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ライフスタジオと社会正義

投稿日:2012/4/29

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ライフスタジオと社会正義

 

1980年代初期、幼い頃日常的によく起きていた光景の1つ。。。

小学校に入るくらいの頃、家でコーヒーを飲み始めるようになった。今のように1日に何倍も消費するほどではないが、日曜日は朝食をゆったり食べ、年間行事のように家族皆でコーヒーを飲みながらいろんな話をした。その時はまだ小さいからとコーヒーを飲ませてもらえず、麦茶を飲んだ。その時、子供に対する差別だと泣きながら抗議した記憶もある。コーヒーが飲みたくて家に誰もいない時に飲もうとし、水にたくさんのコーヒーを入れ、飲んだ瞬間濃すぎてすぐに吐き出したりもした。家族は子供にコーヒーは良くないのだと言い、子供はこの世でコーヒーが一番飲みたいものになる。数年間の闘争の末、私に薄いコーヒーを飲ませてくれるようになったが、あまりおいしくなかったのでその後はあえて飲もうとはしなくなった。

社会正義を考えながらいきなり、7,8歳頃のとある日曜日の午前中の、平穏な日常が思いだされた。やりたいことと、やらなければならないこと、欲望と断念、そして漠然とした期待の中から黙々と探し出していくことが、社会正義と関連が深いと考えた。

社会正義の話をすると、自然と[人が人らしく生きる社会]という言葉が頭に浮かんでくる。人間らしく生きるということは、人権や最小限の生活の保障があるということが前提とされてなければならず、そのために、国民の自由に対して国家がある程度介入しなければならないのか。という問題に拡大されていく。この過程から自由の範囲に対する各自の見解が分かれていく。

個人の感じる制限の無い自由から、国家の最大限の介入を通した社会正義の実現まで、広いスペクトルを見せながら、討論はだんだんと長くなる。討論が長くなるのは良いのだが、より深い水準まで拡散していくことができない。自由の概念と国家の介入に対する基本的な知識がないため、言論的な話が繰り返され、部分的なことを具体的に知っている1人の知識が説得力を得ながら、極端に方向が旋回するようになる。

本当におかしなことだ。1,000円を寄付するのにあれほど迷うのに、自分の収入の30%以上を国家に税金として納めていることに対しては、無関心な私達。消費税を上げるということには無条件的に反対するが、派遣社員が増えていったり、非正規社員で働くことに対しては、特に問題提起をしない私達。自分の給料がなぜ上がらないのかに対する根本的な会議をしながらも、平和憲法を直さないといけないという主張の背景にはなぜ関心を持たないのか?

自由に対する概念と、国家の介入に対して一度でも聞いたり勉強したり、教育を受けたことがあるのか?新自由主義が世の中でたくさん話題になっているにも関わらず、その内容を知らないことがおかしいと思わない理由は何なのか?

しなければいけないことをするということは、二重の意味がある。衣食住を解決するためにはお金が必要であり、お金を稼ぐためには仕事をしなければいけない。ならば、仕事はしなければいけないことになる。高くて良いカバンを買うためには、お金が必要であり、お金を稼ぐためには働かなければいけない。ならば、仕事はしなければいけないことになる。新自由主義を知るためには勉強をしなくてはいけない。そうすると、やった分だけ知ることができる。だが、自分がしなければいけないことの選択において分析し、論理を作り上げて、自分の行動の正当性を付与する方法よりは、即興的であり注入された知識だけで選択が成されるのではないか?自分の過ぎた人生を振り返ってみると、当然しなければいけないことに対しての無批判的な需要と共に、自分がしたいことに対する強い欲望を持っている。社会の主流が言っている人間らしさに対する需要と、やりたいことに対する欲望の間には、超えられない河が存在している。代表的な例として、良い大学に入り、良い職場に入社し、経済的に余裕のある生活を送るという迷信だ。良い大学に入った人達は皆人生に成功しているのか?または、良い大学に入った人達はみんな良い職場に行けるのか?良い会社に入る人は皆経済的に豊かなのか?経済的に豊かならば皆幸せなのか?良い大学と良い会社と経済的な豊かさの全てを持っていれば、それは本当に人間らしい人生なのか?良い大学と良い職場、そして経済的な豊かさは形式的な領域である。この形式は内容を備えていない。重要なことは、その内容を人間らしくつくることだ。内容を人間らしく作るためには、やるべきことに対して批判的な視覚を持つ必要がある。何故それをやるのか?やらないといけないことを誰が決めたのか?それをしないと自分はどうなるのか?

人間らしく生きることは、人間が追求する価値を守り、強化し発展させることだと考える。自由・平等・愛・博愛・自己実現などが、価値の代表的な内容であり、このような価値を守るために社会が構成されている。この物理的な基盤となるものが国家なのだ。つまり、国家は国民一人一人が持っている価値に対する保護を基本的な義務としなければならず、物的条件を構築しなければいけない。それが、人間が追求する価値や内容になり、これを実現するための形式を国家が積極的に作りなさいという意味で、国民は国家に委任するのである。もう一度個人の問題に戻ってみると、各個人が追求する価値が内容であり、その内容を作るための物的条件が形式になる。良い大学と良い職場、経済的な豊かさは、人間が追求する価値を作り、拡大再生産できる形式に値する。

しかし、もしかしたら私達は反対に考えているのではないだろうか?

良い大学と良い職場、経済的な豊かさが内容になり、人間が追求する価値は内容が満たされると自然についてくるものだと考えているのではないだろうか?しなければいけないことは、私達が幼い頃から受けてきた教育と社会構造から影響を受け、善し悪しの無批判的な需要から、内容と形式を取り違えた状態で、その原因も分からないままさ迷っているのではないか?リーダーや店長になり、始めて言う言葉は「全てのスタッフがやりたいことができる組織を作ります」という言葉だ。何故私達はやりたいことに執着するのか?やりたいことができていないからだ。ならばそのやりたいこととは、先に述べた良い大学、良い職場、経済的な豊かさのような形式を言っているのではないだろうか?または、無批判的に受け入れ社会が一律的に強要している人生の形式をそのまま受け入れ、嫌々行うことを継続しながら得る疲労感から「私がやりたいことをしたい」と、駄々をこねているのではないだろうか?

越谷店での2か月間と通し、一番大きくわかったことが一つある。

 [皆言い訳をしている]

私達皆、消化不良状態にある。反応は人によって違う。他人に問題を転化する人から、自分が無条件間違っていたと常に頭を下げている人、自分はちゃんとやっていると思っている人、または自分は真面目だと言い張る人。

私達は何故言い訳をしながら、いつも押す力に依存するのであろうか?自分のあるがままをみつめながら、常に客観化させようとする精神の筋肉が発達しない理由は何なのか?

人間が人間らしく生きていけず、他人の人生を生きていくようなことほど、自分自身に正直になれないのは、結局私達の社会に一律的に決められた人生の枠から脱出できていないからではないだろうか?人間らしく生きるための大切な価値とは、歳を重ね自然と起きるものではなく、自分が直接探しだし、自ら創り出さないといけないことだ。つまり、私の中にあるものを探し出すのではなく、内面の声に正直になり、その実態を探していく努力をしなければいけない。努力していく過程こそが私達の人生ではないだろうか?社会正義は、このような努力が集まり、目的意識を持ち、共に作り上げていくものにならないといけない。

ライフスタジオは人に集中している。現在越谷店で行っている週4日勤務、毎週1回の教育プログラム、水平的な構造から発生する自発的なリーダーシップ、頭と心が同時に現場に適用され、生きて動くように作ろうとする努力は、内面の声に正直でありその実態を探しだそうとする物的な基盤の役割を果たす。

つまり、各自の努力と組織としての参加が結局は社会正義に繋がっていくのだ。

新自由主義を一言で言うと、資本に集中したシステムである。資本の目的は、自由な移動の中で最大限の利潤を出すことである。資本が1番になった瞬間、人間は2番目に落ちるしかない。このような構造を理論的に表現したものが新自由主義であり、現実では規制緩和、民営化、労働条件の変化、非正規職の増加、所有の集中、両極化などの形態で現れている。多くの問題が起きてきているが、社会の主導権は資本を持つ者と、彼らに協力する人達のみが持っており、今もこのような構造がより強化される傾向を見せている。

単純に比較してみると、ライフスタジオは人に集中しており、新自由主義は資本に集中している。社会に広範囲に広まっている基準からすると、資本に集中することで成功できるだろう。しかし、人に集中することは、人間が人間らしく生きていくことにおいては、成功できると信じている。しかし、現実に提起されている問題を考えてみると、一種の不安がよぎる。越谷店の人達を見ながら希望と不安が同時に共存している。改善しようとする意志と共に、彼らに分厚く掛かっている諦めという影が見え隠れしている。人間に集中するということが、執着と強要が入り混ざった新たな搾取の世界を作ってしまうかもしれないという、そんな不安だ。

なぜ世界の半分が飢えるのか?という内容を考えながら、食べ過ぎで消化不良になっている私達の姿を見るたびに、はたして心理はあるのか?と疑うようにもなる。世の中に自分自身を投げ入れていく行為にも要領ができ、最小限の被害を予想するようになった。社会参加に対する名分が、私達の会話に日常的に適用されながら、観念の世界は強化されてきているが、私のお腹にある脂肪はだんだんと増えている。人が人を人として創っていくということを常に見えるよう紙に大きく書いて貼り、その文字を見ながら自己催眠に掛かっているのではないだろうか?

この不安定なバランスを壊さないといけない。そうしないといつもそうだったように、失敗した人の言い訳だけが残るようになる。社会正義は、宣言により成されたり若干の寄付で成されるのではない。各個人が人間化していく過程であり、これらが集まり社会参加に繋がっていかなければならない。

各個人の人間化と、社会参加を同時に進行することで、社会正義が作られる原理になる。少し欲を言えば、生きて動く組織というスローガンが、人が人を人として創る社会正義を実現するための、越谷店の集団的な努力であり、個人の人間化と社会参加を同時に推進するための適切な方法になるのではないか?

漠然とした期待の中に黙々と歩いていくことが、私達ができる唯一の方法だと考えた。生きて動く組織を作るということが、個人の人間化と社会参加が含まれた器であり、人が人を人として創ることが、社会正義という漠然とした期待の中に黙々と歩いて行くこと。

ライフスタジオと、社会正義を無理やり繋げてみた。

無理やりやるようになると必ず無理が生じる。無理が生じることを心配して適度にやるよりは、無理やり繋げて無理が生じた時を待つことの方が良いと思う。無理やり繋げ、無理が生じた時に直そうとする私の低い水準を認め、黙々と歩いて行くしかない。

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