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所沢店
所沢店はどこへ行こうとするのか①〜舵を切るなら今だ〜
投稿日:2017/4/2
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がむしゃらに生きすぎて自分がライフスタジオに入った理由をすっかり忘れた6年間だった。
ありがたいことにライフスタジオに入社してから2017年の7月で丸々6年も経つ。前の会社が7年いたので、もはやそれに匹敵する勢いだ。年数で見ればそのようだが、中身の濃さで言えば3年目以降やる事のなかった前の会社とは桁違いに怒涛の毎日だった。
そう思うくらいこの6年というのはあっという間だったように思う。
この前、ようちゃんが自身に出された「この会社にいる理由はなんですか?」という宿題を私に問いかけてきた。
私はカリスマを出しながらこう答えた。
「毎日に飽きないためだ」と。
果たして自分がそのように生きてきたかという猜疑心は私のカリスマ性で表に出ることなくフォローされただろうが、実際に飽きの来ない毎日を送ってきたことは嘘ではない。6年間で10店舗以上異動しながらたくさんの仲間に恵まれ、店舗作りやプロジェクトなどの運営にも参加しながら自分の撮りたい写真を撮り、お客さんに喜んでもらえる日々は充実以外の何者でもない。
そういう意味では充実もしていたし飽きるような毎日であったわけでもない。
しかし、質問をこう変換してみると即答できない自分がいる。
「楽しいですか・・・?」
私の中には仕事は楽しむものでは無いという固定観念から抜け出せない何かがある。
飽きそのものが存在することは仕方の無いことだ。何も考えずただひたすら同じ事をしていればたとえ高いポテンシャルを秘めた人であっても自分の限界を疑い始める。私は自分の人生に飽きたから仕事を変えてここにきた。たったひとつの選択で自分の人生が規定されるわけではないが、安定志向のA型かと思いきや情熱と充実を求めている事を転職を決めたその時に知った。そして私は自分の人生において充実と情熱を持てる仕事に「写真」だと規定した。そしてライフスタジオに入った。しかしライフスタジオではそんな簡単に人生は規定できなかった。私は当初、新人ながら「この会社で一番のカメラマンになる」と密かに決意していたが、しばらくライフスタジオで活動しているうちにこのように言われるようになった。
「写真が重要じゃない」
最初は何を言っているのかわからなかった。
だって写真館でしょう・・・?なぜ写真が重要じゃないのか。
あまりにも重要じゃない的な雰囲気があったのでくじけそうになった事もあったが、写真がやりたくて入ってきたので、その程度で情熱が冷めることはなく写真に対する努力と表現はこの6年間続けてきた。ところが二足のわらじを踏んでいるような感覚を拭う事は結局のところできなかった。これは自分の理解不足と努力不足が原因でライフスタジオの経営理念と写真が私の中でひとつの行動へとまとまらなかった為だ。もちろん理論はわかる。教育のひとつで例えるならば、論文プロジェクトが写真に及ぼす影響はとても大きなものだった。自分が論文の内容に選択した「自由」という単語は、その意味を自分の中に落とし込む事で写真に対する姿勢はより自由でより確実的なものとなった。現在進行中のワンポイントも同様だ。自分の主題を設定し、道筋を時間によって変化させながら目標達成に近づこうとする過程は仕事がなされる原理を自分自身に適用する事で写真に対する姿勢も変化することが予想できる。
こうして「写真が重要じゃない」という言葉の本質をわかっているつもりでいても実際に分離された感覚を取り戻す事は難しく、分離された状態は次第に自分の人生に対する重荷となってのしかかってくる事になった。これは言葉を変えると現場と教育の分離であり、無気力を生む原因だ。それでも火を消さずにやってきたのは好き嫌いで仕事をしてこなかったつまらない人生の考え方が功を奏したからだが、それは結局「義務」であった。
何が普通なのかはわからないが、実際に仕事を「楽しむもの」という認識ができない人は私だけでは無いと思うし「仕事は楽しむものだ」という考え自体が自分の中に入ってきた事が無いから疑問に思う事もなかった。もしそのままの感覚でいたならばこの文章を書く事も無くなんの疑問もない生活をしていたかもしれないが、私の固まった考えに疑問を投げかけ、私の中にモヤモヤを生み悩ませてくれたのはライフスタジオの文化が私の考えを許さなかったからだと思う。「写真が重要じゃない」という言葉の本質的な意味は「写真というものは手段であって目的ではない」という事だ。写真の腕を磨くというのは手段のスキルアップであって人生の目的とはなりえない。ライフスタジオでの写真の考え方は、経営理念である「人が人を人として」を実現するためのツールであり、また経済活動の方法である。
入社したばかりの人間に対して「写真が重要じゃない」という言葉が与えられた理由は、本当に写真が重要じゃないという意味ではなく写真に集中する意味を履き違えるとただ機械的、あるいは趣味的に写真に執着してしまう警告だったという解釈だ。
先日、社長と2人で焼肉を食べた。安楽亭で。社長とゆっくり話すのは久しぶりだったが、安楽亭に入るのはもっと久しぶりだった。自分を含めて3組くらいしかいない店内に社長の覚えたての日本語が飛び交った。日本語がわからずたとえ話がうまくできない社長との会話の中から出てきた「写真に集中したらどうか」という私へのアドバイスには、上に書いたような自分の6年と照らし合わせて違和感を感じながら「あ、それでいいのか」と自分の中に押し込めていた欲望と野心が開かれ妙に納得した瞬間となった。
なんだかこの一言に妙に納得したのは、やりたかった事と今やっている事、あるいはやるべきことの進む道、それら全てがシナプスのようにつながっていく清々しさが体を巡ったからだ。
そして思い出した。
がむしゃらに生きすぎて自分がライフスタジオに入った理由をすっかり忘れた6年間だったと。
今こそ「写真」が主題となるべきだと。
今だからこそ「写真」が主題になれるのだと・・・。
つづく。
次回〜どこに行く船なのか〜
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