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未来をひらく歴史

投稿日:2011/7/30

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1つの討論をしていくと、意見の対立が起きる場合がよくある。どこを見ているのかによって、同じ歴史的事件であっても解釈の仕方に違いがでてくる。目指している方向に対する違いが存在するならば、真理に対する互いの規定も違うようになる。客観的な事実を基礎としてこれを解釈する歴史認識の違いはどこから起こるのか。

何日か前、リーダー会議で上半期学習休暇を評価する時間がもたれた。学習休暇を行う目的を確認し、その目的や、目標に合うように活動したのかについて自然と話が流れていった。学習休暇の報告書を準備した人の内容には目的が書かれており、その目的を基盤として、各支店の状況が報告された。問題はこの学習休暇の目的がそれではなかったということだ。しかし、全てのリーダー達はその目的をそのまま受け入れていた。その目的がライフスタジオの全ての事業に適用される、自己実現と発展に関する内容であり、学習休暇だけの目的ではなかった。自己実現などの良い言葉で伝えた学習休暇の目的と、各リーダー達の現実的な支店の評価はお互い行き違いが起きざる終えない。結局その中間がないために評価と計画は具体的に表れるわけがない。‘良い’‘悪い’の二文法的な評価は現実的問題だけを含んでいる2012年の計画を形成するしかない条件だ。具体的な目的がなく成される事業は、リーダー個人の限界が基準になる。そして、目に見える現象のみを事実として受け止める。

それを基準に計画が樹立されることは、間違いの連続が起きる可能性がある。リーダー達は学習休暇に行くスタッフ達と何を持って疎通するのか?良かった、悪かったで評価するならば、スタッフの‘良かったです’という一言で‘成功した’と判断する。明確な目的がなく成される事業は歴史的事実と過去の事実を区分することができない。自分の感情に充実な事実だけが真実だと信じてしまう。その集まりにいた人たちが学習休暇の評価をうまく行うことができたのか?各支店の状況と自身の感情を言う事ができても、その評価は間違ったものになる可能性が高い。そのため、来年の学習休暇を論ずる過程でより失敗する可能性が高い。学習休暇をする本当の理由に対する悩みよりは自身が置かれている条件と判断を基準に処理される学習休暇に対する評価と今後の計画は危険要素を抱えている。

前回のライフスクール(歴史とは何か?)で、ライフスクールが始まった原因に対して話をした。結論的にいうと、‘多分わからない。’または、‘少し知っているがそれも確実ではない。’という答えだった。自分がライフスクールをしていながら、ライフスクールが始まった原因に対して知らないということが少しおかしくないだろうか?それはライフスクールに限られたことではない。私達は日本の社会と歴史に対してどれくらい知っているか?知っていればよく知らなくても大丈夫なものなのか?

もし、東京から名古屋まで行こうと出発したのに、ついたら中田だった。‘何だ!どうしてこんなことが!!’と言いたくなるが、私達の周りでよく起きるできごとである。自分が15歳の時にもっていた夢が今現実のものとなっているだろうか?ライフスタジオに初めて入ってきた時に持っていた夢を今実行しているのだろうか?少しでも近くに行っているのか、でなければ今新潟のインターチェンジを見ているのか?

羅針盤がない。その羅針盤を構成する要素の中に歴史が大きく存在していると考える。20歳の時に、義務感から歴史を勉強した。そして、強制的に現実に引き合わせた。私がやりたいことに必要な内容だけいれ、それなりの論理を作り上げた。しかし、何日も過ぎないうちに崩れることになる。理由は簡単だ。それが客観的な事実ではないということ。そして、事実を主観的に解釈するということ。偏向された結果を真理として受け入れることこのような一連の間違いが私を新潟に行くようにし、多くの衝撃と共に私を新たに組み立てる機会になった。そして、そのような間違いが発生した原因を探しだし、その中に歴史もあった。

自分の大切な娘が、結婚すると2人の男性を紹介する。一人は高貴な宝石のような存在で、もう一人はゴミのような男だとする。その2人の男性を何で判断するべきか?

まず生きてきた過程をみるだろう。そして、その内容を4つの体系に当てはめ、消化させた後判断をする。ゴミなのか高貴な宝石なのか。

外見や現在の常態ではなく、何故生きてきた過程を見なければいけないのか?

そして、生きてきた過程を23日にかけて聞くこともできないため、幾つかの質問で把握しなければならないのだが、どんな質問が決定的なものとなるだろうか?日本の原子力発電に対する意見を聞くか?でなければ、吉野屋が好きなのか松屋が好きなのかと聞くのか?私が松屋が好きだから吉野家と言った一人をゴミとするのか?

ここで詰まる。だから私はまだ歴史を知らないのだ。つらい

全体会議を終え笑ら笑らで言いたい。果たして何を質問すればよいのか?

日本の原子力発電に関する内容は簡単に書くことにする。

原子力をよく清浄エナジーと公告をする。そして、経済的にもよいと言う。

もし、人の心臓を食べたら200歳まで生きられるといい、人を殺し、その心臓を食べてもよいというならば

私達は多くの規定の中で生きている。人の為になると信じながらそのような規定を我慢しながら赤いランプは止まり、青いランプは進むようになる。心臓がいくら無病長寿の妙薬だといっても人を殺してまで、長く生きるということ自体が論理として成立されないためしないのだ。原子力発電もそうだ。爆発したら終わり。核武器もそう。人類に発明されるべきではなかった核武器が自国の保安のためという名で数万個が作られた。爆発したら終わり。核武器をつくる技術は経済的に高付加価値を創出することができる。そして、原子力でおぐ人たちがでてきた。韓国では韓国型原子力発電を輸出中東のある国に売ったと大統領が発表した。続き、日本では騒動になった。韓国が原発を輸出するようになった理由と、そうできない日本を叱咤する内容が言論で流れてきた。そして、福島で爆発した。政治の権力を持つものたちはあちこちの人目を気にする。そして言論は国民世論と公告主の中間で橋渡しをしている。

資本の論理が反を起こすと生命の論理はとても少数の声になる。実際に東京からあまり離れていないところで原子力発電所が爆発してもこの程度なのに、果たしてどのくらいの被害が起きてから目を覚ますのか?

人類が発揮する理性の力はここまでだ。

ヨーロッパで、特にデンマークがそうだが、自然再生エナジーが活用されている。オイルショック以降エナジー政策を変え、集中した結果だ。これから10年以内に自然を利用したエナジーで100%変えることができるという。電気代上がってもよい。東京から福岡までの高速道路料金が26千円程度かかることがもっとおかしく思う。高速代が高いことが車の利用を下げ、環境を守るという考えの下に行っている政策ではない。しかし、それは当然だと考え、福岡までいく。電気代が今の2倍になるだけでも少し不便な生活をおくることもあるだろう。電気代上昇が決定的な打撃になる人には支援すればいい。結局何を選択するかの問題だ。

私達の人生の目的をもう一度考えなければならない。選択の基準は最終的にそれだ。リーダー会議をする理由もライフスクールをする理由も原発の問題も、全て理由がある。選択する瞬間苦痛を伴うが、そのように生きることが正しい人生なのでそれを支持する。

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