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写真人文学:プンクトゥムとストゥディウム①
投稿日:2017/7/31
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たびたびお久しぶりです。
写真人文学のお時間です♡
難しい?
わかりにくい?
そんなこと言わずに、私たちが毎日接している写真の根本のお話なので、
写真好き、写真ってよくわからないって方は是非お立ち寄りくださいね^^
前回はアウラという概念を用いて私たちの見る目がいかに重要か、のお話でした。
今回も引き続き、見る目のお話です。
しかし、ただの「見る目」ではなく、
「目の前の被写体を見たときに何がどこまで見えるのか?」
「被写体の何を見て、何を感じ、何を写すのか?」のお話です。
それには、私たちが見る世界について少し認識をしておくことが重要です。
■私たちの生きる社会は、「意味」で満ち溢れている。
私たちの生きている現代は、文明が発達しており科学も発達しています。
得体のしれないものは徐々に少なくなってきており、名前のついていないものを見ること自体が稀になってきました。
それは、私たち人間は見えるもの、感じるものに名前を付け、私たちから見るそのものの存在を規定し、意味を与えてきました。
例えば、電車に乗るには切符を買うのが10年前までは主流でしたが、今ではICカードを使うことが主流です。
昔はICカードが何なのか、どうやって使うのか、どうやってチャージするのかわからなかったのですが、交通ICの意味と使い方が分かればこんなに便利なものはありませんね。
また、こうしたモノを生み出すことは人間が見出した意味と意味の組み合わせから生じるものです。
水を表すH2Oという化学式は、H=水素が2つとO=酸素の組み合わせでできるものです。
こうした化学式の組み合わせを明らかにし組み合わせることでの様々な化学薬品は生まれました。また、広告にも意味と意味の組み合わせで生まれるものを使っています。
これは、トマトケチャップの広告写真です。
ケチャップのパッケージが本物のトマトのようにカットされているように見える写真です。
これを見たら、新鮮なカットされたトマト+ケチャップのパッケージ=新鮮なトマトの風味があるケチャップとして見え、意味の複合作用で購買意欲が増します。
こうして、人間は身の回りのすべてのものに意味を付け、意味と意味を組み合わせて様々なものを生み出してきました。
もう、私たちが意味の分からないものがないくらいに。
そのことは、様々な利便性を生み出すとともに、私たち人間の誰が見てもわかるような意味の共通性も生み、
その言葉やその意味を知っていれば特に言葉を交わしたり直接会ったりしなくても社会のルールや秩序を守ることができるようになりました。
意味で満ち溢れた時代は、特にこれが何かを考えなくても反射的にその記号の意味を見て、認識し、人は判断をして選択することができます。
それが何か考えなくてもわかるということは、そのものの意味はひとつしかないことを意味しますし、人はそれ以上の意味を知ろうとしないことを意味します。
意味が明白になるということは、その姿を見ただけでその人が何者かということを簡潔に表すという錯覚を起こします。
例えば、流行りの髪形をし、流行りの服装をすれば、今どきの一般的な20代女性を表しますし、
メガネで小太り、チェックのシャツを着ていればオタクを象徴しているように見えるでしょう。その人の性格や指向が実際はどうであれ。
ロランバルトの生きた時代から、この世の中に意味のないものや記号化できないものは無くなってしまったかのように見えました。
それは同時に、一人一人の人間が表面的に見ただけでどんな人なのかを判断されてしまうような時代の始まりでした。
人が皆同じに見え、自分すらもその他大勢の一部のように感じる。
その明るすぎる明白さが、自分を群衆の一人に紛れ込ませるように錯覚する。
そのことにバルトは抵抗を覚えます。
そして、写真という分野にだけ説明不可能な誰にも共有できないような感情を覚えます。
それは、まるで胸の痛みを覚えるような。
自分の中の何かを揺さぶるような感覚。
人によっては痛みかもしれませんし、熱のように感じるかもしれません。
その感覚をプンクトゥム=刺すものと名付けました。
一方で、記号化されたようなシンプルなものや認識しやすいもの・説明可能なものをストゥディウムと呼ぶようになりました。
このストゥディウムは、写真における構成要素と言ってもいいいかもしれません。
ライフスタジオでも写真分析をしますね。
そのときに、光・構図・被写体・インテリア・衣装etc…というように要素を分析すると思います。その要素は誰にでも説明可能なストゥディウムと言えます。
しかし、単にその要素を並べ、法則のような話をすることが写真分析ではありません。
自分がその写真の何が良いと思い、その要素はこれで、その要素のひとつひとつの意味がこうである、というように分析をすることで、
やがてストゥディウムを認識する深さが深くなります。
深さが深くなるほど、自分がその写真に感じた良さや衝撃が何で構成されているのかわかってきます。
つまり、自分が感じたプンクトゥムを明白にし、誰かと共有できるようになるかもしれません。
もし撮影者なら、自分が被写体に感じたプンクトゥムが何なのかを写真で構成するにあたりより精度が増し、より意図的になれると思います。
つまり、写真を構成するストゥディウムの意味づけや意図の数と深さが、写真にプンクトゥムを生む確率が高いと言えますね。
では実際にライフスタジオの撮影でどうすればいいのか、一緒に考えてみましょう。
プンクトゥムとストゥディウム②へ続く…
写真人文学のお時間です♡
難しい?
わかりにくい?
そんなこと言わずに、私たちが毎日接している写真の根本のお話なので、
写真好き、写真ってよくわからないって方は是非お立ち寄りくださいね^^
前回はアウラという概念を用いて私たちの見る目がいかに重要か、のお話でした。
今回も引き続き、見る目のお話です。
しかし、ただの「見る目」ではなく、
「目の前の被写体を見たときに何がどこまで見えるのか?」
「被写体の何を見て、何を感じ、何を写すのか?」のお話です。
それには、私たちが見る世界について少し認識をしておくことが重要です。
■私たちの生きる社会は、「意味」で満ち溢れている。
私たちの生きている現代は、文明が発達しており科学も発達しています。
得体のしれないものは徐々に少なくなってきており、名前のついていないものを見ること自体が稀になってきました。
それは、私たち人間は見えるもの、感じるものに名前を付け、私たちから見るそのものの存在を規定し、意味を与えてきました。
例えば、電車に乗るには切符を買うのが10年前までは主流でしたが、今ではICカードを使うことが主流です。
昔はICカードが何なのか、どうやって使うのか、どうやってチャージするのかわからなかったのですが、交通ICの意味と使い方が分かればこんなに便利なものはありませんね。
また、こうしたモノを生み出すことは人間が見出した意味と意味の組み合わせから生じるものです。
水を表すH2Oという化学式は、H=水素が2つとO=酸素の組み合わせでできるものです。
こうした化学式の組み合わせを明らかにし組み合わせることでの様々な化学薬品は生まれました。また、広告にも意味と意味の組み合わせで生まれるものを使っています。
これは、トマトケチャップの広告写真です。
ケチャップのパッケージが本物のトマトのようにカットされているように見える写真です。
これを見たら、新鮮なカットされたトマト+ケチャップのパッケージ=新鮮なトマトの風味があるケチャップとして見え、意味の複合作用で購買意欲が増します。
こうして、人間は身の回りのすべてのものに意味を付け、意味と意味を組み合わせて様々なものを生み出してきました。
もう、私たちが意味の分からないものがないくらいに。
そのことは、様々な利便性を生み出すとともに、私たち人間の誰が見てもわかるような意味の共通性も生み、
その言葉やその意味を知っていれば特に言葉を交わしたり直接会ったりしなくても社会のルールや秩序を守ることができるようになりました。
意味で満ち溢れた時代は、特にこれが何かを考えなくても反射的にその記号の意味を見て、認識し、人は判断をして選択することができます。
それが何か考えなくてもわかるということは、そのものの意味はひとつしかないことを意味しますし、人はそれ以上の意味を知ろうとしないことを意味します。
意味が明白になるということは、その姿を見ただけでその人が何者かということを簡潔に表すという錯覚を起こします。
例えば、流行りの髪形をし、流行りの服装をすれば、今どきの一般的な20代女性を表しますし、
メガネで小太り、チェックのシャツを着ていればオタクを象徴しているように見えるでしょう。その人の性格や指向が実際はどうであれ。
ロランバルトの生きた時代から、この世の中に意味のないものや記号化できないものは無くなってしまったかのように見えました。
それは同時に、一人一人の人間が表面的に見ただけでどんな人なのかを判断されてしまうような時代の始まりでした。
人が皆同じに見え、自分すらもその他大勢の一部のように感じる。
その明るすぎる明白さが、自分を群衆の一人に紛れ込ませるように錯覚する。
そのことにバルトは抵抗を覚えます。
そして、写真という分野にだけ説明不可能な誰にも共有できないような感情を覚えます。
それは、まるで胸の痛みを覚えるような。
自分の中の何かを揺さぶるような感覚。
人によっては痛みかもしれませんし、熱のように感じるかもしれません。
その感覚をプンクトゥム=刺すものと名付けました。
一方で、記号化されたようなシンプルなものや認識しやすいもの・説明可能なものをストゥディウムと呼ぶようになりました。
このストゥディウムは、写真における構成要素と言ってもいいいかもしれません。
ライフスタジオでも写真分析をしますね。
そのときに、光・構図・被写体・インテリア・衣装etc…というように要素を分析すると思います。その要素は誰にでも説明可能なストゥディウムと言えます。
しかし、単にその要素を並べ、法則のような話をすることが写真分析ではありません。
自分がその写真の何が良いと思い、その要素はこれで、その要素のひとつひとつの意味がこうである、というように分析をすることで、
やがてストゥディウムを認識する深さが深くなります。
深さが深くなるほど、自分がその写真に感じた良さや衝撃が何で構成されているのかわかってきます。
つまり、自分が感じたプンクトゥムを明白にし、誰かと共有できるようになるかもしれません。
もし撮影者なら、自分が被写体に感じたプンクトゥムが何なのかを写真で構成するにあたりより精度が増し、より意図的になれると思います。
つまり、写真を構成するストゥディウムの意味づけや意図の数と深さが、写真にプンクトゥムを生む確率が高いと言えますね。
では実際にライフスタジオの撮影でどうすればいいのか、一緒に考えてみましょう。
プンクトゥムとストゥディウム②へ続く…
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