Staff BlogKokubunji

ジョン
国分寺店

joung

2000年11月日本に来日。
2007年にライフスタジオの代表、李社長と出会い写真業界に入る。
2009年に現在の会社を設立。
lifestudio kokubunji 店open, 
写真日和原宿スタジオ、
Beyondbiyoriレンタルスタジオ運営
*座右の銘は「正射必中 」
*趣味はボクシング
現)早稲田大学院政治学研究科在学中

「車とわたし」

2019/7/31

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「車とわたし」

調布と新宿間の高速道路。
朝のこの時間帯はいつも車が混んでいる。いつものTBSラジオを聞きながら気を緩くしようとしているけど、仕事の時間に間に合うのかと先からずっと車の時計を確認している。
 普段は朝8時頃の時間帯に車で原宿まで行くのは滅多にしない。時間を読めないからだ。

 明日の雑誌撮影の為に、汚れた白ホリのペイント作業を本日中にやらないと行けない。朝の満員電車で大きいペイントや作業道具を運ぶのは不可能に近い。
全然動かない高速道路の長い車の列をみながら、今日仕事がなければゆっくり海にでもドライブをしたいと思った。

そう!
私はひとりで車の運転をするのが嫌いではない。むしろひとりだけの車での時間と空間が好きだ。
日本全国を車で旅したいという願望は今でも持っている。

電車の移動がとても便利な東京では車はもう贅沢な乗り物かも知れない。実際に自分も一ヶ月の何日しか車を利用しない。カーシェアのサービスやレンタルカーも充実している昨今、若い人々が車を購入するのは少なくなったかも知れない。
今持っているこの車は自分の人生で購入した車の5台目になる。これ以上私に合う車はないと思うのでこの次に新しい車を購入する気は全くないし、もし買うのであれば、キャンピングカー又は、ハイエースのような仕事で使う車になるだろう。
 このJEEPを8年前に購入した頃は同じ車が街を走っているのが滅多になかった。

ある知人から
「この白いJEEPを見るとジョンさんを思い出しますよ!」と言われた。
正直、街中で同じ車を運転しているドライバーさんを気になって見ているけど、自分が一番似合うなと思っている。

コーナリングの安定感は抜群に良いけど、3700ccの無駄に大きなエンジンは燃費も悪いし、何か玩具みたいな内装も快適とは程遠い。私も車を大事にする人間ではないので掃除はほとんどしないし、少しぶつかる事があってもあまり気にもしない。運転が上手くてそういう事もないけど。一番大事なエンジンオイルだけは定期的に交換している。

この車を歌で例えるなら、

河島英五の歌(時代遅れ)の、
「不器用だけど、しらけずに 純粋だけど、野暮じゃなく」
そういうのではないかなと思ったりする。

「無駄に見えるけど、抑えるところは抑えている」

 大学生時代、奨学金をもらった時に人生初の車を購入した。大学3年生から「サムソン」という世界的な企業から卒業までの学費全額をもらう事になった時には本当に自分の人生は順風満帆になると思い込んでいた。
 
高校卒業してから地元の釜山からなるべく遠く離れたくて、ソウルに近い大学に進学した私は、「入学金だけ払ってくれたら、後は自分で何とかする」と親を説得した。なので週末はいつも金がいい建築現場で働いて一週間分の生活費を稼いでいた。
そういう貧乏な学生にとって大きな奨学金はとてもありがたい話だった。
それよりも卒業して「サムソン」の一員になれると当時の企業関係者からの話もあったので本当にそうなると思っていた。軍隊を除隊して復学した2年生の時に、軍隊のすれ違いで同期もバラバラになり遊ぶ友人も少なく、特にやることもなかったので学校の図書館で課題を真面目にやっていたら学年で一番の成績になった。また、女の同期がTAで管理していた研究所で活動していた事も大学の奨学金担当者にはよく見えていたかも知れない。
本当にたまたま転んで来たこの運を私がもらっても良いのか、慣れてない状況に不思議な気分だった。
 
 大金が入って最初にやったのが車の購入だった。車を持っていれば女の子にモテるし、今まで断って来た仕事もできると思った。実際に車を購入してから大学からは離れた富裕層のエリアにある大手スポーツセンターで働く事になった。
 大学教授や起業家、お金持ちの若い奥様達から「ジョン先生」と呼ばれるようになった。
韓国で一番待遇が良い大手企業に入る事になったし、車も所有してお金も稼いでいるし、偉い方達からチヤホヤされる環境で完全に私は勘違いを始めた。
いつも朝までお酒を飲んで遊ぶようになった。先輩から紹介された仕事にも遅刻したり、約束を守らなかったり、学校の授業はほとんど参加ぜず、当時付き合っていた彼女と遊んでいた。
当時迷惑をかけた先輩や友人らにはいつか会える事があれば本当に誤りたいと思う。

1年以上そういう生活をした私は徐々に壊れていた。
周りの信頼も失っていたし、学校の成績も悪くなり、韓国の国自体が「IMF危機」という最悪な経済悪化になり大手企業も新入社員募集や奨学金等のすべて打ち切るような事態になった。
一番成績が悪かった私から奨学金がなくなるのはある意味、当たり前の事だった。
卒業の半年を残して、初めて自分の状況を冷静に見るようになった。

同期達は既に卒業後の計画を立てていてずっと準備をして来たのに、自分は何もなかった。
後悔してももう遅かった。
親しい大学の奨学金センターの職員に相談をしたら、「1年位アメリカでも日本でも海外で少し勉強して帰ってくるのはどうか! その時は韓国も今より良くなるはずだ。」
とアドバイスをもらった。

❝とにかく、自分の事を誰も知らない場所で、
もう一度人生をやり直したがった❞
よくなぜ日本に来たのですか?
と質問される事があるが、そういう理由だった。
初めて買った車を処分して、学生ビザの為の日本語学校の学費を払って、友人らに借りたお金を返したら本当に手元には10万ウオン(当時8,000円)しか残らなかった。

私が日本語を全く知らず、知り合いも誰もいないまま、成田空港に着いた時の所持金8000円しかなかった話は本当の事だ。新宿までの高速バスが当日3000円だったので、新宿駅についた時には5000円しかなかった。

この年齢になって今思うと、本当に無茶苦茶で迷惑な若いヤツだった。それでも何かやって行ける自信だけはあったかな!

「奨学金で人生初のその赤い車を買わなかったら、今私は日本にいないかも知れない。」

そんなつまらない事を考えていたら、

やっと車が動き出したので何とか仕事の時間には間に合いそうだ。

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