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美しさの理由
投稿日:2017/5/20
1902 0
Photo by Satsuki Kudo
Written by Yoko Moriya
「美しさ」とは何なのか。
何をもって「美しい」というのか。
人は何を見たときに「美しい」と感じるのか。
そんなことを考えます。
何をどう美しいと思うか、というのは実際には人それぞれの基準や価値観があると思います。
もちろん写真においては基本的な構図であったり分割法であったり光の入射角や拡散の仕方などがあるのは念頭において、ですが。
私はお客様と一緒にモニターに入らせていただくうえで時々ハッとする写真に出会います。
そのタイミングはお客様と同じであったり、まったく違ったり(後者の方が多いのは私がひねくれているからでしょうか)。
この1枚も、私が目を奪われた1枚です。
では私が目を奪われる、「美しい」と感じる写真の共通点は一体何なのでしょうか。
この文章を書きながら悶々と、至極悶々と考えた結果、1つは基盤がしっかりしていることだと思いました。この表現が合っているのかはいささか不安を覚えますが。なるほど自分の感覚を言葉で表現するというのは難しい。
私がここで言う基盤とはなんなのか?当然写真を撮る上での基礎的な要素も含まれます。
「平行」、「画角」、「空間の開け方」、「空間の埋め方」、「距離」、「光」、ざっと上げただけでもこれだけあります。
常々私は思うのです。これら写真の基盤となる部分が当たり前にできてこそプラスαの要素が働くのではないかと。
珍しい画角、見たことのないような写真というのは確かに人の目を引きますが、基盤がない状態でこれをしても意図が伝わらないうえに構成要素がバラバラになってしまう。
そもそもなぜその被写体でその写真を撮ろうと思ったのか、その意図、意思、気持ち、エトセトラ、それをなくして本当に「伝える写真」というのは撮れるのだろうか。と、偉そうにも新人の私は思うのです。
話が逸れました。戻します。
この1枚の写真を私がなぜ美しいと思ったのか。
それは基盤がしっかりしているうえでその子のためのプラスαが働いているからだ。
ではこの写真における基盤とプラスαの要素とは何か?
やっと本題です。
まず光の照射角に対する被写体の向き。
この部屋は障子があることによって光が拡散しやすい状態にあるのではないかと思います。もちろん天候や時間によってその強弱、色はありますが。
それは安定した写真が撮りやすいとも言えますし、逆に言えば考えなければ決まったものしか生まれないのではないでしょうか。
その光に対して被写体を「この向きで」「座らせて」「目線を落とし」「影を作る」。
そしてカメラを「極めて平行に構え」「真後ろではなく少し斜めから」「目線の先までわかるように」シャッターを切る。
この写真の平行の綺麗さは椅子を見れば一目瞭然ではないでしょうか。この平行さも光を綺麗にとらえる要因の1つになっているのではないかと思います。
もちろん時と場合によっては斜め上などから撮るのが正解の時もありますし、否の場合もあります。そもそも写真における正解というのは・・・と、話がだいぶ逸れる上に非常に長くなりそうなのでこれについてはまた後日悶々と悩んでみたいと思います。
次に露出について。
人の視線を惹く写真というのは一般的に「明るい」もしくは「色(コントラスト)が強い」ものだそうです。
が、この写真はどうでしょう。決して明るい写真ではない。だがここでは適正露出である。ですが、ただ適正露出で撮れているというだけでは私がここまでこの写真に惹きつけられている理由にはならない。
ではなぜ私はこの写真の露出(明るさ)に惹かれたのか?それは私にとってそれが温かみに感じたということがあげられます。…すごく、抽象的になってしまいますが。
被写体である少女はこの時どんな気持ちだったのか。少女を見守る親御さんは一体どんな気持ちだったのか。それが想像できる。写真1枚から現在・過去・未来が想像できるというのは、すごいことなのではないでしょうか。
適正露出というのはもちろん環境や日の入り方などから割り出すものですが、被写体に合わせて変えていくというのもいわば「適正」なのではないかとこれを書いていて思いました。
それが私にできるかは別ですが…。精進いたします。
そして言わずもがな「前ボケ」。
見て、考えて、はーなるほどすごい。ってなる。と、これでは分析にならない伝わらない。
そも前ボケとは何のためにいれるのか?画角の調整や遠近感の演出、写真を綺麗に魅せる1要素、カメラマン教育前の私にはこれくらいしか考えつきませんでした。情けない。情けないですが、それが今の自分のいる位置です。今回はこれをベースに前ボケを考えてみます。
では画角や遠近感、綺麗に魅せたいという理由であれば何でも前ボケを使えばいいということなのか?答えはNOではないでしょうか。
単純な話、例えば白ホリで着物を撮ろうとして「あ、ここ前ボケ入れたほうが綺麗だから緑の草をぼかして入れよう」と考えて前ボケを作る。そこに私は違和感を感じます。
本当に単純な話で申し訳ないのですが、真っ白な空間にいきなり緑の草が生えている理由がわからない。花瓶や小物などで空間が演出されていればまた別ですが。
つまり何が言いたいのかというと、綺麗に写っていればそれでいいのか、ということです。
この写真においてなぜこの前ボケを「はーなるほどすごい」と私が思ったのか。
一瞬見ただけではわかりづらいかもしれませんが、この前ボケに使われているのは黒い花瓶とそれに入っている白い唐草を模したものです。
画角等々のためだけならば花瓶だけでもよいはず。しかし花瓶だけではなく白い唐草も入れている。
すごいと思ったのは、すべてが写真の邪魔をしていないということです。
黒い花瓶と白い唐草をぼかしているとはいえこの大きさで写真に組み込む。なのに、目線を引くのはやはり被写体である。なるほど違和感がないというのはこういうことか、と。
私は自分が撮った写真を振り返るときに、その写真の「違和感」を探すようにしています。
そう考えると、私が美しいと感じる写真の要素の1つは「違和感の無さ」があるかもしれません。
ではその違和感というのは写真の技術面だけのものなのか。そうではないでしょう。
写真を構成する要素の中には紛れもなく「人」が含まれていると思います。
家族がいて、子供がいて、カメラマンがいて、コーディネーターがいて、撮影がある。
基盤があって、プラスαがあって、この少女だからこそのこの写真です。他の誰でもありません。
七五三を撮るのか?それともその子を撮るのか?これは全く別物です。
私はこの1枚を通してその気づきを得ました。
写真分析というよりだいぶ自己分析に近い形になってしまいました。
そして、言うは易く行うは難し。
ここまで非常に偉そうなことをつらつらと書いてしまいましたが、これから一層目を鍛え、感性を鍛え、そしてもちろんコーディネーターとして精進していきたいと思います。
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