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嘔吐
投稿日:2012/3/26
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チャンドンゴンではないということを感じた瞬間嘔吐した。
撮影をしていると、特にウエディング撮影の時は新婦の顔のアップを撮るようになる。135ミリのデジタルカメラではない、6~4インチの形体の大きな中型カメラは、新婦の肌の状態や目の形を直接観察する事ができる。時には彼女の人生が見え、怖さやドキドキ感の感情を確認することができる。時々新婦の美しさにはまり、一人で恥ずかしい気持ちになったり、この新婦が結婚を本当にしたいのか疑問になるときがある。
人間の顔を近い距離で長い時間観察するということは、興味深い旅行になることもある。勿論撮影がずっと続き、体が疲れていると観察することを放棄し、生命体としてではない、物としての新婦として流し見る事もある。結果物にそんなに違いはないが、何か彼女だけの香りが香ってこない感じがしたりもする。しかし、お酒も飲まず、睡眠もよくとったあとの撮影は、一人の人を知っていく刺激がある。全体的に見ると、よく分からなかったことが、よく見ると目がとても美しかったり、唇が魅力的に見える時がある。または、限りなく透明な皮膚を見ていると、体がだるくなったりもする。一部分だけではあったとしても。。
人の顔を見ながら毎日生きている私は、私自身の顔を殆ど見ないで生きている。鏡を見る事がない。定期的に顔を洗わず1週間に1回入るお風呂でも、早く入って出ないといけないという、一つの宿題に該当するため、浴室にある大きな鏡は、私にとっては壁の延長線上にしかならない。勿論今は少し変わり、顔は洗わなくてもお風呂は1週間に2回以上はいる。それでも鏡を見ないことには変わりない。
ある日。。
驚くべき事が起きた。偶然鏡の中の自分を見たが、私の顔にほくろがこんなにも多くあったのか。。。
それまでは、自分の顔にほくろがないと思っていた。撮影をしながら人々の顔には思ったよりもほくろがたくさんある事を知ってはいたが、私の顔に数十個のほくろがあったとは。。。そしてほくろと一緒にしわしわした私の皮膚と、数千個はありそうな広い毛根。。。
まるでアマゾンのジャングルのような私の顔を見ながら、自分自身が惨めになるのを感じた。私の観念の中にあった[チャンドンゴン]はいなくなり、むなしくやせ細ったタンパク質と脂肪の塊をみながら何かが通り過ぎた。これが[嘔吐]なのか?
人の顔にはその人の人生が写し出されているという。同意する。肝臓が良くないにもかかわらず、ずっと肝臓を刺激するような食べ物を口の中にいれ、目がいつも充血し笑うよりもしかめっ面をしているため、顔のしわは鋭くなり、不規則な食事とだるさ根性により肌の老化はだんだんと早くなる。この全てのことが、ある日偶然見た鏡から、見慣れないおじさんを発見しめまいのようなものを感じたのだろう。
この程度の衝撃ならば、今までお酒とタバコ、そして空中に舞う資本の副産物に苦労した顔に対して、若干申し訳ない気持ちになるだろうし、何か顔に良いというものを塗ってあげないといけないという義務感がでてくるかもしれないが、私がそんなことをするかな?
[嘔吐]を読んでいる間、高校3年間がずっと思い出された。授業の時間には眠気にさらされ、ぼ〜っとした状態であり、10分休みの時間にはいつも外に出て空を見ていた。飽き飽きした人生をどうしたらよいか分からず、その当時よく行っていた逸脱することすらできなかった。ため息つきながら3年を過ごした。
太陽の光が降り注ぐ運動場、水がポタポタ落ちる水場、砂が巻き散らされている鉄棒、ケヤキの木が揺れる階段、誰かを教えるという信念をとうの昔に捨て10年間同じことを話し書く先生、男達の汗が脇と股ぐらに長時間留まり発生する匂い。大学に入り、私の実存を確認するための[企投]作戦を広げながら、感じた喜びと彷徨い。
自由意志についてよく話す。自由と意思がくっついている自由意志をよく話す。制限された条件から選択できる自由だけを言う人が多い。または、盲目的に一生懸命やらなければならず、そのために意志を持たないといけないと言う。自由と意志が共にくっついていないといけない。だから自由意志が重要なのだ。
私の顔を見て、チャンドンゴンではないという失望感は被投性であり、これを脱ぎ捨てるためのあがきは企投性であり、被投と企投を連結する事が自由意志ではないか?
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