパの手。場所はホリゾント、露出は明るめ、光はグラデーションのできやすいサイド光。これらのストゥディウムからわかることは、この家族の幸せな姿。この家族の幸せな現在だけではなく、過去・未来をも想像させるかのような写真。これらのことは、私たちの誰でも理解や推測ができることであり、それはこれらストゥディウムがあることで認識できることになります。この写真が良い家族写真であり、ポジティブな印象を受けることは誰にでもわかりますが、この写真から言葉にできないほどの、予測不可能な激しい感情や感動が出るかと言えば、それは個人差であり、多くの人がそれを感じるとは言いにくいのかもしれません。
 
次にプンクトゥムですが、ストゥディウムと全く別物ではありません。写真とは、ストゥディウムがないと撮れないのでプンクトゥムもストゥディウムの中から生まれるものです。プンクトゥムは、バルトによると撮影者の意図によって生まれるものではないと言われています。偶然によって生まれるものであり、その個人によって生まれるか生まれないかはわからない写真を見たときに発生する激しい感情や感動であるとされています。
この写真を見てみましょう。

この写真は一見するとママと赤ちゃんの写真ですが、なぜ赤ちゃんがベランダで裸なのか、なぜママの膝に突っ伏してこちらをみているのか、ママが花を手に持っているのはなぜか、赤ちゃんの手前に並べられた文字の積み木は何かと考えさせられるストゥディウムがたくさんあります。そこから一般的に推測されるストゥディウムは、「人見知りの赤ちゃんの撮影」です。しかし、この写真が、この赤ちゃんの視線がこの撮影の場にいた人たちやママにとっては特別な感情が生まれます。なぜこの赤ちゃんが人見知りなのか。ママがこの赤ちゃんが生まれてから歩んできた一年。ママと赤ちゃんの関係性。このような情報が入ったときに、この写真に深みが生まれます。そのときに、すべての人に起こるのかはわかりませんし、それが起こるのはこの写真を撮った日から何年後なのかはわかりません。もしかしたらママにだけ起こるかもしれませんし、この赤ちゃんが大人になりママが年老いて死別したときにようやく起こるものかもしれませんが、何かしら胸を打つような強烈な感情が沸き上がることがあります。これは、バルトによるとあらかじめ予測したり意図したりして生むことは不可能であり、結果的に写真に付随するものだと言われます。
 
写真を見たときに、その写真や被写体についてどれだけ情報があるのか、どのくらい認識できて、どの程度の深さの感情が起こるのかによって、ストゥディウムのみを理解して終わるのか、それともプンクトゥムが生まれるのかは、その時の自分自身の主観や知識・経験・情報によって異なってきます。さらに言うならば、感情の感じ方によっても変わってくるものだと思います。
しかし、個人によって写真に感じるものや感情の深さが違ってしまうのであれば、一般的な誰でも理解できる基準での美しい写真はあっても、芸術と呼ばれる写真はなぜ生まれるのでしょう。そこにはプンクトゥムとストゥディウムの関係性によるということを前回お話に出ましたね。
 
ライフスタジオでの話をします。
写真という素材は、ストゥディウムの集合体です。その写真の四隅の中にはインテリアや光・構図・被写体・ポーズ・服装・表情などというような物理的なストゥディウムから、その被写体の動きや表情から推測される感情・光の当たり方や明暗による印象・インテリアや服装の雰囲気の掛け合わせにより、感情的な意味を規定するストゥディウムまで幅広くあります。そのストゥディウムには偶然写りこんでしまうものや、撮影者意図しなかったものもあります。それが写真に良い味を生むこともあれば、違和感を生むこともあります。多くの場合、偶然写りこんでしまったものや撮影者の意図しなかったものに関しては、撮影者が認識できず意味を付与できなかったことを意味します。この場合、構図や光・露出・被写体のポージングや動き・表情まで意図できても、服装のテイストや色合いに意識がいっていなければ、意図したストゥディウムとの違和感を生みます。
しかし、反対に写真の四隅の中にはいるストゥディウムをより多く認識し、そのストゥディウムに意味づけする数が多ければどうでしょうか?撮影者が自分自身の目で見たその被写体を写すために、被写体の動き・表情・インテリア・光・構図などあらゆるストゥディウムを駆使し被写体自身を表すために構成するには、ストゥディウム一つ一つに意味づけをすることが必要になります。そうして写された写真には、統一感があり、違和感が消えていきます。
違和感のない写真とは、自然な写真であり、その自然さの中に被写体が存在することで、プンクトゥムが生まれる確率が高くなるのではないかと私は考えます。
 
しかし、そこで一つ疑問があります。
ただ違和感のない写真を撮れば、プンクトゥムが生まれる可能性が高くなるとなぜ言えるのでしょうか。もちろん必ずしもどうではありません。そこに撮影者の意図のあれば話は別です。撮影者自身は意味づけをして、その写真を見ている人に説明ができればその感覚は共有することは可能ですし、私たちライフスタジオのカメラマンは顧客と共に時間を過ごし空間に存在しているからです。一般的に受容されやすい感覚と、撮影者の主観を共有するチャンスがあることで、顧客の中で感じるストゥディウムは増え、そのストゥディウムの結びつきからプンクトゥムが生まれる可能性は高くなります。
しかし、プンクトゥムを生み出すためには最低限違和感のない自然な写真であることが条件だと言えます。それはなぜかと言うと、違和感のある写真は共感しにくくわかりにくいからです。そして、その条件の上でプンクトゥムを生むために必要なことがあります。
 
それは、その被写体において何がプンクトゥムであるのか、数あるストゥディウムの中から何がプンクトゥムを生むのかを見る目であると言えます。
写真を撮るうえで、撮影者の「見る目」というものは非常に重要です。それが、写真の世界観を形作る大元になるからです。なので、その被写体を表すためのストゥディウムをより多く見ることができる撮影者は写真を撮るうえで十分な材料を持っていると言えますが、プンクトゥムをより多くの人に感じてもらうためには、何が被写体特有のプンクトゥムになるのかを判断し選択する目が重要であります。
 
ライフスタジオでの撮影空間は比較的プンクトゥムを生みやすい環境にあると思います。それは、顧客との距離感が近いことで私たちと顧客の関係性が特別になり、そこから見えるストゥディウムの数がほかの写真館と比べると多いことと、顧客が我が子の自由な姿を見て感動し、またモニター時に見る我が子の自然に姿に感動しやすいことに助けられている現状があるからです。その基盤の上で我々撮影者が存在し撮影者自身の意思が反映することができるので、顧客がその空間でその撮影者に撮ってもらった我が子にプンクトゥムを感じることが多いかもしれません。しかしそのことを、現在理論を持って意図的に実践している撮影者が何人いるでしょうか?もしそのことが偶然性に頼らず、意図的にプンクトゥムを高確率で生み出すことができれば、きっとどの顧客にとっても熱烈な感動を生み出す空間と写真となり、ライフスタジオが魔法の写真館になることでしょう。
 
そこで、以下の主題を考えてみてください。
 
主題:普段の撮影からできるだけ多くの人にプンクトゥムを生み出すには、何が必要で、どうしたらいいと思いますか?

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