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写真人文学: So as not to Familier... ②
投稿日:2017/6/24
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前回のSo as not to Familier...①を先に読んでください。
実際の撮影のエピソードと写真を見ながら、前回の内容を考えてみましょう。
この子は、7歳の七五三でライフスタジオに来てくれました。最初は、着物選びもヘアメイクも楽しそうにしてくれていたので、「7歳の女の子らしい」という印象が抜けませんでした。なにをもって「らしい」というパターンがあるのか、自分自身でも疑問ですが…。しかし、それが崩れたのが着物の撮影をしているときに、少し泣いてしまったことでした。着物が苦しくて、緊張して、いろいろな感情があふれてしまい、泣いてしまいました。そのときに、この子特有の性格が少し見えてきました。表面的には少し強気に見えたけど、繊細で、人の言動に敏感で、雰囲気に流されることはなく自問自答が出る子。その時、そんな風に私には見えました。
着物を頑張って撮り終えると、最初に元気な印象に戻っていましたが、その涙を見たあとなので、第一印象と彼女とはまた違って見えました。
どこか自分の容姿に劣等感があり、自信があるように見えても実は繊細で傷つきやすい。
撮影者であり、他人である私には、彼女のことがそう見えました。
それが最初の第一印象のアウラを消失させる出来事であり、私が彼女を私自身の目で見るきっかけをくれた出来事だったと思います。
アウラを消失させ、自分自身の目で被写体を見ることは今回のように偶発的に起こることでも実感できますが、こちらからの意識的な投げかけで意図的に起こすことも可能です。
ポイントは被写体を揺さぶることにあると考えます。
今回のように泣かせるのではなく(笑)、突然思いもつかないことを言ったり、彼女の内面を見て言葉を選んだりすることにより、彼女の内面を揺さぶることで、彼女らしさや内面に隠れていたものが徐々に出てくるのではないかと思います。
それを撮影時間中行うことで、関係性は作られていき、写真となって現れます。
彼女がドレスに着替えたときに、彼女の履いていた靴を脱がせ敢えてブーツを履かせました。
それは先ほど述べたように、彼女が自らの意志で動くきっかけを与えるためです。
わざとブーツのひもをほどいて履かせ、会話をしながら結んでもらう。
「靴ひもを結ぶ」という目的を持ってもらい、動きながら話をすることで、自然に私と彼女が繋がっていきます。
揺さぶることと、自然になっていくことの両方を行っていき、私と被写体が見えない糸で結ばれていくように関係を作ります。
そうなると、撮影者である私と被写体の共通のフィールドが創られて生き、私の声が被写体へ通りやすくなるのです。
私の声が通りやすくなってくると、微妙な細かい角度や少し難しいポージングの指示もすんなり通ります。彼女は一重で切れ長の目が特徴で、女の子によくやる上目の角度は彼女には美しい角度ではありません。
彼女の美しさの特徴は、黒目の美しさと作らない笑顔。そしてスリムな体系。
だから、その笑顔が美しい角度とは、彼女のアイレベルとやや下からのあおり気味の角度が一番彼女特有の美しさが表現できると思いました。
『Point:4 わたしから見たあなたの美しさ』であるように、
『少し自信のない彼女に、自分自身が美しいということを伝えたい。』
その時の私はそんなことを考えていたと思います。
だから、真昼の強い自然光を使い彼女の顔を明るく見えるようにしてから、会話をして笑わせる。肩に顎をくっつけたまま、視点の指示をしたり、会話を聞いてもらったりする。
そのことで現れるのは、私から見た彼女にしかない美しさ。
そういうことをしながら、この原本は作られました。
写真人文学の内容を整理していくとわかってくるのが、写真人文学を学んでも物理的な写真の技術自体は成長しないということです。
しかし、その物理的な技術を駆使する撮影者の認識は変わります。
写真というツールには、撮影者の視点や認識に大きく依存する性質があると、毎日写真を撮っているとつくづく感じます。
写真の調子が悪いときは、自分の調子が悪いときや、被写体と向き合うという基本を忘れているときだったり、自分が慢心している時だったり…。
だから、写真とはどういうものか。ライフスタジオの目指している写真は何か。私は、人をどう見ているのかは重要だと実感します。
哲学も人文学も、わかりにくくて即効性がないから、実感を得るまでに時間がかかるかもしれませんが、撮影者にとって一番大切で、一番根底にある写真のエッセンスである『認識』を養うものであると思います。
もしこれを撮影教育に置き換えるなら、写真人文学とは撮影者の視点や認識の在るべき基盤である私は考えています。
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