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私の矛盾とライフスタジオ

投稿日:2012/2/29

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矛盾とライフスタジオ

「私の矛盾は何なのか?」という質問は、今の私の状態をそのまま写してみたときに説明できる。越谷店をオープンしながら‘地上’に降りてきて、裸の王様になり矛盾の塊になっていく自分を見ているのがつらい。

 

直営店をオープンし約2週間が過ぎた今、私達がやろうとしていることと、できることの決定的な距離を確認している。3年以上の教育プログラムと共に行ってきた事業を通し、スタッフたちの話しにでてくる単語が共有され、良いことと、価値のない話の区分をするくらいの水準になった。しかしそれは、まだ頭の中にだけ留まっており、観念の副産物が拡大再生産される構造が、ラフスタジオに少しずつ場所を占めてきながら、頭は大きく体は小さくなっていく現象がおきている。そのため、実践を通した現場適用が重要な問題として提起され、これを解決するために直営店をオープンすることになった。構成員達の変化発展の空間が各自が働いている現場でなければならず、働くこと自体がその機能を遂行していないといけない。つまり、家に帰り宿題をするように、現場と学習が分離されていてはいけない。そして、実行可能な新しいシステムを導入するならば、今ライフスタジオの前にある現場適用という問題が、春になると溶けていく雪のように問題が溶けていくことだろうと予想した。

しかし。。。実際に蓋を開けてみると新しい条件に対する対応能力は低く、今まで慣れていた行動との戦いに簡単に疲労を感じるようになった。今の私達の水準くらいならば、新しい条件を作っても大きな問題なく、適用できるだろうという傲慢な気持ちがあり、実際特別なエナジーが必要だったが、私達はそのエナジーを持っていないことが確認された。このような結果は結局私から発生した問題であり、私の中の矛盾が越谷店で起きている姿を見ているのがつらい。頭の中にあることを現場で実現するということは、強力なシステム運営から解決することができ、その新しいシステム程度は、既存の構成員達なら十分に消化できる水準だと判断した。つまり、観念と存在をシステムに一致させることができると信じていたということだ。しかし、目に見えるシステム変更とは関係なく、時間と経験、評価と修正作業の連続という目に見えないシステムも重要であり、その重要性を看過していた。現場で起きている歪曲された姿を見ながら、私が想像した世の中がすぐに目に見えないことに対するそわそわした観念と、存在の矛盾状態を認識できないことから始まった。

勿論すぐに実現されるとは思ってもなかったし、変化の可能性に対する証拠が幾つかでてくるだろうくらいの期待だった。期待する証拠は出てはこず、新しい条件に対応する人間のさまざまな姿を見ながら若干の疑いを感じたようにも思う。そして若干私が揺れているという感じもしながら上記で言ったような見えない過程のシステムに考えが繋がっていった。矛盾は変化発展の基本単位であり、認識のための最初の材料になると考える。

いつでもお互い違う性質を持っている対立物に注目しながら、対立する理由と状態、これから展開される過程に対する順序で現状を見守ってきたと考える。しかし、越谷店をオープンし2週間の間は、私の底面を見ている感じだった。私もまた、実質的な変化を成すための私の中の内攻がこの程度にしかならないということを確認でき、これまで私の口から出てきた数多くの言葉が結局はできることではなく、やりたいことだったということを知ることができた。

これが私を成している根本的な矛盾ではないだろうか?

だから私の主題を[謙遜]に決めたのかもしれない。よく質問する。「私は言葉数が多い人ですか?」多くの人はこう答える。「あなたのようによく話す人を見たことがありません」。口数が多いということに対してなぜこのようによく質問するのか?できることと、やりたいことが私の根本的な矛盾であり、やりたいことを、できることだと話していたので、私の中で絶え間なく警告灯がついていたのだ。

しかし、その大切な内面の声に耳を傾けなかった。不安な気持ちを消すことができなかったのか、このような質問をしながら自分を慰めていた。やりたいことをできると言い張ったり、時には小さな成功事で、長く伸びている待機者を黙殺していた。結局方法は文章を書くことと自然で、この矛盾を解決しないといけない。

 

 

撮影者は知識人になることができるのか?まずは、撮影に対しては大きく関心がない関係上、この質問よりはライフスタジオという法人が知識人になれるのかに対する話をしたいと思う。壁の前に座り、何時間も考えてみると一つの文章が創られる。

[人が人を人として創っていく経済共同体]

私達は資本主義の矛盾を克服しようという努力から、共同体という単語に関心を持たないといけない。ライフスタジオでは[一緒に]という単語がよく登場する。経済的理解関係を超え、お互いが一緒に共に生きていかないといけないということを主張している。なぜか?

簡単に整理してみると

私達はなぜ生きているのか?という問いに、よく食べていくためにという答えをする。よく食べ、よく生きることは、ただ口に入る食べ物と生活条件に関する話だけではないだろう。よく生きるということは満足感がどの程度なのかで判断することができる。幸福や喜び、愛や分け与えること、摂取や挑戦などに対する満足感が高ければ高いほどよく生きているといえるだろう。給料を多くもらうこともうれしいだろうし、美しい人と愛し合うことでも満足感を感じることができる。しかし、それが相対的であるときは貧困や剥奪感が伴うようになる。反対にいうと、基準が相手ではない自分自身にあるならば、本当に満足できる状態を経験できる。しかし、私達の社会は資本主義の時代であり、特に今は資本の横暴が強くなり99%対1%の戦争が起きている。これもまた、相対的な剥奪感の表現であるが、資本主義社会から序列を分けることは避けられない。だからといって、資本主義を拒否し共産主義にいくこともできない。だから、その代案としてでてくることが共同体運動だ。共同体の中で水平的な関係を形成し、最大限資本の論理から自由な条件をつくり、人が人を人として創っていく関係を作っていき、結局は相対的ではなく、自分の内面に忠実な人生を生きることを志向するようになる。

営業行為を行う写真館で共同体の話しをすることは、おかしく聞こえるかもしれない。しかし、ライフスタジオが今まで行ってきたすべての事を頭の中に入れてみよう。普通の企業では想像もできないことが繰り返し起きている。人の変化発展に注目し、互いが関係を形成し価値を作り出すことは、一種の共同的な人生を作ろうとする意志から始まる。共同体というと、何か変な宗教団体のように個人の創造的な考えを無視し、独断的であり、圧力のある郷里で動く集団を想像するかもしれない。しかし共同体運動は、昔からヨーロッパで行われていて北ヨーロッパの先進国は資本主義の矛盾を克服するための代案をして社会民主主義と福祉国家の形態を成しているが、この根幹にはこのような共同体に対する認識から出発した。

知識人というと、普遍化過程を得た知識、どこかに向かっている理念、実践的な社会参加を基盤にしている。「人が人を人として創っていく経済共同体」は、このような知識人が持っている共通した属性を持っていなければならない。いつになるかわからないが、ライフスタジオもこのような方向性を持ち頑張っていけば知識人になれると思う。

   

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